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18話 忘れん坊ダンディー・前編

第18話 忘れん坊ダンディー・前編


 パチン!

 冬枝は、ハサミで松の枝を断ち切った。

 落ちた枝や葉を、下で弟分たちがせっせと袋に拾い集める。

 ハシゴに乗っているせいか、太陽が近い。冬枝は、額の汗を手の甲でぬぐった。

 ――なんで、組長んちの庭仕事を俺がやらにゃならんのだ。

 先日、冬枝が組当番で事務所にいると、組長がふらっと現れてこう言った。

「冬枝さあ、昔、庭師の手伝いしてたんでしょ?」

「はあ」

「今度さ、俺んちの庭、手入れしてくんない?」

 確かに、冬枝は昔、庭師のバイトをしていたことがある。と言っても、もう30年近く前の話だ。

 組長は、ポンと冬枝の肩を叩いた。

「小遣いあげるからさ。お嬢ちゃんに、メシでも奢ってあげてよ」

 組長の言う『お嬢ちゃん』とは、さやかのことだ。組の代打ちとして活躍し、最近では若頭である榊原の愛人・響子の家でも打っている。

 榊原は、一匹狼の冬枝のことを何かと気にかけ、仕事を回そうとしてくれている。組長が庭の手入れを頼んだのも、榊原の影響かもしれない。

 ――ただ、からかわれてるだけかもしれねえけどな。

 庭の手入れなんて、植木職人にやらせるか、若い衆にでもやらせればいい。43歳の冬枝にやらせるような仕事じゃない。

「そう不満そうな顔しないでよ、冬枝」

 屋敷の縁側から、ぺたぺたと裸足の組長が姿を現した。

「親分。お疲れ様です」

 高根と土井が、慌てて頭を下げる。土井は勢い良く頭を下げ過ぎて、サングラスがボトッと手元のゴミ袋の中に落下した。

「別に、不満じゃありませんよ。もう年なんで、腰が痛いだけです」

「冬枝も、丸くなったねえ。昔だったらこんな仕事、受けなかったでしょ」

 自分でやれと命じておいて、この言い草だ。とことん、食えない男である。

「冬枝んとこのお嬢ちゃんさ、元気?」

「元気ですよ」

 こないだゴルフ場で会ったばっかだろうが、と突っ込みたくなるのを冬枝は堪える。

 組長は、呑気に縁側で胡坐をかいた。

「なーんか今時珍しく、真面目な娘だよねえ。東京の子っていうけど、こっちの女よりもお固そうじゃない。冬枝さ、どうやってあのお嬢ちゃんを口説いたの?」

「あいつは、ただの麻雀バカです。麻雀やらせてやるって言ったら、ホイホイついてきました」

 これが事実なのだから、冬枝はちょっと情けなくなる。冬枝とさやかの関係は、言葉にすると笑ってしまうほど単純だ。

 高根と土井は、咳払いもせず、黙々と木の葉を掃除している。若い2人は、組長の前では緊張を隠せないようだ。

 組長は、ふーんと頬杖をついた。

「麻雀バカ、ねえ。ま、確かに、麻雀以外興味がございません、みたいな澄ました顔してるよね」

「さやかが親分の気に障ったなら、すみません」

「いやいや、そういう意味じゃないよ。ただちょっと、あの子、何考えてるか分からないなーって思って」

 冬枝は、ちょっと意外な気がした。

 組長――熊谷雷蔵は、飄々とした挙動の裏で、人をよく見ている。白虎組の後ろ盾を得たい灘議員と、自身の腹心である榊原とを政略結婚で結びつけたのは、熊谷がまだ若頭だった時代の話だ。灘議員というスポンサーを得た熊谷は、すんなりと白虎組の跡目を継承した。

 親しげな表情を浮かべながら、組長のサングラスの奥の瞳が少しも笑っていないことを、冬枝はよく知っていた。

 そんな組長が、さやかのことは分からないと言うのだ。冬枝には、そっちのほうが不思議だった。

 ――そりゃ確かに、ちょっと澄ましたところはあるけどよ。

 それでも、付き合いの長くなった冬枝にしてみれば、さやかは分かりやすい女だ。必要のない嘘はつかないし、冬枝にはなんでも正直に話す。毎朝、無防備な寝起き姿を見ていると、この女に隠し事なんてあるのだろうか、という気さえしてしまう。

「さやかの頭の中なんて、麻雀でいっぱいですよ」

 冬枝がそう言うと、組長がうーんと腕を組んだ。

「あの娘さあ。秋津の……」

 という組長の声に、土井の「うわああ!」という悲鳴が被さった。

「なんだよ、土井」

「な、なんかいます!」

「ああ?」

 土井の指差す先を見た冬枝は、ちょっと目を丸くした。

 ――鹿?

