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20話 ミナまで言うな!

第20話 ミナまで言うな!


 カンカン照りの太陽の下、冬枝と弟分2人は、せっせと草をむしっていた。

「親分の家の庭仕事の次は、事務所の草むしりかよ」

 今日は、朝から組事務所の裏手の草むしりをしている。若い者がやるような仕事だが、ヒラの悲しさで、冬枝にお鉢が回ってきたのである。

「俺は植木屋じゃねえんだぞ。ったく」

 こうも立て続けに使いっ走りにされると、嫌がらせかと疑いたくなる。冬枝は、タオルで額の汗を拭った。

 高根と土井も腕まくりをして、汗をかきかき励んでいる。

「いいじゃないですか、兄貴。危ない仕事を回されるよりいいですよ」

「そうっスよ。草むしりなら、ハシゴから落ちる心配もないですし」

 先日、組長宅の庭に迷い込んだカモシカに驚いた土井がハシゴに激突したせいで、冬枝はハシゴから転落した。そのせいで冬枝が一時、さやかの記憶を失ってしまったことを、土井なりにちょっと気にしているようだ。

 ――俺は、危ねえ仕事のほうが良かったけどな。

 口には出さないが、これならヤクザとドンパチしていたほうがマシだ。しゃがみ仕事は腰にくるため、やっていられたものではない。

「あっ。兄貴、四つ葉のクローバーですよ!」

 土井が、サングラスをかけた面には似合わない、はしゃいだ声を上げた。

「なんかいいことあるかな」

「子供かよ」

 いそいそとポケットにクローバーをしまい込む土井に、高根が苦笑した。

「四つ葉のクローバー、ねえ」

 冬枝は、足元に生える緑の雑草をしげしげと見下ろした。汗だくのこちらを嘲笑うかのように、青々と葉を広げている。

 ――四つ葉どころか、五つ葉もありそうだけどな。

 だが、探してみると、意外と見つからない。三つ葉だったり、それこそ五つ葉だったりして、四つ葉が見当たらないのだ。

 ――どうせ、むしっちまうんだから、何枚だろうと同じだろ。

 冬枝がどうでもよくなったところで、無造作に引っこ抜いた雑草の中に、綺麗な四つの葉が見つかった。

「おっ」

 冬枝は、土だらけの草の中から四つ葉のクローバーをつまみ出すと、そっとハンカチに包んだ。

 柄にもないことをする気になったのは、さやかの顔が脳裏に浮かんだからだ。

 ――縁起物なら、麻雀バカにはぴったりだろ。

 冬枝にさやかの記憶が戻り、記念に2人で仲良くミルク焼を頬張ったのは、つい先日のことだ。

「また、一緒にミルク焼が食べられましたね」

 やけに嬉しそうだったさやかのことを思い出すと、こんな道端の雑草でさえ、プレゼントしてやりたくなってしまう。

 土井が、シャツの襟元を緩めながら、事務所のほうをうかがった。

「なんか事務所のほう、騒がしいっスね」

 確かに、さっきから頻繁に人や車が出入りしている。物々しい雰囲気だが、炎天下の草むしりに疲れた冬枝は、関わる気になれなかった。

「ケンカじゃなさそうだし、放っとけ。どうせ、どっかの組の親分が死んだとか、そんなとこだろ」

 と言って草むしりに戻ろうとした冬枝に「不謹慎ですよ」という冷たい声がかかった。

「霜田さん!」

 そこに立っていたのは、シルバーグレーのダブルのスーツ姿――白虎組組長補佐・霜田だった。

「お疲れ様です、補佐!」

 慌てて姿勢を正す高根と土井を、霜田は「ふん」と傲岸に見下ろした。

「冬枝。話があります」

「はあ…なんでしょう」

 霜田に連れられ、事務所に入った冬枝は、とんでもない報せを聞かされた。

「平磯殺しの犯人が捕まったって…それも、鴉組が」

 霜田は「ええ」と苦り切った面持ちで頷いた。

 今年の春――市内でも有数の不動産業者、平磯が自宅で殺害されているのが発見された。

 平磯は霜田と親しく、白虎組のスポンサーの一人だった。警察も霜田も犯人探しに躍起になったものの、結局、3カ月経っても犯人を捕まえることはできなかった。

「捕まらないわけですよ。鴉組が匿っていたんですから」

 霜田の言う鴉組は、南の田舎町にある小さな組のことだ。

 鴉組はかつて鉱山事業で勢力を伸ばし、最盛期は白虎組と覇を競うほどの規模を誇っていた。

 鉱山の衰退と共に鴉組も勢いを失い、今は行き場のないならず者の吹き溜まりのようになっている。それでも一時は県内最大手だったというプライドがあるのか、未だに白虎組の傘下に降ることをよしとせず、独立を保っている。

