2話 任侠心あれば雀士心あり
第2話 任侠心あれば雀士心あり
凄腕の雀士とはいえ、夏目さやかはパッと見、どこにでもいそうな普通のお嬢さんだ。知性を感じさせる大きな瞳に、物静かな佇まい。白いブラウスに紺のジャケットという、地味な服装。その姿は、品行方正な優等生そのものである。
つまり、冬枝がさやかと喫茶店で語らいなどしたら、善良な市民から『いたいけな少女がヤクザに脅されている』と誤解されかねない。
実際、さやかとはまだ出会ったばかりで、『東京から来た』ということ以外は素性もよく知らない。代打ちを頼むにあたり、細かい話を詰めるうちに、口論になる可能性もある。そうなったら、なおさら人目についてしまうだろう。
というわけで冬枝は、さやかを自宅のマンションへと連れて来た。
そこに至るまでの雀荘『こまち』での会話は、非常にシンプルなものだった。
「夕飯ついでに、詳しい打ち合わせがしたいから、うち来ねえか」
「わかりました」
自分で誘っておいてなんだが、さやかが二つ返事で承諾したので、冬枝はくわえたタバコを落としそうになった。
――普通、そんなノコノコとお招きにあずかるか、男の家に。
それとも、地味に見えて中身はかなりスレているのか。東京の娘は身持ちが悪いのか。あるいはただの世間知らずかとも思ったが、車中でさやかは無表情にこう言った。
「冬枝…さんって、そのスジの人ですよね」
「ああ」
冬枝がヤクザだと分かったうえで、さやかはその車に乗り込んだのである。
――もし、俺が悪いおじさんだったら、どうするつもりだったんだ。
だが、さやかの無鉄砲は、冬枝も既に承知済みである。何せ、さやかはたった一人で3人のスケベ親父に立ち向かい、総額450万円を巻き上げたのだ。
さやかは「そうですか」と言って、物憂げに目を閉じた。
「…昼間はああ言いましたが、僕はイカサマ自体に反対なわけじゃありません。必要があれば請け負います」
急な申し出に、冬枝は戸惑った。
昼間、さやかは『こまち』でイカサマを弄した相手に対し、それを咎めるようなことを言ったばかりである。
さやかは、「イカサマなんかしなくても、勝てますけど」と付け加えた。そこで冬枝は、何となくさやかの真意を察した。
――この娘、とにかく麻雀が打ちたいだけなのか。
正義を気取るわけでもなく、金に困っている風でもない。さやかの執着は、麻雀にだけ向けられている。
「物分かりが良くて助かるが、んなこたぁ考えなくていい。俺がついてる限り、お前につまんねえ博打はさせねえよ」
ポンポンと肩を叩くと、さやかの背から少しだけ緊張が解けた。何を考えているのか分からない娘だが、それなりに気を使ってはいるらしい。
実際に冬枝のマンションに連れ込まれても、さやかは物怖じする様子がない。
「お邪魔します」と言って上がり、玄関で靴を揃える姿には、知人の家にでも来たみたいな余裕すら漂っていた。
冬枝は、自宅で待っていた若者2人を紹介した。
「俺の弟分だ。こいつは『こまち』でも会ったな、高根だ。うちの台所を任せてる。サングラスのほうが土井。こっちは雑用係だ」
「高根です」
「どーも、土井です」
弟分2人が軽く会釈すると、さやかも「夏目さやかです」と言って頭を下げた。
さやかの麻雀を目の当たりにした高根はともかく、『こまち』での経緯を知らない土井は、物珍しげな視線をさやかに向けている。冬枝は軽く咳払いをした。
「何か必要なものがあったら、この2人に頼め。お前、東京から来たらしいが、今は何やってるんだ」
「僕は……」
「就職?それとも、失意の浪人生?」
土井がぶしつけに尋ねたので、隣にいた高根が肘で小突いた。
さやかは「浪人生です」と答えた。
「こちらには、受験勉強のために来ました。静かなところのほうが、集中できるので」
受験勉強そっちのけで麻雀に励んでいたじゃねえか、と冬枝は思ったが、心のうちにとどめておいた。機嫌を損ねて、代打ちの話を断られては困るからだ。
「浪人生って、今いくつだ」
「18です」
「18で、手持ちが1500万か。いい稼ぎじゃねえか」
冬枝がちらりとさやかのボストンバッグを見やると、さやかは苦笑した。
「たいした相手に巡り合わなかっただけです。これは、学費の足しにでもしますよ」
「お釣りがくるんじゃないかな」
また土井が無遠慮に口を挟んだので、高根が土井の足を踏んだ。
さやかはちらりと窺うような目を冬枝に向けた。
「それとも、450万はお返ししたほうがいいですか。あそこ、冬枝さんのお店なんでしょう?」
「いや、いい。土井、ちょっと黙ってろ」
冬枝がしっしっと手を振ると、土井は口にチャックをかける仕草をした。
貧乏なのは事実だが、さやかに守銭奴と思われては敵わない。
「受験勉強のために来たって、親戚の家にでも泊まってるのか」
「いえ、今はホテル暮らしです。これからアパートでも探そうと思ってたんですが、途中で雀荘を見つけたので、つい」
はにかむような笑みこそ可憐だが、さやかが「つい」で450万を荒稼ぎし、挙句の果てにチンピラに逆上され、冬枝に助けられたのは今日の昼間の出来事である。
「なら、もう遅いし、今夜はうちに泊まってけ」
冬枝がなんでもないことのように告げたので、弟分2人がギョッとしてこちらを見た。
無理もない。冬枝に妻子はおらず、このマンションには一人で住んでいる。つまり、独身おじさんが、18歳の女子と2人きりで一夜を過ごす、と言い出したのだ。
(兄貴、いつから嫁入り前の女の子をたぶらかすような変態に成り下がっちまったんですか!見損ないましたよ!)
