15話 あまのじゃくラプソディ・後編
第15話 あまのじゃくラプソディ・後編
「……お邪魔します」
さやかがマンションにある朽木の部屋に入ると、真っ先に目についたのは、タワーのように積み重なったプレゼントの山だった。
赤やピンクの華やかなラッピングから察するに、いずれも女性への贈り物だろう。飲み屋のホステスにでも贈るのだろうか、とさやかはゴージャスなプレゼントの数々を眺めた。
そこでさやかは、朽木に奥さんがいる、という響子の話を思い出した。
「あの、朽木さん」
「あ?」
朽木は、何やらプレゼントの山から箱を出したり戻したりしている。
さやかは、おずおずと尋ねてみた。
「奥さんは、どうしてるんですか」
「ここにはいねえよ。別居してるんだ」
さやかはてっきり、朽木の女癖が悪いからだろうと思ったが、そういう意味の別居ではないらしい。
「嫁は、東京に住ませてる。こんな田舎にいさせちゃ、可哀想だからな」
朽木はプレゼント箱の山から一旦、離れると、棚に飾ってある写真立てを手に取った。
「ほれ。特別にご尊顔を拝ませてやる」
そう言って差し出された写真を見て、さやかは目を疑った。
――鈴子さん!
いや、違う。写真の中で朽木に肩を抱かれて微笑んでいる女性は、確かに鈴子に瓜二つだが、柔らかな微笑み方やはかなげな雰囲気は、鈴子とは違う。
さやかの脳裏に、9頭身の華麗な王子様のイラストが浮かんだ。
「朽木さんって、下の名前、なんていうんでしたっけ」
恐る恐る尋ねると、朽木が「ああ?」と首を傾げた。
「冬枝の奴、そんなことも教えてねえのか。組員の名前くらい、勉強させておけよな」
一人ごちると、朽木はアルマーニのスーツの懐から、名刺を取り出した。
そこに印字された名前を見て、さやかは絶望的な予想が当たったことを悟った。
――朽木貴彦。
『貴彦さん』――鈴子の妹・鳴子が駆け落ちした『ヤクザ』とは、朽木のことだったのだ。
まさか、鈴子を寂しがらせている元凶が、こんなに近くにいたなんて。しかも、こんな最悪の相手だったなんて――。
写真立てを持ったまま、絶句しているさやかに、朽木がにやついた。
「なんだ?うちの嫁がべっぴんすぎて、声も出ねえか」
朽木から「てめえみたいな平安美人には、目の毒だったかな」と言われ、さやかはようやく我に返った。
「…どういう意味ですか」
「ハハハ、気にすんなって。うちのかみさんと比べりゃ、たいていの女は十人前よ。三国一の嫁だからな」
朽木はプレゼントの山を手で示した。
「これ、全部嫁へのプレゼントなんだぜ」
「えっ…これ全部、ですか」
どう見ても片手では抱えきれないようなプレゼントの山を、妻一人に贈るとは。クリスマスでもないのに、ずいぶん気前のいいことである。
「東京で一人、寂しい思いをさせてる分、人一倍贅沢させてやりたいからな。毎週、あいつの好きなものを買ってやってるんだ」
「毎週ですか」
妻のことを語る朽木には、いつものような邪気がなかった。冬枝を愚弄したり、さやかを殴ったりした男とは思えないような、穏やかな表情をしている。
――奥さんのことは、本当に大事にしてるんだな。
写真の中の鳴子も、幸せそうな笑みを浮かべている。それだけに、鳴子が鈴子や嵐と音信不通になっていることが気になった。
さやかは、実態を確かめることにした。
「奥さん、すごく綺麗な人ですね」
「だろ?器量よし、性格もよし、天から舞い降りた女神みたいな女なんだぜ。月1回しか会えないのが辛いのなんのって」
朽木は組の手前、そうそう東京まで出られないらしい。それを補うように、毎週プレゼントを贈っているのだろう。
さやかは「でも」とわざとらしく首を傾げた。
「こんな美人、ホントに朽木さんの奥さんなんですか?信じられないなぁ」
「ああ?」
「たまたま仲良くなった女の人と、写真撮らせてもらっただけなんじゃないですか?」
さやかがあからさまに疑うような目を向けると、朽木が顔をしかめた。
「正真正銘、俺の嫁だっつの。ケンカ売ってるのか、てめえは」
「じゃあ、この人が本当に朽木さんの奥さんだ、っていう証拠を見せてくださいよ。でなきゃ、夫婦だなんて信じられません」
「証拠って何だよ」
鼻白む朽木に、さやかはこう提案した。
「奥さんとお話させてください。電話ぐらい出来るでしょう?」
「ああ?電話?」
渋ろうとした朽木に、さやかは小馬鹿にしたような笑みを向けた。
「できないんだ。やっぱり、こんな美人と夫婦だなんて、嘘なんでしょ」
すると、朽木は写真立てをバン!と棚に置いた。
「わかった。そんなに話したきゃ、話させてやるよ。ただし、1分だけだぞ!」
「ありがとうございます」
朽木が見栄っ張りで助かった。まんまと挑発に乗った朽木に、さやかは内心でほくそ笑んだ。
朽木は電話をプッシュすると、受話器に向かって口を開いた。
「もしもし。メイちゃん?貴彦だけど」
さっきとは別人のような猫撫で声に、さやかは噴き出しそうになった。
――め、『メイちゃん』って。
「うん。俺は元気だよ。え?メイちゃん、今日はオムライス食べるの?いいなあ、俺も食べたいなあ」
しかも、話の内容がなんともたわいない。ヤクザらしからぬファンシーな会話の応酬に、さやかは笑いをこらえるのに必死だった。
「おい、てめえ。何ニヤニヤしてやがる」
流石に露骨すぎたのか、朽木が受話器を押さえて、さやかを怒鳴りつけた。だが、すぐに受話器に戻る。
「なんでもないよ、メイちゃん。うん。あ、こないだのプレゼント、どうだった?メイちゃんに似合うと思ったんだけど」
そこで、朽木が「えっ?」と眉を曇らせた。
「そっかあ、ごめんね。俺の子分ときたら、使えねえグズばっかりで…あ、いや、何でもないよ。次は、ちゃんとメイちゃんに合うのを送るからね」
朽木はしばらく、こんな調子で鳴子との会話を続けていた。最初は朽木の常ならぬ様子に笑っていたさやかも、次第に飽きてきた。
――僕がいること、忘れてるんじゃないかな。
どうやら、朽木と鳴子は本当に仲が良いらしい。今日のお天気はどうだの、テレビ番組がどうだったの、どうでもいいような会話を心底楽しそうにしている。
さやかが椅子で足をぶらぶらさせていると、やっと朽木が鳴子にこう切り出した。
「それでね、メイちゃん。メイちゃんとお話したいって言う女がいるから、ちょっとだけお話してやってくれないかな」
朽木は簡単にさやかのことを説明すると、さやかに受話器を突き出した。