 庭の木立に埋もれるように、灰色っぽい鹿のような動物がぽつんと佇んでいる。鹿にしてはツノが短く、あまりなじみのない見た目だ。

 高根が「あ!」と声を上げた。

「もしかして、カモシカじゃないですか」

「カモシカ?」

「ああ。こないだ、街に出てきて騒ぎになったやつ」

 と、組長も膝を叩いた。

 先月、野生のカモシカが市街地に現れ、ちょっとした騒ぎになった。ニュースにも取り上げられたため、冬枝も覚えている。

 組長宅は山間に近く、緑に囲まれているせいか、カモシカが迷い込んでしまったらしい。

「ど、ど、どうしましょう」

 土井はすっかり、得体の知れない動物にビビっている。

「落ち着け。カモシカは大人しいから、こっちから刺激しなければ大丈夫だって、さやかが言ってたぞ」

 冬枝は、カモシカ市街地に出現、のニュースを見た時にさやかと交わした会話を思い出した。

「さやかさん、物知りですね」

 高根が感心したのも束の間、カモシカが土井めがけてトコトコ歩いてきたので、土井が悲鳴を上げた。

「ひいーっ。兄貴、こっちに来ますよ」

「そんなにビビるな。親分の前だぞ」

 自分の庭にカモシカが入ってきたというのに、組長は平然としている。

「タヌキとかキツネとか、よく入って来るんだよねえ」

 放っとけば帰るでしょ、と言って、組長はすたすたと屋敷の奥へと引っ込んでいった。

「そういや、カモシカは帰巣本能があるって、さやかも言ってたな」

「でもこいつ、どんどんこっちに近付いて来るんですけど~っ」

 カモシカは、何故かずんずんと土井に寄って来る。土井はすっかりパニック状態だ。

「うわああっ!高根、何とかしてーっ!」

「もしかして、土井が持ってる葉っぱが欲しいんじゃないか」

「え?これ?」

 高根の言葉で、冬枝はまた、さやかが言っていたことを思い出した。

「そうだ。カモシカは草食だから、草とか葉っぱを食うって言ってたな。土井、袋の中身を少しそこにあけてやれ」

「は、はい」

 土井は、言われた通りに袋から葉っぱや小枝を少し出した。

「まるで、エサやり体験だな」

 普段はふざけている土井がすっかり怖気づいているせいか、高根が珍しく軽口を言った。

 エサやり体験、で冬枝が連想したのは、さやかの顔だった。

 ――そうだ。さやかの奴、またアレが食べたいって言ってたな。

 帰ったら、久しぶりに店に連れて行ってやるか。真ん丸になったさやかの顔を思い出して、冬枝は少し気が緩んだ。

 一方、思わぬ食事に喜んだのか、カモシカが土井に駆け寄ってきた。

 それは、今にも土井に激突せんばかりに――少なくとも、パニック状態の土井には、カモシカが突進してきたように見えた。

「ぎゃあっ!」

 怯えて飛び退った土井は、冬枝の乗っているハシゴに思いっきりぶつかった。

「!?うわっ…」

 土井の勢いが強かったのか、足場が不安定だったのか――ハシゴはいともあっけなく、ぐらりと傾いて倒れた。

 冬枝は、背中から地面に落下した。

「兄貴!」

 高根は手にしていたゴミ袋を投げ捨て、慌てて駆け寄った。

「………」

 気を失ったのか、冬枝は倒れたまま、微動だにしない。

「まずい…。救急車!」

「兄貴~っ!」

 高根が屋敷に飛び込み、土井も真っ青になって冬枝を見下ろした。

 カモシカは、いつの間にか姿を消していた。



 その頃、雀荘『こまち』では、さやかと嵐が打っていた。

 嵐に連敗しているさやかだが、今日は珍しく調子がいい。東場を完全にリードし、南二局になった今も、三暗刻まで手が仕上がっている。

 ――このまま四暗刻にして、一気に点を引き離してしまおう。

 運のいいことに、さやかの手牌にはドラも入っている。リーチをかければ、裏ドラも期待できそうだ。

 滅多にない上出来の引きだが、勿論、さやかは顔には出さない。嵐相手に油断できないことは、身を以て知っているからだ。

 対する嵐は、手牌が悪いことを隠そうともしない、露骨な思案顔だ。

「うーん。さやか、牌見せてくれねえか」

 嵐は「あ、お前のささやかな乳のことじゃねえぞ。手牌な」と言って、にやにや笑った。

「………」

 どっちにしろ見せる気などないし、今日こそ、このふざけた男の鼻っ柱をへし折ってやる、とさやかは闘志を燃やした。

「さやか」

「手牌なら見せませんよ」

「違くてさ。こないだ、鈴子が朽木と電話したって言ってたんだけど」

 嵐は淡々と「なんか、さやかが朽木と繋いでくれたんだって?」と言った。

「はい。鳴子さんの恋人って、朽木さんのことだったんですね」

 嵐が事あるごとにヤクザを敵視していたのは、朽木のせいだったのだ。妹のように可愛がっていた鳴子と駆け落ちした朽木のことを、嵐は許せないのだろう。

「俺は認めてねえけどな!」

「まあ、朽木さん、ああいう人ですからね」

 さやかに対しても、傍若無人な態度を崩さない男だ。ただ、先日、朽木の自宅を訪れたことで、さやかの朽木に対する評価は少し変わった。

「朽木さん、鳴子さんのことをすごく大事にしているみたいでしたよ。毎週、プレゼントもしてるって言ってたし」

「なんだよ、さやか。ダンディ冬枝から、朽木に乗り換えるつもりか?」

