16話 麻雀小町、お縄でござる
第16話 麻雀小町、お縄でござる
朝、さやかは鏡の前で、そわそわと身繕いをしていた。
着ているのは、いつもの紺のセットアップ――ではなく、チュールレースと小花の刺繍があしらわれたブラウスとスカートだ。
これらは先日、朽木からもらった服である。東京に住む朽木の妻・鳴子に贈るはずだったが、鳴子にはサイズが合わないということで、さやかに下げ渡されたものだ。
あの朽木から物をもらうなんて、と躊躇いはしたものの、PINK HOUSEの夢見るような魅力には抗えなかった。以前、聖天高校のお茶会でマキたちが着ているのを見て、ひそかにいいな、と思っていたのだ。
――僕にはちょっと、派手だったかな。
天使のように白くふわふわとしたお洋服は、レースの軽さそのままに、さやかの心まで浮き足立たせる。落ち着かない気分で、さやかは冬枝たちのいる食卓に着いた。
「……」
冬枝は、広げた新聞に顔を突っ込んでいる。代わりに、高根が気付いてくれた。
「さやかさん、今日はずいぶんおめかししてますね。どこかへお出かけですか」
「ええ。今日は雀荘じゃなくて、買い物にでも行こうかな、なんて」
「デートっスか」
サングラスの土井が真顔で聞くと、高根が「バカ、土井。そんなわけないだろ」と真面目に突っ込んだ。
――そんなわけないだろ、ってのも、失礼しちゃうけど。
「朽木さんのところにでも行こうかな」
高根の言葉に刺激されたわけではないが、さやかはぽつりとそんなことを口にした。
朽木には、色々と用事がある。一応、服をもらった礼をしたほうがいいかな、とか、朽木にもわさびおにぎりが当たったのかとか、鳴子との電話とか。
「えっ。さやかさん、朽木さんとデートですか」
土井と高根が揃って顔色を変えたので、さやかは両手を振った。
「違いますよ。この服、朽木さんからもらったので、お礼でもしたほうがいいかなーって」
「お前、なんで朽木から服なんかもらってるんだよ」
冬枝が、ようやく新聞から顔を上げた。
「この間『エメラルド・ドラゴン』に絡まれたところを、朽木さんが助けてくれたんです」
「朽木が?」
「それで、朽木さんの家に連れて行かれて」
そこで、冬枝が血相を変えた。
「さやか。お前、やっぱり朽木になんかされたのか」
「えっ。いや、その」
「兄貴、その聞き方で『なんかされました』とは答えづらいと思いますよ」
土井が、横からのんびりと口を挟んだ。
さやかは苦笑した。
「何もされてませんよ。響子さんも言ってた通り、朽木さんは本当に奥さん想いなんですね。ノロケ話をたくさん聞かされました」
「それだけかよ」
「それだけです。まあ……大事な話もしましたけど」
朽木はさやかに「代打ちとしての覚悟が足りねえ」と喝を入れてくれた。
勿論、冬枝の説得自体が多分に朽木の謀略絡みであり、朽木の話を鵜呑みには出来ないが――朽木の言葉で、さやかは目が覚めた。
「なんだよ、大事な話って」
「冬枝さんには内緒です」
さやかは「そのうち分かりますよ」と言って、外出の支度をするために席を立った。
「………」
ひらひらとレースのスカートを揺らして去る後ろ姿は、いつものさやかとは別人のようだ。冬枝の胸がざわついた。
「さやかさんの『好きな人』って、朽木さんなんじゃないですか?」
先日、土井がそんなことを言っていたのを思い出す。
――まさか、さやかの奴、本当に朽木のことを……。
殴られたり、過去の病気をネタに脅されたりと、さやかは朽木にいい印象などこれっぽっちもないはずだ。それなのに、さっき朽木のことを語った時のさやかの表情は、穏やかなものだった。
高級ブランドで固めた悪趣味ファッションと、昼間でも女を連れ歩いて憚らない朽木のことを思い出すにつけ、冬枝はおぞけをふるった。
――頼むから、朽木だけはやめてくれ!
さやかが朽木のものになるなんて、冗談じゃない。冬枝は、頭を抱えた。
「おい、高根」
「はい」
「確か、明日は時間が空いてたよな」
「そうですね。みかじめ料の回収もないですし、けっこー暇だと思いますよ」
高根は、手帳にきっちりシノギの予定を書き込んでいた。
「よし」
冬枝は、ずんずんとさやかの部屋に向かった。
ノックすると、「はい」と言ってさやかが出てきた。
「さやか。明日、予定あるか」
「いえ。何もないですけど」
「じゃ、中森山に行かねえか」
冬枝が「動物園、行きたいって言ってただろ」と言うと、さやかが瞳を輝かせた。
「えーっ!冬枝さん、連れて行ってくれるんですか?」
「ああ」
「やったあ!」
さやかが歓声を上げた。
「僕、冬枝さんがいつ動物園に連れて行ってくれるのかなーって、ずっと楽しみにしてたんですよ!」
さやかが心底、嬉しそうにぴょんぴょん跳ねるのを見て、冬枝はホッとした。
――この感じなら、朽木じゃねえな。
恐らく、さやかと朽木の間にあったのは、さやかが話した通りのことだけだ。さやかの常ならぬおめかしにはどぎまぎさせられたが、この分だと、単純に服が気に入ったから、もらっただけだろう。
「動物園に行くなら、カメラでも買ってこようかな」
「そこまで張り切るなよ。東京の動物園とは比べ物にならねえぞ」
「いいんです。僕は、冬枝さんと写真が撮りたいんですから」
ふふっ、とさやかははにかむように笑った。
冬枝が照れ隠しにさやかの髪をぐしゃぐしゃと撫でると「あーっ!今、やっと寝癖を直したところなのにー!」と文句を言われた。
そんな幸せな朝から、2時間か3時間しか経たないうちの報せだった。
「兄貴!さやかさんが、サツに捕まりました!」
愕然としたのは、冬枝だけではない。隣にいた嵐も、しばらく言葉が出てこなかった。
「はァい、ダーリン」
