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21話 ミステリアス・ビューティーの正体

第21話 ミステリアス・ビューティーの正体


「みな…ミナさんが、お前と2人で会いたいって言ってる」

 朝、冬枝は何故か、沈痛な面持ちをしてそう告げた。

「ミナさんが…?」

 さやかもまた、げっそりとやつれた顔で返事をした。

 ――今、ミナさんと会うのは気まずいな…。

 それというのも昨夜、さやかは悪夢にうなされたのである。

 夢の中では冬枝とミナがとても幸せそうに、2人だけの世界で笑い合っていて――目覚めた時、さやかはびっしょりと汗をかいていた。

 ――なんで、あんな夢を見ちゃったんだろう。

 というか、悪夢扱いするのも失礼な話だ。ミナはとても綺麗で素敵な女性だし、そんな人が冬枝と親しくしているのなら、祝福すべきではないか。

 それなのに、夢の中のさやかはそんな2人を見るのが辛く、『せせらぎ』で拭ったはずの涙が、後から後から溢れて止まらなかった。

 ――どうしちゃったんだろう、僕は。

 容姿端麗で完璧なミナに、麻雀でまで負けたことが、ショックだったのか。

 さやかの胸を抉っているのは、ミナの美貌や雀力ではなく、冬枝のほうだったのだとは――さやかは認めたくなかった。認めるのが怖かった。

 さやかが露骨に顔を曇らせたのを見て、冬枝が「いや、いいんだ」と言った。

「今夜は鴉組との勝負があるし、お前だって暇じゃねえだろ。ミナさんには、俺のほうから断っとく」

 それを聞いて、さやかは反射的に「いえ。ミナさんに会います」と答えていた。

 冬枝がまたミナと会うことを、無意識に恐れたのかもしれない。

「いいんだぞ、無理しなくて。お前、みな…ミナさんのこと、ろくに知らねえだろ」

「大丈夫です。麻雀も強いし、とてもいい人でしたから」

「麻雀強けりゃいい人ってわけじゃねえだろ」

 冬枝は、さやかとミナが2人で会うことに、どうも気が進まないらしい。心なしか、目が泳いでいる。

 さやかはコーヒーを一口飲むと、思い切ってこう言った。

「…ミナさんは、冬枝さんの大切な人なんでしょう?」

「えっ?ああ、まあ…うん」

「でしたら、僕もぜひお話したいです」

 もしかしたら、ミナから冬枝の昔の話を聞けるかもしれない。コーヒーで冴えた頭が、そんな解を叩き出していた。

 冬枝は、心配そうにさやかの肩を掴んだ。

「暗くなる前に帰ってくるんだぞ」

「分かってますよ。大事な勝負に遅れたりしません」

「いや、そうじゃなくて…」

 冬枝は言葉を探すように言い澱んでから、「そうだ」と何かを思いついた。

「鉄板でも入れて行くか?腹に」

「…は?」

「まあ、殴られはしねえと思うけどよ…。とにかく、ヤバいと思ったらすぐに逃げるんだぞ。いいな」

「…?はい」

 とてもあのミナのことを言っているとは思えなかったが、冬枝が妙に真剣なので、さやかは大人しく頷いておいた。

 ――もしかして、ミナさんも極道関係の人なのかな。

 タクシーで『せせらぎ』に向かう道中、さやかはミナについて思いを馳せた。

 昨夜は終始、寡黙で穏やかだったが、ミナにはどこか峻厳さというか、覚悟を決めた凛々しさのようなものを感じた。それがきっと、迷いのない打牌に繋がっているのだろう。

 ヤクザ映画ではないが、裏社会には男顔負けの格闘をする女たちもいると聞く。さやかの身近なところで言えば、不良少女のマキもその部類に入るだろう。

 長袖のチャイナドレスと上着に隠れてはいたが、ミナは上背も肩幅も大きかった。ケンカとなったら、さやかに勝ち目はないだろう。

 ――やっぱり、鉄板でも入れてくれば良かったかな。

 尤も、あの優しいミナが自分にケンカを売るとは思えないし、ケンカを売られるような心当たりもない。

 ――まさか、冬枝さんに近付くなって言われるんじゃないだろうな。

 ミナが冬枝の恋人なら、さやかのような若い女が冬枝のそばにいるのは目障りだろう。冬枝があんな困った様子だったのも、ミナとさやかの板挟みにされたせいかもしれない。

 メロドラマの修羅場のように、正面切って攻撃されるなら、さやかだって応戦のしようがある。だが、あの美しいミナから穏やかに、天のお告げでも与えられるかのように懇々と「冬枝から離れろ」と諭されてしまったら、太刀打ちできる気がしない。

 そこまで考えて、さやかは弱気になりかけた自分を叱った。

 ――僕は、冬枝さんの代打ちだ。覚悟はもうできてる!

 ここでミナに気圧されているようでは、鴉組には勝てない。さやかは、決然としてバー『せせらぎ』の前に降り立った。

「おはようございます。夏目です」

 さやかが『CLOSE』の札が降りた扉を開けると、薄暗いカウンター席から、ミナがこちらを振り返った。

「おう。早いな」

 相変わらず、ミナはタバコを吸っているだけで様になる。組まれた脚も、すらりとして長い。

 さやかは店内に足を踏み入れると、真っ直ぐミナの前へと向かった。

「昨夜は、ご馳走様でした。パエリア、すごく美味しかったです」

「そうか。なら、また作る」

 さやかが気合を入れて来たのがばかばかしくなるくらい、2人きりで会うミナは優しい。表情こそ真顔のままだが、うっとりするほど艶のある声だ。

 さやかは、ミナと向き合う形でスツールに座った。

「ミナさん、お料理上手なんですね」

「普通。飯なんか、食ってくれる相手がいなきゃ作る甲斐もねえからな」

「冬枝さんのことですか」

 さやかは、やや食い気味にミナに迫った。

「………」

 ミナは何か言いたそうにこちらを見たが、ふっと目線を緩めた。

「かもな」

「や、やっぱりミナさんと冬枝さんって、そういうご関係なんですか」

「………」

 すると、ミナが微かに笑みを浮かべた。

 ぞっとするほど美しくて、さやかは一瞬、見惚れてしまいそうになる。

 フフ、というミナの小さな笑い声を聞いて、さやかはハッと我に返った。

「…すみません。いきなり、ぶしつけなことを聞いたりして」

「別にいい。何でも聞いてくれ」

 ミナは、何だか楽しそうに見える。余裕の差が悔しくて、さやかは質問攻めにすることにした。

「ミナさんって、年はおいくつなんですか?」

「冬枝の8歳上」

 ということは、ミナは51歳ということになる。目の前の美女はとてもそんな年齢には見えず、さやかはしげしげとミナを見つめてしまった。

「…最近まで、東京にいらしたそうですけど、ご出身はどちらで?」

「東京。こっちには昔、仕事の都合でいた」

 こちらの生まれで、父の仕事の都合で東京にいたさやかとは、正反対である。

 ミナの素性を掘り下げても、意味はない。さやかは、核心に迫ることにした。

「ご結婚はされてますか?」

「生憎、独り身だ」

「ミナさんの好みのタイプって、どんな人ですか?」

「今、目の前にいる女」

 ミナに真顔で言われて、さやかの胸が一瞬、ドキリと強く打った。

 ――からかわれてるだけだ!

