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23話 狂乱!サキタバンドシティフェスタ’86

第23話 狂乱!サキタバンドシティフェスタ’86


 昼下がり――漫画家志望のアルバイト・沓掛の暮らすアパート。

 狭い四畳半の部屋には護衛の高根と土井、さやかとそれにもう一人、肩を並べていた。

「『麻修羅』、私も読んだわ。お兄さん、まだ若いのによくあんなお話を作れるわね」

 そう言って笑みを浮かべる美女は、春野鈴子――さやかが招いた新しい客人だ。

 4人分のコップをテーブルに置いた沓掛が、お盆を抱えて照れ笑いした。

「えへへ…。お姉さんみたいな人に読んでもらえて、俺も嬉しいです」

「アルバイトしながらマンガを描くなんて、大変よね。お金のことは冬枝さんが見てくれるんだから、身体を大事にするのよ」

「は、はい」

 鈴子のピンク色のシャツの胸元がたゆんと揺れ、甘いジャスミンの香りが漂う。沓掛の口元が緩んでいるのを、さやかはじっと観察していた。

 ――これで、しばらくは沓掛さんを繋ぎ止められるかな。

 先日、さやかと冬枝が『麻修羅』のコピー本を増刷する話をしていた際、沓掛の表情が曇ったのをさやかは見逃さなかった。

 ――『麻修羅』がどんどん自分の手から離れていくんだから、沓掛さんが不安になるのは当然だ。

 最初は『麻修羅』が本になる、と聞いて浮かれていた沓掛も、時間が経って冷静になるうちに、ヤクザに自身の作品を託すことに躊躇を覚えるだろう。漫画家にとって、手塩にかけた作品は我が子も同然だからだ。

 そこでさやかは、沓掛にダメ押しの一手を打った。若い男には効果てきめん、鈴子という年上の美女のスマイルだ。

 ――もちろん、鈴子さんに色仕掛けなんかさせるつもりないけど。

 沓掛は、年の近い高根や土井ともうまくやっているようだ。鈴子も含めて、このまま、沓掛にとって居心地の良い人間関係を構築してしまえば、足抜けする気にはなるまい。

 ――こっちだって、沓掛さんにはそれなりの投資をしてる。沓掛さんには、僕たちのことを信じて欲しい。

 さやかも冬枝も、『麻修羅』の完成に締め切りを設定しなかった。時々こうやって会いに来て様子を見てやるぐらいで、原稿の催促もしない。

 ――お金儲けになれば嬉しいけど、一番は、完成した『麻修羅』が面白くなることだから。

 さやかの気持ちを知ってか知らずか、沓掛は、ネームや設定を書き込んでいるノートをさやかに見せた。

「一応、今後の『麻修羅』の展開をいくつか考えてきたんだけど」

「はい」

 ページを目で追うさやかを見ながら、沓掛は先に結論を言った。

「やっぱり、イマイチだよね。何かが足りないっていうか」

「…そうですね。だけど、こうしてアイディアを出すのはいいことですよ。面白いところだけを拾い上げて、ストックしていきましょう」

 スランプ中の沓掛に対し、余計にやる気を削ぐようなダメ出しはできない。さやかは、なるべく前向きなアドバイスにとどめた。

 そこで、扇風機を独占していた土井が「そうだっ!」と声を上げた。

「沓掛ちゃん!ヒロインのモデル、鈴子さんにやってもらえば?」

「えっ?」

 思わぬ提案に目を丸くする沓掛に、鈴子がばっちりウインクした。

「私はいいわよ。お望みなら、ヌードだって特別に見せてあげる」

「え、ええっ?」

「鈴子さん、そこまでしなくていいです」

 さやかが鈴子の腕を引くと、鈴子がよしよしとさやかの頭を撫でた。

 沓掛はちょっと迷っている様子だったが、うーんと悩ましそうに唸った。

「できれば、モデルはもうちょっと若い女の子のほうが…」

「あら、それどういう意味かしら」

 鈴子の声が低くなったので、沓掛が「ヒッ!」と慌てて高根の背後に隠れた。

 沓掛にひっつかれた高根が、苦笑しながらフォローを入れた。

「だったら、沓掛さんも『サキタバンドシティフェスタ』に行ったらどうですか。あそこなら、若い女の子がたくさん来るでしょう」

「ああ、いいわね。私と嵐も行くし、みんなで行けばきっと楽しいわ」

「鈴子さんたちも行くんですか?」

 さやかには行くなと止めたくせに、嵐はちゃっかり『サキタバンドシティフェスタ』のチケットを手に入れていたらしい。

 さやかの質問に、鈴子はさやかの頬をふにふにと指で揉みながら答えた。

「ええ。ほら、嵐の後輩の入江君が『あさひがけ新聞』でカメラマンやってるでしょ?ツテでチケットを手に入れたんですって」

「へえ」

 入江とは、さやかが彩北に来たばかりの頃、嵐がさやかに差し向けた男だ。

 あまりいい思い出がないが、さやかに代打ちを辞めさせたいという嵐の思惑を差し引けば、入江自身はそう悪い男ではなさそうだった気がする。

「それはそうと、アシスタントがまだ決まってないんですね」

 さやかが鈴子の胸にもたれながら言うと、沓掛が「あ、はい」と申し訳なさそうに頭をかいた。

「何人か、アシスタントになりたいって人は来てくれたんだけど…その、なんていうか」

 沓掛の言わんとするところを、さやかは察した。

「いいんです。マンガが好きなだけの素人に来られても、足手まといですから」

 バッサリと切り捨てたさやかに、沓掛は首を縮めながらも否定はしなかった。

 ――やっぱり、マンガを描ける人なんてそうそういないか。

 可能なら、アシスタントに背景やモブの作画を任せ、沓掛には重要な人物の作画に集中させたい。そのほうが、人物描写に長けた沓掛の作風が活きる、とさやかは思う。

 ――『麻修羅』の増刷分はまだ残ってるし、そのうち有望なアシスタントが応募してくれるといいんだけど。

 後で『サキタバンドシティフェスタ』のチケットを届けることを約束して、さやかは鈴子と共に沓掛のアパートを出た。



 それから数日後、さやかは彩北の郊外にある『彩北野球場』にいた。

 ――ここで今日、『サキタバンドシティフェスタ』が開かれるんだ。

 午前中だというのに、会場は既に人でごった返していた。よそから来たと思しき華やかな服装の若者たちの姿も多く、さやかは思わず、きょろきょろと辺りを見回してしまった。

 ――冬枝さん、どこにいるのかな…。

 有名バンドが多く参加するイベントの常として、開演前から会場に並ぶファンは少なくない。たとえチケットを持っていなくても、せめて憧れのバンドに一目会えないか、と出待ちをするためだ。

 そういった連中を狙って、冬枝は高根たちを連れて早朝に出発した。さやかは冬枝たちより遅れて、バスでここまで来たところだ。

 冬枝たちが黙って出発したのは、朝が弱いさやかに気を遣ったわけではあるまい。やはり、冬枝はダフ屋をしているところをさやかに見られたくないのだろう。

 ――冬枝さんは僕と顔を合わせたくないみたいだけど、僕は…。

 ネイビーのスカートのすそをつまんで、さやかは一人、もじもじと靴先を回した。

 ――冬枝さんと一緒にコンサートを観られたら、最高なのに。

「チケット買わねえか?」

 聞き慣れた声がして、さやかはハッと振り返った。

「朽木さん」

「よう、麻雀小町」

 紫色に煌めくサングラスに、金色にワニの柄入りのシャツ。トレードマークのロレックスをピカピカ陽光に光らせて、いつも以上に下品なチンピラルックスの朽木だった。

 さやかは、ふわぁ~っと欠伸をした。

「朽木さんもチケットの転売ですかあ?お疲れ様ですぅ」

「おい、露骨に興味ありませんってツラするんじゃねえ!てめえ、いつもはもっと澄ましてるじゃねえか!」

「そんなに澄ましてませんよ。朽木さんの前では」

 さやかだって、女の子らしいところを見せる相手は選ぶ。朽木相手にぶりっ子するほど安くないのだ。

 朽木はそこで「ははぁーん」としたり顔になった。

「冬枝の奴、麻雀小町をサクラにして、うまいこと儲けようって腹だな。貧乏人の考えそうなことだぜ」

「それ、朽木さんが貧乏人って意味ですか?」

 嵐も同じようなことを言っていたが、冬枝はそこまでがっついていない。むしろ、変なところで見栄っ張りだから、さやかはちょっと困るぐらいだ。

 さやかの嫌味に朽木はちょっと顔を引きつらせていたが、すぐに気を取り直した。

「本物の貧乏人はな、俺様と違ってもっと惨めなツラしてんだよ。ほら、あそこ」

 朽木の指差す先を目で追ったさやかは、公衆トイレの影に隠れるようにして佇む冬枝の姿を発見した。

 ――冬枝さん、あんなところにいたんだ!

 朽木と会えてラッキーだった、とさやかはちょっとだけ朽木に感謝した。

「…ん?」

 だが、冬枝の様子に目を凝らすにつれて、さやかの表情が変わった。

 ――冬枝さん、若い女の子と随分イチャイチャしてるな…。

 いつものくたびれた枯れ葉色の背広ではなく、アクアブルーが爽やかなポロシャツ姿の冬枝は、清潔感溢れる笑みで若い女子に話しかけている。

「お嬢さん、べっぴんさんだからチケット8000円のところを、6000円にまけてあげるよ!ホントホント。ただし、これは俺とお嬢さんの秘密ってことで…」

 女子の肩を軽く抱きながら、冬枝はチケットをひらひらさせた。心なしか、女子の頬もピンク色に染まっている。

「………」

 さやかはずんずんと二人に近寄ると、「冬枝さん」と声をかけた。

「げっ!さやか…」

「………」

 ムスッと冬枝を見上げたさやかだったが――冬枝に背を向けると、女子に向かってパッとヒマワリのような笑顔を浮かべた。

「こんにちは!良かったらこの漫画、もらってください!お代はいりませんから!」

 女子はきょとんとしていたが、無料というのとさやかの笑顔に押し切られた。

 冬枝からチケット、さやかから漫画を受け取り、女子は不思議そうな面持ちで会場へと歩いて行った。

「お前、ホントに『麻修羅』のコピー本、持ってきたんだな」

「ええ。ほんの20部くらいですけど」

 大きなピクニックバッグを持ち上げたさやかは、少し離れたところで冬枝と同じようにダフ屋に精を出している高根と土井を見つけた。

「どうです?売り上げは」

「これがたまげたもんで、上首尾だぜ。こっちから声かけなくても、『チケットありませんか』って次から次へと寄ってくる。入れ食い状態だ」

 ほくほく顔で紙幣をヒラヒラさせる冬枝に、さやかは頷いた。

「彩北でこんな大規模なロック・イベントが開催されるのは、初めてらしいですからね。この分だと観客は総勢3千人、いや5千人は来るんじゃないかな」

「うひー。いい稼ぎになりそうだ」

「良かったな、貧乏人」

 横から水を差され、冬枝はハッと振り返った。

「てめえっ…!朽木!」

「フン。そうして並んでると、てめえらマジでお似合いだな。女を買い漁る女衒と、借金のカタに売られる田舎娘だ」

 鼻先に突きつけられた朽木の人差し指に、冬枝とさやかは声を揃えて反論した。

「てめえに言われたかねえっ!」

「朽木さんに言われたくありませんっ!」

「おーおー、仲の良いこって。だがな冬枝、女とイチャつくのもほどほどにしたほうがいいぜ」

「ああ?」

 朽木は、ロレックスの腕時計に重ねて巻いている金の鎖をシャラッと鳴らした。

「子分どもの報告によると、戸張の野郎がこの会場にも来てるらしいぞ」

「なんだと?あのダフ屋、まーた懲りずに出やがったか」

 どうやら、戸張というのは彩北に出没するダフ屋らしい。白虎組に無許可で転売行為を働くため、ヤクザたちの標的にされているようだ。

 むろん、さやかも白虎組の代打ちである以上、同じ転売屋でも戸張の敵側の立場だ。さやかは朽木に尋ねた。

「その戸張ってダフ屋、どんな人なんですか?」

「そうか、麻雀小町は戸張のツラなんか知らねえか」

「四十絡みの中肉中背の男だ」

 冬枝の説明に、さやかは苦笑いした。

「それだと、冬枝さんも当てはまっちゃいますよ」

「うん?えーっと、つったって、そんなに特徴のあるオッサンじゃねえよ。写真でもありゃいいんだが」

 冬枝の言葉に、朽木がワニ柄のシャツから手帳と鉛筆を取り出した。

「じゃ、今ここで人相書きでも描いてやるよ」

「えっ…朽木さんが?」

 戸惑うさやかをよそに、朽木は手早く手帳のページに鉛筆を走らせた。

「戸張を見かけたら、俺様でも冬枝でもいいから伝えろ。地獄に送ってやる」

 ほい、と言って朽木が破ったページを受け取ったさやかは、そこに描かれた人相書きを見て驚いた。

「えっ…!?これ、本当に朽木さんが描いたんですか!?」

「てめえ、目の前で見てただろ。他に誰が描くって言うんだ」

「冬枝さん、これ見てください!」

 さやかが思わず冬枝にも見せると、冬枝も目を丸くしていた。

「朽木…、てめえ、無駄な才能だな」

「ああ!?喧嘩売ってんのか、おい」

 しかし、さやかも冬枝も、朽木に喧嘩を売っているつもりなどない。

 ――朽木さん、めちゃくちゃ絵が上手い!