みかじめ先に向かおうとしていた冬枝は、ピンクの革ジャンを着たヒゲ面男から呼び止められた。
曲がり角からにやにやと手招きする嵐に、冬枝はうんざりした。
「誰がダーリンだ。気色悪い」
「さやかにはこっそりそう呼ばせてるんじゃないっスか?はぁい、ダーリン。何だい?ハニー。みたいな」
「てめえ、何の用だ」
わざわざ街中で待ち伏せするなんて、回りくどいことをする。
「冬枝さぁ~ん」
嵐は、馴れ馴れしく冬枝の肩に腕を巻いた。
「ぶっちゃけ、なんぼっスか?」
「ああ?」
「なんぼあれば、さやかを手放すんスか?」
嵐が「このぐらい?」などと言って2本指を立てたので、冬枝は嵐の腕を振り払った。
「うるせえ。いくらだろうが、さやかを金で手放す気なんかねえよ」
「えー。ダンディ冬枝、喉から手が出るほど金が欲しいんじゃないんですか?」
「俺を何だと思ってやがる。俺はもう、昔の俺じゃねえ」
朽木のしつこい無心から解放され、さやかが代打ちとして稼ぎまくっている。榊原の愛人・響子の部屋での麻雀でも、榊原が小遣いと言って冬枝とさやかに金を包んでくれる。おかげで、最近はほくほくの黒字だ。
「そんなにお金持ちなら、新しい女囲えばいいじゃないっスか。美人で、乳のでかい女」
「いらねえよ、女なんか。さやかさえいりゃ十分だ」
と言ってしまってから、冬枝は口を滑らせたことに気付いた。
嵐がビシッと冬枝を指さす。
「出たな、本音が!ダンディ冬枝、さやかを奥さんにするつもりなんでしょ!変態!」
「違ぇよ、バカ野郎。俺とさやかはそういうんじゃねえ」
「ほほーう。さやかはダンディ冬枝に、相当入れ込んでるように見えますけどね」
「そりゃ、まあ」
冬枝が動物園に連れて行ってくれると聞いて、ぴょんぴょん跳ねていたさやかの姿を思い出す。自然と、冬枝の口元が緩んだ。
「あーっ!スケベな顔してる!もうさやかを食っちまったんだ、この変態!」
「食ってねえよ、まだ!」
後ろにいた土井が「『まだ』って言ったよ」と小声でつぶやいた。
「これはゆゆしき問題です!」
嵐はしかつめらしくオールバックの髪をなでつけた。
「麻雀バカ一代記を体現しているさやかが、ダンディ冬枝のためならわざと負けることも厭わなかった。このままいけば、次は麻雀の勝利じゃなくて、もっと大事なものまでダンディ冬枝に捧げてしまうでしょう。ヨヨヨ」
「黙れってんだ。てめえに口出しされる筋合いはねえ」
「ダンディ冬枝さー、そんなに女に困ってないでしょー?何もペチャパイで雀キチの女にしがみつかなくたっていいじゃないですかー」
嵐は美輪子のことを取り上げて「あの美人な元恋人と復縁するとかさー」と言い出した。
「美輪子は結婚してる。よりを戻す気なんかねえよ」
「ヤクザが浮気とか気にしないべさ。おたくの若頭だって不倫してるじゃないっスか」
榊原のことを口にされ、冬枝の顔つきが変わった。
「てめえ、なんでそれを知ってる」
「ワイルド嵐を舐めてもらっちゃあ困りますよ、冬枝さん。みんなで楽しく麻雀打ってるんでしょ、2号の家で」
響子か榊原の側近の知り合いから聞き出したのだろうが、嵐は恐るべき情報通だ。ふざけていても、伊達に元刑事ではないということか。
日中の街角で、嵐と冬枝は睨み合った。
「俺は、さやかをヤクザの女になんかしたくないんですよ。そろそろ手を引いてくれませんかね、ダンディ冬枝」
「てめえこそ、なんでそこまでさやかにこだわる。さやかに気でもあんのか」
冬枝が問うと、嵐はふっと笑った。
「そうっスね。さやかなら、俺の2号にしてやってもいいですよ。鈴子もいいって言ってたし」
「ふざけんじゃねえ。さやかをてめえの2号になんかするぐらいなら、俺が…」
と言いかけたところで、高根が「兄貴!」と駆け込んできたのだった。
――さやかが警察に捕まった。
その首謀者は、雀荘『こまち』でうなだれている、高校生と思しき少年3人組だった。
「こいつら、デパートで買い物中だったさやかさんを見つけて、声をかけたそうです」
高根は既に、男子高校生3人を絞り上げていた。少年たちは声も発さず、真っ青な顔で俯いている。
少年たちから麻雀勝負を持ち掛けられたさやかは、二つ返事でOKしたという。
嵐が呆れた。
「知らねえ奴についていっちゃダメだ、ってさやかに言っといたほうが良かったですね、ダンディ冬枝」
「あのバカ…」
冬枝は頭を抱えた。
相手が自分より年下で、いかにも田舎臭い少年たちだったから、さやかも警戒しなかったのだろう。
ところが、少年たちと共に『こまち』へやって来たさやかを待っていたのは、中年の刑事だった。
「夏目さやかだな。窃盗の容疑で、署まで連行させてもらう」
「窃盗?」
さやかは寝耳に水だったが、なんと、さやかのバッグからデパートにあった口紅が1本出てきた。
「てめえらが入れたんだな」
冬枝が睨み付けると、少年たちは「すみません!」と頭を下げた。
「俺たち、あのオッサンに脅されたんです。言うこと聞かないと、万引きを学校のみんなにバラすって」
少年たちは中学生の時に、万引きして補導された経歴があった。いずれも同級生や先輩に強制され、仕方なくやった盗みだった。
高校に進学した今になって、あの時、自分たちを捕まえた刑事が現れた。
この写真の女を罠にはめろ、さもないとお前らの過去をバラす――と。
そうして、まんまと罠にはめられたさやかは、高根の目の前で手錠をかけられてしまった。高根が、悔しそうに言う。
「あの刑事、自分が引き止めようとしたら、『この店、公務執行妨害で営業停止にするぞ』って脅してきやがって…」
それでさやかは「高根さん、僕なら大丈夫ですから」と言って、警察に連れて行かれたのだという。
「すみません、兄貴。自分がついていながら、さやかさんがこんなことに…」
