11話 さやニャン危機イッパツ!
第11話 さやニャン危機イッパツ!
その夜、キャバレー『ザナドゥー』の奥にある一席で、ヤクザ2人が顔を突き合わせていた。
「それにしても、『リトルオールドホテル』の件は痛快でしたね」
愉快気にグラスの中の氷を鳴らしたのは、白虎組組員・朽木である。
正面にいる彼の兄貴分、白虎組若頭補佐・霜田が眼鏡の奥の瞳を緩ませる。
「まったくですね。あの小娘に勝たれてしまった時は歯噛みしたものでしたが、結果良ければすべて良し、です」
朽木と霜田は今日、ひっそりと祝杯を上げていた。
というのも、『リトルオールドホテル』の利権話が立ち消えになったからだ。
ホテルの跡地をゴルフ場にし、その工事と経営で膨大な利益を得る。霜田のライバルである榊原が見つけてきた儲け話で、実現すれば榊原の大手柄になってしまう。霜田と朽木はホテルの利権を賭けた麻雀勝負を妨害しようとしたが、策は効せず、白虎組側の代打ち――夏目さやかが勝利を収めた。
これで榊原は勿論、その弟分で、朽木の天敵である冬枝誠二も出世への足がかりを得てしまう。朽木と霜田はすっかり落胆したが、事は思わぬ方向に進んだ。
『リトルオールドホテル』の幽霊の噂を聞いた組長が、気味悪がってこの件から手を引くと言い出したのだ。
霜田が、しみじみと虚空を見上げた。
「人の恨みを買って来ましたからねえ、組長は。意外とその手の話は信じるみたいで」
「おかげで、若頭と冬枝は骨折り損のくたびれ儲けですよ。あんなワガママ爺におもねってるからこうなるんだ」
渡世における親ともいえる組長に対する暴言だったが、霜田は朽木を咎めなかった。
「組長はいつまで、青龍会の件を先延ばしにするつもりなのか」
青龍会は関東を拠点にする広域暴力団で、白虎組の縄張りへの進出を目論んでいる。組内では、青龍会に帰属するか、青龍会に抗うかで、意見が真っ二つに割れていた。
組長は、地元の他組織と相談するといって、未だに去就を決めていない。霜田は焦れていた。
「青龍会に帰参すれば、白虎組は関東に太いパイプを通すことになる。田舎の一ヤクザではなく、日本有数の大組織の一員になれるんです。それが何故、組長には分からないのか」
朽木もまた、タバコの煙を物憂げに吐いた。
「青龍会の先鋒隊として乗り込んだ『アクア・ドラゴン』のガキ共は、うちのシマでのさばる一方です。このままでは、シノギにも影響が出ます」
「青龍会に恭順の意を示すだけで、全てが解決するというのに…朽木、何か手はありませんか」
霜田が尋ねると、朽木はアルマーニのスーツを着た肩をそびやかせた。
「霜田さんのためなら、なんなりと請け負いますよ。俺に考えがあります」
朽木が策を開陳すると、霜田がぱっと眉を開いた。
「それはいい。組長も納得してくれるでしょう」
忠臣顔で頷く朽木の脳裏には、『麻雀小町』――さやかの顔が浮かんでいた。
愚連隊『アクア・ドラゴン』、県内に上陸か――。
雀荘『こまち』で昼食を取っていたさやかは、テレビの地元ニュースでその報せを見た。
――おおごとになってきたな……。
件の『アクア・ドラゴン』については、さやかも既に噂を聞いていた。
「いいか、さやか。『アクア・ドラゴン』とかいうろくでもねえ不良集団がうろついてるから、夜は一人で出歩くんじゃねえぞ。できれば、雀荘も行くな」
冬枝からはそう注意されたが、さやかは後半部分を無視した。麻雀を封じられては、さやかは一日だって生きていられないからだ。
「さやかお姉さま。県警が『アクア・ドラゴン』に厳重に警戒する旨を、各教育機関に通達したそうです。お姉さまにはガードがついているでしょうけれど、どうぞお気をつけになって」
お嬢様学校で生徒会に所属しているというマキは、職員室で入手した情報をさやかに教えてくれた。
警察は『アクア・ドラゴン』に対処すべく、街の見回りや補導員を増員したという。
――冬枝さん、仕事やりづらくならなきゃいいけど。
元刑事である春野嵐は、流石に情報通だった。
「まんず、うちの警察で手に負える相手じゃねえわな、『アクア・ドラゴン』は。なにせ、正式メンバーが1000人超、下位メンバーだけでも500人はくだらないっていう、超大型組織だ。しかも、正式メンバーは全員、チャカを持ってやがる」
普段のふざけた様子から一転、嵐が真剣だったので、さやかは妙に感心した。
――本当に元刑事なんだな、嵐さんって。
「つっても、こっちに来てるのは恐らく下っぱ連中だ。万が一ヘタ踏んで捕まってもいい、トカゲのシッポ役にな。ガキばっかとはいえ、東京ではヤクの密売や売春の斡旋で、相当稼いでる集団だ。ズル賢さではこっちの大人を遥かに上回る」
さやかも気を付けろよ、と言って嵐はさやかの肩を叩いた。
「ダンディ冬枝に飽きちゃったからって、男漁りになんか走るなよ。逆ナンした相手が『アクア・ドラゴン』だった、なーんてこともありうるからな」
「しませんよ、男漁りなんか」
とはいえ、あの嵐がここまで言うほどだ。『アクア・ドラゴン』は本当に危険な集団なのだろう。さやかも認識を深めたところで、お昼のニュースに登場したわけである。
もしも『アクア・ドラゴン』がこの『こまち』に現れたら、冬枝が彼らの相手をしなければならないのだろうか。拳銃を持っているかもしれない集団と、冬枝を戦わせたくない。さやかは心配になった。
食後にコーヒーを飲んだところで、空いてる卓はあるかな、とさやかが喫茶スペースから席を立とうとした時だった。
「よう、『麻雀小町』」
「朽木さん」
アルマーニのスーツに、ロレックスをピカピカと腕に光らせている男――白虎組組員・朽木だった。
庶民的な雀荘では、余計にそのブランド固めの成金ファッションが悪目立ちしていた。
「ここに来れば会えると思ってな。元気か」
「何か用ですか」
朽木とはこれまでに、数々の因縁がある。さやかと茶飲み話をしに来たとは思えない。
朽木は、おどけるように肩をすくめてみせた。
「そう睨むなよ。ちょっと話をしねえか」
「話って?」