 鉛筆でサッと描いただけの人相書きだが、人物の輪郭から眼差しまで、実によく描けている。戸張が金に卑しく、若者にたかって日銭を稼いでいる小悪党だということが、会ったことのないさやかにまで伝わってくる。

 そこで、さやかの脳内コンピューターがピーン!と解を叩き出した。

「朽木さん!僕たちに協力してもらえませんか」

「ああ?なんだ、いきなり」

「『麻修羅』です。朽木さんも読みましたよね、この漫画」

 さやかが『麻修羅』のコピー本を取り出すと、朽木がああ、と頷いた。

「漫画でひと稼ぎたぁ、てめえらもみみっちいこと考えるな。まあ所詮、貧乏ヤクザの思いつきだから、麻雀小町の小遣い程度にしかならねえだろうが…」

「朽木さんも、『麻修羅』を手伝ってください!」

「はあ!?」

 さやかの思いもよらない提案に、朽木のみならず冬枝も度肝を抜かれた。

「何考えてんだ、さやか!こんなチンピラに漫画なんか描けるかよ」

「冬枝さん。朽木さんの画力なら、沓掛さんのアシスタントには適任です」

「でもよぉ…」

 不服そうな冬枝はさておき、さやかは朽木に向き直った。

「朽木さん。『麻修羅』が完成すれば、朽木さんにも相応のアシスタント代がお支払いできますよ」

「誰がやるか、漫画のアシスタントなんて。俺様だって暇じゃねぇんだ。貧乏人なんか手伝わねえよ」

 朽木がすぐには請け負わないことなど、さやかだって想定済みだ。

 さやかは、ニヤリと口角を上げた。

「手伝わない?『麻修羅』を?いいんですか、そんなこと言って」

「何?」

「『麻修羅』の完成を、榊原さんや霜田さんもお待ちかねです。白虎組の若頭と補佐の期待がかかっているんですよ。その『麻修羅』が、朽木さんが協力してくれなかったせいで、完成しなかった――なんてことになったら…」

 意味ありげに笑うさやかに、朽木が苦り切った。

「…底意地の悪ぃ女だな!冬枝なんかとつるんでるから、性根が歪むんだぞ!」

「余計なお世話だ!」

 冬枝は憤慨したが、さやかはニッコリ笑顔を浮かべた。

「朽木さんだって、『麻修羅』の続きが気になるでしょう?アシスタントになれば、誰よりも早く完成した『麻修羅』を読めますよ」

「ちっ…。アシスタント料はふんだくらせてもらうからな」

「ええ。詳しい打ち合わせは、また後ほど」

 そこで、高根と土井に連れられて、当の沓掛がやって来た。

「沓掛さん!来てくれたんですね」

「夏目さん、冬枝さん。どうも…」

 沓掛は、チラッと朽木のほうを見上げた。

 ガラの悪いチンピラ、のお手本のような朽木の姿に、露骨に怯えている。その沓掛を見下ろして、朽木が鼻から息を抜いた。

「フン、てめえが例の漫画描きか。読んだぜ、『麻修羅』。面白いじゃねえか」

「あ、ありがとうございます…」

「だがよ、てめえの描く女はどうしてあんなに色気がねえんだ?あれじゃ、ヒロインに興味持てやしねえよ」

 ――朽木さんも、僕たちと同じ感想を持ってたんだ。

 さやかはちょっと驚いたが、まだ朽木の意図が読めない。

 朽木は沓掛の肩に腕を回すと、ニヤニヤと顔を寄せた。

「どうだ、これからちょっといいところに行かねえか?」

「い、いいところ?」

「マジメな沓掛先生に、女の勉強させてやるよ」

 思いもよらない展開に、さやかは「朽木さん」と口を挟んだ。

「沓掛さんをどこへ連れて行くつもりですか?」

「なんだ、麻雀小町。なんなら、てめえも連れて行ってやろうか」

「えっ…僕も?」

 首を傾げるさやかに、朽木はパンフレットを見せた。

「今日の『サキタバンドシティフェスタ』には有名バンドがたっぷり参加してるが、前座として、まだ無名の新人バンドも何組か呼ばれてる。ホラ、ここに小さく名前が書いてあるだろ」

 朽木の開いたページを、さやかも覗き込んだ。

 テレビで見ない日はない、錚々たる大物バンドたちの名前がずらりと躍るリスト。その下に、よーく見ると、小さな文字列が肩身狭そうに連なっていた。

 その中の一つ、『ピスタチオ・メイデン』を朽木は指さした。

「この女バンドのマネージャーが、昨日、うちの『ザナドゥー』に飲みに来てよ。今日、本番前にメンバーと会わせてくれることになったんだ」

「すごいですね…」

 ――ガールズバンドのメンバーをヤクザと会わせるなんて、最低なマネージャーだな。

 さやかは朽木と『ピスタチオ・メイデン』のマネージャーの倫理観のなさを「すごい」と皮肉ったのだが、朽木は得意顔だ。

「メンバー全員、二十歳そこらのギャルだ。沓掛先生にお勉強させるにゃ、おあつらえ向きだろ?」

「……まあ、悪くないアイディアですね」

 沓掛の描く『麻修羅』のヒロインも、ちょうどそのぐらいの年齢だ。東京から来たバンドギャルなら、主人公を翻弄する都会的なヒロイン像にもうってつけだ。

「バンドやってる女の子なんて、初めて会うなあ。ちょっと興味あるかも」

 沓掛も意外と乗り気だし、さやかに反対する理由はない。朽木が変なことをしないか見張るため、さやかも同行することにした。

 そこで、ずっと話を胡散臭そうに聞いていた冬枝が片手を上げた。

「待てよ。さやかが行くなら、俺も行く」

「冬枝さん。ダフ屋はいいんですか?」

「そっちは、高根と土井に任せりゃいい。お前こそ、こんなみょんけた話にノコノコついて行くんじゃねえ」

 ――朽木の口利きで東京から来たバンドに会うなんて話、少しは疑えよ!

 さやかも沓掛も、『麻修羅』の完成しか頭にないらしい。二人の世間知らずぶりと来たら、冬枝からチケットを高額で買った若者らと五十歩百歩だ。

 さやかと沓掛、それに冬枝も一緒に、『ピスタチオ・メイデン』の楽屋に行くことにした。



 ステージの裏側には巨大なテントがいくつも設営され、バンドのロゴが入った車が何台も停まっている。

 周囲に張られた『関係者以外立ち入り禁止』のロープを悠々と乗り越え、朽木は『ピスタチオ・メイデン』の楽屋テントに入った。

「よう。邪魔するぜ」

「あ、朽木さん。お、お疲れ様です」

 眼鏡をかけたいかにも気弱そうなマネージャーが、ぎこちなくお辞儀をした。一晩、酒を酌み交わしただけのヤクザが本当にやって来るとは思っていなかった、という動揺がそこから伺えた。

 その様子を横目で見て、さやかは小さく嘆息した。

 ――きっと、この人も朽木さんから女の人を紹介されて、弱みを握られたんだろうな。

 そうでなければ普通、こんなに簡単に部外者をタレントに近づけるはずがない。

 組に内緒でデリヘルを経営している朽木のことだ。田舎で退屈している芸能マネージャーを篭絡するぐらい、訳もなかっただろう。

 さやかたちを怪訝そうに見やるマネージャーに、朽木は大物ぶった仕草で説明した。

「こいつらも『ピスタチオ・メイデン』に会いたいっていうんでな、連れて来たんだ。なーに、こいつらも組の人間だから、ブンヤにチクったりしねえよ」

「そ、そうですか…」

 嘘ではないのだが、朽木から言われると何やら不名誉に思えてくる。さやかはマネージャーの視線を避けながら、沓掛らと共にメンバーのもとへ向かった。

 タバコが煙る狭いテントの中で、5人の女性がめいめいにくつろいでいる。カラフルなシャツに、鮮やかな化粧が様になっていて、立っているだけで堂々として見えた。

「こんにちは。『ピスタチオ・メイデン』の皆さんですよね」

 朽木のようなあからさまなチンピラと喋らせるのは気の毒なため、さやかが先頭を切った。

 不思議そうにこちらを見返す5人に、さやかはにっこり笑顔を浮かべた。

「僕たち、サキタバンドシティフェスタ実行委員会の者です。今日は彩北にお越しいただき、ありがとうございます!」

 しれっと嘘をついたさやかに、朽木・冬枝・沓掛がぎょっとしてこちらを見た気配がしたが、さやかは無視した。

 大会の運営側と聞いて、『ピスタチオ・メイデン』の5人も居住まいを正した。

「お疲れ様です。今日は、よろしくお願いします」

 派手な装いとは裏腹に、5人の態度は真面目だ。

 リーダー格と思しき女性が、自己紹介した。

「私がリーダーで、ベースの栄子です。こっちがドラムの宏子」

「こんにちは」

 眼鏡をかけた、温和そうな女性――宏子がニコニコと白い歯を見せる。

「こっちがギターの眞子とユキ子、奥がキーボードの朋子」

「どうも」

「よろしくお願いします」

 ぺこりとお辞儀をする仕草など、意外と初々しい。よくよく見れば、5人はまだあどけなさの残る顔立ちをしていた。 

 ――インディーズバンドなら、まだまだこれからだもんね。

 田舎のヤクザと引き合わせるようなヘッポコがマネージャーでは、なんとも先行きが頼りない。さやかはちょっぴり『ピスタチオ・メイデン』の5人に申し訳なくなりつつも、目的は忘れていなかった。

「本番前でお忙しいところ恐縮なんですけど、よかったら皆さんのスケッチを描かせてもらえないでしょうか」

「スケッチ?それって、どういう…」

 リーダーの栄子に問われ、さやかはバッグから『麻修羅』のコピー本を出した。

「こちら、近日出版予定の漫画です。新人作家の沓掛先生のお勉強を兼ねて、ぜひ、『ピスタチオ・メイデン』の皆さんにモデルになってもらいたいと思いまして」

「へえ、漫画だ。これ、もらっていいんですか?」

「どうぞ。あっ、皆さんもぜひ」

 さやかが『ピスタチオ・メイデン』の全員に『麻修羅』のコピー本を渡すと、室内は一気に和気あいあいとした雰囲気になった。

 さやかのおかげで自分はほぼ喋らずに済んだ沓掛も、いつの間にかスケッチブックを開いて、熱心に5人の姿を写生している。

 冬枝は、手持無沙汰にぷかぷかとタバコをふかした。

 ――さやかの奴、すっかり沓掛の敏腕マネージャーってとこだな。

 年齢の近いさやかが間に入ったことで、『ピスタチオ・メイデン』の5人はなんの疑いもなく『麻修羅』に夢中になっている。若い女のきゃいきゃいした声に囲まれて、冬枝は自分が何をしに来たのか忘れそうになった。