 頬に熱がのぼり、さやかは慌ててパタパタと手で扇いだ。

「ふ、冬枝さんの、どんなところが好きですか?」

 玉砕覚悟ともいうべきさやかの問いだったが、ミナは美貌を微かに曇らせた。

「……お前を満足させるような答えを、何一つとして思いつかない」

「一言では言い表せないような、深い関係ってことですか?」

「できれば、そういうのはお前とがいい」

 冬枝との関係について、まともに答える気はないようだ。さやかは、角度を変えることにした。

「ミナさんは、極道の方ですか?」

「…ほう。そう見えるか」

 ミナは切れ長の目を瞬かせると、「なら、話が早い」と言った。

「え?」

「そこまで分かってるなら、もう何も隠すことはないな」

 ミナはタバコの煙をひとつ吐き、真っ直ぐにこちらを見つめた。

 射抜くような視線に、さやかは身動きが取れなくなった。

 気が付くと、さやかはカウンターテーブルの上に組み敷かれていた。

「えっ?あれっ?」

 いつの間に、自分はバーの天井を見上げる位置にいるのだろう。一瞬の出来事に、さやかはまるでついていけなかった。

 手首にはミナの手ががっしりと嵌まって、起き上がれそうにない。瞬く間に、勝負がついたも同然だった。

 ――本当に、ケンカが強いんだ…。

 などとさやかが感心している間に、ミナの顔がどんどん近付いてきた。

 ミナの眼差しは鋭い。なのに、底知れぬほど深くて、一度見つめたら目を逸らせなくなってしまう。

 ――これが、ガンくれる、ってやつ…?

 睨み合いというのは、こんなにも至近距離でやるものなのだろうか。今にも唇と唇が触れ合いそうで、さやかの心拍数が上がった。

「ミナ…さん?」

「………」

 組み敷かれたのだから、この後は右に左に、ボコボコに殴られるのだろうか。或いは蹴られるのかもしれないが、とにかく、今夜は鴉組との勝負があるので、顔は避けて欲しい、とさやかは思った。

「あの…」

「ん?」

「痛いこと、するんですか…?」

 ミナは、黙って口元に笑みを浮かべた。やはり、平手の一発ぐらいは食らうようだ。

「できれば、身体にしてもらえませんか…?お腹とか…」

 流石に、腫れ上がった顔の代打ちでは、白虎組のメンツに関わる。パンチでもキックでもいいが、ボディに入れて欲しい。

 ミナは「さやかがそう望むなら」と、耳元で囁いた。

 甘い声に導かれるように、さやかが瞼を閉じようとした――その時だった。

「ストップ、ストーップ!!」

 バンと扉を開けて入ってきたのは、冬枝だった。

「…冬枝さん?」

 さやかはまだ夢見心地で、冬枝の登場が現実のこととは思えなかった。

「ちっ」

 ミナが、小さく舌打ちをしたような気がした。

 冬枝はカウンターテーブルからさやかを引きずり下ろすと、頭をぐいっと下げさせた。

「いやー、すみませんね、みなっ…ミナさん!こいつ、ホントに世間知らずのガキで困りますよ、ハハハ」

 冬枝に頭をぶんぶん上下させられ、さやかは勢い余ってカウンターにおでこをぶつけた。

「いたっ」

「!さやか」

 ミナは冬枝の手を退けると、そっとさやかの顔を上げさせた。

「………」

「あの…ミナさん?」

 またもミナに見つめられて、さやかはぽーっとしてしまう。

 ――ミナさん、僕のこと心配してくれてるのかな。

 さやかの額をそっとなぞり、前髪から頬、顎へと、ミナの指先が触れる。

 流れるような動作だったせいか、ミナにいきなり抱き締められても、さやかは抵抗する気が起こらなかった。

 頭の中にピンク色のもやがかかって、思考がうまく働かない。

 ぎゅっ、と身が軋むような、力強い抱擁だった。鈴子の柔らかな胸に抱きしめられた時とは、まるで違う。

「あーっ!何やってんですか、あんたは!」

 冬枝は慌ててさやかを引き剥がすと、店の出入り口まで飛び退った。

 ミナが、形のいい眉を不服そうに寄せた。

「来なくていいって言っただろ」

「さやかをあんたと2人きりでなんて会わせられますか!朝っぱらから何考えてんですか、まったく!」

 冬枝はさやかをしっかと抱き締めると、「今夜は大事な勝負があるんです。さやかに何かあっちゃ敵わねえ」と言った。

「勝負か。『こまち』でやるのか?」

「ええ、そうですよ」

 冬枝は投げやりに答えると「もう話は済んだでしょう。帰ります」と言って、さやかの腕を引っ張って『せせらぎ』を後にした。

 ――僕、何しに来たんだっけ。

 さやかは、未だに頭がふわふわしていた。意識が、タンポポの綿毛に乗って今にも飛んでいってしまいそうだ。

「さやか。いつまでのぼせてやがる」

 冬枝にギリッと音がするほど手を強く握られて、さやかは痛みで目を覚ました。

「痛っ。痛いです、冬枝さん」

「ほー、そうかい、そりゃ良かったな。生きてる証拠だ」

「…怒ってるんですか?」

 さやかがミナに失礼を働いたから、冬枝も頭にきたのかもしれない。さやかは、自分の空回りを反省した。

「こんなことなら、ミナさんに一発もらっておけばよかったかな…」

 すると、冬枝が怖い顔をしてこちらを振り返った。

「さやか」

「は、はい」

「もうみなっ…ミナさんとは会うな。いいな」

「…はい」

 冬枝が本気で怒っているようだったので、さやかはうなだれた。

 ――何やってるんだろう、僕。

 その後は、無言で冬枝に手を引っ張られて歩いた。さやかは逃げるつもりなんてないのに、冬枝はずっとさやかの手を握り締めていた。

 雀荘『こまち』で冬枝と別れた後も、冬枝の手の感触がさやかの手に残っていた。



 その後は特に何をする気にもならず、さやかは『こまち』でだらだらと打っていた。

「嵐さん、来ませんね」

 常連客たちと打っていたさやかは、ふと、いつになく店内が静かなことに気付いた。

 さやかの対面にいる骨董商の加茂が「ああ」と答えた。

「嵐ちゃんなら、今日は交通教室に行ってるんじゃないかな」

「交通教室?」

「そこの小学校でやってるやつだよ。元おまわりさんだからって、子供に交通ルールを教える手伝いをしてるみたい。呼ばれてもいないのに」

 嵐は、地域の行事や子供の交通指導に、積極的に参加しているのだという。

「スポーツ大会とかさ、嵐ちゃんが出ると目立つよ。嵐ちゃん、運動神経抜群だから」

「へえ」

 普段は『こまち』で昼間っからさやかと打ったり減らず口を叩いたりしているくせに、変なところで健全な男だ。これでは、浪人したうえにヤクザの代打ちになったさやかのほうが、よほど不健全なように思えてくる。