「乗り換えるって何ですか。汽車じゃあるまいし」

「とにかく、俺はあんなホジナシ、認めねえからな」

「ホジナシって…嵐さん、朽木さんと会ったことないんでしょう?」

「ない!」

 きっぱりと言い切ってから、嵐は「なあなあ、さやか。朽木って、どんな男なの?」とさやかに顔を近づけた。

「どんなって…」

「ツラだよ、ツラ。まさか、鳴子のイラスト通りの見た目じゃねえだろ?」

 鳴子の描いた「貴彦さん❤」の絵は、瞳に星が瞬く、麗しい王子様だった。

「あんなカッコイイ感じでは、ないですね」

「俺の想像だと、朽木ってのはこういう感じなんだけど」

 事前に描いておいたのか、嵐はピンクの革ジャンから、イラストを描いた紙切れを取り出した。

「これは……」

 人相が不細工なのはさておき、嵐の描いた朽木は、顔じゅうから毛が生えており、大きく開けた口からは、火を吐いている。

 しかも顔がやたら大きいので、見た目は人間というより、化け物に近い。鳴子の絵とは別の意味で、実在の疑わしい朽木像だった。

「……嵐さん、本当に元警官なんですか?」

「俺って、芸術家タイプだからさ。人の上っ面より、内面重視で描いてるの」

「屁理屈は天才的ですね」

 よく見ると、絵の横には『怪獣クチッキー』と書き添えてある。小学生の落書きか、とさやかは苦笑した。

「にしてもさあ、お前、いつの間に朽木とそんなに仲良くなったの?」

「えっ?」

「鈴子に電話させるなんて、よっぽど朽木と親しくなきゃ、できねえ芸当だろ」

「別に、親しくなんかありませんよ。うまく話に乗せただけです」

 さやかは正直に言ったつもりだが、嵐は疑い深そうな目でこちらを見ている。

「ホントかぁ?意外と、朽木みたいなのが好みだったりするんじゃねえの?」

「まさか」

「ダンディ冬枝と朽木なら、どっちがさやかのタイプ?」

「……その手には乗りません」

 さやかがぷいっと顔を背けると、嵐がカラカラと笑った。

「まんず、鈴子は朽木と話せて、スッキリしたみたいだからさ。ありがとな、さやか」

「いえ…。僕も、鈴子さんにはいつも笑っていて欲しいですから」

 本当は、鈴子と鳴子が再会できれば一番いい。極道の妻として、堅気の姉夫婦とは一線を引くことにした鳴子の決意は、覆せないのだろうか。

 そこで、店の奥からマスターの中尾が飛んできた。

「さやかさん。大変です」

 オーナーが仕事中に頭を打って倒れた、と聞いて、さやかは雀卓から立ち上がった。

「冬枝さんが…!?」

 さやかは中尾から病院の場所を聞くと、後ろも見ずに『こまち』を飛び出していった。

「恋する乙女は足が速いねえ…」

 すっかり置き去りにされた嵐は、身を乗り出してさやかの手牌をパタパタと倒した。

「おお、三暗刻。危ねえところだった」

 麻雀一筋の『麻雀小町』が、惚れた男のためなら高目を捨ててでも飛んでいくわけだ。嵐は、冬枝が倒れたと聞いて、一瞬で嵐の存在を忘れたさやかのことを思った。

 ――相手がヤクザじゃなけりゃ、応援してやるんだけどな。

 恋にのめり込んでいくさやかの姿が、かつての鳴子と重なって見える。嵐は少し重たい気持ちを引きずりながら、タバコに火をつけた。



 さやかが病院に向かうと、高根と土井、それに組長と榊原の姿まであった。

 組長たちが揃っているのを見て、さやかは不安になった。

 ――冬枝さん、そんなに具合が悪いんだろうか。

 さやかの姿を認めた組長が、鷹揚に片手を上げた。

「おー、お嬢ちゃん。来るの早いねぇ。車で来たの?」

「は、はい…」

「榊原。タクシー代、あげて」

「はい」

 組長に言われた榊原が、ピンと張った1万円札をさやかに渡した。

「あの、そんなことより、冬枝さんは…」

「カモシカがドーン!で、ハシゴが倒れて、兄貴が落っこちちゃったんですよ~!」

 土井の支離滅裂な説明に、高根が「落ち着け、土井」と突っ込んだ。

「冬枝さん、ハシゴから落ちちゃったんですか…それで、頭を打ったんですね」

「はい…。ケガは大したことないそうなんですが、なかなか意識が戻らなくて」

 高根は、心配そうに冬枝のいる病室の扉を見つめた。

「そうですか…」

 それっきり、さやかは何も言えなくなった。

 冬枝の容態が気になって、思考がそれ以上、前に進めない。

「………」

 そんな自分を組長がじっと見ていることなど、さやかは気付いていなかった。

 それから、10分ほど経っただろうか。看護婦が、にこやかに病室の扉を開けた。

「冬枝さん、目を覚まされました」

「えっ」

「もう大丈夫そうですから、このままお帰りになってもいいですよ」

「やったー!」

 高根と土井が、手を取り合って喜んだ。

 さやかも、肩から力が抜けた。

 ――良かった。

 早速、一同で病室に入ると、ちょうど冬枝が起き上がったところだった。

「冬枝。ケガは大丈夫なのか」

 榊原が尋ねると、冬枝は何でもなさそうに「平気です」と答えた。

「ちょっと転んだだけですから」

「さっすが冬枝、頑丈にできてるねぇ」

 組長は顎を撫でながら「うちの庭仕事しててくたばった、なんてことになったら、後味悪いからねぇ」と言って笑った。

