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22話 ヤクザと乙女とマンガフィーバー!

第22話 ヤクザと乙女とマンガフィーバー!


 太陽が眩しく照らす、よく晴れた昼下がり――。

 さやかは冬枝と共に、白虎組事務所を訪れていた。

 ――組事務所に来るの、久しぶりだな…。

 春、代打ちとして組長に挨拶に来て以来だろうか。あの時は夜だったから、こんな日のあるうちに組事務所に足を踏み入れるのは初めてだ。

 だが、今日のさやかに緊張はない。むしろ、頭のてっぺんから足のつま先まで、うずうずしてしょうがない。

「こんにちは、夏目さん」

 後ろから声をかけられ、さやかはぱっと振り返った。

「響子さん!お久しぶりです」

「ご無沙汰しています」

 ワンレングスの黒髪をさらりと揺らし、響子は小さく会釈した。

 そんな仕草すら優雅で、さやかはつい見惚れてしまった。

 ――やっぱり、響子さんって改めて見てもすごい美人…。

 しかも、若頭の愛人という立場にありながら、響子には傲慢なところがない。水商売といえば濃い化粧に耳障りなキンキン声のイメージがあるが、清楚で物静かな響子はその対極だ。

 何より、響子はさやかと同好の友である。さやかは、つつっと響子に近寄った。

「響子さんも、アレを見に来たんですか?」

「ええ。若頭から誘っていただいて」

 響子の表情からも『アレ』を楽しみにしていることが伝わり、さやかはう~っと身震いした。

「ああっ、もう待ちきれないっ!早く見たいです!」

「お前よ、ちったぁ落ち着けよ」

 と突っ込んだのは、後ろの冬枝である。

「だって!」

 さやかは肩の上の髪を揺らして、くるっと振り返った。

「ついに白虎組の事務所に自動卓が導入されるんですよ!?しかも2台!僕、感動で涙が出ちゃいそうです」

「大袈裟だっつの」

 普段はつんと澄ましているくせに、今日のさやかはやけに浮かれている。冬枝は、やれやれと溜息を吐いた。

 ――ヤクザの事務所に雀卓が入るってだけで、こんなに大はしゃぎする女がいるか?

 今日は白虎組若頭・榊原が組事務所に娯楽用の雀卓を買うというので、さやかと2人で見に来ないかと呼び出されたのだ。

 そわそわしているさやかを落ち着かせるためではないが、冬枝はこんな話をした。

「雀卓なら、昔も置いてたんだけどな」

「そうなんですか?」

「ああ。よく夜中に集まって打ったもんだが、近所から音がうるせえって苦情が来てよ。麻雀なら雀荘でも打てるし、事務所からは取っ払ったんだ」

 それが今、急に自動卓を事務所に置くことになったのは――と考えて、冬枝は目の前にいる若い女2人を見やった。

 ――若頭の近くにいる女が揃いも揃って麻雀好きじゃ、そりゃこうなるわな。

 また、昔と違って、白虎組は今や彩北の番人になった。事務所で麻雀をしていたぐらいで苦情が来るような立場ではなくなったのだ。

 組員も増え、夜中は退屈することも多い。堅気に混ざって雀荘で打つよりも、事務所で打ったほうが平和で手っ取り早いだろう。

 冬枝がそうまとめたところで、娯楽室の扉がガチャッと開いた。

 現れたのは、長身にグリーンのスーツをまとった男――白虎組若頭・榊原だった。

「待たせたな、みんな。卓の準備が終わったぞ」

「わあっ!」

 子供みたいにピョーンと飛び出して行こうとするさやかの首根っこを、冬枝はすかさず捕まえた。

「こらっ。響子さんが先だ」

「うっ!」

「ふふ、いいですよ、夏目さん。一緒に行きましょう」

 響子にニコニコと微笑まれ、冬枝は頭を下げた。

「すみません、響子さん。こいつ、いつもはこんなんじゃないんですけど、麻雀となると頭のネジが2、3本どっかいっちまって」

「いいえ、むしろ遠慮するなら私のほうです。夏目さんは、組の大事な代打ちですもの。雀卓を真っ先に見る権利があるのは、夏目さんです」

 さやかとそう変わらない年齢だというのに、響子はとても大人びている。聡明な榊原が見初めるわけだ、と冬枝はちょっと納得した。

 ――それに比べて、うちのバカときたら。

 さやかは馬のように首を左右にぶんぶん振って、冬枝の腕を振り払った。

「そうですよね!僕は白虎組の代打ちなんですから、組の雀卓をチェックするのも仕事のうちです!」

「調子に乗るんじゃねえ、さやかっ!」

「ハハハ、いいじゃねえか、冬枝」

 榊原からも優しくされ、冬枝のほうが恐縮した。

「すみません、榊原さん…。俺のしつけが悪いもんで」

「そんなこと言うなよ。嬢ちゃんがそんなに喜んでくれたんだったら、買った甲斐があったよ。順番なんか気にしなくていいから、みんな、好きに見て行ってくれ」

「はーい!」

 と、さやかが元気良く返事をしたところで、玄関のほうから高根と土井がぱたぱたと駆けてきた。

「あのー、兄貴…」

「ん?なした」

 浮かれ切ったさやかの様子を見て気を使ったのか、高根がちょっと声を潜めた。

「事務所の前に、不審な男がいます」

「何?『アクア・ドラゴン』か」

 東京から来た愚連隊『アクア・ドラゴン』は、彩北の街で猛威を振るっている。

 白虎組の後援者だった金融業者・平磯を殺した犯人、浦和の身柄を『アクア・ドラゴン』に奪われたのはつい先日のことだ。冬枝の目付きが険しくなった。

 ――事務所まで押しかけるとは、いい度胸じゃねえか。こないだの礼だ、返り討ちにしてやらあ。

 冬枝は『アクア・ドラゴン』をボコボコにし、ハンバーグのようにミンチにするところまで思い描いていたのだが、弟分たちの報告には続きがあった。

「それが、どうも『アクア・ドラゴン』ではなさそうなんです」

「ああ?」

「ていうか、不良でもなさそうっスよ。ヒョロヒョロしてて、オレらでも勝てそうっス」

 と言ったのは、サングラスをかけた土井である。

 高根と土井の話によると、眼鏡をかけた若い男が、さっきからずっと事務所の前をうろうろしているのだという。肩には大きなバッグをかけ、時折、何かをメモしている様子だとか。

