14話 あまのじゃくラプソディ・前編
第14話 あまのじゃくラプソディ・前編
「さやか」
「………」
「さ・や・か」
「うーみゅ…」
「さーやーか」
「ふにゃぁん」
「さやニャーン」
「うるさいでしゅ…」
さやかは、冬枝から逃げるように、もぞもぞとベッドに潜った。
「うるさいはねえだろ…」
一人呟いてから、冬枝は寝ているさやかの耳元で思いっきり息を吸った。
「起きろっ、このネボスケ!」
「んんっ…」
ぐっと眉根を寄せて、さやかの瞼がゆっくりと開かれた。
「うー……まだ眠いです…」
「そうだな、眠そうだな」
「何時でしゅか?」
「朝7時。これでもけっこーギリギリだぞ」
冬枝は組事務所に行かなければならないため、8時には家を出たい。
さやかは顔をしかめた。
「まだ寝てる時間でしゅ…おやすみなさい」
再びシーツに潜り込もうとするさやかを、冬枝は「おーい」と引き止めた。
「今日は俺がフレンチトースト焼いてやるっつったら、わーい、早起きしますー、って喜んでたのは誰だっけ?」
数秒置いて、シーツの塊がうねうねと動き出した。
「食べましゅ…」
「おう。じゃ、さっさと起きろよ」
「はい…」
と何とも頼りない返事をしてから、急にさやかがガバっとシーツを跳ねのけた。
「なっ、なんで冬枝さんが僕の部屋にいるんですかっ!」
「おはよう。やっと目が覚めたか」
冬枝は、さやかの枕元にある目覚まし時計を持ち上げた。
「お前がさっぱり起きねえから、起こしてやったんだろうが」
「だからって、部屋に入ってこなくても…!プライバシーの侵害です!」
「何がプライバシーだ。ここは俺んちだぞ」
不満そうなさやかの髪をぐしゃぐしゃと撫でると「とっとと顔洗って来い」と言って、冬枝はさやかの部屋を後にした。
――ったく、うちの代打ちはいつまで経ってもネンネだな。
冬枝がフライパンでフレンチトーストを焼いていると、顔を洗って着替えてきたさやかが近付いてきた。
「わあ、いい匂い」
「おー。そろそろできるぞ」
「フレンチトーストなんて、久しぶりに食べるなぁ。今日は、どういう風の吹き回しですか?」
「別に。たまにはこういうのもいいだろ」
言葉とは裏腹に、冬枝は、気紛れでフレンチトーストにしたわけではなかった。
榊原の愛人、響子の部屋での麻雀は、あれから数回開かれた。
前回の襲撃を受けて、榊原は側近を何人か連れて来るようになった。人数が増えると、麻雀も盛り上がり、榊原も響子も心から楽しそうにしていた。
身内同士の平和な麻雀ではあったが、冬枝はさやかのことが気にかかっていた。
さやかは、榊原の本妻である淑恵と会っている。榊原と響子の関係については、今でも快く思ってはいないだろう。
「僕は、麻雀牌とだけ向き合っていたい。牌が僕の恋人です」
淑恵と響子の板挟みになったさやかは、恋愛なんて絶対にしない、とまで洩らしていた。
表向きは榊原とも響子とも和やかに接しているが、葛藤がないわけではあるまい。
とはいえ、ヒラに過ぎない冬枝が、若頭である榊原の浮気を諫めることはできないし、響子との麻雀を断れば角が立つ。
冬枝にできることは、フレンチトーストでも焼いて、さやかの機嫌を取ることぐらいだ。
「おいひ~い」
「そうか」
さやかはフレンチトーストをもぐもぐと頬張ると「ゆうべの麻雀、楽しかったですね」と言った。
昨夜も、響子の部屋での麻雀大会だった。さやかのほうから響子の話題を出され、冬枝はちょっとドキリとしたが、顔には出さなかった。
「ああ。お前と榊原さん、接戦だったな」
「榊原さん、ゆうべは引きが良かったですからね。でも、響子さんは榊原さんに遠慮して、オリてくれたんじゃないかな」
流石にさやかは、場をよく見ている。18歳で、ここまで周囲を見ながら打てる人間はなかなかいないだろう。
「ま、響子さんの立場なら普通だろ。お前が遠慮なさすぎるんだ」
「遠慮なんかしたら、榊原さんに失礼じゃないですか。榊原さんは、僕の腕を見込んで呼んでくれてるんですから」
冬枝は、いや…と言いそうになるのをぐっと堪えた。
どうやらさやかは、榊原がわざわざ愛人との麻雀に自分を招くのは、代打ちとしての腕を評価してのことだと思っているらしい。