「くたばりますか、このぐらいで。榊原さんまで、わざわざ来てくれたんですか」

「ああ。親分から、お前が倒れたって聞いてな」

「大げさですよ。俺はこの通り、なんともありませんから」

 冬枝は、枯れ葉色の背広の袖に腕を通した。

 土井が、心配そうに冬枝の顔を覗き込む。

「兄貴、ホントに大丈夫っスか?頭打ったんだし、もうちょっと休んでいったほうがいいんじゃ…」

「ケガもしてねえのに、いつまでもベッドを占領してられねえだろ」

 冬枝はそう言うと、さっさとベッドから降りた。

 土井は「オレの名前、わかります?」と言って、自分の顔を指さした。

「土井だろ」

「自分は?」

「高根だろうが」

 弟分2人の顔を順々に見てから、冬枝の視線がさやかの上で止まった。

「……誰だ?」

 一瞬、場が静まり返った。

 さやかは、呆然と冬枝を見つめている。

「兄貴、そういう冗談はオレの時に言ったほうが良かったと……思うな~」

 という土井の声は、尻すぼみになった。

 冬枝が完全にさやかを無視して、さっさと帰り支度を始めたからだ。

 組長と榊原も、顔を見合わせている。

 冬枝は「じゃ、失礼します」と2人に言い残し、病室を出て行ってしまった。さやかのことは、振り向きもせずに。

 再び、病室に沈黙が降りた。

「……兄貴の分かりにくいジョークだったりしない?」

 気まずそうな土井の呟きに、高根が無言で首を横に振った。組長と榊原の前で、冬枝がくだらない冗談を言う理由がない。

 さやかが、小さく溜息を吐いた。

「あの様子だと、冬枝さん、本気で僕のことを忘れてると思います」

「オレと高根、それに親分と若頭のことも覚えてたのに、なんで、さやかさんだけ?」

「さあ…」

 さやかは「多分、頭を打ったことによる、一時的なものじゃないでしょうか」と言った。

 榊原が腕を組んだ。

「とりあえず、高根たちは冬枝に付いて行ってやれ。様子がおかしいようなら、もう一度、病院に連れて来い」

「分かりました」

 高根と土井は組長たちに頭を下げると、そそくさと病室を後にした。

 残されたさやかに、組長が声をかけた。

「ねえ、お嬢ちゃん」

「…はい」

「今日、ヒマ?」

 唐突な質問にさやかは一瞬、面食らったが、「はい」と答えた。

「じゃ、夕方『こまち』で待ってて。迎えに行くから」

「はあ」

 白虎組の組長直々の呼び出しである。さやかは身に覚えがないが、理由を問える雰囲気でもなかった。

 組長は、くるりと背を向けた。

「行こっか、榊原」

「はい」

 一人、病室に残されたさやかは、抜け殻のようなベッドを見つめた。

 冬枝がこちらに向けた、興味のない他人を見る目が、さやかの胸をちくりと刺す。

 ――冬枝さん……。

 窓の外に広がる青空が、さやかには果てしなく遠く見えた。



 病院を出た冬枝は、市内にあるイベント会社に向かった。

 応接室に通されると、待ってましたとばかりに男が立ち上がった。

「冬枝さん。今日はわざわざご足労いただき、ありがとうございます」

 頭を下げたのは、このイベント会社の社長、坪内だ。

 ソファには、他にもひと目でヤクザ者と分かる男が2人、憮然として席に着いている。

「てめえら、また揉めたのか」

 冬枝がこの3人と顔を合わせるのは、今日が初めてではなかった。

 白虎組の傘下に、稲玉組と躑躅会がいる。いずれも祭りやイベントの興行を主な稼業とする組で、縄張りが近いこともあって、行事の仕切りを巡ってぶつかることがしばしばあった。

 最近、この2組は演歌コンサートの興行を巡って揉めていた。板挟みにされた坪内に泣き付かれた冬枝が、両者にチケット販売や物販の担当を割り振る形で仲裁したばかりだ。

「コンサートの件なら、あれで解決しただろ。まだ文句があんのか」

 冬枝がどっかとソファに座ると、坪内が「それが…」と眉を八の字に下げた。

「今度のコンサートはぜひ、白虎組の親分にも来ていただきたいということで、稲玉組と躑躅会のどちらが招待状を出すか、でケンカになってしまいまして」

「ああ?」

 そこで、稲玉組から来た精悍な男が、ずいと身を乗り出した。

「熊谷の親分とは、家族も同然ですから。うちが招待状を出すのが筋だと思います」

 というのも、稲玉組はもともと、白虎組組長・熊谷が組長を担っていた組だからだ。熊谷が白虎組に入るにあたって吸収された組であり、今も熊谷との繋がりは深い。

 だが、躑躅会から来た七三分けの男がそれに反論する。

「昔から街の催し物を仕切ってきたのは、うちの組です。街の顔として、新参者の稲玉組に譲ることはできません」

 七三分けの男の言う通り、躑躅会は彩北市における歴史が古い。先代に招かれた熊谷と共によそから来た稲玉組とは、団体としての重さが違う。

 この通り、どちらの組にも分があるため、事あるごとに張り合うのだ。冬枝としては、頭の痛い問題である。

 ――そんなの、ヒラの俺じゃなくて、榊原さんにでも言ってくれよ。

 とはいえ、今や榊原は政財界の大物たちとも仕事をしており、街の揉め事にいちいち構っていられるような立場ではない。そのため、古参で幹部たちとも口が利ける冬枝の元にトラブルが持ち込まれるのだった。

