19話 忘れん坊ダンディー・後編
第19話 忘れん坊ダンディー・後編
雀荘『こまち』に、『閉店』の札が下げられている。
店を早仕舞いさせ、冬枝は弟分たちと共に、今夜の勝負の準備をしていた。
――まさか、躑躅会が溝口さんを担ぎ出してくるとはな。
躑躅会と稲玉組の諍いにおいて、これまでの自分の裁定が、稲玉組に偏っていたことは認める。稲玉組は白虎組組長・熊谷雷蔵の出身団体であるため、贔屓せざるを得ないのだ。
歴史ある団体である躑躅会のメンツを傷つけないよう、冬枝なりに気は使ってきたつもりだ。だが、躑躅会は不満を募らせていたらしい。
溝口は元は白虎組最強の代打ちだったが、今は引退してフリーの身だ。躑躅会は白虎組の傘下でもあるし、今回、溝口が躑躅会の代打ちになったからと言って、責めることはできない。
これまでは、冬枝自身が勝負をコントロールし、稲玉組に有利な形で騒動を収めてきた。溝口が相手では、そうはいかない。
――ここで躑躅会が勝っちまうと、厄介なことになるな。
躑躅会は年寄りが多く、概して組員のプライドが高い。そんな躑躅会に一度でも主導権を許してしまえば、白虎組にとってうるさい存在になるのは目に見えている。
「兄貴。溝口さん相手で、大丈夫でしょうか」
冬枝と共に卓に着く予定の高根が、心配そうに麻雀卓のチェックをした。
「なに、しけたツラしてやがる。稲玉組だって本気で勝ちにかかるだろうし、事実上、3対1だ。いくら溝口さんだって、勝てっこねえよ」
「…だと、いいんですが」
その時、バンと扉が勢いよく開かれた。
「悪い子はいねがー!」
奇声を発しながら入ってきたのは、『こまち』の常連――春野嵐だった。
「いたいけな乙女を慰み者にし、ボロ雑巾のように使い倒した挙句、親分に売り渡しちまう悪いヤクザはいねぇか~!」
「何騒いでんだ、てめえは」
嵐は、ギロリと冬枝を睨み付けた。
「ダンディ冬枝、改め、ダンディじゃない冬枝!」
「ああ?」
「さやかが攫われたってのに、こんなとこでノンビリしてていいんですか」
冬枝は「さやか?」と復唱した。
昼間、組長たちと一緒に冬枝の病室にいた女のことだ、と数秒遅れて思い出す。
「ああ、朽木の女か」
「何がどうこんがらがったら、さやかが朽木の女になっちまうんですか!頭打った拍子に脳みそ落としてきちゃったんですか、冬枝さん!」
嵐に勢い良く肩を揺さぶられ、冬枝は手で払った。
「うるせえな、てめえこそ頭に虫でも湧いてんじゃねえのか」
「言い合ってる場合じゃないっスよ!あんたんとこの組長が、さやかを手籠めにしようと連れ去ったんですよ!?」
「親分が?」
なるほど、と冬枝は納得した。組長があの女を狙っていたなら、一緒に病院にいたのも頷ける。
「親分が誰を2号にしようが、放っておきゃいいじゃねえか。それともあいつ、てめえの女なのか」
「冬枝さん……」
嵐は、冬枝の襟元をぐっと握り締めた。
組長たちに連れて行かれる前、さやかは嵐にこう洩らしていた。
「冬枝さんと一緒にやったこと、みんな、なかったことになっちゃうのかな…」
さやかの瞳に浮かんでいた涙が、ガラスの破片のように嵐に突き刺さる。
あれから、1時間も経っていない。まだ間に合うかもしれない、と嵐は意を決した。
「バーカ!」
「あ?」
「冬枝さんのバーカ!ブサイク!ハゲ!」
ホジナシ、ダジャク、エフリコギ、と罵詈雑言を連発し、嵐は唇をブーッと鳴らした。
冬枝が顔をしかめた。
「何だ、てめえは。小学生か」
「そうです、春野嵐32歳、小学26年生!小学生だから、こんなこともしちゃうもんねー!」
と言うや否や、嵐はカウンターの椅子を持ち上げると、思いっきり窓に投げつけた。
ガチャーン!