 冬枝は、男の持ち物が気になった。

「でかいバッグ?銃でも入ってるんじゃねえのか」

「いえ。ライフルケースのような感じではなく、妙に平たいバッグでした」

 男の目的が分からないため、高根と土井も対応に困ったらしい。冬枝は、なるほどと頷いた。

「こんな時期に事務所の前をウロつくなんて、ブンヤの類かもしれねえな。目障りだ、追い払って来い」

「わかりました」

 回れ右して去ろうとした高根たちを、さやかが呼び止めた。

「ちょっと待ってください。僕も行きます」

「なんだよ、さやか」

 さっきまで雀卓に夢中だったくせに、さやかは冬枝たちの話を聞いていたらしい。

「もしかしてその人、何か白虎組に伝えたいことがあるのかもしれませんよ」

「ああ?通報か」

 確かに、『アクア・ドラゴン』が街中の店で暴れている今なら、トラブルに巻き込まれた堅気が白虎組に助けを求めに来た、という可能性もなくはない。

 さやかは、きらりと好奇心に瞳を光らせた。

「腕っぷしも強くなさそうな人が、理由もなくヤクザの事務所に近寄るとは思えません。話を聞いてみる価値はありますよ」

「それもそうか。よし、ちょっと行ってみるか」

 冬枝は榊原に声をかけ、さやかたちを連れて事務所を出た。



 高根たちの言う通り、事務所の向かいの通りに、電柱に身を潜めるようにして佇んでいる若い男がいた。

 ボサボサの黒髪に、くたびれたチェック模様のシャツ。組事務所を見上げては、何事か小さくぶつぶつ呟きながら、手元のメモ帳に何かを書き込んでいる。

 事務所の玄関の窓ガラスに貼り付きながら、土井と高根は改めて男を観察した。

「あいつ、もしかして響子さんのファンかな。ほら、美人だし」

「ああ、ありえるな。響子さんが勤めてる『パオラ』の客とか」

 そう言ってから、高根は隣にいるさやかに気付いてハッと息を呑んだ。

「バカ、土井!響子さんの前に、『さやかさんのファンかな』って言わなきゃダメだろ!さやかさんだって女なのに、失礼じゃないか!」

「………」

 ――僕、そこまで気にしないけど。

 高根のほうがよっぽど失礼だと言いたくなったが、高根の顔は真剣だ。さやかは、視線を窓の向こうの男に戻した。

「あの人、何か独り言を言いながらメモを取ってますね。冬枝さん、あの人が何言ってるか分かります?」

 なんちゃって、とさやかは冗談のつもりで言ったのだが、冬枝からは明確な答えが返ってきた。

「3階建て、鉄筋っぽい、昼間でも人がいる、とか言ってるな」

「えっ…?冬枝さん、それ本当ですか?」

「本当も何も、なんで嘘つくんだよ」

 冬枝があまりにも平然としているので、さやかは呆気に取られてしまった。

「まさか、冬枝さんって…読唇術が使えるんですか?」

「ん?いや、んな大層なもんじゃねえよ。このぐらいの距離なら、大体わかるだろ」

 冬枝は当たり前のように言っているが、さやかは驚いた。

「白虎組って、みんなこういうことができるんですか?」

「まさか!」

 高根が首を左右に振り、土井も呆れ気味に言った。

「兄貴だけっスよ。テレビ見てても、後ろの奴が今『バカ』って言ったぞ、とか分かるんス。すげー地獄耳っスよね」

「地獄耳じゃねえ、口が読めるだけだっ!源さんじゃあるまいし!」

「源さんって…」

 さやかはつい先日、冬枝の昔の知り合いだという美女――『ミナ』を紹介された。

 モデルのような長身痩躯、蒼みを帯びた切れ長の瞳、深く人を惹き付けてやまない眼差し。その美貌と圧倒的な存在感に、さやかは一目で釘付けになった。

 一時は冬枝とミナの仲を邪推すらしたが、ミナの正体は男――源清司だった。

 かつて、源は冬枝の兄貴分だった。源の人間離れした戦闘能力は、さやかも目撃している。

「源さんはな、唇が読めるどころじゃねえ、本物の地獄耳だぞ。内緒話とか、全部聴こえてるからな。壁の向こうの部屋で喋ってることだって聴こえてるぐらいだ」

「うひー。滅多なこと言えないっスね」

 土井が言い、冬枝がうんうんと頷いたところで、不審な男を観察していたさやかが「…あ」と声を上げた。

「僕、あの人の正体がわかりました」

「えっ?本当か、さやか」

「はい。ちょっと、声をかけてきますね」

「おい、待て。俺も行く」

 肩を掴んで呼び止めた冬枝に、さやかは苦笑した。

「いえ…。僕一人で、大丈夫です」

「なんで大丈夫だってわかるんだよ」

「あの人に敵意はありません。それより、冬枝さんと一緒に行ったら、怖がらせちゃうと思います」

 そう言って、さやかは事務所から出てきたのがバレないよう、裏口から外へ出て行った。

「大丈夫かな、さやかさん」

 高根と土井が心配そうに言い、冬枝も、ガラス越しにさやかの様子を注視した。

 ――何かあったら、すぐに駆けつけてやる。

 男がさやかに指一本でも触れたなら、この手で男をボコボコにし、ハンバーグのようにミンチにするところまで冬枝は思い描いていたのだが、現実は違った。

 さやかが男に一声かけると、2人は和気あいあいと喋り始めたのだ。

「ん~?」

 さやかが何を話しているのかは後ろ姿のため分からないが、男はすっかり安心して、さやかに心を開いている。そうなんだよ、とか、最近大変でさ、とか話しているようだ。

「なんだ?エンコーが終わらなくて?」

 遠目なこともあり、冬枝でも男の話を全ては見て取れない。

 冬枝の言葉に、土井が「援助交際の略じゃないっスか?」と言った。

「なんだよ、援助交際って」

「金のあるオッサンが、女にプレゼントや食事をご馳走して付き合うことです」

 高根が真面目に解説してくれたが、ヨレヨレのシャツ姿のあの男にそんな財力があるようには見えない。

 やがて、さやかが小走りにこちらへ戻ってきた。

「お待たせしました」

「おう。大丈夫だったか、さやか」

「大丈夫ですって」

 さやかは笑って、小さなメモを顔の横に掲げた。

「彼の名前と連絡先、ゲットしました」

「おお。やるじゃねえか、さやか」

「さやかさん、あの男をナンパしたんですか?」

 からかい交じりに言う土井の頭を、高根がぴしゃりと叩いた。

「で、結局、奴は何者だったんだ」

 冬枝の問いに対し、さやかから返って来たのは意外な返事だった。

「漫画家のタマゴです」



 組事務所の前をうろついていた男は、沓掛という22歳のアルバイトだった。

「沓掛さんは、アルバイトをしながら漫画雑誌に応募するための原稿を描いているそうです。事務所の前をうろついていたのは、漫画の資料にするためだったとか」

 どうやら、沓掛はリアルなヤクザの様子を見たくて事務所の前に来ただけだったらしい。東京から来た愚連隊とは無関係と分かって一安心だが、冬枝には疑問があった。

「さやか。お前、なんであの男が漫画家だって分かったんだ?」

「まず、あの大きな平たいバッグです。あの中には、スケッチブックや画材が入っていました」

「ああ、スケッチブックが入ってるからあんなに平たいのか」

 高根が納得し、さやかは続けた。

「次に、彼の手です。メモを取る時にちらっと見えたんですが、手の小指側が黒く汚れていた。何かを熱心に描いている証拠です」

 そこで、さやかは自分も同人誌を描いている者だと言い、沓掛の心を開いた。原稿を見せて欲しいと言って、会う約束も取り付けたという。

 そこで、冬枝は首を傾げた。

「同人誌ってなんだ?」

「簡単に言えば、素人が作った自家出版の本です」

「自家出版って?」

「つまり、自分で描いた漫画を、自分のお金で印刷・製本して売るんです」

「えーっ。なんでそんな面倒臭いことするんスか?」

「さやかさん、物知りですね」

 土井と高根から口々に言われ、さやかはちょっと顔を赤らめた。

「…前に、友達が本を作るのを手伝っただけです」

「へえ~」

 男3人が合唱したところで、榊原が響子を連れて玄関にやって来た。

「おい、冬枝。何かあったのか」

「あ、榊原さん」

 大したことではないと思ったが、冬枝は一応、沓掛の件を榊原に報告した。

 響子が隣で心配そうに見上げる中、榊原は「うーん」と腕を組んだ。

「確かに、害のある人間とは思えないが……時期が時期だしな。一応、本人の家に行って、『アクア・ドラゴン』や青龍会と繋がっている様子はないか、確かめて来てくれないか」