「高根のせいじゃねえ」
冬枝はすっくと立ち上がると、「さやかを連れ戻す」と言った。
「サツのくせに女をハメて連れ去るたぁ、外道じゃねえか。ぶっ殺してやる」
「まあまあ、ダンディ冬枝。ちょっと落ち着いて」
「ああ?」
嵐は冬枝を無理矢理、椅子に座らせると「高根っち」と高根に向き合った。
「さやかを連行した刑事、ひょっとして、苅屋って奴じゃねえか」
「そうです。知ってるんですか」
「我が署の汚点、恥晒し。冤罪・誤認逮捕・職権濫用の生みの親」
指を3本並べ立てると、嵐は「奴に泣かされた女はたくさんいる」と溜息を吐いた。
「本物の不良だろうとそうじゃなかろうと、目についた女にあれこれ難癖つけては、取調室にぶち込むような野郎ですよ、苅屋は」
苅屋は執拗な取り調べで女たちを追い詰めた挙句、自分の女になれば解放してやる、と言って脅すのだという。
話を聞いた土井が「ひえー」とのけぞった。
「なんで、そんなチンピラみたいな奴が刑事なんてやっていられるんですか?」
「地元の悪党とグルになって、適当な不良をとっ捕まえて検挙数を稼いでるからよ。俺だって現役だった頃、何回あいつをぶん殴ってやりてえと思ったことか」
嵐は憎々しげに吐き捨てた。冬枝は焦った。
「だったら、ここで油売ってる暇はねえだろ。さやかを助けに行かねえと」
すると、嵐が「ダンディ冬枝は来ないでください」とぴしゃりと遮った。
「なんでだよ」
「苅屋は、かーなーり、ずる賢い男です。奴は、わざわざ『夏目さやか』を名指しして、そこの坊主たちに連れてこさせた。何か、魂胆があるに違いありません」
嵐は「つまり」と言って、冬枝の鼻先に指を突きつけた。
「ここでダンディ冬枝がサツに乗り込んだりしたら、苅屋の思う壺です。ヤクザのダンディ冬枝なんて、いくらでも逮捕する理由をでっち上げられるでしょ」
「うっ…」
「とりあえず、さやかを釈放できないか、俺がかけ合ってみます。サツには知り合いがいっぱいいますから」
さやかが卑劣な罠に嵌められたというのに、自分には何もできないのか。冬枝は、拳を強く握りしめた。
――畜生。
今朝の楽しそうなさやかの笑顔を思い出し、冬枝の胸は疼いた。
「…分かった。さやかのこと、頼めるか。嵐」
冬枝がようやく言葉を絞り出すと、嵐が力強く頷いた。
「必ず、さやかを助け出します。あいつに何かあったら、うちの嫁が泣いちまうんで」
その時だけ、元警察官だという肩書にふさわしい頼もしさが、嵐の笑みに滲んで見えた。
さやかはかれこれ1時間、取調室で苅屋と向き合っていた。
「お嬢ちゃん。そろそろ認めたらどうだい?」
「僕はやってません」
何度目かの押し問答にも、さやかは最初と変わらぬ調子で答えた。
――これは罠だ。
自分のバッグから見覚えのない口紅が見つかった時、さやかはそう確信した。
同時に、こんな見え透いた罠にかかってしまった自分の軽率さを悔いた。
――僕のせいで、冬枝さんにまで迷惑がかかってしまう。
苅屋の目的は不明だが、ヤクザである冬枝との関わりが明らかになれば、冬枝に不利な状況になりかねない。
苅屋にどんなゆさぶりをかけられようと、沈黙を貫く。強面のおじさんとの睨み合いなら、雀荘で鍛えられている。さやかは毅然としていた。
苅屋が、声を潜めた。
「俺の言いなりになりゃ、すぐにでもここから出してやるって言ってるんだ。従っておいたほうが、利口だと思うけどね」
「僕はやってません」
この下卑た誘い文句も、もう何度聞いたことか。ついでに机の下からさやかの膝へと伸びてくる手を、身をよじって避けるのも、同様だ。
苅屋は、くわえたタバコに火をつけた。
「正直、自分がどうしてこんな目に遭うのか、身に覚えがあるんでしょ?」
「僕はやってません」
「東京じゃたいそう遊び回ってたそうじゃないか、ん?夜な夜な雀荘に通い詰めてたとか」
男でもいたんじゃないか、とタバコの煙を吹きかけられ、さやかは閉口した。
「僕はやってません」
「いいじゃねえか、別に取って食おうって言ってるんじゃないんだから。俺の家に来て、ちょっと話をするだけだよ。そんなに難しい話じゃないだろ?」
「僕は……」
口を開きかけたさやかを、不意に眩暈が襲った。
頭がくらっとして、胸が詰まる。タバコの煙を吸ったせいだろうか。
黙りこくるさやかの前で、苅屋はこれ見よがしに手帳をぱらぱらとめくった。
「あんまり頑なだと、東京の親御さんに連絡するしかなくなるな」
「…!それはやめてください」
家族には、彩北で静かに受験勉強をしているとだけ伝えてある。さやかが警察に捕まったなどと聞いたら、どれだけ心配させてしまうことか。
まして、もし家族が彩北に来たら――冬枝の代打ちになり、冬枝のマンションで暮らしていることが、家族にバレてしまう。そうなれば、一巻の終わりだ。
不安に駆られた途端、またさやかの頭がくらくらと揺れた。
「どうだ。大人しく俺んちに来れば、楽になれるぞ?」
「………」
スカートの上で這い回る苅屋の手から逃げたいのに、身体に力が入らない。
苅屋が、返事を急かすように顔を迫らせてくる。さやかは気力を振り絞って、何とか顔を背けた。
「…考えさせてください」
「悪い子だ。ここは素直に『はい』って言わなきゃいけないところだったんだぜ」
苅屋は「留置場へようこそ」と言って歯をむき出しにして笑った。さやかの身体から力が抜けた。
――ああ……冬枝さん……。
「2時間待ってやる。いい子の返事を期待してるぞ」
さやかは力なく椅子にもたれたまま、冷たく閉ざされるドアを見ていることしかできなかった。
雀荘『こまち』で嵐と別れた後、冬枝は組事務所へと急行した。
「榊原さん。さやかがサツに捕まりました」
若頭・榊原と対面すると、冬枝は頭を下げた。
