10話 リトルオールドホテルの怪
第10話 リトルオールドホテルの怪
丸いライトに照らされた鏡に、さやかとマキの顔が並んでいる。
「さやかお姉さま、とってもお似合いよ。そうだ、次はこちらの口紅を試してみたら?」
「さっきの口紅と、何が違うんですか?」
「もう、お姉さまったら!ほら、これは青みがかった赤で、さっきのは明るい赤色。ああ、ピンクもいいかもしれませんわね」
さやかがいるのは、駅前にある百貨店の化粧品コーナーだ。
朝、図書館で受験勉強をしていたさやかは、マキと顔を合わせた。
マキは先日、さやかが朽木に勝利したことをお祝いし、改めてお礼がしたいと申し出た。
「学校はいいんですか?」
「わたくし、今日は風邪でお休みですの。うふふっ」
地元でも有名なお嬢様学校に通っていながら、堂々たる不良少女っぷりである。さやかも不良浪人生なので、人のことは言えないが。
お茶でもしないかと誘うマキに、さやかは買い物に付き合って欲しいと頼んだ。
珍しく百貨店になど出向く気になったのは、先日、スナック『五月雨』に行ったことがきっかけだった。
華やかなメイクをしたママやホステスたちに囲まれる冬枝を見ていたら、自分も少しはお化粧したほうがいいかな、と思えてきたのだ。
――あんまり化粧っ気がないと、子供っぽく見られそうだし。
スナックで抱いた疎外感も、そのせいかもしれない。代打ちの相手は世慣れた大人ばかりだし、さやかもメイクで武装したほうが、相手から舐められなくなるだろう。
「さやかお姉さま、お肌きれいね。何色でもお似合いだわ」
マキは持ち前の押しの強さで、美容部員に口を挟むスキを与えない。あるいは、聖天高校のお嬢様ともなると、百貨店の美容部門など、自分の庭も同然なのかもしれない。
「マキさんほどじゃないですよ。マキさんのほうが美人です」
麻雀と学業に邁進してきたさやかは、この手の方面はさっぱりだ。色白に長い睫毛、血色の良い唇をしたマキのほうが、よほどメイクが映えそうだ。
「お姉さまにそうおっしゃってもらえると、お世辞でも嬉しくなっちゃう」
「お世辞じゃないですよ。マキさんなら、自分に似合う口紅を探すのも楽しそうですね。僕はもう、何がなんだか」
「さやかお姉さまは、麻雀ひとすじですものね」
でも、と言って、マキは意味ありげに笑った。
「麻雀ひとすじのお姉さまにも、綺麗になった姿を見せたい方がいらっしゃるのね。もしかして、カジノで一緒にいたおじさまかしら」
「ち、違いますよ!あの人はそういうんじゃないです」
さやかは思わず赤面したが、マキはころころと笑った。
「ふふふっ、だったらわたくし、責任を持ってお姉さまを変身させて差し上げなくっちゃ。お姉さまはもう誰からも殴られたりしないで、幸せになって欲しいもの」
「……マキさん」
マキは、さやかが朽木から殴られるところを間近で目撃している。あの時、朽木の言葉に呆然としていたさやかに代わって、マキがあれこれと世話を焼いてくれた。
「マキさんも、あまりケンカしちゃダメですよ」
「やだ、それは言わないお約束よ」
頬にファンデーションとチーク、目にはアイシャドウとマスカラ、そして口紅に香水などなど、マキは手際よくさやかをメイクアップしていった。
鏡を覗き込んださやかは、いつもと違う自分の顔に何だか体がむずむずした。
「うーん……変じゃないですか?」
「とっても素敵よ、お姉さま。お外を歩いたら、すぐにナンパされちゃいますわ」
「そうかな」
マキに勧められるがまま、いくつかの化粧品を購入すると、さやかは上の階にある下着コーナーに向かった。
「勝負下着ですわね」
マキがまた、含みのある笑みをさやかに向けたが、さやかは首を傾げた。
――ここぞって勝負のときに、下着でゲン担ぎするのかな。
確かに、今夜は代打ちの仕事があるので、ゲンを担ぐのも悪くないかもしれない。
尤も、さやかがここを訪れたのは、化粧ついでに嵐の言葉を思い出したからだった。
「お前、ブラとパンティーバラバラなのな。色気のないことで」
これまた、自分の子供っぽさを揶揄されたようで、思い出しても腹が立つ。だいたい、人の着替えを堂々と覗くような嵐に、そんなことを言われる筋合いはない。
とはいえ、生まれてからこのかた、母親が買って来たものをそのまま着てきたのは事実だ。もう18歳なんだし、自分で一揃い買ってみるか、と思い立った次第である。
「何色がいいかな」
「さやかお姉さまなら、水色なんていいんじゃないかしら。ほら、これなんて、レースの刺繍がとっても上品よ」
「本当だ。可愛いですね」
デパートのランジェリーは、さやかがこれまで着てきたシンプルな下着よりも大人っぽくて、手にするとドキドキしてしまう。これを自分が身に着けるなんて信じられないが、手に取って眺めているうちに、いい加減、大人としての自覚を持たなければ、と気が引き締まる。
――確かに、勝負のときはこういうのを着けたほうがいいかもしれない。
「今夜、大事な勝負なんです。どうせだから、ここで選んだやつを着ていこうかな」
さやかが何気なく言うと、マキの顔つきが変わった。
「マキさん?」
「…少々、お待ちを。ちょっと、そこの方」
マキは慣れた調子で店員を呼びつけると、一言二言、会話を交わした。
店員がうやうやしく持ってきた何種類かの下着に素早く目を通すと、マキはその中の一着を手に取った。
「お姉さま、こちらはいかがかしら」