「今夜も飲んで行けよ。ステージがハケたら、あとは自由時間なんだろ?」

 朽木がマネージャーを誘ったが、マネージャーは力なく首を横に振った。

「いえ…、次の仕事がありますから、すぐに東京へ戻らないと」

「なんだ。この女ども、まだインディーズバンドだろ?そんなに忙しいのかよ」

「ハハ…。売れないうちは、たくさん営業してなんぼなので」

「貧乏暇なしってことか。他人事じゃねえなあ、冬枝」

 これ見よがしに笑いかける朽木に、冬枝はしかめっ面を返してやった。

 ――誰が貧乏だっての。

 さやかたちは10分ほど滞在して、楽屋を後にした。

「今日のステージ、僕たちも見てます!頑張ってください」

 さやかの激励に、『ピスタチオ・メイデン』の5人は爽やかな笑顔を浮かべた。



 冬枝たちはダフ屋業以外にもいろいろと仕事があるらしく、ほどなくしてさやかと別れた。

「まず、気をつけろよ。どこに『アクア・ドラゴン』が潜んでるか、分かったもんじゃねえからな」

「はい。冬枝さんも、ご苦労様です」

 関係者テントの前で冬枝を見送り、さやかはふうとため息を吐いた。

 ――やっぱり、冬枝さんと一緒にイベントを回るなんて、無理か。

 最初から分かっていたことなのに、ちょっとがっかりしてしまう。『サキタバンドシティフェスタ』にむんむんと満ちる、この熱気に毒されたのかもしれない。

 肩を落とすさやかに、明るい声がかかった。

「さやちゃーん!ここにいたのね」

「…鈴子さん!」

 髪をなびかせ、ピンク色の水玉模様のシャツの胸を揺らしてこちらに駆け寄る鈴子の笑顔を見たとたん、さやかの顔がぱあっと輝いた。

 二人は自然と手を取り合い、ぎゅうっと抱き合った。

「もう。さやちゃんったら、待ち合わせ場所にいないから、探したわよ」

「すみません。ちょっと野暮用で」

 さやかの言い訳に、鈴子がカラカラと笑った。

「やだ、『野暮用』なんて言い方、おじさんみたい。冬枝さんが伝染ったのかしら?」

「あっ…そんなつもりじゃなかったんですけど」

「ウフフ、照れちゃって。かーわいい、チュッ」

 真夏の太陽の下、イチャイチャと肌を寄せ合う女2人に、残された男2人が所在なさげに立ち尽くした。

「やれやれ、相変わらずお熱いこと。俺たちもやるぅ?沓掛ちゃん」

「ハハハ…、やめときましょう、嵐さん」

 嵐は鈴子とおそろいのピンクのシャツを腕まくりして、「さて!」と手を叩いた。

「そこの仲良しお嬢さんたち!『麻修羅』、配りに行くんじゃなかったの?」

「ああ、そうだったわね。さやちゃん、どのぐらい配った?」

「ここに来るまでに…半分くらいかな。あと10部くらい残ってます」

「まあ、もうそんなに捌いたの?さすがね、さやちゃん。ご褒美のおっぱいサンド!」

「にゃぁ~」

 鈴子の柔らかい胸に顔を挟まれ、さやかは相好を崩した。

 なおもはしゃぎ合うさやかと鈴子に、嵐が額を手に当てた。

「ダメだこりゃ。頑張ろうな、沓掛ちゃん!」

「ぐええ、離してくださいよ、嵐さーん!」

 嵐の汗臭い胸に抱かれた沓掛が悲鳴を上げるのを見て――鈴子の胸から顔を上げたさやかは、ふと違和感を抱いた。

 ――沓掛さんと嵐さん、いつの間にあんなに仲良くなったんだろう…。

 その違和感も、次から次へと会場に押し寄せる人並みの中で、流されてしまいそうだ。さやかたちは、はぐれないように気を付けながら、『麻修羅』を観客に配って歩いた。



 ピーカンの青空の下、ステージは右に左に、縦に横に揺れまくり――。

『サキタバンドシティフェスタ』の午前の部が終わり、昼休憩となった。

 芝生の草まで汗ばむような熱気の中、さやかたちはレジャーシートを広げて座った。

「すごかったわねー。私、バンドのライブって初めてだけど、もう夢中になっちゃった」

 鈴子が、ぱたぱたとシャツの胸元を煽いだ。汗で透けた素肌が艶めかしい。

 その肩にそっともたれかかって、さやかは、鈴子から薫るジャスミンの香りをすうっと吸い込んだ。

「僕も……もう、言葉にならないです」

「フフ、さやちゃんが一番ヒートアップしてたものね。私、あんなにハイになってるさやちゃん、初めて見たわ」

「むにゅ」

 さやかがすっかり赤ちゃんモードで鈴子に甘えると、鈴子はよしよしとさやかの髪を撫でた。

 ぐるっと周囲を見回した嵐が「おっ」と声を上げた。

「見ろよ、沓掛ちゃん。あの子たち、『麻修羅』のコピー本を読んでるぜ。あっ、あそこにも」

「本当だ…。実際に読んでるところを見られるなんて、嬉しいです」

 4人がかりで配った『麻修羅』のコピー本は、ステージの開催前に配り切った。その数、ざっと60部。

 多くはイベントに浮かれて何となく手に取ってくれただけだったが、昼休憩に入ったこともあって、『麻修羅』をゆっくり読み始める客の姿がちらほら見受けられる。

 さやかも、少しずつステージの熱気が冷めていくにつれ、じわじわとその現実が脳に到達した。

「…よかったですね、沓掛さん」

「夏目さんたちのおかげです。今日はこんな楽しいイベントにも連れて来てもらえたし、何から何までお世話になっちゃって」

「沓掛さんの実力ですよ。僕も冬枝さんも、沓掛さんと一緒に面白い作品を作りたいだけです」

 そう言いながら、さやかの瞳は沓掛ではなく――その隣でクーラーボックスからビール瓶を取り出している嵐を見つめていた。

 ――どうせ、また邪魔をするつもりだろうけど…嵐さんの好きにはさせません。

 ヤクザが沓掛の漫画『麻修羅』を使って金儲けをするなんて、嵐が許すはずがない。沓掛とすんなり打ち解けているあたり、嵐がさやかたちの妨害をもくろんでいるのは明らかだ。

 さやかの牽制を、どう受け取ったものか。嵐はグビグビとビールを飲んで、無邪気に笑った。

「あー、腹減った。鈴子、メシにしようぜ」

「そうね。今日は早起きしていっぱいお弁当作ってきたから、さやちゃんも沓掛さんも好きなだけ食べてちょうだい」

「ありがとうございます」

 人の顔ぐらいある大きなおにぎり、レタスに乗った、これまた大きなから揚げにミートボール、ふわふわの卵焼きにきんぴらごぼうなどなど…。

 鈴子がいそいそと広げるランチボックスを見下ろして、さやかは「うわぁ」と声を上げた。

「どれも美味しそう。あっ、マカロニサラダもある!」

「ウフフ、さやちゃんの大好物だもの、忘れないわよ」

「鈴子しゃ~ん」

 すりすりと鈴子に頬ずりをしてから、さやかはハッとした。

「あっ!僕も、お弁当作ってきたんだった!」

「それで、そんなに大きなバッグだったのね。さやちゃんったら、『麻修羅』を何冊持ってきたのかしら、って嵐と噂してたのよ」

 鈴子に笑われ、さやかはちょっと照れた。

 ついさっきまで、このお弁当の存在を忘れていたのには理由がある。それは――。

 ――ホントは、冬枝さんと一緒に食べるつもりだったから。

 会場で冬枝と合流できたら、冬枝とランチでも――とちょっぴり期待していたのだが、それもできなさそうだ。

 ――仕方ないよね、冬枝さんはバンドなんかに興味ないみたいだし。

 さやかは、おずおずとピクニックバッグからランチボックスを取り出した。

「さやちゃんはサンドイッチを作ってきたのね。それも、さやちゃんのだーい好きなツナサンド」

「はい。初めて作ったんですけど、美味しいといいな…」

 と言って、おもむろにツナサンドを手に取ったさやかは「うえっ!?」と悲鳴を上げた。

 ポタポタと、パンから水が滴っている。

「ビショビショ…」

「ああ、野菜の水分が出ちゃったのね。よくあることよ」

 鈴子は笑い飛ばしてくれたが、さやかは頭を抱えた。

「ううっ…。原因はキュウリ?それとも、タマネギ?いやいや、欲張ってツナを入れすぎたせい?何が最適解だったんだ…!」

「そんなに気にすることないわよ。食べれば一緒よ」

 鈴子に慰められながら、さやかはビショビショのツナサンドを口にした。

 味は悪くないのだが、いかんせん手からボタボタと水分が零れて食べづらい。さやかは、思わず独りごちた。

「冬枝さんがいなくて良かった…」

「誰がいなくて良かったって?」

 後ろから声をかけられ、さやかは慌てて振り返った。

「ふ、冬枝さんっ!?」

「よう。嵐たちも来てたんだな」

 冬枝はさやかの肩に手を置いて、正面にいる嵐をじっと見据えた。

 ――冬枝さんも、嵐を警戒してるんだ…。

 というさやかの予想とは裏腹に、冬枝は全く別のことを考えていた。

 ――あー、こえだ…。

 普段の彩北からは考えられないような人混みにもみくちゃにされながら、私服警官をやり過ごし、客とチケットのやり取りをして、ついでにその辺をほっつき歩いていたダフ屋・戸張を追い駆け…。

 大捕り物を終えた後、冬枝を待っていたのは『43歳』という自身の年齢だった。腰が痛いとか色々あるが、なんというか、ぐったりしてしまった。

 ――昔はこのぐらいで疲れなかったってのに、情けねえ。

 いや、ここまで疲れたのは、腹が減ったせいかもしれない。冬枝は、さやかが膝の上に置いているランチボックスに手を伸ばした。

「さやか。一個けれ」

「あっ…。冬枝さん、それは…」

 さやかが止める間もなく、冬枝はビショビショツナサンドにかぶりついた。

「うん。うめ」

「そうですか…?ビショビショですよ…?」

 申し訳なさそうに肩を縮めるさやかに、冬枝は首を傾げた。

「別に」

「別にって…」

 さやかの後ろから手を伸ばして、冬枝は早くも2個目のツナサンドを食べようとしている。

「ダンディ冬枝、さやかにくっついてないとメシ食えないんスか?」

「やだ、冬枝さんったらエッチ」

 嵐と鈴子から口々にからかわれたが、冬枝は相手にしなかった。

「いいだろ、別に。若いもんから元気を吸い取りてえんだよ」

「………」

 さやかは真っ赤になって俯いている。それを見下ろしながら、冬枝は密かに心の中で頷いた。

 ――やっぱ、俺のために作ったんだな、これ。

 昨夜、晩酌のために家の台所に向かった冬枝は、台所番の高根が買ったものではない食パンやキュウリやツナ缶などを発見していた。

 別に、冬枝は期待していたわけではない。さやかが自分や嵐たちのために作る弁当だということぐらい、もちろん分かっていた。ただ、まあ、さやかが弁当持参で来ているのなら、冬枝もタダで昼飯にありつけるし、別に、さやかが作ったこの湿ったツナサンドを食うために、この人いきれの中をさまよっていたわけではないのだ。