「うちの子分でさえ、滅多にメイちゃんとは口が利けねえんだぞ。感謝しろよ」
「ありがとうございます」
棒読みで言うと、さやかは受話器を受け取った。
「もしもし。鳴子さんですか」
「はぁい」
電話の向こうから返ってきたのは、鈴子とそっくりな声だった。それでいて、ふわふわとした話し方がいかにも可愛らしい。
「はじめまして、夏目さやかといいます。朽木さんの組で、代打ちをさせて頂いています」
「はじめまして。ねえ、代打ちってなぁに?」
「えっと…組の皆さんの代わりに、麻雀を打つお仕事です」
「わあ、麻雀ができるの?メイコ、麻雀、難しくって覚えられないの。さやかちゃんはすごいなあ」
「恐れ入ります」
さやかは一応、朽木に言ったことを確認しておくことにした。
「あの…鳴子さんは、本当に朽木さんの奥さんなんですか?」
朽木が背後で「当たり前だろうが」と怒鳴るのと同時に、電話の向こうからも返事が返ってくる。
「そうよ。メイコね、貴彦さんの奥さんなの。ウフフッ、恥ずかしい」
やはり、鳴子は朽木に脅されているわけでも、騙されているわけでもなさそうだ。鳴子は、自分の意志で駆け落ちしたらしい。
さやかは、本題に切り込むことにした。
「鳴子さん。鈴子さんと連絡を取る気はありませんか?」
「…お姉ちゃん?」
そこで、受話器が横から強引にもぎ取られた。
「麻雀小町。てめえ、何のつもりだ」
朽木は「春野嵐の回し者か」とさやかに迫った。
「…知ってるんですか、嵐さんのこと」
「知ってるも何も…」
朽木は苦々しそうに言葉を切ると、受話器に向き直った。
「メイちゃん、ごめんね。もっとお話していたいけど、ちょっと邪魔が入っちゃったから、今日はこの辺で」
朽木はさやかに背を向けると、「うん。うん。俺も愛してるよ、メイちゃん」ととびきり優しい声で言って、受話器を置いた。
振り返った朽木の顔は、打って変わって険しくなっていた。
「麻雀小町。てめえ、春野嵐とはどういう関係だ」
改めて嵐との関係を問われると、さやかは言葉に迷った。敵ではないが、友人というのも何か違う気がする。
「…嵐さんは、『こまち』の常連です。それで、鈴子さんと鳴子さんのことも教えてもらったんです」
とりあえず、さやかはそれだけ言った。嘘はついていない。
「なら、てめえも知ってるだろ。メイちゃんが彩北にいられなくなったのは、春野嵐のせいだって」
「嵐さんのせい?」
朽木は「あいつは、メイちゃんが邪魔だったんだ」と憎々し気に言った。
「警察官だった奴にとって、ヤクザと付き合ってる義理の妹なんて、目障りだったんだろ。嫁と結婚する時に、メイちゃんのことを邪魔だって言ってたらしいぜ」
「そんな…」
「メイちゃんはそれを気にして、俺と別れようとまでしたんだ」
ごめんね、貴彦さん。お姉ちゃんと嵐ちゃんの迷惑になっちゃダメだから、メイコ、貴彦さんと一緒になれないの――鳴子は、泣きながらそう謝ったのだという。
そして、朽木は決意した。鳴子を、彩北から――嵐と鈴子の元から、引き離そうと。
「メイちゃんは今でも春野嵐たちのことを気にして、俺と籍を入れようとはしねえ。全部、春野嵐のせいだ」
「……」
朽木の話がどこまで事実か、当事者ではないさやかには判断できない。
確かなのは、朽木と嵐が互いに憎み合っているということだけだ。
「いいか、麻雀小町。二度とメイちゃんに春野嵐の話はするなよ。次やったら、裸にひん剥いてソープで働かせてやるからな」
朽木に人差し指を突き付けられ、さやかは仕方なく「…分かりました」と頷いた。
「そうだ。てめえ、冬枝を説得するって話はどうなってんだ」
朽木はどっかとソファに座ると、タバコに火をつけた。
さやかは今朝の冬枝との口論を思い出し、少し落ち込んだ。
「やっぱり、僕には冬枝さんを説得するなんて、無理です」
「ああ?」
嵐に言われた通り、冬枝はさやかの説得ぐらいで考えを変える男ではない。冬枝に青龍会と闘って欲しくはないが、さやかには打つ手がない。
すると、朽木がゆらりとソファから立ち上がった。
「てめえ、それでも白虎組の代打ちか。そんな弱っちい心意気で、よく『麻雀小町』なんて名乗れたな」
「名乗った覚えはないですけど」
「とにかく、てめえにゃ覚悟が足りねえんだよ」
「覚悟…」
朽木はタバコの煙を吐くと、ぐりぐりとガラスの灰皿に押し付けた。
「メイちゃんは、俺と一緒になるために、家も家族も全部捨ててくれた。うちのデリヘルやソープで働いてる女たちだって、金のために毎日必死で体を張ってる。俺だって、メイちゃんと一緒に暮らすためなら何だってやる。白虎組なんか、熨斗つけて青龍会に売り払ったっていい。青龍会に入れば、東京に行けるからな」
「てめえはどうだ、麻雀小町。てめえは、冬枝のために何の覚悟も出来ねえのか」と朽木に言われ、さやかの中で何かが動いた。
――僕が、冬枝さんのためにできる覚悟……。
朽木の話は、あまりにも極端だ。説教ついでにうっかり本音が漏れていた気がするし、女性たちをデリヘルやソープで稼がせているのは最低だ。
だが、朽木のおかげでさやかは、自分の本心に気付いた。
――諦めたくない。
冬枝を青龍会と闘わせて、みすみす血を流させたくない。冬枝を守りたい、とさやかは心から思った。
冬枝が聞く耳を持ってくれないなら、頷いてくれるまで説得を続ければいい。
身体を張って戦ってきた冬枝を説得するなら、さやかもそのぐらい覚悟を決めなければいけないのだ。
「…分かりました。もう少しだけ、頑張ってみます」
さやかがそう言うと、朽木の顔が綻んだ。
「ふん。まあ、世間知らずの小娘一人に任せるにゃ、ちと荷が重すぎたかもしれねえな。俺様が、いいものをプレゼントしてやる」
朽木はプレゼントの山をごそごそと漁ると、ラッピングされた箱や袋をいくつかさやかに放って寄越した。
「やるよ」
「えっ…これ、鳴子さんにあげるんじゃなかったんですか?」
「うちの子分がグズでよ、何回言っても女物のサイズが覚えられねえんだ。そいつらはメイちゃんにはサイズが合わねえから、てめえにやる」
さやかは、袋をいくつか開封してみた。PINK HOUSEのワンピースや靴が出てきて、さやかは目を輝かせた。
「可愛い」
「ハハ。貧乏冬枝は、こんなものはプレゼントしてくれねえか。可哀想にな」
「別に、冬枝さんが僕にプレゼントする義理はありませんから」