 そんな鴉組が、いかなる偶然か、白虎組が血眼になって追っている平磯殺しの犯人を捕まえたのだ。冬枝は、話の成り行きを察した。

「金ですか」

「1億寄越せ、だそうですよ。ネズミ1匹捕まえたぐらいで、調子に乗りやがって」

 霜田は、ギリギリと親指の爪を噛んだ。

 なるほど、と冬枝は納得した。そりゃ、事務所が騒ぎになるわけだ。

「1億なんて大金、あんなチンピラ共にやるつもりはありません。麻雀でケリをつけることにしました」

「まさかその勝負、さやかにやらせるっていうんですか」

「組の代打ちを、補佐たる私が使うことに、何か問題があるとでも言うんですか」

 霜田から恨みがましそうな目で睨まれ、冬枝は「いや、いけないってことはありませんが」とどもった。

「霜田さんが麻雀でケリつけるのも、さやかに頼むのも、俺には意外だったもんで」

 何せ、霜田はさやかのことを「小娘」と言って憚らない男だ。麻雀で解決するにしても、他の代打ちを使いそうなものだ。

 霜田は、銀縁眼鏡を指で持ち上げた。

「形式だけとはいえ、平磯を殺した犯人を金で買うなんて真似はしたくありません。平磯の家族の目もありますから」

 霜田が平磯の遺族に多額の資金援助をしたという話は、冬枝も聞いていた。極道として、平磯を守ってやれなかったという無念もあるだろう。

 だから、鴉組と麻雀で闘い、平磯殺しの犯人を『勝ち得た』という形にしたいのだ。

「鴉組は、その条件で受けたんですか」

「ええ。こちらの打ち手は若い女だと言ったら、二つ返事で承諾しましたよ」

 霜田は、鴉組に麻雀勝負を受けさせるために、他のベテラン代打ちではなくさやかに白羽の矢を立てたらしい。遠く離れた鴉組の縄張りには、『麻雀小町』夏目さやかの評判は届いていない。

「資金源だった平磯を失ったことは、我が組にとっても大きな痛手です。この麻雀は、白虎組をあげた仇討ちだと、あの娘に伝えなさい」

 霜田は、いつになく真剣だった。勿論、冬枝に断る理由はない。

 ――だが、さやかが引き受けてくれるか。

 初めて組事務所に連れて来られた時、さやかは霜田から侮蔑の言葉をぶつけられた。その霜田の頼みとあっては、いい気はしないだろう。

 という冬枝の予想を裏切って、さやかは「ぜひ、やらせてください」と前のめりだった。

「霜田さん直々のご指名なら、願ってもないところです」

「お前、いつの間にそんなに霜田さんが好きになったんだ?」

 街にある喫茶店『異邦人』で昼食のトーストをかじりながら、さやかは「好きとはちょっと違いますけど」と答えた。

「霜田さんにはこの間、助けてもらった恩があるので。ちょっとした恩返しです」

「助けてもらったって…」

 冬枝は、さやか・霜田・嵐と共に、橋から落ちたことを思い出した。

 あの時はさやかの記憶を失くしていた上、嵐に『こまち』の窓を割られて怒り心頭だったため、状況を把握する余裕がなかったが――確か、さやかは霜田と一緒に橋の欄干の上に立っていた気がする。