 冬枝が軽く頭をさやかに当てると、さやかがビクッと震えて――また赤くなった。



「じゃ、俺はこれからあちこち回るからよ。またな」

 冬枝にポンと頭を叩かれ、さやかはようやく我に返った。

「あ…はい」

 ――冬枝さん、もう行っちゃうんだ…。

 さやかのビショビショツナサンドを3個平らげて、冬枝は軽く片手を振って去って行った。

「……」

 空になったランチボックスを抱えて立ち尽くすさやかに、鈴子がそっと寄り添った。

「冬枝さんがいなくなって、寂しい?さやちゃん」

「さ、寂しいなんて…。そんなことないです」

 改めて言葉にされると、かなり照れ臭い。さやかは、ごまかすようにパンフレットを取り出した。

「午後の部のオープニング・アクトは『ピスタチオ・メイデン』なんですね。楽しみです」

「あら。さやちゃん、知ってるバンドなの?」

「ついさっき知ったばっかりですけどね」

 世間にはまだまだ知られていないバンドだが、実際に顔を合わせて話をすると、やはり応援したくなってしまう。

 パンフレットを覗き込んだ嵐が「ガールズバンドねえ」と言った。

「なんか、女がバンドやるって、不良っぽいよなー。親が見たら泣きそう」

「嵐さん。それって偏見ですよ」

 さやかは唇を尖らせたが、嵐は真顔で続けた。

「だってよ。髪の毛は派手だし、化粧は濃いし、着てるもんはこーんな、肌が出たやつだしよ。横幅増やせば悪役レスラーだぜ」

「あきれた。まるで、本人たちを見てきたみたいな言いぐさですね」

 さやかの皮肉に、嵐は前方を指さした。

「見てきたも何も、あの娘じゃねえの?」

「えっ…」

 嵐の言葉通り、『ピスタチオ・メイデン』の一人――リーダーの栄子が、こちらに向かってくるところだった。

「夏目さん」

 栄子の蒼白な顔を見て、さやかはただ事じゃないとすぐに察した。

「栄子さん。何かありましたか」

「はい。あの…」

 言い淀みながら、栄子はきょろきょろと辺りを見回した。恐らく、朽木か冬枝を探しているのだろう。

 ――ヤクザに助けを求めるなんて、よっぽどのことが起こったんだ。

 さやかはにっこり笑って「大丈夫ですよ」と言った。

「この嵐さんも、組の人間みたいなものですから。安心して何でも言いつけてください」

「おい、俺はヤクザじゃねえぞ」

 嵐が不満を言ったが、さやかは「シャアッ!」と威嚇して黙らせた。

 鈴子と沓掛をその場に残し、さやかと嵐は栄子の案内で楽屋テントへと向かった。

 楽屋にはマネージャーの姿はなく、『ピスタチオ・メイデン』のメンバーが緊張した面持ちで並んでいた。

「さっき、楽器の音合わせをしてたら、ユキ子がこんなものを見つけて…」

 栄子に言われ、ギタリストのユキ子がスピーカーアンプを手で指し示した。

 アンプの裏を覗き込んださやかと嵐は、そこに小型の機械が据え付けられているのを見つけた。

「これって…音響機器じゃありませんよね」

 ユキ子は無言で首を横に振り、同じくギターの眞子がこんなことを言った。

「さっき、マネージャーが来た時にそこを何かいじってたの。多分、その時に付けられたんじゃないかな」

「マネージャーはどちらに?」

 さやかの問いに、キーボードの朋子が肩をすくめた。

「帰っちゃいました。東京に」

「ええっ…!?皆さんを置いて、ですか?」

 これから『ピスタチオ・メイデン』のステージだというのに、それも待たずに先に帰るマネージャーなどいるのだろうか。

 ドラムの宏子が「いつものことです」としんみり言った。

「私たち、元は小さな事務所にいたんですけど、そこが潰れちゃって…。今の事務所は仕事もたくさん取ってきてくれるけど、ヤクザみたいな人たちがいっぱい出入りするから、私、怖くって…」

「こら、宏子」

 栄子にたしなめられ、宏子が首を縮めた。

 宏子に代わって、栄子が続きを語った。

「…この『サキタバンドシティフェスタ』への出演だって、事務所のごり押しで決まりました。テレビにも出たことがない私たちが前座をやるなんて、他の有名バンドからは不満も出てるらしいです。けど、せっかくのチャンスだから、みんな頑張ろうって言ってたんですけど」

 栄子の横から、再びドラムの宏子が口を挟んだ。

「髷縄さんのことだって、きっと今の事務所がやったんだよ。『私たちも殺される』って、栄子さんも言ってたじゃない」

「よしなよ。夏目さんたちにする話じゃない」

 急に話がきな臭くなり、さやかと嵐の目つきが鋭くなった。

「その髷縄さんの話、聞かせてもらえませんか」

 さやかがゆっくりと聞くと、栄子は観念したように目を閉じた。

「…私たちの、前のマネージャーです。厳しいけれど、すごく親身になってくれて…父親みたいな人でした。髷縄さんがいたから、私たち、新しい事務所で頑張っていこうって思えたんです」

 髷縄という先代マネージャーは、前の事務所が潰れて路頭に迷っていた『ピスタチオ・メイデン』の恩人だったという。

 しかしある日、事件が起こった。

「以前からしょっちゅう、髷縄さんが事務所の社長と揉めているところを見かけました。詳しい話は分からないけれど、髷縄さんは私たちのことを守ろうとしているみたいでした。でも…」

 栄子たちにもたらされたのは、「髷縄は自殺した」という知らせだった。

「自宅のアパートで首を吊っているところが発見された、って…。私たち、信じられませんでした」

「だって、髷縄さんには奥さんも子供もいたんですよ?自殺する理由なんてなかった」

 宏子が言い、栄子は物憂げに目を伏せた。

「それで、髷縄さんの後任として今のマネージャーが来たんです。何でも事務所の言いなりで、裏じゃ女と遊んでばかり。ヤクザみたいな連中と飲んでいることもしょっちゅうです」

「ああ…」

 朽木と親しげに語らっていた姿を思い出し、さやかは納得した。

 しばらくアンプの裏の機械を点検していた嵐が、ふーむと腕を組んだ。

「この機械、外せそうにねえなあ。スピーカーとコードで接続されてる」

「無理に外さないほうがいいでしょう。万が一のことはあってはいけませんから…」

 ――恐らく、これは爆弾。

 さやかも嵐も口には出さなかったが、同じことを考えていることは目つきで分かった。

 犯人の狙いがわからない以上、慎重に動く必要がある。まして、標的にされた『ピスタチオ・メイデン』の5人をパニックに陥らせるなど、もってのほかだ。

 嵐は、小さな機械を指さした。

「それに、このチカチカ点滅してるランプは何だ?」

「これ、遠隔操作してるんじゃないですか?どこかから見張っているのかも」

 さやかの推測に、見えない何者かの視線を感じた『ピスタチオ・メイデン』の5人が蒼白になった。

 嵐は「そっちじゃなくて、こっちの目盛りみたいなやつ」と言って、機械についた小さな窓のようなものを指した。

 その窓は、外から音楽が聞こえるたびに、時々キラッと光る。どうやら、スピーカーで外の音を拾っているようだ。

「音楽に反応していますね。なんだろう、これ」

 さやかは、この機械をつけたのが、東京に戻ったマネージャーであることを思い出した。

「皆さん。この機械が具体的にいつごろ付けられたのか、タイミングは覚えていますか」

「えーっと…」

 今日のスケジュール表をめくった5人のうち、ギターのユキ子が「そうだ」と気付いた。

「リハーサルの最中です。ギターの音が気に入らないって言って、あいつ、アンプを触り始めたんです」

「ユキ子、それでしばらくご機嫌ナナメだったもんね。アンプの調整にはすごーくこだわってるのに」

 眞子に茶々を入れられ、ユキ子は不愛想に返した。

「だって、いっつもリハーサルじゃタバコふかしてるだけのあいつが音にケチをつけるなんて、ありえないもん。しかも、サビの部分でやたら注文つけてきたじゃん」

「そうだ、そうだった。もっとハッキリ歌えとか、声が出てないとか、うるさかったよね。ボイコットしてやろうかと思った」

 栄子が言い、さやかは話に割って入った。

「すみません。マネージャーが注文をつけてきたのは、どの曲ですか」

「これです。一番最後にやる『純愛Kiss』。他は洋楽のカバーだけど、これだけは私たちのオリジナルなんです」

 ステージのセットリストを見せられ、さやかは確信した。

 ――爆弾は、この『純愛Kiss』のサビで爆発するように仕掛けられてるんだ!

 起動コードを爆弾に正確に記憶させるために、マネージャーは『純愛Kiss』のサビ部分をしつこく歌わせたのだろう。爆弾の設置を完了させて、自身は安全な東京へとトンズラしたわけだ。

 晴れ舞台に立ったガールズバンド『ピスタチオ・メイデン』が、演奏中に爆死――悲惨なイメージが、さやかの脳裏をよぎった。

 ――そんなこと、絶対にさせない!

 さやかと嵐は、いったん、楽屋の外で話し合った。

「『ピスタチオ・メイデン』が所属してる事務所には、青龍会がバックについてる。無名のバンドをごり押しで『サキタバンドシティフェスタ』にねじ込んだのは、会場を爆破する鉄砲玉にするためか」

「ひどい…」

 彩北の白虎組を震撼させるために、なんの罪もないガールズバンドを巻き込むなんて。さやかは、改めて青龍会の残忍さを思い知った。

 嵐は、楽屋テントの向こうにいる無数の観客たちを遠く覗き見た。

「観客はざっと5千人ぐらいか。爆弾が爆発したら、未曾有の大惨事になる。『ピスタチオ・メイデン』のお姉ちゃんたちには悪いが、『純愛Kiss』は歌わないでおいてもらうか」

 曲に反応する爆弾なら、曲を歌わなければ爆発しないはずだ。嵐の提案に、さやかも頷きたいところだったが、懸念は残った。

「でも、あの遠隔操作のセンサーランプがあります。マネージャーとは別に、実行犯がこの会場を見張っているんじゃないでしょうか」

「なるほど。二段構えってわけか」

 万が一『純愛Kiss』が演奏されなかった場合に備えて、爆弾を起動させるための実行犯が会場内にいる。

「せめて、爆弾が設置されたあのスピーカーをどこか遠くへ移動できればいいんですが」

「そうだな。これだけ大規模なイベントなんだから、スピーカーなら他にもあるだろ」

 さやかと嵐は楽屋に戻って『ピスタチオ・メイデン』にスピーカーの交換を提案したが、栄子が首を横に振った。

「さっきも言った通り、私たちは事務所が無理やり押し込んで参加してますから…他のバンドからは、よく思われていません」

「それに、アンプもバンドの音を左右する、大事な機材です。そう簡単に他と交換できるものじゃありません」

 ギターのユキ子からも言われ、さやかと嵐は肩を落とした。

「こうなったら、大会の運営側に掛け合って、『ピスタチオ・メイデン』のステージを最後にしてもらうか」

「それは難しいでしょう。トリは花形ですから、大物バンドが務めるはずです」

「だよなぁ」

 うーんと唸るさやかと嵐に、栄子が「あの」と言った。

「さっき、外で話してるのがちらっと聞こえたんですけど……あの、スピーカーにつけられた機械って、爆弾なんですか…?」

「!」

 さやかと嵐は一瞬、驚いたように目を見開いた。

 それから――嵐が、真剣な顔つきで頷いた。

「そうです。あれは会場全体を吹っ飛ばす、殺人爆弾です」

「……!」

 栄子をはじめ、『ピスタチオ・メイデン』の5人に緊張が走る。

 その直後、プッと嵐が噴き出した。

「なーんて、そんなわけねえじゃーん!あれは爆弾なんかじゃなくて、隠しカメラだよ」

「隠しカメラ…?」

「そうそう。きっと、お姉ちゃんたちの着替えをコッソリ覗いちゃおうって、どこかのスケベマネージャーがたくらんだんじゃねえの?」

 いやらしい笑みを浮かべる嵐に、ドラムの宏子が「キャーッ!」と悲鳴を上げた。

 ギターの眞子が肩をすくめた。

「そんなことだろうと思った。あいつ、私たちにやらしい仕事ばっかりやらせようとするから」

「やらしい仕事って?」

「お酒の席での接待とか、まあコンパニオンみたいなことです。それも、水着みたいなこーんな際どい恰好させられて」

 指で小さな三角形を作る眞子に、キーボードの朋子も続いた。

「そんなこと、髷縄さんが生きてる頃は一回もやらされたことなかったですよ。ステージ衣装だって、昔はこんなに肌が出るものじゃなかったのに。今のマネージャーになってからですよ、全部」

「『売れるためなんだから我慢しろ』って、あいつはそればっかり。最近じゃ、私たちに枕営業までさせようとしてるみたいで…」

 眞子の発言に、栄子が「ちょっと」とたしなめた。

「枕営業なんて冗談だ、って言ってたじゃない、一応」

「でもあいつ、目が笑ってなかったよ」

「………」

 栄子自身、身の危険を感じてはいるのだろう。不安げに顔を曇らせる5人に、さやかは心底同情した。

 ――なんとかして、彼女たちを助けたい。

 白虎組の名前を出せば、運営側を動かせるはずだ。スピーカーの交換でもステージの順番替えでも、いやいっそ、『ピスタチオ・メイデン』のステージ自体を中止にしてしまえば――。