ワンピースを手に取ってみると、確かにさやかにちょうど良さそうだ。平均的な女子のサイズに見えるが、鳴子はこれが入らないのだろうか。
「鳴子さんって、背が高いんですか?」
「バカ、合わねえのはバストのサイズだよ。メイちゃんは大きめだから、それじゃ入らねえんだ」
朽木はちらっとさやかを見下ろして「Aカップにはぴったりそうだな」と言って笑った。
「………」
さやかは「やっぱりこれ、返します」と言ってプレゼントを突き返そうとしたが、朽木は受け取らなかった。
「そう言わずに、もらっておけよ。返品するのも面倒だし、メイちゃんにあげるはずだったものを他の女にあげたら、浮気になっちまうだろ」
「僕にあげるのは、浮気に入らないんですか」
「てめえみたいなまな板、女のうちに入らねえよ」
さやかは殺意を覚えたが、続く朽木の言葉で少し考え直した。
「せいぜいめかし込んで、冬枝から女扱いしてもらうことだな。そんな地味なナリで誘惑されたって、その気になれやしねえ」
さっきから腹の立つ言葉のオンパレードだが、一理あると思わないこともない。それに、朽木が本当に他の女性にプレゼントしないとも限らないため、さやかがもらっておくのが一番平和かもしれなかった。
「麻雀小町」
「なんですか」
朽木は箱からタバコを取り出すと、火をつけた。
「敵は、青龍会だけじゃねえ。せいぜい、背後にも気を付けることだな」
さやかは、朽木の言わんとするところを察した。
「…つまり、青龍会と闘おうとする冬枝さんたちのことを、目障りだと思っている人たちがいるということですか。白虎組の中に」
「そういうことだ」
朽木は他人事のように言うが、それはつまり、朽木たち自身のことではないだろうか。さやかは首を傾げた。
「どうして、僕にそんな忠告をするんですか」
「焦ったほうがいいって言ってんだ。正直、俺にもこの先、何が起こるか分からねえ」
朽木には何か具体的な不安要素があるようだが、さやかに教える気はなさそうだ。
朽木がここまで言うぐらいだ。青龍会を巡る白虎組の分裂――そして冬枝の行く末は、かなり深刻だと考えたほうがいいだろう。
――冬枝さん…。
さやかは、膝の上の拳をぎゅっと握り締めた。
朽木はわざわざ、冬枝のマンションまで車で送ってくれた。
「また『アクア・ドラゴン』に絡まれたら困るからな。一応、てめえはうちの大事な代打ちでもあるし」
プレゼントをもらったからではないが、さやかは朽木のことを少し見直した。
――朽木さんって、思ってたよりまともな人なのかもしれない。
女を見下したところや口の悪さには辟易するが、朽木は朽木なりの信条があって行動している、ということは、自宅での会話で分かった。何より、鳴子との仲睦まじい様子を見たら、朽木が根っからの悪人とは思えなかった。
尤も、朽木が冬枝から長年、金を無心し、さやかを殴ったことを忘れたわけではない。線を引いて付き合ったほうがいい相手だということは、さやかも肝に銘じていた。
――ただ、少なくとも鳴子さんにとっては、いい旦那さんなんだろうな。
今、鳴子が幸せに暮らしているということだけでも、鈴子や嵐に伝えてやりたい。だが、当事者でもないさやかがうかつに春野家の事情に踏み込むのは、少しためらわれた。
そこでさやかは、鈴子に持たされていたタッパの存在を思い出した。
「ほら、着いたぞ。なんだ?部屋まで送って欲しいのか」
冗談交じりに言った朽木を無視して、さやかは「あの、朽木さん」と切り出した。
「これ、良かったら食べませんか」
「あ?」
さやかが差し出したおにぎりを見て、朽木が怪訝そうにした。
「なんだよ」
「鈴子さんが握ってくれたおにぎりです。朽木さんも、どうぞ」
「ああ?」
朽木は文句を言いたそうだったが、さやかは遮った。
「鈴子さんは、今でも鳴子さんが帰ってくるのを待ってます。鳴子さんに、鈴子さんとだけでも連絡を取らせてくれませんか」
「……」
朽木は少し考えてから、首を横に振った。
「ダメだ、ダメだ。メイちゃんがどれだけ『お姉ちゃん』に遠慮してきたと思ってる。春野嵐だけじゃねえ、あの女だって同罪だ」
「…そうですか」
さやかは「でも、これは食べてください」と言って、おにぎり2つを押し出した。
「なんでだよ。食ったって、俺の気は変わらねえぞ」
「いいです。お姉さんが作ったおにぎりを食べたって、鳴子さんに電話する口実にでもしてください」
「……」
朽木は「ちっ」と、面倒臭そうに舌打ちをした。
「メイちゃんが、またてめえと話したいって言ってた」
「鳴子さんが?」
「若い女と喋る機会がねえし、代打ちの仕事が面白そうだから、ってよ。春野嵐の話さえしなきゃ、またメイちゃんと電話させてやるよ」
朽木はさやかの手からひったくるようにおにぎりを受け取ると、車のドアを閉めた。
「………」
エンジンをふかして去って行くジャガーを見送りながら、さやかは遠い東京の鳴子に思いを馳せた。
――いつか、鈴子さんと鳴子さんが再会できればいいけど。
そこで、後ろから「さやかさん!」という聞き慣れた声がした。
「高根さん、土井さん。お疲れ様です」
「お疲れ様です。あの、さやかさん…朽木さんと一緒だったんですか?」
どうやら、朽木の車から出てきたところを見られたらしい。さやかは苦笑した。
「はい。プレゼント、もらっちゃいました」
さやかが朽木からもらった箱や袋を持ち上げると、土井が「ワーオ」と声を上げた。
「高根さんと土井さんは、これからお昼ですか?」
「ええ、まあ」
冬枝は、一緒じゃないのだろうか。言おうとして、さやかは今、冬枝と戦争中だということを思い出した。
――別に、ご飯の時まで角突き合わせるつもりはないけど。
「美輪子さんって、冬枝さんとはどういう関係だったんですか」
せっかく冬枝がいないので、さやかは思い切って聞いてみた。
「昔のコレですよ。兄貴の歴代彼女の中では、トップクラスの美女です」
「バカ土井、黙っとけよ」
高根が制したが、さやかは続けて質問した。
「冬枝さんと美輪子さん、どうして別れちゃったんですか?」
「さあ。自然消滅っていうか、空中分解っていうか。兄貴の女関係は、だいたいそんな感じですよ」
「ふーん」
特にこじれて別れたわけではないなら、この機によりを戻す可能性はあるかもしれない。さやかから見ても、美輪子はとても綺麗で溌溂とした女性だった。
やがて、さやかたちは冬枝の部屋の前に着いた。