「あれ、なんであんなことになったんだ?」

 さやかはこともなげに「組長の気紛れですよ」と言った。

「組長は、僕のことをからかっただけだと思います。でも、霜田さんが自分が飛び降りるって言ってくれて」

 さやかと霜田のどちらが飛び降りるかで押し問答になっていたところに、冬枝と嵐が乱入し、4人まとめて川に落ちる羽目になったのだという。

 冬枝は、他人事みたいに橋の上でタバコをふかしていた組長のことを思い出し、今更ながら怒りが襲った。

「あのクソ親父、悪ふざけにも限度があるだろ。ていうか、榊原さんは何やってたんだよ」

「榊原さんは…仕方ないんじゃないですか」

 響子のこともあるし、榊原は組長に後ろめたい面があるのかもしれない――とは、さやかは口には出さなかった。

「鴉組との勝負、勝ちます。殺人犯を匿って大金を要求するなんて、許せません」

 爽やかな物言いだったが、平磯殺しの犯人を捕まえた後、どうするのかとは問わない辺り、さやかもヤクザの代打ちとしてこなれてきたと言える。

「あ、そうだ」

 冬枝は、スーツの懐をごそごそと探った。

 開いたハンカチから、四つ葉のクローバーをつまみ上げる。

「やるよ。これ」

「わあ、四つ葉のクローバーですか。よく見つけましたね」

「事務所の草むしりしてたら、たまたまな」

 こんな葉っぱぐらいで胸を張るのも照れ臭くて、冬枝は少しぶっきらぼうに言った。

 さやかは、窓から差し込む太陽の光にクローバーを透かした。

「四つ葉のクローバーって、すごく珍しいんですよ。三つ葉の変異体で、発生する割合がとても低いんです」

「そういうもんか。三つ葉も四つ葉も変わらねえように見えるけどな」

「冬枝さん。萬子にいきなり十萬ができたり、發が6枚に増えたりしたら、おかしいでしょう。それと同じですよ」

「例えが強引すぎて分からねえよ」

 さやかも「今のは無理矢理、麻雀で例えました」と言って照れ笑いした。

「とにかく、そう簡単には見つからないものなんですよ、四つ葉のクローバーって。冬枝さんがお守り代わりに持ってなくていいんですか?」

「葉っぱなんかお守り代わりに持ってるぐらいなら、ドスの1本でも懐に忍ばせておいたほうがよっぽど安心する」

「職務質問されたら一発でアウトですよ、それ」

 苦笑いしつつ「ありがとうございます」と言って、さやかは大事そうにクローバーをハンカチに包んだ。

 ――我ながら、キザったらしいことしてるぜ。

 誰かが同じことをしていたら、口の中のコーヒーを噴き出すところだ。そう思いつつも、にこにこしているさやかを見ていると、悪い気はしなかった。

 会計を済ませ、ステンドグラスに飾られた扉から出ようとした冬枝は、駐車場に黒のアルマーニの後ろ姿を発見して「げっ」と声を上げた。

「冬枝さん?」

「さやか、ちょっとここで待ってろ」

 さやかを店内に残すと、冬枝は一人『異邦人』から出た。

 冬枝の姿を認めた朽木が、待ってましたとばかりにこちらに寄ってきた。

「よう、兄弟。ランチはもう終わったか」

「何か用か」

 冬枝は、なるべく朽木をさやかに近付けたくない。最近、さやかが朽木の車に乗ったり、朽木から服をもらったりと、やけに親しげなのが気になるのだ。

 ――ていうか、てめえがさやかとベタベタしてるのが、気に入らねえ。

 冬枝の意に反して、今日の朽木はさやかではなく冬枝に用があるらしい。冬枝に顔を迫らせると、小声でささやいた。

「相変わらず、ツメが甘いな、てめえは」

「あ?」

「生焼けのネズミが、燃えたアパートから這い出してきたぞ」

 朽木はくっくっと笑うと「俺様が捕まえてやらなかったら、あの腐れ刑事、また麻雀小町にちょっかいかけただろうな」と言った。

「…苅屋か」

 さやかに万引きの濡れ衣を着せて、留置場にまで入れた刑事である。冬枝が始末したつもりだったが、生きていたらしい。

 まさか、鴉組よろしく朽木も苅屋の身柄を盾に、冬枝に金を要求するつもりだろうか。冬枝は身構えたが、朽木は意外なことを口にした。

「あの刑事を締め上げたら、とんでもねえこと言ってたぞ」

「何?」

「秋津一家に頼まれて、夏目さやかを捕まえた、ってな」

 ――秋津一家だと?

 大羽を拠点とする、朱雀組傘下の組だ。青龍会に殺された朱雀組組長・秋津イサオは、この秋津一家の出身でもある。

 青龍会への報復に今、一番燃えているであろう秋津一家が、どうしてさやかの身を狙うのか。冬枝には皆目、見当がつかなかった。

 朽木は、フーッとタバコの煙を虚空に飛ばした。

「あの女、東京にいたんだろ。ひょっとして、例の組長殺しに関わってるのかもしれねえな」

「さやかが?まさか」

 だが、言われて冬枝はハッとした。東京で朱雀組組長が殺されたのは、ちょうど大学入試の前夜のことだ。

 さやかは入試前夜、ヤクザとの麻雀に没頭していたために入試に行きそびれた。これは偶然なのだろうか。

「あの女、親分相手にもシラを切ったって、霜田さんが言ってたぜ。大したタマだな」

 せいぜい、麻雀小町に手玉に取られないように気をつけるんだな――と言って、朽木は去って行った。

「………」

 さやかが入試そっちのけで麻雀を打っていたのと同じ夜、組長殺しが起きた。だが、さやかは一度も朱雀組の件を口にしたことはなかった。

 さやかが組長殺しに関わっているかどうかよりも、さやかが自分に隠し事をしていることのほうが、冬枝には引っかかった。

 ――俺が思ってるより、ちゃっかりした女だってのは知ってるけどよ。

 さやかを代打ちにした当初は、さやかがどんな秘密を抱えていようが、関係ないと思っていた。だが今は、さやかの無邪気な笑顔を疑いたくない自分がいる。

 ――これじゃ、本当に手玉に取られちまってるな。

 何か隠してるのか、と冬枝が迫れば、さやかは正直に白状するだろうか。これでもし本当に朱雀組の一件に関わってる、なんて答えられたら、そっちのほうが厄介だ。

 聞いたところでしょうがないのに、聞き出したい衝動に駆られるのは――秋津一家と揉め事になったら面倒臭いからだ、と冬枝は自分に言い聞かせた。



 雀荘『こまち』の喫茶スペースで、さやかは新聞を広げた。

「…あった。これか」

 マスターの中尾は几帳面で、あさひがけ新聞のバックナンバーを保存している。さやかが見たいと言ったら、あっさり今年の3月の分を渡してくれた。

 不動産業者平磯氏、邸内で殺害される――犯人は未だに捕まっておらず、警察が捜査中、という文章で記事は締めくくられていた。

 ――警察や白虎組でさえ捕まえられなかった犯人を捕まえるなんて、鴉組はラッキーだな。

 冬枝の話によると、犯人は平磯と金銭トラブルがあった堅気の男らしい。平磯のバックにいる白虎組の報復を恐れて、鴉組の元に身を寄せていたとのことだ。

 ――ヤクザを頼るより、いっそ、警察に出頭したほうが安全な気もするけど。

 実際、鴉組を頼ったばかりに、犯人は駆け引きの道具にされた。今回の麻雀で白虎組が負けたとしても、次は警察との取引に利用されるだろう。鴉組の手に余ると判断されれば、殺される可能性だってある。