 ――なんか中途半端だな、僕って。

 冬枝のような極道でもなく、嵐のように豪放磊落に我が道を行っているわけでもない。冬枝とミナの関係一つに翻弄されている自分の弱さが、さやかはもどかしくなった。

「よう、麻雀小町」

「…朽木さん」

 朽木はアルマーニの袖からピカピカ光るロレックスを覗かせて、片手を上げた。

「相変わらず、麻雀三昧みてえだな。夜も打つってのに、飽きねえのかよ」

 もうすぐ昼だぞ、と言って据え置きのテレビを見上げた朽木は、顔をしかめた。

「何だよ、ここのテレビ。なんであんな気持ち悪い緑色なんだ」

「さあ。けっこう前に買ったみたいですから、ガタがきてるんじゃないですか」

「冬枝の野郎、いい年してケチ臭えな。買い替えたほうがいいって、お前からも言っておけ」

 嵐さんも同じことを言ってたな、と思い出して、さやかは苦笑した。

「ところで、僕にご用ですか」

「ああ。ちょうどいいから、メシでもおごってやるよ」

 お断りします、と言おうとしたが、今夜の勝負に関わることかもしれない、とさやかは思い直した。朽木は今夜の勝負の発起人・霜田の弟分だ。

 麻雀を中座するのは惜しかったが、いい潮かもしれなかった。今日は、何だか麻雀に身が入らない。

 さやかは加茂に挨拶すると、朽木と共に『こまち』を後にした。

「お前、霜田さんに気に入られたみたいだな。色仕掛けでもしたのか?」

 駅前ビル8階のレストラン『ペア』で、朽木はそう言ってニヤついた。

「別に…。女相手なら鴉組も油断すると考えて、僕を選んだだけでしょう」

 さやかはそう言ってコーヒーを口にしたが、朽木は「どうだかな」と言った。

「殺された平磯って金貸しは、霜田さんとは10年来の付き合いだった盟友だ。霜田さん、犯人のことは八つ裂きにしても足りないと思うぜ」

「そう…なんですか」

「そんな因縁の勝負に、てめえを指名したんだ。ただの策略ってだけじゃねえだろうよ」

 さやかは、組長に橋から飛び降りろと迫られた際、霜田が庇ってくれたことを思い出した。

 あの時、橋から飛び降りようとしたさやかを見て、霜田の中で何かが動いたのかもしれない。榊原に対する思いをさやかに洩らしたのが、その表れだろう。

「霜田さんや親分のことはうまく誤魔化したみたいだが…」

 そう言うと、朽木はじろりとこちらを窺うような眼を向けた。

「てめえ、秋津一家と何があった?」

「えっ?」

「とぼけるなよ。霜田さんから聞いたぜ。秋津一家との関係を疑われて、親分に身の潔白を証明しろって言われたんだろ?」

「………」

 さやかは目を伏せると「さあ」と言った。

「身に覚えがありません」

「俺は別にいいぜ、てめえが青龍会のスパイだろうが。むしろ、そのほうが都合がいい」

「僕は青龍会のスパイじゃありません」

 朽木は、笑みを浮かべてタバコの煙を吐いた。

「何だっていいさ、麻雀小町の正体が何者だろうと。てめえが冬枝に骨抜きにされてるってのは、確かみたいだからな」

「………!」

 頬に血が上り、さやかは熱くなった顔を隠すようにそっぽを向いた。

「…朽木さんは、何が言いたいんですか」

「激励しに来てやったんだよ。今夜の鴉組との勝負、霜田さんのためにも絶対負けるんじゃねえぞ」

「分かっています」

「そうか?なんかてめえ、今日は上の空じゃねえか」

「そんなこと…ありません」

 口では否定したが、さやかにも自覚はあった。大事な勝負だというのは分かっているのに、どうしても気持ちがそちらに集中できない。

 朽木は「よし」と言って、足を組み直した。

「ウチに来い。メイちゃんと電話させてやる」

「えっ…鳴子さんとですか」

「おう。メイちゃんの声を聴きゃ、そのシケたツラも少しは晴れるだろ」

 昼食を済ませると、朽木はさやかを自宅マンションへと連れ出した。

「もしもし、メイちゃん?貴彦だけど」

 これで2度目だが、普段とは全く異なる朽木の優しい声に、さやかは噴き出しそうになる。肩が震えているのがバレないよう、そっと背を向けた。

「俺?うん、俺も昼飯食ったとこだよ。メイちゃんは?」

 前回同様、また、朽木と鳴子のとりとめもない世間話が延々と続く。さやかは手持ち無沙汰に、部屋に積まれているプレゼント箱の山――東京にいる鳴子へ贈るものだ――を見つめた。