扉を開けると、玄関に、冬枝の靴と並んで女物のハイヒールが置いてあった。
「あっ」
高根と土井が顔を見合わせたが、既に遅い。
さやかはずんずんと中に入ると、リビングに踏み入った。
「はい、冬さん。あーん」
「バカ、自分で食えるって」
美輪子が冬枝に箸を差し出し、冬枝が照れ臭そうに避けているところだった。
「あっ。さやか、おかえり」
「…ただいま」
さやかは、血が冷え冷えとしていくのを感じた。
「うわっ。すっげえ、うまそー」
土井が、ずらりと料理の並ぶ食卓に飛び付いた。
「美輪子が作ってくれたんだよ」
「えっ。美輪子さん、すごいっすね」
「冬さんには、今夜は頑張ってもらわなきゃいけないからね。このぐらいはサービスよ、サービス」
美輪子はにっこりと微笑むと、「冬さん、私の作った肉じゃが、大好きだものね」と言って、箸でじゃがいもをつまんだ。
「あ、そうそう。冬さんにいいもの持ってきたのよ」
冬枝の口にじゃがいもを突っ込むと、美輪子は台所から風呂敷包みを持ってきた。
中から出てきたのは、薩摩焼酎のビンだった。
「おっ。俺、これ好きなんだよ。よく覚えてたな、美輪子」
「でしょ?冬さん、昔っから酒飲みだものね」
冬枝は「サンキュー」と言って、焼酎を大事そうに受け取った。
「さやかさん。さやかさんは昼飯、どうしますか」
高根が遠慮がちに尋ねたが、さやかは顔も見ずに答えた。
「…僕は食べるものがあるので、大丈夫です。失礼します」
そう言って、さやかは早足に自分の部屋へと引っ込んだ。
昼食が終わり、美輪子が帰ったところで、高根と土井がおずおずと冬枝に近寄った。
「あの、兄貴」
「ん?何だよ」
そこで高根たちは、さやかが朽木の車から出てきたことを報告した。
「しかも、たくさんプレゼント持ってましたよ。朽木さんからもらった、って言って」
「さやかが、朽木から?」
にわかには信じがたかった。さやかと朽木は幾度も対決しており、さやかは朽木に殴られたことさえあるのだ。それが仲良く車から出てきて、プレゼントまでもらっているなんて、冬枝には想像がつかない。
「さやかさん、朽木さんにおにぎりあげてましたよ。かなり熱心に」
「おにぎり…」
そこで土井が「もしかして」と人差し指を掲げた。
「さやかさんの『好きな人』って、朽木さんなんじゃないですか?」
「ええっ!?」
高根が驚き、冬枝は言葉を失った。
――さやかが、朽木に惚れてる?
冬枝は、いや、と否定した。
「流石に、ありえねえだろ。あの朽木だぞ」
「ですよね。朽木さん、女には汚いし、さやかさんみたいな真面目な人が好きになる要素、一切ありませんから」
「でも、プレゼントはもらったんだよね」
土井が言うと、冬枝も高根も黙り込んだ。
それに、さやかが朽木の車に乗っていた、というのも冬枝は気になった。さやかは朽木と、車でどこへ行っていたのだろうか。
――あの野郎、さやかに妙なことしてねえだろうな。
冬枝の顔つきが険しくなったので、言い出しっぺの土井はちょっと怖気づいたらしい。
「オレ、ちょっとさやかさんの様子見てきますよ」
「あっバカ土井、ちょっと待てよ」
という高根の制止も虚しく、土井はそそくさとさやかの部屋へと向かっていった。
ところが、ほどなくして土井はバタバタと戻ってきた。
「さやかさん、どうだった?」
「それが…」
土井は声をひそめて「さやかさん、部屋で泣いてました」と告げた。
「泣いてた?」
「はい。後ろ姿だったんで、顔までは見てませんけど、確実に泣いてました」
土井の話によると、さやかは机に座ったまま、震えながら嗚咽を洩らしていたという。
――やっぱり、朽木に何かされたんじゃねえか。
心配になる冬枝をよそに、土井は違う見解を示した。
「やっぱり、兄貴が美輪子さんとイチャついてるのを見て、耐えきれなくなったんだろうなあ」
「えっ?」
「兄貴とさやかさんの愛の巣で、美輪子さんが女房面して兄貴のお世話してたんですから、傷付いたんじゃないですか?さやかさん、兄貴と美輪子さんの関係を気にしてましたし」
「バカ土井、言葉を慎めよ」
高根は土井の頭をぴしゃりと叩くと、「すみません、兄貴」と土井の頭を下げさせた。
愛の巣じゃねえよ、と土井に突っ込むのも忘れて、冬枝は呆気に取られた。
朽木の車から出てきたさやか、部屋で一人泣いていたさやか……。
――さやかを放っておけねえ。
冬枝は、すっくと立ち上がった。
ところがそこで電話が鳴り響き、がくっと出鼻を挫かれた。
「はい、もしもし」
高根が電話に出ると、「えっ」と表情を硬くした。
「兄貴。うちのシマで、『アクア・ドラゴン』が暴れてるそうです」
「畜生、またかよ」
冬枝は枯れ葉色の背広を引っかけると、高根たちを連れて玄関へと向かった。
ちらりと、さやかの部屋のほうを見やる。ドアは固く閉ざされたままだ。
「兄貴、行きましょう」
「…ああ」
高根に促され、冬枝はマンションを後にした。
自室で勉強していたさやかは、窓の外がオレンジ色に染まっているのに気がついた。
「…もう夕方か」
冬枝と美輪子がくっついているのを見たら腹が立って、さやかはずっと部屋に引きこもっていた。おかげで受験勉強に専念できたが、冬枝たちはどうしているだろうか。
リビングに出ると、誰もいなかった。冬枝たちは、まだ外にいるらしい。
さやかはふと、美輪子の言葉を思い出した。
「冬さん、私の作った肉じゃが、大好きだものね」
――肉じゃがぐらい、僕だって作れる。
冷蔵庫を開けると、美輪子が使った余りなのか、ちょうど材料が揃っていた。さやかは、今日の夕飯は自炊することにした。
「ただいまー」
冬枝が帰宅すると、さやかが台所で何かしている背中が見えた。
「さやか。何してんだ」
「あ、冬枝さん…」
振り返ったさやかの指が血だらけなのを見て、冬枝はぎょっとした。
さやかの手に握られた包丁も、まな板も、点々と血がついている。
「お前、何やってんだ。自分の指切り刻んで食うつもりかよ」
冬枝は慌ててさやかの手を水で洗うと、リビングまで引っ張った。
救急箱を取り出し、消毒液をさやかの手にばしゃばしゃとかけた。
「痛っ。しみるんですけど、冬枝さん」
「我慢しろ。あーあー、傷だらけじゃねえか」
冬枝はさやかの手を取ると、傷一つ一つに絆創膏を貼ってやった。
「ったく、商売道具なんだから大事にしろよ」
「ちょっと手が滑っただけです。料理するの、久しぶりだったから」
