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12話 さやかと内緒のアップルパイ

第12話 さやかと内緒のアップルパイ


「では、来たる参議院選挙における宮永君の健闘を願って、乾杯!」

 乾杯の音頭と共に、あちこちでグラスが掲げられた。

 市内にあるキャンドルホテルの宴会場で、『宮永君を激励する会』が始まったところだ。

 スーツ姿の代議士たちに混ざって、冬枝とさやかも出席していた。

「いわゆる、政治資金パーティーですか」

 ここに来る前、冬枝が今日の仕事の説明をすると、さやかの理解は早かった。

「はっきり言えば、その通りだ。この宮永って奴が、榊原さんの舅さんが応援してる若手議員だとかでな」

 冬枝は、式次第とパンフレットをさやかに見せた。パンフレットには、爽やかな笑みを浮かべる宮永の顔写真が載せられている。

「榊原さん、議員とつながりがあるんですか」

「ああ。榊原さんの奥さんが、国会議員の娘なんだ」

 さやかは驚いた。榊原は白虎組の若頭で、れっきとしたヤクザだ。そこに議員の娘が嫁ぐなんて、スキャンダルではないのだろうか。

 冬枝が「まあ、驚くよな」と察したように頷いた。

「けどよ、政治家ってのはとにかく金がかかる仕事だし、俺たち裏稼業の力を借りることも珍しくねえんだ。灘議員…榊原さんの舅さんもそうでさ、元々うちの組長と懇意にしてたんだ」

 パンフレットには、顔写真と共に灘議員からのメッセージも掲載されている。国会中継などでも見かける、大物議員だ。

「じゃあ、榊原さんと奥さんは、白虎組と灘議員を繋ぐための政略結婚…ってことですか」

「結果的にはそうなったが、榊原さんが奥さんに一目惚れして猛アタックした、ってのが本当のところだな」

「へえ。榊原さんって、若い頃はそんな感じだったんですね」

 榊原は温厚で、ヤクザらしからぬほど紳士的な男だ。国会議員のお嬢さんとのロマンスは、いかにも榊原に似合っていた。

 横から、冬枝の弟分である土井が口を挟む。

「若頭の奥さん、一度だけ見たことあるんスけど、めっちゃ綺麗な人ですよ。若頭がモノにしたがったのも分かるなーって感じ」

「こら、土井。下品な言い方するなよ」

 同じく、冬枝の弟分である高根が土井をたしなめる。

「じゃあ、今日のパーティーは、榊原さんが灘議員から人集めを頼まれたんですね」

「そういうことだ。さやか、お前には、パーティーに来た若手議員たちと打ってもらう」

 というわけで、冬枝とさやかは『宮永君を激励する会』にやって来た。

 議員たちの冗長なスピーチに、笑みの下で腹の探り合いが行われる食事会。冬枝は、何度欠伸を噛み殺したか分からない。

 ――どうして、どいつもこいつも、下手なおべんちゃらを平気でほざけるもんかね。

 退屈しているのが顔に出てしまったのか、同じテーブルにいた榊原から「悪いな、冬枝」と苦笑されてしまった。

「あっ、いや、榊原さん」

「はは、つまんねえ集まりだよな。俺たちみたいな日陰者がいる場所じゃない」

 尤も、冬枝よりは、榊原のほうがこの場所に馴染んでいる。榊原は大卒のエリートで、実務能力も高い。冬枝のような下っ端にも気を使ってくれるし、堅気になっても十分やっていけるだろう。

「ところで、冬枝」

 榊原が声をひそめたので、冬枝は顔を近づけた。

「はい」

「この間、『アクア・ドラゴン』の奴が言っていた…さやかを囲ってるって話だが」

 先日、榊原のところの若い衆が捕まえた愚連隊『アクア・ドラゴン』のメンバーが、「冬枝はさやかを愛人にしている」と口にした。さやかの高校の同級生だった小池の誤解が、榊原にまで伝わってしまったのである。

 まさか、あの話を蒸し返されるとは思わず、冬枝はうろたえた。

「榊原さん、あれは…」

「さやかがお前のマンションに住んでるのは本当なんだな」

「……はい」

 そこをつつかれると、ぐうの音も出ない。ヤクザが若い女と同居しておいて、僕たちは健全な関係です、と主張したところで、説得力は皆無だった。

 ――本当になんでもねえんだから、言い訳のしようがねえじゃねえか!