「お願いします。何とか、さやかを助けてやってもらえませんか」
事情を聞いた榊原は、「分かった」と頷いた。
「苅屋って奴の噂は、俺も聞いてる。若い女とみれば見境なく脅して回る、とんでもねえゲス刑事らしいな」
榊原は親しい警察幹部に連絡し、すぐにさやかを釈放させるよう要請する、と言ってくれた。
「ありがとうございます」
「礼には及ばねえ。さやかは、組の大事な代打ちだ」
愛人である響子の麻雀相手になってくれるさやかは、榊原にとっても得難い存在らしい。
榊原の前を辞すと、冬枝は組事務所を出た。
――これで今、俺にできることは全部やった。
あとは、嵐がうまくやってくれることを願うしかない。冬枝は、遠い空を仰いだ。
「よう、兄弟」
「…朽木」
事務所に用事でもあったのか、おなじみのアルマーニのスーツをまとった朽木がいた。
「何だよ、ずいぶんくたびれてるな、冬枝。中年どころか、初老に見えるぜ」
「うるせえ。今、てめえの相手してる余裕ねえんだ」
「つれねえな。てめえの女にプレゼントしてやった俺様に対して、その口の利き方はねえだろ」
冬枝は、今朝のさやかのひらひらふわふわした格好を思い出した。そういえば、あれは朽木からもらった服だと言っていた。
「…てめえ、なんでさやかに服なんかくれたんだ。さやかはてめえの愛人じゃねえんだぞ」
「あまりにもみすぼらしいナリだから、同情したんだよ。白虎組自慢の代打ちだってのにあれじゃ、服の一つも恵んでやりたくなるってもんだぜ」
朽木らしい憎まれ口だが、今はその真意まで測っている気力はない。冬枝は投げやりに答えた。
「そうかい、そいつはありがとよ。さやかも喜んでたぞ」
「何だよ、冬枝。そんなに素直に感謝されちゃ、気持ち悪いったらありゃしねえ。もっと、俺の女に勝手にプレゼントなんかするんじゃねえ、ぐらい言えよ」
「いいじゃねえか、別に。さやかなんか早速、今日、てめえがくれた服着てたぞ」
さやかはあの可憐な服装で、汚い刑事の手に捕まってしまったのだ。その落差が、あまりにも痛々しかった。
「おい、冬枝。麻雀小町になんかあったのか」
冬枝が余程気落ちして見えたのか、朽木がちょっと心配そうな顔になった。
冬枝はもう何もかもどうでもよくなって、事情を洗いざらい朽木に打ち明けた。
話を聞いた朽木の目つきが鋭くなった。
「苅屋だと?あの腐れ刑事か」
「知ってんのか」
「うちのキャバレーのツケ代だけで、弟分どもの1年分の小遣いがまかなえるぐらいだ。デリヘルやソープでも女の嫌がることばっかりして、すこぶる目障りな野郎だぜ」
朽木は少し考えると、手帳に手早く何事かを書き込み、ページを破って寄越した。
「ほれ。朽木様のお恵みだ」
「なんだよ」
「腐れ刑事の住所だ。煮るなり焼くなり好きにしな」
冬枝は一瞬きょとんとしたが、すぐに朽木の狙いを察した。
「俺に、邪魔な刑事を始末させようって腹か」
「ククク、いかにも。別に自分でやったっていいんだが、生憎、霜田さんがサツと揉め事を起こすなってうるさくてな」
一匹狼のてめえなら平気だろ、と朽木はうそぶいた。
「『人斬り部隊』にいた頃は、このぐらい日常茶飯事だったじゃねえか」
「…昔の話だ」
朽木に乗せられるのは気が進まないが、冬枝は「一応、礼は言っておく」と言って、朽木のメモをポケットにしまった。
さやかが無事に解放されれば、このメモは無用の長物だ。だが、もしさやかの身に何かあったら――。
「そのツラで歩くなよ、冬枝。殺気がダダ洩れだぞ」
朽木の捨て台詞が、冗談だったのかどうか。そもそも殺気を出し入れしている自覚がない冬枝には、分からなかった。
嵐は警察署にやって来ると、生活安全課を訪れた。
「よう、牧柴。お疲れさん」
「あれっ、春野先輩」
制服姿の若い警官が、嵐の姿を見て目を丸くした。
「どうしたんですか、先輩。お久しぶりですね」
「久しぶり。悪い、ちょっと緊急事態なんだ」
嵐と牧柴は、オフィスの隅で肩を寄せ合った。
「あっ、あの娘ですか。俺も見ましたよ」
嵐が事情を説明すると、牧柴はすぐに状況を理解してくれた。
「苅屋さんがまた女の子引っ張ってきたよって、みんなで噂してたところです」
「あの悪代官、相変わらずみたいだな」
嵐の嘆息に、牧柴も「はい」と頷いた。
「苅屋さんに連行された娘、みんな泣きながら取調室から出てくるし、もう嫌になりますよ。おまけにあの人、署の女の子にもちょっかいかけるから、辞めちゃう子もいて。ホント、何とかしてくださいよ、春野先輩」
「何とかしに来ました」
嵐が真顔で言うと、牧柴が「ホントですかあ」と目を輝かせた。
「とりあえず、さやかに面会できねえか」
「分かりました。留置場にいるはずですから、担当者に声かけてみます」
なんと、さやかは留置場に入れられてしまったという。苅屋の強引なやり方に、嵐は眉をひそめた。
――これじゃ、ダンディ冬枝じゃなくたってプッツンするぜ。
面会したさやかは、明らかに元気がなかった。
「さやか、もうすぐ出してやれるからな」
「……はい」
ありがとうございます、という声もか細い。これは相当、苅屋からきつい取り調べを受けたに違いない、と嵐は思った。
「さやか。苅屋から、なんて言われた」
「……」
自分の家に来れば解放してやる、と言われたことをさやかは説明した。
「あんにゃろう、そこまで露骨に脅すかよ」
「………」
「さやか、あと少しの辛抱だからな。ダンディ冬枝も、お前のことをかなり心配してたぞ」
「………」
そこで、さやかの虚ろな瞳に、少しだけ力がこもった。
「…このぐらい、耐えてみせます。あんな奴の手にかかるぐらいなら、舌を噛みます」
「おいおい、バカな真似すんなよ」
「冬枝さんの恥にはなりたくありません」