 ――今回の件、本当に鴉組だけが関わっている話だろうか。

 いくらさやかの力量を知らないとはいえ、県内最大勢力である白虎組に対して、鴉組の態度は強気すぎる。1億という高額を要求したこともそうだが、殺人犯を匿うなんて、鴉組にとってもリスクが大きいのではないだろうか。

 さやかがそんなことを考えていると、後ろから「ペチャパイ音頭…」と囁かれた。

「…なんですか。嵐さん」

「おっ、ペタンコ胸の自覚があるようで何より」

 ピンクの革ジャン姿の嵐が、にやにやとさやかの肩を叩いた。

 ――なんだよ、ペチャパイ音頭って。

 ぶすっとするさやかをよそに、嵐は平然と世間話を始めた。

「ダンディ冬枝、ちゃんとさやかのこと思い出したか?」

「ええ。嵐さんと鈴子さんにも、色々とお世話になりました」

 嵐は「あれは見物だったなぁ」と言って腕を組んだ。

「さやかが東京に帰っちまう、って言ったら冬枝さん、大慌てで『こまち』を飛び出して行ってさ」

「え…そうだったんですか」

「そりゃもう、血相変えて。まるで、かみさんに逃げられた亭主みたいだったな」

 嵐の減らず口はさておき、あの日の息を切らした冬枝の姿が、さやかの脳裏に蘇った。

 ――冬枝さん、それであんなに急いで来てくれたんだ。

 駅で「さやか!」と呼ばれた時、さやかは一瞬、目の前が真っ白になった。

 時間にすればほんの一日程度、冬枝から忘れられていただけだったのに、まるで100年ぶりに名前を呼ばれたみたいな気持ちになった。

 あの後、冬枝は本当にミルク焼を10個買ってくれた。さやかは、そんなにはいらないと口では固辞したものの、結局、冬枝と一緒に全部食べてしまった。

「うめえか?そうか」

 何度もそう言って笑う冬枝が眩しくて、幸せで――今思い出しても、さやかの胸が温かいもので満たされる。

 そこで、嵐が藪から棒に「さやかはさー、夏もこっちにいるの?」と聞いてきた。

「えっ?」

「東京の夏はあっちいだろ?こっちにいたほうが涼しいぜ」

「そりゃ…多分、こっちにいると思いますけど」

 というか、嵐に言われるまで、さやかは夏に帰省するという発想がなかった。浪人生に夏休みなんて関係ないというのもあるが、今は冬枝の元を離れる気になれなかった。

 嵐は「じゃあ、一緒に竿燈見に行こうぜ!」と満面の笑みで言った。

「竿燈って…8月にやるお祭りですよね。大きな提灯をたくさんぶら下げて練り歩くっていう」

「そうそう。せっかくこっちにいるんだし、地元の一大イベントを生で見とこうぜ。鈴子も一緒にさ」

「いいですけど…まだ6月ですよ」

 気が早い、と苦笑するさやかに、嵐は人差し指をメトロノームのように振った。

「ちっ、ちっ、ちっ。人気者の麻雀小町は、すぐに売り切れ御免になっちまうからさ。2か月前から予約しておくのが、ワイルド嵐のやり方」

「売り切れませんよ。そっか、竿燈か…」

 さやかも、小さい頃に親に連れられて見に行った覚えがある。夜空に天高く揺れる光の稲穂は、とても綺麗だった。

 ――冬枝さんと一緒に行けたら……。

 さやかは、無意識にジャケットのポケットに手を触れていた。ポケットの中には、冬枝からもらった四つ葉のクローバーが入っている。

 すると、さやかの考えを見透かしたかのように、嵐が口を挟んできた。

「ダメだぞ!ダンディ冬枝と夏祭りなんて!」

「…なんで、ダメなんですか?」

「男に免疫のないお前が、夏祭りのロマンチックなムードに流されたら、コロッとオチちまうに決まってるだろ。これは元警察官からの、ありがたーいアドバイスだ」

 さやかは「どうも」と棒読みで答えた。

 ――僕が誰に流されようと、僕の勝手でしょ。

 冬枝と一緒に竿燈を見ることを想像すると、さやかは今から夏が待ち遠しくなった。

 嵐は、さやかがカウンターに広げている新聞に目をやった。

「なんだよ。新聞読んでたのか」

「ええ、まあ」

 さやかは隣に広げていた2月の新聞を手に取って「今年の受験情報が見たくて」と言った。

 平磯殺しの犯人を巡る白虎組と鴉組の取引は、警察に洩れてはならない極秘の話だ。相手が嵐だろうと、うかつに喋るわけにはいかなかった。

