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13話 ミッドナイト・スクランブル

第13話 ミッドナイト・スクランブル


 料亭『金なべ』の一室に、スーツ姿の男たちが集まった。

 緑のスーツに身を包んだ男――白虎組若頭・榊原。

 その向かいに、白虎組若頭補佐・霜田が座している。

 2人はそれぞれ、部下である冬枝と朽木を連れていた。

 東京から愚連隊『アクア・ドラゴン』を派遣し、彩北への進出を図る青龍会――それに対して、白虎組はどうするのか、話し合うのが今夜の対談の目的だ。

「青龍会は、朱雀組との抗争で疲弊しています。恩を着せるなら今です」

 霜田は、青龍会に資金提供し、好条件で傘下に入れてもらうことを提案した。

 榊原は首を横に振った。

「そんな真似をすれば、朱雀組を敵に回すことになる。秋津一家は目と鼻の先にいるんだぞ」

 朱雀組傘下・秋津一家は、白虎組の北方の街・大羽を拠点とする組だ。青龍会によって暗殺された朱雀組組長・秋津イサオは、この秋津一家の出身でもある。

「朱雀組を敵に回すことより、青龍会と戦うほうが恐ろしい。子供でも分かる理屈でしょう」

「地元の組との協調は、親分の望みでもある。俺たちはむしろ、朱雀組と協力して青龍会を締め出すべきだ」

 霜田はフン、と鼻先で笑った。

「田舎の組同士で付き合ってばかりいるから、いつまで経っても時代遅れのヤクザのままなんですよ。白虎組のためにも、東京へ目を向けるべきではありませんか?」

「必要がねえ。俺たちは彩北で稼いで、彩北で生きる。それ以上を求めれば、金の亡者になるだけだ」

 榊原と霜田の話は、どこまでも平行線だった。

 榊原の背後で正座しながら、冬枝は焦れていた。

 ――さやかの奴、勝手に帰ったりしてねえだろうな。

 さやかは、車で待たせている。流石に、若頭と補佐の対談に、ただの代打ちに過ぎないさやかを同席させることはできないからだ。

 この対談の後、さやかは榊原が囲う愛人のマンションで打つ予定になっている。榊原の本妻である淑恵と会ったばかりのさやかは、今夜の仕事に抵抗を示していた。

 霜田の甲高い声が、冬枝の思考を断ち切った。

「能書きはよろしい。そうやって抗戦を唱えていれば、狙われるのは貴方の首ですよ、若頭」

「脅しのつもりか。霜田」

 テーブルを挟んで、榊原と霜田が睨み合う。

 しばしの沈黙を過ごし、霜田は盃をぐいっと呷った。

「決めるのは組長です。我々がここで言い争ったところで、何の意味もない」

「だが、組で意見が割れたままじゃ、青龍会には太刀打ちできねえ」

 霜田は「ええ。その通りです」と告げた。眼鏡の奥の瞳は、どこまでも冷ややかだった。

 結局、今夜の対談は物別れに終わった。幹部2人を先に出した後、冬枝の背中を朽木が叩いた。

「予想通りだったな。若頭も霜田さんも、考えを変える気なんてさらさらねえ」

「そりゃそうだろ。どっちも正しいからな」

 青龍会に降伏すれば、田舎者である白虎組は青龍会の兵隊としてこき使われ、搾取される。だが、青龍会に抵抗すれば、圧倒的武力によって征服される。いずれにせよ、白虎組を待つのは地獄だ。