「分かりました」

『アクア・ドラゴン』の狡猾さは、冬枝も身をもって知っている。念には念を入れておくのに越したことはない。

 早速、組事務所を辞そうとした冬枝を、さやかが引き止めた。

「待ってください、冬枝さん!」

「さやか?」

「せめて一目、一目だけでも…!」

 さやかが目を潤ませて指差しているのは、娯楽室の開いた扉から見える、さやか垂涎の的――自動卓だった。

 冬枝は、ガクッと肩から力が抜けるのを感じた。

「ああ…。好きなだけ見て来い」

「はい!」

 たたっと雀卓めがけて駆けだす後ろ姿は、飼い主の許しを得た子犬のようだ。冬枝は、ほとほと呆れてしまった。

 ――賢いんだかバカなんだか、分からねえ奴。



 沓掛の自宅は、市内にある古いアパートだった。

「沓掛さーん、夏目です」

 さやかがチャイムを鳴らすと、沓掛はすぐに扉を開いてくれた。

「どうも、夏目さん。部屋、散らかってるけど上がっ……」

 さやかの後ろに冬枝・高根・土井が並んでいるのを見て、沓掛の顔が蒼褪めた。

 冬枝が、さやかの横からずいと顔を出した。

「よう、兄ちゃん。ちょっと部屋、上がらせてもらうぜ」

「ひ、ひい~っ!すみません!すみません!!」

 ひれ伏す沓掛の横を、さやかたちは靴を脱いで通り過ぎた。

 沓掛の言葉に嘘はなく、確かに部屋は散らかっていた。至るところに紙や雑誌が落ちており、足の踏み場もないほどだ。

 天井からはヒモがつるされ、洗濯ばさみで紙が干されている。どうやら、これが漫画の原稿らしい。

 冬枝は、のれんのように原稿を避けながら、沓掛の部屋を物色した。

 ――どうやら、武器や爆弾の類はなさそうだな。

 クローゼットや押し入れの中も見てみたが、至って普通だ。冬枝は、ほっと一安心した。

 一方、ヤクザ3人に押しかけられた沓掛は、恐怖で畳に這いつくばっていた。

「すみません、すみません、出来心だったんです!写真は撮ってません!もう事務所には近寄りませんから、勘弁してください!」

「沓掛さん、大丈夫ですよ。僕たちは、あなたに危害を加えるために来たわけじゃありませんから」

 さやかは沓掛を宥めるため、机の上にあったノートを開いた。

「これ、今の原稿のプロットですか?」

「あっ。そうだけど、人に見られるのは恥ずかしいなあ」

 漫画の話になると、沓掛は安心するようだ。土下座の体勢から、ずるずると顔を上げた。

 沓掛は、本当に漫画が好きらしい。ノートには登場人物の詳細な設定が書かれ、ネームは何度も修正された跡がある。

 ページをぱらぱらとめくったさやかは「あっ!」と声を上げた。

「これ、麻雀の漫画なんですか!?」

「うん。麻雀漫画って今流行ってるからさ、俺も描いてみようと思って」

「いいなあ、読みたいなあ!原稿、ここにあるんですよね!?」

 さやかから前のめりになってせがまれ、沓掛も満更ではなさそうだ。

「いいよ。まだ途中だけど、良かったら感想を聞かせて欲しいな」

「わあ、ありがとうございます!」

 沓掛は洗濯ばさみを外し、干していた原稿をまとめてさやかに渡した。

「兄貴、台所や風呂場にも異常はありませんでした」

「本棚もオッケーっス」

 高根と土井の報告を受け、冬枝は「よし」と頷いた。

 ――いつまでも善良な若者の部屋に邪魔してるのも悪いし、通報される前に帰るか。

「おい、さやか…」

 帰るぞ、と言いかけた冬枝は、さやかが正座して原稿に見入っているのを発見した。

 漫画に集中するあまり、さやかには周りの声も耳に入っていないようだ。冬枝は呆れた。

 ――ったく、素人の描いた漫画がそんなに面白いか?

 雀荘『こまち』には漫画雑誌も置いているし、冬枝も多少は漫画を読む。だが、プロではなく素人の描いた漫画なんて、読んだことがない。

 さやかが読んだ後の原稿が何枚か傍らに置かれていたので、冬枝も試しに手に取ってみた。

「ふむ……」

 漫画家志望だけあって、沓掛の絵は確かに上手い。プロと比べれば稚拙だが、人物の表情に独特の味わいがある。セリフも歯切れ良く、話が分かりやすい。

 ――まあ、それなりに良く出来てるじゃねえか。

 ちょっとした批評家目線で見ていた冬枝だったが、ページが進むにつれ、徐々に他のことが考えられなくなっていった。

「………」

「………」

「………」

「………」

 さやかの読んだ原稿を冬枝が読み、いつの間にか、冬枝の横に高根と土井も座っていた。4人は話もせず、ただ黙々と沓掛の漫画を読んでいた。

 麻雀で闘う男たち。謎めいた言動で、目を離せないヒロイン。自分も行ったことがあるような、どこか懐かしい街並みや店。対照的に、見ているだけで胸がざわつくような、不穏な場面。登場人物の血の粘り気まで伝わるようなモノローグ。

 勝つのは誰なのか。生きるとは、どういうことなのか。人はどこへ行くのか――。

 冬枝たちは、すっかり沓掛の漫画の世界の中にいた。



 窓の外がオレンジ色に染まる頃――。

 読み終わった原稿を隣の高根に渡した冬枝が、さやかの肘をつついた。

「おいさやか、早く次よこせよ」

「あ…。すみません」

 さやかは原稿から顔を上げると、沓掛に声をかけた。

「沓掛さん。これ、続きは…?」

 すっかり待ちくたびれた沓掛は、台所から4人分のお茶を入れてきたところだった。

「ああ。続きはまだ描けてなくて…」

「えーっ!?」

 ヤクザを含む4人から大合唱され、沓掛がビクッと肩を震わせた。

「す、すみません」

「早く描けよ。続きが気になって仕方ねえじゃねえか」

「そうですよ。ネームも途中だったし、最後がどうなるのか全然わからないです!」

「完成したら、自分たちにも見せて欲しいです」

「これホント面白いよ、沓掛ちゃん」

 4人に褒められ、恐縮していた沓掛が、ちょっとだけ頬をピンクに染めた。

「へへ…。人から感想もらえるって、やっぱり嬉しいですね。ありがとうございます」

「礼なんかいらねえ。それより、これの続きはどうなるんだ」

 沓掛の肩を抱いて迫る冬枝に、さやかが声を上げた。

「あーっ、冬枝さん、ずるい!抜け駆けはナシですよ」

「なんだよ、ヤクザにズルもクソもあるかってんだ。なあ兄ちゃん、俺にだけこっそり、オチを教えてくれよ」

「兄貴、自分もそれは卑怯だと思います!」

「そうだそうだ!」

 高根と土井の大ブーイングと冬枝の猫撫で声に挟まれ、沓掛は眉を八の字に下げた。

「あのう、それが……まだ、決まってなくて」

「はあ!?」

 沓掛は、4人の威勢に怯えながらも経緯を説明した。

 この作品――『麻修羅』は、プロットの段階から沓掛自身、相当気に入っていた。

 ――これは面白い作品になるぞ!