「そうそう。うちの女代打ちが、メイちゃんとお話したいらしいんだ。代わってもいいかな?」

 と言うと、朽木はずいっとさやかに受話器を突き出した。

「もしもし。ご無沙汰しています、夏目さやかです」

「わあ、さやかちゃん。久しぶり」

 電話の向こうから聞こえたのは、やはり鈴子とそっくりな、それでいて甘くとろけるような声だった。

 鳴子は「メイコね、さやかちゃんとまたお話したいなって思ってたの」と言った。

「ありがとうございます。僕もまた、鳴子さんとお話したいと思ってました」

 と、そこで、朽木がチラシの裏にマジックで何かを書きつけて、さやかに向かって広げた。

『春野嵐の話は禁止!!!』

 さやかは朽木に頷いてみせてから、「あの」と鳴子に切り出した。

「鳴子さんって、どうして朽木さんと一緒になったんですか?」

 朽木が何か言いたそうに眉を吊り上げたが、声は発しなかった。

 鳴子は「ウフフッ」とはにかむように笑った。

「貴彦さんね、とってもかっこいいの。まるで、王子様みたいでしょう?メイコ、一目惚れしちゃった」

「そうですか…」

「それにね、すごく優しくて、メイコのこと、お姫様みたいにしてくれるんだよ。メイコ、貴彦さんと一緒にいる時が、いちばんしあわせ」

 鳴子の迷いのない答えに、さやかは胸を衝かれた。

 ――誰かのことを、こんなに真っ直ぐに想えるなんて。

 もやもやした心境から抜け出せないさやかには、鳴子の純粋さが一筋の光のように思えた。

「あの、鳴子さん。変なことを聞くんですけど」

「なぁに?」

「もし、朽木さんが他の女の人と仲良くしてたら、鳴子さんはどうしますか」

 朽木が目を剥いて拳を振り上げそうとしたが、さやかが真剣なのを見て、渋々腕を下ろした。

「貴彦さんが他の女の人と仲良くするのは、悲しいけど…」

 鳴子はそう前置きしてから、こう続けた。

「メイコね、それでも貴彦さんを好きでいることは、やめられないと思うの。貴彦さんが他の人を好きになっちゃっても、メイコの中の『好き』は消せないから」

「悲しいのに、ですか」

「悲しいのも、貴彦さんのことが好きって気持ちの一部だから。貴彦さんと一緒に過ごした思い出は、メイコの宝物。かけがえのないものなの。悲しいからって、手放しちゃうことはできないなぁ」

 さやかは、思わずほうと息を吐いていた。

「…すごいですね、鳴子さんは」

「そんなことないよ。貴彦さんのことがだーいすきだから、自然とそうなっちゃうの」

 鳴子は「だからね、さやかちゃんも好きな人のこと、諦めちゃダメだよ」と言った。

「えっ?!あの、僕は」

「ウフフッ。他の人と仲良くしてるところを見ても諦められないんだったら、その人はきっと、さやかちゃんがほんとに好きな人なんだよ」

「好きな人……」

 復唱して、さやかは顔がかあっと熱くなるのと同時に、自分の中で腑に落ちるところがあった。

 ――僕、冬枝さんのことが……。

「好きな人を好きって気持ち、大切にしてね」

 鳴子のその言葉で、さやかの心のもやが晴れたような気がした。



 夜。

 雀荘『こまち』で、若頭補佐・霜田をはじめとする白虎組の面々と、鴉組の組員たちが一堂に会した。

「なんだ、本当に若い女じゃねえか。間違って誰かの愛人連れてきたんじゃねえのか」

「白虎組には、他に代打ちがいねえんだな」

 鴉組のこれみよがしな囁きに、冬枝は眉をひそめた。

 ――噂通り、行儀の悪い連中だな。

 さやかはというと、いつもの紺のセットアップではなく、淡い水色の清楚なワンピースを着ている。いかにも雀荘には似合わない、お嬢様風の装いだ。

 霜田の「鴉組を油断させる」という作戦に沿ったのかもしれないが、さやかの場違いな格好に、冬枝のほうが居心地が悪くなった。

 ――まさか、あの人と会って女が目覚めたってわけじゃねえだろうな。

 今朝の、さやかとミナのラブシーン未遂が頭をよぎる。あの時、冬枝が割って入らなければ、どうなっていたのか想像もしたくない。

 陶然となってミナに身を任せていたさやかの姿を思い出すと、冬枝の中に苦々しいものがこみ上げてくる。

 ――俺の前じゃ、あんな顔しねえくせに。

 とはいえ、華やかな服装とは裏腹に、今のさやかはすっかり代打ちの顔になっていた。

「………」

 霜田が、鴉組幹部と共に別室から姿を現した。

「どうでした、霜田さん」

 朽木が傍に寄って尋ねると、霜田は重々しく頷いた。

「間違いありません。平磯から融資を受けていた、浦和という男です。平磯が殺される前、私も会ったことがあります」

 鴉組は、今回の麻雀勝負の戦利品である平磯殺しの犯人――浦和を別室に控えさせていた。霜田は本人と直接話し、浦和が平磯殺しの犯人だと確信したようだった。

「こんなちんけな勝負しなくたって、金さえ用意してもらえりゃ、こっちはいつでも浦和を引き渡しますよ。霜田さん」

 鴉組の幹部に薄笑いで言われ、霜田が気色ばんだ。

「ふざけるな。死んだ平磯は白虎組の同胞です。仲間を殺した男を金で買うつもりはない」

「どうですかね。懐が苦しいだけなんじゃありませんか?」

 東京から来たガキ共の相手が大変なんでしょう?と言って、鴉組の幹部は蔑むように笑った。

 霜田は鼻から息を抜いた。

「ええ、確かに金は惜しい。白虎組には、貴様らのような乞食に恵んでやる金など一銭もありませんから」

 一歩も譲らぬ霜田の気迫に、後ろで控えていたさやかは目を見張る思いだった。

 ――霜田さんも、かっこいいところあるんだな。

 俄然、さやかにも気合が入る。鴉組の組員たちから値踏みするような視線を向けられても、いささかも怯みはしなかった。

 白虎組側はさやかと冬枝が出て、鴉組との対局が始まった。

「ロン」

 10巡もしないうちに、さやかは和了った。手の速さに、鴉組の面々が思わず卓から顔を上げる。

 ――ホントは、もっと早く和了れたけど。

 ツモだとイカサマだ何だと難癖をつけられかねないので、鴉組に振り込ませた。冬枝がさやかの欲しい牌を的確に送ってくれるお陰で、あっという間にテンパイできた。

 この水色のワンピース――例によって、朽木が鳴子に送るはずだったサイズ違いの服を譲られたものだ――の効果もあるだろう。強面の冬枝は警戒しても、いかにも弱々しい見た目のさやかのことなど、鴉組は眼中にも入れない。

「東場なんて遊びだ。おままごとの相手をしてやれ」

 後ろのソファで足を組んでいた鴉組幹部が、呑気な口調で言った。

 だが、実際に卓に着いている鴉組組員たちは、既に気付き始めている。目の前にいるのがどこにでもいるお嬢さんのふりをした、凄腕の雀士だということを。

 だからこそ、さやかにリードを許し続けた東三局で、それは起こった。

 鴉組の組員が、何気ない素振りでタバコの灰を灰皿に落とそうとして――その手を、隣のさやかの左手に向けた。

「!」

 この手の嫌がらせは、何度か経験がある。さやかはその都度、タバコの火をかろうじて避けてきたが、今回は無防備な左手を狙われたこともあって、反応が遅れた。

 ――しまった。火が当たる…!