(兄貴って、こういう女がタイプだったのかあ。オレはもっと派手めの娘のほうがいいな)
弟分2人の視線から好き勝手な感想が滲んでいるが、冬枝は無視した。
対するさやかは慌てる素振りもなく、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいます」
これでさやかが本当にただの世間知らずなら、俺はかなり悪いことをしている――と、冬枝はバツが悪くなった。
冬枝がコーヒーを淹れに台所に立つと、弟分2人が声を潜めて「兄貴、オレたちそろそろお暇したほうがいいですか」と聞いてきた。
「バカ野郎、お前ら何か勘違いしてねえか。俺は、さやかにやましいことをする気は一切ねえ」
「えっ、そうなんですか」
「そうなんですか、じゃねえ。今のはちょっと、さやかを試しただけだ」
「試すって?」
土井の問いに、冬枝はヤカンをコンロにかけながら答えた。
「ここでビビって逃げ出すようなら、麻雀がうまいだけのただの小娘だ。俺の代打ちとして本気でやっていく覚悟があるのかどうか、奴の度胸をみたかったんだ」
「はあ…」
「分かんないですよ、老け専の女の子って可能性もありますから」
「土井!」
高根が土井の口を手で塞ごうとし、それに抵抗した土井と揉み合い始めた。
「あの子、相当変わってますよ。見た目普通の女の子なのに、男みたいに『僕』とか言ってるし。口調もなんかコンピューターみたいで」
高根の腕をかいくぐって土井が言うと、高根も土井を押さえつけながら「確かに」と続ける。
「大金を持ってるのに、あんなに無防備なのは不自然です。何か魂胆があるんじゃないでしょうか」
「魂胆って何だよ」
冬枝が尋ねると、高根は天井を睨みながら考えた。
「えーと……実は、青龍会あたりの手先だ、とか」
「スケベなおじさんをたらし込む女泥棒だ、とか」
「土井~!」
高根が土井を締め上げ、「ギブ、ギブギブ」と呻く土井の顔からずるっとサングラスがずれた。
青龍会は、関東を拠点にする暴力団だ。最近では、敵対する朱雀組の組長を暗殺した件で、世間を騒がせている。武闘派で、手段を選ばず勢力を拡大する青龍会に対し、冬枝の属する白虎組も危機感を抱いている。
――そんな弱い者いじめみたいな麻雀打ってて、楽しいですか。
昼間、雀荘『こまち』の裏手で聞いたさやかの声が、冬枝の脳裏に蘇る。ヤクザの功利主義とは真逆の純粋さが、そこにはあった。
「心配すんな。俺の目を信じろ」
ほれ、と言って冬枝が2人にそれぞれコーヒーを淹れてやると、弟分たちは恐縮して受け取った。
「まあ、自分もあの娘が悪人には見えませんけど…それだけに、何考えてるのかさっぱり」
「兄貴、ホントにあの娘に何もしないんですか?」
「土井!」
高根は土井を叱りつつも、明らかに土井と同じ疑いを抱いていた。
――俺、そんなに信用ねえのか。
あんな子供に手を出すほど落ちぶれてはいないつもりだが、さやかからも下心があると思われていたら不本意だ。冬枝は、渋い顔でコーヒーを啜った。
さやかにやましいことをしない、と言ったのは、本心である。だから夕飯後、さやかがシャワーを浴びに行ったのを見計らって、冬枝がさやかの荷物を物色し始めたのは、決してスケベ心によるものではない。
高根に作らせた夕飯を食べている間、さやかはほとんど喋らなかった。元々無口なほうなのかもしれないが、何か考えるような沈黙は、台所での冬枝と弟分たちとの会話が聞こえていたのかもしれない。
おかげで、冬枝の中でさやかの情報は「東京から来た娘」から「東京から来た18歳の浪人生(ホテル住まい)」程度しか増えていない。東京でどんな風に生きてきたのか、これまでにスジ者との関わりはあったのかなど、肝心なことが見えてこなかった。
尤も、冬枝自身はさやかの背景にそれほどこだわっていない。代打ちとしてのさやかの資質は分かっているからだ。
ボストンバッグの中身は、高根が見積もった通りの1千万と、『こまち』で勝った450万が乱雑に詰められているだけだった。私物は、もう一つのトランクに収められているようだ。
女の持ち物を漁るなど、冬枝の趣味ではない。だが、自宅に泊める以上は、所持品をあらためておきたい。さやかの向こう見ずなところを見ていると、ナイフの1本や2本は持っていてもおかしくないからだ。
着替え。財布、ポケットティッシュにハンカチ、櫛、コンパクトミラーに歯磨きセット。『受験勉強』は嘘ではないらしく、参考書やノートも何冊か入っている。
英語で書かれた、専門書と思しき文庫本も1冊あった。どうやら、さやかはかなり頭が良いらしい。どうして浪人しているのか、冬枝は疑問になった。
――まさか、麻雀狂いが祟って、落第したのか?