――お前、俺の愛人だと思われてるんだぞ。
冬枝が自分のお仲間だと考えたから、榊原は冬枝とさやかを響子の自宅に招くのだ。当然、さやかには言えないが。
冬枝は「響子さん、本当に麻雀好きなんだな」と言って、話を逸らした。
「粘り強いっていうか、女にしては珍しい打ち回しをするよな」
「そうですね。できれば、榊原さん抜きでお手合わせしたいです」
さやかがここまで言うぐらいだ。響子の強さは本物なのだろう、と冬枝は思った。
「麻雀も強いし、美人だし、気立ても良いし。あんな女が本当にいるもんなんだな」
「榊原さんが響子さんにぞっこんなのも、無理はねえな」と冬枝が言うと、さやかの目尻がぴくっと持ち上がった。
「ふーん。冬枝さん、響子さんみたいな人がいいんだ」
「まあ、美人だよな。スタイルもいいし」
「いい人ですけど、不倫してますよ」
さやかが冷たく言うと、冬枝は開いていた新聞をパンと閉じた。
「お前な、口を慎め。代打ちがどうこう言うことじゃねえぞ」
「分かってますよ」
さやかは、グビグビとコップの中の牛乳を飲み干した。
「ただ、不倫って、約束を破るってことでしょう。そういう人は、注意したほうがいいと思います」
――青臭えなあ。
ニュースもドラマも不倫だなんだと賑やかな昨今、さやかの意見は教育勅語かのように、お堅く響いた。
もっとも、最近の榊原は危ういという点は、冬枝も同感である。響子は悪い女ではないが、響子に夢中になるあまり、榊原は周囲が見えなくなっているのではないか。
冬枝が難しい顔になったのを気にしたのか、さやかは話題を変えた。
「『アクア・ドラゴン』のことですけど、冬枝さんは本当に、青龍会と戦うつもりなんですか?」
「ああ?」
東京から来た愚連隊『アクア・ドラゴン』と、その背後にいる強大な暴力団、青龍会。その対応を巡って、白虎組は榊原率いる主戦派と、霜田率いる降伏派に分裂していた。
「前にも言いましたけど、『アクア・ドラゴン』は、大量の武器を所持しています。いざとなれば、街中にあるビルの爆破すら辞さないような集団です。そんな相手と戦うなんて、自殺行為だと思いませんか」
さやかは以前『アクア・ドラゴン』の連中に拉致監禁され、危うくビルごと吹っ飛ばされそうになったことがある。さやかが『アクア・ドラゴン』、ひいては青龍会に恐れを抱くのは当然だ。
「お前の言い分はもっともだ。だが、俺にはどうしようもねえ」
「なぜですか。榊原さんを説得すればいいじゃないですか」
「若頭相手にモノ申せるような立場じゃねえよ」
「響子さんのお部屋で、一緒に麻雀打ってるじゃないですか。榊原さんとは、付き合いだって長いんでしょう」
確かに、今の榊原と冬枝は、相当親しいと言える。まして、古参である冬枝の言うことなら、榊原だって無視はしないだろう。
だが、冬枝は眠たげに目を細めた。
「相手がなんだろうが、興味ねえよ。ケンカして、勝てばバンザイ、負ければおしまいだ」
さやかは「なんですか、それ」と目を釣り上げた。
「青龍会とケンカしたら、冬枝さん、死んじゃうかもしれないんですよ。それでもいいって言うんですか」
「死んじまったら、それまでだ。極道なんてそんなもんだ」
所詮、ヤクザははぐれ者たちの吹き溜まりだ。人を踏み躙ることで生きてきた者には、それに相応しい末路しかない。冬枝はそう考えていた。
「…っ」
さやかは一度、何か言いたげに息を吸い込んだが、口をつぐんだ。
やがて、少し考えてから、こう切り出した。
「冬枝さん。もっと、前向きに生きたらどうですか」
「前向き?」
「冬枝さんが青龍会と闘わないって決めてくれたら、は、裸見せてもいいですよ」
「ブフッ!」
いきなり突拍子もないことを言われ、冬枝は思わずコーヒーを噴き出した。
「おまっ、何言ってんだ」
「本気ですよ。それで冬枝さんが考え直してくれるんだったら、僕の裸ぐらい、安いものですから…」
最後は小声になりながら、さやかは恥ずかしそうに目を逸らした。
「………」
一瞬、呆気に取られた冬枝だったが、すぐに我に返った。
――いや、何考えてんだ、俺は!