 結局、今日の話し合いは平行線のまま終わった。

 招待状を贈るとなると、組長との親密さをアピールする絶好の機会だ。組長に取り入り、少しでも利権を増やしたいというのは、傘下の組なら皆考えることである。

「こうなったら、また麻雀でケリをつけるか」

 以前にも、稲玉組と躑躅会の間で話がつかず、麻雀で決着をつけさせたことがあった。冬枝が間に入っていれば、イカサマをしたり、乱闘になったりする恐れもない。

「あの、兄貴…」

 帰りの車で、土井がためらいがちに口を開いた。

「兄貴、本当にさやかさんのこと、覚えてませんか?」

「誰だよ、さやかって」

 ハンドルを握る高根が「病院にいた女の子です」と言った。

「そういや…あの女、なんであそこにいたんだ?」

 看護婦ではなさそうだったし、組長や榊原の連れにも見えなかった。極道の集まりに、いきなり素人の女学生が迷い込んだみたいな風情だった。

「あの娘、めちゃくちゃ麻雀強いんですよ」

「知り合いなのか」

「知り合いというか、なんというか…」

 それっきり、土井も高根も口をつぐんだ。どうも、弟分たちは心ここにあらずといった様子だ。

 そこで、高根が「あっ」と声を上げた。

「さやかさんだ」

「ああ?」

 高根は慌てて車を停めると、「ほら」と言って窓の外を指さした。

 繁華街へと続く歩道を、見慣れたアルマーニの背中と並んで地味な女が歩いていく。

 そこで冬枝は、ああと納得した。

「なんだ。朽木の女だったのか」

 どうりで、記憶にないわけだ。朽木が連れている女は毎回、顔触れが変わるため、いちいち覚えてなどいられない。

「いや兄貴、そんなこと言ってる場合じゃないです。さやかさん、朽木さんに連れて行かれちゃいますよ」

 高根が血相を変えたが、冬枝には高根がそこまで狼狽する意味が分からない。

「だから何だよ。朽木が女といちゃつくぐらい、放っとけ」

「いや、その、えっと」

「それより、稲玉組と躑躅会の事務所に行くぞ。あいつらには今夜、『こまち』で勝負させる」

 高根はしばらく繁華街へ向かう朽木たちの背中を見つめていたが、仕方なく車を発進させた。

「ジーザス」

 助手席の土井が天を仰いだが、後部座席の冬枝には聞こえなかった。



 開店前のキャバレー『ザナドゥー』に、なじみのヤクザ2人が顔を突き合わせている。

 朽木と白虎組若頭補佐・霜田。いつもと違うのは、そこに白虎組の代打ち、夏目さやかが混ざっていることだった。

「僕に何のご用でしょう」

 さやかが病院を出ると、朽木が待ち構えていた。聞けば、霜田がさやかに会いたがっていると言う。

 霜田には、組事務所で初めて会った時に罵詈雑言をぶつけられ、いい印象がない。霜田のほうも自分を快く思ってはいないことは、さやかも承知していた。

 硬い面持ちのさやかに対し、霜田はふん、と小さく笑みを浮かべた。

「活躍は聞いていますよ、麻雀小町」

「はあ」

 ――霜田さんまで、僕のことを『麻雀小町』って呼ぶのか。

 恐らく朽木の影響だろうが、霜田に呼ばれると、余計にバカにされている感じがする。

 実際、霜田はこちらを見下すように踏ん反り返っている。

「最近じゃ、若頭の愛人の家で打ってるそうじゃないですか。うまく取り入ったものですね」

「恐れ入ります」

「男であれば愛人の家には上げたくないでしょうし、妙齢の美女であれば、愛人に気兼ねして、これまたそぐわなかったでしょう。麻雀小町は、実にけっこうな代打ちです」

 見え見えの嫌味だが、さやかは眉一つ動かさなかった。

「呼び出したのは、冬枝さんの説得の件でしょうか」

 さやかが切り出すと、朽木が「そうだよ」と答えた。

「てめえ、冬枝一人オトすのにいつまでかかってんだ。それでも女か?」

「女かどうかは関係ありません」

 さやかは「これも作戦です」と言って、不敵な笑みを浮かべた。

「冬枝さんは、色仕掛けや口八丁で意見を変えるような人じゃありません」