「人目のあるところではしづらい。表出ねえか」
さやかのことを平然と殴った男と、2人きりで話などできるわけがない。
断ろうとしたさやかを先回りするように、朽木は「冬枝の将来に関わる話だ」と告げた。
「………」
朽木は、以前にもさやかに嘘をついている。今回も、罠かもしれない、とは思った。
だが、さやかをからかうためだけに会いに来るほど酔狂ではないだろう。朽木の真意を探る必要がある。
さやかは朽木の誘いに応じて、近くの喫茶店『異邦人』に入った。
「『リトルオールドホテル』の件は残念だったな」
アイスティを注文した朽木が、挨拶代わりとばかりに皮肉った。
「別に。僕はただの代打ちですから、麻雀が終わればそこで仕事は終わりです」
白虎組若頭・榊原の手柄話が水泡に帰したことは、さやかも冬枝から聞かされていた。榊原、ひいては冬枝の出世が遠のいたことは残念だったが、朽木の前で口惜しがってみせたくはない。
仮にも自分の組の儲け話が流れたというのに、朽木は上機嫌だ。つくづく屈折した男だ、とさやかは思った。
「それで、本題はなんですか」
「おお、そうだったな。お前、冬枝を出世させたくはねえか」
「えっ…」
今しがた、冬枝の出世話が潰れたことを口にされたばかりである。冬枝のことを蛇蝎のように嫌っている朽木の意外な発言に、さやかは戸惑った。
「冬枝、昔は組の主要メンバーだったんだぜ。親衛隊のナンバー2で、先代からの信頼も厚かった」
「そう…だったんですか」
榊原から「冬枝は幹部になっていてもおかしくない」と聞いてはいたが、そこまで重要な立場だったとは。
親衛隊のナンバー2と言われてみれば、冬枝の腕っぷしの強さにも納得がいく。
――じゃあ、部屋にあったあの刀は……。
さやかの脳裏に、妖しいほどに研ぎ澄まされた刃の残像がよぎった。
「それが今じゃ、ヒラの組員に甘んじてる。冬枝は組のために体張ってきたっていうのに、理不尽だと思わねえか」
「どうして、そんなことになってるんですか」
「代替わりすりゃ、新しい組長が自分のお気に入りをそばに置きたがるのは当たり前だろ?必然、先代と親しかった連中はお払い箱だ」
そういえば、榊原も「当代は冬枝を疎んじている」と言っていた。先代組長の親衛隊という肩書を持つ冬枝を、今の組長が煙たがったとしても無理はない。
朽木の言葉を鵜吞みにするつもりはないが、筋の通った話ではある。
「地方の哀しさで、我が白虎組も閉鎖的なわけよ。お前、冬枝をこんな田舎で燻らせていいのか?」
「それは…」
冬枝自身も「当代のうちは出世は無理」と榊原にこぼしていた。冬枝自身にその気があっても、今の組長が現役のうちは、冬枝は不本意な地位にいるしかないのだ。
朽木がしかつめらしい顔で腕組みをした。
「白虎組にいたら、いつまで経っても出世なんか望めねえ。俺は、青龍会に行こうと考えてる」
「青龍会?」
青龍会といえば、ニュースでもよく見かける有名な暴力団だ。思わぬ話の成り行きに、さやかは目を瞬かせた。
「『アクア・ドラゴン』がここらで暴れ回ってるのは知ってるな」
「ええ」
「あいつらのバックには、青龍会がついてる。『アクア・ドラゴン』に地ならしをさせて、ゆくゆくは青龍会そのものがこの地に進出するつもりだ」
全国区の青龍会と、地方の一暴力団に過ぎない白虎組とでは、実力に差があり過ぎる。さやかの胸に、ざわざわと不安が広がった。
「青龍会と白虎組とで、抗争になるんですか」
「それが、今うちは二つに割れてる状態でよ。青龍会に服従するか、青龍会と闘うか」
朽木は右手と左手を天秤のように広げた。
「俺と霜田さんは、青龍会に服従すべきだと考えている。だが、若頭と冬枝は反対だ」
「冬枝さんたちは、青龍会と闘うつもりなんですか」
「白虎組の独立を守るために、だとよ。カッコイイよな、極道の鑑だぜ」
しらじらしく持ち上げてから、朽木は「だがな、さやか」と声を落とした。
「青龍会はチャカも持ってる、本物の武闘派集団だ。奴らと抗争となりゃ、流血は避けられねえ」
冬枝をヒラのまま飼い殺しにしている白虎組に、そこまで義理を果たす値打ちはあるのか――朽木にそう迫られ、さやかは答えに詰まった。
「青龍会に入れば、今よりいいポストだって狙える。東京じゃ誰も相手にしない四つ目結より、サツですら震え上がる蛇の目の紋のほうがいいに決まってる」
四つ目結は、白虎組の代紋だ。蛇の目は青龍会の代紋である。
さやかは、朽木が自分に会いに来た目的を悟った。
「…僕に、冬枝さんを説得しろってことですか。青龍会に従うように、と」
「そうだ。話が早くて助かるぜ」
さやかは、ひと口も飲んでいないアメリカンに目を落とした。
「ご存知の通り、僕はただの代打ちに過ぎません。僕のような若輩者が、冬枝さんを説得なんてできません。まして、こんな組の存亡に関わるようなこと」
朽木が「麻雀小町」と言って、ずいっとテーブル越しに顔を近づけてきた。
「冬枝が出世するのと、冬枝が一発撃たれてあの世に行くのと、どっちがいいんだ」
「そんなの、決まってるじゃないですか」
「お前の一言で、冬枝が救えるかもしれねえんだ。裸見せてでも説得しろ」
最後の言葉に、さやかは思わずテーブルをバンと叩いた。
朽木はニヤニヤしながら腰を浮かせると、テーブルから勘定書きを指でつまんだ。
「ここは奢っといてやる。冬枝の説得、頼んだぞ」
さやかは憤然と立ち上がったが、朽木の話を無視するわけにもいかなかった。
――冬枝さんを説得する、か……。
朽木の話など、まともに取り合わないほうがいい。だが、『アクア・ドラゴン』の脅威が実際に彩北市を侵食している以上、青龍会と白虎組の抗争、という話も現実味を帯びてくる。
青龍会に入って出世というのは、さすがに話がうますぎる。だが、銃弾飛び交うヤクザ同士の抗争で、冬枝が血を流すという可能性は否定できない。
――それは嫌だ…。
冬枝が朽木に金をむしられていたのも、元はと言えば冬枝がヒラの組員だからだ。冬枝に相応の地位があれば、朽木の無法など通らなかっただろう。