 来るなら来い、という気持ちも半分あった。ここで露骨にタバコを避けて、逃げたと思われるのも癪だ。多少、手が火傷するぐらい、構うものか。

 意気込むさやかとタバコが接触する寸前で割り込んだのは、枯れ葉色の袖だった。

「…!冬枝さん…」

「………」

 冬枝の手の甲にタバコの火が押し付けられているのを見て、さやかは絶句した。

「ったく、あっちーな。どこ見てんだよ」

 冬枝は軽い仕草でタバコを払い除けたが、目の底は冷え冷えとしていた。

「大丈夫ですか、冬枝さん」

「平気、平気」

 冬枝は、敢えてどうでもよさそうに振る舞っている。まともに相手をするな、とさやかに告げているのだろう。

 ――僕は平気じゃない。

 今まで、どこか白虎組のための義侠心に酔っていたところがあった。今ので、その酔いも吹っ飛んだ。

 ――目の前にいるのは、霜田さんの敵じゃない。僕の敵だ。

 鴉組からの振り込みにこだわる理由はない。ツモでも冬枝からの振り込みでも、なりふり構わず和了って、鴉組に一切の希望を与えない。息つく暇さえ与えるものか、とさやかは眼光を鋭くさせた。

「鴉組の奴ら、麻雀小町を怒らせたな」

 朽木が小さく笑う横で、霜田は真剣な表情のまま、勝負の行方を見守っていた。

「ツモ。ドラ3、満貫」

 もはや、麻雀とは思えないスピードで勝負が進む。強引なまでのさやかの打牌が、場を押し流していく。

 華麗な大技でもなく、相手の裏をかくような奇手でもない。恐るべき反応速度で、さやかは誰よりも先にチャンスを掴んでいた。

 素知らぬ顔でさやかの援護をしながら、内心、冬枝は苦笑していた。

 ――今のお前、ちょっと怖ぇよ。

 もう、鴉組の連中ですら、さやかのことがワンピースを着た可憐なお嬢さんには見えていないだろう。他の追随を許さないさやかの打牌は、暴力とは異質の恐怖があることをチンピラたちに教える。

 ふと、先日の朽木との会話が、冬枝の脳裏をよぎる。

 さやかは、東京で起きた朱雀組組長殺害事件に関わっているかもしれない。その疑いは、今も冬枝の中にある。

 ――だとしても、俺はお前と心中してやる。

 いずれ、機が来ればさやかのほうから真実を打ち明けるだろう。さやかがどんな形で事件に関わっていたとしても、さやかが冬枝の代打ちであることに変わりはない。

 さやかの冴え冴えとした横顔を見て、冬枝から迷いは消えた。

 そして、ついにオーラスを迎えた時のことだった。

 バン!

 扉が荒々しく開け放たれるや否や、チンピラ風の若い男たちが一斉になだれ込んできた。

 ――『アクア・ドラゴン』!

「なんで、ここに…」

 混乱の最中、一瞬、鴉組の組員が洩らした呟きを冬枝は聞き逃さなかった。

 チンピラたちの一人が、ソファで呑気に足を組んでいた鴉組幹部を捕まえた。

「こいつの命が惜しかったら、ここにいる浦和って男を渡してもらおうか」

 顔を引きつらせ「冗談だろ」とわななく鴉組幹部のこめかみに、銃口が押し当てられる。

 鴉組と白虎組の双方に、緊張が走った。

「てめえら、『アクア・ドラゴン』だな。堅気の男なんか捕まえて、どうするつもりだ」

 口火を切ったのは、朽木である。

 鴉組幹部を人質に取った男が「しらばっくれんなよ、おっさん」と言った。

「お前ら白虎組が、血眼になって探してた男だろ。今まさに、その身柄を賭けて麻雀勝負が行われていた。違うか?」

 戸惑いを隠せない様子の鴉組の面々を見て、さやかは状況を察した。

 ――やっぱり、鴉組と『アクア・ドラゴン』はグルだったんだ。

 でなければ、『アクア・ドラゴン』がここまで情報通のはずがない。平磯が殺害されたのは、『アクア・ドラゴン』が彩北に来る前のことだからだ。

 鴉組が白虎組に対し1億を要求するという強気な態度に出たのも、『アクア・ドラゴン』に唆されたせいだろう。

 だが、東京から来た愚連隊は、田舎のチンピラよりも遥かに狡猾だった。『アクア・ドラゴン』の狙いは、麻雀対決という名目で浦和をおびき出し、浦和を横取りすることだったのだ。

 浦和を『アクア・ドラゴン』に取られてしまっては、事態は大きく悪化する。『アクア・ドラゴン』――その背後にいる青龍会は、浦和の身柄を盾に白虎組を強請るだろう。1億という金ではなく、もっと高額か、はたまた不利な条件で。

 白虎組は、浦和を渡すわけにはいかない。しかし、鴉組にとってはそもそも他人事だ。浦和の引き渡しを拒む理由はない。

「お前ら、浦和をここへ連れて来い」

 案の定、鴉組幹部はあっさり部下にそう指示した。彼よりはるかに年下の『アクア・ドラゴン』の少年が、満足そうに笑みを浮かべる。

「待ちなさい」

 そこで声を上げたのは、霜田だった。

「お前たち、それでも極道ですか。東京から来たガキに震え上がって言いなりになったなんて、鴉組の名に傷がつきますよ」

 霜田は、『アクア・ドラゴン』たちにも鋭い視線を向けた。

「よそ者の分際で、我々のシマを土足で踏み荒らしやがって。恥を知りなさい」

「ピーピーうるせえんだよ、おっさん!こいつがどうなってもいいのか!」

 まだ幼さの残る声で、『アクア・ドラゴン』が鴉組幹部に銃口を押し当てる。

 それが癇に障ったのか、はたまた霜田の怒声で我に返ったのか。人質にされていた鴉組幹部は、一転して『アクア・ドラゴン』に掴みかかった。

「!?うわっ…」

 反撃されると思っていなかったのだろう、若者は慌てて引き金に指をかけたが、ケンカ慣れしている鴉組のほうが速かった。

「てめえっ、何してんだ!」

 他の『アクア・ドラゴン』のメンバーたちが加勢に向かい、そこに鴉組の面々が挑みかかる。『こまち』は、一瞬にして乱闘の舞台へと早変わりした。

「さやか。卓の下に隠れてろ」

 冬枝は、すぐにさやかを雀卓の下にしゃがませた。

 ――避難訓練みたいだな。

 という感想はさておき、さやかは「冬枝さん」と声をかけた。

「銃を持っているのがあの男だけとは限りません。気をつけて」

「ああ。分かった」

 冬枝も、鴉組の援護に向かった。

 鴉組のためというか、『こまち』で暴れられては敵わない、というのが本音だった。

 ――あっ、あの野郎、グラス割りやがった。うわっ、そのソファ、脇が破れかけてんだから乱暴に触るんじゃねえ!あーあー、雀卓の上に背負い投げかよ……。

 先日、嵐に割られた窓をようやく塞いだばかりだというのに、またも店内が荒れ野原に変わろうとしている。冬枝は、眩暈がしそうだった。

 ――それに、なんかガキ共が増えてねえか。

 どうやら、店の外に応援要員が控えているらしく、徐々に『アクア・ドラゴン』の人数が増えている。場数では勝る鴉組も、次第に押されてきた。

「おい冬枝!ボサッと突っ立ってねえで手伝えや!」

 てめえの店だろうが、と朽木に怒鳴られ、冬枝は大声で答えた。

「言われなくても分かってんだよ、バカ野郎!」

 冬枝も取っ組み合いに参戦すると、間もなく、店内の明かりが消えた。

「!?」

 誰かが故意にブレーカーを落としたのか。一瞬、面々の動きが止まった。

 ――今だ!