辛そうな顔で強がりを口にするさやかに、嵐は胸を打たれた。
――さやかは、本気で冬枝さんのことを……。
さやかの一途さは、見ている嵐までひりひりさせる。同時に、危うさを覚えずにはいられなかった。
――どんなに惚れた男だって、相手は裏社会の人間なんだぞ。
内心とは裏腹に、嵐は「お前は冬枝さんの女房か」と軽口を言った。
「とにかく、ワイルド嵐に任せとけ。ここの署長とは気の置けない仲だからさ、こんなところ、すぐに出させてやるから。なっ?」
ところが、さやかは首を横に振った。
「僕は、苅屋に従おうと思います」
「えっ。何言ってんだよ、さやか」
さやかは、生気のない顔で答えた。
「……親に連絡する、と脅されました。これ以上、抵抗はできません」
ここは一旦、苅屋に従って外に出て、逃走のチャンスを狙う。それが、さやかの作戦らしかった。
悪くないアイディアだが、さやかの顔色が悪いのが嵐は気になった。
「今のお前には危険だ。しばらく、留置場で大人しくしてろ」
「大丈夫です…」
そうこうしているうちに、面会時間が終わってしまった。
「さやか、くれぐれも早まるなよ。俺が必ず、ここから出してやるからな」
去り際に嵐は念を押したが、さやかは答えなかった。
――さやかの奴、限界っぽいな。
さやかのあんなに憔悴した様子は、初めて見た。それだけ、苅屋の取り調べが堪えたのだろう。
ぐずぐずしてはいられない。嵐は、驚く署員たちを無視して署長室に直行した。
「おっちゃーん!可愛い可愛い嵐ちゃんが会いに来てあげましたよー!」
アイウォンチュー!と嵐は叫んだが、署長室からは沈黙しか返ってこなかった。
「あっれえ?おーい、おっちゃーん。お耳が遠くなったのかなー?」
「待ってくださいよ、春野先輩」
猛ダッシュで署内を駆け抜けた嵐を追いかけたせいで、牧柴は息が上がっていた。
「署長なら、今日は出張で留守ですよ」
「えーっ。こんな時に何やってんだよ、あの親父は」
「副署長ならいますけど…その…」
その副署長は、嵐の後ろで眉を吊り上げていた。
留置場で一人正座するさやかの元に、苅屋が現れた。
「よう、お嬢ちゃん。気は変わったか」
「………」
苅屋は、廊下のほうをちらちらと振り返った。春野嵐が署長室で大騒ぎしているのを見て、飛んで来たのだ。
春野嵐が現役の頃から、苅屋とは反りが合わなかった。女子供をいちいち庇って騒ぎ立てる春野嵐の正義面は、苅屋の鼻についた。
そのくせ、春野嵐は幹部に取り入るのがうまかった。このままでは、副署長を丸め込んで、さやかを解放させかねない。苅屋は焦った。
「あんただって、いつまでもこんなところにいたくねえだろ。明日のことを考えろよ」
「明日…」
力なく呟くと、さやかは観念したように目を閉じた。
「…降参します。苅屋さんのお宅に連れて行ってください」
苅屋は笑みを浮かべると、部下を呼んでさやかを牢から出させた。
嵐は、ふーと息を吐いて署長室を出た。
廊下で待っていた牧柴が、嵐の姿を見てハッとして駆け寄ってきた。
「春野先輩。大丈夫ですか」
「俺を誰だと思ってんだよ。元一課のエース、ワイルド嵐様だぞ?」
「先輩があんまり出てこないから、奥さんに電話したところです」
「えっ。そこまですんなよ、校長先生に呼び出された小学生じゃねえんだぞ」
さやかの釈放許可だって、ちゃんと取りつけたし…と自慢げに言いかけた嵐を、牧柴の悲鳴が遮った。
「さやかちゃん、苅屋さんに連れて行かれちゃったんですよ!」
「なにい!?」
しまった、と嵐は思った。署長室で大騒ぎしていたところを、苅屋に見られたのだ。焦った苅屋は、嵐に先を越される前に、さやかを外に連れ出したに違いない。
「俺としたことがっ!牧柴、苅屋の住所分かるか!」
「言われると思って、調べておきました」
牧柴が差し出したメモを、嵐は「サンキュー!」と言って受け取った。
「サンキューついでに、車借りていいか?」
「えっ?」
「パトカーだよ!一台ぐらい空いてるだろ」
「ちょっ、ダメですよ春野先輩!俺がクビにされます!」
嵐は「じゃ、お前の車貸して」と言って、図々しく手のひらを差し出した。
「先輩、そういうところ全然変わってないですね…」
「いたいけな乙女の危機なの。牧柴号は大事に使うから、心配するなよ」
「ちゃんと返してくださいよ!」
牧柴から車の鍵をひったくると、嵐は駐車場へと駆けた。
――待ってろよ、さやか!
さやかが苅屋のアパートに着いた頃には、日がとっぷりと暮れていた。
「このアパート、今は住人が俺しかいねえんだ。何したって人に聞かれる心配はねえ」
苅屋はにやりと笑うと、さやかを自室に招き入れた。
部屋は、雑誌や缶ビールが散らかっている。さやかは、薄汚れた座布団に座らされた。
「さて、お嬢ちゃんに聞きたいことがある」
「……」
苅屋は棚から新聞を引っ張り出すと、ちゃぶ台に広げて置いた。
「今年の1月。受験直前にも関わらず、あんたは雀荘で遊び歩いていた」
「……」
「東京の雀荘で起きた、あの事件――知らねえ、とは言わせねえぞ」
「………」
さやかが沈黙を貫いていると、苅屋がさやかの顎を掴んで上げさせた。
「おい。いい加減、自分がなんで呼び出されたか、分かってんだろ」
「………」
「とっとと白状しちまえ。さもないと…」
苅屋がさやかのジャケットの襟に手をかけた、その時だった。
玄関のチャイムが鳴り、続いて、底抜けに明るい女性の声が響き渡った。
「苅屋さーん!こんばんはー!鈴子です」
「!?」
苅屋はさやかから手を離すと、慌てて玄関へと向かった。
――鈴子さん?
さやかの虚ろな瞳に映ったのは、黒いヘアバンドを着けた髪の長い女性――間違いなく、さやかも知る春野鈴子だった。
――鈴子さんが、どうしてここに……?