かなり使い込まれたA5サイズのノートには、麻雀に関するメモがびっしりと書き込まれている。この場合の最適解はどうたらこうたら、冬枝は目で追うだけで頭が痛くなってきたため、ほとんど読まずにページを閉じた。
ルービックキューブもあったので、戯れにいじくってみた。元に戻せなくなって、すぐにトランクに返したが。
あとはウォークマンが入っているぐらいで、刃物も拳銃も見当たらない。さやかは本当に、身一つでヤクザの家に乗り込んできたようだ。
――何が、あの娘をそこまで駆り立てるんだ?
麻雀が打ちたいなら、雀荘や麻雀教室で平和に打っていればいい。スケベ親父3人とケンカしたり、ヤクザの代打ちになったりするなんて、危ない橋を渡る必要はないはずだ。
家出少女か――などとあれこれ想像を巡らせていたら、バスルームの扉が開く音がした。
冬枝は慌ててトランクの中身を元に戻すと、ソファに座って晩酌しているポーズを取った。
ほどなくして、藍色に白の水玉模様のパジャマ姿のさやかがトコトコとやって来た。
「お風呂、お先にいただきました」
「おう。あ、お前も飲むか?」
「お酒ですか」
「ああ。『太平山』」
冬枝が酒を勧めると、さやかは「…遠慮しておきます」と控えめに断った。
今時、高校生が酒盛りしているのも珍しくはない。こういうところを見ても、やはり、さやかは麻雀好きという点以外は至って普通、どころか真面目な娘である。
「それより、そっちは何ですか?」
「ん?ジュンサイ」
高根が知り合いからもらったとかで、冷蔵庫に入れていったものだ。塩辛いものを食うより健康的かと思ったものの、酒のつまみとしては微妙だった。
「食うか?」
と言って冬枝が箸を向けると、さやかは何の躊躇もなく、ぱくっと箸に食らいついた。
ぎょっとする冬枝などお構いなしに、さやかはヌルヌルした若芽を頬張った。
「うん。美味しい」
ごちそうさまでした、と言ってぺろっと唇を舐める仕草には、一切の邪気がなかった。
――いくら何でも、ガードがゆるすぎるんじゃねえか……。
冬枝は段々、親戚の娘でも相手にしているような気がしてきた。
夏目さやかは、高根が言うところの『青龍会の手先』ではなかったし、また土井が言うところの『スケベなおじさんをたらし込む女泥棒』でもなかった。
さやかには、あらかじめ客室を用意しておいた。さやかは素直にそこで寝て、朝まで出てくることはなかった。
――いいんだか、悪いんだか……。
こんな無防備さで、一体どうやって東京の賭け麻雀で生き残ってきたのだろう。冬枝より遅く起きて「おはようございまふ」と寝ぼけ眼をこするさやかを見ていると、冬枝は下心よりも、親心のほうが芽生えそうになった。
冬枝は、さやかの分のコーヒーをテーブルに置いてやった。
「さやか。さっき、組の事務所に電話したんだが」
「はひ」
「今夜、うちの代打ちと勝負してもらう。そこで腕前を認められれば、正式にうちの……白虎組の代打ちとして、お前を迎えるそうだ」
すると、途端にさやかの目の焦点がハッキリした。
「分かりました。勝ちます」
「いや、まあ、相手はうちで長年抱えている代打ちだから、そう簡単にはいかないだろうが……うちの幹部や組員に、お前の力量を見てもらうのが目的だ。いわば、代打ちになるための試験だと思ってくれればいい」
「勝ちます」
さやかは後ろ髪がピョコンと変な方向に跳ねた寝癖頭のまま、強い瞳で繰り返した。
夏目さやかは、相当な麻雀バカ――それが、冬枝が一晩を共にして得た結論である。
代打ち試験は夜のため、それまでの間、冬枝はさやかを外に連れ出すことにした。
朝食のトーストをかじりながら、冬枝が「お前、せっかく東京から来たんだし、観光でもしたらどうだ」と誘ったのだ。
予想通り、さやかは「雀荘以外の場所にはまだ行っていないので、案内してもらえると助かります」と応じた。
東京より田舎とはいえ、駅の周辺にはデパートもあるし、若い娘の好きそうな店もあるのだが、それら全て無視して雀荘一直線だったわけだ。
とりあえず、冬枝たちは近くの公園に向かった。広い公園で、史跡を元にしており、売店や美術館、図書館なども隣接している。
弟分たちには自宅の掃除や洗濯があるため、冬枝たちは車ではなく徒歩で向かった。
「あ、鳩」
さやかが鳩に興味を示したので、冬枝は売店で鳩のエサを買ってやった。
休日だけあって、辺りは家族連れやカップルで賑わっている。お堀の噴水などを眺めていると、自分たちも平和な休日を過ごすお仲間だと錯覚しそうになる。
――まあ、アベックには見えねえだろうが。
冬枝は43歳、さやかは18歳。アベックどころか、立派な父娘だ。
「東京者には、見たってつまらねえもんばっかりだろうな」
お堀を望む大きな松の木の下で、冬枝とさやかは並んでベンチに腰かけた。
「そんなことありませんよ。何だか懐かしいです」