さやかは強がったが、両手とも見事に傷だらけにしているのを見ると「ちょっと手が滑っただけ」とは言えない。
冬枝に手を握られ、さやかは身体が何だかむずむずした。何なら顔が至近距離にあって、ちょっと恥ずかしい。
と、その冬枝の頬に擦り傷があるのが見えて、さやかはハッとした。
「冬枝さん。顔、傷ついてますよ」
「ん?ああ。外でちょっとな」
今日は冬枝のシマにある『天麩羅しみず』で、『アクア・ドラゴン』のメンバーが食い逃げをやらかした。冬枝と弟分たちでとっちめたが、連中の無法は日に日に悪化している。
「冬枝さんこそ、手当てしたほうがいいですよ」
「いらねえよ。かすり傷だ」
「ダメです。バイ菌が入って化膿したらどうするんですか」
さやかはそう言うと、冬枝の手から消毒液を奪い、脱脂綿を濡らして冬枝の頬に当てた。
「いってえ。しみるじゃねえか」
「さっきのお返しですよ」
「何だと」
消毒液一つでじゃれ合っている自分たちがおかしくなって、冬枝とさやかは顔を見合わせて笑った。
冬枝は、ぺちぺちと冬枝の頬に脱脂綿を当てる、さやかの絆創膏だらけの指を見やった。
「腹減ったなら、外で食ってくればいいだろ」
「僕だって、料理ぐらいできます」
口を尖らせるさやかを見て、土井の言葉が冬枝の脳裏に蘇った。
「兄貴とさやかさんの愛の巣で、美輪子さんが女房面して兄貴のお世話してたんですから、傷付いたんじゃないですか?」
冬枝はつい「なんだよ。妬いてんのか」と、ストレートに口に出してしまった。
「…っ!そんなんじゃありません」
さやかは立ち上がると、大股に台所まで戻っていった。
そのまま引っ込むのかと思いきや、さやかは首だけこちらに振り返った。
「…傷、手当てしてくれて、ありがとうございます」
ぽつりと言うと、さやかは台所でまたごそごそやり始めた。
――あんな手で、牌握れるのかよ。
冬枝は、これからさやかと勝負をする、というのが信じられない気分になっていた。
夜、雀荘『こまち』で、約束通り冬枝とさやかの勝負が開始された。
卓には冬枝と美輪子、さやかと加茂が着いた。さやかの傍らには、嵐もついている。
嵐がにやにやとさやかを肘で小突いた。
「さやか。お前、クジ運ねえな」
「…嵐さん、中身分かってたでしょ」
「ハハハ。ハズレを持ってかせちまって、鈴子がぶじょほしたってしょしがってたぞ」
さやかと嵐がコソコソと話していたが、冬枝には会話の意味が分からなかった。
嵐が「せば!」と勝手に場を仕切った。
「確認しますよ。この勝負、ダンディ冬枝が勝てば、象牙の麻雀牌セットを半額で美輪子さんにお売りする。さやかが勝てば、半額って話はナシ。よござんすね?皆さん」
「ああ」
「問題ありません」
冬枝とさやかが、卓を挟んで対峙する。
これまでにも何度か2人で卓を囲んだことはあったが、敵として打つのは初めてだ。
――たまには勝って、年長者としての威厳を示さねえとな。
さやかの腕前は確かだが、冬枝とて麻雀なら人後に落ちないと自負している。何より、美輪子の前でさやかに負けるのは避けたい。昔の男が若い娘に負けるなんて、それこそお笑い草だろう。
美輪子が、力強く微笑みかけた。
「冬さんなら、負けやしないわよ。大丈夫」
「ああ」
一方、さやかはいつもの通り、落ち着き払っていた。
「さやかちゃん、頑張ろうね」
「はい」
相手が雇い主である冬枝だというのに、さやかには気負う様子もない。さやからしいが、可愛くねえな、とも冬枝は思ってしまう。
実際、さやかはまるで遠慮がなかった。東一局で早速和了り、トップに躍り出た。
――麻雀マシンだな、本当に。
冬枝ですら、まだ役ができていないような序盤である。さやかの冴え冴えとした無表情が、空恐ろしいぐらいだった。
このまま、さやかにペースを握られるのか。冬枝はそう危惧したが、実際は逆だった。
「ロン!」
加茂の牌を冬枝がロンし、加茂が蒼白になった。
東場は、冬枝がトップで終了した。最初の一局以外、さやかはぱっとせず、冬枝の後塵を拝する形となっていた。
「その調子よ、冬さん」
一旦、休憩となり、冬枝のタバコに美輪子が火をつけた。
「今日は、ずいぶんツイてるぜ。このままいけば、お前に麻雀牌をプレゼントしてやれるな」
「やったあ」
「半額ですよ、あくまで」
さやかはぼそっと言うと、マスターの中尾が差し出したコーヒーに口をつけた。
嵐が、横からさやかに顔を近づける。
「どうした?さやか。愛しのダンディ冬枝が相手だからって、手加減してんのか?」
「そんなんじゃありません。今日は、引きが悪いだけです」
「ていうか、どうしたんだよ、その手」
さやかは絆創膏だらけの手を見下ろすと「…なんでもありません」と照れたように顔を背けた。
「頼むよ、さやかちゃん。あの牌、親父のお気に入りだから、半額でなんか売ったら大目玉喰らっちゃうよ」
加茂が小声でさやかに縋り付くと、嵐は「そうだそうだ」と乗っかった。
「ここで負けたら、麻雀牌もダンディ冬枝も、美輪子さんに取られちまうぞ。それでいいのか、麻雀小町!」
「嵐さんには関係ないじゃないですか」
さやかが苦笑気味に言うと、嵐は「俺の理想としてはー」と言った。
「さやかがダンディ冬枝をコテンパンに打ち負かして、逆上したダンディ冬枝が、さやかをクビにする、ってのが一番だな」
「それが本音ですか…」
さやかは呆れたように呟くと、「そんなことにはなりませんよ」と告げた。
「冬枝さんは、僕に負けたからってクビにするような、度量の狭い人じゃありません。ね?冬枝さん」
冬枝を見るさやかの瞳には、挑発するような輝きがあった。
負けじと、冬枝もにらみ返す。
「お前が勝てば、の話だがな」
「そうよ。今日の冬さんは持ってるわ。このまま押し切りましょ」
美輪子に励まされたが、冬枝は内心、さやかを警戒していた。
さやかがやられっぱなしでいるわけがない。南場は流れが変わる、と冬枝は確信した。
ところが、休憩が明けて南一局が始まっても、さやかの見せ場はなかった。
「悪いな、さやか。それだ」
なんと、さやかが冬枝に振り込む、という展開まであった。
「………」
さやかは無表情に、点棒を冬枝に手渡した。
その後も、冬枝のトップは揺るがなかった。意外と加茂が奮闘していたが、なかなか和了れず、さやかが3位、加茂がラスという形が続いた。
南三局、さやかの切った牌が、またも冬枝のロン牌だった。
――来た!