 めまぐるしく『解』を探していたさやかの耳に、バサッとテントがめくられる音が聞こえた。

 ハッとしてさやかと嵐が出入り口を見ると、そこには青いスーツ姿の男が立っていた。

 年は30代ぐらいか。髪をオールバックにまとめ、顔からは精悍な自信がみなぎっている。

 さやかは男自身よりも、男が現れた途端、『ピスタチオ・メイデン』の5人が凍りついたことが気になった。

 ――何者だ、この男。

 男はにこやかに楽屋を睥睨し、「ん~?」と首を傾げた。

「君たちは、どこのどちらさまかな」

 口調は穏やかだが、男からは有無を言わせぬ圧力が発せられている。男が現れた途端、部屋の空気がズンと重くなった。

『ピスタチオ・メイデン』の5人が怯えたように俯いているのを見て、さやかはキッと男を見上げた。

「そう言うあなたこそ、どちらさまでしょう。マネージャーではないようですが」

「おい、さやか」

 嵐が腕を引いたが、さやかは男から目を逸らさなかった。

 男はじっとさやかを見下ろし、それからニッコリと笑みを浮かべた。

「こいつは失礼。俺は難波っていうんだ。『ピスタチオ・メイデン』の用心棒をしてる」

「難波…!?」

 男の名を聞いて、嵐が顔を青ざめさせた。

 さやかもまた、用心棒と聞いて、男――難波の正体に思い至った。

 ――こいつ、青龍会の人間か…。

 難波は傲慢な笑みのまま、さやか、嵐、そして『ピスタチオ・メイデン』の5人を順々に見やった。

「俺もこいつらも、彩北に来るのは初めてだからさ。粗相がないようにってね」

 難波はひたり、とさやかに目線を据えた。

「お嬢さんも、彩北の人間じゃないな。この街はどうだい?君の肌に合ってるかな」

「………」

 答えないさやかに、難波は続けて言った。

「彩北は白虎組なんて言う、トラとは名ばかりの野ネズミが幅を利かせてるって言うじゃないか。そんなところにいるなんて、お嬢さんはよほどの物好きだね」

 難波の瞳の奥から、獣のような残忍さが滲む。

 さやかは、無表情に「さあ」と言った。

「東京は、龍とは名ばかりのドブネズミが増えていますからね。ドブ臭さがうつるから、あまり近寄らないでもらえませんか」

 睨み返すさやかに、難波の笑みが深まった。

 同時に、難波の瞳の奥の残忍さがさらにどす黒い憎悪となって濃くなったように見えた――その時。

「あーっ、もうこんな時間!俺たち、そろそろ失礼しまーっす!じゃあ、ステージ頑張ってねー!!」

 嵐は大声でさやかを遮ると、さやかを担ぎ上げるようにして楽屋テントから逃げ出した。

 張り付いたような難波の笑みと、呆然とする『ピスタチオ・メイデン』の5人が――バサッと、幕のように下ろされたテントの向こうに見えなくなる。

「ちょっと、嵐さんっ!」

 瞬く間に楽屋テントが遠ざかり、人でごった返す客席を通り過ぎて行く。

 めいめいにくつろぐ若い男女の中に、さやかは聡明そうな横顔をしたワンレングスの長い黒髪の後ろ姿を見つけた。

 ――響子さん?

 響子の傍らには、さやかの知らない若い男もいる。そこだけ切り取られたかのように、さやかの視界にその2ショットは強く残った。

 それも一瞬のことで、気が付いた時には、さやかは真夏の青空の下に引きずり出されていた。

「バカ!おバカ小町!」

 嵐は何度もそう言いながら、ようやくさやかを芝生の上に下ろした。

 さやかが口を開く前に、嵐がビシッと人差し指を突き付けた。

「さやか!お前、相手が誰だか分かってて喧嘩売ったのか!?」

「…青龍会の人間でしょう?」

 怪訝そうなさやかに、嵐は地団太を踏んだ。

「青龍会は青龍会でも、あいつはその中のトップ、青龍会四天王だ!」

「青龍会四天王…!?」

 さやかも、週刊誌などで噂を聞いたことはある。

 東京を中心に、日本中のヤクザを束ねる青龍会。その中枢を担うのは、四天王と呼ばれる4人の若頭だと――。

 類を見ない異例の体制ゆえに、さやかの記憶にも残っていた。だが、あの難波という男がそうだとは、すぐには信じられなかった。

「あんなに若いのに、青龍会の四天王だなんて…」

 白虎組には、30代の幹部などいない。白虎組の倍以上の規模を誇る青龍会の上層部と聞いて、さやかはもっと年嵩の男を想像していた。

 さやかの両肩に手を置いて、嵐が諭すように説明した。

「確かに、俺もあんな若い野郎が青龍会の四天王だなんて信じられねえが……事実だ。あの難波をはじめ、四天王のほとんどは若手らしい」

「そんな若手に四天王なんて呼ばせて、東京のヤクザを統率できるんですか?」

「さあな。なんでも青龍会会長・海堂が、自分が支配しやすくするために、うるせえ年寄りを幹部の椅子から追い払って、若手を任命したとか」

 青龍会の宿敵・朱雀組ではかつて、3代目組長が当時の若頭と対立し、若頭を粛清するという事件があった。青龍会ではその轍を踏まないよう、幹部を会長の息がかかった若手で固めたのではないか、というのが大方の推測だ。

「その中でも、難波は特にやばい。奴は、『アクア・ドラゴン』の創設者だ」

「『アクア・ドラゴン』……!」

 今、彩北の街を脅かしている愚連隊の名に、さやかは戦慄した。

 東京で薬や女を売りさばき、今やヤクザ顔負けの犯罪組織に膨れ上がった『アクア・ドラゴン』。 若者たちを統率し、青龍会に多額の金を上納させている男こそ、青龍会四天王――難波だった。

 嵐は、『ピスタチオ・メイデン』がいる楽屋テントを苦々しく眺めた。

「まさか、あんな大物があのお姉ちゃんたちについてたとはな。恐らく、青龍会はここを本気で爆破するつもりだ」

「そんな…!」

 一般人も大勢いるコンサート会場を爆破するなど、正気の沙汰ではない。もはやヤクザではなく、テロリストのすることだ。

「見せしめのつもりだろ。青龍会に逆らえばこうなるって、白虎組、ひいては大羽の秋津一家に思い知らせるためのな」

 青龍会は、本気でこの彩北を獲りにかかっている――さやかの背筋が粟立った。

 ――僕たちだけでは、爆破を止められない。

「…ここで考えていても、埒があきません。冬枝さんに知らせましょう」

「…んだな。何はともあれ、仲間を増やすしかねえ」

 元警察官の嵐も、非道を許すつもりはないのだろう。たとえ、相手が強大な青龍会であっても。

 さやかと嵐は、会場の外にいる冬枝を探しに向かった。


 その頃、冬枝は彩北野球場の駐車場に停めた愛車の中にいた。

 弟分の高根と土井ともども、昼休憩だ。エアコンの効きもいまいちなオンボロカローラは、男三人でいるとなかなかに居心地が悪い。

 ――さやかの奴、今頃どうしてっかな。

 さっき会ったばかりのさやかの顔が、もう恋しい。ツナサンドの後味が、まだ冬枝の口の中に残っていた。

「兄貴ー、無線いじっていいスか?」

 ランチの唐揚げ弁当を平らげた土井が、手持無沙汰になって助手席から尋ねてきた。

「ああ、好きにしろ。まだ時間はあるしな」

 手持ちのチケットは、おかげ様で完売御礼だ。13時になったらみかじめ先でも回るかな、と考えながら、冬枝はタバコに火をつけた。

 鞄からコンパクト無線を取り出す土井に、運転席の高根が苦笑した。

「お前なあ、こんなとこにまで無線持って来たのかよ」

「うん。イベントって無線使う奴も増えそうでしょ?こないだもさあ、ほら、さやかさんが『アクア・ドラゴン』にさらわれた時も、あいつら無線で連絡取り合ってたし。もしかしたら傍受出来るかも」

 話は物騒だが、土井の口調は冗談めかしている。

 ――『サキタバンドシティフェスタ』は青龍会も噛んでるイベントだし、こんなところで奴らがことを起こすわけがねえか。

 能天気な土井につくづく呆れつつ、冬枝も聞くとはなしに無線に耳を澄ませた。

 ノイズの音を何度か繰り返し、聞き取れないようなくぐもった音声の後――それは確かに、冬枝たち3人の耳に届いた。

『……はい、準備は完璧です。『ピスタチオ・メイデン』の曲サビで、会場はドカン!です』

 弟分2人が、後部座席の冬枝を振り返った。

「兄貴、これって…」

「『ピスタチオ・メイデン』って、これからやるバンドですよ」

 土井が掲げたパンフレットに、確かに小さく『ピスタチオ・メイデン』の名が印刷されていた。

「ドカンって、会場を爆破するつもりか?」

「まさか。客席がドカンと盛り上がる、って意味じゃないですか?」

 高根の言葉になるほど、と冬枝も土井も頷いたが、無線からは更に不穏な声が届いた。

『俺はギリギリまで、会場に残ってます。装置が起動しなかったら、俺が手動で爆破させますから』

 再び、男3人は顔を見合わせた。

「おい、これってやっぱり…」

「いや、ステージの舞台装置の話じゃないですか?バンドのコンサートですし、花火か爆竹でも使うのかも」

「ああ、そういうことか」

 冬枝は納得したが、コンパクト無線からトドメの一言が放たれた。

『これで彩北の街は青龍会のものになったも同然でしょう。白虎組の連中も、チビって逃げ出しますよ』

 ――青龍会!

 思わず身を乗り出した冬枝は、勢い余って天井に頭をぶつけた。

「いてっ!おい、今てめえ、青龍会って言ったか!?」

「兄貴、電話じゃないんだから、向こうにこっちの声は聞こえてないっスよ!」

 土井がそう言った直後、無線の音声は途切れた。恐らく、通信を終えたのだろう。

「青龍会の連中、本当に会場を爆破するつもりでしょうか」

 思いがけない展開に、高根が青ざめながら冬枝を見上げた。

「…てめえらも知ってるだろ。奴らは、やる時はやる連中だ」

 冬枝の脳裏に浮かんだのは、先ほど土井も口にした、春先のさやか拉致事件だった。

 さやかをビルの中にさらった後、白虎組にアジトがバレたことを察した『アクア・ドラゴン』は、いともあっさりとビルを爆破した。冬枝たちは間一髪でさやかを救出したが、一歩間違えば全員命がなかった。

 まさか、再びあんなことが――。

 あの時、ビルが弾け飛ぶ瞬間を目撃した高根と土井は、事の大きさに言葉を失った。

「冬枝さん!」

 バンバン、と窓ガラスを叩かれ、男3人はビクッと肩を震わせた。

「さ、さやか!?」

 冬枝が慌ててウィンドウを下ろすと、さやかが車の中に顔を突っ込んだ。

「大変です!青龍会が会場を爆破しようとしています!」

「お前、なんでそれを…」

「ダンディ冬枝、エマージェンシー!」

 さやか、それに後ろにくっついていた嵐から、冬枝は一通りの事情を聞かされた。

「…なるほど。まさか、青龍会四天王が自らおいでなすったとは」

 予想を遥かに上回る事態の大きさに、冬枝は何度も顎をさすった。

「難波が出てきている以上、おおっぴらに観客を避難させるのは厳しいっスね。爆破を止めようとしてるのがバレたら、こっちが殺される」

 嵐の言葉に、冬枝はダンと車のボンネットを殴りつけた。

「じゃあ、どうしろって言うんだよ。会場にいる連中を見殺しにしろってか」

『サキタバンドシティフェスタ』に訪れているのは、彩北の住民だけではない。青龍会は見せしめのためだけに、全国から客をかき集めたのだ。

 ――奴らはもう、ヤクザでも人間でもねえ。血に飢えた化け物だ。

 さやかも青ざめてはいたが、冷静だった。

「青龍会の好きにはさせません。僕たちで爆破を止めます」

「策があんのか、さやか」

 冬枝は、汗で額に貼りついたさやかの前髪を、そっと直してやった。

 冬枝の指のすぐ下で、さやかの眼差しが揺れた。

「策は……」

 ない、という言葉が、さやかの喉元までこみ上げた。

 ――青龍会四天王の目の前で、爆破を止める手立てなんて……。

 爆弾が設置されるステージ、及びその起動スイッチとなる『ピスタチオ・メイデン』の5人には、青龍会四天王・難波自らが張り付いている。爆弾に近付くのは、ほぼ不可能と言っていい。

 実行役の男は、恐らくステージを見晴らすことができる近隣のビルの屋上にでも潜んでいるだろう。しかし、この男を捕まえたところで、「純愛Kiss」のサビが流れた時点で、爆弾は自動的に爆発する。

 眉間に力が入り、思わず、さやかはぎゅっと目を閉じた。

 ――考えろ、考えるんだ、さやか。解を見つけないと、会場にいるみんなの命が…!