 榊原は愛妻家で、娘2人はちょうどさやかと同じぐらいの年頃だ。冬枝がさやかを愛人にしていると聞いて、気に障ったのかもしれない。

 岩淵の時のように、榊原からさやかの代打ちを辞めさせろと言われてしまったら、説得は困難だ。

 冬枝は身構えたが、榊原は「そうか」と言ったきり、考え込んでしまった。

「榊原さん?」

「いや…それが分かればいいんだ」

 この時はまだ、冬枝は榊原の真意がよく分からなかった。

「あの、榊原さん」

 そこで、さやかが話に割って入った。

 冬枝と榊原の話から『アクア・ドラゴン』の名が聞こえて、居ても立ってもいられなくなったのだ。

「冬枝の説得、頼んだぞ」

 先日、朽木はさやかに『アクア・ドラゴン』とその後ろ盾である青龍会との対決を翻意させるよう、冬枝を説得しろといった。

 始めは朽木の話に懐疑的だったさやかも、『アクア・ドラゴン』の脅威をその身で感じ、冬枝を戦わせるわけにはいかないと考え始めていた。

「白虎組は、『アクア・ドラゴン』…その背後にいる青龍会と、本気で戦うつもりなんですか」

「おい、さやか」

 冬枝がたしなめたが、さやかは真剣だった。

 この際、冬枝よりもその上司である榊原を説得したほうが早い。榊原が意見を変えれば、冬枝も一人で意地を張ろうとはしないだろう。

 榊原は、静かに微笑んだ。

「嬢ちゃんが心配することじゃない。嬢ちゃんのことは、冬枝が守ってくれる」

「ですが…」

 なおも食い下がろうとしたさやかは、冬枝に首根っこを掴まれた。

「さやか。余計な口出すんじゃねえ」

「…すみません」

 ――性急だったか。

 ただの代打ちに過ぎないさやかが『アクア・ドラゴン』と戦うなと訴えたところで、愚連隊に怯えた小娘の哀願にしかならない。

 不意に、朽木が言っていた言葉が思い出される。

「お前の一言で、冬枝が救えるかもしれねえんだ。裸見せてでも説得しろ」

 ――裸なんか見せないけど。

 榊原が「今日は、冬枝とさやかに来てもらって助かった」と言って、話を変えた。

「親分からも、念入りに頼まれてるんだ。こんな呑気なパーティーでも、大金が動いてるからな」

 榊原の義父である灘議員の人脈は、そのまま白虎組のパイプになる。現組長・熊谷雷蔵は、榊原を使って政治の世界にも楔を打ち込んだのだ。

 ――こういう猿回しみたいな真似がうまいよな、あの人は。

 ヤクザと政治の癒着、に眉をひそめるほど冬枝は真面目ではない。ただ、興味もないだけだ。

 榊原は、冬枝の隣に腰かけるさやかに目をやった。

「今夜はよろしくな、嬢ちゃん」

「はい。頑張ります」

 さやかは、神妙に頷いた。『アクア・ドラゴン』のことは一旦忘れ、今は仕事に集中するしかない。



 冬枝たちの背後のテーブルで、スーツ姿の眼鏡をかけた男が、忌々しそうに榊原を見つめていた。

「霜田さん。そんなに露骨に睨み付けてたら、流石にバレますよ」

 隣で苦笑気味に言ったのは、アルマーニのスーツに身を包んだ朽木である。

「ふん」

 白虎組若頭補佐・霜田は、不機嫌そうにグラスに口をつけた。

「若頭と補佐が別々のテーブルなんて、聞いたことがありませんよ。若頭は、よほど私の顔が見たくないようで」

「若頭は、灘議員の身内ですからね。宮永議員も、特別に配慮したんでしょう」

「じゃ、冬枝と代打ちは、なんで若頭と同じテーブルにいるんですか」

 ――俺が知るかよ。

 ネチネチと八つ当たりする霜田に内心、舌打ちしながらも、朽木は愛想笑いを崩さなかった。

「霜田さんだって、今は若頭と並んで座りたくなんてないでしょう」

 白虎組の縄張りを荒らす『アクア・ドラゴン』に対して、霜田と榊原の意見は真っ二つに割れた。『アクア・ドラゴン』に抵抗すべしとする榊原に対し、霜田は『アクア・ドラゴン』ひいてはその背後にいる青龍会への降伏を主張していた。

「若頭は、まるで官僚の飼い犬だ」

 吐き捨てた霜田の視線の先では、榊原が数名の議員に囲まれていた。

 白虎組の独立を守るべし、という榊原の主張には、既得権益を守りたい地元議員たちの思惑も絡んでいる。白虎組が青龍会に吸収されてしまえば、白虎組の資金も、青龍会の本拠である東京へと流れるからだ。