 しかし、そう気負ったのが仇になったのか、肝心の後半の展開がどうにもまとまらない。いくつかストーリーの案はあるのだが、前半の展開と矛盾したり、無難すぎたりと、ピンとくるオチが思いつかなかった。

 ――でも、『麻修羅』は絶対いい作品になる。

 沓掛は、ひとまず原稿を描きながら後の展開を考えることにしたのだが、ストーリーが決まっている前半部分を描き終わった今になっても、オチを思いつかずにいるのだという。

 そこで、さやかは「ああ」と納得した。

「沓掛さんは、ネタ探しのために白虎組の事務所の前をうろついていたんですね」

「…うん。本物のヤクザを見れば、何かいいネタが降って来ないかなーって思って」

 土井が自分の顔を両手で指差しながら「どう?どう、どう?」とふざけたが、沓掛は首を横に振った。

「ダメなんだ。作画も荒れてきたし、スランプかも」

「確かに、前半に比べて、後半は絵がイマイチですね」

 下手ではないのだが、後半になるにつれて絵に勢いがなくなっている。さやかの指摘に、漫画を見返した冬枝たちも「本当だ」と頷いた。

「それにさ、沓掛ちゃんの描く女の子、中身はイイ女なのに、見た目が可愛くないよね」

 土井に言われ、沓掛が恥ずかしそうに肩を縮めた。

「そうなんです。自覚はあるんですけど、女の子を描くのがどうも苦手で」

「モデルでもいたほうがいいんじゃない?」

 土井と沓掛が、ちらりとさやかのほうを見たが、すぐに目を逸らした。

 変な沈黙に耐えられなくなった高根が、「バカ、土井!」と声を上げた。

「まっまま、漫画のモデルなんていやらしい真似、さやかさんにやややらせられるわけないだろ!?ああああ兄貴だって怒るはずだだだっ!」

「…なんでそんなにビビってるんですか、高根さん」

 冷ややかに突っ込みつつ、さやかにも分かってはいた。

 ――このヒロインのモデルには、僕じゃ不適格だ。

『麻修羅』のヒロインは主人公たちを翻弄するミステリアスな美女で、さやかでは色々な意味でイメージに合わない。

 ――ヒロインのルックスも含めて、絵とストーリーを磨き上げれば、この漫画はもっと面白くなると思うんだけどな。

 少し考えたさやかは、『麻修羅』の原稿を読み返している冬枝の肩を叩いた。

「冬枝さん。この漫画、『こまち』に置くことはできませんか?」

「ん?『こまち』に?」

 さやかは、冬枝が雀荘『こまち』を経営していることを沓掛に教えた。

「ああ、『こまち』なら俺も友達と行ったことがあるよ。まさか、ヤクザさんのやってるお店だとは知らなかったけど…」

 ヤクザさん、こと冬枝と沓掛に、さやかはこう提案した。

「まず、『麻修羅』の出来上がった分をコピーして、ホチキスで留めて本にしましょう。それを『こまち』で無料配布して、読者から感想とアドバイスを募集します」

「えっ、いいの?お店に置いてもらえるなんて、夢みたいだなあ」

 素直に喜ぶ沓掛に、さやかは更にアイディアを加えた。

「ついでに、アシスタントも募集します。沓掛さんが面接して、気に入った人がいれば採用してください」

「ええっ、アシスタント!?悪いよ、そんな」

 沓掛は、両手をぶんぶんと振った。どうやら、『麻修羅』は自分一人で描くつもりだったらしい。

 黄昏に沈む窓ガラスに、沓掛の寂しげな横顔が映った。

「昔は、友達と協力して原稿をやったりもしてたんだけどさ…みんな、就職や進学で漫画から離れちゃって。アシスタントを頼もうにも、俺も自分の生活で手いっぱいで、雇うお金なんかないし」

 そこで、さやかはすかさず「お金なら、冬枝さんが出します」と言った。

「もちろん、印刷代も冬枝さんが負担します。沓掛さんは、漫画の続きを描くことに専念していいんですよ」

「えっ!?そこまで面倒見てもらって、いいの!?」

「ええ」

 話が勝手に進んで行くので、冬枝は「おい、さやか」と口を挟んだ。

 ――『こまち』に本を置くのはまだしも、金を出すのはちょっと…。

 だが、冬枝が文句を言おうとした次の瞬間――さやかの瞳が、雀士の鋭い目つきに変わった。

「その代わり、完成した『麻修羅』は、白虎組で販売させてもらいます」

「えっ……」

 思わぬさやかの発言に、沓掛は絶句した。

 自分の漫画を、ヤクザに売られる――。

 漫画家志望の沓掛には、震えるような宣告に違いない。

 そして、それが夢のある若者にとって甘美な誘惑であることも、さやかは織り込み済みだった。

「白虎組の息がかかった印刷所を使いますから、商業漫画並みの品質で本にできますよ。カラー原稿もOKです」

「か、カラーも!?」

「ええ。本の仕様は、用紙をはじめ、全て沓掛さんの望み通りにできます」

 コピー本を作るのがせいぜいの貧乏な若者にとって、さやかの提案は胸躍る話だろう。

 さやかは、沓掛のイメージを誘うように手を広げた。

「出来上がった『麻修羅』は白虎組のシマにある雀荘や飲食店、書店などで販売することが可能です。きっと、たくさんの人に読んでもらえることでしょう」

「俺の本が、色んなお店に並ぶ…」

「更に、白虎組は『麻修羅』の著作権に一切関与しません。沓掛さんが今後、『麻修羅』をまた同人誌にして販売しても、或いは改作して商業雑誌に応募しても、それは沓掛さんの自由。作品は、あくまで沓掛さんのものです」

 最後の提案は特に、将来、漫画で食っていこうという沓掛の胸に響いただろう。

 さやかの瞳をじっと見つめ、沓掛は、決心したように頭を下げた。

「…分かりました。よろしくお願いします」

「ご快諾いただき、ありがとうございます。原稿料と印税はしっかりお支払いしますから、安心して頑張ってくださいね」

「はい!」

 あっという間に沓掛を丸め込んださやかに、横で見ていた冬枝は呆気に取られてしまった。

 ――こいつ、商売上手だな……。

 或いは、さやかはただ単に『麻修羅』の続きを早く読みたいだけなのか。ぽかんとする冬枝をよそに、さやかは早速、コピー本について沓掛と打ち合わせを始めていた。



「それにしても沓掛ちゃん、よくさやかさんの話をすぐに受けてくれましたね」

 夜、白虎組と親しい企業のオフィスにあるコピー機で沓掛の原稿をコピーしながら、土井がしみじみと言った。

 高根と共にコピーされた原稿の点検をしながら、さやかは人差し指を立てた。

「漫画家には、モチベーションが必要なんです」

「餅?」

「ベーション?」

 首を傾げる高根と土井に、さやかは説明した。

「組事務所の前で会った時、沓掛さんは『雑誌の新人賞に応募する漫画を描いている』と言っていました。恐らく、それが『麻修羅』です」

「ふむふむ」

「つまり、『麻修羅』には新人賞の応募受付最終日――締め切りがある。だから、ストーリーが未完成でも、原稿を描かなきゃいけなかったんです」

「そっか、見切り発車したってわけかあ」

 土井が言い、さやかは頷いた。

「締め切りまでに、何としても『麻修羅』を完成させなければならない。しかし、その焦りがストレスになって、余計にストーリーが思いつかなくなる。沓掛さんは、この悪循環に陥っていました」

「さやかさん、そこまで見抜いてたんですか」

 驚く高根に、さやかは続けて言った。

「そこで、まずは白虎組で豪華製本・販売という未来のご褒美を沓掛さんに持ちかけます。更に、このコピー本で読者の率直な意見とアシスタントを募集し、『麻修羅』をより洗練させます。沓掛さんは作品の完成度が上がり、白虎組は面白い漫画で一儲けできる。ウィンウィンです」