「懐かしい?」
「はい。5歳までこっちにいたので」
「そうだったのか」
さやかは、足元の鳩にぱらぱらとエサを撒いた。
「父がこちらの生まれなんです。仕事の都合で引っ越して、あとはずっと東京ですけど」
「じゃ、さしずめ里帰りってところか」
「そうですね。ジュンサイも小さい頃、おばあちゃんが食べさせてくれた記憶があります」
「ああ…」
ゆうべのアレはそういうことか、と腑に落ちた。冬枝は、さやかの中では「おばあちゃん」と同じ分類のようだ。
――そりゃ、警戒されないわけだ。
年が2回りも離れると、男扱いされないらしい。勉強になる。
「父は大学教授、母は専業主婦です。家族全員、暴力団との関わりはありません。勿論、警察の知り合いもいません」
これで満足ですか?とさやかが聞くので、冬枝は「ん?」と首を傾げた。
「僕の情報が欲しいから、荷物を漁ったんじゃないんですか」
「……気付いてたのか」
「気付きますよ。ルービックキューブは六面バラバラになってるし、ウォークマンは逆さまに入ってるし。冬枝さん、泥棒には向いてませんね」
澄まし顔で言われて、冬枝は憮然とするしかなかった。
「悪かったな。家に泊めるからには、武器とか危ねえモノを持ってないか、確認しておきたかったんだ」
「所持品検査なら、堂々としてくれて結構ですよ。見られて困るものも持ってませんから」
「お前な……」
――こいつ、自分が女だって分かってねえんじゃないのか。
とりあえず、さやかには自分の素性を隠すつもりはないらしい。冬枝は、気になっていたことを聞いた。
「お前、親にはなんて言って出て来たんだ」
「冬枝さんに言ったのと同じです。静かな田舎で受験勉強がしたい、って。ここは生まれ故郷ですから、両親も納得してました」
「親不孝者だな」
いや、俺が言えた立場じゃねえか……と、冬枝はタバコの煙を細く吐いた。
「お前の麻雀好きを、親はどこまで知ってるんだ」
「特に隠してません。…まあ、高校生の頃は、雀荘じゃなくて麻雀教室に通ってる、って嘘ついてましたけど」
「高校生の頃って、つい最近じゃねえか」
尤も、冬枝のシマでも、雀荘やパチンコ店に出入りする高校生は珍しくない。余程のトラブルを起こさない限りは見逃しているので、東京も似たようなものなのだろう。
「『こまち』みたいなことが東京でもあったんじゃねえのか」
さやかのような若い女子に、麻雀で完膚なきまでに打ちのめされれば、逆上する男は多いだろう。『こまち』では冬枝が助けたが、東京ではどうしていたのか。
「大抵は、お金を渡してお引き取り願ってました。後は、雀荘を変えたり」
「よく、それで済んだな」
さやかは華奢で、明らかに腕っぷしの強いほうではない。力ずくで迫られれば、ひとたまりもないだろう。
さやかの横顔に影が差した。
「……自分がやってることの危うさは、薄々分かってました。今まで無傷で済んでるのは、たまたま運が良かっただけだって。いつか取り返しのつかないことになるかもしれない、とも」
紺のタイトスカートの上に置かれた小さな拳が、きゅっと握り締められた。
「でも、麻雀だけはやめられません。麻雀は、解けないパズルみたいなものなんです。その時々で解が変わる、無限に答えの出せる問いなんです。麻雀のことを考えているだけで、わくわくする」
さやかの口調が熱を帯び、18歳という年相応の若さが覗いた。
「悪いことをしたわけじゃないのに、好きなことを諦めるなんて出来ません」
一息に言うと、さやかは窺うように冬枝を見た。
「僕……わ、わたしって、変ですか」
やはり、昨日の弟分たちとの会話は聞かれていたらしい。さやかのたどたどしい『わたし』を、冬枝は笑い飛ばした。
「お前は俺の子分じゃねえんだから、俺の前でかしこまんなくたっていい。さやかはさやかだ」
わしゃわしゃと頭を撫でてやると、さやかは「…やめてください」と言いながらも、小さく笑った。
街中にある小さな和菓子店から、冬枝とさやかは連れだって出てきた。
「あったかい」
さやかの手には、ほかほかと湯気を上げる白い大判焼きが握られている。冬枝も、さやかのついでに自分のぶんを買った。
さやかは包み紙から大判焼きを出すと、ぱくっとかぶりついた。
「おいひいです」
前髪の開いたさやかの真ん丸な輪郭と、真ん丸な大判焼きが並んで、何とも可愛らしい。こういうところはまだ子供だな、と冬枝は微笑ましくなった。
「そうか。そりゃよかった」
「でも、ミルクの味しないです」
さやかは『ミルク焼』と彫られた生地を見つめて、首を傾げている。
冬枝も、できたてのミルク焼をひと口かじった。
「そりゃそうだ。中身はただのあんこだからな」
「えっ?じゃあ、なんで『ミルク焼』なんですか?」
「それは……」
答えようとした冬枝の視界に、見覚えのあるアルマーニ姿が映った。
――朽木!