 朽木にしてみれば、そっちのほうが都合がいい。朽木は、こんな田舎に未練などない。

 ――麻雀小町が、さっさと色仕掛けでもしてくれりゃいいんだがな。

 さやかが冬枝を籠絡し、冬枝が榊原を説得すれば、状況が変わる。古参であり、親衛隊として身体を張ってきた冬枝の言うことなら、榊原とて無視できないからだ。

 議員たちと談笑する榊原を見ながら、霜田が低い声で呟いた。

「あの人は、昔はああじゃなかった」

 霜田の呟きは、パーティーの喧騒に紛れて、朽木には届かなかった。

「官僚の飼い犬になってしまった若頭なんて、このまま骨抜きになっちまえばいいんですよ。『あの女』はきっと、うまくやります」

 朽木が言うと、霜田は「ええ、そうでしょうね」と暗い目つきで頷いた。



 パーティーがお開きになった後、一部の議員たちが秘密裏に集められた。彼らが向かった先は、麻雀卓のあるVIPルームだ。

「今日は、うちの代打ちが皆さんのお相手を務めさせていただきます」

 榊原が代打ちとしてさやかを紹介した途端、若手議員たちが色めき立ったのを見て、冬枝はここに来たことを後悔した。

 ――やっぱ、やめときゃよかった。

 さやかの役目は、客寄せパンダ、要はコンパニオンだ。強面のオッサン代打ちとの勝負には腰が重い若手議員たちも、相手が若い女となれば、遊び感覚で乗ってくる。

「夏目さやかです。よろしくお願いします」

 さやかが頭を下げると、議員たちは「よろしくお願いします」と折り目正しく礼をした。

 だが、議員たちの目に下心がちらついているのを、冬枝は見逃さなかった。

「次からは、さやかはホステスじゃねえ、って榊原さんに言ってやる」

 帰りの車中で息巻く冬枝を、さやかが「まあまあ」と宥めた。

「僕は構いませんよ。代議士のタマゴと麻雀が打てるなんて、貴重な体験でした」

「何が代議士だ。スケベな若造ばっかりじゃねえか」

「でも、おかげで皆さん、気持ちよくお金を落としていってくれたわけですし」

 確かに、VIPルームでの裏麻雀は終始、和やかな雰囲気だった。金が宮永議員に流れることを承知していたのだろう、負けても不満を口にする議員はいなかった。

 言い換えれば、金の余ったボンボンたちの相手をさやかにさせただけだ。冬枝は後味が悪かった。

「ったく、今時の議員はみんな、あんなちゃらんぽらんなのか。世も末だぜ」

「皆さん、イカサマもしないし、礼儀正しい人たちでしたよ」

「んなもん、ネコ被ってるだけだ。あいつら、鼻の下伸ばしてお前のこと見てたぞ」

 ただの賭け麻雀だというのに、若手議員たちは勝てたらさやかを好きにできるとでも思っているような顔をしていた。冬枝がすぐ傍で仁王立ちしていなければ、何をされていたか分かったものではない。