 冬枝には、暗闇も白昼も大差ない。カウンターにあった椅子を引っ掴み、『アクア・ドラゴン』のメンバーをまとめて薙ぎ払った。

「うわっ!」

 真っ暗な中で敵も味方も分からず、若者たちが混乱し始めた。怯えた空気は、すぐにヤクザたちに伝わる。

「よくも俺様のことをおっさんって言ってくれたな、クソガキ!」

 執念深い朽木が、若者の顎に膝蹴りを食らわせる。

 鴉組の組員も、自分たちをコケにした『アクア・ドラゴン』に容赦しなかった。あちこちで、罵声と共に殴り蹴る音が頻発する。

 もはや、『アクア・ドラゴン』にとってここは地獄だった。暗闇の中から、怒り狂った獣たちが襲い掛かってくるのだ。

「調子乗ってんじゃねえぞ、田舎ヤクザが!」

 流れを変えたのは、一発の銃声だった。

「……!」

 男たちの動きが、一斉に止まった。暗闇の中では、誰に銃弾が当たるか分からない。

「うわっ…」

 というさやかの悲鳴に、冬枝は即座に振り返った。

 雀卓の下にいたさやかが、『アクア・ドラゴン』の男に引きずり出されている。

 ――しまった!

 すぐに助けに向かおうとしたが、事態は緊迫している。銃を持ったメンバーが「動くな!」と神経質な声を上げた。

 下手に相手を刺激して、万が一にもさやかに弾が当たってはたまらない。

 一方、捕まったさやかも、冬枝と同じことを考えていた。

 ――今、この暗闇の中で発砲されたら、冬枝さんが危ない。

 そのため、さやかは抵抗せず、されるがままになっていた。さやかを捕まえた『アクア・ドラゴン』のメンバーはパニック気味なのか、女を見つけたから捕まえてみたものの、特にその先の考えがある様子ではなく、おろおろと立ち尽くしている。

 再び、銃声が炸裂した。

 続けて、パリンと蛍光灯が割れる音が響く。『アクア・ドラゴン』が、天井に向けて威嚇射撃を行なったようだ。

 ――店の物をいくつ壊しゃ気が済むんだ!弁償しろよ、てめえら!

 などと、どうでもいいツッコミをしているのは冬枝だけだろう。銃声と硝煙の匂いは、『アクア・ドラゴン』と極道たちの双方を殺気立たせた。

 まさに、一触即発。何が起こってもおかしくない中で、冬枝はとにかくさやかの安否だけを気にしていた。

 最悪のシナリオは、再び乱戦状態になり、パニクった『アクア・ドラゴン』が銃を乱射することだ。そうなれば、さやかが危ない。

 ――せめて、さやかの身の安全だけでも確保できればいいんだが。

 そんな冬枝の心を読んだかのように、低い声で耳打ちされた。

「冬枝。さやかは任せろ」

 それを聞いた瞬間、冬枝は真っ直ぐに『アクア・ドラゴン』の男の元へ駆けていた。

 銃を持っている男の場所は明らかだ。発砲してくれたおかげで、より正確に位置を把握できた。

「なっ…」

 男からしてみれば、暗闇からいきなり冬枝が現れたようなものだろう。誰もが拳銃に恐れをなし、息を詰めていた状況で、圧倒的に優位なのは銃を持つ男のはずだった。

 冬枝に取り押さえられ、男は訳も分からず引き金に力を込めた。パンという乾いた音が、静止していた面々をハッと我に返らせた。

「おい、この女がどうなっても…」

 状況が不利と悟ったのか、さやかを捕まえていた男が声を上げようとした。

 羽交い絞めにされる腕に力が籠められ、さやかの全身に緊張が走った。

 ――まずい!

 暗闇の中を、長い脚が横切る。それを一瞬だけ目で捉えた直後には、さやかの身がふわりと軽くなっていた。

「ケガはないか?さやか」

 と囁く声は、ここにいるはずがない人のものだった。

「ミナ……さん?」

 暗闇の中でも魅入られてしまいそうな、蒼みを帯びた美しい瞳が頷くように瞬いた。

 ミナは男を蹴飛ばすと、さやかを抱きかかえ、雀卓を倒して盾代わりにした。

 いつの間にか、『こまち』の中は再び乱闘になっている。銃声こそ聞こえないが、冬枝がどうしているのか、さやかは気が気じゃなかった。

「さやか。しばらくここから動くな」

 そう言うと、ミナはすっくと立ち上がった。

「ミナさん?」

「安心しろ」

 ミナはポンとさやかの頭を撫でると、微かに微笑んだように見えた。

「冬枝は大丈夫だ」

 チャイナドレスの裾を翻し、ミナは颯爽と乱闘の最中へと身を投じていった。

 ――どうして、ミナさんがここに……。

 さやかの驚きは、それだけに留まらなかった。ミナが参戦した途端、潮流が一気にヤクザ有利に変わったのだ。

 あちこちから、若者たちのものと思われるうめき声が聞こえてくる。自分たちが有利と分かると、鴉組の組員たちが残忍な笑みを洩らした。

「よくも担いでくれたな、ガキ共」

「血祭りにしてやる」

 そんな状況でも、『アクア・ドラゴン』の間には逃げるのを逡巡する空気があった。若いだけあって、体力はあり余っているのだ。戦おうと思えば戦えるが、どうする、と互いを伺っている様子だった。