朽木は通りの角に隠れて、ニヤニヤしながらこちらに手を振っている。
冬枝は苦り切ったが、仕方なくミルク焼をさやかに差し出した。
「さやか。これ持っといてくれ」
「えっ?」
「ちょっと出てくる。すぐ戻るから、ここで待ってろ」
「…はい」
さやかを店の前で待たせると、冬枝は早足に朽木の元へ向かった。
朽木は「よう」と言って、馴れ馴れしく片手を上げた。
「よう、兄弟。デートの邪魔して悪いな」
「デートじゃねえ。何の用だ」
朽木は、通りの向こうにいるさやかのほうをちらりと見た。
「あの女……麻雀小町、だったか。今夜、親分たちに紹介するんだって?」
「もう知ってるのか」
つい今朝、決まったばかりの話である。実力のある代打ちを他に取られては敵わない、と冬枝が話を急いだからだ。
朽木は、唇を皮肉な笑みの形に歪ませた。
「霜田さんも興味津々だったぞ。あの溝口さんを破った、っていう麻雀小町に」
冬枝には、話が読めた。
昨夜は、白虎組若頭補佐・霜田の家でパーティーがあった。兄貴分でもある霜田に、朽木は自身の敗北をここぞとばかりに吹聴したに違いない。
――霜田さんに目をつけられると、面倒だな。
朽木の兄貴分だけあって、霜田もなかなかに狷介な男だ。今夜のさやかのお披露目で、霜田から難癖をつけられないといいが、と冬枝は案じた。
朽木は、真っ黒いロングコートのポケットに両手を突っ込んだ。
「組の代打ちにあんな若い娘を推薦するなんて、前代未聞だぞ。恥かく前に撤回したらどうだ、冬枝」
朽木は「代打ちなんかより、愛人にでもしたほうがお似合いだ」と嘲笑った。
店の前で待つさやかの姿が、小さく揺れている。朽木の言葉にさやかを汚されたような気がして、冬枝は頭にきた。
「自分が負けたからって、やっかんでるんじゃねえ。俺は、本気であの女を代打ちにするつもりだ」
「ほー、そうかい。酔狂なこって」
朽木は軽くいなすと、「せいぜい、親分に披露する芸でも仕込んでおくんだな」と言って、冬枝に背を向けた。
「てめえこそ、霜田さんにお手でもしてりゃいいんだ。バカ野郎」
一人になった路地で、冬枝は毒づいた。
さやかの行く末に、早くも暗雲が立ち込めた。朽木は極端な例だが、若い女であるさやかを見下す輩は多いだろう。
――俺が代打ちにするって決めたんだ。俺が、親分たちにさやかを認めさせてやる。
組長や若頭は、きっと厳しくさやかの腕前を評価するだろう。朽木ごときにうんざりしてはいられない。
腹を固めたところで、冬枝はさやかの元に戻った。
「悪い。待たせたな」
「いえ。大丈夫です」
さやかは「はい」と言って、冬枝のミルク焼を手渡した。
ぬるくなったミルク焼を手に取った冬枝は、違和感を覚えた。
「なんか、俺のミルク焼、縮んでねえか」
「気のせいですよ」
「さっきより、二口分ぐらい小さくなってるように見えるんだが」
「気のせいですって」
さやかは、口元をもぐもぐ動かしながら、平然としらを切った。冬枝は苦笑した。
「そんなに気に入ったのかよ」
「…はい」
さやかは恥ずかしそうに目を伏せると「すみません」と謝った。
ミルク焼を頬張っているさやかを見ていたら、毒気が抜けた。冬枝は、「別に構わねえよ」と笑って、小さくなったミルク焼をかじった。
夜、冬枝はさやかを連れて組事務所に向かった。
弟分の高根がハンドルを握り、冬枝とさやかは後部座席に座った。
もう一人の弟分である土井が、「さやかさん、大丈夫ですか」と聞いた。
「緊張してません?組事務所に行くなんて、オレでも緊張しますよ」
「お前、何年やってるんだよ」
運転席の高根がツッコミを入れた。土井が「だってさ」と口をとがらせる。
「事務所には親分とか、若頭みたいなお偉方がいるじゃん。オレみたいな下っ端はもう、口を利くのも畏れ多くて」
「土井に、そんな繊細な神経があるようには見えないが」
「さやかさん。事務所って、ちょっとでもドジすると、こわーい兄貴たちからぶん殴られるんですよ。それがもう、痛いのなんのって」
土井が助手席からさやかを振り返り、両手を上げて襲い掛かるふりをした。
「土井、さやかを脅かすんじゃねえ」
冬枝は軽くたしなめた。
「大丈夫だからな、さやか。今日は挨拶に行くだけだから、楽にしてろ」
「はい」
「そうですよ。土井はいい加減なことしか言わないので、気にしないでください。大体、本当に緊張してる奴は、サングラスかけて事務所に行きませんから」
高根が横目でにらむと、土井は「グラサンは顔の一部だから」とおどけた。
「でも、ホントに大丈夫ですか?さやかさん」
「ありがとうございます。たいして緊張してませんから、大丈夫ですよ」
確かに、さやかは涼しい顔をしている。18歳の小娘がこれからヤクザの組事務所に連れて行かれるというのに、こんなに落ち着き払っていていいのか、という気もする。
度胸があるというより、実態を知らないから、恐れようがないのかもしれない。マンションでさやかがいかに無防備だったかを思い出すと、冬枝は不安になった。
――さやかが粗相しねえように、俺がしっかりしねえと。
さやかの代打ちとしての今後は、今日で決まると言っても過言ではない。さやかを組の稼ぎ頭として育てるためにも、気を引き締めなければいけなかった。