「そうですか?牌しか見てなかったので、気付きませんでした」

 さやかがこの通り麻雀バカなのが、救いなのか、心配するべきなのか。

 ――男はみんな汚えんだぞ、さやか。

 しかし、それを言うと自分の首を締めそうな気がするので、冬枝は黙った。



 さやかが牌を切ると、嵐がニンマリ笑って手牌を倒した。

「ローン!親満、サンキュー!」

「ぐっ…」

 また、嵐に負けた。雀荘『こまち』における嵐とさやかの勝負は、今日もさやかの敗北で終わった。

「ヤクザとばっかり打ってるから、弱くなったんじゃねえか~?代打ち辞めれば、強くなれるかもしんねえぞ~?」

 嵐のニヤニヤ笑いに腹を立てるのも、もう何度目だろうか。顔だけはつんと澄ましながら、さやかは負け分を支払った。

「悪いな。ダンディ冬枝のために身体で稼いだ金が、俺にぜーんぶ食われちまって」

「身体で稼いだって言わないでください!いかがわしい意味に聞こえる」

「あれー?どんな意味だと思っちゃったのかなー?スケベ小町ちゃーん」

 さやかが卓をバンと手で叩くと、嵐はハハハと笑った。

「代打ちで稼いだ金なんざ、綺麗な金とは言えねえよ。だから、俺が全部もらってあげるの。ボランティアだな」

「何が、ボランティアだ。ていうか、嵐さんっていっつも『こまち』にいますけど、お仕事は何してるんですか?」

 嵐は元刑事だと聞いているが、今の仕事については聞いたことがない。

「仕事?これが仕事だよ。雀ゴロ」

 嵐は、悪びれもせずに胸を張った。さやかは呆れかえった。

「元刑事の成れの果てですか…」

「ヤクザの代打ちやってるよりマシだろ?おまけにさやかは、ダンディ冬枝の愛人も兼ねてるし」

「愛人じゃない!何回言えば分かるんですかっ」

 さやかが目尻を吊り上げたところで、雀荘には似つかわしくない制服姿が現れた。

「マキさん」

「御機嫌よう、さやかお姉さま。少し、お時間よろしくて?」

 艶やかな黒髪を揺らして、お上品に挨拶したのはマキだった。

「ええ。…ちょうど終わったところですから」

「さやかオネーサマは、今日もワイルド嵐に負けました。可哀想だから、お友達には内緒にしてあげてネ」

 嵐がふざけて言い、さやかは横目で睨み付けた。

「さやかお姉さまは、相変わらず麻雀ひとすじですのね」

 卓から離れた喫茶スペースで、さやかとマキはコーヒーを飲んだ。

「はは…。マキさんは、いいんですか?雀荘なんかに来ちゃって」

「本当は、校則違反ですわ。でも、不可抗力です。さやかお姉さまに会うには、ここに来るしかありませんもの」

「すみません」

 マキは「さやかお姉さまらしくていいと思います」と笑った。

「ただ、今日はどうしてもさやかお姉さまにお会いしなければならなくて…校則を破らせていただきましたの」

「麻雀ですか」

 どうしても自分でなければならない用事と言えば、麻雀だ。

 冬枝の代打ち業をしているせいで、さやかの思考は飛躍していた。

 思わず身を乗り出したさやかに、マキが冷たく「違うわよ」と素の口調で否定した。

「もう、さやかったら。これでもあたしの本分は、聖天高校の生徒会長なの。麻雀でさやかを呼ぶわけないでしょ。麻雀も校則違反なのよ」

「えっ。なんて厳しい学校なんだ…!」

「さやかみたいに清純そうな女の子が、こんなタバコ臭いとこでオッサンたちと麻雀してるのもどうかと思うけどね」

 マキは「それはさておき」と話を元に戻した。

「今日は、さやかお姉さまにこれをお渡しするために参りました」

 マキがうやうやしく差し出したのは、金箔の飾りに『夏目さやか様』と丁寧に綴られた、一枚の招待状だった。



 夜、冬枝が晩酌をしていると、部屋からさやかがぺたぺたと歩いてきた。

「冬枝さん。今日は何食べてるんですか」

「ん?なた漬け」

 ナタで切った大根を、甘酒で漬けた漬物である。

 冬枝が箸で取ってやると、さやかはぱくっと食べた。

「美味しいです」

「お前、なんでも食うよな」

 冬枝が晩酌をするのを狙っているかのように、さやかはこの時間になると部屋から出てくる。若いから食欲旺盛なのだろうが、冬枝もつい甘やかして、さやかにひとくちもふたくちも与えてしまう。

「冬枝さん。明日は僕、午後にちょっと出掛けます」

 なた漬けをぼりぼりと咀嚼してから、さやかはそう言った。

「そうか。どっか行くのか」

「お茶会にお呼ばれしまして」

「オチャカイに、オヨバレ?」

 別世界の言語を聞いたかのように、一瞬、冬枝は理解が追い付かなかった。

「マキさんの学校のOGが集まるお茶会に、僕が招待されたんです」

「マキって…あの小娘か」

 さやかが朽木に殴られた時、『こまち』でさやかの手当てをしていた女子高生だ。確か、地元でもお嬢様学校として知られる聖天高校の制服を着ていた。

「なんでまた、お前がオヨバレするんだ」

「さあ…。何でも、有名なOGの方が僕にいたく興味があるとかで、マキさんからどうしても来て欲しい、ってお願いされちゃって」

 さやかが満更でもなさそうなのを見て、冬枝はほうと思った。

 ――やっぱり、女の集まりに招かれたほうが、こいつも嬉しいんだな。

 スケベ議員たちと麻雀を打たされるよりだったら、女同士でお茶でも囲んでいたほうがよっぽど平和だ。冬枝としても賛成だったが、さやかの口から出たのは違う感想だった。

「きっと、腕のある打ち手なんでしょうね。どこの学校にもいるんですよ、校則をかいくぐって雀荘に行く人って」

「…オチャカイでぐらい、麻雀のことは忘れろ」

 この麻雀バカが、お嬢様学校のお茶会に参加して大丈夫だろうか。浮かないだろうか、と冬枝はちょっと心配になってきた。

 さやかは上機嫌に「冬枝さん、もうひとくちください」とおねだりした。



 くしくも、お茶会の会場もキャンドルホテルだった。

 ――ティーラウンジを貸し切りなんて、お嬢様学校のお茶会はすごいな。

 さやかの驚きは、これだけに留まらなかった。ラウンジに集まっていたのは10代から50代くらいの幅広い年齢層の女性たちだったが、皆、一様に身なりが良いのだ。

 ひとめで上流階級の集まりと分かる光景に、さやかは少し気後れした。

 ――ヤクザの代打ちが、こんなところに来ちゃっていいのかな。

 自分が呼ばれたのは何かの間違いではないか、と思ったが、マキから「さやかお姉さま。こちらよ」と手招きされて、後戻りはできなくなった。

「ごきげんよう、お姉さま。来てくれて嬉しいわ」

「マキさん…。あの、本当に僕が来て良かったんでしょうか」

「ほほほ、そんなに硬くならないで。一緒にお茶を飲んでお菓子を食べるだけなんだから」

「はあ」

 しかし、真っ白いレースのクロスが敷かれた卓に、花瓶に生けられたバラの花、そして決して耳障りではない、品の良いさざめき。女子高生が放課後にマックで駄弁っているのとは、雰囲気が違う。