ぼんやりと見つめるさやかをよそに、鈴子は「苅屋さん、お久しぶり」とはしゃいだ声を上げた。
「鈴子ちゃん、急にどうしたんだい。お店辞めたって聞いたけど」
「うふふ、色々あってね。何だか苅屋さんの顔が見たくなって、会いに来ちゃった」
唐突な展開なのに、鈴子の美しい笑顔で言われると、無邪気に信じてしまいたくなる。
「何だよ、鈴子ちゃん。店にいた頃は、誘っても全然つれなかったくせに」
「仕方ないじゃない、お店にお金落としてもらわなきゃいけなかったんだから。あら?お客さん?」
鈴子はわざとらしく、座布団に座るさやかにニッコリと微笑みかけた。
「ああいや、ちょっとね。鈴子ちゃん、ちょっと外に出ないか」
さやかを強引に連れ込んだことを知られてはまずいと思ったのだろう。苅屋が、後ろめたそうに鈴子を促した。
「あら、苅屋さんったら。私だって、人目を忍んでここまで来たのよ?」
「人目を忍んで、って」
「私、人妻なの。こうでもしないと、外では苅屋さんにお逢いできないから…」
鈴子の色っぽい流し目に、苅屋が顔を紅潮させた。
「鈴子ちゃんがその気なら、俺はいいけどさ。今日はちょっと、野暮用があって」
「いいじゃない。お客さんには、お帰りいただいたら?」
「そういうわけにはいかないよ。俺も人から頼まれててさ…」
「ふぅん」
鈴子は苅屋に抱き付くと、耳元で囁いた。
「こんなチャンス、今しかないわ。苅屋さん、私を好きにしていいのよ?」
鈴子の豊かな胸元が、苅屋の顔面を包み込む。これで、苅屋は完全にノックアウトされた。
「おい、お前。隣の部屋でちょっと待ってろ」
苅屋はさやかに指図すると、早速、鈴子に圧し掛かろうとした。
「あーん、待って、苅屋さん。シャワーぐらい浴びたらどうなの?」
「ええ?」
「時間はたっぷりあるでしょ?楽しみましょうよ」
鈴子は、ちらりとスカートから太腿を覗かせた。苅屋はすっかり陶然となって、鈴子に言われるがまま、狭そうな風呂場へと消えていった。
浴室の扉が閉まると、鈴子はさやかの手を引いて、颯爽と立ち上がった。
「さ、行くわよ。さやちゃん」
「鈴子さん…」
さやかは放心状態で「あの…僕…」と言って、目を伏せた。
鈴子はさやかの言わんとすることを察すると、「ああ」と頷いた。
「大丈夫よ、さやちゃん。外にタクシー呼んであるから、一緒に帰りましょ」
「はい…」
さやかは鈴子に手を引かれて、そそくさと苅屋のアパートを後にした。
「さやか!」
「鈴子!」
アパートの外に、ちょうど冬枝と嵐が駆けつけたところだった。
鈴子が、嵐の姿を見て顔をしかめた。
「遅いわよ、嵐。私が来なかったら、どうなってたと思ってるの」
「ひええ、鈴子さまぁ。面目次第もござりましぇん」
両手を合わせて拝む嵐を横に退けて、冬枝がさやかの顔を覗き込んだ。
「さやか。遅くなってすまねえ」
「冬枝さん…」
しかし、さやかは冬枝の目を避けるようにして、鈴子の影に隠れた。
「さやか?」
「冬枝さん、はじめまして。嵐の妻の鈴子です。こんにちはー」
鈴子がずいっと前に乗り出してきたので、冬枝はちょっとのけぞった。
「あ、ああ?」
「いつも嵐がお世話になってますー。さやちゃん、ちょっとお借りしますねー」
鈴子は笑顔でまくしたてると、さやかをタクシーに押し込んだ。
「あっ、おい…」
呼び止めようとした冬枝は、さやかのスカートから覗く脚に、血が一筋垂れていることに気がついた。
「じゃ、失礼しまーす。嵐、あんたは歩いて帰ってきなさいね」
鈴子もタクシーに乗り込むと、さっさとその場を後にした。
「………」
残された冬枝と嵐は、呆然とその場に立ち尽くした。
嵐が、ハッと我に返ったように冬枝に向き直った。
「あっ、ダンディ冬枝!鈴子が美人でおっぱいでかいからって、惚れないでくださいよ!」
「…惚れねえよ」
冬枝はしばらく呆気に取られていたが、やがてその目がすうっと冷たくなった。
さやかは、春野家で目を覚ました。
どのぐらい眠っていたのだろう。しかも、柔らかい枕が鈴子の太腿だと気付いて、さやかはちょっと申し訳なくなった。
「鈴子さん…」
「あら、さやちゃん。起きた?」
「すみません。寝ちゃってました」
さやかが謝ると、鈴子は「いいのよ、寝てて」と相好を崩した。
鈴子に髪を優しく撫でられ、さやかは再び瞼を閉じた。
「鈴子さん。今日はありがとうございました」
「大したことしてないわ。ていうか、嵐が役立たずでごめんね。あいつ、張り切るだけ張り切って、全力で空回りしちゃったみたいで」
苦笑する鈴子に、さやかは首を横に振った。
「嵐さん、優しい人ですね」
「さやちゃんだって優しいわよ」
鈴子は「今日ね、貴彦さんから電話が来たの」と言った。
「…朽木さんですか」
「そう。いきなり、朽木です、なんて言うもんだから、びっくりしちゃった」
朽木は鈴子に、さやかに話したのと同じことを伝えたそうだ。
「鳴子とは連絡させられない、すみません、って謝られちゃった」
「…そうだったんですか」
朽木は、さやかの話をちゃんと考えてくれたらしい。だが、鳴子と連絡させられないというのは、どういうことだろう。
「鳴子のほうがね、私たちと連絡を取りたくないんですって」
「えっ…鳴子さんが?」
「あの娘はね、私たちに迷惑かけたくないのよ。ヤクザと付き合ってる自分とつながりがあるって分かったら、私や嵐が警察に目をつけられちゃう、って」
鈴子は「変なところで遠慮するのよね、鳴子」と溜息を吐いた。
「鳴子さんと電話できないなんて、寂しいですね」
「これが、あの娘なりのけじめってことなんでしょうね。極道の妻としての覚悟、っていうか」
「覚悟…」
さやかは、ぼんやりと復唱した。
鈴子はそうそう、と言って、くすくすと笑った。
「さやちゃん、貴彦さんに私のおにぎり渡してくれたのね」
「ああ…」
「貴彦さん、美味しかったです、って言ってたわ。ぶすっとした感じの言い方だったから、きっと、ハズレが当たったのね」