窓ガラスが1枚、キラキラと光りながら砕け散った。
「あーっ!てめえ、なんてことしやがる!」
「冬枝さんのスケベ、女衒、女たらし!捕まえられるもんなら捕まえてみやがれ!」
嵐はあっかんべーと舌を出すと、ダッシュでその場から逃げ出した。
「畜生っ、待ちやがれ!」
「あっ、兄貴!」
ついて来ようとした高根に「ブルーシートでそこ塞いどけ!」と命じて、冬枝は単身、嵐を追いかけた。
一方、さやかは繁華街へと続く橋の上で、組長・熊谷雷蔵と対峙していた。
「「麻雀小町』のカッコいいとこ見せてよ、お嬢ちゃん」
組長は新しいタバコをくわえながら、そう言って笑った。
――麻雀関係ないし…。
さやかは、ちらりと橋の下を見つめた。
繁華街のネオンを照り返して、冷たい川が流れている。
秋津一家に狙われた件について、さやかがこの橋から飛び降りたら、潔白だと信じる。組長は、そうさやかに迫った。
若頭・榊原と、若頭補佐・霜田は、固唾を飲んで成り行きを見守っている。
――組長は、これで僕を試すつもりだ。
試しているのはさやかの度胸か、それとも忠誠心か。幹部2人が立ち会っている以上、これが単なる悪ふざけではないことだけは、確かだった。
――どうする…。
さやかは代打ちだが、ヤクザではない。親分の気紛れに付き合って、わざわざ危険な真似をする筋合いはない。
冬枝の記憶が戻らなければ、さやかが代打ちを続ける理由はなくなる。ここで身体を張ったところで、無駄になる可能性は高い。
――でも、今夜は勝負がある。
躑躅会と稲玉組の争いを、冬枝が麻雀で決着させることにしたと土井から聞いた。躑躅会は白虎組最強だった溝口を代打ちに据えたため、冬枝の苦戦は必至だ。
さやかのことを見ず知らずの他人のように見た冬枝を思い出すと、胸は痛い。それでも、さやかは冬枝のために戦いたかった。
――ここで迷っていたら、冬枝さんのところに行けない。
さやかは、覚悟を決めて欄干の上に登った。
通行人を見下ろす位置に、さやかの細い四肢が揺れる。
街中にある橋だけあって、大した高さではない。川の水深も浅そうだし、余程変な落ち方をしない限り、死にはしないだろう。
――よし。
さやかがいざ飛び降りようとしたところで、「お待ちください」と声がかかった。
声の主は、これまでずっと黙っていた若頭補佐――霜田だった。
「組長、ここは人目につきます。交番も近いですし、おやめになったほうがよろしいかと」
「んー?」
組長はつまらなそうに目を細め、「別に平気だよ」と言った。
「俺たちは止めようとしたけど、お嬢ちゃんが勝手に落ちちゃった。サツには、そう言っとけばいいでしょ」
榊原は何か言いたげにしているが、口をつぐんでいる。
霜田は「ですが」と食い下がった。
「万が一、この娘に何かあったら面倒です。こいつは東京者ですから、県警を誤魔化すだけでは済まないかもしれません」
さやかは、ちょっと意外に思った。
――霜田さんが、僕のことを庇ってくれてる?
組長への忠誠心が強い榊原が黙っているのは、仕方がない。むしろ、さやかのことを嫌っている霜田が、組長に逆らってまでさやかを助けようとしていることのほうが不思議だった。
組長が、鬱陶しそうに手を振った。
「じゃ、霜田が飛んでよ。それなら勘弁してあげる」
「えっ!?私が…」
霜田は逡巡していたが、やがて、苦虫を噛み潰したような顔で「分かりました」と言った。
――まさか、霜田さんが?
驚くさやかをよそに、霜田は本当に欄干の上に登った。
「いつまでそこにいるんです。さっさと降りなさい、小娘」
霜田は、渋々といった様子で眼鏡をポケットにしまっている。さやかは、未だに信じられない気分だった。
「あの…僕、大丈夫ですから、霜田さんは降りてください」
「私に恥をかかせるつもりですか。いいから、大人しくそこを降りなさい」
「でも、霜田さんに何かあったらいけませんし」
押し問答になるさやかと霜田を、榊原が困った表情で見上げている。
「ねえ、いつまでやってるの」
組長が退屈そうに「どっちでもいいから、さっさと飛んでよ」と言った時だった。
「わーっ!さやか、早まるなー!」
通りの向こうから、ピンクの革ジャン姿の嵐が駆け寄ってきた。
「嵐さん?!」
「さやかー!おっぱいが絶望的にちっちゃいからって、世を儚んじゃイカーン!」
「……っ!誰が…!」
往来の真ん中で大声で叫ばれ、さやかは顔が真っ赤になった。
しかも、嵐の後ろには、何故か冬枝までついて来ていた。
「てめえ、うちの窓弁償しろー!」
「冬枝さん?」
「さやか、バカな真似はやめろ!」
呆気にとられる組長たちを無視して、嵐は橋の欄干へと飛び上がった。
「バカはてめえだ、この野郎!」
それを捕まえようとした冬枝が、嵐の背中に飛び掛かる。
「うわっ!」
冬枝が嵐に、嵐がさやかに、さやかが霜田に衝突し、玉突き式にバランスが崩れた。
「うわあっ!」
何がなんだか分からないうちに、さやかの足が欄干から離れた。
バシャーン!
大人4人分の水飛沫が、夜空に撒き散らされた。
――冷たい!