白虎組は、冬枝を守ってはくれない。そう思えば、青龍会にさっさと頭を垂れたほうがいい、という朽木の意見に賛同したくなる。
――でも、冬枝さんが賛成してくれるだろうか。
冬枝はけっこう見栄っ張りというか、いいかっこしいなところがある。白虎組が青龍会に吸収されるぐらいなら、死ぬまで闘うと言い出すかもしれない。
何より、朽木の勧めで冬枝を説き伏せる、という流れにさやかは抵抗があった。朽木の言葉の裏に、どうしても陰謀の匂いを感じるのだ。
喫茶店を出てから、様々に思いを巡らせていたさやかの前に、突如、3人の男が立ちふさがった。
「……!」
男たちは一様にツナギを着ていて、一見、工事作業員のような格好をしている。
「夏目さやかだな」
「…なんですか」
白昼とはいえ、昼休みを過ぎた平日の裏通りには人影もない。男3人に囲まれ、さやかの全身に緊張が走った。
――『アクア・ドラゴン』か。
しかし、男3人はどうして、さやかの名を知っているのだろう。凶悪な愚連隊に指名手配される覚えはない、とさやかが首を傾げたところで、男3人がさやかに跪いた。
「えっ?」
「良かった、ご無事で!」
「ヤクザに連れて行かれたのを見た時には、もう、どうなることかと思いましたよ!」
「大丈夫ですか、ケガしてませんか!?」
男3人に足元からベタベタとまとわりつかれて、さやかは困惑した。
「あの…あなたたちは一体、どちらさまでしょうか」
「俺たち、さやニャンのファンなんです!」
「さ…さやニャン?」
まさか自分のことじゃないよな、というさやかの願いも虚しく、男たちはとんでもないものを持ち出した。
「これ、さやニャンの隠し撮り写真です!ファンクラブで10万の値がついたレアものなんですよ!」
男が持っているのは、高校生だったさやかが、水泳大会に出た際の写真だ。プールサイドに佇む自分の姿が確かに映っていて、こんな写真はさやかも初めて見た。
「俺は、さやニャンの文化祭のライブを録音したテープを持ってます!」
男たちの1人がテープレコーダーを再生すると、さやかの歌声が流れてきた。さやかは恥ずかしくなって「やめてください!」と慌てて止めた。
「本物のさやニャンはやっぱり可愛いな」
「写真よりイイ」
「髪切ってもめちゃくちゃ美人だなあ、さやニャンは」
男たち3人は、恍惚としてさやかを見上げている。今にも感涙しかねないその様子に、さやかは目元がぴくぴくした。
「あの…あなたたちは、どうしてここに?」
「俺たち、さやニャンがここでヤクザにつきまとわれてるって聞いて、さやニャンをお守りするために来たんです!」
それで、さやかはピンときた。
――小池だな…。
葵山学院の生徒会長だったさやかが浪人したことは噂になっていても、冬枝というヤクザと行動を共にしていることを知っているのは、つい最近さやかと再会した小池ぐらいだ。
さやかのファンクラブを自称してはいるが、目の前の男3人は見るからに不良のようだ。ヤクザとの勝負をさやかに任せて逃げ出した同級生は、不良3人からさやかの近況を詰問されて、正直に白状してしまったのだろう。
「お気持ちはありがたいですが、お守りは結構です。僕は、ヤクザに付きまとわれてはいませんので」
「でも、さっきヤクザに喫茶店で絡まれてたじゃないですか!」
「あれは……」
いくら高級ブランドで身を固めたところで、朽木のヤクザ臭さは隠せないらしい。朽木との密会を見られたというのもなんだか不名誉だな、とさやかは肩を落とした。
「とにかく、どうか僕のことは放っておいてください。今は受験勉強に専念している身ですから」
さやかがきっぱりと断ると、男たち3人はしょんぼりとうなだれた。
諦めきれないのか、男たち3人が「じゃあ、さやニャンにすごいモノ見せてあげますよ!」と言い出した。
「すごいモノ?」
「ええ。素人の人は滅多にお目にかかれないブツですよ。兄貴たちからはダメって言われてるんですけど、さやニャンには特別に見せてあげます」
急に、話がきな臭くなってきた。嫌な予感がして、さやかは確かめずにはいられなくなった。
「あの…あなたたち、まさか『アクア・ドラゴン』の方じゃないですよね?」
「おおっ、すごい!さやニャンにまで、俺たちの名が知られていたなんて!」
「頑張ってよかったなあ、俺たち!」
手を取り合ってはしゃぐ男たちとは対照的に、さやかの顔から血の気が引いた。
――とんでもない連中に出くわしてしまった……。
話の内容から察するに、さやかに見せようという『ブツ』は、拳銃か違法な物品の類だ。そんな危険なものがある場所に、おめおめと出向くわけにはいかない。
「せっかくですが、僕は遠慮しておきます。じゃあ、これで」
「待ってください!さやニャンが来てくれないなら……」
男たちのうちの1人がテープレコーダーを掲げると、再生ボタンを押した。
高校生の頃のさやかの歌声が、大音量で流れ出す。
「さやニャンが来てくれないなら、これをラジオ局に届けて、流してもらいますよ!」
「そ、それは勘弁してください!」
男たちは「さやニャンの歌がラジオで流れたら、最高なのになあ」と口々に褒めそやしたが、さやかは顔から火が出そうだった。
その頃、冬枝は白虎組事務所に呼び出されていた。
「うちの若衆が捕まえた東京者が、妙なことを言ってる。ちょっと来てくれねえか」
電話してきた若頭・榊原の声は、当惑気味だった。
いま『東京者』といえば、『アクア・ドラゴン』のことに他ならない。榊原じきじきの呼び出しということは、相当の事情があるのだろう。冬枝はすぐに向かった。
事務所の一室には、榊原とその部下たち、そして椅子に縛り付けられた若者がいた。
「こいつですか」
「ああ。おい、てめえ、さっきの話をもう1回してみろ」
榊原が促すと、部下が若者の顔を上げさせた。
若者は、高校を出たばかりぐらいの、幼さが残る顔立ちをしている。
「放せよ。俺はここで捕まってる場合じゃないんだって」
続けて若者が「さやニャンのピンチなんだよ!」と言ったので、冬枝は面食らった。
――さやニャン?