白虎組事務所は、街中の雑居ビルに入っている。
毛筆で『白虎組』と書かれた提灯や、四つ目結の紋が入った旗が飾られた組長室で、3人の男が待っていた。
「おっ、冬枝。ご苦労さん」
大きなマホガニーの机から、白いスーツの腕を鷹揚に上げたのは、当代の白虎組組長・熊谷雷蔵である。両隣には、代紋バッジをつけたスーツ姿の男2人がうやうやしく並んでいる。
組長は、サングラス越しにさやかを見据えた。
「その娘が新しい代打ち?」
「はい」
「夏目さやかです」
さやかが折り目正しく頭を下げると、組長は興味深そうに頬杖をついた。
「ふーん。いいトコのお嬢ちゃんに見えるけど、博打なんか打てるの?」
すると、組長の右隣にいる男が、濃い緑色のスーツを屈めて答えた。
「さやかはうちのシマの雀荘『こまち』で、450万を荒稼ぎしたそうです」
「へえ。そりゃ面白いねえ、榊原。冬枝は金の卵を拾ってきたわけだ」
「はい」
白虎組若頭・榊原は、冬枝の兄貴分に当たる。さやかを代打ちにするにあたって、冬枝は事前に榊原に話を通してあった。
無言で微笑む榊原に、冬枝は軽く頷いた。
「さやかの腕前は間違いありません。是非、親分にもその目で確かめていただきたく」
冬枝が頭を下げると、組長の左隣から、冷ややかな声が降ってきた。
「私は賛成しかねます。冬枝、若い娘を代打ちにするなんて、世迷言も大概にしなさい」
やっぱりきたか、と冬枝は内心で舌打ちをした。
若頭・榊原と並ぶ、若頭補佐――霜田である。
シルバーグレーのスーツに丸い銀縁眼鏡という出で立ちは、ヤクザというよりも会計士か税理士にでも見える。実際、相手の粗探しに関しては、霜田は重箱の隅をつつくような偏執さの持ち主だ。
「そもそも、麻雀は男のするものです。女の代打ちなんて見たことがない。こんな小娘に、大切な組の資金を任せられますか」
それらしく並べ立ててはいるが、要するに冬枝が連れてきた女、というところが霜田は気に入らないのだ。さやかが本当に実力のある代打ちであれば、それはすなわち冬枝の手柄になるからだ。
お言葉ですが、と冬枝は反論した。
「うちの組が抱えている代打ちたちは、経験こそありますが中身はギャンブル狂いばかりで、奴らを養うだけでも相当な金がかかっています。さやかは金にはこだわっていません。今時珍しい、本物の博徒です」
そうだな、と榊原も助け舟を出す。
「うちの代打ちたちは、たいして勝ちもしないくせに、報酬は人一倍欲しがる輩ばかりだ。おかげで最近、身内の遊び程度の麻雀しか出来ていない。あれなら代打ちじゃなくて、自分で打ったほうが早いぐらいだと思っていた」
冬枝と榊原は、事前に口裏を合わせていたわけではない。榊原が自分と同じ問題意識を持っていたことが、冬枝は嬉しかった。
霜田はフン、と鼻で笑い飛ばした。
「うちの代打ちたちが金食い虫であることは、私も否定しませんよ。しかし、だからってこんな小娘を代打ちに迎えたら、それこそ物笑いの種です。白虎組は女より弱い奴しかいないのかと、他の組に見くびられる」
確かに、と組長も頷いたので、霜田はますます勢いづいた。
「冬枝。お前、組長に恥をかかせる気ですか」
「いや、そんなつもりは」
口達者な霜田に責められ、冬枝はしどろもどろになってしまった。
霜田はつかつかと歩を進めると、さやかの目の前に立ちはだかった。
値踏みするかのように、さやかを正面からじろじろと眺める。
「どうせ女を使うんだったら、代打ちなどではなく体でも売らせればいいんです。そのほうが金になりますからね」
霜田はさやかの顔を見てハッと笑うと、胸をポンと叩いた。
「この娘だって、本当はそのつもりで来たんじゃないですか?女の癖に麻雀一つでこの裏社会を渡り歩こうなどと、思い上がりも甚だしい。せいぜい、夜の店で小銭を稼いでいればよろしい」
霜田は、レンズ越しにあからさまな侮蔑の目を向けた。
「………」
その時、さやかがどんな表情をしていたのかは、冬枝からは見えなかった。
それでも、ヒラの自分より遥かに地位の高い若頭補佐に掴みかかるのを躊躇する理由は、冬枝の中にはなかった。
「霜田さん。その辺にしといてもらえませんか」
冬枝の手の中で、霜田のスーツがギュウと音を立てた。
「冬枝っ、貴様、自分が何をしているか分かっているのですか!」
「補佐だろうと何だろうと、言っていいことと悪いことがあるんじゃないですか」
胸倉を掴む手に力が入り、霜田が苦しげに呻いたが、冬枝は止まれなかった。
「さやかは、雀士としてここに来たんです。あんたも極道名乗るんだったら、それにふさわしい口を利くべきだろうが!」
冬枝の指先で、霜田のつけた代紋バッジが、安っぽく光った。
どんな危険を冒しても、さやかは好きなものを譲らずに生きてきた。そんな女を薄汚い言葉で蔑んだ霜田が、自分と同じ極道を名乗っているのが冬枝は耐えがたかった。
冬枝の一言で、場がシンとした。
やがて「冬枝さん」とさやかが小さく呼ぶ声が聞こえた気がした。
「はっ!」
我に返った冬枝は、総身がサーッと冷たくなった。
――やっちまった…!