落ちた衝撃と水の冷たさで、さやかは息ができなくなった。
溺れかけたさやかを引き上げたのは、見慣れた枯れ葉色の袖だった。
「おい。大丈夫か」
「…冬枝さん」
咳き込みながらさやかが名前を呼ぶと、冬枝が怪訝そうに目を瞬かせた。
――まだ、記憶は戻ってないみたいだな。
小さな胸の痛みと共に、冬枝の手は呆気なくさやかから離れた。
「おい、嵐!てめえのせいでずぶ濡れじゃねえか!」
「頭を冷やせば、ダンディ冬枝の記憶が戻ると思ったんだけどなー」
嵐が、さやかを慰めるように目配せをした。
「冬枝!」
金切り声を上げたのは、霜田である。
「げっ。霜田さん」
「お前のせいで、私の苦労が無駄になったじゃありませんか!どうしていつもいつも、人の邪魔を…」
霜田は乱れたオールバックを神経質そうに撫でつけると、苦り切った様子で唇を噛んだ。
どこからか、サイレンが聞こえてきた。通行人が警察でも呼んだのだろうか、と思ったさやかは、嵐のニヤニヤ笑いに気がついた。
――嵐さんの仕業か。
素っ頓狂なドタバタ劇と見せかけて、恐らく、この一連は嵐が用意周到に仕掛けたものだ。冬枝を突き落としたのも、警察を呼んだのも。
「帰ろっか。榊原」
「…はい」
組長は橋の上でタバコをふかすと、ひらひらと手を振った。
「またね、お嬢ちゃん。次は、うちの別荘で会おう」
「………」
組長が、さやかへの疑いを晴らしたのかどうか。サングラスの奥の瞳は、読み切れなかった。
「ああっ、忌々しい。とんだバカ騒ぎに付き合わされましたっ」
霜田はぬかるみに足を取られながら、荒々しく水面を蹴倒した。
さやかは、「あの」と霜田に声をかけた。
「…ありがとうございます。その…僕のこと、助けてくれようとしたんですよね」
すると、霜田はキッと眦を吊り上げた。
「自惚れるんじゃありませんよ、小娘が!」
「えっ」
「お前のような代打ちもどき、私が助ける義理はありません」
霜田は、さやかに人差し指を突き付けた。
「それより、覚えておきなさい。本来であれば、お前は若頭に助けられていたはずです」
「榊原さん?」
「そうです。いくら組長のワガママでも、女を川に飛び込ませるなんて野蛮な真似を許すような人ではありません。若頭は」
だが、実際には榊原は、何も言えずに立ち尽くしていた。榊原の立場を考えれば無理もないとさやかは思っているが、霜田はこだわりがあるようだった。
「今の若頭は、組長の御用聞きに成り下がってしまったんです。本当は、あんな人じゃないのに」
そう言う霜田の横顔は、とても悲しげに見えた。
さやかを助けたくとも、今の榊原は組長に逆らえない。だから、榊原に代わって霜田がさやかを助けようとしたのだ。
「霜田さんは、榊原さんのことが好きなんですね」
青龍会との抗争を巡って対立していると聞いていたが、榊原と霜田の関係はそれだけではないのかもしれない。
「ふん。小娘に何がわかる」
吐き捨てると、霜田は足音も荒く、地上へと続く階段を登っていった。
――霜田さんも、戦ってるんだな。
霜田の方向性が正しいのかは分からないが、霜田は霜田なりに信条を守っているようだ。
さやかも、自分の闘いに挑まなければならない。嵐と何やらぎゃあぎゃあと言い争っている冬枝に、さやかは思い切って声をかけた。
「冬枝さん」
「ああ?」
冬枝は「お前、まだいたのか」ときょとんとしている。
「躑躅会との勝負、僕に打たせてください」
さやかがそう言うと、冬枝は露骨に困惑した。
「何言ってんだ、お前。お前に関係ねえだろ」
「100万払うので、僕に席を譲ってくれませんか」
「おい、冗談もいい加減にしろよ」
すると、嵐が口を挟んだ。
「まあまあ、いいじゃないっスか、ダンディじゃない冬枝。一緒に川に落ちた仲なんだし」
「良かねえ、誰のせいだと思ってんだ。こんな若い娘に、大事な勝負を預けられるか」
面と向かって切り捨てられると、流石に堪える。さやかは、言葉に詰まった。
嵐が、ポンと冬枝の肩を叩いた。
「まんず、話は地上でしませんか。このままじゃ、風邪引いちまう」
ついでに、善良な警察官たちが、さやかたちを助けるため、川へ降りてこようとしていた。3人は交番でお説教される前に、この場から撤収することにした。
帰りの車中で、組長が不意に口を開いた。
「意外と、根性あるよねえ」
「…さやかですか」
榊原は、複雑な気持ちで先刻のことを思い出した。
恐らく、さやかは本当に橋から飛び降りるつもりだったのだろう。さやかは女だが、ああいう場面で逃げない気性は、冬枝に似ている、と榊原は思った。
組長は「うんにゃ。霜田のほう」と答えた。
榊原も頷いた。
「そうですね。霜田がああいう行動に出るのは…俺も意外でした」
意外なのと同時に、自分が情けなくもあった。本当は、榊原が止めに入らなければならないところだったのだ。
あんな街中でさやかを川に飛び込ませるなんて、バカげている。本心ではそう思っていても、榊原は口には出せなかった。
霜田が榊原の意を汲んで動いてくれたことは、言葉にせずとも伝わっていた。