冬枝はそういう名前の猫かと思ったが、若者は意外な名前を口にした。
「夏目さやかちゃんだよ!葵山学院の元生徒会長で、俺たちのアイドル!」
若者はさやかのファンなのだ、と明かした。
榊原の部下が、若者が持っていたという写真の束を冬枝に渡した。
「これは…」
そこには、ブレザーの制服を着たさやかの姿が映されていた。
写真の中のさやかは長い髪に白いリボンを留めていて、清楚な雰囲気を漂わせている。
冬枝に同行していた弟分2人が、後ろから覗き込んだ。
「わー、さやかさん、高校の頃かな?髪長いのも可愛いっすね。オレ、こっちのほうが好きかも」
「バカ、土井」
サングラスの相方を、高根がチョップしてたしなめた。
「おっさん、何ボーっとしてんだよ。返せよ、俺のコレクション!」
冬枝は、さやかの写真から目を上げた。
「すまねえな。あんまりべっぴんさんだから、見惚れちまってた」
「兄貴も髪長い方がいいと思います?」
「黙ってろよ、土井」
土井の額を、高根がぴしゃりと叩いた。
そういえば、小池も「さやかはメチャメチャモテていた」と言っていた。まさか、東京でファンクラブが出来るほどの人気者だったとは。
榊原が、冬枝に連絡してくれた理由が分かった。冬枝は若者に詰め寄った。
「おい。てめえ、その…さや…さやニャンのピンチってのは、一体どういうことだ」
「しらばっくれんじゃねえよ。てめえらの組の冬枝って野郎が、さやニャンを愛人にして、おんなじシャンプー使わせてるんだろ!」
「……………」
若者は、至極真剣な調子だった。榊原が、まじまじと冬枝を見つめている。
榊原の視線を感じながら、冬枝は額に手を当てた。
――小池ってガキだな。
以前、さやかに会いに来た同級生・小池に教えた内容と、目の前の若造が喋っている話は、ほぼ一致している。恐らく、小池は『アクア・ドラゴン』のメンバーにさやかのことを聞かれて、不良怖さにべらべら喋ってしまったのだろう。
「外を歩いてたら、さやニャンが冬枝っぽいヤクザに連れて行かれるのが見えたからさ。とっ捕まえてやろうとしたら、てめえらに邪魔された」
若者は「さやニャン、やっぱりヤクザの愛人なんて嫌なんだろうな。顔が真っ青だったぜ」と言った。
――俺じゃねえ。
冬枝本人が目の前にいるというのに、若者は気付いていない。さやかを連れて行ったという「ヤクザ」とは何者なのか。
「その…冬枝っぽいヤクザってのは、どんな奴だった」
「高そうなスーツと時計着けててよ。スケベな目つきの、いけ好かない野郎だった」
――朽木だ。
長年、冬枝からむしり取っていた慰謝料の件をさやかとの勝負で帳消しにされ、朽木はさやかを恨んでいるはずだ。さやかが危ない、と冬枝は直感した。
「さやかと朽…冬枝は、どこに向かった」
「そこの喫茶店だよ。でも、多分もういないぜ」
「なに?」
そこで、榊原の部下が、若者から押収したトランシーバーを差し出した。
「『アクア・ドラゴン』のメンバーは、これで連絡を取り合っているらしい。俺たちが捕まえた時にも、そいつは何事かを仲間に指示していた」
榊原が言うと、若者が「おうよ」と得意げにふんぞり返った。
「捕まる前に、仲間にさやニャンの居場所を教えたんだ。俺たち、さやニャンを冬枝ってヤクザから自由にしてあげるためにここに来たからな。今頃、仲間がさやニャンを絶対安全な場所に連れて行ってるはずだ」
「どこだ、絶対安全な場所って」
朽木どころではない。若者は正義面しているが、さやかは事実上『アクア・ドラゴン』にさらわれたも同然だ。
冬枝は若者の胸倉を掴んで問いただしたが、返って来たのは「俺も知らねえよ」という返事だった。
「俺たち、さやニャンのファンクラブ仲間だけど、仕事の担当は違うんだ。あいつらはもっと大事な仕事を任されたとかで、俺も詳しいことは知らされてねえ」
1000人を超える大所帯である『アクア・ドラゴン』が、チームを細分化して組織的なシノギを展開していることは、冬枝も知っている。若者をこれ以上問い詰めても、収穫はなさそうだった。
冬枝は若者に背を向けると、榊原に頭を下げた。
「すみません、榊原さん。わざわざ呼び出していただいて」
「別に構わねえが……。お前、さやかを囲ってるって、本当なのか?」
「ち、違いますよ!俺とさやかは、至極健全な関係であって…」
「えっ、オッサンが冬枝なのか!?」
若者と榊原の両者から、スケベ親父に対する白い視線を感じる。
冬枝は「やましいことは何もありません」と否定したが、自分で言っていて何だか情けなかった。
さやかが連れてこられたのは、2階建ての雑居ビルだった。
「このビル、俺らの兄貴が丸々借りてるんですよ。古いけど、けっこー立派でしょ?」
「俺たち、ここの見張りを任されてるんです」
「へえ…」
凶悪な不良集団と聞いていたが、目の前にいる男3人は至って無邪気だ。思っていたのと違うな、とさやかが疑問に思ったところで、その答えが明かされた。
「この仕事がうまくいけば、俺たち、『アクア・ドラゴン』の正式メンバーに加えてもらえることになってるんです」
「え…今は、メンバーじゃないんですか?」
「『アクア・ドラゴン』は都内ナンバーワンの組織ですから。正式メンバーになるためには、試験をクリアしないといけないんです」