 嵐は「ああ、入試か。今年は大変だったらしいな」と言った。

「入試前夜だったよな、朱雀組の組長が殺されたの。おっかねーな、東京は」

「そんなこともありましたね」

「確か、事件が起こったのって雀荘だろ?さやかなら、行ったことあるんじゃねえか?」

 さやかは「お店の名前は知ってますけど」と言った。

「お客のほとんどがヤクザだって聞いていたので、事件があったお店は避けてました」

「賢明だったな。危うく、組長殺しに巻き込まれてたところだ」

 さやかは、ふと『こまち』の天井を見上げた。

「ここのテレビ、昔からあんな緑色なんですか?」

「ん?ああ、そうなんだよ。最初はちゃんとカラーで映ってたんだけど、なんかどんどん色がおかしくなっちまって。電波が悪ぃのかな」

 天井近くに据え付けられているテレビは、いつも画面が緑色に映っている。おかげで、お昼のメロドラマも、ヒロインの顔が鮮やかな黄緑色に染まってしまっている。

「ダンディ冬枝がケチだから、ずーっとグリーンテレビのまんまなんだよ。なっ、中尾」

「さあ……」

 マスターの中尾は、オーナーである冬枝に遠慮して、言葉を濁した。

「そうだ、さやか。ドケチ冬枝に、いい加減『こまち』のテレビを買い替えろ、って言っておいてくれよ」

「そうですね。最近は羽振りもいいですし、テレビくらい買ってくれるんじゃないかな」

 さやかは新聞を畳むと「ありがとうございました、中尾さん」と言って返した。

「じゃ、僕はこれで」

「おい。今日は打っていかねえのか」

「これでも、受験生ですから。うちで勉強します」

 さやかはにっこりと笑うと、『こまち』をあとにした。

 その背中を見送ってから、嵐はどっかりとカウンター席に腰をおろした。

「否定はしなかったな」

 嵐は、ぼそりと呟いた。

 朱雀組組長が殺された雀荘に行ったことがないとも、組長殺しの件に自分は関わっていないとも、さやかは明言しなかった。そして、それ以上深追いされないよう、話を逸らした。

 嵐は、さやかが入試前夜にヤクザと夜通し雀荘で打っていた、と最初に聞いた時から気になっていた。先日、さやかが白虎組の組長たちに橋から飛び降りるよう強制されているのを見て、疑いが確信に変わった。

 ――幹部クラスに疑われるってことは、それだけの証拠があるってことだ。

 気がかりなのは、さやかが爆弾を抱えたまま、ヤクザの海の中をふらふら漂っていることだ。

 さやかが何故、朱雀組組長殺害事件という爆弾を胸に秘めているのかは分からない。確かなのは、冬枝という男ができてしまった以上、さやかはますますその爆弾の置き場を失くすということだ。

 事件に関わっていることが冬枝にバレたら、嫌われるかもしれない。或いは、冬枝を危険に晒してしまうかもしれない。少女の非行を多々見てきた嵐には、恋する乙女の危うい思考回路が手に取るように分かる。

 ――テレビなんかより、男を変えたほうがいいぞ、さやか。

 緑色のテレビは見ている分には困らないが、ヤクザとの付き合いは百害あって一利もない。

 いっそ、冬枝に新しい女でもできれば、さやかの気も変わるだろうが――と嵐は緑色の画面に映るメロドラマを見上げた。



 さやかが冬枝のマンションに戻ると、玄関のポストに封筒が1通挟まっていた。

 ――珍しいな。

 このマンションでは通常、郵便物は1階のエントランスにある郵便受けに配達される。そのため、届いたものは毎朝、冬枝自ら新聞を取りに行くついでに回収している。

 ――脅迫状とかじゃないといいけど。

 薄い封筒には、流麗な筆跡で冬枝誠二様、と記されている。裏返してみたが、差出人の署名はない。

 持った感じ、カミソリの刃などが入っているような重さではない。冬枝のプライバシーを侵害するつもりもないので、さやかはそっとリビングのテーブルに封筒を置いた。

 それから、ほどなくして冬枝が帰ってきた。

「冬枝さん。おかえりなさい」

「さやか。戻ってたのか」

「今日は図書館が休みなので、うちで勉強しようと思って」

 さやかはつい雀荘通いに夢中になってしまうため、毎週日曜日は受験勉強に専念する、と決めていた。新聞のバックナンバーをわざわざ『こまち』で見たのは、図書館が休館日だったせいだ。