 マキもPINK HOUSEの白いチュールのワンピース姿で、いつも以上に清楚な装いだ。さやかは、いつもの紺のセットアップ姿で来たことを後悔した。

 マキの元に、同級生と思しき数名の女子が寄って来た。

「マキさん、こちらが噂の夏目さやかさま?」

「ええ、そうよ」

「まあ、お目にかかれるなんて夢みたい。お話は聞いてますわ」

「ど、どうも」

 ひらひらとフリルの舞うお洋服をまとった少女たちが、子猫のように愛らしい声で話しかけてくる。おじさんのしゃがれ声が飛び交う雀荘とは真逆の状況に、さやかは戸惑った。

 ――なんだか、別世界に迷い込んだみたい。

「あの、僕の噂って、どういう…?」

「そりゃ決まってんじゃん、裏カジノでヤクザをのしたって話だよ!」

「アタイたち、ケンカは強いんだけどマージャンはからっきしでさー。スケベ親父に一発くれてやったって聞いて、胸がスッとしたんだよ!」

 お嬢様たちが一気にヤンキー口調に早変わりしたので、さやかは呆気にとられた。

「皆さん、もしかして…」

「ふふ、わたくしの課外活動仲間ですわ。と言っても、表向きは生徒会役員ですけれど」

 マキがほほほ、と高笑いした。

 マキの仲間という少女たちが、賑やかにさやかを取り囲んだ。

「あんた、東京から来たんだって?やっぱ、東京のほうがケンカ強いの?」

「タバコ吸ってる?」

「大人しそうな顔してやるねえ!」

 お人形のような姿から発せられているとは信じられないような、素の声が連発する。だが、さやかは少しホッとした。

 ――みんな、僕と同じ普通の子たちなんだ。

 普通という形容は間違っているかもしれないが、とにかく、少女たちはおとぎの国の妖精ではなく、生身の人間だと分かった。さやかはやっと、場違いだと思っていたお茶会に居場所を見つけたような気がした。

「ここって、生徒会の皆さんがOGの皆さんと意見を交換する場、ということですよね」

「ええ。聖天高校では毎月数回ほど、定例としてこのお茶会を開いてますの。校則の改定や様々な問題について、卒業生の皆さまからご意見を頂戴することを目的としております」

 マキを始め、少女たちは『お嬢様』と『不良』の顔を瞬時に入れ替える。

「僕みたいな部外者が来て良かったんですか?」

「ですから、そんな堅苦しい集まりじゃありませんのよ。OGの皆さまと親睦を深めて、レディとしてのたしなみを間近で学ぶ、という面もありますから」

 マキの仲間の一人が「タダでお菓子が食えますしね」と小声で笑った。

「OGの皆さまはそれぞれ、病院の院長夫人や社長夫人、慈善団体の会長をしている方もいらっしゃいます。そういう方々とコネを作っておくのも、将来役に立ちますのよ」

 さやかはふと、昨夜の政治資金パーティーを連想した。このお茶会では金は動いていないだろうが、現在と未来の権力者たちが交流する場、というのは似ている。

 つまり、ヤクザの代打ちには縁遠い場所だ。いよいよ、さやかは自分が呼ばれた理由が分からなくなってきた。

 ――まさか、麻雀賭博はやらないだろうけど。

 そんな疑問も、少女たちと和やかに話し、お茶やお菓子を楽しんでいるうちに、気にならなくなっていった。

「えーっ、さやかさんも生徒会長だったの。すげえ、マキさんとそっくりじゃん」

「東のさやかと北のマキ、2人揃えば怖いもんなしっスね」

「大げさですよ、皆さん」

「あら、わたくしとさやかお姉さまだったら、ネオン街のスケベ親父たちを一掃することも夢じゃなくってよ」

「マキさんまで、もう」

 さやかは、すっかり肩の力が抜けている自分に気付いた。

 ――久しぶりだな、こういう時間。

 同じ年頃の女の子たちと笑い合うなんて、高校の卒業式以来だ。マキたちと話していると、さやかもただの少女に戻ることができた。

 少女たちの話題はころころと変わり、お決まりの恋愛話が始まった。

「アタシの彼氏さー、純でいい奴なんだけど、ちょっとガキっぽくて」

「吹奏楽部の1年が、先輩の彼氏を取ったって聞いたよ」

 さやかも他人の話は笑って聞いていたが、不意に「さやかさんって、彼氏いるんですか?」と水を向けられ、ちょっと慌てた。

「さやかはね、こう見えて、もう予約済みなのよ。年上のダンディなおじさまと」

「ま、マキさん!」

 さやかが頬を赤らめると、周囲の少女たちから「ええっ」と驚きの声が上がった。

「まさか、不倫?」

「えーっ、2号?やめときなよ、騙されてるんだって!」

「だから、違いますって。僕はただの居候です」

「ウソ、同棲してんの?!」

 少女たちからきゃあきゃあと黄色い声が上がり、さやかは縮こまった。

 ――ヤクザと健全に同居してるだけ、なんて言っても信じてもらえないだろうな。

 さやかだって、自分ではなく他人の話だったら信じないだろう。少女たちから口々に質問を浴びせられ、さやかは赤面しっぱなしだった。

「皆さん、楽しんでいらっしゃる?」

 ふわっ、と清らかなミュゲの香りがして、少女たちがはっと静まり返った。

 テーブルにやって来たのは、40代と思しき女性だった。

 女性の姿を見て、さやかも思わずお喋りを忘れてしまった。

 ――貴婦人だ。

 華やかなドレスを着ているわけでもないのに、彼女からは貴族のような気品が漂っていた。それでいて、微笑みはどこまでも優しい。目の前にいると、何でも話したくなってしまいそうだ。

「こんにちは、夏目さやかさん。本日は来てくれて、どうもありがとう」

「僕のことを…ご存知なんですか」

 何だか、女神とでも話している気分だ。さやかは頭がふわふわした。

 女神様は「ええ」と言って、自分の胸元に手をやった。

「あなたをお招きしたのは、私ですもの」

「え…」

「ご挨拶が遅れてごめんなさい。榊原淑恵と申します」

 続けて「いつも主人がお世話になっています」と頭を下げられ、さやかはようやく貴婦人の正体を理解した。

 ――榊原さんの奥さん!