男3人がノホホンとしているのは、『アクア・ドラゴン』の末端も末端、予備軍だったからだ。さやかは拍子抜けした。
――助かった、と思えばいいのかな。
どうやら男3人は『アクア・ドラゴン』としてではなく、単純にファンとしてさやかに接触しただけのようだ。小池のせいで冬枝との関係に余計な疑いを持たれてしまったが、ここでいくらか話し相手をしてやれば、彼らも満足してさやかを解放するだろう。
――だとしたら、これはチャンスかもしれない。
浮き足立ったこの男3人組なら、簡単に『アクア・ドラゴン』の情報を喋るだろう。冬枝のためにも、『アクア・ドラゴン』の秘密を聞き出しておきたい。
さやかは、にっこりと笑みを作った。
「皆さん、お仕事頑張ってるんですね。かっこいいなぁ」
「いやあ、それほどでも」
「さやニャンに褒めてもらえるなんて、夢みたいだなあ」
男3人組は「葵山学院の文化祭でライブを見た時から、さやニャンのファンで…」と思い出話を始めた。
「歌は下手なんですけど、聴いてもらえて嬉しいです。お話、もっと聞きたいな」
「あ、立ち話もなんだね。今、お茶入れるね!」
座って、と促されたのは、簡素な執務室のような場所だった。
「……」
雑居ビルには他に人がいる様子がなく、室内には家具もほとんど置かれていない。空きビルをとりあえず借りただけ、といった風情だ。
――この3人に見張りをさせているということは、ここには『アクア・ドラゴン』にとって重要な物品が保管されている可能性が高い。
湯のみと茶菓子を持ってきた男に、さやかは「あの」と声をかけた。
「外で言ってた『すごいブツ』っていうの、見たいなぁ」
「ああ、そうだった!さやニャンに会えて、すっかり忘れてた」
「あれ見たら、さやニャンもきっとビックリするよ」
さやかの隣に座った男が、おもむろに作業着のポケットを探った。
「ジャーン!見て、さやニャン!本物だよ、これ」
男が取り出したのは、黒光りする拳銃だった。回転式のリボルバーに、しっかりと銃弾が込められている。
――モデルガンではなさそうだな。
さやかの身に緊張が走った。正式なメンバーではない者にまで拳銃を与えているところに、『アクア・ドラゴン』の強大さがうかがえる。
さやかは内心を押し隠して「すっごーい。本物の拳銃なんて、初めて見ました」とはしゃいだ声を上げた。
「でしょ?俺、一応このチームのリーダーだからさ。特別にもらったんだ」
でも、さやニャンに見せたいものは他にある、と男たちは言った。
「ホントは見せちゃダメなんだけど、さやニャンに会えるなんてもう、奇跡だからさ」
そう言うと、男たちは3人がかりで2階から大きなケースを下ろしてきた。
頑丈そうな留め金を外すと、中にはマシンガンやバズーカ、ロケットランチャーなど、銃器のたぐいがこれでもかとばかりに詰められていた。
「すっごいだろ?これ全部、兄貴たちの武器なんだぜ」
「こんなにありゃ、警察どころか、軍隊だって怖くねえや」
上機嫌に笑い合う男たちを前に、さやかは凍り付いた。
――こんなに武装している相手に、冬枝さんたちが敵う訳がない。
まさか、『アクア・ドラゴン』が所持する兵器がこれで全てということはあるまい。『アクア・ドラゴン』が本気を出したら、彩北市は火の海と化すだろう。その最前線に冬枝が立つなど、考えただけでも恐ろしい。
――冬枝さんを、青龍会と闘わせるわけにはいかない。
さやかは、汗ばむ手をぎゅっと握り締めた。
その時、リーダー格の男の胸元から、ノイズのような音が鳴った。
「これ、トランシーバー。俺たち、これで連絡を取り合ってるんだ」
男は自慢げに紹介すると、トランシーバーを口元に当てた。
「もしもし、こちら3番。どうした?」
『こちら5番。大変だ、そっちに白虎組の奴らが向かってる』
「なんだって!?」
白虎組の名前に、男たちは色めき立った。
「きっと、さやニャンを連れ戻しに来たんだ」
「くそっ、冬枝の奴、なんてしつこいスケベ野郎なんだ。そんなにさやニャンを手放したくないのか」
――冬枝さん、スケベ野郎とまで言われてるよ。
さやかは内心で苦笑したが、冬枝が助けに来てくれるなら一安心だ。
「さやニャンを守らないと…」
「そうだ。俺たちは、そのために彩北に来たようなもんだ」
男たちは青ざめた顔を見合わせると、さやかの腕を掴んで両側から立たせた。
「さやニャン、こっちへ」
「えっ?」
「2階は絶対安全なんです。早く!」
抵抗する暇もなく、さやかはあっという間に2階の一室へと押し込まれてしまった。
コンクリート打ちっぱなしの殺風景な部屋に、扉が閉まるバタンという音が響いた。
「さやニャン、もう大丈夫だよ。ここの扉は鉄製で、そう簡単には壊れないから」
「ヤクザが入って来られないように、鍵かけといてあげるね!」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
さやかの制止も虚しく、階段を駆け下りる音を残して、男たちは去ってしまった。
――これって、監禁状態じゃないか…。
部屋には窓もなく、鉄製の扉はびくともしない。見たところ、外に出る術はなかった。
やがて、下の階から男たちが言い争うような声が聴こえた。時々、乱闘のような物音も混ざる。
――冬枝さん、大丈夫かな。