 ――極道なんて、そんなもんだろうよ。

 冬枝は、青龍会に抗おうが従おうが、どちらでも良かった。目の前に敵がいればぶん殴る、それだけだった。

 朽木が、にやにやとアルマーニの肩を近付けた。

「なあ、冬枝。俺様が、独身ヤクザの冬枝に、ありがたぁいお告げをしてやろうか」

「ああ?」

 朽木は「ズバリ言うぜ」と、冬枝の鼻先に人差し指を突きつけた。

「近い将来、冬枝は『麻雀小町』の裸を拝めるだろう。良かったな」

 ハハハ、と笑う朽木に、冬枝は呆気に取られた。

「何言ってんだ、てめえは。頭おかしいんじゃねえのか」

「花も咲かねえ四十男にゃ、涙が出るようなお告げだろ。もっと喜べや」

 朽木は「『麻雀小町』の玉の肌を拝めば、てめえのそのかっこつけた考えも変わるぜ」と言って、すたすたと車へと向かっていった。

 冬枝は、呆然とその背を見送った。

 ――なにがお告げだ、あの野郎。

 朽木の言っていることは、まるで意味不明だった。デリヘルなんかで稼いでいるせいで、脳みそがピンク色に染まっているのではなかろうか。

 朽木の妄言を信じるつもりもないが、少なくとも今夜のさやかは、裸など見せてくれそうにない。さやかの不機嫌そうな顔を思い出して、冬枝は肩を落とした。



 ――男って、みんな汚いんだな。

 さやかは、車の中で仏頂面を隠そうともしなかった。

 冬枝が、苦々しそうにタバコに火をつける。

「さやか。榊原さんと響子さんの前では、もうちょっと愛想よくしろよ」

「ちっ」

「舌打ちも禁止!ったく、俺のしつけが悪いと思われるだろ」

「僕、冬枝さんのペットじゃありませんから」

 さやかはつんとそっぽを向いた。冬枝は鼻白む。

 ――野良猫みたいに人のつまみを毎晩かっぱらっておいて、何言ってやがる。

 とはいえ、冬枝もさやかの気持ちが分からないではなかった。

 ――まさか、榊原さんに女がいたとは。

 愛妻家の榊原が初めて抱えた愛人は、響子という20代の女だった。既にマンションに一部屋を与えて、妻の目を盗んで入り浸っているという。

 榊原も響子も麻雀が好きで、最近、榊原は響子に自動卓を買ってやった。今夜は、そこで一緒に打って欲しい、というのが榊原の頼みだった。

 よりによってのタイミングで、さやかは榊原の妻である淑恵と会ったばかりだった。淑恵から美味しいアップルパイをご馳走になったさやかは、淑恵を裏切った榊原とその愛人に対して冷ややかだった。

 助手席に座す土井が、溜息を吐いた。

「あんな美人な奥さんがいても、浮気ってしちゃうんですねえ」

「こら、土井。滅多なこと言うんじゃねえ」

 とたしなめたのは、相方の高根ではなく冬枝である。さすがに、若頭のプライベートに踏み込んだことを軽はずみに口にするわけにはいかない。

「さやか。お前も、淑恵さんに告げ口なんかするんじゃねえぞ」

「言いませんよ。わざわざ淑恵さんを悲しませたくありませんから」

 さやかが告げ口するまでもなく、淑恵は夫の不義に気付いているだろう。お茶会で愛人だと騒がれていたさやかを疑ってしまったことや、自動卓の話などは、淑恵が榊原の裏切りを知り、心を痛めている証拠だった。

 ――榊原さんの愛人と一緒に打つなんて、浮気に協力するみたいで、嫌だな。

 さやかは今夜の仕事を突っぱねることも考えたが、それでは冬枝のメンツが立たない。

 何より、淑恵から「今日会ったことは榊原には言わないで欲しい」と口止めされている。淑恵はあくまで、夫の浮気に関しては知らぬふりを通すつもりなのだ。

 これからも主人をよろしくお願いします、と言った時の、淑恵の寂しそうな瞳が忘れられない。

 ――榊原さんが戻ってくるって、信じてるんだろうな。

 さやかが今夜の仕事を拒めば、淑恵と会ったことを榊原に勘付かれかねない。淑恵のために、淑恵を傷付けた連中と麻雀を打たなければならないのだ。さやかは気が重かった。

「ねえ、冬枝さん」

「ん?」

「僕、冬枝さんのこと好きですよ」

「あぁ…ああ?!」

 さやかがさらっと告白したので、冬枝はくわえたタバコを落としかけた。

 さやかは、気怠そうに窓の外を眺めた。

「でも、今夜の仕事が終わったら、冬枝さんのことが嫌いになるかもしれないです」

 冬枝は、さやかの小さな肩の上に、葛藤が紫色のモヤになって乗っかっているのが見える気がした。

 そのモヤを取り除いてやろうにも、解となる言葉を冬枝は持っていなかった。

「……俺と榊原さんは違ぇよ」

 冬枝はようやくそれだけ言ったが、我ながら言い訳じみていた。



 榊原の愛人――響子の部屋は、夜景がよく見える4階の角部屋だった。

「こんばんは、冬枝さん、夏目さん。ゆっくりしていってください」

 長い黒髪を揺らして、響子は丁寧に頭を下げた。

 切れ長の瞳がいかにも聡明そうで、20代という年齢よりも落ち着いて見える。ホステスだと聞いているが、響子には水商売らしい俗っぽさはなかった。

 ――というより、若い頃の淑恵さんにそっくりだ。

 榊原と響子が並ぶと、冬枝は昔の榊原夫妻を見ているような気分になった。

 榊原の好みが一貫しているのか、愛妻家が高じて、妻と瓜二つの愛人を囲ってしまったのか。何にせよ、冬枝は榊原が響子を愛人にした理由が何となく分かった気がした。

 同時に、榊原が冬枝たちをここに招いた理由も察した。

 ――仲間意識を持たれた、ってわけか…。

 榊原は、冬枝もさやかという愛人を持っている、と思ったからこそ、気を許して愛人宅に招いたのだ。独身の冬枝と妻帯者の榊原とでは事情が違うが、組の代打ちを愛人にしている、というのは確かに後ろ暗いかもしれない。

 響子がにこにこと微笑んだ。

「お客さんなんて、久しぶりです。朽木さんがいらして以来じゃないかしら」

「朽木さん、ここに来たことがあるんですか」

 と言ったのはさやかである。榊原と朽木、という組み合わせがイメージできない。

 それを察したのか、榊原が口を開いた。

「朽木のかみさんが、響子と同じ店にいたんだ」

「…朽木さん、奥さんいるんですか?!」

 さやかは驚きのあまり、声を上げてしまった。

 高級スーツを悪趣味に着こなし、「俺の女になれば、月100万やるぜ」などと臆面もなくのたまい、さやかを殴ったあの朽木に、奥さんがいたなんて。

「へー…。あいつに奥さんが」

 冬枝も初耳だったため、ちょっと驚いていた。

「籍はまだ入れてないそうですけど。とっても仲が良くって、朽木さんはいつも奥さんの話ばかりしてるんですよ」

 響子の口ぶりだと、朽木はただのいい人みたいだ。さやかは、別人の話でも聞いているかのような気分だった。

「お酒にします?ああ、夏目さんは紅茶のほうがいいかしら」

 そう言って、響子はさやかにレモンティーを入れてくれた。あらかじめ温められたカップに、瑞々しいレモンの輪切りが乗っている。

 レモンティーをひと口飲んで、さやかは小さく溜息を吐いた。

 ――悪い人には見えないな。

 実際、その後も響子は、冬枝とさやかに対して礼儀正しかった。麻雀が好きというのは本当らしく、牌の切り方もなかなかのものだ。

「すごい。私、お店のお客さんと打つこともあるんですけど、夏目さんみたいな打ち回しをする人は初めて見ました。きっと、私とは比べ物にならないぐらい、たくさん打ってきたんでしょうね」