「近い将来、冬枝は『麻雀小町』の裸を拝めるだろう。良かったな」
朽木のお告げが、冬枝の脳裏に蘇る。得意げな朽木の顔を思い出すにつけ、ちょっと喜びそうになった自分が情けなくなってくる。
冬枝は、気を取り直して、さやかと向き直った。
「さやか。お前、俺が女の裸ぐらいで意見を変えるような男だと思ってんのか」
冬枝が表情を険しくすると、さやかが「えっ」と言葉に詰まった。
「見くびるんじゃねえ。これでも極道25年やってんだぞ」
冬枝の厳しい語調に、さやかはしゅんとなった。
「すみません」
「だいたい、てめえのべってぇ乳なんか見て、誰が有難がるって言うんだ。冗談も大概にしやがれ」
「むっ」
さやかが、不満そうに胸元を隠した。
「悪かったですね、小さくて。どうせ、響子さんみたいに美人でもないし、スタイル良くもないですよ」
「何いじけてんだよ」
「いじけてません。事実です。冬枝さんにとって僕は女じゃなくて、ただの麻雀マシンなんでしょ」
「めちゃくちゃいじけてるじゃねえか」
さやかは、つんとそっぽを向いた。さっきまで、ご機嫌にフレンチトーストをもぐもぐ食べていたというのに、すっかりむくれている。
――なんなんだよ、もう。
青龍会と闘うなと言ったり、裸を見せると言ったり、今朝のさやかは何だか変だ。まだ寝惚けてるんじゃねえか、と冬枝は訝しく思った。
そこに、玄関のドアが開いて高根たちが転がり込んできた。
「兄貴。大変です」
「何だ、お前ら。挨拶ぐらいしろよ」
「おはようございまーす」
と呑気に声を上げた土井を遮り、高根が「それどころじゃないんです」と悲痛な声を上げた。
「『こまち』の前で、加茂さんと美輪子さんがケンカしてるんです」
「美輪子が?」
冬枝が女の名前を口にすると、横を向いていたさやかの眉がピクリと動いた。
開店前のキャバレー『ザナドゥー』に、スーツ姿の男3人が顔を揃えていた。
「若頭を襲撃するなんて、私は聞いてませんよ。どういうことなんですか、霜田さん」
白虎組の顧問弁護士・十河が、若頭補佐・霜田に迫った。
先日の夜、十河は霜田に指示されて、榊原の愛人である響子の自宅に向かった。響子とは元々、朽木を通じて面識がある。
引っ越し祝いだと言ってワインを贈り、雑談した後、帰ったふりをして部屋に残った。そして、霜田に指示された通りのタイミングで、部屋のブレーカーを落とした。
「こんなおかしな依頼、あんたも何も考えずに受けたわけじゃないでしょう。本当は薄々分かってたんじゃないんですか、十河先生」
霜田が黙っていたため、代わりに朽木が口を開いた。
「そりゃ……妙だとは思いましたよ。でも、せいぜい若頭にお灸を据えるんだろう、ぐらいの認識でした」
十河も霜田・朽木と同様、白虎組は青龍会に降伏すべしという意見だ。主戦派の榊原に、霜田が苛立っていることも知っている。
「ですが、補佐が若頭を襲撃なんて、あってはいけないことです。どうするつもりなんですか、霜田さん」
「どうする……とは?」
ようやく発された霜田の声は、恐ろしく低かった。
「落とし前ですよ。こんなことがバレたら、あんた、タダじゃ済みませんよ。下手したら破門でしょう」
「ふっ…」
小さく笑うと、霜田はバッと勢い良く十河を振り返った。
「私が破門というなら、お前も道連れです、十河」
「なんですって?」
「自分は知らなかったなんて言い訳、組長たちの前で通ると思っているのですか。私には朽木をはじめ、若い者がついているが、弁護士のお前を守ってくれる兵隊はいるのですか?」
霜田に鬼気迫る勢いで凄まれ、十河は言葉を失った。
霜田は、鼻から息を抜いた。
「これでお前もグルです。命が惜しければ口をつぐむことですね」
「そんな…」
十河は「ここまでする必要があるんですか」と、弱り切った声を出した。
「昔は、あんなに仲良くやってたじゃないですか。私も、霜田先輩も、榊原先輩も」
途端、霜田が眼鏡の奥の瞳をカッと見開いた。
「黙りなさい。次にその話をしたら、命の保証はしませんよ」
薄暗い店内に、十河が息を呑む音が吸い込まれていった。
「………」
一部始終を見ていた朽木は、無言で肩をすくめた。
冬枝とさやかが雀荘『こまち』に向かうと、ビルの前で男女2人が言い争っていた。
「だから、半額でいいってあの日は言ってたじゃない!今更、全額払えなんておかしいわよ」
「半額でいいなんて、あんなのジョークに決まってるだろ。美輪子ちゃんだってこういう商売なんだから、冗談と本気の区別ぐらいつくでしょ」
女のほうはソバージュのかかった長い髪を垂らした、30代後半と思しき美人だ。対するは、地味な格好をした頼りない感じの中年の男である。
さやかは、男のほうに見覚えがあった。
「加茂さん」
「あれ。さやかちゃんじゃないか」
「おはようございます」