 だが、考えても考えても、答えが見つからない。爆弾、そして青龍会四天王という脅威が、強烈なプレッシャーとなって、さやかの思考回路を押し潰そうとしているかのようだ。

 ふと、さやかの脳裏に、苦悶の表情で原稿に向かっていた沓掛の姿がよぎった。

 ――今の僕はまるで、締め切りに追われる漫画家みたいだ…。

 描かなきゃ、と焦れば焦るほど、スランプに陥っていく。不謹慎かもしれないが、さやかは今更になって、沓掛の苦悩が分かった気がした。

「さやか……」

 俯いたまま黙っているさやかに、冬枝が何か言おうとした時だった。

「さやちゃーん!こんなところにいたのね」

「鈴子さんに…沓掛さん!」

 鈴子がブラウス越しにも分かるほど胸を大きく揺らして、沓掛とともにこちらに駆けてきた。

 呆然とするさやかを、鈴子は思いっきり抱き締めた。

「もう、あのバンドの娘たちの楽屋に行ったっきり、全然帰って来ないんだから。私じゃなくて、東京の若い女の子に乗り換えるつもり?」

「鈴子さん…」

 鈴子の柔らかな胸と、ほのかなジャスミンの香りに包まれて――さやかは、少しだけ肩の力が抜けた。

 顔を上げれば、鈴子の笑みがキラリと輝いている。

「さやちゃんたちがいない間に、沓掛くんがいっぱい漫画を描いてたわよ」

「えっ…それって、『麻修羅』の続きですか?」

 さやかが驚いて沓掛のほうを見ると、沓掛はどこかのびのびとした顔でスケッチブックを掲げた。

「うん。なんか、バンドのライブを見たのが刺激になったのかな。お弁当食べて一息吐いてたら、急に、描きたい!って気持ちがムクムク湧いてきて、止まらなくなっちゃって」

 スケッチブックには、『麻修羅』のネームが10ページほど描かれている。

 今までのボツ案とは違い、展開や人物のセリフ一つ一つに至るまで、こうなるべくしてなったのだ、という必然性を帯びている。沓掛の情熱と『麻修羅』のストーリーが、再び一つに噛み合ったのだ。

 ――すごい。こんな話になるなんて、まったく思い付かなかった……。

 ネームを読んでいると、さやかの心にまで、気持ちのいい風が吹き抜けていく。それは、スランプという高い壁に、大きな風穴を開けたという清々しさだった。

 その瞬間、さやかは叫んでいた。

「…見つけた!」

「どうした、さやか。そんなに面白かったか、それ」

 自分も早く『麻修羅』のネームを読みたそうな冬枝に、さやかは矢継ぎ早に言った。

「解です!これが解だったんです!」

「か、解?解って…」

 さやかは冬枝のシャツの胸元を掴み、必死に取りすがった。

「冬枝さん!今すぐ、朽木さんを呼び出してください!」

「ああ?朽木?なんで朽木なんか連れてこなきゃいけねえんだよ」

 面食らう冬枝に対し、さやかはどこまでも真剣な目付きをしていた。


 ステージ裏では、『ピスタチオ・メイデン』の5人が楽器の音の確認をしていた。

 それを少し離れたところで見張りながら、青龍会四天王――難波は、先ほど会った女のことを思い出していた。

 ――あれが噂の『夏目さやか』か…。

 青龍会の宿敵である朱雀組組長・秋津イサオ殺害事件に関わったといわれる女だが――難波には、どこにでもいる普通の少女にしか見えなかった。

 ――いずれにせよ、あんなお嬢ちゃんに今日の爆破を止めるのは不可能さ。

 『ピスタチオ・メイデン』が歌う「純愛Kiss」のサビに反応して、ステージに置かれたスピーカーに仕掛けられた爆弾が爆発する。

 万が一、起爆装置が作動しなかったとしても、遠隔操作で爆破できる。ライブに夢中になっている観客はもちろん、ステージ裏で待機していた他の大物バンドも、逃げる間もなく木っ端微塵だ。

 白虎組は彩北の番人として、内外から責任を問われるだろう。青龍会が救いの手を差し伸べれば、断ることはできないはずだ。

 ――チンケな田舎の組が、俺たち青龍会に逆らったのが運の尽きってワケだ。

 爆弾が作動する午後の部のオープニング・アクトまで、あと2時間ある。難波は、そろそろこの場を離れることにした。

「じゃあな、『ピスタチオ・メイデン』のみんな。絶対にステージを成功させてくれよ」

 難波が笑みを浮かべて――しかし、相手を絞め殺すような邪気を眼から滲ませながら――言うと、『ピスタチオ・メイデン』の5人は、蒼ざめた顔で力なく頷いた。

 ステージ裏を離れた難波の元に、私服姿の若者2人――観客に紛れ込ませた『アクア・ドラゴン』のメンバーだ――が、駆け足でやって来た。

「ボス、大変です」

「白虎組の連中が、ステージに何か細工をしています」

 ――やっぱり来たか。

 難波は表情を変えず、「連れて来い」と命じた。

 ほどなくして、柄もののシャツを着た男2人が難波の前に引きずり出された。

 人目の届かない駐車場の隅に連れ出され、男2人は顔を強張らせている。よく見れば、難波とそう変わらない年頃の青年たちだ。

「泣かせるねえ、田舎モンの悪あがきとは」

 難波が言うと、男2人――利発そうな顔立ちの男が、キッと顔を上げた。

「自分たちを捕まえて、どうするつもりだ。殺すのか」

「威勢がいいな。お望みなら、この場でバラしてやってもいいが」

 難波の言葉に呼応して、男2人を拘束する『アクア・ドラゴン』のメンバーの腕に力が入る。

 もう片方、サングラスをかけた男のほうが、情けない声を上げた。

「ひーっ、許してください。オレたち、なんもしてません。可愛いガールズバンドの姿を、一目見たかっただけなんですぅ」

「バカ、土井!そんな情けない言い訳するなよ!」

 利発そうな男が突っ込んだが、土井と呼ばれた男は眉を八の字に下げている。

「どうしますか、ボス」

『アクア・ドラゴン』の若者に聞かれ、難波はふむと腕を組んだ。

 ――雑魚の一匹や二匹、見逃したところで損はないが…。

 どうせ、2時間後にはこの2人もあの世行きだ。そう考えかけたが、難波はいや、と言った。

「適当に半殺しにしておけ。ちょうどいい退屈しのぎになるだろ」

「ありがとうございます、ボス!」

 喜色を浮かべる若者に対し、捕まえられた白虎組の男2人が「ヒイ~ッ」と悲鳴を上げた。

 その時だった。

「そんな奴らをいたぶったところで、てめえのところのガキ共のおつむがますます悪くなるだけだぜ」

 低く艶やかなその声に、一同はハッとした。

 凶悪な愚連隊ですらひれ伏す青龍会四天王・難波に向かって、何という暴言――。

「誰だ、てめえは!」

『アクア・ドラゴン』の若者が声を上げると、樹の影からゆっくりと、長身の男が姿を現した。

「あ、あなたは……」

 高根と土井は、思わぬ人物の登場に、開いた口が塞がらなかった。

 そこにいたのは、源清司――かつて、冬枝の兄貴分だった男だ。

 真夏の太陽も届かぬような蒼く深い眼差しに、人間離れした白皙の美貌。すらりとした長身痩躯は、この場にいる誰よりも背が高かった。

 冬枝の弟分である高根と土井にとっては、信じられないほど高みにいる伝説の極道だ。年は50を超えているはずなのに、源は時の風化すら寄せ付けぬような佇まいだった。

「何者だ、オッサン!」

「ここを見られた以上、生かしては帰せねえな!」

 謎の男の出現に肩を怒らせる『アクア・ドラゴン』の若者たちを、難波が手で制した。

「へえ。あんたもここに来てたのか」

 どこか親しみすら感じさせる難波の口ぶりとは裏腹に、源は冷ややかだった。

「こいつらの首なんざ、手土産にもならねえだろ。大人しく東京に帰れ」

「ハハッ、つれないねえ。まあ、ここはあんたの顔を立ててやるよ」

 命拾いしたな、と難波に言われ、高根と土井は顔を見合わせた。

 ――いったい、何がどうなっているんだ?

 同時に、『アクア・ドラゴン』の腕から解放され、高根と土井は揃ってアスファルトに倒れ込んだ。

「うっ!」

「いてっ!」

 背後に『アクア・ドラゴン』の若者たちを連れながら、難波が軽く手を上げた。

「じゃあな。せいぜい、ここででかい花火が上がるのを見物しててくれよ」

「………」

 源は何も言わず、厳しい目付きで難波の背を見送った。

「あ、あの……」

 さっぱり成り行きについて行けない高根たちに、源はくるっと振り返った。

「お前ら、どうせ冬枝の差し金で動いてるんだろ」

「えっ、あっ、はい」

 図星を突かれ、高根は正直に認めた。

「…………」

 源はしばし、夏の青空に目線をさまよわせた。見上げるような長身のせいで、高根たちからはその表情をうかがうことはできない。

 次の瞬間、源は急に射貫くような眼を2人に向けた。

「このことは、誰にも言うな。冬枝にも、さやかにもだ」

 さもないと――などという、陳腐な文句すら源には不要だった。『アクア・ドラゴン』の若者たちがまとっていた幼い殺気などとは比べ物にならないぐらい、冷え冷えとした死の気配が源から発せられたからだ。

「はい!」

 今までの人生で五指に入るぐらい良い返事が、勝手に高根と土井の口から出ていた。

 後はもう無言で、源は静かにその場を去った。

 源がいた場所は、気温が10度は下がったのではないか。そんな錯覚が、高根と土井に残った。

 土井が、ぽつりと呟いた。

「……何だったんだろうね、今の」

「……考えるな、土井。それより、兄貴たちのところに戻ろう」

「……うん」

 きっと、自分も相手もこのことを誰にも喋らないだろう。互いに確認したわけではないが、そんな確信が高根と土井にはあった。



 オフィスS2ビル。

 彩北野球場の近辺では最も高い7階建てのこのビルは、現在は改装準備のため、空き家となっている。 

 貸し切りとなった屋上で、男は悠々と昼食をとっていた。『ピスタチオ・メイデン』の5人に配られたものと同じ、楽屋弁当だ。

 割り箸を乱暴に投げ捨て、男はふうと息を吐いた。

 ――ったく、あんな女ガキ共のマネージャーになったばっかりに、とんだ汚れ仕事を押し付けられちまった。

「熱っ!」

 無造作に傍らの望遠鏡を掴もうとして、男は手を引っ込めた。遮るもののない屋上で、すっかり日光に熱せられてしまったようだ。

 男自身、こめかみから汗がとめどなく伝っている。額をタオルで拭うと、それで望遠鏡を包んで持った。

 レンズの向こうには、遠い彩北野球場――『サキタバンドシティフェスタ』の会場が見えた。

 ――汚れ仕事も、もうすぐ終いだ。あの5人がバラバラに吹っ飛ぶ様を見届けたら、こんな田舎、すぐにおさらばしてやる。

 青龍会進出の足掛かりとして、白虎組肝煎りのイベントである『サキタバンドシティフェスタ』で爆発騒ぎを起こす。その鉄砲玉として選ばれたのが、男がマネージャーを務める『ピスタチオ・メイデン』だった。

 男とて、何の罪もない無辜の民を殺すことに罪悪感を抱かないわけではない。一応、面倒を見てやっていた『ピスタチオ・メイデン』の5人だってそうだ。

 レンズをズームにし、『ピスタチオ・メイデン』の5人がいるであろう、ステージ方向を凝視する。

 ――お前らが悪いんだぞ。俺の言う通りにすりゃ見逃してやるって言ったのに、お高く止まりやがって……。

 栄子、眞子、宏子、朋子、ユキ子の誰一人として、男の誘いに乗らなかった。「自分たちはミュージシャンだ」などと威張っていたが、本心では自分を高く売り付けたいだけに決まっている。

 自分を拒んだ女たちが、晴れの舞台上で血吹雪を散らす――…。その様を想像すれば、男の口元に歪んだ笑みが浮かんだ。

 男は、腕時計を見た。もうすぐ午後2時――『ピスタチオ・メイデン』によるオープニング・アクトが始まる時間だ。

 浮かれた観客たちでごった返す会場も、じきに地獄絵図に変わる。そう思ってレンズを客席方面にフォーカスした男は、「あっ!?」と声を上げた。

「なんで!?どうして、客席に誰もいないんだ…!?」

 見渡す限り、客席には人っ子一人いない。置き去りにされたレジャーシートが、ぱたぱたと風にはためくのが見えるだけだ。

 会場を見回した男は、更に驚いた。

「客だけじゃない!出演バンドやスタッフたちも、ほとんどいないじゃないか!そんな、どうして!?」

 大勢のスタッフや関係者が行き交うはずの楽屋テント周辺は、警備員など少数の人間の姿しか見えない。

 ――これじゃ、ステージを爆破しても、無名の女バンドが死ぬだけだ。白虎組には、ほとんどダメージを与えられない…!