「ロ…」
冬枝が手牌を倒そうとした瞬間、ピンク色のものが雀卓に覆い被さった。
「すんませーん、足が滑っちゃったー!」
「てめえ、嵐!」
嵐が倒れ込んだせいで、卓上の牌はメチャクチャになってしまった。結局、この局は流局ということになった。
冬枝は、タバコを吸うと言って嵐をスタッフルームまで引っ張り込んだ。
「おい。どういうつもりだ」
「いやだなあ、ダンディ冬枝。わざとじゃありませんって」
「てめえは、歩いてもいねえのに雀卓に転がり込めるってのか」
「立ちくらみですよ。ああっ、めまいが…」
大げさな仕草で額に手を当てる嵐を、冬枝は鬱陶しそうに手で払った。
「ヘタな芝居ならよそでやれ。てめえ、俺を勝たせねえつもりだな」
嵐の狙いは、さやかに勝たせて、メンツを潰された冬枝にさやかをクビにさせることだ。加茂と美輪子のいさかいにかこつけて麻雀勝負なんて言い出したのも、恐らくそのためだ。
だが、今の状態ではさやかが負けるとみて、嵐はあからさまな妨害に及んだのだろう。
嵐は、不意に真剣な横顔になった。
「ダンディ冬枝。もしかして、さやかはわざと負けるつもりなんじゃありませんか」
「あぁ?」
「ダンディ冬枝だって、おかしいと思ったでしょ。あのさやかがこんなに負けまくるなんて」
「そりゃ、確かに」
南場になったらさやかが盛り返すのではないかと警戒していたが、それもなかった。今日の冬枝は引きがいいとはいえ、さやかは不自然なほど冬枝の危険牌を切りまくっている。
冬枝もその可能性を考えないではなかったが、いざ言われてみれば、さやかはわざと負けようとしているとしか思えなかった。
「なんでだよ。わざと負けるなんて、あいつらしくないじゃねえか」
元はと言えば、麻雀対決に乗り気だったのはさやかのほうだ。さやかが挑発するようなことを言ったからこそ、冬枝も引けなくなったのだ。
「そりゃ、愛しのダンディ冬枝に弓引くような真似、できないでしょうよ」
「愛しの、って…お前、よくもまあべらべらと言えるもんだな」
呆れて冬枝は言ったが、脳裏をよぎったのは、さやかと消毒液片手にじゃれ合った夕方の一場面だった。
「僕だって、料理ぐらいできます」
そう言って、絆創膏だらけの手で包丁を握っていた、さやかの危なっかしい背中を思い出す。
冬枝は、さっきまで意気盛んだった戦闘意欲が、みるみる萎んでいくのを感じた。
――なんで俺、さやかとケンカしてるんだっけな。
もし、さやかが冬枝に遠慮してわざと負けようとしているなら、自分は相当、大人げない男になってしまう。赤っ恥もいいところだ。
とはいえ、美輪子の手前、さやかに負けるのも赤っ恥だ。念願だった自分の店を持った美輪子を応援してやりたい、という気持ちもある。
考え込む冬枝に、嵐がニヤニヤと笑った。
「モテる男はつらいっすね、ダンディ冬枝」
「うるせえ。てめえ、いい加減に帰れ。部外者だろうが」
「帰りませんよ。この後、どうなるか気になりますからね。ああ、もしかしてさやか、負けたら泣いちゃうかもしれませんね」
「何?」
「負けて大泣きしたほうが、ダンディ冬枝にはダメージを与えられる、って算段したのかもしれませんよ」
確かに、それはそれで冬枝にとっては居たたまれない展開だ。さやかを打ちのめし、泣かせて悦に入るなんて、冗談じゃない。
勝っても負けても同じじゃねえか、と冬枝が気付いたところで、目の前のヒゲ面男のニヤニヤ笑いが目に入った。
「てめえ、こうなるって分かってたな」
「さあ、何のことだか。それよりダンディ冬枝、そろそろ戻ったほうが良さそうですよ」
「ああ?」
「何か、ダンディ冬枝には都合の悪い話をしている声が…」
嵐の目線を追って、冬枝がスタッフルームから首を出すと、さやかと美輪子が話しているところだった。
「冬さん、私と付き合ってた時、他にも4~5人の女と付き合ってたのよ。店ごとに恋人がいるような感じで」
「へえ…」
「美輪子、てめえ余計なこと喋るんじゃねえ!」
冬枝が慌ててスタッフルームを飛び出すと、背後で嵐がくっくっと忍び笑いをした。
「あら、冬さん。タバコはもういいの」
「あのな美輪子、若いの相手だからって話を盛るんじゃねえ。お前の話には誇張があるぞ」
「誇張って、どこが?」
「女の人数だよ。せいぜい2人か3人だっただろ」
指を出して訂正する冬枝のことを、さやかが蔑むような目で見ている。
「それぞれ彼女が鉢合わせしないように、うまいことやってたわよね、あの頃の冬さんは」
「やめろ、それ以上しゃべったら口塞ぐぞ。さあ、再開するぞ」
「………」
牌を混ぜるさやかの口が、への字に曲がっている。これはまずいかもしれない、と冬枝は予感した。
冬枝が及び腰になったせいではないだろうが、南三局はまたも流局した。冬枝は引きが鈍ってノーテンだったが、さやかの手牌がちらっと見えた時、背筋が冷たくなった。
――メンチンじゃねえか。
さやかはしれっとしているが、いつでも冬枝を撃ち殺せる構えでいたのだ。さやかがわざと負けてくれるかもしれない、などという可愛らしい想像は、見事に打ち砕かれた。
――そっちがその気なら、俺だって手加減しねえ。
さやか相手に遠慮などしたら、すぐに討ち取られてしまう。極道の沽券に賭けても、さやかに負けるわけにはいかなかった。
迎えたオーラス、冬枝の手牌は最高の状態に仕上がっていた。
なんと、先ほどさやかが打ち逃した清一色が、冬枝の手に舞い込んだのだ。
――清一色なんて、滅多にできるもんじゃねえんだが。
口笛でも吹きたい気分で、冬枝は場を見渡した。せっかちな美輪子は既に鳴いて手を固定しにかかっており、慎重な加茂は鳴かずにツモを辛抱強く待っている。2人共、自分の手に夢中で、他人の捨て牌まで追っている余裕はなさそうだ。
元より、この麻雀は冬枝とさやかの勝負だ。恐れるべきはさやか一人である。
さやかの捨て牌は、一見何の変哲もないように見える。だが、さやかへの警戒心を思い出した冬枝には、却って怪しく思えた。
――まさか、ドラか?