男――加茂は『こまち』の常連客だった。骨董商の二代目で、今は父親の下で修行を積んでいると聞いている。
「今日はどうされたんですか。『こまち』は9時からですよ」
「それがさあ、ちょっと早く来すぎちゃったから、店開くまでタバコでも吸ってようかなーってその辺うろうろしてたら、美輪子ちゃんとばったり会っちゃって…」
その正面では、美輪子が「あら、冬さん」と目を丸くしていた。
「お久しぶり。何年ぶりかしら」
「さあな。それよりお前、朝っぱらからなに騒いでんだ。近所迷惑だぞ」
「騒ぎたくもなるわよ、加茂さんが約束を反故にするっていうんだもの」
「だから、そんな約束してないって」
加茂が横から口を挟み、また美輪子と言い合いになり始めた。
「言ったじゃない!美輪子ちゃんの念願のお店オープンだから、お祝いに半額でいいよって!私、それ聞いてすごく感動したんだから、よく覚えてるわよ」
「お祝いとは言ったけど、社交辞令に決まってるだろ!真に受けるほうがおかしいんだよ」
呆気に取られるさやかの横で、冬枝は「うるせえ!」と2人を一喝した。
「俺の店の前でぎゃーぎゃー騒ぐんじゃねえ。話聞いてやるから、中に入れ」
冬枝は、一応『こまち』のオーナーである。その手には『こまち』の鍵が握られていた。
店内に入ると、冬枝は美輪子、さやかは加茂と、個別に話を聞いてやった。
それぞれが聞いた話を総合すると、以下のようになる。
自分の店を開くことになった美輪子は、店内に飾るインテリア用のアンティークを、知人である加茂の店で買い求めていた。
そこで、美輪子は象牙でできた麻雀牌のセットを気に入ったのだが、高額でとても手が出ない。
すると、加茂のほうから「開店祝いに半額にしてあげよう」と申し出た。美輪子は喜んで、麻雀牌を買う約束をした。
ところが、後になって加茂が「そんなことは言っていない」と前言を撤回した。そのため、このような言い争いになったのだという。
「じゃあ、加茂が悪いんじゃねえか。今更半額にするのが嫌になったなんて、ケチ臭え野郎だな」
冬枝がこう決したので、美輪子が「流石冬さん、話がわかるわね」と喜んだ。
さやかはムッとした。
「その麻雀牌、名のある職人が彫った、とても貴重なものなんでしょう?それを半額にするなんて、現実的じゃありません。加茂さんも話していた通り、社交辞令で言っただけだと思いますよ」
「そうだよね、さやかちゃん」
さやかが加茂の肩を持ったので、今度は冬枝が顔をしかめた。
「いいじゃねえか、麻雀牌ぐらい。別にタダで寄越せって言ってるわけじゃねえんだから」
「冬枝さんが普段使ってる麻雀牌とは、0の数が二つも違うんですよ?それをいちいちまけていたら、加茂さんだって商売になりませんよ」
「何だよ、その言い方。俺が安物使ってるみたいに聞こえるじゃねえか」
「骨董品と市販品を一緒にしないでください、と言ってるだけです」
当事者そっちのけで、冬枝とさやかは険悪な空気になってきた。
「おっはモーニング!」
そこに、謎の挨拶と共にピンクの革ジャン姿の嵐がやって来た。
「何だよ、今日はずいぶん朝早くから店開けてんじゃん。おっ!さやかにダンディ冬枝、お揃いで。もしかして、朝っぱらから麻雀ですか?」
「うるせえ、てめえは引っ込んでろ」
ドアに提げた『準備中』の札など、この男には無意味だったらしい。ややこしいところにややこしい男に乱入されて、冬枝のイライラが募った。
冬枝など意に介さず、嵐は平然と場に割って入った。
「あれっ加茂さん、今日はべっぴんさん連れてんじゃん。バイトのユミちゃんから、大人の美女に乗り換えたわけ?」
「ちょっと嵐ちゃん、ここでその話はやめてよ」
「スミにおけねーなあ、加茂さん」
常連客同士、加茂と嵐は顔見知りらしい。続いて、嵐は美輪子にも挨拶した。
「どーも、『こまち』のエース、ワイルド嵐です。おねーさんは?」
「美輪子よ。冬さんとは昔、色々あった仲です」
冗談っぽく告げられた美輪子の言葉に、さやかの眉がピクリと動いた。
気まずい空気を察した冬枝は、慌てて美輪子と嵐の間に割って入った。
「おい、美輪子」
「色々って、コレっスか?」
冬枝を遮って嵐が小指を立てると、美輪子は「そんなところね」と言って笑った。
「へーっ。じゃあ今日は、ダンディ冬枝が元恋人から借金の催促に遭ってるんだ」
「全っ然違ぇよ。俺じゃなくて、美輪子と加茂が揉めてんだ」
冬枝から一連の話を聞いた嵐は「なるほど」と神妙に頷いた。
「これは、麻雀で決着をつけるしかなさそうっスね」
「なんでそうなるんだよ」
「言った言わないのケンカを、話し合いで解決しようたって無理でしょ。麻雀なら恨みっこなしです」
ああでも、と言って嵐は冬枝に目配せした。
「ダンディ冬枝が、元恋人のために足りないお金を出すって言うんだったら、即ケリがつきますけど」