 土井が「めっちゃ綺麗な人」と評していたのも頷ける。同性であるさやかから見ても、貴婦人――淑恵はとても綺麗な女性だった。

「夏目さん。この後、お時間あります?」

「はい」

「よかったら、うちにいらっしゃらない?アップルパイをご馳走したいのだけれど」

 淑恵の家――ということは、榊原の自宅だ。

 思わぬ成り行きにさやかは驚いたが、「ぜひ」と返事をした。

「喜んで、うかがわせていただきます」

「嬉しいわ。外に車を待たせてあるから、ご一緒にどうぞ」

「ありがとうございます」

 淑恵が元のテーブルへ戻っていくと、一歩引いて見守っていたマキたちが歓声を上げた。

「ちょっと、すごいじゃん!淑恵さまからお呼ばれするなんて」

「えっ…」

「淑恵さまといえば、聖天高校OGの中でも一、二を争うレディの中のレディよ。代議士一家である灘家のご出身というのもさることながら、その気品ある立ち振る舞いで、在学中から全学を魅了してきた、伝説のお嬢様でいらっしゃるの」

「そうなんですか」

 女子高らしい大仰な言い回しではあるが、誇張だとは思わなかった。初めて会ったさやかですら、淑恵が聖母のように見えた。

 年を経てなお美しいのだから、高校生の頃なら、さぞや可憐な美少女だったに違いない。榊原が一目惚れした、という話も、腑に落ちた。

「学園一のお嬢様が極道にお嫁入りした、っていうのもまた、淑恵さまが伝説たるゆえんなんですけどね」

 マキの仲間が小声で付け加えた。

「皆さん、榊原さんのことを知ってるんですね」

「そりゃ、白虎組は地元では知る者のいないヤクザですから。だけど皆、そんなの関係なく淑恵さまを慕っていますよ。うちの学校に通う生徒はみんな、淑恵さまのようになりたいと思ってます」

 確かに、淑恵はとても穏やかだった。言われなければ極道の妻だなんて思わないだろう。

「我が校憧れの淑恵さまに誘われるなんて、さすがはマキさんの姉貴っスね」

「そうよ。さやかお姉さまは、わたくしの自慢のお姉さまなんだから」

「いつから僕はマキさんの姉貴分になったんですか」

 仲間相手に胸を張るマキに、さやかは苦笑しつつも、ちょっと嬉しかった。



 黒のセダンに乗せられて、さやかは郊外にある榊原邸にやって来た。

 ――立派なお屋敷だな。

 洋風の白亜の邸宅は、ヤクザの若頭の自宅とは到底思えない。義父である灘議員の後援もあるのかもしれない、とさやかは考えた。

「さあ、いらして」

 緑が美しい庭を先に進む淑恵は、このハイソなお屋敷がよく似合っている。長い髪を留めるエメラルド色のバレッタが、宝石のようにキラキラと木漏れ日を反射した。

 歩く姿すら優雅な淑恵を見ていると、さやかは下世話な推測をしたことが恥ずかしくなった。

 広いダイニングに通されると、早速アップルパイと紅茶が振る舞われた。

「…っ!美味しい…!」

 お茶会でお菓子と紅茶を味わったばかりだったが、淑恵が用意してくれたそれらは段違いに美味しかった。

 さやかが思わず「美味しいです」と何度も言うと、淑恵ははにかむように笑った。

 ――冬枝さんにも食べさせてあげたいな。

 さやかの考えが伝わったわけでもないだろうが、淑恵から「良かったら、お土産にどうぞ」とアップルパイの入った籠をもらった。

「わあ。本当に嬉しいです、ありがとうございます!」

「そんな…お礼を言うのは、私のほうよ。先日は、宮永さんのパーティーに出席していただいたそうで」

「ああ」

 さやかは、やっと淑恵が自分を招いた理由が分かった。

 宮永議員のバックにいるのは、淑恵の実父である灘議員だ。それで淑恵は、わざわざマキを通してさやかを呼び出したのだ。

「大したことはしていません。むしろ、僕のような若輩者を呼んでくれた榊原さんに感謝しています」

「主人も、夏目さんのことはよく話しているわ。男の人相手にも引けを取らない、とっても頼もしい女の子だって」

「榊原さんが…」

 組員ではないさやかには、極道の忠誠心など無縁だ。だが、若頭である榊原から改めて褒められると、胸が熱くなった。

 ――本気で打ってきて良かったな。

 どうせ自分ははぐれ者だから、と代打ちを投げ出していたら、今のさやかはなかった。本気で戦う喜びを知ることができたのは、諦めるな、と言ってくれた冬枝のお陰だ。

 そこで、淑恵が眉を曇らせた。

「本当は、冬枝さんにもお礼を言いたいのだけれど…。最近の主人は、お仕事の方を家にお招きするのが、あまり好きじゃないみたいで」

「そうなんですか」

「娘2人が年頃だから、気にしているんでしょうね。あの人、子煩悩ですから」

 淑恵が目線をやった先、棚の上には、いくつもの写真が飾られていた。

 並んだ写真立てのいずれでも、淑恵によく似た清楚な少女と、榊原によく似た凛々しい少女が、両親と共に笑っている。見ていると眩しくなってしまうような、幸せな家族写真だった。

