1話 極道も歩けば乙女にあたる
第1話 極道も歩けば乙女にあたる
血が燃えていた。
映画に出てきた極道たちには、熱い仁義があった。弱きを助け、強きをくじく。彫り物と共に背負ったプライドは、命よりも重かった。
かつて燃えていた極道の血は、今や灰のひとひらか、はたまた、時代の風に凍てついたのか。
昭和61年、東北の地方都市――彩北市。
銀行の窓口で口角泡を飛ばす男には、少なくとも、そんな極道の血は一滴たりとも流れていそうになかった。
「大事な預かり物の金、下ろせねえってどういうことなんだよ!あぁ!?」
ゴロツキがバンとカウンターを叩くと、柄物のシャツの胸元で、ジャラジャラと金銀のチェーンが揺れた。
眉をひそめる他の客たちを尻目に、中年の行員は笑みを引きつらせた。
「たいへん申し訳ございません、お客様。どうやら、名義人様のお名前に間違いがあるようで……」
「あぁ?てめえ、オレが悪いって言うのかよ」
「いえ、決してそのようなことは……。とにかく、口座の名義人様のお名前をもう一度、ご確認してから再度、ご来店頂きたいと……」
ガンッ!とゴロツキがカウンターを蹴り上げた。
「ふざけんなよ!さっきからトロトロ喋りやがって、オレのことバカにしてんのか?」
「め、滅相もございません」
「いいから、さっさとカネ、寄越せって言ってんだよ。オッサン、いい年してそんな簡単な仕事も出来ねぇのかよ。こっちは客だぞ?」
ゴロツキは充血した目で睨み付けながら、これでもかとばかりにカウンターに迫った。
その身体が、突然、ふわっとカウンターから浮いた。
北風に吹かれたかのように、ゴロツキは飛ばされ、瞬く間に、後ろの客用ソファに振り落とされた。
何が起こったのか分からず、ゴロツキ男が怪訝そうに辺りを見回すと――いつの間にか、目の前にスーツ姿の男が立っていた。
年は四十がらみか。長身痩躯に枯れ葉色のスーツと漆黒のシャツを着こなしているが、明らかに堅気の職業ではない。
陰のある端正な顔立ちに、呆れの色を滲ませてこちらを見下ろしている。
「何だぁ、オッサン」
「てめえみたいなのは客って呼ばねえんだよ、坊主」
「あぁ?ナメてんじゃねえぞコラ!ケガしたくなかったら消えろ!」
「そりゃこっちの台詞」
低く吐き捨てると、男は眼前に飛んできたパンチをかわし、ゴロツキに足払いをかけた。
「ぐっ!」
ゴロツキが倒れたところに、スーツの男が腕関節を逆方向に締め上げる。
「痛えっ!」
「そうかい、そりゃ何より。出口、どっちだか分かるか?」
男の口調は穏やかだったが、眼は氷原のように冷え冷えとしていた。
銀行ビルの裏手で、中年の行員が頭を下げた。
「ありがとうございました、冬枝さん」
「いえ…」
「少ないですが、今回のお礼です」
行員が愛想笑いで渡した封筒を、男は軽く会釈して受け取った。
「またああいう輩が来たら、電話してください」
「はい。それじゃ、失礼します」
行員の背中が見えなくなってから、男はそっと封筒の中身を覗いた。
「50万か。……ま、あんなガキ一匹相手にこれじゃ、もらい過ぎだな」
封筒を枯れ葉色のスーツにねじ込み、暗い路地裏から、日の当たる通りへと出る。
冬枝誠二、43歳。
ヤクザの年収がサラリーマンの4倍なんて言われた時代もあったが、少なくとも冬枝には、今まで裕福だった覚えはない。18の年から稼業にしているだけあって、マンションと車と弟分は人並みに持ち合わせているものの、家計はいつもギリギリだ。
――俺だって、銀行にたかれるならたかりてえぐらいだ。
ヤクザへの風当たりは年々強くなり、みかじめ料も減少の一途を辿っている。冬枝も、銀行やスナック、パチンコ屋の用心棒や雀荘の経営などをシノギにしているものの、稼いだ分だけ出ていくような暮らしである。
それというのも――。
「よお、兄弟。帰るところか」
メトロポリタンホテルの出入口から、女連れの男が片手を上げて出てきた。
これでもかと肌の出たドレス姿の女と、女に負けないぐらい派手なアルマーニをまとった男。
男の馴れ馴れしい挨拶に、冬枝は露骨に顔をしかめた。