「ありがとうございます。まだまだです」

 響子の言葉からは、お世辞でなく本当に感激しているのが伝わってくる。榊原の愛人というだけで、さやかは目の前の女性を敵視したくはなかった。

「嬢ちゃんが来てくれて、響子はとても喜んでるよ。なかなか若い女の麻雀仲間がいないって、前から言ってたからな」

 榊原が、響子に優しげな瞳を向けた。それを見ると複雑な気分になったが、さやかは響子だけを見て言った。

「響子さん、お強いですね。僕も、年の近い女の人と打てる機会が滅多にないので、今日は楽しいです」

「夏目さん、勝負はまだこれからですよ。お互い、頑張りましょうね」

「おい、俺たちは無視か?」

 榊原が言うと、響子はコロコロと笑った。

「若頭は、今日は若い女子2人と一緒に打てるんですもの。勝っても負けてもお幸せでしょう?」

「ははは、言う奴だな」

 榊原と響子が、無邪気に笑い合う。何も知らなければ、感じのいい恋人同士にしか見えなかっただろう。

 東場が終わると、一旦休憩となった。

 響子が思いのほか場に馴染んだのが榊原も嬉しいらしく、麻雀よりも雑談のほうが盛り上がっていた。

 榊原のタバコに火をつける響子を見て、さやかはふと尋ねた。

「響子さんは、タバコは吸わないんですか?」

「そうですね。お店ではお付き合い程度に吸いますけど、実はあまり好きじゃないんです、タバコの匂い。若頭にも、本当は禁煙してくださいってお願いしたいぐらい」

「禁煙か。お前はどうだ、冬枝」

 榊原に話を振られ、「俺は無理ですね」と冬枝はタバコの煙を吐いた。

「俺も、こればっかりは無理だな。それ以外の頼みなら、なんだって聞いてやるんだが」

 榊原が「これも買ってやったしな」と言って自動卓を撫でると、響子が榊原を小突いた。

「もう。自動卓が欲しいって言い出したのは、若頭のほうじゃありませんか」

「4階まで運ばせるの、結構骨が折れたんだぞ」

 すっかり2人でじゃれ合う榊原と響子をよそに、さやかがそっと卓を離れた。

 お茶のおかわりをもらう風を装っていたが、さやかの表情は暗い。冬枝は、さやかを追って台所に出た。

「さやか。何、くたびれた顔してんだ」

「……」

 さやかはティーカップを置くと、その場にしゃがみ込んだ。

「僕、恋愛なんか絶対にしません」

「ああ?」

「なんていうか……男も女も、面倒臭いです。最適解が見つからない」

 さやかは冬枝に背を向けたまま、嘆息した。

「僕は、麻雀牌とだけ向き合っていたい。牌が僕の恋人です」

 そこに見えない牌があるかのように、さやかは指先をくるくると回した。

 淑恵と会っただけに、榊原と響子の関係を見て、さやかは色々考えてしまったらしい。丸まった背中の小ささが、冬枝はいじらしく見えた。

 ――お前が気に病むようなことじゃねえのに。

 淑恵と榊原と、響子。誰のことも憎みたくないから、さやかは苦しんでいる。

 冬枝にしてみれば、愛人を抱えていないヤクザのほうが珍しい。愛妻家の榊原に関してはちょっと意外だったが、そんなもんだろうとしか冬枝は思っていなかった。

 ――牌が恋人ってのは、さやからしいけどよ。

 冬枝はさやかに近付くと、後ろから腕を伸ばした。

 両手でそっと、さやかの目を塞ぐ。

「…冬枝さん?」

「見たくなけりゃ、見なきゃいい」

 冬枝の手のひらがさやかの瞼を包んで、ほんのりと温かい。

「大事なもんだけ見てろ、さやか。余計なことに気を取られて、勝負に負けねえように」

 さやかの睫毛が冬枝の手にぱちぱちと当たって、少しこそばゆかった。

 やがて、さやかから、フフッという笑い声が洩れた。

「…そうですね。僕としたことが、目の前の相手をおろそかにしていました」

 さやかは「卓に着いたら誰だろうと、ただの打ち手ですもんね」と言った。

「見ててください、冬枝さん。『麻雀小町』は若頭相手だろうと手加減しないって、あの2人に思い知らせてやりますよ」

「それは調子に乗り過ぎだ」

 冬枝がさやかの額を指ではじくと、さやかが「いたっ!」と言って床にコロンと転がった。

 さやかの上から、ようやく紫色のモヤが消えた気がする。不満そうに額を押さえるさやかの頭を、冬枝はわしゃわしゃと撫でてやった。



 その直後だった。

 突然、室内の全ての明かりが消えた。

「!?」

「停電……?」

 続いて、玄関の扉が開き、何人かが荒々しく入ってくる足音が響く。

 冬枝は瞬時に動いた。

 ――敵襲!