「これ、結婚式のときの写真ですか」

 さやかは、一枚の写真立てに目を留めた。

 白無垢姿の淑恵と、袴姿の榊原を中心にして、仲人や家族と思しき面々が映っている。集合写真なので遠目だが、写真の中の淑恵はため息が出るぐらい美しい。

「ええ、そうよ。今はもうなくなってしまったけれど、『リトルオールドホテル』で披露宴をやったの」

「リトルオールドホテルですか」

 さやかが白虎組の代打ちとして、ホテル跡地のゴルフ場化を拒むホテル側と戦った場所だ。尤も、あの時は怪現象に見舞われて、さやかが途中欠席したまま勝負が終わってしまったが。

 そういえば『リトルオールドホテル』のゴルフ場計画を持ち込んだのは、榊原だ。さやかはハッとした。

「『リトルオールドホテル』については、さやかさんにもお骨折りいただいたんですってね。ごめんなさいね、主人のわがままに付き合わせてしまって」

「いえ、そんな」

 それに『リトルオールドホテル』をゴルフ場にするという話は、結局、ホテルの幽霊話を気味悪がった組長によって、白紙にされてしまった。

「夏目さんには申し訳ないけれど、あの話が立ち消えになって、私は良かったと思ってるの」

 淑恵の言葉に、さやかも頷いた。

 ――奥さんとの披露宴があった思い出の場所をゴルフ場にするなんて、デリカシーがなさすぎる。

 淑恵はご覧になって、と言って、写真立てを指さした。

「披露宴はね、冬枝さんにも来ていただいたのよ」

「えっ。どこですか」

 さやかがよく見ると、集合写真の隅のほうに、黒いスーツを着た冬枝が不愛想に映っていた。

 ――かっこいい。

 写真の中の冬枝は、20代ぐらいだろうか。モノクロの写真でも、端正な顔立ちがはっきりと分かった。

 さやかが写真を食い入るように見つめていると、淑恵がくすくすと笑った。

「あっ。す、すみません」

「いえ、いいのよ。夏目さんと冬枝さんはとても仲がいいって、主人からも聞いていますから」

 榊原は、さやかと冬枝の関係をなんだと思っているのだろう。さやかはちょっと赤面した。

「東京から来て、色々とご不便なこともあるでしょう。困ったことがあったら、なんでもおっしゃってくださいね」

 帰り際、淑恵はそう言ってくれた。

 議員の娘で若頭の妻でもありながら、淑恵はさやかのような代打ちにまで気を使ってくれる。さやかは、淑恵のことがすっかり好きになっていた。

「今日は、ありがとうございました。冬枝さんにも、僕から伝えておきます」

 さやかはアップルパイの籠を持つと、「冬枝さんも、きっと喜ぶと思います」と言って笑った。

 淑恵が、ふと目を細めた。

「夏目さんは、麻雀がとってもお強いのですってね」

「はあ。恐れ入ります」

「主人も、麻雀が大好きなの。よかったら、今度主人とも打って差し上げて」

「は、はい。ぜひ」

 白虎組の若頭と麻雀――。さやかより、冬枝が恐縮しそうだな、とさやかは内心で苦笑した。

「あの人ったら、最近、自動卓も買ったのよ」

「えっ。自動卓があるんですか」

 思わず目を輝かせたさやかに、淑恵が「ここにはないわ」と笑った。

「私は、麻雀はさっぱりだから…。でも、夏目さんならもしかして、主人の買った自動卓を見せてもらえるかもしれないわね」

「はあ」

 自動卓は、組事務所にでも置いているのだろうか。そう思ったが、淑恵の言い方には何らかの含みがあるような気がした。

「ごめんなさいね。実は少しだけ、夏目さんのことを疑っていたの」

「えっ?」

「でも、私の勘違いだったわ。こんなに真面目なお嬢さんを疑うなんて、どうかしていたわね。本当にごめんなさい」

「いえ、あの…」

 話の内容より、淑恵がとても哀しそうに見えて、さやかは慌ててしまった。

「今日お会いしたことは、主人には内緒にしておいてください」

「は…はい」

「これからも、主人をよろしくお願いします」

 淑恵の笑みは最後まで優しく、そして寂しげだった。

 ――まさか、な。

 嫌な想像が脳裏をかすめたが、そんなはずがない、とさやかは首を振って打ち消した。



 夏目さやかは、冬枝にとって非常に扱いやすい代打ちである。

 ヤクザにも、裏社会での麻雀にも、抵抗がない。本気の麻雀さえ打てればいいという、生粋の麻雀バカだ。

 だから、今夜の仕事だってきっと、快く引き受けてくれるだろう。冬枝は、そう願いながらマンションの自宅の扉を開けた。

「ただいま」

「おかえりなさい、冬枝さん!」