「すげえ!さやかさん、やり手っスね!」

 土井ははしゃいだ声を上げたものの、冬枝は未だに半信半疑といった気持ちだった。

「そりゃ、確かに漫画は面白かったけどよ。あいつ、ホントに続きを描けるのか?」

 コピーした原稿をホチキスで留めながらも、つい目に入ったシーンを読み込んでしまう。そのぐらい『麻修羅』が面白いのは事実だが、沓掛のスランプも深刻そうだ。

 冬枝の疑問に対し、さやかはしれっと言ってのけた。

「沓掛さんが続きを思いつかなかったら、それはそれでいいじゃないですか。『こまち』で面白い本が配れた、ってだけで。話題作りにもなりますし」

「良くねえよ、ここのコピー代だけで結構かかってるんだぞ!それに、この文言!」

 冬枝は、さやかがコピー版『麻修羅』に入れた最後のページを開いて見せた。

 お便り募集とアシスタント募集に続いて、大きく『予告!!』と書かれている。

「『この漫画の完全版は、近日販売予定!続きを読みたい方は雀荘『こまち』まで!』って…これ、完全版が作られるのが前提だろ?」

「そうですね」

「完全版が作られなかったら、詐欺になるじゃねえか!」

 冬枝の懸念を、さやかはふっと笑い飛ばした。

「ヤクザにズルもクソもないんでしょう?いいじゃないですか、詐欺になっても。どうせ『こまち』の電話番は中尾さんですから、冬枝さんは損しませんよ」

「それもそうだ。じゃ、いいか」

 アハハと笑い合うさやかと冬枝に、土井と高根がひそひそと声を潜めた。

「中尾、気の毒~」

「いいじゃないか、兄貴が納得したんだから。それに、この漫画が手に取ってもらえるかどうか、まだ分からないし」

「確かに。『こまち』の客、オッサンばっかだもんね。漫画なんか読まないか」

 そんな話をしながら、冬枝たちは夜通し、コピー本の制作に追われたのだった。



 次の日の夕方、雀荘『こまち』は異様な光景が展開されていた。

「………」

「………」

 いつもなら牌を打つ音が響く雀卓も、今日は紫煙が揺れるばかりだ。客たちが手にしているのは、牌ではなく『麻修羅』のコピー本だった。

「ここさ、このシーンの表情が良くって…」

「どれどれ?」

 客たちは麻雀そっちのけで、『麻修羅』を読んだり感想を言い合ったりしている。

 常連客の一人――ピンクの革ジャンが一際目を引く男、春野嵐がタバコをくわえて呟いた。

「今日の『こまち』は、まるで図書館みたいだな。さやか、司書さんとか似合いそうじゃねえか?」

「どうも」

 そう言う嵐の手にも、しっかり『麻修羅』のコピー本が握られている。さやかは『麻修羅』の予想以上の人気に驚いていた。

 ――まさか、コピー本の段階でこんなに人気になるなんて…。

 ちょっと複雑な気分になってしまうのは、客たちがすっかり『麻修羅』にのめり込んでしまい、さやかの麻雀相手がいないせいだ。目の前にいる嵐だって、ついさっきまでこちらの声も耳に入らないぐらい『麻修羅』を熟読していた。

「はい、『こまち』です。はい、漫画の件ですね。完成版は鋭意製作中でして、発売日は未定となっております」

 高根たちの予想通り、気の毒なのは『こまち』のマスター・中尾だった。

『麻修羅』を読んだ客から続きはまだか、完成版はいつ出るんだ、とひっきりなしに電話をかけられ、今日は受話器を握りっぱなしだ。

 そんな中尾を見やって、嵐は頬杖をついた。

「ヤクザが漫画で金儲けねえ。どうせ、黒幕はさやかだろ」

「人聞きが悪いですよ、嵐さん。ご覧の通り、この本は無料でお客さんに配ってます。金儲けなんてとんでもない」

 無料ということもあり、『こまち』に置いた20部のコピー本は、あっという間に底を尽きた。それでも足りず、客同士で回し読みしているほどだ。

 さやかのわざとらしい物言いに、嵐は眉をひそめた。

「ふーん。俺はてっきり、この『完成版』とやらを今度のサキタバンドシティフェスタで売りさばくのかと思ってたけど」

「サキタバンドシティフェスタ?」

 首を傾げたさやかに、嵐は壁に貼られているポスターを指さした。

 サキタバンドシティフェスタ’86――。

 大きなタイトルや日付、会場と共に列記された参加バンドの名前を見て、さやかは目を見開いた。

「わあ、有名バンドがいっぱい来るじゃないですか!ええっ、それでチケット代がこんなに安いんですか?田舎ってすごいですね!」

「さやか、お前、開催側のサクラ?最後のはちょっと失礼だけど」

 彩北でこんなイベントがあるなんて、さやかは初めて知った。『アクア・ドラゴン』や源清司の出現に気を取られて、周りを見る余裕がなかったせいだろうか。

 バンドフェスタは、さやかも興味があるバンドが大勢出演予定になっている。さやかは、口元に指を当てて考えた。

「うーん、当日券、まだ残ってるかなあ。電話してみようかな」

「おいおい、トボけるなよ~麻雀小町」

「はい?」

 嵐はにやにやと頬を持ち上げ、意味ありげに指を回した。

「この手のチケットはさ、大体ヤクザが裏で転売してるって相場が決まってんの。さやかも、だーい好きなパパにおねだりすりゃ、チケットぐらいもらえるんじゃねえの?」

「なるほど、その手がありましたか。ありがとうございます、嵐さん」

 早速、冬枝に連絡を取ろうと立ち上がったさやかの背に、嵐は慌てて手を伸ばした。

「違ぇよ、ダフ屋からチケットなんか買っちゃいけません、って言ってんの!お前、本気でこのイベントに関わってねえんだな」

 嵐の困り顔を見て、さやかはストンと椅子に腰を下ろした。

「ええ。僕、麻雀に関係ない冬枝さんのお仕事は知らないので」

「まあ、なんて割り切ったお付き合いだこと。じゃあ教えてやるけど、さやかは『サキタバンドシティフェスタ』には行かないほうがいいぜ」

「なんでですか?」

 さやかは一瞬、きょとんとしてから、ハッと全てを悟ったように顔を強張らせた。

「ひどい!僕がヤクザの代打ちだからって、バンドのコンサートに行く権利もないって言うんですか!?差別です!」

「そうじゃなくて、ほれ、ポスターのこの一番下んとこ見てけれ」

 嵐はどうどうとさやかを宥め、2人並んで『サキタバンドシティフェスタ’86』のポスターの前に立った。

「この主催の『万崖ワールド』って会社、知ってるか」

「いえ。彩北の企業じゃないんですね」

 万崖は彩北より南、東北の首都と呼ばれる県だ。さやかの元同級生、小池が進学したのも万崖の大学だ。

 元警察官らしく、嵐は事情通だった。

「万崖は青龍会系の組が治めてる土地だ。この『万崖ワールド』も表向きはイベント会社だが、牛耳ってるのは青龍会傘下のヤクザだ」

「それって…」

 愚連隊『アクア・ドラゴン』と同様、この『サキタバンドシティフェスタ』も、青龍会が彩北に侵攻している証拠なのか。

 嵐は肩をすくめた。

「つっても、事情はもっと複雑さ。色んな芸能事務所の思惑もあるし、それぞれの芸能事務所にまた、色んなヤクザのバックがついてる。こうして彩北での開催が決まったってことは、白虎組も承知の上ってことだろ。金の流れ以外は、よくある普通のイベントとして終わるだろうよ」