 愛人の元に出入りするタイミングは、油断していることもあって敵から狙われやすい。今夜は身内だけの集まりということもあって、榊原は若い衆も連れていなかった。格好のターゲットと言っていい。

 冬枝は、暗闇の中でしゃがみ込んでいるさやかの襟首をつかむと、脱衣所に放り投げた。

「うわっ」

「さやか、風呂場で隠れてろ。俺がいいって言うまで出てくるな」

 言うが早いが、冬枝は暗闇の向こうへと消えていった。

「………」

 さやかは、そこが脱衣所ということすら分からなかった。バスルームの扉が、月明かりでぼんやりと白く浮かび上がっているのを見て、ようやく気付いた。

 ――冬枝さん、ずいぶん夜目が利くんだな。

 辺り一面、墨で塗りこめられたような暗闇だというのに、冬枝の動きには迷いがなかった。

 外からは、物々しい気配が伝わってくる。足音から察するに、侵入者は少なくとも2人以上はいた。

 ――冬枝さん、大丈夫かな。

 榊原を狙っているとすれば、侵入者は『アクア・ドラゴン』かもしれない。白虎組の若頭である榊原を仕留めれば、青龍会の進出はよりスムーズになる。

 ――まさか、榊原さんが主戦派だから狙われたんじゃ……。

 榊原と冬枝は、青龍会への降伏をよしとせず、白虎組の独立を守るために戦うことを主張しているという。主戦派の榊原がいなくなれば、白虎組は青龍会に白旗を上げるだろう。

 ――こんなことなら、淑恵さんや響子さんを巻き込んででも、榊原さんを説得すればよかった。

『アクア・ドラゴン』の動きは、さやかの予想よりも速い。それだけ、青龍会が本気だということだ。このままだと、冬枝が危ない。

 様々な感情がさやかの頭を駆け巡ったが、さやかは一旦、思考を断ち切った。

 ――落ち着け、さやか。

 後悔している場合じゃない。今の最適解は、目の前で起こっている危機に対処することだ。

 侵入者と対峙しているであろう冬枝のことは心配だが、さやかが行ったところで足手まといになるだけだ。さやかは冬枝に言われた通り、安全であろうバスルームに避難することにした。

 暗闇にも、徐々に目が慣れてきた。手探りでガラスの扉を開けると、窓があるためか、バスルームの中はほのかに明るかった。

 冷たいタイルに、おそるおそる足をつける。扉を閉めて、ふうと一息吐いた。

 ――これで一安心。

 直後、背後で人が動く気配がして、さやかの背筋が凍った。

 ――誰だ!?

 照明のついていないバスルームには、誰もいないと思い込んでいた。さやかがぱっと振り返るのと同時に、冷たいシャワーを正面から浴びせられた。

「わっぷ」

 あっという間にびしょ濡れにされ、さやかは扉に背をつけた。

 思わぬ事態に、バスルームから出ようとしかけたが、シャワー攻撃はすぐにやんだ。

 代わりに、シャワーホースを構えた相手から、うかがうような声がかけられる。

「あのう…もしかして、代打ちの夏目さやかさんですか?」

「えっ?」

 空の浴槽に隠れていたであろう相手が、浴槽から「よっ」と出てきた。

「私、白虎組の顧問弁護士をしています。十河と申します」

 そう言うと、背広姿の男は名刺を差し出した。

「顧問弁護士…?」

 暗いので名刺は読めないが、偽物とも思えない。

 さやかは、しげしげと男――十河を見つめた。

「顧問弁護士の方が、どうしてこんなところに?」

「夏目さんと一緒です。麻雀を打ちに来たんですよ」

 別室で休憩していたところ、停電と侵入者の物音がしたので、慌ててこのバスルームに避難したのだという。さやかにシャワーを浴びせたのは、侵入者の一味かと思ったせいだ。

 十河はそう説明したが、さやかは疑問を抱いた。

 ――そんなこと、榊原さんも響子さんも言ってなかったけどな。

 さやかと冬枝が麻雀を打ち始めてから、2時間は経っている。組の顧問弁護士が来ているなら、一度ぐらい話題に出てもよさそうなものだ。

 さやかの顔と名前は「さやニャンのファンクラブ」を自称していた男たちが在籍している『アクア・ドラゴン』にはバレている。さやかの名前を知っていることは、男が組の顧問弁護士だという証拠にはならない。

 もし、顧問弁護士というのが嘘で、目の前の男が侵入者の一味だったら、かなり危険な状況だ。さやかは、慎重に相手の腹を探ることにした。

「大変なことになりましたね、十河さん」

「ひとまず、我々はここで退避しているしかないでしょう。私がいても、戦力にはなりませんので」

 確かに、暗闇の中でうっすら見える十河のシルエットは細身で、長身の榊原や冬枝と比べると頼りない。

「一体、何が起きているんですか?強盗でしょうか」

「物盗りの類ではないでしょうね。このマンション、セキュリティはかなりしっかりしていますから」

「まさか『アクア・ドラゴン』だったりしませんよね?」

 さやかが核心に迫ってみると、十河の反応はあっさりしていた。

「それはないでしょう。若頭を襲撃したとなれば、白虎組と青龍会の間で一悶着になってしまいます。それじゃ、自ら進んで青龍会の進出を邪魔するようなものです」

「…確かに」

 青龍会にしてみれば、武力をちらつかせて白虎組を降伏させてしまったほうが、ずっと楽にこの地への進出が叶う。わざわざトラブルを起こして、白虎組と戦争を始めるメリットはない。