「じゃ、どうすんだ」

「まずは、代打ちとしての信頼を積み上げます。ある程度、実績を積めば、冬枝さんも僕の言葉に耳を傾けてくれるようになるかと」

「ほーう」

「そのうえで、青龍会と闘うのを諦めてくれるよう、懇々と説得します」

 ふんふんと頷いてから、朽木がカッと目を見開いた。

「てめえはアホか!冬枝の説得に何年かけるつもりだ、ああ!?」

「これが最適解です。他の解では、冬枝さんの意志は動かせません」

「何がカイだ、てめえの頭を分解してやろうか!」

 朽木に頭を押さえつけられ、さやかは「やめてください」と呻いた。

「落ち着きなさい、朽木」

 霜田が、呆れたように眉間に指をあてた。

「所詮は、世間知らずの小娘です。そんなものに期待するほうがバカなんですよ」

「ですが、霜田さん。こいつは若頭にも気に入られていますし、利用する価値はあります。ちょっとつつけば冬枝だって、意のままに操れるかもしれません」

「その目論みも、水の泡となりそうですよ」

 霜田は、組長宅で冬枝が倒れ、さやかの記憶を失ったことを既に掴んでいた。

「ああ!?冬枝が記憶喪失!?」

 話を聞いた朽木は、さやかを睨み付けた。

「てめえ、何忘れられてんだ」

「そんなことを言われても…」

 さやかだって、冬枝が自分のことだけを忘れてしまった理由が分からない。

 高根や榊原たちよりも付き合いが浅いのは確かだが、あっさり忘れられてしまうほど、冬枝の中ではちっぽけな存在に過ぎなかったのだろうか。そんな風に考えそうになるのを、さやかは堪える。

 ――しょせん、一時的な健忘症にすぎない。冬枝さんが僕のことだけ忘れてしまったのは、ただの偶然だ。

 分かってはいても、さやかの気は塞いだ。追い打ちをかけるように、朽木の言葉が続く。

「はぁ~あ。冬枝が麻雀小町に脈ナシってのは、本当だったんだな。女とみりゃすぐに口説くあの冬枝が、未だ手つかずで放っておいてるわけだからな。よほど、女としての魅力がねえんだな、てめえは」

「………」

 女関係で朽木が冬枝をどうこう言うのも筋違いだとは思ったが、さやかは朽木の発言を否定できなかった。

「だったら、いっそこいつも、若頭の愛人にでもしちまったらどうですか。麻雀はうまいし、あの女ともうまくやっているようですから、取り入る隙はあるはずです」

 朽木がそう言うと、霜田が鋭く「朽木!」と咎めた。

 ――えっ?

 さやかがハッとしたのと同時に、朽木がしまったという風に口を押さえた。

「麻雀小町。今の話は他言無用だぞ。さもなきゃ、今日からうちのソープで一番のクソ客の相手をてめえにさせてやるからな」

 さやかを脅しつけてから、朽木は「まあ」と目つきを緩めた。

「冬枝に忘れられちまった麻雀小町が何を言ったところで、誰も信じやしねえか。冬枝っていうお守りがいなきゃ、てめえはただの乳臭い小娘だ」

 ポンと軽く胸を叩かれ、さやかは思わず朽木の手を振り払った。

 霜田が「とにかく」と話をまとめた。

「麻雀小町。今の冬枝の状態がいつまで続くか分かりませんが、お前はせいぜい大人しくしていることです。くれぐれも、早まって代打ちを辞めたりしないように」

「…はあ」

 ――僕がいたほうが、榊原さんと響子さんの麻雀が盛り上がるからか。

 さやかは既に、霜田と朽木の魂胆が見えていた。愛妻家だったという榊原に響子という愛人を差し向けたのは、恐らくこの2人だ。

 榊原には響子を、冬枝にはさやかをあてがうことで、霜田と朽木は、主戦派である榊原たちを懐柔しようとしている。

 いつの間にか、さやかはとんでもない陰謀に巻き込まれていた。もはや、淑恵のために榊原の不倫に胸を痛める、という次元の話ではない。

 ――でも、これって悪いことなんだろうか。

 色仕掛けが正しいとは思わないが、榊原たちに青龍会との闘いを放棄させること自体は、さやかも賛成しなくもない。冬枝に、圧倒的な武力を誇る青龍会の相手などさせたくないからだ。