気に入らないとはいえ白虎組の若頭補佐を、それも組長の目の前で、胸倉を掴み上げて怒鳴りつけてしまった。
慌てて手を放すと、霜田はこれ見よがしにスーツの襟を直し、こちらを睨み付けた。
静まり返った執務室で、最初に口を開いたのは榊原だった。
「親分。早速、今晩『こまち』でさやかと代打ちたちに勝負をさせようと思いますが、いかがでしょうか」
「ん。いいんじゃない」
「く、組長!」
何事もなかったかのような組長の態度に、霜田は狼狽した。
「今、冬枝は私に狼藉を働いたのですよ!それも、組長の目の前で!」
「何かあった?榊原」
タバコ片手に聞く組長に、榊原は澄まして答えた。
「いえ、何も」
榊原は「では、お車の準備を」と言って、組長に一礼した。
「若頭っ……!」
霜田の金切り声に、「霜田」という組長の低い声が被さった。
「みっともないことするんじゃねえよ。女相手にイキがったって、お前さんの株が上がるわけじゃあるまい」
「………っ」
霜田はまだもの言いたげだったが、組長の鋭い眼光を前に押し黙った。
榊原が去り際、冬枝を振り返った。
「俺たちは、店で一杯飲んでから行く。冬枝、お前は『こまち』で準備を頼む」
「はっ」
冬枝が「ありがとうございます」と言って頭を下げると、榊原は微かに笑った。
「俺は、親分に従っただけだ。その娘が親分に気に入ってもらえるかどうかは、今夜の勝負しだいだ」
最後はさやかに「頑張れよ、嬢ちゃん」と言って、榊原はドアを閉じた。
「はぁ~~~~~~~~~~………」
一気に力が抜けた冬枝は、思わず長い溜息が出た。
「あの…冬枝さん」
「うわっ。な、なんだよ」
まだ緊張の余韻が残っていたのか、冬枝は後ろにいたさやかにも驚いてしまった。
改めて向き直ると、さやかがさっき霜田に浴びせられた言葉を思い出し、冬枝は申し訳なくなった。
「あー…、嫌な気分にさせちまったな。すまん」
「いえ。僕なら大丈夫です」
さやかは「僕も頭にきましたけど、冬枝さんが怒ってくれたので、スッキリしました」と言った。
「けどなあ、あれでも一応、うちの若頭補佐なんだよ。あーあ、霜田さん、根に持つだろうな」
どんな仕返しをされることやら、と気が重くなる冬枝に対し、さやかはけろっとしている。
「気にする必要ないですよ。榊原って人は、わかってくれそうだったし」
「ああ、榊原さんは俺の兄貴分に当たる人だからな。榊原さんも霜田さんも偉い人だから、くれぐれも機嫌を損ねるなよ」
「冬枝さんに言われても、説得力ないです」
「何だと?」
冬枝はさやかと顔を見合わせると、ははっと笑った。
「冬枝さん。僕、勝ちます。必ず勝って、組長さんや幹部の二人に認めてもらいます」
そう言って真っ直ぐに冬枝を見つめるさやかの瞳には、代紋バッジよりもまばゆい光が煌めいているように見えた。
雀荘『こまち』での対局が終わる頃には、日付が変わっていた。
「帰ったら、乾杯でもするか」
「いいですね、兄貴」
「オレ、ビール飲みたいっス」
車に乗り込みながら、冬枝と弟分たちは、すっかり上機嫌だった。
なにせ、さやかは組の代打ちたちをまったく寄せ付けず、圧勝を収めたのだ。
さやかのような若い娘に負けるなど、代打ちたちにとっては人生で初めてだったに違いない。ある者は蒼白に、ある者は怒りに顔を赤くした。
そんな中で、さやかだけは冴え冴えとした月のように、静かな表情をしていた。
「いいもん拾ったね。冬枝」
組長から肩を叩かれ、冬枝は「ありがとうございます」と頭を下げた。
若頭・榊原も、しげしげとさやかの手に見入っていた。
「強いな、嬢ちゃん。そのうち、俺も打たせてもらいたいもんだ」
「…光栄です」
さやかは、控えめに頭を下げた。
どうやら、組長も榊原も、さやかのことを気に入ってくれたようだ。霜田だけは苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、さやかの実力を目の前にして、文句は言わなかった。
冬枝自身、歴戦の猛者である代打ちたちの前でも怯まず、己のペースで打ち回したさやかに目を見張る思いだった。
――まるで、鬼神でも乗り移ったみたいだ。
昼間、冬枝のミルク焼をつまみ食いした娘と同一人物とは思えない。代打ちたちから容赦なく点をもぎ取っていくさやかは、冷酷さすら漂わせていた。
「………」
代打ちたちが肩を落として帰っていく中、さやかは一人、卓に残ってぼんやりと牌を見つめている。勝利の余韻にでも浸っているのだろうか、と冬枝は思った。
「よくやった、さやか。いい麻雀見せてもらったぜ」
冬枝が声をかけると、さやかはハッと雀卓から顔を上げて「…ありがとうございます」と言って笑った。
何はともあれ、さやかのお披露目は大成功だった。事務所で霜田に突っ掛かってしまったことなど、もう冬枝の頭にはない。
――これから、さやかと一緒にガンガン稼ぐぞ!