ほぼ素人のような連中とはいえ、一人は拳銃を持っている。さやかは、冬枝の無事を祈った。
ほどなくして、階下は静かになった。話し声が、外の方へと遠ざかっていく。
どうやら、白虎組の面々は『アクア・ドラゴン』の男3人組を捕まえて、外に出て行くようだ。2階に上がってくる気配はない。
「待って!行かないで!」
さやかはドアを叩いて叫んだが、男たちが帰ってくることはなかった。
後には静寂と、だだっ広い密室だけが残された。
――まずいことになった……。
このままでは、ここから出られない。最悪の場合、誰にも気付かれずに餓死してしまう。
脱出する方法を探すため、さやかは室内を改めて見回した。
大小の箱が雑然と置かれた、倉庫のような部屋だ。箱の大きさから察するに、ここにあるのも武器の類だろう。さしずめ、このビルそのものが武器庫で、さやかのファンという男3人は武器庫番というところか。
部屋の隅にある事務机に、小さな黒い機械がぽつんと置いてある。リーダー格の男が持っていたトランシーバーに似ているが、少し違う。恐らく、アマチュア向けのハンディ無線機だ。
さやかは、一縷の望みに賭けることにした。
組事務所をあとにした冬枝は、高根の運転する車でさやかの行方を探していた。
――必ず見つけてやるからな。無事でいろよ、さやか。
さやかが朽木と会っていたという喫茶店や、さやかの行きつけである雀荘『こまち』に行ってみたが、さやかの姿はなかった。
地元をシマにする白虎組ですら、『アクア・ドラゴン』の正確な行動範囲は把握できていない。さやかがどこに閉じ込められているのか、見当もつかないというのが正直なところだった。
「奴らは車ではなく、徒歩で行動していると言っていた。さやかが誘拐された場所も、そう遠くではないはずだ」
景気の良さも手伝って、それらしい怪しげなビルは街にいくらでもある。白虎組の名前を出せばビル内を確認するのにさほど手間取らないが、いちいちこんなことをしていたら、さやかの身が危ない。
イライラとタバコをふかす冬枝をバックミラー越しにうかがい、運転席の高根は強張った面持ちでハンドルを握った。
助手席にいた土井が、ひょいっと黒い小型の機械を取り出した。
「兄貴。ちょっと無線やっていいっスか?俺、最近ハマってるんですよ」
「バカ土井、こんな時に何言ってるんだ」
高根がハンドル片手にたしなめたが、土井は「でも」と反論した。
「『アクア・ドラゴン』の奴らって、トランシーバーで連絡取り合ってるんでしょ?もしかしたら、さやかさんを捕まえた連中の通信も傍受できるかも」
「そうか。その手があったか」
冬枝は膝を叩くと、「やってみろ、土井」と促した。
土井は「了解っ!」と言って、高々とハンディ無線機を掲げた。
土井は何度か周波数をいじってみたものの、聞こえてくるのは無線マニア同士の通信ばかりだった。『アクア・ドラゴン』の名すら聞こえてこない。
「くっそ。今、無線ブームだからなあ。こうなりゃヤケだ」
焦れた土井は適当に無線を操作すると、口元を近づけた。
「ハローCQハローCQ、こちらジェントル・エンジェル・セブン・ドラマティック・オーマイガー・アイラブユーです」
「なんだよ、そのコールサイン」
聞いてるほうが恥ずかしい、と高根が呆れたが、土井は「こういうのが今流行りなの」と言って、真面目な顔で同じセリフを繰り返した。
――こんなことしてて、ホントにさやかが見つかるのかよ。
後部座席の冬枝も、土井に任せたのは失敗だったか、と頭を抱えかけた時だった。
「……土井さんですか?」
無線機の向こうから、若い女の声が返ってきた。
「えっ。もしかして、さやかさん?」
「はい」
「さやか、無事か」
冬枝が後部座席から身を乗り出すと、さやかが「無事です」と答えた。
「僕は今、ワープロスクールの近くにある2階建ての……」
そこまで言いかけて、さやかの声が途切れた。冬枝が土井の肩を掴む。
「おい、土井。聴こえなくなったぞ」
「おかしいなあ、電波が届かなくなったのかなあ」
土井はハンディ無線機を上下に振ってみたが、さやかからの返事はなかった。
運転席の高根が、ハンドルを握る手に力を込めた。
「場所はわかりました。すぐに向かいます」
「おう。急いでくれ」
さやかは無事だと言っていたが、『アクア・ドラゴン』の連中がどう出るか、まるで分からない。冬枝に焦燥が募った。
まもなく、車は2階建ての廃ビルに到着した。
弟分2人が玄関を開けると、拳銃を構えた男が立ちはだかっていた。
「白虎組だな」
「おうおう、その通り。我こそは、四つ目結の紋に任侠の道を誓った、白虎組組員、土井穣でござる」
「やめろ、土井」
下手な歌舞伎の物真似をする土井に、高根が閉口した。
冬枝は、「さやかはどこだ」と尋ねた。
「田舎のヤクザなんかに教えるかよ。さやニャンは俺が守る!」
「うるせえ。てめえらだって青龍会の名前を笠に着て威張ってるじゃねえか」
男は拳銃を構えたまま、「軽々しく青龍会の名前を口にするな!」と叫んだ。
「悪いことは言わねえ。白虎組は、とっとと青龍会に降伏すべきだ」
「ガキに言われて、はいそうですか、って頷くと思ってんのか。うちの組、ナメんなよ」
「イキがっていられるのも今のうちだぞ。早くしないと、あいつらが来る」
――あいつら?