「えっ!?あの、マキさん、これはその…み、見え過ぎじゃないですか?」
マキが選んだ下着は、白く光沢のあるリボンに、花びらのようなフリルがついていて、とても可愛らしいデザインだ。しかし、いかんせん、レース模様が透けている。
これでは、隠れる部分よりも、露出する面積のほうが大きいような…と逡巡するさやかに、マキは「これでいいのよ」と素の口調に戻って言った。
「主役は下着じゃなくて、さやかの肌なんだから」
「は、はあ…。そういうものですか」
しかし、雪のように真っ白な下着は、汚れが目立ちそうな…と心配するさやかに、マキは再び「これでいいのよ」と言った。
「暗いところなら、白いほうが際立って見えるわ」
「は、はあ…」
夜、お風呂に入る時に、暗い脱衣所でも着替えを探しやすいようにという配慮だろうか。さやかはちんぷんかんぷんだったが、マキの顔があまりにも真剣で、口答えが出来ない。
さやかは他にもいくつか、普段用の下着を購入した。もちろん、ブラジャーとショーツは揃えた。
さやかが冬枝のマンションに戻ると、男3人分の靴が仲良く並んでいた。
――冬枝さんたち、帰ってたんだ。
冬枝は、夜まで外に出ていることが多い。日中に戻っているなんて珍しいな、と思いながらリビングに行くと、冬枝がソファの上からこちらを振り返った。
「おー、さやか、おかえり」
「っ!?す、すみません!」
冬枝が上半身に何も着ていなかったので、さやかは慌てて回れ右した。
さやかの反応を見て、冬枝もちょっと照れ臭くなったらしい。そばに控えている弟分の高根を「おい」と言って急かした。
「高根、さっさと貼れよ」
「はい、兄貴。この辺ですか?」
「そうそう、その辺」
どうやら、冬枝は背中に湿布を貼るところだったようだ。ケガでもしたのかな、と気になったさやかは、こっそり覗き見た。
ソファ越しに見える冬枝の背中に、ちらりと模様が見えた。
「冬枝さん、刺青入れてるんですね」
「ん?ああ、昔な。若い娘があんま見るもんじゃねえぞ」
冬枝は刺青を隠すように、さっさと黒のシャツを着た。
「最近、グレたガキどもがその辺うろついててな。うちのシマでカタギ相手に暴れてたから、とっちめたところだ」
「それで、湿布を…」
43歳、という冬枝の年齢を思って、さやかは気の毒になった。
「お疲れ様です。ケガしてないですか?」
「半グレ相手にケガなんかするかよ」
「大丈夫ですよ、さやかさん。兄貴のこれは、パチンコ台にぶつけただけですから」
「バカ高根、余計なこと言うんじゃねえ」
パチンコ店の狭い通路で掴み合いになったため、背中を遊技台にぶつけてしまったらしい。さやかは想像してちょっと笑ってしまった。
「おい、笑うなよ」
「ふふ、すみません。お大事にしてくださいね」
冬枝は背中をぶつけたのがよほど悔しいのか、そっぽを向いてさやかのほうを見ようとしない。
――これじゃ、僕がお化粧してるのにも気付いてくれそうにないな…。
まあ、いいけど、とさやかは肩にかかった髪をさっと払った。
「おかえりなさい、さやかさん」
風呂掃除から戻ってきたもう一人の弟分・土井が、掃除用具を床に置いた。
「あ、買い物帰りですか?お荷物、持ちますよ」
「あっ」
帰宅したらすぐ洗濯するつもりだったので、『勝負』用の下着だけ、剝き出しで袋に入れてあった。あれを見られては恥ずかしいので、さやかは慌てて土井の手から袋を奪った。
「だっ、大丈夫です。ありがとうございます」
さやかがそそくさと洗濯機のほうに向かうと、リビングに男3人が残された。
途端、冬枝は高根と土井を両脇に抱えて、3人で顔を突き合わせた。
「さやかの奴、やけにめかし込んでるが、今日はなんかの日か?」
「いい匂いしましたね。香水でしょうか」
「あいつ普段、香水なんてつけてたか?」
「お化粧してるところだって、初めて見ましたよ」
「コレじゃないですかね」
土井が親指を立てると、冬枝と高根が凝然と土井を見た。
サングラスの仏頂面は、声を潜めてこう言った。
「さっき、さやかさんの買い物袋の中身がちらっと見えたんですけど。めちゃくちゃセクシーな下着が入ってました。スケスケレースの」
「………」
冬枝と高根はしばし、無言で顔を見合わせた。
化粧。香水。そして、スケスケレース――。
ハッと我に返った冬枝が、「バカ!」と土井をしかりつけた。
「女の買ったものなんか、覗くんじゃねえ。さやかにだってプライバシーがあるんだぞ」
「でも兄貴、西武の袋でしたよ。あの感じだと、下着とか化粧品とか、けっこー高いの買ったんじゃないですかね」
「さやかさん、ずいぶん気合入ってるな」
「さしずめ、本命とのデートが間近に控えてる、ってところかと」
そう言うと、土井は高根と並んで冬枝の顔をまじまじと見た。
「本命……」
弟分たちの視線にも気付かず、冬枝は考え込んだ。
これまでに得た情報を総合すると、さやかの『好きな人』は「吉川晃司似のおっさん」で冬枝の中ではイメージされている。
さやかの性格は熟知している。真面目な女子だから、男が出来たところで、代打ち業に支障はきたさないはずだ。多少、色気づいたって放っときゃいいじゃないかと思う。
だが、知らない男のために化粧をしているさやかを、冬枝が直視できなかったのも事実だった。
午後になり、白虎組事務所で定例会議が開かれた。
組長室には、組長・熊谷雷蔵をはじめ、若頭である榊原と補佐の霜田の2人、そして冬枝と朽木など、組員数名が並んでいる。