 若者たちを動かしたのは、トランシーバーから響くくぐもった音声だった。

「撤収だ。外に出ろ」

 プライドもへったくれもない若者たちの動きは、実に素早かった。一度撤退と決まるや、整然と外へと逃げていった。

「待ちやがれ」

「おい。放っとけ、あんな連中」

 冬枝の制止も聞かず、鴉組の連中は靴音も荒く『アクア・ドラゴン』を追いかけていった。

 ――ひと晩中、追いかけっこするつもりかよ。

 どうせ、ずる賢い『アクア・ドラゴン』の連中は、事前に逃走ルートを決めてあるに違いない。追ったところで無駄足になるのは分かり切っていた。

 パッ、と店内に明かりが戻った。テーブルが引っ繰り返り、割れたガラスや倒れた椅子が散乱する中に、チャイナドレスの美女の姿はなかった。

 ――ミナさん、どこに行っちゃったんだろう。

 それともあれは、自分だけが見た幻だったのだろうか。雀卓の影で呆然とするさやかの肩を、冬枝がポンと叩いた。

「さやか。大丈夫か」

「…冬枝さん。ミナさんが…」

 言いかけたさやかに、冬枝が分かっているというように「ああ」と頷いた。

 ブレーカーを落としたのは、恐らくミナだろう。そのほうが冬枝が闘いやすいからだ。

「あの人に助けられたな…」

 遠い目をして呟く冬枝を、さやかは複雑な気持ちで見つめた。

「霜田さん。浦和がいません」

「何ですって」

 別室から戻ってきた朽木の知らせに、霜田が顔色を変えた。

 室内は荒れており、どうやら乱闘の最中に『アクア・ドラゴン』の別動隊が浦和を連れ去ったらしかった。

「なんてことだ。やっと平磯の仇が討てるところだったのに…」

 悔しそうに眼鏡を押さえる霜田に、朽木が「どうしますか」と尋ねた。

「鴉組との勝負は、浦和が拉致された以上、もう無意味です。こうなったら『アクア・ドラゴン』と直接やり合うしかありませんが」

 気のない朽木の口ぶりは、既に兄貴分の意を理解しているようだった。

 霜田は、長い息を吐いた。

「……今夜は、これで終いです。私は帰ります」

「霜田さん」

 と、思わず声をかけたのは、さやかだった。

「『アクア・ドラゴン』のこと…どうするんですか」

「ふん」

 霜田は「今日は無駄骨を折らせましたね、麻雀小町」と皮肉げに笑った。或いはそれは、自嘲の笑みだったのかもしれない。

「この件は、これで終わりです。『アクア・ドラゴン』とタイマンなんてバカな真似、やってられますか」

「そんな…いいんですか、それで」

「いいわけがないでしょう」

 一瞬、語気を荒げてから、すぐに霜田は静かに言った。

「……私一人の一存で、組を危険に晒すわけにはいきません。何が青龍会との抗争の火種になるか、分かりませんから」

 さやかは、『ザナドゥー』で霜田が言っていたことを思い出した。

「守りますよ、私たちの白虎組を」

 何をおいても白虎組を守る、という霜田の意志の固さを、さやかは目の当たりにしたような気がした。

 霜田の悄然とした背中を、さやかは黙って見送ることしかできなかった。

「……僕、お役に立てませんでしたね」

 鴉組相手の麻雀で、いい気になっていた自分が小さく思えた。所詮、ヤクザ同士の闘いにあっては、さやかができることなどほとんどない。

 冬枝は「何言ってんだ」と言って、足元に転がった牌を拾った。

「お前はお前の闘いをやり切った。いい麻雀だったぜ、さやか」

「…冬枝さん」

 冬枝に手渡された牌を見て、さやかは思わず口元を綻ばせた。

「これ、僕の和了り牌。覚えてたんですね」

「えっ?ああ、うん」

 正直、冬枝はもう対局のことなどすっかり頭から消し飛んでいたが、さやかの麻雀コンピューターには直前までの戦況がきっちり記憶されていたらしい。

 ――やっぱ怖ぇよ、お前。

 荒れ果てた『こまち』で、一本欠けた蛍光灯の明かりだけが、さやかと冬枝を優しく照らしていた。



「はあ、はあ、はあ、はあ……」

 翌朝、さやかは息せき切って街を走っていた。

 辿り着いた先はバー『せせらぎ』――ミナの店だ。

「お、おはようございます、夏目ですっ」

 まろぶようにさやかが店内に入ると、ミナがタバコ片手に振り返った。

「よう。走って来たのか」

「は、はい」

 だって――と言って、さやかはミナが手にしているものを見た。

 ミナの長い指先に挟まっているのは、青々とした四つ葉のクローバーだ。

 昨夜、さやかはワンピースのポケットに入れていたはずのクローバーがないことに気付いた。

 ケンカ騒ぎでメチャクチャになった『こまち』を高根たちと一緒に掃除しつつ、クローバーも探したが、結局、見つからなかった。

 ――失くしちゃったのかな。

 一人落ち込んでいたところに、ミナから電話がかかってきたのだ。

 お前の探し物を持っている、と――。

 さやかは、ミナからそっとクローバーを受け取った。

「ありがとうございます。ミナさんが拾ってくれたんですね」

 冬枝からもらったクローバーを失くさなくて良かった、という安堵で頭がいっぱいのさやかには、ミナが何故クローバーがさやかのものだと知っていたのか、という疑問は浮かばなかった。