「半グレ集団とはいえ、若頭を襲うほどの権限は与えられていないと思います。極道にもそれなりの礼儀ってものはありますから」

「なるほど」

 十河の話が事実なら、侵入者たちは何者なのだろうか。かえって謎が深まった。

「今入ってきた連中は、運がありませんよ。冬枝さんがいたんじゃ、若頭に傷一つ負わせられないでしょう」

「冬枝さんって、そんなに強いんですか」

「そりゃそうですよ。あの人、『人斬り部隊』のナンバーツーだったんですから」

 十河の口ぶりには、嘲るような響きがあった。

「『人斬り部隊』?それって、先代組長の親衛隊のことですか」

「当時は、誰も親衛隊なんて呼んでませんでしたよ。分かるのは夜な夜な、ケンカ相手を斬って斬って斬りまくってたってことだけ。表の組員ですらほとんど全容が分からない、暗殺者みたいな存在でしたね」

 冬枝の部屋にあった日本刀が、さやかの脳裏でぎらついた。

 さやかを怯えさせたと思ったのか、十河が「大丈夫ですよ、夏目さん」と言った。

「今の組長になってからは、あの人もただの組員ですから。昔は凶暴な狂犬だったけど、今はすっかり牙を抜かれたみたいですね」

 ――そうだろうか。

 確かに、冬枝はさやかの前で『凶暴な』ところなど見せたことがない。だが、冬枝には、今でも過去の影がちらついている気がする。

 さやかは時々、冬枝の瞳がびっくりするほど冷たく見えることがある。さやかに手も上げないような人だと知っているのに、何故か、殺されると思ったこともある。

 それは全て、冬枝がかつて『人斬り部隊』にいたせいなのかもしれない。

 そこまで考えて、さやかは、そっと瞼に手をかざした。

 冬枝が触れたところが、今でも温かい気がする。

 ――僕は、僕の知ってる冬枝さんを信じる。

 大事なことは、きっと目には見えないところにある。麻雀と同じだ、とさやかは思った。



 冬枝は、瞬く間に侵入者たちをのしていた。

 侵入者たちは皆、目出し帽で顔を隠し、サバイバルナイフで武装していた。

「動くな。騒いだら刺すぞ」

 というお決まりの文句も言い終わらないうちに、冬枝は陣頭にいた男を殴り飛ばし、後ろにいた男ごと投げ飛ばした。ナイフは手刀で叩き落とし、男たちの手の届かないところへと蹴った。

 暗闇の中でのケンカは、冬枝の十八番だ。顔に一発叩き込み、目出し帽を脱がせてしまうと、男たちは大人しくなった。

「てめえら、どこの組のもんだ。ここに白虎組の若頭がいると知ってて、襲って来たのか」

 侵入者3人のうち、2人は殴って失神させてしまったため、残り1人に冬枝は迫った。

 男は口の端から血の泡をこぼしながら「知るかよ」とせせら笑った。

「俺たちは、金で雇われただけだ。白虎組の若頭を襲って、ビビらせて来い、って」

「誰に命じられた」

 響子を背に庇っている榊原が、鋭い声を出した。

「知らねえよ。雇い主については聞かないことが条件なんだ」

 代理人を通じて仕事を紹介されたため、雇い主とは会ったこともない、と男は言った。

 ――『アクア・ドラゴン』じゃない。

 冬枝は、てっきり『アクア・ドラゴン』が襲撃してきたのだと思っていた。ビルを爆破するような連中なら、若頭を襲うという暴挙に出てもおかしくはないからだ。

 よく見れば、侵入者3人は30代半ばほどで、半グレ集団である『アクア・ドラゴン』のメンバーにしては年が行き過ぎている。

 恐らく、侵入者たちは荒事を請け負う稼業の者たちだろう。冬枝にボコボコにされて、あっさり降参したところをみるに、極道ではない。

 それまで黙っていた響子が「警察を呼びましょう」と切り出した。

「響子」

「この人たちをこれ以上、問い詰めても、有用なことは喋らないでしょう。かといって、このまま帰してしまったら、また良からぬことをするかもしれません。私の部屋に押し入ってきた強盗ってことにして、警察に引き渡しませんか」