「俺がぁ?」
冬枝が自分の顔を指さすと、すかさず美輪子がしなだれかかってきた。
「お願い、冬さん。しばらく、うちのお店でタダで飲ませてあげるから」
「あー……」
「ダメです、そんなの」
さやかがバンとテーブルを叩いた。その剣幕に、一同の視線がさやかに向く。
全員の注目を浴びて、さやかは恥ずかしそうに顔を背けた。
「……冬枝さんには、象牙の麻雀牌を買うお金なんてありません。また借金が増えちゃったら、僕だって困ります」
「さやか、お前、失礼なこと抜かすんじゃねえ。俺にだって、そのぐらいの金…」
「冬枝さん」
さやかは居住まいを正すと、正面から冬枝を見据えた。
その目には、どこか不敵な光が宿っている。
「嵐の言う通り、ここは麻雀で決着をつけましょう」
「本気で言ってるのか、さやか」
何やら、訳の分からない成り行きになってきた。冬枝はさっぱりついていけなかったが、さやかは本気だった。
「僕が加茂さんの代打ちになります。美輪子さんの代わりに、冬枝さんが僕と勝負してください」
嵐が「よっ、麻雀小町!」と茶々を入れた。
「僕が勝ったら、麻雀牌を半額にするという話はナシです。冬枝さんが勝った場合は、美輪子さんのご希望通りにする。それでいいですか、お二方」
「さやかちゃんに任せるよ」
「面白いわね。賛成よ」
加茂と美輪子は、あっさりさやかの提案に乗っかった。
「おい、勝手に話を進めるなよ。俺はさやかと勝負なんて…」
「ここで勝負を蹴ったら、ヤクザが昔の女可愛さに、骨董商を脅したって言われますよ。それでもいいんですか、冬枝さん」
歯に衣着せぬさやかの物言いに、流石に冬枝はカチンときた。
「いいだろう、打ってやろうじゃねえか。そこまで言ったからには、負けたら覚悟しとけよ、さやか」
「望むところです」
冬枝とさやかは至近距離で睨み合うと、「ふん」と言って同時に顔を背けた。
勝負は今夜、『こまち』の閉店後に行なわれることになった。さやかと加茂は「作戦会議をする」と言って、さっさと店を出て行った。
嵐が、にやにやと冬枝を小突いた。
「いや~、男ですねえ、ダンディ冬枝。『麻雀小町』と勝負するなんて」
「ああ……」
言ってから、冬枝は後悔していた。組の代打ちすら凌駕するさやか相手に、勝算などない。
だが、あそこまで言われて、退くわけにもいかなかった。
――あいつ、生意気言いやがって。
「冬さんなら、あんな若い娘に負けないわよ。昔から麻雀、強いものね」
さやかが代打ちだということを知らない美輪子は、「頑張りましょ、冬さん」と闘志を燃やした。
打ち回しももちろんだが、麻雀は運がものを言う。自分が勝つ可能性だってゼロではない、と冬枝は思い直した。
「そうだな。美輪子の顔見てたら、勝てそうな気がしてきたぜ」
「その意気よ、冬さん」
「よし。さやかをギャフンと言わせてやるぞ」
笑みを交わす冬枝と美輪子の姿に、高根と土井が顔を見合わせる。
嵐はにやにや笑いを浮かべたまま、そそくさと『こまち』を後にした。
さやかは加茂の骨董品店を訪れていた。
「これが、その麻雀牌ですか」
「ああ。さやかちゃん、象牙の牌、見たことある?」
「いえ。初めてです」
ガラスのカバー越しだったが、普段見る牌とは質感が違う。さやかは思わず「すごい」と感嘆の息を漏らした。
「職人が一つ一つ、手作業で彫ったものなんだよ」
「へえ」
「これだけ精巧な模様を彫れるようになるには、何年もの修行が必要だっただろうね」
加茂の解説を受けると、さやかはなおのこと麻雀牌に風格を感じた。
――やっぱり、これを半額で買おうだなんて、虫が良すぎる。
そもそも、スナックの一角に置くのに相応しい品ではない。美輪子には悪いが、この牌を譲ることはできない、とさやかは思った。
「いやぁ、さやかちゃんは熱心に見てくれて、嬉しいよ。うちの息子なんてバンドに夢中で、骨董には全然興味がなくってさ」
「そう言う加茂さんも、いつも麻雀に熱中してるじゃないですか」
加茂は毎週末、昼下がりになると必ず『こまち』に現れる。さやかとも、すぐに顔なじみになり、今ではよく打つ仲だ。
「そういえば、最近あまり『こまち』に来ませんね、加茂さん」
「ははは…。実はさ、親父がそろそろ、本格的に仕事の手ほどきをしたいって言っててね。麻雀打ってる暇がないんだよ」
「そうなんですか…」
さやかは「美輪子さんは、ここにはよく来るんですか?」と尋ねた。
「よくっていうか、美輪子ちゃんとは同級生でね。お互いの店にちょくちょく出入りしてる感じ」
「お二人、同級生なんですか」
さやかはちょっと驚いた。うだつの上がらない中年、といった風情の加茂に対して、華やかでちゃきちゃきした美輪子は「おばさん」という形容からは程遠い。
「はは、美輪子ちゃんはあの通り美人だから、若く見えるよなあ。スタイルも全然崩れてないし」