「よせよ、朽木。てめえに『兄弟』なんて呼ばれると、ぞっとするぜ」
「何だ、冷たいじゃねえか、冬枝。そうだ、せっかく会ったんだ。俺に渡すものがあるんじゃねえのかい」
「渡すもの?さて、あったかな」
冬枝は、露骨にしらばっくれた。
朽木は、手のひらを無遠慮に突き出した。
「とぼけるなよ。今月のお勤めがまだだぜ、『兄弟』」
「………」
「どうした?貧乏神に祟られたみたいな顔して。二枚目が台無しだぞ」
――貧乏神はてめえだ、この野郎。
冬枝はスーツの懐を探ると、さっき手に入れたばかりの封筒を朽木に握らせた。
「オーケー、くれりゃいいんだよ、くれりゃ。……ん?あと100万、足りないようだが」
封筒の中身をこれ見よがしに指で数える朽木に、冬枝は鬱陶しそうに手を振った。
「残りは後で渡す」
「そういう訳にはいかねえなあ。今日は霜田さんの家でパーティーがあるんだ。俺もお招きにあずかったから、胡蝶蘭を100本差し入れてえんだよ。これじゃ、金が足りねえ」
「花なんか1本ありゃいいだろ」
冬枝が思わず本音を言うと、朽木が目を剥いた。
「あぁ?霜田さんといや、我らが白虎組の若頭補佐を任されてる男だぞ。霜田さんへのお祝いに花1本って、ナメてんのか、冬枝」
「ナメてません、ナメてません。つったって、100万なんかすぐ工面できるか。時間をくれ」
「今夜までに用意しろよ。でなきゃ、てめえの雀荘もらってくぜ」
「何?」
そんな無茶があるか、と冬枝は鼻白んだ。
朽木は冬枝の肩に手を置き、「あの件、忘れた訳じゃねえだろうな」と声を低めた。
「てめえは、俺に大きな貸しがある。そうだろ」
「………」
冬枝は苦虫を嚙み潰したような気分で「忘れてねえよ」とだけ言った。
「なら100万、耳を揃えて支度しておくんだな。待ってるぜ、兄弟」
捨て台詞を吐くと、朽木は女の肩を抱いて、悠々と繁華街へ去って行った。
――今夜中に100万なんて、用意できる訳ねえだろ!
冬枝は地団駄を踏んだが、経営する雀荘『こまち』を朽木に奪われては、大打撃を受ける。あそこを失えば、組への上納金すらままならなくなってしまうだろう。
――ああ、金がねえ。
がっくりと肩を落とす冬枝の背に、4月の風が冷たく吹き抜ける。
冬枝の一張羅である枯れ葉色のスーツも、いささかくたびれかけていた。
マンションに帰ると、冬枝は革張りのソファに腰を沈めた。
「ふ――……」
タバコに火をつけ、しばらくぼんやりと虚空を見上げた。
「………」
冬枝はふと思い出したように、引き出しから封筒を取り出した。
そこから紙幣と小銭を出し、テーブルの上に並べる。
「一、二、三……」
炊事や洗濯は弟分たちにやらせているが、金は冬枝自身が管理している。
数えたところで増えないことは分かりきっているが、癖のようなものだ。金勘定をしているところを弟分たちには見られたくないし、最近、夕方になると細かい字が見えにくくなるため、こうして真っ昼間から金を数えている次第だ。
「…金がねえ」
とうとう、口に出てしまった。ついでに猫背になっていることに気付いて、慌てて背を伸ばす。
窓の向こうには、陽の光を浴びた市街地が、白く浮かび上がっていた。
――朽木は俺の金で、女と楽しく飲み歩いている頃か……。
冬枝の方が年上だが、羽振りの良さは朽木の方が上だ。噂だとデリヘルの経営で私腹を肥やしているらしいが、冬枝は女をシノギにする気にはなれない。
――女を食い物にしたら、極道の名折れだろうが。
金に困ろうと、プライドだけは捨てたくない。女に体で稼がせるなんて、冬枝は御免だった。
とはいえ今、冬枝にとって喫緊の課題は、朽木に要求された100万の支払いである。
値段も値段だが、今夜までという時間制限まである。あと数時間で100万円を手に入れるなど、銀行強盗でもしない限り不可能だ。
――あんなクソ野郎のために、サツに捕まってたまるか。
恐喝という手もあるが、それこそ警察にでも通報されたら、ひとたまりもない。いずれにせよ、無茶な行為は今後のシノギにも響く。
――奴の肚は読めてる。