冬枝の清一色といい、場の牌は極端に偏っている。さやかの捨て牌からは高めの役の気配はしないが、ドラをごっそり抱えている恐れがあった。
――いや、まさかな。
今や、冬枝とさやかの点差は、5万点もあるのだ。ここから逆転するなんて、それこそトリプル役満でもかまさないと――。
そこまで考えて、冬枝の顔から血の気が引いた。
――あの時と同じだ。
さやかが初めて冬枝の代打ちとして打った時、さやかは5万点もの点差から、三倍役満で見事に逆転してみせた。
まさか、さやかはあの時の状況を再現するために、わざと負けていたのか。冬枝がその可能性に気付いた時、美輪子が何気なくツモ牌を切った。
――俺の和了り牌。
美輪子が、ちらりと冬枝に目配せをした。美輪子は冬枝が清一色狙いであることを、ちゃんと察していたのだ。
――これで勝てる…だが…。
この土壇場になっても、なお無表情を貫いているさやかが、冬枝には不気味だった。もしかすると、頭ハネをされるかもしれない。
だが、悩んでいる暇はない。清一色なんて、そうそうできる役ではないのだ。
――ええい、どうにでもなっちまえ!
「ロン!チンイツ!」
冬枝が手牌を倒すと、美輪子が歓声を上げた。
「やったあ、冬さんの勝ちね!」
「………」
さやかは、微動だにしなかった。静かな目で、冬枝の牌を見つめている。
「そんなあ…」
ガックリ肩を落としているのは、加茂である。『こまち』でさやかの腕を間近で見てきただけに、さやかの敗北は想定外だったのだろう。
「ありがとう、冬さん。頼りになるわね」
「ああ、まあな…」
冬枝はさやかの手牌が気になったが、さやかは隠すようにさっさと牌を混ぜてしまった。
「ダンディ冬枝、大勝利ー!よっ、大将軍!」
「誰が将軍だ」
嵐がはやし立て、美輪子が「今夜は祝杯あげましょ。うちで飲んでってよ」とはしゃぐ。
さやかは泣き出す素振りもなく、淡々とした眼差しのままだった。
結局、冬枝は美輪子の店で1杯飲んだだけで、早々にマンションに帰った。
今夜の勝利は、あまりにも出来過ぎていた。美輪子の前で恥をかかずに済んだのは良かったものの、冬枝はずっと後味の悪さを感じていた。
――さやかの奴、やっぱりわざと負けたんじゃねえのか。
それが気になって、酒の味など分かったものではない。部屋の扉を開けると、ちょうど高根と土井が夕飯の後片付けをしているところだった。
「兄貴。おかえりなさい」
「ずいぶん早いお帰りで」
「バカ土井、やめろよ」
どつき合う弟分たちを無視して、冬枝はソファでテレビを見ているさやかのほうへ向かった。
「さやか」
「冬枝さん。おかえりなさい」
さやかの瞳には、何の邪気もない。さっきまで雀卓を挟んで火花を散らしていたのが、嘘のような穏やかさだった。
「お前、さっきわざと負けたんじゃねえのか」
冬枝が切り出すと、さやかはあっさりと認めた。
「はい」
「なんでだよ。手加減しねえと俺が勝てねえってか」
「そんなことないですよ。今夜の冬枝さんは、本当に運がついてました。清一色なんて、僕でもなかなかできません」
やけに冷静なさやかに対して、冬枝は焦燥が募った。
「お前な、それじゃ勝負にならねえだろ。わざと負けるぐらいなら、最初から勝負なんかするんじゃねえ。俺をバカにしてんのか」
「いいえ」
さやかの声が、にわかに真剣なものになった。
「美輪子さんと加茂さんのケンカを解決するには、麻雀で勝負するしかありませんでした。だけど、冬枝さんを負けさせるわけにはいかない」
さやかは、真っ直ぐに冬枝を見上げた。
「僕は、冬枝さんの代打ちです。冬枝さんを勝たせるのも、僕の仕事です」
冬枝は、さやかの真意をようやく理解した。
――さやかは、最初っから勝つ気なんてなかったんだ。
それどころか、さやかは冬枝と戦う気さえなかった。美輪子と加茂の揉め事を、冬枝に有利な形で決着させるために、わざと加茂の側についたのだ。
さやかはプライドを捨て、冬枝に勝利を捧げた。そこまで思い至った時、冬枝はさやかに頭が上がらなくなっていた。
「すまねえ。さやか」
「冬枝さん?」
「俺は、自分のことしか考えてなかった。さやかは俺の代打ちだってのに、お前を信じてやれなかった。すまん」
頭を下げる冬枝に、さやかは「やめてください」と慌てた。
「冬枝さんを騙すような形になったのは、事実です。冬枝さんを嫌な気持ちにさせたなら、すみません」
その手に貼られた絆創膏の数々を見ると、ますますさやかの健気さが冬枝の胸にしみた。思わず、さやかをガバッと抱き締めてしまう。
「うわっ」
「さやか。お前みたいな代打ちを持って、俺は果報者だ」
「ちょっ、ちょっと、離してください、冬枝さんっ!」
冬枝がさやかを抱き締めているのを見て、高根と土井が慌ててこちらに背中を向けた。それを見たら、さやかはますます恥ずかしくなった。
「さやかぁ~!」
「分かりました、分かりましたから、冬枝さん!恥ずかしいから離れてくださいってば!」
さやかからぐいぐいと押され、冬枝は仕方なくさやかを解放した。
「もう……」
真っ赤な顔でブラウスの襟元を直すさやかを、冬枝はしみじみと見つめた。
――めんけえ奴。
生意気なところもあるが、さやかは一途で誠実だ。可愛くないわけがない、と冬枝は胸を熱くした。
「あれっ。これ、さやかさんが作ったんですか?」
土井が、冷蔵庫から肉じゃがの入ったタッパを取り出した。
「はい。自分用に作ったんですけど、余っちゃって」
「へえ。自分たちが食べてもいいですか」
高根が言うと、さやかは「いいですけど、あんまり美味しくないですよ」と自信なさげに答えた。
「………」
さやかがシャワーを浴びに行ったところで、冬枝はそっと台所に向かった。
さやかがシャワーを浴びてリビングに戻ると、冬枝が晩酌をしていた。
「冬枝さん。高根さんたちは帰ったんですか」
「ああ」
そこで、冬枝がさやかの作った肉じゃがを食べていることに気付いて、さやかは慌てた。
「冬枝さん!なんでそれ食べてるんですか」
「ん?」
冬枝はタッパから直接箸で肉じゃがを取り、ぱくっと口に入れた。
「別に、美味いじゃねえか」