お決まりの挨拶が済んだ後、最初に報告したのは冬枝だ。
「今日、うちのシマのパチンコ屋で、東京者とみられる坊主を捕まえました。締め上げたところ、自分は『アクア・ドラゴン』の人間だ、と白状しました」
――ったく、今時の若者は、どういうネーミングセンスしてるんだ。
小っ恥ずかしいチーム名だが、その名が持つ意味は重い。
榊原が冬枝の後を引き取った。
「『アクア・ドラゴン』は、青龍会傘下の愚連隊だ。20歳前後の若者が主だが、青龍会の名を後ろ盾にしているだけに、タチが悪い」
集った面々の顔に、緊張が走る。朽木も続けて報告した。
「俺のシマのキャバレーでも、ホステスを攫おうとしたガキを2人とっ捕まえました。そいつらも『アクア・ドラゴン』の所属だと言っています」
更に各組員から、理髪店や飲食店での踏み倒し、車上荒らしやカタギとのケンカなど、『アクア・ドラゴン』による無法の数々が報告された。
東京から来た不良たちが白虎組の縄張りで好き放題している、というだけでも問題だが、その背後には広域組織・青龍会が構えている。
「これらの行為は明らかに、青龍会の進出に先んじた露払いだ。由々しき事態といわざるを得ない」
榊原の総括に、冬枝も一人頷いた。
――ガキを派遣すりゃ十分と思われるあたり、田舎の哀しさだな。
東京を拠点とする青龍会にとって、地方の一都市など通過点に過ぎないのだろう。
会議は、進出を狙う青龍会にどう応じるか、で意見が真っ二つに割れた。
「青龍会は、非常に権威ある組織です。ここはこちらから兄弟盃を申し出て、直参として迎え入れていただくのが賢明ではないでしょうか」
若頭補佐・霜田は、暗に青龍会への降伏を促した。
――仮にも若頭補佐が、そんな弱腰でいいのかよ。
冬枝は内心で苦笑いしたが、霜田の意見に同意する者も多かった。
青龍会は、全国にその名を轟かせる大規模組織だ。地方の一暴力団に過ぎない白虎組では、まともな闘いにならないのは目に見えている。
一方、若頭・榊原は、霜田の意見に難色を示した。
「青龍会のような都会の組が、地理的に遠い白虎組を直参なんて好条件で迎えるとは考えづらい。青龍会から子分扱いされて、馬車馬のように働かされるのが関の山だ」
かといって、青龍会と正面切って争うわけにはいかない。ここは市民や警察と協力して、『アクア・ドラゴン』を締め出すしかない――というのが、榊原の主張だった。
冬枝は、両者のやり取りを少し冷めた目で見ていた。
――榊原さんらしいな。
榊原は、ヤクザが血で血を流す抗争に明け暮れていた頃から、穏健派で通っていた。現在の若頭という地位も、組長の秘書として地道に勤めて手に入れたものだ。
霜田にせよ、榊原にせよ、抗争を避ける、という考え方は共通している。冬枝は、時の流れを感じた。
――俺が時代遅れなんだろうな。
冬枝だって、東京のヤクザとドンパチ、なんて無謀を唱えるつもりはない。ただ、最初から闘わないことが前提なんて、極道も腑抜けちまったもんだな、と隔世の感を抱いた。
「青龍会はいま、飛ぶ鳥を落とす勢いです。その傘下に加えていただくことは、白虎組の発展にも繋がるでしょう」
「一度、侵攻を許せば、彩北は未来永劫、青龍会の支配下に置かれる。白虎組の独立を守り通すには、いま踏ん張るしかない」
霜田と榊原は、互いに一歩も譲らない。組員たちも、双方の間で心が揺れているようだった。
「秋津組長が殺された件をお忘れですか?青龍会は、手段を選ばない集団なんですよ」
「霜田!」
霜田の発言に、榊原が鋭い声を上げた。
青龍会が敵対する朱雀組の組長・秋津イサオを暗殺した件は、まだ記憶に新しい。
その件を持ち出すのは、青龍会に逆らえば組長とて命はない――と、組長を脅しているも同然だった。
組長は、いつも通り飄々とタバコをふかした。
「榊原、霜田。お前らの言いたいことは分かった。口喧嘩はその辺にしときな」
「はっ」
榊原と霜田が、そろって姿勢を正した。
組長は淡々と告げた。
「俺も、青龍会と事を構えるつもりはねえ。奴らはチャカを持ってるからね。下手に関わりゃ死人が出る」
青龍会への対応については、傘下の組と話し合って決めるとして、『アクア・ドラゴン』の無法は絶対に許さない、というのが、組長の結論だった。
会議が終わり、集まっていた面々は組長室を辞した。
事務所で、霜田が茶を飲みながら小声でなじった。
「組長の優柔不断にも、困ったものです。青龍会に恭順の意を示すなら、早いほうがいいというのに」
「まあまあ、霜田さん。霜田さんのご意見が正しいのは、親分も分かってますよ。ただ、他の組の手前、そう簡単に頭を垂れるわけにはいかないんでしょう」
朽木は安定して、霜田の太鼓持ちである。腹の内では何を企んでいるのだか、と冬枝は横目で2人を眺めた。
「冬枝」
帰ろうとする冬枝を、榊原が呼び止めた。冬枝のそばまで寄って来ると、声を落とした。
「『アクア・ドラゴン』は、若い女に目がないって話だ。お前のところの代打ち、気をつけろよ」
代打ちに過ぎないさやかの身を案じてくれる幹部など、榊原くらいのものだろう。その厚意に、冬枝は素直に頭を下げた。
「ありがとうございます。今夜の勝負、榊原さんのためにも必ず勝たせます」
その夜、冬枝とさやかは、郊外にある『リトルオールドホテル』にやって来た。