朽木はデリヘルで稼いだ金があり余っているのだから、冬枝にたかる必要などない。朽木はただ、冬枝を困らせたいだけなのだ。
――昔のことを、いつまでも根に持ちやがって。
朽木が自分のことを忌み嫌っているのは、冬枝もよく分かっている。冬枝だって、ずる賢い朽木のことは好きになれない。
――だが、何とかしないと『こまち』が取られる。
雀荘『こまち』は、冬枝にとって大きな資金源だ。正当な売り上げのみならず、賭け麻雀でも利益を上げている。それを朽木に奪われれば、冬枝は路頭に迷ってしまう。
自分はともかく、弟分たちを食わせてやれなくなるのは困る。冬枝には、面倒をみている若者2人がいた。
冬枝は、思わず天井を仰いだ。
――天から女神さまでも現れて、俺に100万恵んでくれねえかな。
冬枝が半ば捨て鉢になったところで、電話が鳴った。
「はい、冬枝です」
「兄貴、高根です」
電話の相手は、弟分の一人だった。
「大変なんです、ちょっと『こまち』まで来てください」
「どうした。藪から棒に」
高根は実直な男で、年の割に何でもそつなくこなす。その高根がいつになく切迫した声を出しているということは、余程の異変に違いない。
「東京から来た客が、『こまち』で一人勝ちしてるんです。もう150万ぐらい持っていかれました」
「ひゃくごじゅ……」
冬枝が、銀行から受け取った謝礼の3倍である。思わず、口からタバコがぽろっと落ちた。
くらくらしそうになるのを堪えて、冬枝は冷静に思考を回転させた。
――俺のシマで荒稼ぎするたぁ、いい度胸じゃねえか。
ちょうどいい。その東京者をとっちめて、150万をそっくりそのまま頂いてしまおう。
冬枝は「すぐに行く」と言うと、受話器を置いて立ち上がった。
『こまち』は、冬枝が経営している雀荘だ。
といっても、実際の経営は雇われ店長に一任し、冬枝自身は名前だけのオーナーである。
表向きは普通の雀荘で、客もカタギがほとんどだ。景気の良さも手伝って、高額を賭ける客もいるが、『こまち』では黙認していた。
――しかし、150万も勝つって、一体どんな手練れが来たものやら。
冬枝が到着すると、弟分の高根が入口で頭を下げた。
「わざわざ兄貴に来てもらって、すみません」
「いや、構わん。それより、例の東京者、何者だ?」
足早に店内に入りながら、冬枝は高根に尋ねた。
「随分強いみたいだが、プロの雀士か」
「いえ、恐らく素人です」
「じゃ、同業者か」
「いえ、極道でもないですね」
「なら、雀ゴロの類ってことか」
「雀ゴロ……うーん……。どうなんでしょう」
妙に高根の歯切れが悪いのが気になるが、とにかく、卓を見れば済む話だ。
店内は既に人だかりが出来ており、『東京者』が暴れている卓は一目で分かった。
眉間を寄せて、イライラと手牌をいじくっている3~40代の男が3人。涼しい顔で卓を見据える残り1人こそ、この場の勝者だった。
肩の辺りで切り揃えた髪に、知性を感じさせる秀でた額。まだ幼さの残る顔立ちだが、どこか憂いを帯びた瞳は、この場の誰よりも大人びて見える。考える時の癖なのか、口元に手を持っていく仕草は、びっくりするほど肌の白さを際立たせた。
白のブラウスに紺のジャケットとスカート、という服装は地味だが、すらりと伸びた姿勢には、雀荘に立ち込める紫煙を払うような気品があった。
「……って、女じゃねえか!!!しかもガキ!!」
「兄貴、声が大きいです」
案の定、件の東京者――東京娘というべきか――が、ちらりと冬枝たちの方を見た。
黒々とした大きな瞳がきょろりと動いただけで、何故かどぎまぎさせられる。
だが、次の瞬間には、東京娘はまた冷めた眼差しを雀卓に戻していた。
冬枝は吸い寄せられるように東京娘を見つめていたが、ハッと我に返った。
「…なんだ、オッサン連中が、東京から来た娘っ子に鼻の下伸ばして負けただけかよ」
「いえ、それだけなら、一人頭150万も負けたりしませんよ」
「…あ?高根、お前今なんて言った」
瞬間、高根がしまったという表情を浮かべたが、冬枝は逃がさない。
「一人頭150万、ってことはお前……」