 普段は部屋にこもって麻雀雑誌を読み耽っている時間だが、今日のさやかは玄関まで出迎えてくれた。いつになく機嫌がいい。

「なんだよ、おかえりなんて。珍しい」

「ふふっ。僕、冬枝さんが帰ってくるの、ずっと待ってたんです」

 さやかは「じゃーん!」と言って、チェック模様のクロスがかけられた籠を差し出した。

「何だよ、これ」

「アップルパイです!すっごく美味しいから、冬枝さんも一緒に食べましょう」

 さやかの無邪気な笑みは、ぱあっと光を帯びていた。

 ――食い意地の張った奴だな。

 麻雀では怖いぐらい冷徹さを見せるくせに、素は食べ盛りの18歳女子だ。うきうきと籠からアップルパイを取り出すさやかに、冬枝は苦笑した。

「これから晩飯だぞ。いいのかよ」

「甘いものは別腹です」

 と言ってから、さやかは「そういえば、高根さんと土井さんは一緒じゃないんですか?」と聞いた。夕食は、台所番である高根の担当だからだ。

「あいつらとは、外で合流する。今夜は遅くなるからな」

「そうですか。じゃ、アップルパイは僕と冬枝さんで食べちゃいましょう」

 さやかは「内緒ですよ、冬枝さん」と言って、いたずらっぽく笑った。

「じゃ、コーヒーでも飲むか」

「はい!」

 冬枝がコーヒーを淹れると、さやかはアップルパイをぱくっと頬張った。

「おいひい~」

「良かったな。これ、どこでもらってきたんだ?」

 籠に入っているところを見ると、ケーキ屋で買ってきたものではないだろう。冬枝も、アップルパイにフォークを突き刺した。

「うーん…」

 さやかはちょっと悩んでいたが、「冬枝さんになら、言ってもいいかな」と言った。

「なんだよ」

「いえ、榊原さんには内緒にして欲しい、と口止めされてるんです。だから、冬枝さんも榊原さんには言わないでくださいね」

「なんで、榊原さん限定なんだよ」

 と言ってから、アップルパイを口に入れようとした冬枝の手が止まった。

 ――まさか。

「これ、榊原さんの奥さんからいただいたんです。この間、宮永議員のパーティーで仕事してくれたお礼に、って」

 さやかは「淑恵さん、すっごく素敵な人ですね!」と言って笑った。

「…………」

 オチャカイにオヨバレ、の意味を、冬枝はようやく理解した。聖天高校のOGである淑恵は、母校の人脈を通してさやかと接触したのだ。

 恐らく、さやかをいきなり若頭の自宅に招いて、緊張させないようにとの配慮だろう。上機嫌なさやかを見れば、淑恵がさやかに親切にしてくれたことは、冬枝にも分かる。

 ――まさか、今夜の仕事がバレてるわけじゃねえだろうが。

 女の勘というものは、存外に侮れない。淑恵の胸中はわかりようがないが、とにかく、最悪のタイミングでさやかが淑恵と会ってしまったことだけは確かだった。

「淑恵さんに、榊原さんが書いた掛け軸も見せてもらいました。榊原さん、達筆なんですね」

「あー…そうだな。組長の名刺とかも、榊原さんが書いてるからな」

「榊原さんの書を見せてくれた時、淑恵さん、とっても誇らしそうで……お二人、素敵なご夫婦ですね」

 さやかは「あっ、冬枝さんも、榊原さんたちの結婚披露宴に出席したんですよね!」と言った。

「ああ。もう20年も昔だが」

「僕、写真で見ましたよ。若い頃の冬枝さん、かっこいいですね」

「今はかっこよくねえってか」

 さやかから正面から「かっこいい」などと言われたので、冬枝はちょっと照れ臭くなった。

「今も……かっこいいですよ。別に」

 さやかはぼそっと言うと、照れ隠しのようにアップルパイをもぐもぐと食べた。

 妙にほかほかした空気が、冬枝とさやかの間を漂う。

「…………」

 いい雰囲気だ。このムードならいけるかもしれない、と冬枝は根拠のない自信を持った。

「さやか。今夜の仕事だが」

「はい」

「榊原さんの愛人と一緒に打ってくれねえか」

 その途端、さやかの顔から、すっと表情が消えた。

 ほかほかした空気が、一瞬にして、氷点下に変わる。

「そうですか」

 一切の感情がない声で「分かりました」とさやかは言った。

「…………」

 夏目さやかは、生粋の麻雀バカだ。

 だが、その前に生身の女だ。それぐらい、冬枝だって分かってはいた。

 弟分たちもいないリビングで、沈黙が耳に痛い。

 アップルパイは美味かったが、今は何の救いにもならなかった。

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