 響子は「冬枝さんと夏目さんは、お帰りになったほうがいいと思います」と言った。

「警察にあれこれ聞かれては、ご面倒でしょうから。夏目さんは、まだお若いですし」

「榊原さん。どうしますか」

 響子の言は、理にかなっている。榊原は少し考えてから、頷いた。

「分かった。冬枝、今日のところはさやかを連れて帰れ」

「はい」

 冬枝は結束バンドで男たちを拘束すると、玄関にあるブレーカーを上げた。

 室内に明かりが戻り、血だらけになった男たちの顔と、床に落ちたティーカップなどが照らし出された。

 響子が、心配そうに部屋を見回した。

「冬枝さん、夏目さんは?」

「ああ、さやかなら大丈夫ですよ。そこの風呂場に…」

 言いかけた冬枝を、さやかの「いやーっ!」という悲鳴が遮った。

「さやか!?」

 まさか、侵入者が他にもいたのか。冬枝は、すぐにバスルームへと向かった。



 ブレーカーが上がる少し前、何かが勢い良く壁に当たる音がして、さやかと十河は肩をびくっと震わせた。

「何の音でしょう」

「さあ…。ですが、まだここから動かないほうがよろしいかと」

 実は、冬枝が蹴り飛ばしたサバイバルナイフが浴室近くの壁に当たった音だったのだが、浴室に閉じ込められたさやかたちが知る由もない。

 さやかは世間話を装って十河からあれこれと聞き出したが、十河が組の顧問弁護士だということは疑いの余地がなさそうだった。

「へえ。十河さんは、榊原さんの大学の後輩だったんですか」

「ええ。若頭は当時から優秀な方で、勉強もスポーツもなんでもできましたよ。女性にもそれはもう人気で、若頭がキャンパスの女子を独り占めしていたようなものでした」

「榊原さん、プレイボーイだったんですか?」

 淑恵の顔が頭に浮かび、思わずさやかは詰問調になる。

「まさか。むしろ、昔の若頭は女性にはとんと興味がなくて、仲間とテニスやビリヤードをしているほうが楽しいっていう、スポーツマンタイプでしたね。私たち後輩は、そりゃもう若頭に嫉妬したものでしたよ」

 堅物だった榊原が恋に落ちた相手こそ、聖天高校に通うお嬢様である淑恵だった。

「美男が美女とくっついたパターンです。うちのかみさんと交換して欲しいですよ」

「でも、榊原さんには響子さんがいますよね」

 さやかは榊原の浮気をあげつらったが、十河は別方向から感想を述べた。

「うらやましい話ですよね。奥さんも美人で、2号も美人。結局、女性はみんな顔のいい男が好きなんですな」

「………」

 ――男って、浮気することに後ろめたさとかないんだな。

 さやかが冷ややかに見ていることには気付かず、十河は「冬枝さんも、それなりに二枚目ですものね」とにやついた。

「まさか、夏目さんのような若いお嬢さんをつかまえるとは…。冬枝さんもやりますね」

「あの、僕と冬枝さんは何でもないって、十河さんもお分かりですよね?」

「ご安心ください。弁護士には守秘義務がありますから、組長に告げ口したりしませんよ」

 十河は「あの冬枝さんが、今ではこんないたいけな少女と愛を育んでいるなんて、感動しちゃうな」と言って鼻の頭をこすった。

「愛なんて育んでません!」

「でもね夏目さん、お気をつけになったほうがよろしいですよ。冬枝さんこそ、若い頃はかなりのプレイボーイでしたから」

 十河が、したり顔で耳打ちした。

「プレイボーイ……」

 さやかは、小さく反芻した。

 思えば、靴擦れしたさやかをおぶってくれたり、コートを買ってくれたり、冬枝は出会った当初から、さやかに優しかった。腕っぷしも強いし、弟分たちにも慕われている。

 ――そりゃ、モテるよな。

 胸の奥で、何かがきゅんとしぼんでいくような気がした。冷たいタイルの上で、さやかは両ひざを抱き合わせた。

 ――僕より麻雀弱いくせに、モテるなんてずるい。

 冬枝は、毎晩遅くに帰ってくる。帰りに外で飲んでいるからだと思っていたが、女性とデートしている可能性もあることに、さやかは今更ながらに気付いた。

 愛妻家の榊原でさえ、響子と浮気しているのだ。冬枝に女性関係が全くないなどと考えるのは、甘いかもしれない。

 ――今度、冬枝さんが晩酌してる時、こっそり観察してやろうかな。

 それで、冬枝からキスマークが見えたり化粧の香りが漂ったりしたら、さやかは耐えられるだろうか。想像したら腹が立ってきたので、さやかはすっくと立ち上がった。

「どうしました、夏目さん」

「やっぱり、冬枝さんが心配です。僕、ちょっと様子を見てきます」

 すると、十河がさやかの手を掴んだ。

「待ってください。まだ真っ暗ですし、危険ですよ」

「さっきから、物音がほとんどしません。多分、決着がついたんでしょう」

 冬枝たちが侵入者たちをとっちめたならいいが、万が一、侵入者たちに襲われ、冬枝たちが動けない状態にあるのなら、通報したほうがいい。玄関の近くに電話があったことを、さやかは覚えていた。

 だが、十河はさやかに縋り付いた。

「いえ、さやかさん。できれば、若頭が帰るまで、ここにいてもらえませんか」

「榊原さんが帰るまで?」

 さやかはふと、ずっと気になっていたことを口にした。

「十河さん。あなたがここにいることを、榊原さんは知らないんじゃありませんか」

「………」

「響子さんとはどういうご関係なんですか」

 さやかが尋ねると、十河はハッとして「違います!」と言った。

「言ったでしょう、私は麻雀を打ちに来ただけだって。若頭の愛人に手を出すなんてことをしたら、私の命がありませんよ」

 間男の十河がたまたま榊原と鉢合わせしてしまい、浴室に隠れていた――というシナリオが、さやかの頭に浮かんでいた。十河が慌てているのも、いかにもそれっぽい。

 しかし、目の前にいる小利口な弁護士と、あの聡明な響子との組み合わせが、さやかにはぴんとこない。2人共、ヤクザである榊原を裏切るという危険を冒すタイプにも見えない。