さやかがいれば、麻雀賭博で敵はない。さやかに手を上げる奴がいれば、冬枝が盾になればいい。これで、貧乏とはおさらばだ。
「さやかさんって、マジで強いんですね」
初めてさやかの麻雀を観戦した土井が、しげしげと言った。サングラスをかけているせいで、さやかの実力に感嘆しているのか、呆れているのか判然としないが。
「だから、さやかさんは強いって言っただろ」
「さやかさんって雀プロ?ていうか、そんなに強いのに、なんで東京じゃなくてこっちに来たんですか?」
「バカ土井、詮索するなよ。さやかさんはもう、兄貴の代打ちなんだぞ」
高根が、バックミラー越しに冬枝を伺うように見た。
「そうだな。今日は、さやかが代打ちになったことを祝うぞ。高根、うちに着いたら何か作ってくれ」
「分かりました。焼きおにぎりとかどうですか」
高根が言うと、土井が「いいねえ」と乗っかった。
「そうだ、さやかさんもパーッとビールでも飲みましょうよ。さやかさんって麻雀は強いけど、酒も強いんですか?」
「バカ土井、さやかさんに変なこと聞くなって」
高根が突っ込んだが、後部座席のさやかからは返事がなかった。
「…ん?」
気がつくと、冬枝の肩に温かいものが乗っかっていた。
「すぅ……すぅ……」
さやかは、冬枝にもたれて寝息を立てていた。
「さやか……」
冬枝は、『こまち』でのさやかの様子を思い出していた。
本人は緊張していないと言っていたが、裏社会の男たち相手に、さやかがプレッシャーを感じなかったはずがない。能面のように無表情だったのは、必死さのあらわれだったのかもしれない。
局が終わったのに卓に残ってぼーっとしていたのも、疲れていたせいだろう。そう思えば、冬枝は肩にかかる重みがいじらしくなった。
――寝顔は結構、可愛いじゃねえか。
「ご苦労さん」
冬枝は、さやかの頭をよしよしと撫でてやった。
深夜――。
キャバレー『ザナドゥー』の奥まった一席で、ホステスを侍らせた男2人が顔を突き合わせていた。
店は貸し切りらしく、他の客の姿はない。
「忌々しいったらありません。若頭補佐である私に向かって、あんな無礼を働くなんて」
赤ら顔で何杯目かのバーボンを呷ったのは、白虎組若頭補佐・霜田だ。
その正面で、アルマーニのスーツに身を包んだ朽木が、両脇に女をしなだれかからせている。
「組長まで、冬枝の肩を持って…。長年仕えている私を、何だと思っているのか。ああ、胸糞悪い」
「お察ししますよ、霜田さん」
兄貴分である霜田よりも、朽木のほうがふんぞり返っているように見えるが、泥酔した霜田は気付いていない。
「そんな若い娘を連れてくるなんて、冬枝も血迷ったモンです。どうせ、文無し野郎の悪あがきでしょう」
「朽木、それがそうでもないんですよ。冬枝の連れてきた女、どうやら腕前は確かなようです」
「へえ。そいつは本当ですか」
初耳のような振りをしたが、朽木の胸中に苦々しいものがこみ上げた。
――あの女に違いねえ。
冬枝の雀荘『こまち』を賭けた麻雀勝負に、突如、乱入してきた『麻雀小町』。あの女さえいなければ、朽木は憎たらしい冬枝を屈服させることができたのだ。
「うちに昔からいる代打ちたちは、ことごとくあの女に歯が立ちませんでした。まったく、あの穀潰しどもめ」
――当然だ。
朽木には、事務所で行われた勝負の様子が手に取るように分かった。
麻雀小町は、かつて白虎組の千両箱だった代打ち・溝口を破ったのだ。溝口にも劣る腕しかない組の代打ちたちが、麻雀小町に勝てるわけがない。
「となると――…、今後は、賭け麻雀が全部、冬枝に持ち込まれるってわけですか」
「まあ、古参の連中のメンツもありますから、すぐにあの小娘に一任するということはないでしょうが……あの調子では、そうなるのも時間の問題でしょう」
霜田の表情には、焦りが滲んでいた。
冬枝の稼ぎが良くなれば、冬枝の後ろ盾である榊原が力をつけてしまう。組長の寵愛は、ますます榊原に向けられるだろう。
朽木とて、冬枝の成功は気に入らない。貧乏親父が金の卵を拾うなんて、昔話のように出来過ぎている。
――せっかく拾った金ヅルも、女だったのが運の尽きだな、冬枝。
女の扱いなら、朽木のほうが一枚も二枚も上手だ。女と遊び、女どもの弱みにつけ込み、ソープやデリヘルでいいように働かせる。女は、朽木の金の泉だ。
朽木は「霜田さん」と言って、しかつめらしい忠臣面を作った。
「霜田さんの弟分として、今度の一件、見過ごすことはできません」
「朽木…。何か、策があるのですか」
「ええ。その小娘を使って、冬枝の顔に泥を塗ってやりますよ」
霜田は赤くなった目尻を垂れ下げ「流石、女のことは朽木に任せるに限る」と満足そうに笑った。
女たちをエサにして得た金で、朽木は霜田の寵愛を買った。このまま霜田を次期組長に押し上げ、いずれは自分がその座を乗っ取る。それが、朽木の計画だ。
――まずは、邪魔な冬枝を蹴落とす。
あの二枚目面に唾を吐きかけてやるのが、朽木は今から楽しみでならなかった。