「ふふっ」
さやかも、小さく笑った。朽木にもあのわさびおにぎりが当たったなら、渡した甲斐があったというものだ。
「貴彦さん、けっこう見栄っ張りなのね。ねえ、貴彦さんって、鳴子が描いた絵みたいな人なの?」
さやかは、鈴子が見せてくれた鳴子のイラストを思い出した。
9頭身で、瞳がキラキラしている、麗しの王子様。
「…鳴子さんには、ああ見えてるのかもしれないです」
「あはは。なるほどね」
鈴子は高らかに笑ってから、さやかの額にかかった髪をそっと払った。
「さやちゃんのおかげで、鳴子と貴彦さんの気持ちが分かったわ。ありがとう、さやちゃん」
鈴子の唇が、さやかの額に触れた。さやかがうっとりするぐらい、温かくて優しいキスだった。
「鈴子さん…」
「なぁに?」
「僕、鈴子さんみたいになりたいです」
卑劣な苅屋相手にも、鈴子は笑顔で乗り切った。自分にはない軽やかさと大胆さが、さやかには眩しかった。
「じゃあ、まずはそのペチャンコ胸を何とかしねえとな」
嵐がお決まりの減らず口を叩いたが、さやかは無視して鈴子の膝に顔を埋めた。
「こんなことして許されると思ってるのか」
脅しとも懇願とも取れるような調子で、苅屋が言った。
あるいは声に力が入らないのは、顔が赤黒く腫れ上がるほどに殴られたせいかもしれない。切れた口の端からは、血が流れていた。
「………」
対する冬枝は、些かも関心がなさそうな顔で、苅屋を見下ろしている。
苅屋は電気コードで縛られ、散らかった部屋の中心に正座させられていた。その周囲では、高根が一斗缶から油を撒いている。
「兄貴、去年使った花火の残り、ありましたよ」
土井が線香花火や打ち上げ花火の類を両手に現れると、冬枝は「適当にその辺に置いとけ」と答えた。
ガソリンの匂いが、苅屋の鼻を突く。傷だらけの顔面に、冷たい汗が流れた。
「俺は刑事だぞ。俺に手を出したら、サツが黙っちゃいねえ」
冬枝は「分かってるよ」と言って、笑みを浮かべた。
「脅しだよ、こんなの。本当にやるわけねえだろ」
「だよな、そうだよな」
苅屋は「女一匹捕まえたぐらいで殺されちゃ、敵わねえ」と口元をひきつらせた。
「………」
冬枝が目配せすると、弟分2人は整然と部屋から出て行った。
冬枝は、ふーっとタバコの煙を吐き出した。
「リトルオールドホテル、覚えてるか」
「ん?ああ。覚えてるよ」
かつてこの彩北市にあった、高級ホテルだ。結婚披露宴やパーティーの会場としても名高く、市民には馴染み深い場所だった。
だが『リトルオールドホテル』はもう宿泊客を泊めることはない。数年前に、廃業してしまったからだ。
「あそこの火事、タバコの不始末が原因だったらしいな」
冬枝がそう口にした瞬間、苅屋の顔から血の気が引いた。
「待ってくれ。俺は、あの女を捕まえろって頼まれただけなんだ。秋……」
冬枝の手からタバコが、ガソリンで濡れた畳へと落ちていった。
さやかが冬枝のマンションに帰宅すると、室内は沈痛な空気で満たされていた。
「ただいま」
さやかの姿を見た途端、冬枝も高根も土井もハッとして顔を上げた。
「さやかさん、おかえりなさい!その…今夜はゆっくり休んでくださいね。俺たちにできることがあったら、何でも言ってください」
「さやかさんには、兄貴がついてます。何も心配しなくていいですからね」
高根と土井は、口々にそう言って、さやかを励ましてくれた。
「…はあ」
さやかが一旦留置場に入れられたとはいえ、2人のリアクションはずいぶん大げさだ。高根はともかく、普段はおちゃらけている土井にまで真摯な言葉をかけられ、さやかは呆気に取られた。
弟分2人がそそくさと出て行くと、ソファに腰かけていた冬枝が「さやか」と言って、隣に座るように促した。
「…はい」
せっかくさやかが苅屋から解放されたというのに、冬枝は妙に深刻な表情をしている。怪訝に思いながらさやかが隣に座ると、いきなり横から抱き締められた。
一瞬、さやかの頭の中が真っ白になった。
「…!?えっ!?」
「もう大丈夫だからな、さやか」
「な、なんですか?!」
真っ赤になるさやかをよそに、冬枝は「仇は取ってやったぞ」と耳元で囁いた。
「だから、今日あったことなんか全部忘れちまえ。犬に嚙まれたみたいなもんだ」
「あっ、あの、冬枝さん?」
「俺がついていながら、お前をこんな目に遭わせちまって…。お前もさぞ、無念だろ」
何やら、話の内容がおかしい。高根たちといい、さやかが苅屋に捕まったことをいたわっているにしては、感情がこもり過ぎているというか…。
冬枝は、心から憐れむような瞳をして、さやかを見つめた。
「よりによって、あんな腐れ刑事に手籠めにされるなんて…。あの野郎、殺したってまだ足りねえ」
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
変だと思ったら、とんでもない勘違いをされていた。さやかは、力ずくで冬枝の腕から離れた。
「誤解ですっ!僕は、何もされてません!」
さやかは全力で否定したが、冬枝はまだ悲しそうな顔をしている。
「強がるなよ」
「強がりじゃありませんっ!そうなる前に、鈴子さんが助けてくれましたから!」
冬枝はまだ疑うような顔つきで「本当か?」と尋ねた。
「本当です!あんまり言うと、怒りますよ!」
冬枝は「で、でもよ」とちょっと目を泳がせた。
「お前、あの刑事の部屋から出てきた時、その……ぐったりしてたじゃねえか」
すると、さやかの顔がまた赤くなった。
「あれは、その……生理が来ちゃったんです」
「えっ?」
「予定より早く来たから、具合が悪くなっちゃって…もう、こんなこと言わせないでください!」
さやかは赤面すると、ぷいっとそっぽを向いた。
「………」
冬枝はしばらく呆気に取られていたが、やがて、またさやかをぎゅっと抱き締めた。
「!?ちょっ、冬枝さんっ」
「あー、良かった」