 ――でも、榊原さんは淑恵さんを裏切ってる。

 冬枝だって、さやかには優しいが、影では何をしているか分かったものではない。男女の間には、リスクを度外視した間違いだって起こるのかもしれない。

 榊原、淑恵、響子、十河……彼らの顔をいくら並べても、役が浮かび上がってこない。

 ――ダメだ。僕には解が見えない。

 この際、十河が何者だろうと、さやかにはどうでもいいことだ。さやかはそう割り切った。

「十河さん。あなたがここにいたことは、榊原さんには言いません。だから、この手を放してくれませんか」

 さやかが問いかけたが、十河は握る手に力を込めた。

「経験上、『言わない』と言った人は、大抵バラすんです。申し訳ないが、信用できない」

「そんな」

 押し問答になったところで、部屋から何かが割れるような音が聞こえた。

 ――冬枝さん!

 反射的に、さやかは十河の腕を振り払った。考える前に、体が、冬枝の元に向かおうと動いた。

 バスルームの扉を開いて出ると、パッと明かりがついた。

「待ってください、夏目さん!」

 十河に足を掴まれ、靴下が濡れていたこともあって、さやかはバランスを崩して転んだ。

「うわっ」

「中に戻ってください!」

 十河から腕を引っ張られ、さやかは抵抗した。

「放して、いやーっ!」

 さやかが声を上げた直後、冬枝が脱衣所に駆けつけた。

「さやか!」

 倒れたさやかを強引に引っ張り起こそうとしている十河の姿は、さやかを押し倒して襲い掛かっているのとちょうどそっくりな体勢になっていた。

 冬枝は激昂した。

「てめえ、さやかから離れろ!」

 跳躍した冬枝の膝が、十河の顔面にめり込んだ。

「うぐっ!」

 十河が、三回ぐらい回転しながら浴室へと吹っ飛んでいった。遅れて、シャンプーや洗面器が引っ繰り返る音が響いた。

「さやか。ケガはねえか」

「冬枝さん…」

 冬枝の顔を見た途端、さやかの体から力が抜けた。十河に気を取られていたとはいえ、さやかはずっと冬枝のことが心配だったのだ。

 しゃがんでさやかを抱え起こそうとした冬枝が、目を丸くした。

「お前、ずぶ濡れじゃねえか」

 さやかは髪からスカートまで、びっしょりと濡れている。白いブラウスの胸元から、水色のブラジャーが透けて見えていた。

 冬枝は、慌てて着ていた背広を脱いで、さやかに羽織らせた。

「さやか。タクシーを呼ぶから、お前は先に帰ってろ」

「えっ…、冬枝さんは?」

「俺は、後片付けとか色々済ませなきゃならねえからな。帰ったら、ちゃんと風呂入って温まるんだぞ」

 冬枝は、さやかに着せた背広の前をしっかりと合わせた。

 さやかはくすっと笑った。

「…冬枝さん、お父さんみたい」

「おう。父ちゃんの言うことは聞くんだぞ」

「はい」

 さやかは小さな声で「冬枝さん、早く帰ってきてくださいね」と言った。



 さやかをタクシーに乗せた後、冬枝と榊原はマンションの外で話し合った。

「サツには、お前たちがいたことは黙っておく。お前らも、今夜のことは他言無用で頼む」

「いいんですか」

 警察はともかく、組の人間には打ち明けなくていいのだろうか。若頭が襲われたとなれば、犯人を探そうという動きも出てくるかもしれない。

 榊原は、犯人を突き止めるつもりはないのか。暗にそう問う冬枝に、榊原は苦笑で答えた。

「護衛もつけずに部屋に通ってた俺が悪いのさ。若頭としての自覚が足りなかった」

「榊原さんのせいじゃありませんよ」

 逢引するのに、いちいち若い衆を連れて行きたくはないだろう。若い衆の口から、淑恵に浮気がバレないとも限らない。

 榊原は、常夜灯の下にタバコの煙を吐いた。

「冬枝。お前は今夜の黒幕、誰だと思う」

「身内でしょう」

 冬枝は即答した。

「実行犯にさえ素性を隠していたのは、正体が知られればまずいからです。よその組の人間なら、もっと堂々とやるでしょう。脅しなんて中途半端な真似もしない」

 まして、十河の存在がある。冬枝は、さやかをタクシーで帰した後になって、ようやくバスルームでノビている中年男が組の弁護士だと気付いた。

 十河がどうやって響子の部屋に侵入したのかは不明だが、そこを掘り下げるのは冬枝の役目ではない。

「ブレーカーが落ちたのは、十河の仕業でしょう。照明が消えたのは、侵入者たちが部屋に入ってくる前だった」

 侵入者たちを手引きしたのは十河だ。この襲撃には、十河が一枚噛んでいる。

 東京から青龍会の手先である『アクア・ドラゴン』が侵攻し、その対応を巡って白虎組は割れている。このタイミングで榊原を脅したい人間、かつ十河を操れる人間といえば、一人しかいない。