「霜田さん」

 さやかが呼びかけると、霜田がピクリと片眉を上げた。

 さやかは、正面から霜田と向き合った。

「霜田さんは、白虎組を青龍会から守ってくれますか」

「おい、麻雀小町」

 朽木が横から口を挟んだが、さやかはじっと霜田を見つめた。

 さやかの言う『白虎組』は、冬枝のことだ。霜田の目的が金や権力であろうと、冬枝を守ってくれるのであれば、それに従うのがさやかの最適解だ。

「ええ。守りますよ、私たちの白虎組を」

 霜田は、眼鏡の奥の瞳を動かさずに答えた。

 去り際、霜田はさやかにこう念を押した。

「今日の組長との待ち合わせ、遅刻厳禁ですよ」

 若頭補佐だけあって、榊原が得た情報は霜田にも流れているようだ。さやかは、ふと気になっていたことを聞いた。

「組長は、僕に何のご用でしょうか」

 まさか、代打ちをクビにされるのだろうか。後ろ盾である冬枝がさやかのことを忘れてしまった以上、ありえない話ではない。

「そうだな。2号にするにしちゃ、親分のタイプじゃねえな、てめえは」

 さやかを上から下までじろじろ見て、朽木がにやりと笑った。

 霜田は「私が聞きたいぐらいですよ」と呆れ気味に言った。

「若頭と4人で、麻雀でもする気なのでしょうかね」

「4人って…霜田さんもいらっしゃるんですか」

「ええ。こちらも暇じゃないというのに、組長の気紛れには困りますよ」

 組長と若頭と補佐――幹部たちが揃った場で、一体さやかに何をさせる気なのだろうか。それこそ、麻雀しか思いつかない。

 ――でも、冬枝さんが記憶を失くした今、このメンツで麻雀なんかするだろうか。

 疑問を抱えたまま、さやかは『ザナドゥー』を出た。

「おい、麻雀小町」

 朽木が、横からさやかの肩を抱いた。

「もし冬枝の記憶が戻らなかったら、俺がお前の面倒を見てやってもいいぜ」

「は?」

「お前、冬枝んとこに居候してるんだろ?住むトコどうすんだよ」

「…あ」

 今の冬枝にとって、さやかは見知らぬ他人だ。冬枝のマンションに帰ろうとすれば、不審者扱いされてしまうだろう。

「うちに来りゃ、メイちゃんの話し相手もさせてやる。光栄に思え」

「……考えておきます」

 冬枝の記憶が戻らなかったら、本当に朽木の世話になるしかないかもしれない。憂鬱な気持ちのまま、さやかは朽木と別れた。



「えーっ!?ダンディ冬枝、さやかのこと忘れちまったの!?」

 自称・雀ゴロに偽りなく、嵐は夕方になっても雀荘『こまち』にいた。

「オレのせいですよ。オレがカモシカにビビッちまったばっかりに…」

 土井が、サングラスをかけたままカウンターに突っ伏した。タバコを買いに行くと言って、抜け出してきたらしい。

「冬枝さん、まだ僕のことを思い出せないんですか」

 さやかは、カップからひと口啜って顔をしかめた。今日のコーヒーは、やけに苦い。

「そうみたいです…」

 冬枝が、さやかが朽木に連れて行かれるところを黙って見送ったとは言えず、土井は語尾をどもらせた。

「冬枝さん、念のために精密検査を受けたほうがいいんじゃないでしょうか」

「でも、兄貴は記憶喪失って自覚がないみたいなんですよね」

「確かに、身体には特に問題なさそうですもんね」

 すると、嵐が「じゃあ、いいじゃん!」と声を張り上げた。

「は?」

「これで、ヤクザと円満に縁を切れるわけだろ?良かったじゃねえか、さやか!」

「縁を切れるって…」

 嵐はさやかの手を握ると、眩しげに天井の蛍光灯を見上げた。

「きっと、麻雀の神様が、いい子の麻雀小町を救ってくれたんだ。記憶の切れ目が縁の切れ目、ヤクザの代打ちなんて卒業だ!」

「ちょっと待ってくださいよ、嵐の旦那!」

 土井が慌てたが、嵐はさやかの手を握ったまま、くるくると店内を回った。

「ヤクザの代打ちやってたって、いいことなんか一つもねえんだ。さやかだって、自由に、気持ち良く麻雀打てたほうが、楽しいだろ?」

 嵐の笑顔と、嵐の言葉と、店内の雀卓が、さやかの視界でぐるぐると回った。

「自由に…」

 さやかは、冬枝の下にいて不自由だと感じたことはない。むしろ、東京で一人で打っていた頃よりも自由だと思っていた。

 それはきっと、冬枝がそばにいたからだと、さやかは今気付いた。

 古参の代打ちたちの反対に遭い、さやかが代打ちを辞めようとした時。

 小池や猿竹と再会し、さやかが自分を見失いそうになった時。

 いつだって、冬枝が支えてくれたから、さやかは自分の麻雀を打てたのだ。

「お前は俺の子分じゃねえんだから、俺の前でかしこまんなくたっていい。さやかはさやかだ」

 さやかは『わたし』じゃなくて『僕』でいい、と言ってくれたことが、昨日のことのように蘇る。

「もし、このまま冬枝さんの記憶が戻らなかったら…」

 さやかのことを他人だと思っている冬枝の眼差しを思い出し、胸が痛む。

 さやかにかけてくれた言葉も優しさも、今の冬枝の中には存在しない。

「冬枝さんと一緒にやったこと、みんな、なかったことになっちゃうのかな…」

 口にしたら、さやかの目に涙が滲んだ。見られたくなくて、そっと顔を背ける。

「さやか…」

 嵐が、さやかの涙に手を止めた時だった。

「夏目さん。お迎えに上がりました」

 黒いスーツを着た男が、うやうやしく礼をした。

「あ…。もう、そんな時間ですか」

 さやかはそっと目元を拭うと、嵐の手から離れた。

「じゃ、嵐さん。僕はこれで」

「何だよ。ダンディ冬枝がボケたっていうのに、仕事かよ」

「そんなところです」

 さやかの笑みがどこか切なげに見えて、土井がハッとしたように声を上げた。