冬枝は、男の瞳に何か別の焦りが滲んでいるように感じた。
「あいつらって何だよ。朱雀組か」
朱雀組は、青龍会と抗争状態にある暴力団だ。組長を青龍会に殺された朱雀組は、報復に血眼になっているという。
男は、口先で笑い飛ばした。
「朱雀組なんか、ものの数にも入らねえよ。とにかく、ここにいたらさやニャンが危ないんだ。冬枝ってスケベなオッサンに追われてるからな」
弟分2人が噴き出しそうになった気配がしたが、冬枝は威圧して黙らせた。
「今しがた、冬枝の手先が俺の仲間2人を連れて行ったところだ。もう許さねえ」
どうやら、この辺りを見回っていた組員が、たまたま男の仲間を捕まえたらしい。中で閉じ込められているさやかには気付かず、そのまま引き上げてしまったのだろう。
男の指が、拳銃の引き金にかけられた。弟分2人が身構えたが、冬枝は平然と前に出た。
「兄貴」
「いいんだ。ガキにチャカの使い方を教えてやらねえとな」
そう言うと、冬枝は男の目の前にまで近付いた。
「く、来るな!」
「弾を使った様子がねえな。お前、仲間が捕まったってのに、一発も撃たなかったのか」
「うるせえ!ぶっ殺してやる」
冬枝の鼻先に、銃口が突き付けられる。
弟分2人が固唾を飲んで見守る中、冬枝は静かに告げた。
「『殺す』なんてな、言う前に相手のタマ取らなきゃただの能書きなんだよ」
冬枝の眼は、銃口よりも暗く冷え切っていた。
その目に男が一瞬、立ち竦んだのを、冬枝は見逃さなかった。
銃口を手でつかみ、そのまま男の左手を捻り上げる。
「いってえ!」
勢いで引き金が引かれたが、虚しく地面に穴を開けただけだった。
発射の反動でふらついた男を、すかさず高根と土井が取り押さえた。
「スミス&ウェッソンか。東京のガキはいいオモチャ持ってんな」
冬枝は男から奪った拳銃をくるくると手の中で回すと、男の額に突き付けた。
「さやかはどこにいる。答えな」
硬い鉄の感触が、男の皮膚にぐりぐりと食い込む。
横から土井が「うちの兄貴、怒らせると怖いのよ」と茶々を入れた。
男は冷や汗を流しながら、アスファルトを噛むようにして「2階」と答えた。
ハンディ無線機は、押しても捻ってもなんとも言わなくなってしまった。
「電池切れかな…」
周波数チェックの時点で、かなり時間がかかってしまった。さやかはハンディ無線機を机に置くと、冷たいパイプ椅子に腰を下ろした。
――でも、これで冬枝さんが助けに来てくれる。
ホッとする反面、さやかの胸に不安の影が差した。
武器庫の見張りが捕らわれたことは、じきに『アクア・ドラゴン』のメンバーに伝わる。白虎組に場所を知られた以上、すぐにここを引き払おうとするだろう。
冬枝と『アクア・ドラゴン』が鉢合わせするかもしれない。拳銃を持った連中と丸腰の冬枝が闘うのは、危険すぎる。
考えたら寒気がしたが、遅れてさやかは別の可能性に気付いた。
――そうなったら、僕も危ない。
さやかのファンを自称していた3人組と違って、『アクア・ドラゴン』のメンバーは乱暴で、女にも見境がないと聞いている。引っ越しの準備に来た連中と出くわしたら、さやかは無事では済まないだろう。
そこまで想像して、さやかは何だかおかしくなってしまった。
――僕、自分より冬枝さんの心配してた。
バカだな、と自分の認識の甘さを笑いながら、何だか胸が痛かった。
――冬枝さんに何かあったら……もう代打ちが出来なくなっちゃうから。
ヤクザの代打ちを任されるなんて、きっと人生でこれっきりだ。裏社会の人間と真剣勝負を打ちたいから、さやかは冬枝と共にいる。逆に言えば、面白い勝負が出来るなら、別に雇い主は冬枝じゃなくたっていいのだ。
胸のうちで理屈だててみたが、空しい言い訳になった。さやかは自嘲した。
――冬枝さんと一緒にいすぎたかな。
あの人はヤクザで、さやかより遥かに年上なのに。家族でも友達でもない相手のことを、さやかは自分以上に大切だと思っていた。
――この気持ちって、何なんだろうな。
ただの義理だろうか。それとも――…。
そんなさやかの思考を、「パン!」という銃声が打ち破った。
「……っ!」
『アクア・ドラゴン』が来たのか――さやかは身を強張らせた。
だが、ほどなくして聴こえてきたのは「さやか!」という冬枝の声だった。
「冬枝さん!」
「さやか!大丈夫か」
「はい。冬枝さんこそ、大丈夫ですか」
先程、銃声がした。もしかして冬枝が撃たれたのでは、とさやかは気が気ではなかった。
「何言ってんだ、お前は。それより、ドアから離れろ」
さやかが言う通りにすると、至近距離で銃声が3発、炸裂した。
大音響にさやかの耳も意識も真っ白になったところで、鉄製のドアがバンと蹴破られた。
「さやか!」
「冬枝さん」
冬枝の手に拳銃が握られているのを見て、さやかは一瞬、サッと体が冷たくなった。
――殺される。
何故か分からないが、さやかは冬枝が自分を撃つような気がした。
そんな錯覚も、冬枝の「良かった、ケガはなさそうだな」という声で打ち消された。
「はい。冬枝さん、ドア壊したんですか?」
「ああ。蝶番の部分が脆そうだったからな」
こともなげに言う冬枝に、さやかは冬枝がかつて親衛隊にいた、というのを思い出した。
――刀だけじゃなくて、銃も使えるんだ…。
蝶番だけが綺麗に壊れたドアが、床に転がっている。さやかは、冬枝の壮絶な過去を垣間見たような気がした。
「大変ですっ、兄貴!」
そこに、高根が大慌てで入って来た。
「どうした、高根」
「それがあの男、この建物はあと1分で爆発するって言ってて」
「何ぃ!?」
さやかはしまった、と己の考えが浅かったことを悟った。
――『アクア・ドラゴン』のような過激な組織が、場所を知られた武器庫をそのままにしておくわけがない。
他者に利用されたり、アシがついたりするのを避けるためには、建物ごと処分してしまうのが一番だ。恐らく、あらかじめ遠隔操作で爆破できるようにしてあったのだろう。
どうして最初にその可能性を考えなかったのか、とさやかは後悔した。
――早く逃げないと、冬枝さんが…!