――霜田が最近、いちいち俺に噛み付く訳が分かった気がする。
青龍会を巡る意見の相違だけではない。霜田は、組長の言いなりになっている榊原に憤っているのだと、今日の件ではっきりと分かった。
――俺より、霜田のほうがよっぽど極道らしいな。
榊原は今や、政治家や街の大物との付き合いが多い。組長とは家族ぐるみの付き合いだし、このまま順調にいけば、榊原の力で白虎組の最大版図を築くことができる。
輝かしい未来を見据えれば、今、組長に反抗するような真似はできない。そんな自分の卑怯さを、霜田に諫められたような気がした。
――変わらないな、あいつは。
大学時代、榊原が主催したパーティーが予算を大幅にオーバーした際、経理担当の霜田からガミガミと説教されたことがあった。極道になってからも、口では小言を言いつつ、榊原のフォローをしてくれたのは、いつも霜田だった。
霜田は今でも、榊原のことを思って行動してくれている。だが、榊原は――。
そこに、組長の呟きが重なった。
「果報者だよ、俺は。いい部下を持てて」
言葉とは裏腹に、組長の声はぞっとするほど冷たかった。
榊原は、背筋に寒気を感じた。
――試されていたのは、俺のほうかもしれない。
さやかが飛ぶかどうかなど、組長にはどうでもよかったのだろう。組長が見ていたのは、榊原の反応だったのではないか。
組長の言う「いい部下」とは、榊原のことなのか、霜田のことなのか。長い付き合いの榊原でも、組長の真意は掴めなかった。
稲玉組と躑躅会の手前、今夜の勝負を遅らせることはできない。冬枝は、高根と土井に割れた窓の応急処置をさせ、なんとか場を調えた。
「土井。お前、どこほっつき歩いてたんだ」
「すみません、兄貴。ちょっとヤボ用で」
土井は、ちらっと嵐のほうを見た。嵐に命じられて組長たちの車を追っていたとは、冬枝には言えない。
ブルーシートがぱたぱたとはためく窓辺を見て、さやかが眉をひそめた。
「どうして、こんなことに…」
「嵐クンね、小学生だから、難しいことわからねえの」
「は?」
おどけて親指をしゃぶる嵐に、さやかと冬枝が同時に冷たい目を向けた。
「そんな顔すんなよ、さやか。今夜の勝負に出られるの、俺のおかげだろ?」
「…自分で言いますか」
とはいえ、確かに嵐には感謝しなければならなかった。
まず、川に落ちた後のことだ。濡れた服を着替えようにも、さやかの私物は冬枝のマンションにある。さやかの記憶がない冬枝が、自宅に入れてくれるとは思えない。
途方に暮れていたさやかに、嵐が声をかけてくれた。
「うち来いよ。鈴子にあったけえコーヒーでも淹れてもらおう」
そして、コーヒーのみならず、シャワーと着替えも春野家で世話になったのだった。
「さやちゃん、今夜はうちに泊まっていくといいわ」
事情を聞いた鈴子は、そう言ってさやかの髪をタオルで拭いてくれた。
「ありがとうございます。服まで貸していただいて、すみません」
鈴子の親切が、さやかにはいつも以上にしみた。
「安心してね。今度は、嵐に変なことさせないから」
「何だよ。東京から来たばっかで不安なさやかに、添い寝サービスしてやったんじゃねえか」
「何が添い寝サービスだ…」
初めて春野家に泊まった夜、嵐に寝込みを襲われたさやかは、大急ぎで冬枝のマンションへと駆け戻った。
思えば、ホテルに逃げ込むという選択肢もあったのに、あの時は考えもしなかった。自分が帰る場所として真っ先に浮かんだのが、冬枝の元だったのだ。
――今は、その冬枝さんのところに帰れない。
さやかの物憂げな表情に気付いたのか、嵐がさやかの肩を叩いて笑った。
「鈴子の服、ぴったりじゃん。胸以外」
「…余計なお世話だ」
着替えたさやかと嵐は、今夜の勝負が行われる雀荘『こまち』へと向かった。
「嵐。まず、一発殴らせろ」
嵐に店の窓を割られたうえ、川にまで落とされた冬枝は、すっかり怒り心頭だった。
拳を握り締める冬枝に対し、嵐は胡散臭い笑みを浮かべた。
「まあまあ、冬枝さん。ここの修理代は多めにお返ししますんで、そう怒らないで」
「本当か?」
「本当です。ただし、今夜の勝負にさやかを入れてもらうことが条件です」
「ああ?」
冬枝に鋭い目を向けられ、さやかは一瞬、ドキリとした。
冬枝が鼻白んだ。
「てめえが割った窓の弁償に、条件もクソもあるか。やっぱり殴らせろ」
すると、嵐はわざとらしく両手を広げると、そそくさとさやかの背に隠れた。
「暴力反対!殴りたきゃ、俺じゃなくてさやかを殴ってくださいよ!」
「は?」
嵐にいきなり盾にされて、さやかは戸惑った。
手をグーの形にしていた冬枝が、変なものでも見るかのようにさやかを見下ろす。
「朽木の女なんか殴ってどうすんだよ」
真正面からとんでもないことを言われて、さやかの頭に血が上った。
「…!僕、朽木さんの女じゃありません!」
さやかは身を翻すと、「帰ります!」と言って、大股に出入口へと向かった。
冬枝のせいではないと分かってはいたが、今ので我慢の限界にきてしまった。さやかのことをまるで覚えていない冬枝が悔しくて、顔が真っ赤になる。
――冬枝さんのバカ…!