「冬枝。それ以上は言うな」

「榊原さん…」

「仲間同士で食い合ってたって、仕方ねえ。それこそ青龍会の思う壺だ」

 榊原を襲撃させたのは、白虎組若頭補佐・霜田だ。青龍会への降伏を主張する霜田は、抗戦を主張する榊原とは真っ向から対立している。

 補佐が若頭を襲うなど、前代未聞である。それなのに、榊原は不問に付そうというのだ。冬枝は、ほとほと呆れてしまった。

 ――相変わらず、人がいいな。

 冬枝には、今の榊原は綱渡りをしているように見える。愛妻家には似合わぬ浮気をし、部下の重大な裏切りを見逃そうとしている。

 この甘さでは、榊原はいずれ、足を踏み外す。そう確信していながら、冬枝は何も言わなかった。

 ――俺には関係ねえ。

 裏切ったり、裏切られたり、そんなのは日常茶飯事だ。極道に限らず、どこでだって繰り返されている。榊原が破滅したら、また別の人間が冬枝の上に立つだけだ。

 冬枝は、黙って頭を下げて、榊原の前を辞した。

 乾いた風が、冬枝の黒いシャツを撫でる。おもむろにタバコをくわえてから、ライターがないことに気がついた。

 ――背広の中か。

 早く帰ってきてくださいね、というさやかの小さな声を思い出し、冬枝はふと上を向いた。

「おー。月が出てる」

 夜空に、ぽっかりと真っ白な月が浮かんでいる。

 冬枝は、さやかのことを思った。

 榊原の浮気に気を揉んだり、浴室でびしょ濡れになったり、今夜のさやかは散々だった。こんなくだらないことで、さやかが風邪をひかなければいいが、と冬枝は案じた。

 ――俺も、さっさと帰るか。

 冬枝は近くでタクシーを拾うと、家路を急がせた。



「はぁ。疲れた…」

 さやかは思わず、一人でぼやいた。

 慣れないお茶会に、榊原の裏切り。響子への複雑な感情に悩まされたと思えば、いきなり襲撃を受けた。浴室では、得体の知れない組弁護士に遭遇した。

 今日は、色々なことがありすぎた。本当はすぐにでもベッドに入って寝てしまいたいが、十河にびしょ濡れにされたせいで、このままでは風邪をひいてしまう。面倒臭いのを我慢して、さやかはバスタブに湯を張った。

 浴室に立ち込める湯気をぼんやりと見つめながら、さやかは思いを馳せた。

 ――今日みたいなことは、これからもあるかもしれない。

 襲撃もそうだが、榊原の女性関係もそうだ。組の代打ちをしていれば、事件に巻き込まれることも、ややこしい人間関係に巻き込まれることも、ままあるだろう。

 そのたびにいちいち立ち止まっていては、きりがない。冬枝のおかげで、さやかは目を覚ますことができた。

 ――部外者の僕が悩むこと自体、おこがましいことなんだよな。

 淑恵と榊原と響子のことは、あくまで本人たちの問題だ。さやかがあれこれ悩んだところで、どうなることでもない。さやかが消耗するだけだと、冬枝が気付かせてくれた。

 ――もっと、強くならなくちゃ。

 代打ちとしての強さとは、麻雀のみならず、人生経験を深めることにもあるのかもしれない。少なくとも、組の古参の代打ちたちだったら、若頭の浮気なんて気にも留めないだろう。さやかだって、負けてはいられない。

 ――もっと強くなって、冬枝さんにお返しするんだ。

 冬枝が十河を蹴り飛ばしてくれたことを思い出し、さやかはふふっと笑った。やりすぎではあったものの、冬枝がさやかを心配してくれたのが分かって、嬉しかった。

 冬枝が羽織らせてくれた枯れ葉色の背広は、すっかり湿っている。明日までに乾くかな、と心配しながら、さやかはハンガーにかけた。

 濡れた服を脱いで洗濯籠に入れると、ちょっと人心地がついた。ブラジャーとパンティーも濡れていて、こっちも洗濯したほうが良さそうだ。

 などとさやかが考えていると、脱衣所の扉がいきなり開いた。

「おいさやか、俺のライター…」

「………!?」

 下着姿のさやかと、くわえタバコの冬枝が、しばし、無言で見つめ合った。

 さやかの剥き出しの四肢に目が吸い寄せられ、冬枝の口からタバコが落ちる。

「………」

「………」

 数拍のち、さやかは「いやあああああああああああ!!!」と悲鳴を上げた。

「冬枝さんのスケベ!変態!スケコマシ!出てけっ!!」

「悪かった、悪かったって!」

 枯れ葉色の背広をハンガーごと投げつけられ、冬枝は追い立てられるようにして脱衣所の扉を閉めた。

 背広を抱き締めたまま、冬枝はまじまじと扉を見つめた。

 ――『父ちゃん』から、『スケコマシ』にまで成り下がっちまった。

 そもそも、ここは冬枝の自宅である。どこを出入りしようが俺の自由だろうが、と強がりつつ、ふと、冬枝は朽木との会話を思い出した。

 ――まさか、朽木のお告げが当たったのか?

 麻雀小町の裸が拝める、という朽木の予言が、的中したことになる。冬枝はしばし呆気に取られたが、まさかな、と首を横に振った。

 とはいえ、さやかの下着姿が脳裏に浮かぶと、満更でもない気になってくる。これじゃ本当にスケベだな、と自戒して、冬枝はようやくタバコに火をつけた。

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