「………」
胸の開いたワンピースが様になっていた美輪子を思い出し、さやかは自分の平たい胸元を見下ろした。ローファーの爪先まで一望できる。
虚しくなったところで、ビニール袋に包まれた古い麻雀牌のセットが目に入った。
「加茂さん、これは?」
「ああ、それも象牙の麻雀牌だよ。って言っても、値段はせいぜい20万ぐらいだけどね」
「ずいぶんお安いんですね」
同じ象牙の牌なのに、美輪子との揉め事の原因になった牌とは値段が全然違う。
「そっちの牌は比較的新しいし、名のある職人が作ったものでもないんだ。だからお手頃価格」
加茂は「そうだ」と言って、その安い麻雀牌セットを持ち上げた。
「今回の勝負、さやかちゃんが勝ったら、これ、あげるよ」
「えっ…。いいんですか?」
「さやかちゃんみたいに、純粋に麻雀が好きな人に持っててもらったほうが、牌も喜ぶと思うんだ」
さやかは「ありがとうございます。頑張ります」と言って、加茂の店を辞した。
「おーい。さやか」
「…嵐さん」
加茂の店を出ると、まるで見計らったかのように、嵐がスキップで駆け寄ってきた。
「加茂さんとの作戦会議、どうだった?」
「上首尾です」
さやかは「つけてたんですか、嵐さん」と単刀直入に聞いた。
「つけてたなんて、人聞きの悪い。ちゃんと作戦会議が終わるまで、待っててやっただろ」
「嵐さん。僕と冬枝さんを勝負させるなんて、何が狙いですか」
「おいおい」
嵐は、大げさに両手を広げた。
「冬枝さんにケンカ売ったのはお前だろ?俺はただ、『こまち』は雀荘なんだから、麻雀で解決しよう!って提案しただけで」
「どうだか。僕はうまいこと、嵐さんに担がれた気がします」
「わっしょい!わっしょい!」
と言って嵐がひょいっとさやかの身体を持ち上げたので、さやかは「うわぁっ!」と悲鳴を上げた。
「ちょっと、下ろしてください!」
「どっこいしょ!どっこいしょ!コメ祭りじゃあ!」
「はあ?」
「さやか、メシ食いに来ねえか?鈴子がいっぱいおにぎり握って待ってるぞ」
「おにぎり?」
全然、話の内容が見えてこない。さやかは「そんなことより、下ろしてください!」と訴えたが、結局、春野家まで担がれてきてしまった。
「あー、やだっ。見せ物にされたっ」
日曜日の街中は、人でごった返していた。学生から家族連れまで、目を点にして嵐に担がれたさやかを見ていた。
「カップルだと思われたかな。今頃、ダンディ冬枝がジェラシー燃やしてるかも」
「それはないですよ。今の冬枝さんは、美輪子さんに鼻の下を伸ばしてますから」
さやかがぶすっとして言うと、嵐はカラカラと笑い飛ばした。
「そんな顔すんなよ。さやかにはこれ、腹いっぱい食わせてやるからさ」
と言う嵐に引っ張られた先には、大量のコメ袋が並んでいた。
「なんですか、これ。農家さんからかっぱらってきたんですか?」
「これでも元刑事だぞ?失礼しちゃうな」
嵐が街をパトロールしていたところ、『アクア・ドラゴン』の連中に絡まれているおじさんがいたため、助けてやった。そのお礼にもらったのだという。
「おじさん、農協の偉い人らしくてさ。なんとこれ、さきたこまち1年分」
「さきたこまち?」
「去年発売したばっかりの新種だよ。うめえぞ」
ずらりと並ぶ『さきたこまち』の袋を見ながら、さやかは複雑な気分になった。
――まさか、僕の『麻雀小町』って渾名、これから名付けられたわけじゃないよな。
「さやちゃん」
ギシギシ軋む廊下を進むと、嵐の妻――鈴子が笑顔で出迎えてくれた。
「鈴子さん。こんにちは」
「あーん、さやちゃんの顔が見られて嬉しいわ。ほら、こっちいらっしゃい」
「はい…」
さやかがおずおずと鈴子に近付くと、一気に抱き寄せられた。相変わらず、鈴子の腕の中はうっとりするほど気持ちがいい。
さやかが柔らかな胸に顔を埋めていると、嵐が横から口を出した。
「俺のおっぱいだからな!さやかは特別だぞ!」
「うるさいわよ、嵐。台所からおにぎり持ってきて」
「へーい」
さやかが鈴子に優しく髪を撫でられているうちに、テーブルの上におにぎりがいくつも並んだ。
「こっちはシャケ、こっちは梅、こっちはたらこ、こっちはおかか、こっちはわかめ、こっちは昆布で、こっちは…何だったかしら」
鈴子は「好きなの食べていいわよ」と言ってくれた。
ついさっきフレンチトーストを食べたばかりだったが、冬枝と口論になったせいか、小腹がすいていた。さやかは、目の前のおにぎりが無性に美味しそうに見えた。
「いただきます」
鈴子がニコニコと見守る中、さやかは一つ、また一つと、次々におにぎりを平らげていった。
「美味しいです、鈴子さん」
「ふふっ。このバカに全部食わせるのはもったいないなーって思ってたところだったから、さやちゃんが来てくれて良かったわ」