そこに、高根と土井が慌てて縋り付いた。
「待ってください、さやかさん!」
「お願いします、さやかさんの力を貸してください!」
「高根さん、土井さん…」
高根と土井に引きずられ、さやかは店の隅へと連れて行かれた。
「溝口さん相手じゃ、兄貴のほうが分が悪いです。配下の組の前で惨敗なんてしたら、兄貴のメンツが丸潰れです」
「溝口さんがついた躑躅会って、うるさい爺さんばっかりなんですよ。一度でも勝たせたら、あいつら、図に乗るんじゃないかな」
弟分2人に小声で説得され、さやかも考え直した。
――冬枝さんの記憶がなくなったって、僕は冬枝さんの代打ちだ。
冬枝がさやかと交わした言葉を忘れてしまっても、さやかは覚えている。自分自身のために闘え、という冬枝の言葉が、心の中に響いた。
さやかは、改めて冬枝と向き直った。
「冬枝さん、お願いします。僕を、今日の麻雀に加えてください」
「んなこと言われたって…」
冬枝が当惑するのも、無理はない。今、冬枝の目の前にいるのは、よく知らない――朽木の愛人だと思っている――ただの若い娘だからだ。
さやかは、その現実を受け入れた。正面から、真っ直ぐに、冬枝に自己紹介した。
「僕は、夏目さやかといいます。こちらの雀荘で、450万勝ったことがあります」
「うちはそんな高レートじゃねえぞ」
「そういうお客さんがいても、このお店では黙認してきたでしょう?僕もその一人です」
さやかは軽やかに笑った。
「それと、僕は溝口さんに勝ったことがあります」
「ああ!?お前が!?」
「お疑いなら、溝口さん本人に聞いてみてください」
それから、ほどなくして稲玉組と躑躅会の面々が『こまち』にやって来た。
「溝口さん、お久しぶりです」
「冬枝さん、どうも。生憎だけど、今夜は手加減なしでいくよ」
「望むところです」
勢力こそ白虎組が上だが、年寄りの中には躑躅会のほうが格式が高いと考える者が多い。溝口も、権威ある躑躅会に頼られて、満更でもなかったのかもしれない。
冬枝は「ところで…」と声を潜めた。
「そこにいる女、ご存知ですか」
冬枝がさやかを指差すと、溝口は「ああ」と頷いた。
「覚えてるよ。こないだは、コテンパンにやられたねえ」
「えっ」
「そうか、今日もお嬢ちゃんが相手か。こりゃ長い夜になりそうだ」
溝口はそう言うと、躑躅会の面々と打ち合わせをしに行った。
「………」
「信じてもらえましたか?僕の腕前」
さやかが背後から声をかけると、冬枝は「…ああ」と答えた。
狐につままれたような気分ではあったが、嵐を黙らせるためにも、この娘を卓に入れてみるか、という気になった。
「分かった。お前には、俺と一緒に打ってもらう」
「ありがとうございます」
「ただし、妙な真似をしたら即、叩き出すからな」
「ええ。構いませんよ」
さやかは「勝ちます」と言って、不敵な笑みを浮かべた。
本当は、少しだけ期待していた。
一緒に麻雀を打てば、冬枝も、さやかのことを思い出してくれるのではないか。さやかが勝つところを見れば、冬枝の記憶が戻るのではないか――。
が、そうはならなかった。
麻雀でこそ圧倒的な勝利を収めたものの、冬枝のさやかを見る目は全く変わらなかったのだ。
「お前、本当に強いんだな」
呆然と言う冬枝に、さやかは苦笑するしかなかった。
その後、溝口の提案で、演歌コンサートの招待状は工夫を凝らすことにした。差出人を躑躅会にして、稲玉組が直接、組長に届けに行くというものだ。
これなら、躑躅会の体面を保ちつつ、組長の出身団体としての稲玉組の立場も守ることができる。長年、極道の代打ちとして裏社会を生きてきた溝口らしい妙案だった。
稲玉組・躑躅会・白虎組の三者による話し合いが終わる頃には、すっかり和やかな雰囲気になっていた。若い娘に一人勝ちされたことで、男同士の団結が強まったようだ。
――結果良ければ、すべて良し、だけど。
割れた窓を塞ぐブルーシートが、パタパタと安っぽい音を立てる。大好きな麻雀を打った後なのに、さやかは虚しさに襲われていた。
「めでてえじゃねえか、勝って。麻雀小町の面目躍如だな」
さやかが鈴子の服を着ているせいか、嵐の慰め方は優しかった。
さやかは、無理に笑みを作った。
「…鈴子さん、まだ起きてるかな」
「あいつ、さやかと一緒に寝たいって言ってたぞ」