さやかが無事で、本当に良かった――冬枝は、そう言ってさやかの肩に顔を埋めた。
冬枝の声が、さやかの胸に響き渡る。
さやかは、ちょっと泣きそうになった。
「…冬枝さん」
「ん?」
「僕、明日の動物園のために、頑張ったんですよ」
さやかはふふっ、と照れ臭そうに笑った。
「留置場にいたら、動物園に行けないじゃないですか」
「さやか…」
留置場から出るために、さやかは苅屋の自宅に行くという危険を冒した。鈴子が来てくれなかったら、最悪の事態になっていたかもしれない。
さやかは、自分をそこまで衝き動かしたものに思いを馳せた。
「僕、ずっと楽しみにしてたんです。冬枝さんと、デ…」
「デ?」
さやかは、ハッとして言葉を止めた。
「…でっかい動物見るの、楽しみにしてたんです」
「でっかい動物って、何だよ。キリンとかか」
「キリンとかです」
さやかは念を押したが、冬枝は「ふーん」と本気にしていない風の返事だった。
「…冬枝さん、なんかガソリン臭くないですか?」
冬枝の枯れ葉色の背広を、さやかがくんくんと嗅いだ。
冬枝は「気のせいだろ」と言って、さやかの頭をよしよしと撫でた。
とある病院の一室で、仕立てのいいスーツを着た男が溜息を吐いた。
「苅屋は失敗したようです」
白虎組の仕業でしょう、と言って、男は卓上に新聞を置いた。
あさひがけ新聞の片隅に、市内アパートで火事、の記事が小さく載っている。
「だから、言ったでしょう。あんな下衆に任せたところで、うまくいかないと」
ベッドの上にいる中年の男が、穏やかな声で言った。
「ですが、ミノルさん。青龍会はそろそろ、本格的に進出を始めようとしています。もう時間がありません」
ミノルと呼ばれた男は、ベッドの上から窓の向こうに遠い視線を投げた。
「ええ。分かっていますよ」
ミノルの手元には、少し前の新聞が広げられていた。
『朱雀組組長、マージャン店で殺害される――入試会場は厳戒態勢』
殺された秋津イサオの写真が大きく掲載された新聞は、今年の1月の日付が入っていた。
公園内に併設されていることもあり、中森山動物園は子供連れで賑わっていた。
動物園なんて冬枝は久しぶり、というかほぼ初めてだ。女とのデート先に、こういうのどかな場所を選ぶという発想が、冬枝にはなかった。
――さやかがいなきゃ、一生来なかったかもしれねえな。
さやかは、キリンの長い首を無心に見上げている。
「キリンの瞳って、綺麗ですよね」
「そうか?何考えてるかわからねえじゃねえか」
「何を考えているかわからないから、綺麗なんですよ」
「そういうもんかね」
さやかは「キリンのツノって何のためにあるんだろう…」とか「どうして網目模様なんだろう」などと、感慨深そうに眺めている。
ライオンのオリの前に来ると、さやかは「うわ…」と引き気味に声を上げた。
「間近で見ると、思ったより大きいですね。ちょっと怖いな…」
さやかがびくついているのが面白くて、冬枝はこんなことを口にした。
「昔、逃げ出したことがあるんだぜ。ここのライオン」
「えっ。本当ですか」
「10年以上前の話だけどな」
さやかは、思わず冬枝の腕をぎゅっと掴んだ。
「逃げませんよね、このライオン」
「どうだかな」
冬枝がにやにやすると、さやかが照れて口を尖らせた。
「からかわないでください、冬枝さん」
「ライオンが逃げたのは本当だぞ。さやかなんかちっちぇから、すぐ食われちまうだろうな」
「僕なんて、そんなに食べるところありませんよ」
冬枝はちらっとさやかを見下ろして「確かに」と呟いた。
「…冬枝さん、今、どこ見て言いました?」
「別に。余分な肉がついてねえって、褒めてんだよ」
「ふーん」
さやかは疑い深そうに冬枝を見上げたが、掴んだ腕は放さなかった。
しかし、アフリカゾウを見る頃には、さやかの口数はめっきり少なくなっていた。
「アフリカゾウ…」
意識を保つためだろう、さやかは目に入った動物の名前をひたすら口にしている。すっかり蒼白くなった顔を見て、冬枝は溜息を吐いた。
「帰るぞ、さやか」
「いやです」
「具合悪いんだろ。フラフラじゃねえか」
何せ、昨日の今日だ。冬枝は当初、今日行かなくてもいいじゃないかと止めたのだが、さやかは「薬を飲んだから平気」と言い張っていた。
どうやら、そろそろ薬が切れてきたようだ。冬枝の腕を掴む手に力がなく、立っているのもつらそうだ。
「そんなツラした女に隣にいられる俺の身にもなってみろ。俺が、嫌がるお前を無理矢理連れ回してるみたいじゃねえか」
「ぼく、へいきです…」
「ダメだ。動物ならもう十分見ただろ、帰るぞ」
さやかは「やだ」と言って冬枝の腕にしがみついた。
「せっかく冬枝さんと一緒に来られたのに、もう帰るなんて嫌です…」
さやかが、今日のために苅屋の理不尽な取り調べに耐え、戦ったことは冬枝も承知している。
冬枝は人目を気にしながら、そっとさやかの頭を撫でた。
「…動物園なら、また来ればいいじゃねえか。だから、今日は帰って大人しく寝ろ」
「うう…」
「キリンも見たし、ライオンも見たし、十分、思い出になっただろ」
「思い出…」
そこで、さやかはハッとして顔を上げた。
「そうだ。僕、カメラ持って来たんです」
さやかはバッグからコンパクトカメラを取り出すと、「冬枝さん、写真撮りましょう」と言い出した。
「一緒に動物園に来た記念に。ねっ」
「嫌だよ、写真なんざ。その辺のゾウでもキリンでも撮りゃいいじゃねえか」
「ゾウやキリンは逃げませんけど、冬枝さんとはいつまた来れるか分からないですから」
そう言うと、さやかは通行人に撮影を頼み、カメラを渡した。
「はい、冬枝さん。笑ってください」
「嫌だ、っての」
冬枝の抵抗も虚しく、さやかにがっちりと腕を掴まれてしまった。
横顔の冬枝と、渾身の笑顔を浮かべるさやかに、フラッシュが浴びせられる。
アフリカゾウの前で撮った2ショットは、この日の唯一の手土産になった。