「ひどい!俺のために丹精込めて握ってくれたんじゃねえのかよっ!?」
嵐が大げさに悲しむふりをすると、鈴子がひらひらと手を振った。
「ご近所さんにおすそ分けする分に決まってるでしょ。嵐、あとでこれ分けておくから、配ってきてね」
「へいへい」
さやかがもぐもぐとおにぎりを頬張っていると、鈴子が頬杖をついた。
「いいわねー、さやちゃんは食べさせ甲斐があって」
「はあ」
「鳴子なんて小食で、ちっとも食べないのよ。お菓子はいっぱい食べるくせに」
鳴子は、ヤクザと駆け落ちしたという鈴子の妹だ。
音信不通になった妹の帰りを待つために、鈴子は外に出たがらないという。さっきも、おにぎりを嵐に配るように頼んでいたことに、さやかは気付いた。
――本当は、僕よりも鳴子さんに食べて欲しいんだろうな。
さやかは、鳴子に関する話を聞いてあげようと思った。
「鳴子さんと駆け落ちした…ヤクザって、どんな人だったんですか?」
嵐が何か言おうとしたが、その前に鈴子が口を開いた。
「貴彦さん?それがね、私も嵐も会ったことがないのよ」
「えっ…」
「鳴子のノロケ話は死ぬほど聞いたんだけど、本人に会う前に、駆け落ちされちゃったの。冬枝さんと同じで、白虎組の人らしいんだけど」
「へえ」
それなら、冬枝の知り合いかもしれない。今度、冬枝に聞いてみよう、とさやかは思った。
「でもね、似顔絵ならあるわよ」
「似顔絵ですか」
「うん。見てみる?」
鈴子は棚をごそごそと探ると、ルーズリーフを1枚差し出した。
「これは……」
そこには、王子様が描かれていた。
風になびくたてがみのような黒髪、星がいくつも瞬く瞳。高く整った鼻梁に、すっと伸びた手足。ざっと、9頭身はあるだろうか。周囲には、バラの花まで咲き乱れている。
それは美しい、少女漫画風のイラストだった。
「実在するんですか、この人」
「あはは、さやちゃんもそう思う?笑っちゃうわよね、これ」
鈴子は「私も貴彦さんに会ったことないけど、相当美化してると思うわ」と言った。
イラストの横には、『貴彦さん❤めいこ』と、丸文字で相合傘が添えてあった。
ヤクザどころか生身の男性にも見えないが、鳴子が相当『貴彦さん』に熱を上げていることだけは、絵から伝わってきた。
「鳴子さん、絵、お上手ですね」
「ちょっと画風が古いけどね。10年前の少女漫画って感じ」
「鳴子、歴代の彼氏で似顔絵描いてるからな」
嵐がぼそっと付け加えた。
鈴子が再び棚から取り出した紙束には、確かに同じような少女漫画風の王子様が、何枚も描かれていた。
「我が妹ながら、呆れちゃうわ。こんだけ王子様をとっかえひっかえしておきながら、毎回泣いたり笑ったり、大騒ぎするのよ?もー、見ているこっちが疲れるのなんのって」
口ぶりとは裏腹に、数々のイラストを丁寧に保存している鈴子からは、鳴子への愛情を感じた。
「ヤクザに王子様なんかいねえよ」
嵐は、不機嫌そうに呟いた。
さやかはふと、嵐が『アクア・ドラゴン』を撃退した、というさっきの話を思い出した。
「嵐さん」
「ん?」
「『アクア・ドラゴン』のことなんですけど…」
さやかは、ざっくりと『アクア・ドラゴン』と青龍会を巡る白虎組の分裂について説明した。
「冬枝さんは、青龍会と戦ってもいいって言うんです。それどころか、死んじゃっても別にいい、みたいなこと言ってて…」
冬枝の投げやりな言葉を思い出すと、口の中のおにぎりが一気にしょっぱくなってくる。
悲しいような、悔しいような、胸のつかえをさやかはお茶で無理矢理飲み下した。
「うーむ」
嵐は腕組みをして考えていたが、おにぎりを一口ぱくっとかじった。
「おムコさんになってほしいから、ヤクザなんてやめてーッ!って、肌をちらっと見せればイチコロなんじゃねえか?」
「笑い話じゃありません」
裸見せてでも説得しろ、と言った朽木といい、さやかが女だからって、まともな返事をする気がないのだろうか。
嵐はずずーっと音を立ててお茶を啜った。
「ヤクザ同士の争いなんて、さやかの手に負える問題じゃねえよ。諦めろ」
「でも…僕は、冬枝さんだけでも助けたいんです」
さやかがそう言うと、嵐の目がちょっと暗くなった。
「さやかの説得ぐらいで、考えを変えるような人じゃねえだろ。ダンディ冬枝は」
「それは…」
そう言われてしまえば、さやかには成す術がない。
――ほかに方法はないんだろうか。
考え込むさやかの肩を、嵐がポンポンと叩いた。
「まっ、今は目の前の勝負に集中するこった。昔の女にメロメロになっちゃったダンディ冬枝を、振り向かせてやるんだろ?」
「…違います!」
さやかが拳を握ると、鈴子が「あら、さやちゃん、勝負があるの?」と聞いた。
「だったら、これ持って行くといいわ。腹が減っては戦は出来ぬ、って言うでしょ?」
鈴子はおにぎりをいくつかラップに包むと、タッパに入れて持たせてくれた。