このホテルは、数年前の火事がきっかけで、今は廃業している。焼けたのは外から見えないフロアなのか、外観は往時のままだ。
「懐かしいな。昔はよく、ここでパーティーがあったもんだ」
「そうなんですか」
先代組長の誕生日パーティーや、幹部の結婚披露宴。ここでよく、兄弟たちと酒を酌み交わした。華やかなりしころの記憶が、冬枝の脳裏に蘇る。
――あの頃とは、何もかもが変わった。
先代は引退し、組内の顔ぶれは大きく変化した。組織再編によって組を去った者も多いなか、冬枝は残った。
――やめそびれた、と言った方が正しいが。
「今日は、ここで勝負するんですよね」
さやかの声で、冬枝は我に返った。
「ああ。何も、こんな陰気なとこでやらなくてもいいもんだが」
ホテル廃業の原因となった火事では、宿泊客数名が命を落としている。それ以来、夜になると白い人影が見える、女の泣き声がする、などといった噂が絶えない、いわくつきの場所である。
背筋がぞわぞわするのを誤魔化しながら、冬枝はさやかと共にホテルへと入った。
照明が灯されたフロントは、存外に綺麗だった。知らなければ、営業中だと勘違いしそうだ。
「ようこそ、冬枝さま、夏目さま」
丁重に頭を下げて出迎えたのは、このリトルオールドホテルの元支配人・湯浅だ。
態度こそ慇懃だが、湯浅は白虎組に真っ向から盾突いた気骨漢である。
「『リトルオールドホテル』の跡地。これを更地にして、ゴルフ場にしたい、というのが親分の意向だ」
控え室として与えられたホテル1階のラウンジで、若頭・榊原が説明した。
「ホテル建物の解体工事から、ゴルフ場への改装工事まで、全てうちの組が仕切ることになる。実現すれば、億単位の儲けが転がり込む話だ」
ところが、肝心のホテル側がこれを拒否した。
元支配人・湯浅が、玄関ホールに並べられた数々の展示品を紹介する。
「ご覧ください、こちらが初代社長のブロンズ像でございます。あちらには、社長自ら筆を取った山水画と、座右の銘を記した書が掛けられております」
他にも、社長愛蔵の壺だの、時代がかった骨董品が続々と出てくる。
初代社長の遺徳を偲び、そのコレクションを展示するミュージアムにしたい――というのが、湯浅がホテルを守ろうとする理由だった。
――誰が見るんだよ、こんなもん。
古めかしい調度品や社長直筆の書画など、冬枝には価値がさっぱり分からない。まして、社長ご自慢の品々とやらは、社長の怨念が染み付いているかのようで、冬枝は気味が悪かった。
壁にでかでかと飾られた社長の肖像画から目を背け、冬枝はさやかを連れてロビーへと向かった。
「…ん?」
「どうしました?冬枝さん」
「いや……」
真っ暗な廊下から、話し声が聴こえた気がした。一応、確認してみたが、開けっ放しになった扉の向こうは、物が散乱しているばかりだ。人がいるような雰囲気ではない。
――気のせいか。
いわくつきのホテルというのもあって、神経質になっているのかもしれない。こういうのは若い女のほうが怖がるんじゃねえか、と思って冬枝がさやかを見ると、さやかの耳に白いイヤリングが揺れていた。
「お前、イヤリングなんてつけてたのか」
「昼間からずっとつけてますよ。今気付いたんですか?」
「ああ、うん」
さやかが他の男のためにめかし込んでいる、と思うと心中穏やかではなかったため、冬枝はなるべくさやかを見ないようにしていたのだ。
さやかは白い貝殻のようなイヤリングにそっと触れると「今日は大事な日ですから」と言った。
心なしか頬を上気させながら「大事な日」と言うさやかに、冬枝の胸がざわついた。
――大勝負、って意味だよな。
億単位の大金が絡む勝負は、さやかが代打ちになってから初めてだ。
この大一番にさやかを推薦してくれたのは、他ならぬ榊原である。
「いいんですか、さやかで」
さやかは腕は確かだが、代打ちになってまだ日は浅い。古参の代打ちに任せなくていいのか、と冬枝は榊原に尋ねた。
榊原は、ラウンジの大きな窓に緑のスーツ姿を映した。
「さやかの腕前は、俺も知っている。それに、お前にでかい仕事をさせてやりたいんだ」
「俺に…ですか」
「冬枝」
榊原は、真剣な顔つきで冬枝に向き直った。
「本当なら、お前は幹部になっていてもおかしくない立場なんだ。それは、自分でも分かっているだろう」
「………」
冬枝は答えなかったが、2人の会話を聞いていたさやかは少し驚いていた。
――冬枝さん、そんなにすごい人なんだ。
確かに、冬枝は腕っぷしも強いし、シノギも真面目にこなしている。弟分たちやみかじめ先からも慕われているし、年齢を考えれば、ヒラというのが不思議なぐらいだった。
榊原の発言から察するに、冬枝はかつて、組の中枢にいたのではないだろうか。それなのに、今はヒラの組員に甘んじている。
――朽木とのいざこざのせいだろうか。
冬枝が東京にいた頃、弟分だった組員が、女性トラブルで朽木を刺してしまうという事件があった。冬枝は責任を取って東京を去り、朽木に慰謝料を払い続けていたが、出世しないのも朽木の件が原因なのだろうか。
――それとも、別の何かか……。
「冬枝を引き上げるのは、あいつの意志でもあるんだ」
榊原がそう言うと、冬枝がふっと遠い目をして笑った。
「当代のうちは無理でしょう。俺は、鼻つまみ者でしょうから」
「…そうだな。当代は、お前を疎んじている」
組長への忠誠心が強そうな榊原がそう言ったので、さやかは意外だった。
――組長さんが、冬枝さんを疎んじている?