嵐は「今夜だけ特別に、俺のおっぱいを貸してあげよう」と恩着せがましく言った。
「…嵐さんのおっぱいじゃないでしょ」
さやかがちらりと振り返ると、冬枝は躑躅会と稲玉組の面々と共に、これから飲みに行く相談をしていた。冬枝の笑っている横顔に、胸の中で嬉しさと寂しさが入り混じる。
――冬枝さんの役に立てただけでも、よかったかな。
盛り上がっているところに水を差すのも悪いので、さやかは高根と土井にだけ挨拶をして、『こまち』をあとにした。
翌朝、嵐は少し寝坊した。
「うーん……」
何せ、普段は嵐の頭となく顔となく包み込んでくれるFカップが、ゆうべはお留守だったのだ。寝つきが悪くなって当然だった。
――鈴子と一緒に寝ていい奴なんて、鳴子ぐらいなんだぞ。
とはいえ、昨夜の消沈したさやかを一人で寝かせるのは、いささか忍びなかった。鈴子の極楽バストに一晩、慰められたなら、さやかも少しは元気が出たかもしれない。
ギシギシ軋む階段を降り、立て付けの悪い引き戸を開けようと悪戦苦闘していると、居間から鈴子の残念そうな声が聞こえてきた。
「えーっ。さやちゃん、東京に帰っちゃうの?」
「はい」
さやかが、神妙な声で返す。扉越しに聞いた嵐は、ハッとした。
――ついにきたか!
嵐は、引き戸の取っ手をぎゅっと握り締めた。
麻雀小町の正体は、恋する乙女である。それが惚れた相手に忘れられ、邪険にされたのでは、実家に帰りたくなるのも当然だ。
これで、さやかと冬枝の間は切れる。いたいけな少女がヤクザの代打ちをする、といういかがわしい関係に、ようやく終止符が打たれるのだ。
嵐には歓迎すべき成り行きのはずだったが、喜ぶ気持ちは50%しかなかった。
残りの50%が、引き戸の向こうに見えるさやかの背中を、いつも以上に小さく頼りなく見せている。
「…親からも、そろそろ帰って来ないかって言われてたんです。もう2か月も東京に帰ってませんから…」
「そうなの…」
鈴子はさやかを胸に抱くと、「気を付けて帰るのよ」と言った。
鈴子の真ん丸いバストに挟まれているさやかの顔は、嵐からは見えない。それでも、嵐の胸に、ガラスの破片がまだ刺さっていた。
――彩北が、さやかにとって悲しい思い出になっちゃいけねえ。
一人かっこつけてから、嵐は「あー、うだて」と呟いて、玄関へと向かった。
冬枝は、朝から雀荘『こまち』を訪れていた。
嵐が壊した窓の修理をしに業者が来るため、オーナーである冬枝が立ち会うことにしたのだ。
店は開けているが、平日の早朝というのもあって客はほとんどいない。高根と土井は、喫茶スペースでのんびりと朝食をとっていた。
「さやかさん、ゆうべもすごかったな」
「溝口の爺さん相手に、小四喜で和了ってたもんな。稲玉組の奴らも、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔してたっけ」
「まさか、さやかさんみたいな女の子が勝つなんて、思ってもいなかったんだろ」
わざとらしく大きな声で話してから、高根と土井はちらっと冬枝をうかがう。
冬枝がくわえタバコで新聞に没頭しているのを見て、2人は揃ってため息を吐く。
「マスター、ホットサンドひとつ。あと、コーヒーも」
高根はマスターの中尾に朝食を頼むと、トイレに行った。
新聞を読みながら、冬枝は弟分たちの会話を聞くともなく聞いていた。
――あいつら、やけにあの娘にこだわるな。
改めて振り返っても、昨日は散々な一日だった。組長の庭でハシゴから落ちるわ、店の窓を割られるわ、川に落ちるわ。
その節目節目に、あの妙な娘――夏目さやかがいた。
朽木と一緒にいた割には、自分は朽木の女じゃないと言ったり、地味な見た目のくせに麻雀がやけに強かったり、掴みどころのない女だった。
――特に好みの女ってわけでもないのに、なんでか頭を離れないんだよな。
昨夜、躑躅会と稲玉組の連中と飲んでから帰宅すると、リビングがやけに広く見えた。晩酌をしていても、何か物足りないような気がして、落ち着かなかった。
酒もつまみも揃っているのに、何かが決定的に足りない。だが、それが何なのかは分からない。
――ま、昨日は疲れてたんだろ。
自分の中でそう片付けたところで、冬枝の耳に「あーっ!」という高根の悲鳴が響いた。