 冬枝は「そうか」と短く言って、麦茶を自分のコップに注いだ。

「………」

 喫茶店『異邦人』で朝食を取ってから、冬枝の様子が何だかおかしい。よそよそしいというか、さやかに対して距離を置いているような気がする。

 ――朽木さんから、何か言われたんだろうか。

 冬枝が『異邦人』の駐車場で朽木と話しているところを、さやかはこっそり見ていた。さやかには朽木と会ったことを隠していた辺り、いい話だったとは思えない。

 ――こんな時にまた、お金の無心じゃないだろうけど。

 青龍会との対決を巡って、さやかが一向に冬枝を説得できないので、朽木は焦れているのかもしれない。

 だが、朽木にも言った通り、さやかは今は冬枝を説得できないと考えていた。

 ――冬枝さんのことをちゃんと分かってもいないのに、やみくもに自分の考えだけをぶつけたってダメだ。

 最適解を得るためにも、もっと冬枝のことを知りたい。だが、今日の冬枝は遠く見えた。

「冬枝さん」

「ん?」

「何かあったんですか?」

 さやかが思い切って尋ねると、冬枝は「何もねえよ」と言って麦茶を飲み干した。

「暑い中、事務所の草むしりなんかさせられたから、ちょっと疲れただけだ」

 冬枝は「シャワー浴びてくる」と言って、そそくさとその場を去ろうとした。

「あ、冬枝さん。手紙が届いてましたよ」

「手紙?」

 冬枝は、ようやくテーブルの上の封筒に気付いたようだった。

 手に取って表の宛名書きを目にした途端、冬枝の目が見開かれた。

「…冬枝さん?」

「………」

 冬枝は真剣な目付きで封筒を見つめて、微動だにしない。

 そして、終始無言のまま、冬枝は自室へと引っ込んでいった。

 さやかは、すっかり置き去りにされた気分で閉じた扉を見つめた。

 ――あの手紙、そんなに大事なものだったのかな。

 また一つ、冬枝の謎が増えた。真面目に勉強するつもりだったのに、冬枝に届いた手紙が気になって、さやかはそれどころではなくなってしまった。

 自室の机でノートと参考書を広げても、ちっとも手につかない。

 悪い報せだったのだろうか。身内の誰かが亡くなったとか――そういえば、冬枝の家族関係を聞いたことがない。

 ――僕、冬枝さんのこと、何も知らないんだな……。

 などとさやかが考えているうちに、窓の向こうがたそがれていた。

「………」

 やはり、冬枝のことが心配だった。手紙の内容が気になって仕方ないし、思い切って聞いてみることにした。

 答えてくれなければ、それでも構わない。さやかに教えるような内容ではない、と分かるだけでもすっきりする。

 さやかが椅子から立ち上がったのと同時に、部屋のドアがノックされた。

「さやか。飯、食いに行かねえか」

「今日は外で食べるんですか」

「ああ」

 冬枝は「お前に会いたいって言ってる人がいてな」と告げた。

「僕に?」

 もしかして、それが手紙の主だろうか。冬枝の知り合いならば、冬枝の代打ちになったさやかに興味を持ってもおかしくはない。

 さやかがドアを開けると、冬枝は何とも言えない表情をしていた。

 さやかを連れて行きたいような、行きたくないような――嬉しいような、嬉しくないような。

「あの…冬枝さん?」

「あぁいや、うん。まあ、美味いメシが食えるぞ。良かったな」

「はあ」

 何だか、冬枝の様子が変だ。それがさやかのせいなのか、これから会う相手のせいなのかは、まだ分からない。

 毛筆で書かれた手紙の宛名書きを思い出し、さやかは自分の紺のセットアップを見下ろした。

「えーと…ちゃんとした格好のほうがいいですか。もっと、おめかししたほうがいいかな」

 冬枝が緊張気味なところを見ると、手紙の主は相応の立場にある人なのかもしれない。どんな相手にせよ、冬枝に恥をかかせたくはない。

「おめかし?」

 冬枝は目を剥くと、「いや、いらん。いつもの格好でいい。何の気遣いもいらねえ。できれば気配を消しててくれ」と、矢継ぎ早に言った。

「はあ」

 もしかして、これから会うのは冬枝の苦手な相手なのだろうか。気難しいとか、ワガママだとか。

 高根の運転する車中であれこれと想像していたさやかの予想は、しかしどれも外れた。

「………」

 その人を一目見た瞬間、さやかは思考も言葉も失くしてしまった。

 絶世の美女――。

 そんな表現も月並みだと思えるほど、その人は人間離れしていた。憂いのある翳を湛えた眼差しも、すっと通った鼻筋も、凛とした立ち姿も、全てが妖しく、美しい。

 女の子にしてはメルヘンな話に興味がないさやかだが、その人を見た瞬間、水の化身だ、と反射的に思った。

 湖のように静謐で、どこまでも深く惹き付けてやまない引力。月夜の岸辺にでも佇めば、誰でも魅入られてしまうだろう。

 おまけに、ファッションモデルのように背が高い。冬枝を越す長身で、神様のようにこちらを見下ろしている。

 ――なんて綺麗な人なんだろう。

 一体、どれほどの時間、うっとりしていただろう。見惚れるさやかの背中を、冬枝がパンと叩いた。

「さやか。あんまり人をジロジロ見るもんじゃねえぞ」

「あ…。すみません」

 ここは月夜の岸辺ではなく、街中にあるバー『せせらぎ』である。