冬枝は自嘲するように言った。
「いいんですよ、出世なんて。俺は過去の遺物です。元々野良犬の身ですから、こうして食いぶちがあるってだけでありがたいもんですよ」
榊原は何か言いたげだったが、そこで会話は終わった。
「というわけで、さやか。今回は、若頭じきじきのご指名だ。勝てばお前の名も上がるぞ」
冬枝は打って変わって明るく言ったが、さやかはじっと冬枝を見つめている。
淡く色の乗った唇につい、視線が吸い寄せられて、冬枝はちょっと狼狽した。
ふと、土井がさやかの買い物袋に「めちゃくちゃセクシーな下着」が入っていた、と言っていたことを思い出す。
――今、服の下に着けてんのか…?
さやかの服装はいつも通りのブラウスと紺のセットアップだが、この地味な服の下にはスケスケレースが――とあらぬ妄想をしそうになった冬枝に、さやかのつややかな唇が「…冬枝さんは、したくないんですか?」と問うた。
「んっ?ナニをしたくないって?」
「出世ですよ。幹部になりたくないんですか?」
「あ、ああ、出世、出世ね」
冬枝はよこしまな想念を頭から追い出すと、「ない、ない」と手を振った。
「人の上に立って号令するなんて、ガラじゃねえよ。榊原さんは俺を買い被ってるんだ」
「そう…ですか」
どこまで本音だろうか、とさやかは冬枝の気持ちを推し量った。
朽木の件といい、部屋の日本刀といい、冬枝は多くのことをさやかに隠している。
――冬枝さんが報われればいいのにな。
人の上に立つ気はない、というのは本心かもしれないが、さやかは冬枝が認められてほしいと思った。
「僕が勝てば、冬枝さんの昇進が近付くかもしれませんね」
さやかが半分本気で言うと、冬枝は「よせよ」と言って苦笑した。
2階まで吹き抜けになっているロビーが、今夜の勝負の舞台だ。
かつては豪奢な光を放ったであろうシャンデリアも、今はホコリとクモの巣にまみれて、薄暗い影を落とすばかりになっている。雀卓ひとつがぽつんと置かれた広い空間は、暗闇ばかりが目立った。
うっすらと寒気を感じて、冬枝は肩をすくめた。
――幽霊なんか出るわけねえ。
対するさやかはというと、まったく気にしていなかった。卓に並べられた牌を見つめる目は、憎たらしいぐらい落ち着き払っている。
――見た目は普通の女なのに、度胸があるんだよな、さやかは。
そんなさやかを見ていると、自分が繊細過ぎるのか、と冬枝は恥ずかしくなる。
若頭・榊原も見守る中、勝負は粛々と開始された。
「……」
「……」
広過ぎるロビーは、小さな音も反響する。咳払いすら躊躇われるような静けさの中、牌を置く音だけが淡々と響いた。
大金を賭けた勝負でも、さやかに緊張する様子はない。この分だと、今日も楽に勝てそうだ、と冬枝は安心した。
その時だった。
ガタン!という大きな音が静寂を破り、冬枝は心臓が止まるかと思った。
「なんだ?」
見ると、壁に掛けられていた風景画が落ちている。この音か、と安堵すると同時に、触れてもいないのに絵が落ちたことが不気味だった。
卓にいる面々も目を丸くしていたが、さやかはすぐに雀卓に向き直った。
「額縁が古くなってたんだろうな」
榊原はそう言ったが、何となく気味の悪さを感じているのが伝わってくる。
――何事も起こらなけりゃいいんだが……。
冬枝の願いも虚しく、続く東二局では、突然、窓をバンバンと叩く音が響いた。
「誰だ!」
冬枝がすぐに飛んでいったが、窓の向こうには闇が広がるばかりである。水垢で白くなった窓にくっきりと浮かぶ手形に、冬枝はぞっとした。
「きゃあ――――」
更に、どこかから女の悲鳴が聞こえてきた。不自然に甲高い声は、尾を引きながら闇に吸い込まれていった。
冬枝は、ロビーを出て周囲を見回したが、やはり人影は見当たらない。
「何なんだ、さっきから」
流石の榊原も、横顔を不安そうに曇らせている。
噂通りの怪現象が、次から次へと起こっている。冬枝は、暗闇のそこかしこに、得体の知れないものが潜んでいる気がした。
そんなことは意にも介さず、さやかは東三局も制した。ホテル側の代打ちはたいした腕ではなく、さやかは退屈そうである。
さやかは頼もしい限りだが、冬枝はホテルの不気味な雰囲気に神経がぴりついていた。廊下から、聴こえないはずの足音が聴こえた気さえして、ちらちら振り返ってしまう。
「……ん?」
と、冬枝の目線の先に、おかしなものが転がっていた。
――市松人形。
長い間、放置されていたのか、黒髪はボサボサに乱れ、赤い着物は毛羽立っている。
冬枝がさっき確認したとき、こんなものはなかった。廊下に横たわる人形が、見えない何かを見ている気がして、冬枝は背筋が粟だった。
「すみません。ちょっとお手洗いに行ってきます」
さやかは怪現象に怯えないどころか、片手を上げて悠々と席を立った。
――よく、こんな時にトイレなんか行く気になるな。
こうも次々に異変が起こっていては、さやかの身にも何かあるかもしれない。冬枝は、さやかについていこうとした。
「俺も一緒に行く」
「冗談ですよね、冬枝さん」
さやかから「やめてください」と真顔で断られ、冬枝は憮然とした。
――こっちは心配してやってるってのに、可愛くねえ奴だな。
心配だが、女のトイレ休憩に無理矢理同行するのも忍びない。