「無理しないでくださいよ。その、料理なんかするの久しぶりで、ホントに失敗しちゃったので……」
さやかはもじもじと言い訳してから、「ていうか、なんで食べてるんですか!高根さんたちにあげるって言ったでしょ!」と当初の質問に戻った。
「俺のために作ったんだろ。なんであいつらにやるんだよ」
いけしゃあしゃあと冬枝に言われ、さやかの顔が真っ赤になった。
「……っ!別に、冬枝さんのために作ったわけじゃありませんっ!自分用です!」
「とにかく、弟のもんは俺のもんだ。あいつらも、文句は言わなかったぞ」
「ジャイアンじゃないですか、それじゃ」
さやかはしばらく、冬枝が肉じゃがを食べているのを恥ずかしそうに見つめていたが、「あ」と思いついたように声を上げた。
「そうだ、冬枝さん。ついでに、これも食べませんか」
「ん?」
さやかが取り出したのは、鈴子からもらったおにぎりの余りだ。鈴子が大量にくれたものだから、さやか一人では食べ切れなかったのだ。
「鈴子さん…嵐さんの奥さんからもらったんです」
「ふーん」
冬枝は何の疑いもなくアルミホイルを開けると、おにぎりにぱくっとかぶりついた。
直後、冬枝の顔が歪んだ。
「何だこりゃ、辛ぇ!」
「あはは。冬枝さんも引っかかりましたね」
「引っかかったって、何のつもりだ、お前」
慌ててグラスの水を飲み干す冬枝に、さやかは苦笑気味に説明した。
「たぶん鈴子さん、嵐に食べさせるために、ハズレのおにぎりを作ったんだと思います」
「ハズレ?」
「わさびたっぷりおにぎり。僕も何も知らずに食べちゃって、思わず泣いちゃいました」
鈴子からもらったおにぎりには普通のおにぎりも混ざっていたため、さやかは何の疑いもなく、わさびおにぎりを口にしてしまったのだ。
「泣いちゃったって…あっ!」
そこで冬枝は、昼間、さやかが部屋で泣いていたという土井の証言を思い出した。
「お前、昼飯もそれ食ったのか」
「はい。辛くて悶え苦しんでたところに土井さんが部屋に来たものだから、説明する余裕がありませんでした」
さやかは「冬枝さんにも、辛さのおすそ分けです」と言って笑った。
「お前なあ…」
冬枝も泣きたいぐらい鼻の奥が痛かったが、にこにこしているさやかを見ていると、悪い気はしなかった。
――敵わねえな、さやかには。
口直しに、さやかが作った肉じゃがを口に入れる。ちょっと形はいびつだが、そこがさやからしくて、冬枝は満足だった。
後日、雀荘『こまち』に美輪子と加茂が揃って顔を見せた。
ちょうど昼下がりで、冬枝とさやかも一緒に喫茶スペースで席を囲んだ。
「えっ。あの牌、買わなかったのか」
「ええ。流石に半額は無理だ、ごめん、って加茂さんが必死で頭を下げるものだから」
美輪子は、申し訳なさそうにコーヒーカップに目を落とした。
「私も、無茶言って悪かったなー、って反省したわ。自分のお店を持ったっていうのに、ケチなこと言ってたら信用失くすわよね」
「じゃ、象牙の麻雀牌は諦めたのか」
「ううん。代わりに加茂さんが、もっと安い象牙の牌を売ってくれたの」
ね、と美輪子が目線をやると、加茂がうん、と頷いた。
「実はさ、あの勝負の後、さやかちゃんからそうしたほうがいい、ってアドバイスされたものだから」
高額な麻雀牌を泣く泣く手放そうとした加茂に、さやかはあの20万の麻雀牌を美輪子に売ればいいのではないか、と助言したのだという。
「これで親父からも叱られずに済んだし、美輪子ちゃんにもいい牌を売ってあげられたし、一件落着だよ」
加茂が「ありがとう、さやかちゃん」と言うと、さやかは「いえ」と控えめに答えた。
さやかは、自分がわざと負けた後の、加茂のフォローまで考えていたのだ。冬枝はつくづく感服した。
――今回は、すっかりさやかに助けられちまったな。
今度、うまいもんでも食わせてやるかな、と冬枝はさやかの華奢な横顔を見つめた。
「あの麻雀牌が手に入って、主人も本当に喜んでるの。象牙の牌を買うのが、昔から夢だったんですって」
「えっ…美輪子さん、結婚してるんですか」
驚くさやかに、美輪子は「ええ」と鷹揚に頷いた。
「どこかの薄情者と別れそうになってた頃に、勤めてた店のオーナーから口説かれてね。今では自慢の主人です」
「悪かったな、薄情者で」
冬枝がぼやくと、美輪子は「冬さんのことだなんて言ってないじゃない」と笑った。
加茂と美輪子が『こまち』を後にすると、ちょうど昼食時になっていた。
「さやか。何か食いてえものねえか」
好きなもん奢ってやるぞ、と冬枝が言うと、さやかは「じゃあ」とちょっとはにかんで目を伏せた。
「僕、今日は冬枝さんに作って欲しいです」
「え?何だよ、寿司とかじゃなくていいのか」
寿司か焼肉か、と奮発するつもりでいた冬枝は、さやかの意外な返事に拍子抜けした。
「はい。僕、冬枝さんの作ったご飯が食べたいです」
ふふ、と笑うさやかがいじらしい。また抱き締めたい衝動に駆られたが、冬枝はぐっと堪えた。
「よし。じゃあ、さやかの好きな料理作ってやるか。何がいい」
「そうだなぁ…僕、卵焼きが食べたいです」
「そんなもんでいいのか。じゃあ、ついでに魚でも焼くかな」
帰宅して早速、冬枝が卵焼きをこしらえてやると、さやかはぱくっと頬張った。
「んん~っ。おいひいです」
「そうかい」
普段は一緒に昼飯を食べる弟分たちには、金を渡して外で食って来いと命じておいた。弟分たちに飯を作りたくないわけではなく、今日はさやかにだけ作ってやりたかったのだ。
それにしても、卵焼きぐらいで満面の笑顔になっているさやかは、ずいぶんと慎ましい。普段は高根任せにしているが、冬枝だって料理は得意なので、また何か作ってやろうかな、という気になってきた。
さやかは、ふわふわの卵焼きをうっとりと箸でつまんだ。
「いいなあ。冬枝さんと結婚したら、こんなに美味しいものが食べられるんだ」
「はは。こんなもんで良けりゃ、毎日作ってやるよ」
と言ってから、2人揃って赤面した。
――何言ってるんだ!
真っ赤になって頭を抱えるさやかと、自分の妄言を後悔する冬枝。
どうして口を滑らせてしまったのかと、恥ずかしくて互いの顔も見られなかった。