 レンズの向こうの光景が信じられず、男はしばし、呆然としてしまったが――やがて、ハッと我に返った。

「こ、こうしちゃいられない!すぐに難波さんに連絡を取らないと…!」

 脱ぎ捨てた背広に入れたトランシーバーを取ろうとした男の手に、小石がぶつけられた。

「っ!だ、誰だ!」

 望遠鏡を覗くことに夢中になるあまり、いつの間にか背後に人が近付いていたことに気付いていなかったようだ。事が終わったらすぐに帰るつもりだったため、ビルの出入り口に施錠していなかったことを、男は今更に思い出した。

 そこにいたのは、水色のポロシャツを着た、40代ぐらいの痩身の男だった。

「青龍会の手先に名乗る名はねえ」

 そう言ってこちらを睨む目付きは、刃物のように鋭い。

 服装こそ堅気のような恰好をしているが、間違いない。目の前にいるのは、青龍会と同じ、裏社会の人間だ。

 ――白虎組か!畜生、なんでこんなところに…!

 どうして白虎組にバレたのか、とか、どうすればこの場を誤魔化せるか、など様々なことが男の頭を巡る。

「………」

 それらの思考の渦も、白虎組と思しきポロシャツの男に一歩迫られた瞬間、恐怖で弾けた。

「よ、止せ、近付くんじゃない!邪魔するつもりなら……!」

 男は慌てて背広の下の起爆スイッチを取り出そうとしたが、汗で手がべたつくせいか、上手くいかない。こんなところに人が来るなんて、全くの想定外だったのだ。

 ――くそっ、青龍会は何をやってるんだ!それとも、あの女共が誰かにチクッたのか!?あんなガキに爆弾のありかが分かるわけ…!

 心の内でせわしなく毒づいているうちに、白虎組の男が目の前に迫っていた。

「ぐあっ!」

 身体がふわりと宙に舞い――遅れて、男の鼻から血が噴き出した。

 ドッ、という衝撃と共に、背中から全身へと激痛が広がる。殴られたのだという認識が頭に到達する前に、男は意識を失った。

「ちっ、汚ぇな。てめえ、汗まみれじゃねえか。俺の手まで濡れちまった」

 白虎組の男――冬枝は、ズボンで手をごしごしと拭った。

 失神した男の背広から起爆スイッチを抜き取り、ついでに名刺を確認した。

「ハッ。てめえ、自分が面倒見てる女たちを殺そうとしたのかよ。救えねえな」

 ピッ、と指で弾いた名刺が、ひらりと男の顔の上に落ちた。

 ここには、どうやらこの腐れマネージャーしかいないようだ。手動スイッチはあくまで保険のつもりだったのか、或いはしょせん、彩北の爆破など、成功しようが失敗しようが、青龍会にとってはどうでもいいことなのか。

 ――都会の連中の思惑なんざ、俺だって興味ねえ。

「さやか。後は、お前の思い付きに賭けるぞ」

 冬枝は床に転がった望遠鏡を拾い上げると、彩北野球場――『サキタバンドシティフェスタ』会場を覗き込んだ。



 さやかと嵐、そして鈴子と沓掛の4人は、彩北野球場の近くにある彩北市民体育館にいた。

 会議用の長いテーブルに置かれているのは、ホチキスで製本したばかりのコピー本――『麻修羅Ⅱ』だ。

 テーブルの前には『サキタバンドシティフェスタ』から移動してきた客たちが、長蛇の列をなしている。

「凄ぇな、沓掛ちゃんの漫画。無料とはいえ、飛ぶように売れてくぜ。コピー用紙に羽根でも生えてんのかしら」

 嵐が、冗談めかして『麻修羅Ⅱ』を両手でパタパタとはためかせた。

 その直後、右と左から伸びてきた客の手にバッと『麻修羅Ⅱ』を奪われ、嵐は肩を竦める。

「あい。ホントに羽根が生えてら」

「やっぱりみんな、私たちが午前中に配った『麻修羅』のコピー本を読んでくれたみたいね。続きが気になって仕方ないわよね、あれ読んだら」

 隣にいた鈴子にウィンクされ、さやかも頷いた。

 今や、体育館の中は『麻修羅Ⅱ』を求めて並ぶ客と、その場で読み始めた客たちの熱気に満ちている。『サキタバンドシティフェスタ』の熱狂を、そのままここに持ち去ってきたかのような光景だ。

 ――題して、『ハーメルンの笛吹き』作戦。

 青龍会による『サキタバンドシティフェスタ』爆破を阻止するべく、さやかが導き出した解。

 それは、爆弾が爆発するまでの2時間以内に、漫画『麻修羅』の続編を作って観客を会場からおびき出すことだった。

「ええっ!?無理ですよ、あと2時間以内に『麻修羅』の続きを描くなんて」

 さやかが作戦を持ち掛けた際、沓掛はそう言って首を横に振った。

「完成させる必要はありません。このネーム程度の殴り描きで十分です」

「それでも、時間がかかるよ。話だってまだ考えている途中だし…」

 ぐだぐだと言い募る沓掛の胸倉を、冬枝が掴み上げた。

「ナメてんのか、坊主。会場にいる5千人の観客の命がかかってんだぞ!」

「ひい~っ!だから、俺にはそんなの無理です!俺の漫画をエサにして5千人のお客さんを引き寄せるなんて、絶対無理ですって!」

 そう叫ぶ沓掛に、さやかはふと真剣な声音で言った。

「本心ですか?」

「えっ?」

「『麻修羅』でお客さんを引き寄せることは出来ないなんて、本心から言ってるんですか?実際に読んでいるお客さんの姿だって見たのに」

「そ、それは…」

「沓掛さんは、最初から確信していたはずです。『麻修羅』は面白い。本屋に並ぶ漫画より、圧倒的に自分の漫画のほうが面白い。だから、僕たちヤクザと手を結んででも『麻修羅』を完成させようと思った。そうでしょう?」

 そして、沓掛の心の奥をくすぐるかのようにさやかは言った。

「ねえ、沓掛さん。見てみたくはありませんか?あなたの漫画を求めて、5千人もの観客が押し寄せる様を」

 そう言うさやかの顔ときたら、爆破を阻止する健気な少女というより、若者をたぶらかす悪女そのもので――横にいた冬枝は、何やら背筋が寒くなった。

 ――こいつは、自分の思い付きを試してみたいだけかもしれねえ。

 とはいえ、今はその思い付き以外に策はない。さやかたちは近くの喫茶店に飛び込み、冬枝が引っ張ってきた朽木にも手伝わせて、大急ぎで『麻修羅Ⅱ』の原稿を沓掛に描かせた。

「なんで俺様がこんなことしなきゃならねえんだ!」

 朽木は文句たらたらだったが、作画スピードが異常に速く、沓掛の描いた人物にリアルな背景やちょうどいいモブを添えてくれた。

 おかげで、鉛筆の殴り書きとは思えないほど、ぱっと見の完成度が高い。さやかもコマの枠線を引きながら、改めて朽木の画力に感心してしまった。

 嵐と鈴子には、『麻修羅Ⅱ』を配る場所を探してもらった。ちょうど彩北市民体育館が空いていたため、長テーブルと手書きの張り紙で、即席の配布会場にした。

 その間、高根と土井には、青龍会の目を誤魔化すための囮になってもらった。『ピスタチオ・メイデン』のステージに細工をしているふりをして、難波の目を引き付けるのだ。

 危険な役割だったが、2人とも無事に戻ってきた。高根も土井も妙に蒼ざめて口数が少なかったが、2人の様子を斟酌している余裕はさやかにも冬枝にもなかった。

 近くのオフィスでコピー機を借り、原稿のコピーとホチキス留めを超特急で仕上げた。朽木が途中で「付き合いきれねえ、俺様は帰るぞ!」と言って離脱したため、たいした部数は刷れなかったが、追加分を高根と土井が大急ぎで制作している。

「………」

 コピー本を手渡しながら、さやかは腕時計を見た。次から次へと来る客にコピー本を渡しているうちに、とっくに『ピスタチオ・メイデン』のステージの時間を超えていた。

「…青龍会は、会場の爆破を諦めたでしょうか」

『麻修羅Ⅱ』を目当てに体育館を訪れたのは、一般の客だけではない。『サキタバンドシティフェスタ』に招かれた大物バンドやスタッフまでもが、お忍びで列に並んでいる。

 つまり今、爆弾を爆発させても、もぬけの殻になった野球場を吹き飛ばすだけだ。それでも、青龍会は爆破を実行するだろうか。

 嵐は自分の分のコピー本をちょうど配り終え、空になったスペースをパンと叩いた。

「さあな。とりあえず、これで奴らの出鼻は挫いてやれただろ。ダンディ冬枝がうまくやれば、な」

 冬枝は、爆弾の起動スイッチを持っている『実行役』の男を押さえに向かった。青龍会が同行していたら危険だからと、たった一人で行ってしまった。

 ――冬枝さん、無事だといいんだけど……。

 もしも冬枝が青龍会の手先に囲まれ、窮地に陥っていたら――。そう考えると、さやかは今すぐここから飛び出してしまいたい衝動に駆られた。

 そこで、さやかの背後にある通用口がバンと開いた。

「兄貴~っ、重いっスよお!ホントに500部もいるんスかあ!?」

「うるせえな、この行列見ろよ!まだホチキス留めしてないんだから、とっとと運べ!」

「はいっ!」

 土井と高根、それに冬枝の声が聞こえて――さやかは、思わずバッと振り返った。

「冬枝さん!」

「おう、さやか。繁盛してるな」

 軽口を言いながら、冬枝はさやかに小さく頷いてみせた。実行役の男は仕留めたのだと、それだけでさやかには伝わった。

 ――やっぱり、冬枝さんはすごいや。

「冬枝さん。無事でよかっ…」

 などと、再会を喜んでいる暇はさやかたちにはなかった。

 コピー本が段ボール箱から取り出されたのを見た途端、客たちがワッと押し寄せたのだ。

「こっち!こっちに2冊ちょうだい!」

「ねえ、これの続きは!?」

「み、みなさん、順番に並んでください!『麻修羅Ⅱ』はまだありますから!」

 四方八方から伸びてくる手にコピー本を握らせるのに追われ、さやかも冬枝も、それから3時間はろくに会話もできなかったのだった。



 結局、『ピスタチオ・メイデン』のオープニング・アクトは中止となった。

 表向きは会場整備に時間がかかったためとされ、それに異を唱える者はいなかった。無名のバンドに過ぎない『ピスタチオ・メイデン』のステージが潰れたところで、どこからも文句は出ないのだ。