さやかは平然と一人でトイレに向かい、他の面々も休憩をとった。
直後、音もなく場が真っ暗になった。
視界が闇に閉ざされ、代打ちたちから悲鳴が上がる。
「停電か!?」
さやかが危ない、と冬枝は瞬時に動いた。昔とった杵柄で、ある程度なら夜目が利く。
ところが、ロビーを出ようとした冬枝は、何かに足を取られた。
「いてっ!」
不覚にも転倒したのは、足元の市松人形を踏んでしまったせいだった。舌打ちしてすぐに立ち上がると、冬枝はさやかのいる女子トイレへと急いだ。
「さやか!」
そこで、冬枝は目を疑った。
窓から月明かりの差す女子トイレは、扉の開いた個室ばかりが並んでいる。さやかの姿は、どこにもなかった。
「さやか!どこだ!」
冬枝は玄関ホールまで探し回ったが、さやかの姿はない。
こんな短時間で、そこまで遠くに行けるとは思えない。何より、さやかがこの場を離れる理由はなかった。
――誰かに連れ去られたのか。
一瞬、青龍会傘下の愚連隊『アクア・ドラゴン』の悪行の数々が、冬枝の脳裏をよぎった。
しかし、繁華街ならともかく、こんな街はずれの廃ホテルに、半グレ集団が現れるとは思えない。
――まさか、幽霊にさらわれちまった、なんてことは……。
冬枝は何度も呼び掛けたが、さやかは一向に見つからない。
さやかは、煙のように消えてしまった。
――俺がついていながら、どうしてこんなことに……。
冬枝は見つかるまでさやかを探すつもりだったが、30分以上経っても勝負を再開できず、他の面々が焦れ始めていた。榊原が決断を下した。
「冬枝。さやかの代わりにお前が入れ」
「榊原さん!今はそれどころじゃありません。さやかが消えちまったんですよ」
「分かってる。だが、湯浅が、勝負の中断は認めないと言ってるんだ」
「何ですって?」
冬枝がキッと鋭い視線を向けると、このホテルの元支配人は、わざとらしく会釈した。
そこで冬枝は、一連の怪現象は湯浅が仕組んだものではないか、と察した。
白虎組の代打ちが若い女だと知った湯浅は、幽霊の噂を利用して、さやかを怖がらせようとあの手この手を仕掛けた。
だが、さやかがまるで動じないのを見て、強硬手段に出たのではないか。さやかは今頃、ホテル側の人間に捕まっているのかもしれない。
こんなことならトイレまでついていけばよかった、と冬枝は悔やんだ。
実際、冬枝の推測はほぼ当たっていた。絵の落下も停電も、湯浅が仕組んだものである。
湯浅に知恵を授けたのは、白虎組若頭補佐・霜田とその部下の朽木だった。
「ゴルフ場なんて、とんでもない。若頭に大手柄を挙げさせてしまうじゃないですか」
次期組長の座を争うライバルが大仕事を手に入れて、霜田は焦りをあらわにした。
朽木とて、気持ちは同じだ。榊原が、冬枝に目をかけていることは知っている。榊原が財力をつければ、冬枝の出世も近付くだろう。
――女のヒモしてる分際で、偉そうにしやがって。
先日、朽木はさやかとの勝負に敗北した。そのとき冬枝に殴られた傷は癒えたが、プライドの痛みは治まらない。
霜田は廃ホテルの利権話そのものを妨害しようとしたが、朽木が止めた。
「霜田さん。ここは一つ、若頭と冬枝に恥をかかせてやりましょう。手に入れかけた大金を、あいつらのせいでみすみす逃したとなれば、親分だって怒り心頭のはずです」
冬枝たちに、敢えてホテル側と勝負をさせ、惨敗を喫させる。この作戦に霜田はもちろん、『リトルオールドホテル』の元支配人・湯浅も諸手を挙げて賛成した。
――格好つけて騎士を気取ってるからこうなるんだぜ、冬枝。
朽木は、ロビーの影に隠れて成り行きを見守っていた。
宴会場で霜田と話していたのを冬枝に聞きつけられた時には焦ったが、冬枝が室内まで踏み込まなかったおかげで、見つからずに済んだ。
――それにしても、あの女がいなくなったのはラッキーだった。
さやかの失踪は、朽木たちにも謎だった。さやかの拉致は考えなくもなかったが、絵の仕掛けなんかと違って、いくら暗闇の中でも至近距離でそんなことをしてはバレてしまう。
とはいえ、これで手間が省けた。幽霊騒ぎとさやかが消えたことで動揺している冬枝が相手なら、勝負は決している。
――むしろ、冬枝自ら、恥をかきに来てくれたようなもんだ。
代打ちとして日が浅いさやかならともかく、古参の組員である冬枝が自分で打って負けたとなれば、組長は黙っていないだろう。立会人である榊原の責任も問われるに違いない。
朽木と霜田は、暗闇の中でこっそり笑みを交わし合った。
ほどなくして、ロビーには明かりが戻った。
「場を確認しろ。牌がすり替えられている恐れがある」
榊原の指示で、冬枝はすぐに雀卓を確認した。
見たところ、牌がすり替えられた様子はない。だが、この停電がホテル側の仕組んだものである以上、さやかの手牌は筒抜けだと思ったほうがいいだろう。
さやかは、トイレに行く前に理牌していったようだ。丁寧に並べられた牌を見ていると、勝負の途中でさらわれたさやかの無念が思われて、冬枝は腹が立った。
――待ってろ、さやか。こんな勝負、すぐに終わらせてやる。
だが、勝負よりもさやかの安否が気にかかって、手がまとまらない。本当はすぐにでも席を立ってさやかを探しに行きたいぐらいだが、榊原の手前、それもできない。