 心底ホッとした様子のさやかを見て、ミナが少しだけ顔を曇らせた。

「悪かったな」

「えっ?」

「お前ともう一度会いたかったから、口実にした」

 ミナが長い指でクローバーを指したが、さやかはまだ意味が分かっていなかった。

 ただ、昨夜、ミナが突然現れ、そして消えたことを思い出した。

「あの、ミナさん。ゆうべは、どうして『こまち』に?」

「お前を守るために」

 サラッと言われて、さやかはちょっと顔が赤くなった。

 ――ミナさん、すごい美人なのに、冗談ばっかり言うんだから。

「僕じゃなくて、冬枝さんを助けに来たんでしょう?」

 四つ葉のクローバーをハンカチに包みながら、さやかは昨夜のことを考えた。

 稲妻のように現れ、さやかを助け、『アクア・ドラゴン』を一網打尽にしたミナ。暗闇の中でも、ミナの華麗さは際立っていた。

 ――きっと、僕よりもずっと冬枝さんの力になれる人。

 冬枝が敬意をもって接するのも頷ける。美しく、しかも腕っぷしも強いとあれば、相棒として頼もしいことこの上ないだろう。

 ミナが、さやかの手元にあるクローバーに目を落とした。

「冬枝から貰ったのか」

「…はい」

 大切そうにクローバーを手にするさやかに、ミナが重ねて問う。

「冬枝が好きか?」

 ミナの言葉はやはり、さらりとしていて、するりと心の奥に入ってくるようで――。

 さやかは気負わず、だがはっきりと答えた。

「はい」

 いつからかは分からない。もしかしたら、出会った時から惹かれていたのかもしれない。

 この気持ちに名前を付けるのが怖かった。恋だと認めてしまったら、冬枝との関係が変わってしまうような気がした。

 だが、自分の気持ちから目を逸らし続けることは、いたずらに道に迷うのと同じだった。

 口に出して認めた途端、胸がドキドキして、頬が火照った。恥ずかしさにも似た感情が押し寄せ、俯いてしまいそうになるが、さやかはぐっと堪える。

 そうすることで、目の前にいる美女――ミナと、少しでも対等に向き合いたかった。

「そうか…」

 ミナは一つ頷くと、上着をすっと脱いだ。

 ミナがそのままマオカラーに手をかけ、服を脱ぎだしたものだから、さやかはうろたえた。

「えっ、あの、ミナさんっ!?」

「………」

 同性といえども、ミナが服を脱ぐところなんて直視できない。さやかは、慌てて後ろを向いた。

 程なくして、ミナから「さやか。こっちを向いてくれ」と声をかけられた。

「み、見ても大丈夫ですか…?」

「ああ」

 そう言われて、さやかが恐る恐る振り返ると――。

 そこには、観音様がいた。

「……えっ?」

 後光をまとい、雲海をなびかせ、慈悲深そうな表情を浮かべた、たおやかな観音様――。

 正確には、観音様の刺青だった。それが、筋骨隆々とした背中に広がっている。

 ミナはくるりと正面を向くと、おもむろにさやかを抱き寄せた。

 ミナの胸板は広く逞しくて、抱かれると安心感に包まれた。

「俺はお前の恋敵じゃない。それだけは分かって欲しい」

「…はい」

「ゆうべは、お前が鴉組と打つっていうから、念のために見に行ったんだ。行って正解だった」

「ミナさん、僕のことを心配してくれたんですか?」

「ああ」

 ミナは、さやかの顔をそっと上げさせた。

「さやかにケガがなくて良かった」

「ミナさん……」

 ミナとさやかの顔が至近距離に迫った時、店の扉がドンドンとノックされた。

「すみません。冬枝ですが、こっちにさやか来てませんか?」

 ミナは扉を一瞥もせずに「入ってます」と答えた。

 直後、バンと店の扉が開かれた。

「便所ですか、この店は!やっぱりさやか来てるんでしょう!」

「ちっ」

 ミナが半裸でさやかと抱き合っているのを見た冬枝は「あーっ!」と声を上げた。

「あんたはまた、嫁入り前の娘になんてことしてるんですか!離れてください!」

「さやかは、俺と離れたくないって言ってる」

「なぁ~にぃ?」

 冬枝から「おい、さやか!朝っぱらから裸のおっさんとくっついてるんじゃねえ!」と怒鳴られ、ようやくさやかは我に返った。

「えっ……ミナさんって、男の人なんですか!?」

「ああ」

 頷くと、ミナはカウンターの椅子に胡坐をかいた。

 確かに、上着とチャイナ服を脱ぎ捨てたミナの姿は――広い肩幅、厚い胸板、紛れもなく男性だった。

「源清司。それが俺の名前だ」

 さやかは「ミナ……もとさん」と繰り返した。

 ミナ改め源が、小さく微笑んだ。



 やがて、源が淹れたてのエスプレッソを持ってきた。

 男物のシャツとスラックスに着替えた源は、美女からすっかり美男子の装いだ。長かった髪はウィッグだったらしく、襟足で揃えたオールバックになっている。

「長いこと、人に恨まれる仕事をしてたんでな。引退しても、ケンカや襲撃は絶えなかった」

 そこでさやかは、源こそが『人斬り部隊』――すなわち、白虎組先代組長の親衛隊の隊長だったのだと知らされた。

 ――どうりで、強いわけだ。

 女装していた時ですら、源の居住まいは見る者の背筋を伸ばすかのように凛としていた。所作から察するに、空手をやっているのだろう。

「俺はともかく、施設に入れた親父にまで火の粉が飛んじまった。堅気に迷惑をかけるわけにはいかねえから、東京からこっちに越してくることにしたんだ」

 女装し、本名を隠したのも、「源清司は極道から足を洗った」と関係者に知らしめるためだったらしい。

「冬枝が『ミナさん』とか言い出した時には、正気を疑ったが」

「しょうがないでしょう!あんたは素性を隠してるって言うし、なんて呼びゃいいか分からなかったんですよ」

「ネーミングセンスないよな、こいつ」

 源に真顔でささやかれ、さやかは苦笑した。

 ――『麻雀小町』の名付け親だもんな、冬枝さん。

「じゃあ、源さんが冬枝さんの兄貴分だった、ってことですか?」

 冬枝は『人斬り部隊』のナンバー2だった、と組の顧問弁護士である十河が言っていた。

「ああ。10年、冬枝の面倒を見たが、不甲斐ないことに、こいつの曲がった性根は直せなかった」

「誰の性根が曲がってんですか」

 冬枝はずいっと身を乗り出すと、源の顔を指さした。

「あのなさやか、この人は女となったら見境のない、女狂いなんだぞ。俺が初めて会った時だって、女とパンパン……」

 源の手刀が、冬枝の脳天を直撃した。

「いって!」

「性根のひねくれ曲がった弟が、若い代打ちを迎えたって言うから会ってみたわけだ」

 源はさやかの髪を撫で「いずれ、冬枝の昔の話も聞かせてやる」と言った。

「わあ、本当ですか。ぜひ聞かせてください」

「やめてくださいよ、源さん。俺にだって立場ってもんがあるんですから」

「そうだな。さやかを幻滅させちまうかもしれないな」

「あんたが、俺の失敗話ばっかりべらべら喋るからでしょう」

 源と言い合っている冬枝は、口では文句を言っていても、どこか楽しそうだ。

 ――冬枝さんと源さんって、何だか本当の兄弟みたい。

 源が男だと分かった今でも、やっぱり少し妬けてしまう。そんなさやかの視線に気付いたのか、源が不意にさやかの耳元に唇を寄せた。

「さやか」

「!?は、はい」

「お前と一緒にいる時のこいつは、俺が今まで見た中で一番、幸せそうだ。有難うな」

 瞬間、さやかは胸がいっぱいになった。

 冬枝のことを心から想っている人がいることと――冬枝の幸せの中に自分がいることが、この上なく嬉しい。

 源に耳打ちされたさやかが真っ赤になったのを見て、冬枝が慌てた。

「おい、さやか。何言われたんだ」

「…内緒です」

 ――いつか、僕もあなたの大切な人になれるかな。

 冬枝が「源さんの話は真に受けるなよ。この人、女相手だと話を盛るんだから」と力説するのを微笑ましく思いながら、さやかは窓から差し込む朝の光に目を細めた。

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