 出演中止が決まったにも関わらず、『ピスタチオ・メイデン』の5人も、どこか安堵した表情を浮かべていた。あのままステージを進めていたら、自分たちがどうなっていたのか――何者かが入れ知恵したのだろう。

 時間の変更はあったものの、その他のステージは予定通りに行われた。大物バンドの演奏に会場は大いに盛り上がり、『サキタバンドシティフェスタ』は大盛況で幕を閉じた。

 彩北の街を見下ろすキャンドルホテルの最上階で、青龍会四天王――難波はタバコの煙を吐いた。

「やるねえ、夏目さやかって女は。まさか、会場から観客5千人を移動させるとは」

 作戦を邪魔されたが、難波に怒りはなかった。むしろ、よく出来たマジックを見たような気分だ。

 そもそも、今回の目的は白虎組を脅すことだ。田舎の組をビビらせるのに失敗したぐらい、どうということはない。

 ――空しいよな、この稼業は。

 相手を力でねじ伏せ、金や女を欲しいままにする。そんなことで満足できたのは、若い頃だけだ。

 ――人一人殺すのぐらい、赤ん坊にだって出来るんだぜ。

 愛、憎しみ、絆、裏切り。自分が経験した全てを、どこかで誰かが繰り返している。どんなに鮮やかな痛みも、しょせんはこの世にある100億のコピーの一つに過ぎないのだ。

 この彩北での珍事も、難波にとってはその程度の出来事だ。夏目さやかの奇策は愉快だったが、その場凌ぎだ。白虎組もその他の組と同じように、いずれは青龍会に呑み込まれるだろう。

 いつも通りの筋書きが、難波には気楽であり、また空しくもあった。

 だが、この空しさにももう慣れてしまった。東京に着く頃には、きっと忘れているだろう。

 すると、ベッドで寝ていた女が、難波の呟きに反応してむくりと起き上がった。

「夏目さやかなら、爆弾ぐらいどうとでも出来るよ。そういう娘だから」

 難波は、ゆっくりと女のほうを振り返った。

「そういやお前、ここに来る前もそんなこと言ってたっけ。夏目さやかなら絶対に爆破を阻止できる、って」

「うん」

 女の痩せぎすな身体に、パーマをかけた長い髪がさらりとかかる。切れ長の瞳は酷薄そうで、とてもじゃないがまだ10代には見えない。

「夏目さやかは、朱雀組を使って私を潰した。『目的のためなら手段を選ばない』って、きっと、あの娘のためにある言葉なんだろうね」

 そう言いながら、女の顔は笑っていた。難波と同じように、夏目さやかの抵抗を面白がっているのがその瞳から伺える。

「………」

 女の笑みを見ているうちに、難波も何やら、これからもっと面白いことが待っているような気がしてきた。

 ――そうだ。『竜宮城計画』は、まだ始まったばかりだ。ここからが本番……。

「もうすぐ、お前もその夏目さやかとご対面できるぜ。楽しみだな、タマミ」

 タマミと呼ばれた女は、薄い唇によく似合う、冷酷な笑みを浮かべた。



『サキタバンドシティフェスタ』から数日後――。

「で……できたー!」

 その声は空が白み始めた頃、沓掛のアパートに響き渡った。

 狭い一室で肩を寄せ合うようにして作業していた冬枝、さやか、朽木、高根、土井が、一斉に顔を上げた。

「本当か!?」

「ベタの塗り忘れは!?トーンは!?」

「大丈夫です、バッチリです!」

 沓掛は原稿を胸に抱え持ち、「ありがとうございます!」と言って笑った。

「皆さんのおかげで、ついに『麻修羅』が完成しました!」

「わあ~っ……」

 さやかも冬枝も、声にならなかった。朽木も、高根と土井も、ただ天井を見上げている。

 ――長かったなあ、この数日間…。

『サキタバンドシティフェスタ』の爆破を防いだのをきっかけに、沓掛は覚醒した。『麻修羅』の続きを一心不乱に描き、寝食も忘れて没頭した。そして、原稿を完璧に仕上げるため、自ら冬枝たちに手伝いを求めた。

 冬枝は面倒臭がったが、さやかが説得した。今の沓掛は、以前とは違うと気付いたからだ。

 ――沓掛さん、顔付きが以前とはすっかり変わった。

 今の沓掛は、漫画のためなら全てを犠牲にする、本物の漫画家の顔をしている。今の沓掛ならば、『麻修羅』を完成させることができる、とさやかは確信した。

 ――そのせいで、僕たちはずいぶんこき使われたけど。

 背景からペン入れまでこなし、すっかりチーフアシスタントとなった朽木をはじめ、さやかがベタと枠線引き、土井が消しゴムかけ、高根がトーン貼り、冬枝が最終チェック、と、5人総動員で沓掛をサポートする羽目になった。

 その間、さやかは沓掛と冬枝・朽木らへの連絡や、インクやトーン、作画の資料など、必要なものの買い出しをしたりして、沓掛の助手も務めた。おかげで、麻雀に行く暇もなかったほどだ。

 ――だけど、不思議と楽しかった。

 みんなで一つの何かに取り組むなんて、学校の文化祭みたいだった。徹夜になると鈴子がおにぎりを差し入れてくれたこともあったし、冬枝が出前のピザをご馳走してくれたこともあった。どうでもいいことでも5人で大笑いして、大変だったが温かい時間だった。

 それも、今日で終わりだ。沓掛が、胸の原稿をぎゅっと抱き締めた。

「あの…皆さんに、お伝えしなきゃいけないことがあります」

「なんだよ、改まって」

 冬枝と朽木の中年2人は、すっかりくたびれて横になっている。袖をまくった腕が黒くなるほど働かされた朽木に至っては、今にも寝入ってしまいそうだ。

 沓掛は、緊張した面持ちで告げた。

「やっぱり、『麻修羅』は白虎組には渡せません。すみません!」

「ああ!?」

「なんだと、てめえ!」

 驚愕の申し出に、冬枝と朽木が勢い良く起き上がった。

「すみません、すみません!」

「すみませんじゃねえ、理由を説明しろ!」

「そうだ。てめえ、俺様をタダ働きさせるつもりか」

 冬枝と朽木に左右から怒鳴られても、沓掛は両手に抱いた原稿を離そうとはしなかった。

「………」

 高根と土井がすっかり呆気にとられる横で、さやかは静かに立ち上がった。

「まあまあ、冬枝さんも朽木さんも、そんなに沓掛さんを責めないであげてください」

「さやか?」

「なんだ、麻雀小町」

 さやかは冬枝と朽木の双方に微笑みかけると、沓掛の前に立った。

「沓掛さん」

「…夏目さん。せっかく手伝ってもらったのに、申し訳ないけど…」 

 さやかは首を横に振って、「いいんです」と言った。

「沓掛さんは、白虎組を信じて『麻修羅』を託すと言ってくれました。その気持ちは、本当だったんですよね?」

「……はい」

「この『麻修羅』の原稿は、沓掛さんが白虎組と協力して仕上げたもの。ヤクザの力を借りてでも、沓掛さんはこの作品を完成させたかった。そうでしょう?」

「…はい」

 力なく頷く沓掛に、さやかはポンと胸を叩いた。

「白虎組との約束通り、原稿は沓掛さんのものです。僕たちは、これ以上あなたに関知しません。ご健闘を」

「…ありがとうございます!」

 沓掛が頭を下げ、さやかは穏やかに微笑んだ。

 女神のような慈悲深い微笑みの裏で、さやかが冬枝と朽木にだけ見せたある道具が、後ろ手になって高根と土井にも見えた。

 ――テープレコーダー。



 冬枝の自宅マンションでぐっすり昼寝し、目覚めた頃には夕方だった。

 黄昏に染まるカーテンを閉め、冬枝が部屋の照明をつけた。

「つまり、嵐の野郎がいつの間にか沓掛を抱き込んでたってことだな」

 リビングで遅めの昼食を取りながら、さやかは「そうです」と答えた。

「ヤクザが一般人を使って漫画で大儲けなんて、嵐が許すはずありませんから。後輩の入江って人が出版社にコネがあるみたいで、『麻修羅』を雑誌に掲載する段取りまで整えたとか」

「抜け目ねえな。あいつのほうがよっぽどヤクザじゃねえか」

 冬枝はすっかり苦り切って、タバコに火をつけた。

 沓掛の秘書として事務作業をこなしているうちに、さやかは沓掛と嵐が『麻修羅』をさらおうとしていることに気付いた。入江という男が沓掛のアパートをこっそり訪れているところも、現場を確認済みだ。

「嵐とまともにやり合っても、ろくなことになりません。だから、『麻修羅』は素直に引き渡すことにしました」

 もっとも、ただ嵐にしてやられるだけでは面白くない。そこでさやかは、沓掛との会話を録音したのだった。

「この音声は、漫画家・沓掛先生がヤクザと繋がっていたという、何よりの証拠になります。これさえあれば、『麻修羅』だろうと何だろうと、好きなだけ描かせることができますよ」

 レコーダーを片手にほくそ笑むさやかに、冬枝は改めて感心、というか呆れてしまった。

 ――おっかねー女だぜ。

 というより、単なる負けず嫌いなのかもしれない。さやかが散々嵐に麻雀で負け、悔しい思いをさせられているのは冬枝も知っている。

 さやかは、レコーダーをテーブルの上に置いた。

「これで、榊原さんや霜田さんにも言い訳が立つでしょう」

「そうだな。ま、榊原さんたちだって、漫画で一儲け、なんてマジに考えてたわけじゃねえだろうが」

 榊原の話題になって、ふと、さやかの脳裏を『サキタバンドシティフェスタ』で見かけた男女の姿がよぎった。 

 ――あそこにいたのは、本当に響子さんだったのかな…。

 爆弾騒ぎや『麻修羅Ⅱ』の製作・配布作業をした後だと、自分が見たものが幻だったような気がしてくる。

 だいたい、響子は仮にも白虎組若頭・榊原の愛人なのだ。榊原以外の若い男と2人で逢っているなんて、あの真面目な響子からは想像できなかった。

 冬枝がテレビをつけると、ちょうど夕方のローカルニュースで『サキタバンドシティフェスタ』の話題を報じていた。

「おーおー、『彩北博’86』、無事に閉幕、だってよ。青龍会も爆弾も、知らぬが仏ってやつだな」

「いいんじゃないですか、これで。めでたしめでたし、です」

 そう言いつつ、さやかはテレビで流れる『サキタバンドシティフェスタ』の映像を羨ましそうに見つめた。

「いいなあ。午後の部は見られなかったから、チケット代半分損しました」 

「ああ。『麻修羅Ⅱ』を配るので、それどころじゃなかったからな」

 コピー本の配布や会場の撤収などで、終わる頃にはすっかり日が暮れていた。さやかも冬枝もクタクタで、爆音と歓声に満ちた『サキタバンドシティフェスタ』に戻る気力はなかった。

 ――せっかく冬枝さんと一緒にいたのに、もったいないことしちゃったな。

 テレビに映る観客の楽しそうな姿を見ているうちに、さやかの胸にむくむくとある野望が沸き起こってきた。

 ――冬枝さんと、もっと夏の思い出を作りたい。

 海に行ったり、お祭りに行ったり……そんな想像が次から次へと浮かんでくるのは、『サキタバンドシティフェスタ』の熱気にあてられたせいだろうか。

「さやか。今日はもう高根たちも疲れてるだろうし、外で飯にしようぜ」

 冬枝からそう言われた瞬間、夏のデートの夢想にふけっていたさやかは反射的に「はい!」と大きな声で返事をしてしまった。

 慌てて口を手で押さえるさやかに、冬枝が笑った。

「なんだよ、そんなに腹減ってたのか?」

「ちっ、違いますっ!」

「じゃ、今夜は『からくま』のドライカレーにするかな。それとも、『とんかつ十八番』のとんかつ定食…」

 駅前にある彩北ショッピングセンタービルの7階にあるレストラン街の店名を並べる冬枝に、さやかは思わず口を挟んだ。

「『からくま』のドライカレーは、先週も食べてたじゃないですか。僕はそろそろ『ファミーユ』の洋食が食べたいです」

「ほれ、やっぱり腹減ってるんじゃねえか」

「だから、違いますってば!」

 もう、とちょっぴりむくれながら、さやかは冬枝と共に、夕暮れの駅前へと向かったのだった。 



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