 薄暗い照明の下、その人は無言でさやかを見つめていた。

 艶やかな長い黒髪に、マオカラーのついたチャイナ風のドレス。蒼みを帯びた瞳に、背の高さや長い脚とあいまって、とても神秘的な雰囲気をまとっている。

 冬枝は、チラッと相手を横目で見てから、言葉を選ぶようにたどたどしく言った。

「あー、この人は俺が昔、世話になったみ…みな……ミナさんだ」

 美女――ミナは、何か言いたそうに目線を冬枝に送ったが、口をつぐんだ。

「ミナさん…ですか」

 またうっとりしそうになったさやかは、ハッと我に返って自己紹介した。

「はじめまして。夏目さやかといいます」

「さやか、か」

 女性にしては低いが、不思議と胸の奥深くまで通るような声だった。

「運命かもしれないな」

「運命?」

「死んだ母親が、サヤコって名前だった」

「サヤコさん…」

 ミナはさやかの手を取ると、さやかの手のひらに指先で字を書いた。

「清子、って書くんだ。お前みたいに、澄んだ瞳をしてた」

「そんな…」

 ミナのような美人から褒められると、何だか足元がふわふわしてくる。さやかは、ミナの瞳に吸い込まれてしまいそうになった。

 そこで、冬枝が横からぐいっとさやかを引っ張った。

「ミナさん。今日は開店祝いですから、金使わせてくださいよ。こいつらに、メシでも食わせてやってください」

 後ろに控えていた高根と土井が「どうも」と言って頭を下げた。

「酒は?」

 ミナは、何故かさやかのことだけを見て言った。

「えっと…僕は飲まないです。まだ18歳なので」

「そうか」

 ミナが、いい子いい子とばかりにさやかを撫でた。さやかの頭をすっぽりと包み込んでしまいそうな、大きな手だ。

 ほとんど表情が変わらないが、手つきや言葉にミナの優しさを感じる。いい人だな、とさやかは思った。

「適当に、ありもので作った。量はあるから、好きなだけ食っていいぞ」

 と言ってミナがテーブルに広げたのは、大量のパエリアだった。

 色鮮やかなスペイン料理は、こんな田舎のバーでお目にかかれるようなものではない。さやかは、ミナの料理の腕前に驚かされた。

「なんかよく分からないですけど、うめえっス!うま!」

「バカ土井、そんなに掻き込むなよ」

 土井が、忙しなくスプーンを動かしているのも頷ける。さやかだって、こんなに美味しいパエリアは初めて食べた。

「うまいか?」

 ミナから静かな声で聞かれ、さやかは「はい」と頷いた。

「美味しいです」

「そうか」

 またポンと頭を撫でられ、さやかの心がふわりと温かくなる。

「まさか、東京からこっちに戻ってきてるなんて思いませんでしたよ」

 冬枝とミナは、さやかたちから離れたカウンター席で、何やら昔話に花を咲かせているようだった。

「親父さんは、東京に残してきたんですか?」

「ああ。施設に入ってるから、世話する必要もない」

「まさか、あんたがこんな店を開くなんて、思ってもませんでしたけど」

「ただ田舎暮らししてたって、つまらないからな」

「それはそれで、あんたらしいですね」

「だろ?」

 そう言ってタバコの煙を吐く様すら、ミナは絵になった。

「あんた、ここの2階で暮らしてるんですか?」

「そうだ」

「手狭じゃないですか?またマンションででも暮らせばいいでしょう。金がないわけじゃないでしょうに」

「今はいい。このぐらいで」

 2人が話しているのは、たわいもない世間話だ。だが、冬枝の表情がいつになく明るい。

 さやかは、こっそりと高根と土井に尋ねてみた。

「ミナさんって、冬枝さんのお知り合いなんですか?」

「それが、自分たちも今日が初対面でして」

「兄貴の歴代彼女の中では、間違いなくナンバーワンの美女っスよ」

 土井は「ちょっと背が高すぎるけど」と言って、頭の上で手を上下させた。

 弟分たちですら知らないということは、冬枝とミナはかなり長い付き合いということか。

 カウンター席で、冬枝がウィスキーグラスを傾けた。

「いきなり手紙なんか寄越すから、びっくりしましたよ。言ってくれりゃ、引っ越しの手伝いぐらいしたのに」

「お前たちの手を煩わせるほどじゃない。大した荷物もないから」

 冬枝の元恋人だった美輪子と違って、ミナのほうが立場が上らしい。年上なのかもしれないが、ミナの神秘的な美貌は、年齢をまったく悟らせない。

 ミナの口数はさほど多くないが、冬枝は饒舌にあれやこれやと話している。機嫌がいいせいか、ウィスキーを次から次へとおかわりしている。

 高根と土井が、ひそひそと顔を寄せ合った。

「兄貴、今日はペースが速いな」

「無理もないっしょ。あんな美人と一緒にいたら、顔見てるだけで幸せだよ」

 と言ってから、土井がハッとさやかに気付いて「ちょっと背が高すぎるけど」と再び言った。

「………」

 さやかは、無言でレモネードを口にした。

 今日は貸し切りらしく、他の客の姿はない。店内を見回したさやかは「あ」と声を上げた。

「麻雀卓……」

 いつもなら真っ先に気が付くのに、今の今まで店の奥に雀卓があるのを見落としていた。見た者の魂を抜くようなミナの美貌のせいか、冬枝の常ならぬ態度のせいか。さやかは、自分で自分に戸惑った。