「……何の声だ?」
代打ちたちが、不安そうに辺りを見回している。さやかの心配をしていた冬枝も、ようやく異変に気がついた。
ざわざわ、キャハハ、と、大人数が賑わい、さざめく声が、遠くから聞こえてくる。
この廃ホテルには、冬枝たちしかいない。場違いなほど明るいざわめきが、却って面々の心胆を寒からしめた。
これには、影に潜んでいた朽木と霜田も顔を見合わせた。
さやかがいなくなった以上、もう幽霊騒ぎを起こす必要はない。ホテル側が仕組んだものではないことは、湯浅の引きつった表情からも明らかだった。
――いるわけあるか、幽霊なんか。
朽木は虚勢を張ったが、こめかみに冷たい汗が流れていた。
いつしか謎のざわめきが遠のき、ようやく冬枝たちが平静を取り戻した頃、大音量で音楽が鳴り響いてきた。
「なんだ、この音は」
音階の狂ったメロディが、無性に不安を掻き立てる。獰猛な獣が、暗闇の中から脅しているかのようだった。
ホテルの元支配人・湯浅が青ざめた顔で「これは…」と呟いた。
「2階のオルゴールの音です。初代社長の趣味で、特注の仕掛けオルゴールが設置されているんです」
「それ、柱時計みたいに、時間になると勝手に鳴るのか」
冬枝が尋ねたが、湯浅は「いいえ。あれは特殊な仕掛けが施されていて、人形を所定の通りに動かさないと鳴らないようになっているんです」と説明した。
「それに…」
呆然とする湯浅の口から「オルゴールのある2階はシャッターで封鎖されていて、人が上がることはできない」という事実が明かされた。
歪んだメロディは、途切れながらもまだ鳴っている。いよいよ、面々に恐怖の色が濃くなってきた。
――畜生。さやかは無事なんだろうな…!
冬枝ですら逃げ出したくなってきたのに、さやかはこんな怪異の中で、どうしているのだろう。不安と焦燥を何とかしたくて、冬枝は一息にタバコを吸った。
「…ん?」
心なしか、吐き出した煙がところどころ、白く浮き上がって見える。
気のせいか、と思って冬枝が手牌に目を落とすと、手元の伍萬がキラキラ光っていた。
「……!?」
ほぼ暗がりといっていい卓上で、伍萬だけが光を帯びて輝いている。冬枝は目をこすったが、見間違いではないようだった。
――俺もついに、ヤキが回ったか。
怪現象に散々、振り回されているうちに、調子がおかしくなったのかもしれない。
無視して別の牌を手に取ると、伍萬を照らす光が何かを主張するかのように、ゆらゆらと揺れた。
「……?」
試しに、伍萬を切ってみた。すると、続けて別の牌がキラキラと光り出す。
――もしかして、安全牌を教えてくれているのか?
半信半疑で光の示す通りにしてみると、楽に手が仕上がった。その後は、流れるようにツモ牌で和了った。
「お強いですね、冬枝さま」
さやかの失踪で一安心していたであろう湯浅も、顔色を失っている。
冬枝はこの牌の切り方に、見覚えがあった。場の捨て牌を正確に読み、最適解を確実に導き出す打ち回し……。
――こんなことができるのは……。
さやかしかいない。冬枝は確信したが、光のほうを振り返るわけにもいかなかった。そんなことをすれば、さやかが冬枝をリードしていることが他の打ち手にバレてしまう。
――お前が無事なら、もうなんだっていい。
その後も、冬枝はさやかの光が指し示すままに牌を打った。代打ちたちが怪奇現象に腰を抜かしていたこともあり、冬枝はあっけなく勝てた。
「俺たちの勝ちだ。文句はねえな、湯浅」
榊原が念を押すと、湯浅は観念したように「……はい」と言って肩を落とした。
「榊原さん、さやかを探しに行ってもいいですか」
「ああ。待たせて悪かったな」
榊原の了承を得て、早速立ち上がった冬枝の耳に、「冬枝さーん…」というさやかの声が降ってきた。
「さやか!?どこにいるんだ」
「上です、冬枝さん」
見上げると、ロビーの吹き抜けの2階バルコニーに、さやかが悄然と佇んでいた。
「さやか!無事か?」
「それが、その…」
さやかは困ったように眉を八の字にすると、「助けてください…」と懇願した。
「降りられないんです」
「はぁ?」
さやかが語ったのは、およそ信じられない話だった。
「トイレから出たら、ちょうどそこに猫がいたんです。白いシャム猫で、綺麗な青いリボンを巻いていたから、どこかの飼い猫が迷い込んだのかなーと思って、捕まえようとしたんです。そしたら、いつの間にか2階に出ちゃってて。しかも、冬枝さんが卓にいるのが見えたから、びっくりしましたよ」
さやかはこともなげに言うが、おかしな点がいくつもある。冬枝は言った。
「そりゃ、お前が30分経っても見つからなかったから、仕方なく俺が出たんだろうが」
「30分?そんなに経ってませんよ。僕、ちょっとそこまで歩いたぐらいですから」
トイレに入っていた時間を含めても、自分が席を空けていたのはせいぜい4~5分だ、とさやかは主張する。
「じゃあお前、俺が呼んでたのは聞こえたか。あちこちで、さやかー、おーい、って呼び回ってたんだぞ」
「冬枝さんの声ですか?いえ、全然。虫の声もしないぐらいでした」
何より、最大の疑問点がある。さやかが、どうやってシャッターの降りた2階に上がったのか、だ。