「じゃあ、僕が行っても問題ありませんね」

 嵐は「バカ!」と大声を上げた。

「おバカ小町!お前、『アクア・ドラゴン』に顔割れてるんだろ?青龍会が裏で糸引いてるお祭りにノコノコ出向いて行くなんて、新手の人身御供になっちゃうぞ!」

「なんですか、新手の人身御供って」

 ぎゃあぎゃあ反対する嵐を軽くいなし、さやかは『こまち』を後にした。

 ――とりあえず、フェスタに行けないか、冬枝さんに相談してみよう。

 その時のさやかはまだ、冬枝が『麻修羅』のせいでそれどころではなくなったことを知らなかった。



 ――さやかの思いつきとはいえ、一応、榊原さんに話は通しておかねえとな。

 素人が描いた漫画で一儲け、なんてバカバカしい話とは思ったものの、白虎組のシマで金儲けをする以上、組の許可は取らなければならない。

 冬枝は、組事務所に行って榊原に『麻修羅』の件を報告した。

 冬枝からコピー本を受け取った榊原は、ぱらぱらとページをめくった。

「へえ、結構よく出来てるじゃないか。これで商売しようとは、さやかは面白いことを考えるな」

「がめついだけですよ、あいつは。漫画が完成するかは正直、あの沓掛ってガキ次第なんで、このコピー本どまりになる可能性が高いです。そのほうが、組にも迷惑はかけませんし」

 今の段階では『こまち』にコピー本を無料で置いているだけだ。そもそもタバコをふかして一日中、雀卓と睨めっこしている客たちが、素人の書いた漫画冊子を手に取るとは思えない。

 ――さやかにゃ悪いが、ま、あの沓掛ってガキもこれで気は済んだだろ。

 冬枝はまだ『こまち』に置いたコピー本20部がすっかり空になったことを知らなかった。

 コピー本をめくりながら、榊原は快活な笑みを浮かべた。

「いいじゃねえか。漫画家のタマゴを応援するなんて、夢のある話だ」

「はあ。そうですかね」

「最近、浦和のこととか色々あっただろ?こういう明るい話題があってもいいさ」

 浦和の名前が出た時、冬枝は榊原の表情に翳りを見た。

 先日、白虎組の支援者だった平磯を殺した犯人・浦和を『アクア・ドラゴン』にまんまと奪われた。平磯と昵懇だった榊原にとっても、痛恨の出来事だったはずだ。

 冬枝はふと、榊原が事務所に自動卓を買った理由を悟った。

 ――そうか。榊原さんは、組を活気づけようとしてくれてるんだな。

 これからいよいよ夏本番、堅気もヤクザも一番盛り上がる時期がやって来る。白虎組も、『アクア・ドラゴン』に負けてはいられない。

 ちょっとした景気づけだと思えば、冬枝も『麻修羅』の件は悪くないような気がしてきた。

「…そうですね。若いのの考えることはよく分かりませんが、上手くいきゃいいですね」

「ああ。そうだ、若いのといえば」

 榊原はポン、と手を叩いた。

「今度の『サキタバンドシティフェスタ』、冬枝も頼んだぞ」

「はい。弟分たちもいますし、問題ありません」

 じゃ、俺はこれで、と執務室を辞そうとした冬枝を、榊原が呼び止めた。

「あっ、冬枝」

「はい?」

「この漫画、俺も読んでいいか?」

 意外な申し出に冬枝はちょっと目を丸くしたが、断る理由はなかった。

 ――いいか、別にコピー本の一冊ぐらい。

「どうぞ。好きにしていいですよ」

「ありがとう。じゃ、よろしく」

 そうして、冬枝が組事務所を去った後――。

 入れ違いになるように、白虎組若頭補佐・霜田がぷんぷんと頭から湯気を出しながら廊下を歩いてきた。

「まったく、事務所に麻雀卓を2台も置くなどと、若頭も金遣いが荒いんですから…!しかも、あんな小娘の注文を聞いてやるなんてっ!」

 霜田の金切り声に呼応するように、背広姿の業者がぞろぞろと娯楽室から出てきた。

「すみませーん。卓の調整が終わったので、ハンコとサインいただけますか?」

「はい!」

 明細書にポンとハンコを押しながら、霜田は苦り切った。

 ――麻雀小町め、若頭が買った自動卓の動作に文句をつけるとは、生意気な!

 先日、響子たちと共に自動卓を見たさやかは、実際に卓を動かしてみて、自動洗牌や点数表示など、動作を隅々まで確認した。そして――麻雀にそこまで興味のない霜田には、全く理解できないような――事細かな調整を業者に要求したという。

 ――やれやれ、『アクア・ドラゴン』が街で大暴れしているというのに、我が組ときたら呑気なものです。

 霜田がサインとハンコを終えて明細を渡すと、業者から「あの…」と照れ臭そうに言われた。

「何か?」

「この部屋にあった漫画、もらってもいいですか?」

「漫画?」

 そういえば、冬枝とさやかが何やら共謀し、素人に漫画を描かせて商売する、というような話を霜田も聞かされていた。第一段階としてコピー用紙に印刷した冊子を配るそうだが、そのコピー本を冬枝が事務所にも置いていったのだ。

 娯楽室に置く分にはいいだろう、と霜田も許可したのだが、自動卓の修理をしていた業者がたまたま目をつけたらしい。

 霜田はフンとせせら笑った。

「そんなゴミで良ければ、好きにしなさい」

「ゴミだなんてとんでもない!この漫画、すごく面白かったです。作者さんにもよろしく伝えてください!」

「はぁ?」

 鼻白む霜田を置いて、業者たちはキャッキャとはしゃぎながら帰って行った。

 ――何なんですか、あれは…。

 そこに、執務室から榊原が出てきた。

「霜田。ちょっといいか」

「若頭。自動卓の調整なら、今終わったところですよ」

「いや、それより…」

 榊原は、真剣な顔つきでコピー本を掲げた。

「これ、お前も読んでみてくれないか?」



 ――今頃、冬枝さんは組事務所にいるはず…。

 雀荘『こまち』を出て、白虎組事務所に向かったさやかは、近くのビルの路地裏で話している冬枝の背中を見つけた。

「冬枝さ……」

 声をかけようとしたさやかは、冬枝の向かいにいるのが同じ白虎組の組員たちだと気付いて、ハッとした。

 男たちは一様に深刻な表情をしていて、冬枝の横顔も険しい。ビルの影に覆われた路地裏は、そこだけひんやりと温度が下がっているようだった。

 ――なんか、ものものしい雰囲気…。

 さやかは、見つからないように店の看板に身を隠しながらそっと様子をうかがった。

「冬枝さん。例のブツ、まだあるんだろ」

 冬枝の正面にいる若い組員が言い、両隣にいた組員たちも同調した。

「そうだ。まさか、あれで全部ってわけじゃないでしょう」

「俺たちにも分けてくださいよ。仲間じゃないですか」

「………」

 冬枝が返事をしないので、組員たちは焦り始めた。

「た、タダで寄越せとは言いません。金なら出します」

「頼みますよ、冬枝さん。俺たち、あれがないと…」

 組員たちが懇願するのを見て、さやかは悪い予感がした。

 ――まさか、これってヤバい取り引き現場っ…!?

 しかし、白虎組では薬物はご法度のはずだ。武器の類にしても、冬枝にそんなものを流すようなルートがあるとは思えない。

 そこまで考えて、さやかはいや、と自分の推測を否定した。

 ――僕は、冬枝さんのことを何も知らない。

 源清司が『ミナ』という謎の美女として出現した時、あんなにも動揺してしまったのも、さやかが冬枝のことをほとんど知らないせいだ。

 源と白虎組組長の親衛隊『人斬り部隊』として暗躍した時代も含め、冬枝にはさやかの知らない過去がいくらでもある。その中には、さやかが知りたくないような冬枝の一面も含まれているかもしれない。

 さやかは、無意識のうちに手をぎゅっと握り締めていた。

 ――だけど、僕は知りたい。冬枝さんのことを…。

 冬枝への感情を自覚してしまった今、その気持ちから目を逸らすことなんて出来ない。さやかは、冬枝の一挙手一投足も見逃すまいと、暗い路地裏に目を凝らした。

 組員たちは、ガバッと冬枝に頭を下げた。

「お願いします!俺たちにも『麻修羅』のコピー本をください!!」

「ええっ!?」

 さやかは、思わず驚きの声を上げてしまった。

 ――この人たちも、『麻修羅』のファンなのっ!?