 さやかの視線に気付いた冬枝が「ああ」と言った。

「せっかくだし、打たねえか、さやか」

「あ…はい」

「み…ミナさんは、麻雀強えんだぞ。さやかとどっちが勝つか、見物だな」

 どこか自慢げに言う冬枝に、さやかの胸がちくりと痛んだ。

 そして、そのせいでもないだろうが、さやかはあっさりミナに敗北した。

「ロン」

「うっ…」

 しかも、さやかがミナに振り込む形になってしまった。これでさやかは最下位に転落し、ミナが1位、冬枝が2位、高根が3位という結果に終わった。

 ――ダメだ。ミナさんには勝てない…。

 悔しさよりも、失意がさやかを襲った。

 ミナと相対していると、この世ならざるものと打っているようで、ペースを掴めない。ミナの淀みない打ち回しと比べて、さやかの打牌は明らかに不格好だった。

 さやかは、精一杯の気力で愛想笑いを浮かべた。

「お強いですね、ミナさん」

「お前が弱いんだ」

 スッパリと切り捨てられ、さやかは顔を上げられなくなった。

「相手がミナさんじゃ勝てっこねえよ!俺だって勝ったことねえからな!ハハハ」

 麻雀中に酒とタバコが進んだ冬枝は、すっかり上機嫌である。

「………」

 冬枝の代打ちとして呼ばれたのに、この体たらくでは、さやかは自分が情けなかった。ミナと会ってからの自分は、まるで深い海で溺れているかのようだ。

「ぐー…ぐー…」

 酒とつまみをたらふく食いながら成り行きを見守っていた土井は、店のソファでぐっすり寝入っている。高根が、苦笑気味に言った。

「もう、いい時間ですね」

「そうだな。高根、さやかと土井を連れて帰ってくれねえか」

「わかりました」

「えっ…冬枝さんは?」

 さやかが聞くと、冬枝はミナの肩をポンポンと叩いた。

「俺は、み…ミナさんと、積もる話があるからよ。もう夜遅いし、お前はとっとと帰って寝ろ」

「…分かりました」

 さやかは雀卓から立つと、帰り支度をしに席へと戻った。

 冬枝とミナは、雀卓に残ったまま、また何か話をしている。

 ――楽しそうだな、冬枝さん。

 グラスに残ったレモネードを呷ったら、さやかの目に涙が滲んできた。

 冬枝と同様、というかそれ以上にミナもウィスキーを飲んでいたが、白く透き通った横顔は素面同然だ。全く揺らがないその姿が、さやかには高く聳え立つ壁のように思えた。

 ――あんなに綺麗で、優しくて、料理も美味しくて、麻雀まで強い人に、僕が敵うわけがない。

 ミナの完璧さだけではない。冬枝が、他人の前であんなにくつろいで喋っているところを、さやかは初めて見た。

 誰と一緒にいても、冬枝はどこか距離を置いている。何かと親身にしてもらっているさやかですら、冬枝の眼が時に冷たく、時に虚ろに見える。

 ミナの前では、冬枝は打ち解けていた。まるでさやかの知らない人のようで、それがどうしようもなく悲しい。

 ――冬枝さんは、ミナさんのことが好きなんだな。

 そんな解を出したら、涙が頬を一筋伝った。さやかは、慌てて店の隅のほうを向いた。

 ――僕、なんで泣いてるんだろう。

 涙を拭こうとしてハンカチを出すと、ひらっと四つ葉のクローバーが床に落ちた。

「あっ」

 ――冬枝さんからもらったクローバー!

 さやかは慌ててクローバーを拾うと、元通りにそっとハンカチに挟んだ。

「さやかさん、行きましょう」

 寝てしまった土井を何とか車に乗せた高根が、さやかを促した。

「…はい」

 指先でこっそり涙を拭うと、さやかは「失礼します」と言って、冬枝とミナの前を辞した。



 夜明けが近くなるまで、冬枝はミナと飲んでいた。

「どうです?めんけかったでしょう、うちのさやか」

「ああ」

 もう何度目かになるか分からない冬枝のセリフに、ミナは相槌を打った。

 酔っぱらった冬枝は、さやか本人がいなくなったこともあってか、さやかの話しかしなくなった。しかも、もっぱら自慢話だ。

「あいつ、今年で19になるっていうのに、酒もタバコもやらないんですよ。真面目でしょう?」

「ああ」

「それに、気も利くいい女なんですよ、さやかは。さっきだってきっと、あんたに遠慮して負けてくれたんです。あいつの実力は、あんなもんじゃありませんから」

「だろうな」

 一度打っただけだったが、ミナにはさやかの力量がはっきりと見えていた。

 さっきは上手く打てていなかったが、麻雀が心から好きな女なのだということは、打ち方で分かった。金目当てで打っている連中とは、ひたむきさが違う。

 そんなさやかが、あんなに迷いだらけの打ち回しになったのは――冬枝の言うような忖度ではなく、自分のせいだろうということも、ミナには分かっていた。

「さやかはね、朝は生まれたての赤ん坊みたいによちよちしてますけど、夜はめっぽう冴えるんですよ。麻雀小町、ってのは伊達じゃなくって……」

 もう12周目になる冬枝の話を、ミナはタバコを持った手で制した。

「冬枝」

「はい?」

「今度、さやかをここに連れて来い。サシで会いたい」

 途端、冬枝の頭からアルコールが消し飛んだ。

「…さやかが何か、粗相でもしましたか」

 冬枝はミナの前にずいと回り込んで、正面から頭を下げた。

「ここは一つ、俺の顔を立てて勘弁してもらえませんか」

「興味ねえ、てめえのツラなんか」

 ミナはにこりともせずに一蹴した。

「さやかと話がしたいだけだ」

「じゃ、俺もついていきます」

「来なくていい」

 ぴしゃりと言うと、ミナはウィスキーグラスに口をつけた。

 カランと澄んだ音を立てる透明な氷に、さやかの面影が重なる。さやかが店の隅でそっと涙を拭っていたのを、ミナは見逃さなかった。

 冬枝は、必死でミナに懇願した。

「代打ちつったって、さやかは堅気みたいなもんなんです。まだ男も知らねえような小娘なんです」

「見りゃ分かる」

「頼むから、さやかに何もしないでくださいよ!?聞いてますか!?」

 冬枝に肩を揺さぶられても、ミナはウィスキーグラスに目を落としたままだった。

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