「俺のホットサンド、半分になってる~!」
高根が「土井、お前食べただろ!」と責めると、土井が「ごちそうさまです」と言って笑った。
「腹減ったなら、自分の分を頼めばいいじゃないか」
「いやあ、目の前にあるアツアツのホットサンドがうまそうで、つい」
土井は、悪びれもせず「半分は残したよ」と言った。
冬枝は、弟分たちのじゃれ合いに苦笑した。
――ガキじゃあるまいし、つまみ食いなんかするなよ。
だが、その光景を見ているうちに、冬枝の中で何かがもやもやとし始めた。
――ホットサンド――半分――つまみ食い……。
集まったもやもやは固まり、徐々に形を成していく。
真っ白なミルク焼。かじられて縮んだミルク焼。真ん丸いさやかの顔――。
――さやか。
冬枝の手から、バサバサと新聞が落ちた。
「思い出した…」
さやかに、久しぶりにミルク焼でも食わせてやろうと思っていた。そんなことを考えていたら、ハシゴから落ちたのだ。
「さやかはどこだ」
冬枝が声を上げると、ケンカしていた高根と土井がピタリと止まった。
「兄貴、さやかさんのこと…」
「思い出したんですかっ!?」
高根と土井がワーイと喜び合ったところで、『こまち』の扉がバンと開かれた。
「おっはモーニング!ダンディじゃない冬枝、いる?」
「あっ。嵐、てめえ」
窓の弁償代、と言おうとして、冬枝は昨夜のことを思い出した。
「嵐。さやかはどこだ」
「冬枝さん、さやかのこと思い出したんですか?」
「ああ」
思い出したら、居ても立ってもいられなくなってきた。今すぐさやかの顔を見て、記憶が戻ったことを確かめたい。
嵐が、ひょいっと野球バットを片手に掲げた。
「良かったー。冬枝さんがまださやかのこと忘れてたら、これでぶっ飛ばそうと思ってましたよ」
「てめえ、俺を殺す気か」
「殺さない程度に、絶妙な力加減で、冬枝さんの脳細胞を刺激してあげようかなーって」
嵐は「そんなことより」と言って、冬枝を哀れむような表情を浮かべた。
「さやかは、ダンディ冬枝に愛想をつかしちゃったみたいですよ」
「あ?」
「帰るんですって、東京に」
冬枝は、言われた意味を飲み込むのに数秒を要した。
「…さやかが?帰る?東京に!?」
冬枝は思わず「マジかよ」と言って嵐の肩を揺さぶった。
嵐は真顔で答えた。
「マジなんス。今、うちの嫁と別れの抱擁を交わしてました」
再現するかのように、嵐は自分の身体をぎゅっと抱き締めた。
「さやかの奴、なんで…」
「なんでも何も、自分の毛深い胸に聞いてみればいいでしょ」
「そんなに毛深くねえよ」
と、どうでもいいツッコミを入れてから、冬枝は昨日のことを思い出していた。
川に落ちてずぶ濡れになったさやか、自分は朽木の女じゃないと言って真っ赤になっていたさやか、溝口相手にまたも大勝利を収めたさやか――。
病院にいた時、冬枝に「誰だ?」と言われて、心配そうに眉を曇らせていたさやかの顔が目に浮かんだ。
――まずい。
「おい、さやかはまだお前んちにいるのか」
「えーと、9時の新幹線で帰るって言ってましたよ」
「9時ぃ!?」
冬枝は、壁に掛けてある時計を見た。もう8時半を過ぎている。
「てめえ、来るのが遅ぇんだよ!わざとだろ!」
「いやー、野球バット、どこにしまったっけ?って探してたら、遅くなっちゃいました」
嵐は、野球バット片手にハハハと笑った。
「高根、車出せ!駅行くぞ!」
「はい!」
朝食を食べそびれたというのに、高根は嬉しそうに『こまち』から飛び出した。
車の中で、冬枝は祈るような気持ちだった。
――何も、帰らなくたっていいだろ。
昨日見たさやかの顔は、いつも寂しげだった。どうしてもっと早くさやかのことを思い出さなかったのか、と冬枝は悔やむ。
焦る冬枝を嘲笑うように、車は遅々として進まない。通勤ラッシュの時間帯ともろにぶつかったため、道路が混雑している。
――畜生、こんな時に。
駅が近付くと、道の混み具合はよりひどくなった。腕時計の針が8時45分を指しているのを見て、冬枝はこれ以上、待てなくなった。
「もういい。ここからは走って行く!」
「あっ、兄貴!?」
弟分たちを置き去りにして、冬枝は車から降りた。
アスファルトを蹴り、冬枝は通勤するサラリーマンの群れの中を、猛然と駆け抜けた。
――逃がさねえぞ、さやか!