「ありがとうございます、鈴子さん。僕、絶対勝ちますから」
「いいのよ、勝ち負けなんて。満足いく勝負になるといいわね」
そう言うと、鈴子はもう一度、さやかを抱き締めてくれた。柔らかな胸の感触は、嫌なことを忘れさせてくれる。
「俺のおっぱいだからな!」
「あんたのおっぱいじゃないわよ」
鈴子の冷たいツッコミに、嵐が「25年前から俺の乳ですーっ!」と声を張った。
冬枝たちとの勝負まで、まだ時間があった。
いつもなら『こまち』で打つのだが、美輪子と鉢合わせしては気まずい。買い物でもするかな、とさやかは駅前のデパートに足を向けた。
休日の昼下がり。周りは浮き足立った買い物客ばかりで、さやかはすっかり油断していた。
いきなりぐいっと腕を引かれて、気付いた時には怪しげな男3人組に囲まれていた。
「まさか、こんなところで女を見つけられるとはな」
「街を回ってた甲斐があったぜ」
若者3人は、服装や喋り方が、彩北の人間とは明らかに違う。『アクア・ドラゴン』だ、とさやかは直感した。
男に羽交い絞めにされ、さやかは身の危険を感じた。
「放してください!」
「まあ、そう言わずにさあ。ちょっと俺らと一緒に来てくれねえかな」
駅のすぐ近く、公衆の面前だというのに、男たちはまるで人目を気にする素振りがない。白虎組も警察も、『アクア・ドラゴン』――ひいては青龍会の敵ではないと思っているのかもしれない。
男3人に迫られ、視界を塞がれる。このままではまずい、とさやかが全身を強張らせた時だった。
凄まじいブレーキ音と共に、漆黒のジャガーが歩道に乗り上げた。
「うわあああ!」
ジャガーはまるで前が見えないかのように、暴れ馬の如き勢いで迫ってくる。男たちは、慌てて逃げ出した。
「うわっ」
邪魔になったのだろう、さやかは一人、歩道に投げ出された。
ジャガーのボンネットが、さやかの鼻先まで迫る。
――ぶつかる!
さやかを轢く一歩手前で、ジャガーはキッと短く止まった。
男3人が蒼白になり、買い物客たちがざわつく。
注目を一身に集めながら、ジャガーのパワーウィンドウが、ウィーンと音を立てて下りた。
「てめえら、誰のシマだと思ってやがる。ここは、この俺様の街だぞ」
「…朽木さん!」
驚くさやかをよそに、朽木は男3人を威嚇するように、クラクションを2度鳴らした。
挑発されて火がついたのか、怖気づいていた『アクア・ドラゴン』3人は、何とか体勢を立て直した。
「ちっ、うるせえな」
「田舎ヤクザのくせに、イキがりやがって」
すると、朽木の顔色が変わった。
「田舎ヤクザだと……?」
バンと勢い良く扉を開けると、朽木はひらりと歩道に飛び乗った。
「てめえら、もう一度言ってみろ。誰が田舎ヤクザだ、あぁ!?」
その手に拳銃が握られているのを見て、さやかも男3人もギョッとした。
――まさか、街中で撃つつもり!?
誰もが身構える中、朽木は意外な行動に出た。
「痛い目に遭わねえと分からねえか、このクソガキーっ!」
そう叫ぶと、朽木は拳銃を振り上げ、銃床で男たちをどつき回したのだ。
朽木の凄まじい気迫の前に、男3人はまるで子供扱いだった。場数が違うのか、立ち回りも朽木のほうが慣れている。
朽木の投げ飛ばした男が電話ボックスに激突したところで、パトカーのサイレンが聴こえてきた。
「ちっ。サツか」
吐き捨てると、朽木は呆然とへたり込んでいるさやかを、引っ張って立たせた。
「えっ?」
「行くぞ。乗れ」
言うが早いが、さやかは朽木のジャガーの助手席に座らされてしまった。
アクセルが力強く踏み込まれ、見物人たちを振り払うかのように、ジャガーは荒々しく発進した。
ジャガーは、明らかに制限速度を無視している。ビュンビュンと流れていく車窓の景色に呆気に取られつつ、さやかは運転席の朽木を見やった。
「あの、助けてくれた…んですか?」
「当たり前だろ。てめえが『アクア・ドラゴン』にさらわれちゃ、俺が困るんだよ」
朽木は「てめえにゃ、冬枝をオトしてもらわなきゃならねえからな」と言って笑った。
「冬枝の野郎、ボディガードもつけてねえのかよ。不用心だな」
そこで朽木が「ああ、貧乏ヤクザにはボディガードをつけるような余裕はねえか」とせせら笑ったので、さやかは「朽木さんっ」と言って遮った。
「助けていただいたのは、感謝しています。けど、もう降ろしてください」
「ま、そう言うなよ。ここで会ったのも何かの縁だ、うちに招待してやる」
「えっ…」
朽木はさやかを上から下まで眺め回すと、にやりと笑った。
「相変わらず、貧相なナリしてんなぁ。ちょうどいいから、服でもプレゼントしてやるよ」
――これはこれで、まずいことになった。
『アクア・ドラゴン』に襲われたと思ったら、今度は朽木の家に連れ込まれてしまうなんて。さやかは、己の不運を呪った。