 さやかがあんぐりと口を開けているのも知らず、組員たちは目に涙すら浮かべて説明した。

「組当番で事務所に行ったら、娯楽室に漫画があって…面白いなーってみんなで読んでたら、『自動卓の調整をしに業者が来るから出て行きなさい!』って、補佐に追い出されて…」

「それで業者が帰ったって言うから俺たち、漫画の続きを読みに娯楽室に行ったら、漫画がなくなってたんです。補佐に聞いたら、『業者が欲しいというからくれてやった』っておっしゃるんですよ!?ひどいと思いませんか!?」

「………」

 さやかは、冬枝の沈黙の理由を悟った。『麻修羅』のあまりの人気ぶりに、反応に困っているのだろう。

 ――『こまち』の分の20部も、あっという間になくなっちゃったもんなぁ…。

 こんなことなら100部ぐらい刷っておけば良かったか、とちょっぴり後悔しつつ、さやかは騒ぎの『黒幕』として、男たちの間に割って入った。

「あのー…」

「さやか。お前、こんなところで何やってんだ」

 冬枝に言われ、さやかは苦笑した。

「すみません。話を立ち聞きさせてもらいました」

「夏目さん!お疲れ様です」

 さやかが組きっての代打ちだと知っている組員たちが、ぺこりとお辞儀した。

 さやかは彼らに手を振って、にこやかに言った。

「『麻修羅』を読んでくれて、ありがとうございます。コピー本はすぐに増刷して事務所にお持ちするので、少し待っていてもらえませんか」

「本当ですか!」

「ありがとうございます!」

 やったあ、とはしゃぎながら帰って行く組員たちを見送り、冬枝は呆然としていた。

「まさか、漫画ぐらいで大の大人が頭下げるとは…。何かの冗談かと思っちまったぜ」

「冬枝さん、それで無言だったんですか」

 さやかが『こまち』に置いたコピー本20部が空になったことを告げると、冬枝はさらに驚いた。

「マジかよ。素人が描いた漫画をコピーしてホチキス留めしただけの本だぞ。わざわざ客が手に取って読むような代物か?」

「冬枝さん、それが同人誌の世界ですよ」

 さやかにも、『麻修羅』を欲しがる読者の気持ちは分かる。『麻修羅』には、手元に置いて何度も読み返したくなるような磁力があるのだ。

「ひえ~っ、ひえ~っ、兄貴ぃ~っ!」

「兄貴、大変です!」

 冬枝が組員たちに呼び出されている間、近くの喫茶店で休憩していた土井と高根が血相を変えて路地裏に飛び込んできた。

「なんだ、お前ら。何があった」

「わ、若頭が…」

「榊原さんが?」

 榊原なら、ついさっき事務所で顔を合わせたばかりだ。冬枝は、何か言い忘れたことでもあったのだろうかと首を傾げた。

 榊原は、自身の側近を通して、高根たちに伝言していったという。高根が、緊張した面持ちで告げた。

「若頭が、『麻修羅』の続きはいつ出るんだ、と」

「えっ!?榊原さんもハマったのか、あれに」

「はい。完成したらぜひ読ませてほしい、とおっしゃっていました」

 ついに、『麻修羅』は白虎組の若頭までファンにしてしまった。思わず、冬枝はさやかと顔を見合わせてしまった。

 土井が「若頭だけじゃないっスよ」と付け加えた。

「補佐は『万が一にも若頭のお目汚しになるような内容だったらいけませんから、続きが出来たらまず私に見せなさい!』とおっしゃってたそうです」

 霜田の回りくどい要求に、冬枝はがっくりと肩の力が抜けた。

「…素直じゃねえな、霜田さんは」

「榊原さんだけじゃなくて、霜田さんまで『麻修羅』を読んでくれたんですね…」

 何やら、事が大きくなってきたのを感じる。さやかはちょっと胸騒ぎがした。

「冬枝さん、沓掛さんの様子を見に行きましょう」

「ああ?漫画なら、まだ出来てねえだろ」

「『こまち』や冬枝さんのところに、こんなにラブコールが寄せられるぐらいです。作者である沓掛さんが無事だといいんですが」

 ファンレターやアシスタント募集のため、沓掛の住所は『麻修羅』のコピー本に載せてあった。『麻修羅』の続きを読みたい読者が、作者である沓掛の元に突撃する可能性がある。

 さやかたちは早速、沓掛のアパートに向かった。



 さやかの心配をよそに、沓掛は元気はつらつとしていた。

「いやあ、朝から『麻修羅を読みました!』『早く続きが読みたいです!』って電話がいっぱい来てさ。びっくりしたけど、本当に嬉しいよ」

 4人分のお茶をテーブルに並べ、沓掛は自身も畳に座った。何やら、昨日よりも肌ツヤが良いようにすら見える。

 沓掛の無邪気な反応に拍子抜けしつつ、一応、さやかは聞いておいた。

「大丈夫でしたか?変なファンに来られたりとか、嫌がらせのようなことは…」

「ううん、全然。中にはすっごく詳しく感想を言ってくれる熱心な人もいてさ、電話してて泣きそうになっちゃったぐらい。読んでくれた人全員にお礼が言いたいよ」

 そこで沓掛は、さやかたち4人に向かって改めて姿勢を正した。

「本当に、ありがとうございます。夏目さんと冬枝さんが俺の漫画を見てくれたから、たった一日でこんなにたくさんの人に『麻修羅』を読んでもらえました」

「沓掛さん…」

 コピー本を作ったのは正解だった、とさやかは思った。読者から受けた熱気は、確実に作者である沓掛のエネルギーになっている。

 ――この調子でいけば、完成版『麻修羅』はベストセラーになる!

 さやかは素早く脳内コンピューターを稼働させ、解を叩き出した。

「高根さん、土井さん。しばらくこのアパートに泊まって、沓掛さんのボディーガードをしてもらえませんか」

「えっ?自分たちがですか」

「このアパート、男3人が泊まるには狭いっスよ」

 戸惑う高根と土井に、さやかは滔々と説明した。

「じゃあ、お2人の交代制でも構いません。今は大丈夫でも、いずれ『麻修羅』の評判を聞きつけて、良からぬ輩が寄ってくる可能性は大いにあります。そういう人たちを追い払って、沓掛さんが安全に原稿を完成させられるように守ってあげてください」