バスロータリーを突っ切り、冬枝はようやく駅の構内へと辿り着いた。
「さやか!」
見慣れた紺のセットアップを見た瞬間、考える前に冬枝は叫んでいた。
ボストンバッグを持ったさやかの肩が、ぴくりと動いた。
その小さな背中が――くるりとこちらを振り返る。
さやかの顔が見えるまでの時間が、スローモーションのように長く感じられた。
「…冬枝さん」
「さや、か」
さやかと目が合った途端、どっと疲れが押し寄せた。体力にはまだ自信があるつもりだったが、朝っぱらから全力ダッシュはやはり、きつかった。
冬枝がゼエゼエと肩で息をしていると、さやかが小走りでやって来た。
「冬枝さんっ」
「おう」
「冬枝さん、僕の名前、わかりますかっ?」
「さやか。夏目さやか」
荒い息の下で冬枝が答えると、さやかは「じゃ、じゃあ」と続けた。
「僕の好きな芸能人、わかりますかっ?」
「吉川だろ」
それは今聞くことか、と冬枝が呆れたところで、さやかの瞳に涙が盛り上がった。
「……っ!冬枝さん!」
「うわっ」
ボストンバッグが床に落ち、さやかは両腕で冬枝に抱き付いた。
「おい、さやか」
「よかった。本当によかった…」
冬枝は通勤客の目が気になったが、さやかの涙が頬に触れると、何も言えなくなった。
ぎゅうっと冬枝を抱き締める細い腕が、あまりにもいじらしい。
「…………」
さやかを抱き返そうと腕を伸ばしかけて、冬枝は何とか我慢する。
――朝っぱらから、駅のど真ん中で抱き合ってどうする。
代わりに、冬枝はその手でそっとさやかの髪を撫でた。
「…悪かったな。心配かけて」
ぼそっと謝ると、さやかが涙に濡れた顔を上げた。
「いいんです。冬枝さんが思い出してくれて、僕、すごく嬉しいです」
幸せそうに笑うさやかを見ていると、冬枝の両腕が行き場を求めてむずむずしてくる。
――あんまりめんけえこと言うなよ、バカ。
半ばヤケになって、冬枝はさやかをぎゅっと抱き締めた。
さやかの小さな身体が、すっぽりと冬枝の腕の中に収まる。
「さやか。お前は俺の代打ちなんだから、東京になんか帰るな」
耳元で、さやかが息を呑む音が聞こえた。
「……っ。冬枝さん…」
通勤客の視線が痛いので、冬枝はさっとさやかから身を離した。
たった一瞬の抱擁なのに、体温が2度も3度も上がったような気がする。走ったせいだ、と冬枝は自分に言い聞かせた。
さやかはしばらく呆然としていたが、やがて、足元のボストンバッグを拾い上げた。
「…ビデオ、取りに行くだけですよ」
「あ?」
「吉川のビデオです」
彩北では民放テレビ局が2つしか映らないため、さやかは吉川の出演する番組の録画を東京の家族に頼んでいた。先日、実家に電話した際、録画したテープがたまってきたから、そろそろ取りに来たら、と母親から誘われたのだという。
冬枝は、全身から力が抜けるのを感じた。
「なんだよ。ただの里帰りだったのか…」
「すみません。冬枝さんにもご挨拶したほうがいいとは思ったんですけど」
冬枝がさやかのことを忘れてしまったため、言うに言えなくなったのだろう。
冬枝の脳裏に、嵐のニヤケ顔が憎らしく浮かんだ。
――あいつ、知ってたな。
嵐に乗せられたと思えば、年甲斐もなく全力疾走した自分が恥ずかしくなってくる。冬枝は、誤魔化すように駅の時計を見た。
「…時間、いいのかよ。9時の新幹線だろ」
ぶっきらぼうに言う冬枝に、さやかは笑顔で首を横に振った。
「いいです。東京に帰るのはやめます」
「えっ」
「ビデオは、宅配便で送ってもらいます」
さやかは背伸びして、冬枝に顔を近づけた。
「冬枝さん。今日は、一緒にいてもいいですか?」
さやかの瞳の煌めきが、冬枝のすぐ近くにある。
一時とはいえ、忘れていたのが不思議なくらい、その煌めきは眩しかった。
――やっと、思い出せた。
「…ああ。俺も、お前を連れて行きたい場所があるんだ」
冬枝がそう言うと、さやかがぱあっと顔を輝かせた。
「どこですか?」
「ミルク焼。お前、好きだろ」
「はい!」
にっこりと頷くさやかに、冬枝は意地悪な笑みを浮かべた。
「じゃ、今日は10個ぐらい買うか。誰かさんがつまみ食いしねえように」
「僕、そんなに食べませんっ」
「どの口が言ってんだ。会ったばっかの人間のミルク焼かじるかよ、普通」
「だって、美味しかったんだもん…」
照れ臭そうにむくれるさやかの頬を、冬枝は笑いながらつついた。