と、さやかの身体がふわりと浮いた。
「えっ?」
「行くぞ、さやか」
冬枝に抱きかかえられているのだ、とさやかが気付いた時には、凄まじい速さで廊下を駆け抜けていた。
「冬枝さん、おっ、下ろしてくださいっ!自分で走れます!」
「うるせえ、今は緊急事態だ」
冬枝は3段飛ばしで階段を降りると、電光石火でビルから飛び出した。
「兄貴、おかえりなさーい」
駐車場で男をふんじばっていた土井が、呑気に片手を上げたのと同時に。
さやかと冬枝の背後で、爆発音が轟いた。
地面が揺れたような衝撃と、遅れて熱風が吹き抜ける。
「ひい~っ」
ギリギリで脱出するのが間に合った高根が、地面に這いつくばっている。
ビルの窓が割れ、火炎と共に真っ黒な煙が吹きあがる。あと数秒遅れていたら死んでいた、とさやかはぞっとした。
「じきにサツが来る。ずらかるぞ」
すぐ後ろでビルが爆発したというのに、冬枝は落ち着き払っている。
流石だなあ…と感心しかけたさやかだったが、自分が未だに冬枝の腕の中にいることを思い出して、手足をばたつかせた。
「あの、そろそろ下ろしてくださいっ」
「ん?ああ、そうだったな」
冬枝は「お前、軽いなあ。抱えてる気がしなかったぞ」と笑ったが、さやかはむーっと目を細めた。
――いきなり抱っこなんかして、子供扱いするんだから。
一方、車に乗り込みながら、冬枝は密かに安堵の息を吐いていた。
――危ねえところだった。
冬枝の到着が少しでも遅れていたら、さやかはビルごと吹き飛ばされていた。土井に感謝しないといけねえな、と冬枝はサングラス姿の弟分を少し見直した。
尤も、土井本人は炎上するビルを見ながら「爆発するってマジだったのねー…」と放心していた。
「さやニャンが無事でよかったよお~!!」
泣きじゃくる『アクア・ドラゴン』の男に、さやかが頬を引きつらせている。冬枝は男の首根っこを掴んで後部座席に押し込み、さやかは助手席に座らせた。
冬枝たちを乗せた車とすれ違うようにして、サイレンを鳴らした消防車が走り抜けていった。
市内で火事、『アクア・ドラゴン』の犯行か――。
朝のニュースでは、さやかが監禁されていたビルが、無残に焼け焦げた姿でテレビに映されていた。コーヒーを飲みながら、さやかは改めてぞっとした。
―― 一歩間違っていたら、僕もああなっていたんだ。
『アクア・ドラゴン』は危険すぎる。やはり、『アクア・ドラゴン』、ひいてはその背後にいる青龍会と、冬枝を対峙させるわけにはいかない。
だが、青龍会に降ってくれとも、朽木から説得を頼まれたことも、さやかは冬枝に言えずにいた。さやか自身、どうすればいいのか分からなかった。
――冬枝さんにとって、何が最適解なんだろう……。
と、さやかの耳に、どこからか音楽が聴こえてきた。
「…ん?」
音源は恐らく、冬枝の部屋だ。ラジカセでも流しているのか、ロックのような前奏と人の声がする。
それが『アクア・ドラゴン』の男が持っていたテープだと気付いたさやかは、猛然と冬枝の部屋の扉を開けた。
「冬枝さんっ!!!」
「ん?なんだよ、ノックぐらいしろよ」
冬枝はわざとらしく言いながら、にやにやとカセットテープのインデックスを眺めた。
「『さやニャン、葵学文化祭ライブ』か。へえ」
「聞かないでください、こんなものっ!」
さやかは停止ボタンを押そうとしたが、冬枝によってひょいとラジカセを持ち上げられてしまった。
「けっこー上手いじゃねえか。なに照れてんだよ」
「好きで歌ったわけじゃありません!ボーカルの子が風邪で休むことになったから、生徒会長として助っ人に出ただけです!」
「助っ人ねえ。その割には、熱唱してるじゃねえか。これ、『晃司さん』の曲だろ?」
「……っ」
図星なのか、さやかが頬を赤くした。さやかが吉川晃司の大ファンなのは、冬枝も知るところである。
さやかはもじもじと両手の人差し指をつつき合わせた。
「確かに、男子バンドに僕が出るのはちょっと違和感ありましたけど…。他の生徒は人前で歌うなんて嫌だってごねるから、仕方なく」
「男子バンド?」
冬枝の声が1オクターブ下がった。
――そうか、バンドはさやか以外男子だったのか。ほぉーう……。
冬枝が男子高校生たちに殺意を抱いていることなど知らず、さやかはずいっと手を突き出した。
「テープ、返してください」
「やだよ。これは、俺がもらっとく」
「なんでですか。そんなもの、冬枝さんが持ってたって仕方ないでしょう」
「毎日朝晩、さやニャンの歌を聴きたいんだよ」
冬枝がラジカセに頬擦りすると、さやかは「さやニャンって呼ばないでください!」と両拳を握った。
その様子が何だか可愛らしかったので、冬枝はこれみよがしにラジカセを左右に振り回した。
「さーやニャン」
「やめてください!」
「さやニャーン」
「だまれ!」
ラジカセを止めようと躍起になるさやかは、猫じゃらしにじゃれる猫みたいだ。冬枝はなんだか面白くなってしまった。
ぷりぷり怒っている目の前のさやかに、髪の長い女子高生だったさやかの姿が重なる。
『アクア・ドラゴン』のさやかファンから、テープのついでにさやかの高校生時代の写真も押収したことは、冬枝は黙っておいた。