「いいですよね?冬枝さん」とさやかが確認すると、冬枝は「あ、ああ」と頷いた。

 ――こいつ、本当に頭の回転が速ぇな…。

 冬枝を圧倒するスピードで、さやかは今後の予定を述べた。

「僕と冬枝さんは、追加分のコピー本を作りましょう。そうですね…ざっと100部ほど」

「100ぅ!?20部作るのも大変だったんだぞ!」

 それにコピー代、と指折り数える冬枝の肩を、さやかはポンと叩いた。

「冬枝さん。確かに大変かもしれませんけど、これは投資です」

「ああ?」

「あのコピー本を読んだ人は、確実に、ほぼ100%、完成版『麻修羅』が欲しくなります。たとえ、完成版『麻修羅』が少々値の張る代物だったとしても」

「お前……」

 さやかの悪い笑みに、冬枝が息を呑んだ。

「コピー代なんて、安いもんですよ。完成版『麻修羅』を発売したあかつきには、100倍になって冬枝さんのお財布に戻ってくるんですから」

 100倍――。さやかに言われるがままに頭の中でソロバンを弾いた冬枝は、ふむ、と顎に手を添えた。

「悪くねえな」

「でしょう?『こまち』のお客さんも、白虎組の皆さんもコピー本を待ってます。頑張りましょう、冬枝さん!」

「おう」

 拳を上げる冬枝とさやかの横で、当の『麻修羅』の作者である沓掛は一人、何とも言えない表情で茶を飲んでいた。



 そういうわけで、今夜も冬枝とさやかは、近所の会社のコピー機を借りて『麻修羅』のコピー本作りに励むことになった。

 弟分たちには沓掛の護衛をさせているため、今夜は2人きりだ。さやかはコピー、冬枝が製本、という形で手分けして作業することにした。

 コピー機の音だけが響く夜のオフィスで、さやかはようやく本来の用事を思い出した。

「あっ。僕、冬枝さんに相談があったんでした」

「なんだよ、藪から棒に」

 さやかは、もうすぐ開催される『サキタバンドシティフェスタ’86』の話をした。

「冬枝さんならチケットを持ってるんじゃないか、なんて嵐さんが言ってたんですけど。…冬枝さん?」

「………」

 ホチキス留めの手を止め、冬枝は項垂れている。

 どうしたのだろう、とさやかが顔を覗き込むと、冬枝はパンと己の額を叩いた。

「さいっ…。そうだよな、『こまち』にポスター貼ってたもんな。お前が気付かないわけねえよな」

「あの…冬枝さん?」

 もしかして、嵐のみならず、冬枝もさやかに『サキタバンドシティフェスタ』に行って欲しくないのだろうか。

 戸惑うさやかに、冬枝は深い深い溜め息を吐いた。

「はぁ~…」

「大丈夫ですか、冬枝さん」

「…いや、さやかは吉川とか好きだしよ、こういう若者向けのイベントも行きたがるだろうな、とは思ってたんだ。俺は全然知らねえが、けっこう有名なバンドが来るっていうし」

 けっこう、どころかかなり有名なバンドばかりが来るんだけど、とさやかは目をパチクリさせたが、冬枝はこの手の方向にはあまり興味がないらしい。

 冬枝は、顔を覆った指の隙間から、ちらりとさやかを見た。

「チケット、確かに持ってるぜ。欲しけりゃける」

「本当ですか?あの、僕が行ってもいいんでしょうか…」

 表向きはただのロックコンサートだが、主催側には青龍会系の組が関わっている。『アクア・ドラゴン』が街を跳梁跋扈しているのも事実だ。

 冬枝は、力なく手をひらひら振った。

「いい、いい。行きたきゃ行けよ」

「でも……」

 冬枝が消沈しているように見えて、さやかはどうにも気になってしまう。

 ――こんなことで、冬枝さんを心配させたくない。

 さやかが「わかりました」と言うと、冬枝が「えっ?」と顔を上げた。

 さやかは悲しげに笑いながら――だが、どこかすっきりとした表情で言った。

「僕、自分の立場は分かってます。また『アクア・ドラゴン』にさらわれて、爆死しかけるなんて嫌ですし…『サキタバンドシティフェスタ』に行くのは、遠慮しておきます」

「さやか…」

 さやかは、冬枝を安心させるようにニッコリ笑顔を浮かべてみせた。

「新手の人身御供になっちゃいけませんからね。フフッ」

「なんだよ、新手の人身御供って」

 と突っ込んでから、冬枝は首を横に振った。

「違ぇよ。そういう理由でさやかに来て欲しくないわけじゃねえんだ」

「じゃあ、どうして…?」

 首を傾げるさやかに、冬枝はそっぽを向きながらこう答えた。

「恥ずかしいじゃねえか」

「恥ずかしい…?何がですか?」

 まだピンとこないさやかに、冬枝がじれったそうに声を上げた。

「ああもう、マンガで商売やる話はあんなにトントン拍子で進めたくせに、なんで肝心なところは察しが悪ぃんだよ。気の利かねえ女だな」

「むっ」

 さやかには、どうして冬枝がそんな反応をするのかさっぱり見当がつかない。冬枝につられて、さやかもちょっとイライラしてきた。

「ちゃんと言葉にしてくれなきゃ分かりませんよ。僕だってエスパーじゃありませんから」

「お前、麻雀に関係ねえ話はホントに興味ねえんだな」

「なんですって?」

 さやかが目尻を吊り上げると、冬枝はついに真相を打ち明けた。

「このサキタ何とかかんとかってコンサートで、チケット売るんだよ。正規の窓口で買い損ねた連中に声かけて、裏でこっそり高額で売りつけるんだ」

「はあ。転売ですか」

 それの何が恥ずかしいのだろう、と、ヤクザの代打ち生活ですっかり倫理観が麻痺したさやかは思った。

 勿論、チケットの転売がよろしくないのは理解しているが、さやかがいた東京でもよくあった話だ。さやか自身、コンサート会場でチケットを売っている怪しいおじさんを何度か見かけたことがある。

 ――白虎組にとってはビジネスチャンスだろうし、別に気にしなくたっていいのに。

 だが、冬枝はかなり気にしている様子で――さやかの顔も直視できないようだった。

「こんなみみっちいチンピラ商売してるところ、お前に見せたくねえんだよ。分かんねえのか」

「冬枝さん…」

 さやかはようやく、冬枝の言わんとするところを理解して――ほんのり、胸が温かくなった。

 ――冬枝さん、僕の目を気にしてくれてるんだ。

 ただ単に見栄っ張りとも言えるが、さやかはそんな冬枝が愛おしくなってしまった。

「冬枝さんがダフ屋してたって、僕はちっとも気にしませんよ」

「お前な…。それもどうかと思うぞ」

「良かったら、僕もお手伝いします。僕みたいな若い女がサクラになれば、他のお客さんも安心して冬枝さんからチケットを買うでしょうし」

 さらっと悪だくみをするさやかに、冬枝はちょっと背筋が寒くなった。

 ――俺が言うのもなんだが、さやか、すっかり悪い女になっちまって…。

 見た目は地味で清純そうな女なのに、中身はなかなかにしたたかだ。そうでなければ、白虎組の代打ちなど務まらないが。

 さやかはパンと手を叩いた。

「そうだ!『麻修羅』のコピー本、『サキタバンドシティフェスタ』でも配りましょう!当日は県外からもお客さんが来るでしょうし、『麻修羅』の人気を一気に拡大するチャンスです!」

「お前、よくそう悪知恵が回るな」

 冬枝が苦笑気味に言うと、さやかは舌を出して笑った。

「僕、冬枝さんと一緒に何かやるのが楽しいんです。だから、自然とアイディアが降ってくるんですよ」

 そう言うさやかの瞳が、真夜中だというのにキラキラと眩しく輝いて見えて――冬枝は、少し目を細めた。

 ――俺は、お前と一緒だとなんかビビっちまうけどな。

 チケットの転売をしているところを見られるのが恥ずかしくて、さやかには『サキタバンドシティフェスタ』のことをずっと隠していたなんて――当の本人は知らないだろう。

 さやかが若くて真面目な女だから、その目をつい気にしてしまったのか。それとも――この感情の正体は、冬枝にはまだ分からない。

 などと感慨に耽っていた冬枝の手元を見たさやかが「あーっ!」と声を上げた。

「冬枝さん、本を綴じる方向が左右逆です!」

「えっ!?さいっ、本当だ!」

 右で綴じなければいけないのに、左側でホチキスを留めてしまっていた。ものすごく読みづらい『麻修羅』をめくって、冬枝は肩を落とした。

「やり直しかよ、畜生…」

「ふふっ。一回、休憩しましょうか」

 僕も手伝いますから、と言って、さやかはテーブルに置いた缶コーヒーを手に取った。





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