「あの、さやかさん!」

「はい?」

「今夜、ここで兄貴が勝負するんです。稲玉組と躑躅会のケンカなんですけど、兄貴はたいてい稲玉組に味方してます。稲玉組は、親分の出身団体なんで」

 土井は「だけど」と不安げに眉を曇らせた。

「躑躅会の奴ら、兄貴が稲玉組に肩入れしてる、って気付いちゃったみたいで、溝口さんを代打ちに持ってくるって言ってました」

「溝口さんって…あのおじいさんですか」

 さやかが彩北に来たばかりの頃、この『こまち』の利権を巡って対戦した相手だ。引退した白虎組最強の代打ちだということは、後になって冬枝が教えてくれた。

「どうして、溝口さんが躑躅会に?」

「躑躅会ってのは古い団体で、街の偉い爺さんがことごとく関わってる組なんです。溝口さんも昔の知り合いが躑躅会にいるとかで、断れなかったみたいなんですよ」

 あの溝口が相手となると、冬枝が苦戦する可能性が高い。さやかはかつて、冬枝が溝口相手に5万点もの差をつけられていたことを思い出した。

「分かりました。間に合えば、僕も参戦します」

「お願いします、さやかさん!」

 両手で拝む土井に無言で頷き、さやかは黒服に連れられて行った。

「麻雀小町は、あちこち引っ張りダコだのう」

 嵐は、さやかの残していったコーヒーをズズーッと啜った。

「あ~、どうしよう、どうしよう~っ」

 土井が、頭を抱えてぐるぐる回り出した。

「どうしたの、土井ちゃん」

「実はさやかさん、親分から直々に呼び出し食らったんですよ」

「えっ。マジかよ」

「マジなんです!」

 土井は、サングラス越しでも分かるぐらいに顔が青かった。

「兄貴がさやかさんのことを忘れちゃったのをいいことに、親分がさやかさんに何かするつもりなんじゃないかって、オレら、気が気じゃなくって…」

「土井ちゃん、それを先に言えよ!」

 嵐はガタッと立ち上がり、すぐさま『こまち』を飛び出していった。



 彩北の日没は早い。

 ついさっきまでオレンジ色に染まっていた街並みが、もう夜の色に変わり始めている。そんな景色も、さやかはすっかり見慣れてしまった。

 ――冬枝さん、今頃どうしてるだろう。

 もしも冬枝の記憶が戻らなかったら、それこそ朽木の下にでもつくしかなくなるだろう。そこまでしてヤクザの代打ちを続ける意味はあるのだろうか、とさやかはふと思った。

 確かに、白虎組の代打ちでいれば、普通の雀荘ではできないような勝負ができる。だが、さやかがわざわざ裏社会で麻雀を打ち続けてきたのは、スリルだけを求めていたからではない。

 ――冬枝さんの力になれるから。

 初めは、ただ麻雀が打ちたくて代打ちになっただけだった。それがいつからか、冬枝のために打つことが楽しくなっていた。

「よくやった、さやか。いい麻雀見せてもらったぜ」

 さやかが古参の代打ちたちに勝利した時、冬枝が褒めてくれたことを思い出す。その時、この人のために打ちたいという気持ちが、さやかの中に芽生えた。

 ――冬枝さんがいないなら、代打ちを続ける理由なんてない。

 そう気付いたところで、さやかは白虎組の組長と若頭と補佐と同じ車に乗っていた。

 ゴルフ場では和やかに談笑していた面々が、今日は言葉一つ交わさない。冬枝のことで頭がいっぱいだったさやかは、ようやく事態の異様さに思い至った。

 ――組長は、一体どこに行くつもりなんだろう。

 車は暮れなずむ街の更に奥、繁華街に近い橋の上で停まった。

「おいで、お嬢ちゃん」

 組長が車からひらりと降りたので、さやかと幹部たちも橋の上に出た。

 眼下には、街のネオンライトを映した川が流れている。

 組長は、橋の欄干にもたれてタバコをふかした。

「一度さ、冬枝抜きで、お嬢ちゃんと話がしたかったんだよね」

「はあ」

 どこまでも気楽な様子の組長とは対照的に、榊原と霜田は無言で顔を強張らせている。

 組長は、フーッとタバコの煙を吐き出した。

「お嬢ちゃん。こないだ、苅屋って刑事に捕まったんだって?」

「…はい」

 苅屋に万引きの濡れ衣を着せられ、さやかは留置場に入れられた。嵐や鈴子のおかげで事なきを得たが、苅屋が何故、さやかを狙ったのかは不明のままだ。

 組長が、ちらりと霜田を見やった。

「朽木がさ、たまたま苅屋を捕まえて、尋問したんだって」

「え…」

「そしたら苅屋、お嬢ちゃんを捕まえた理由を吐いたよ。お嬢ちゃんを拘束しろ、って、秋津一家に頼まれたんだってさ」

「秋津一家…?」

 横から、霜田が「大羽を拠点にする組です」と説明した。

「お嬢ちゃん、秋津一家に狙われる心当たり、ある?」

 組長は口調こそ柔らかかったが、サングラスの奥の瞳は刺すように鋭かった。

「………」

 さやかは、無意識に右手を強く握りしめていた。

 入試前夜――小池の代わりに受けた麻雀――血だらけになった右手――そして……。

 蘇りそうになる記憶を、心の奥深くに押し込める。

 さやかはきっぱりと「身に覚えがありません」と告げた。

「そう」

 一つ頷くと、組長はタバコを橋から放った。

 くるくると回転しながら落ちていく吸い殻を、組長は指差した。

「じゃあ、こっから飛んでみてよ」

「…えっ?」

 組長は、橋の下を流れる川に親指を向けた。

「ここから飛び降りろ、って言ってるの」

 そしたら、お嬢ちゃんが潔白だって信じてあげる――そう言って、組長は笑みを浮かべた。

「………!」

 水面を渡る風が、さやかの頬を冷たく撫でていった。

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