「普通に廊下を2、3歩歩いたら、ロビーの上に出ちゃってたんですよね。すぐに降りようと思ったんですけど、いくら探しても階段が見つからなくて」
卓に戻れなくなったさやかは、持っていたコンパクトミラーにシャンデリアの光を反射させることで、冬枝を誘導した、と後に明かした。
だが、あの謎のざわめきやオルゴールの爆音に関しては、さやかは「聞いた覚えがない」と言った。
さやかを2階から脱出させるため、湯浅がフロントからシャッターの鍵を出した。
シャッターは、2階へと続く階段を塞ぐ形で下ろされている。どう考えても、さやかがここを通り抜けて2階に辿り着くのは不可能だ。
――きっと、従業員用の裏階段とか、そういうのがあるんだろう。
冬枝は、なんとかこの怪現象の辻褄を合わせようとした。でなければ、あまりにも説明がつかない。
最後に、湯浅が蒼白な顔でこう言った。
「青いリボンを巻いた白のシャム猫は、初代社長が飼ってらっしゃった猫と同じです」
帰り際、冬枝は玄関ホールに飾られた肖像画を振り返った。
絵の中では、恰幅の良い中年の腕に、青いリボンを巻いた白いシャム猫が抱かれていた。
――明日になったら、さやかをお祓いに連れて行こう。絶対に。
後味の悪いものを感じる冬枝とは対照的に、さやかは「おめでとうございます、冬枝さん。勝ちましたね」と、いつも通りの振る舞いなのがまた怖かった。
リトルオールドホテルを去った後、冬枝は打ち上げと称して、さやかを公園に連れて来た。
この北の街は、眠るのが早い。売店も遊園地も閉まった後の公園は、ひっそりと静まり返っていた。
冬枝は、自動販売機で買った缶ビールを開けた。
「冬枝さん、今日は飲みに行かないんですか?」
ベンチで隣に腰かけるさやかが、オレンジジュースの缶を片手に尋ねた。
「行かねえよ。お前と2人で飲みたい気分なんだ」
「え…」
ホテルでさやかがいなくなった時、冬枝は本当に肝が冷えた。数々の怪現象よりも、さやかが消えたことのほうが余程恐ろしかった。
だから、今はさやかを、すぐ手の届く範囲に置いておきたかった。
見上げれば、頭上には星空が広がっている。冬枝たちがリトルオールドホテルで薄気味悪い目に遭ったことなど素知らぬ風で、星々は澄ました光を放っている。
「ちょっと寒ぃな」
わざとらしく言うと、冬枝はさやかの肩を抱き寄せた。
「…!」
驚いたさやかの手の中で、握られたジュース缶が変な音を立てた。
――冬枝さん、また酔っ払ってるのかな。
つい最近、さやかは酔った冬枝から、夜道でいきなり肩を抱かれた。もっとも、あの時はさやかに絡んできた酔っ払いから守るため、という理由があったが。
それに、冬枝はまだ缶ビールを一口飲んだぐらいで、あの時ほど酩酊してはいないように見える。
――これも、お化粧の効果なのか…?
2人きりの公園で、酔っ払っていない冬枝から肩を抱かれている。これも、マキの選んでくれた化粧品のなせる業なのか。
冬枝の温もりが伝わってきて、さやかの頬が熱くなる。何か話さないと、心臓の鼓動が聴こえてしまいそうで、さやかは慌てて口を開いた。
「あ、あの、冬枝さん」
「ん?」
「今日は僕、勝負下着です」
「ブフッ!!!」
冬枝が盛大にビールを噴き出した。
「大丈夫ですか、冬枝さん」
「おまっ、勝負下着って」
土井の言っていた『スケスケレース』が頭をよぎり、冬枝は思わずさやかを凝視してしまう。
「……あんまり見ないでください」
さやかが顔を赤くして、そっと胸元を隠した。
「ああ、すまん」
それから、気まずい沈黙が降りた。
冬枝は、見るともなしにまた夜空を見上げた。
確かに、デートするにはちょうどいい月夜だ。さやかはホテルでの大勝負を無事制し、彼氏にいい土産話ができたといったところかもしれない。
一体、さやかの『スケスケレース』を拝めるのは、どんな男なのか。想像するのも腹立たしくて、冬枝はビールをぐいっと呷った。
その時、さやかの耳に揺れるイヤリングが目に入った。
ほんのり赤くなった耳朶に、白いイヤリングが映えている。
冬枝は手を伸ばすと、おもむろにさやかの左耳からイヤリングを外し取った。
「…っ?なんですか、冬枝さん」
冬枝の指が首元をかすめ、さやかがびくっと震える。
――これで、どこにも行けねえだろ。
冬枝は、イヤリングをスーツの内ポケットにしまった。
「これは、俺が預かっておく」
「は?」
「お前はこんなもんより、麻雀牌でも付けてたほうがお似合いだ」
冬枝が意地悪く言うと、さやかがむっとして眉根を寄せた。
「返してください」
「やだ」
「冬枝さんっ」
さやかが身を乗り出して抗議したが、冬枝はさっさとベンチから立ち上がった。
「さーて、家に帰るか」
「冬枝さん!僕のイヤリング、返してください!」
冬枝は缶ビールをゴミ箱に投げると、そのままポケットに手を突っ込んで歩き出した。
「冬枝さんっ!」
「さやか」
冬枝は首だけ振り返ると、「どこにも行くなよ」と言った。
「………っ」
さやかはぎゅっとジュース缶を握り締めると、ふん、と憎らしげな笑みを浮かべた。
「そんなに怖かったんですか、お化け」
「…うるせえ」
冬枝がそっぽを向いて歩きだすと、遅れてさやかもついてきた。