「…450万。あの女の子に、持っていかれました」
「よんひゃくごじゅ……」
冬枝が、銀行から受け取った謝礼の9倍である。冬枝は、脳天を撃たれたような気がした。
「バカ野郎、なんで先にそう言わねえんだ!」
「すみませんっ、自分でも信じられなくて」
「だいたい、なんで150万も賭ける話になったんだ。あの娘にそこまで金があるようには見えねえぞ」
見たところ、東京娘は質素な格好で、化粧もしていない。金持ちの娘や、ヤクザの愛人といった風貌ではなかった。
「マスターの中尾から聞いた話によると、あの娘はふらっと入って来て、最初は普通に客やメンバーと打っていたみたいです。それで、東京から来たって話もしたみたいで」
「ふむ」
「ただ、あの娘があんまり強いんで、気に入らない常連のオッサンたちが絡んだみたいなんです」
それも、不良娘だの、東京から男を漁りに来たんだろだの、従業員たちもうんざりするような口汚さだった。
対する東京娘は顔色ひとつ変えずに、じゃあ自分と勝負しろ、勝ったら好きにしていいと言い出した。
「しかもあの娘、お金もかなり持ってるみたいです」
「何?いくらぐらいだ」
高根は、東京娘の足元に無造作に置かれたボストンバッグを指差した。
「恐らく、1000はあるかと」
いっせんまん――……。冬枝が、銀行から受け取った謝礼の20倍である。
金と色欲に目がくらんだ常連客たちは、東京娘との勝負を受けた。
結果、150万ずつ献金することになった訳である。
高根も途中から対局の様子を見ていたが、か弱い女の子が百戦錬磨のオッサンたちをねじ伏せていく様は、手品でも見せられているかのようだったという。
そこまで話を聞いた冬枝の脳裏に、稲妻が走った。
――あの娘、使える!
冬枝に課せられた100万の支払いと、目の前にいる凄腕の東京娘が、一つの線で繋がった。
ボストンバッグの中身は、東京で勝った金だろう。東京娘は、プロ顔負けの雀力の持ち主と見た。
この強力な東京娘を代打ちにすれば、大金が冬枝の元に転がり込む――!
「…決めた」
「はっ。兄貴、あの娘をつまみ出しますか?」
神妙な顔で姿勢を正した高根に対し、冬枝は首を横に振った。
「あの女、モノにするぞ!」
「はぁ?」
言うや否や、冬枝は颯爽と人ごみをかき分け、雀卓へと近付いた。
「冬枝さん…」
「来てくれたのか」
冬枝の姿を認めた途端、オッサン3人に、ホッとした空気が流れた。
『こまち』のオーナーであり、用心棒でもある冬枝が直々に現れたのだ。この礼儀知らずの小娘を黙らせてくれるに違いない、と期待したのだろう。
生憎、冬枝はスケベ親父3人に味方する気はなかった。むしろ、因縁をつけてきた男3人に、果敢に立ち向かった東京娘の気概を買っていた。
ポンと肩を叩くと、東京娘が静かに振り返った。
「よう。お前、いい腕してるな」
「………」
東京娘は、口紅もつけていない唇をそっと開いた。
「解を出すのは簡単ですから」
「カイ?」
「この人たちは、何回負けても同じパターンを繰り返しています。今負けたのはたまたまで、自分たちは必ず勝つと信じている。何の根拠もないのに」
東京娘は冷ややかに言った。
「だから、捨て牌から露骨に解が透けて見える。そんな人たち相手に、負けるほうが難しい」
「なるほど」
東京娘の目には、冬枝やスケベ親父3人には見えていないものが見えるらしい。腕前もさることながら、なかなか気位の高そうな女だ。冬枝は言った。
「お前みたいな強者が、こんな素人連中と打ってても、つまんねえだろ」
「そうですね」
東京娘があっさりそう言ったものだから、おじさん3人は気色ばんだ。
「都会から来たからって、いい気になってんじゃねえぞ」
「まあまあ、そうカッカしなさんな。俺の前でケンカなんかするなよ」
冬枝は笑顔で、しかしさりげなく、男3人を牽制した。
改めて東京娘に向き直ると、こっそり耳元で囁いた。
「なあ、お前、俺の代打ちにならねえか。報酬は弾む」
「お断りします」
きっぱりと告げると、東京娘はじっと冬枝を見上げた。
「それよりも、麻雀の邪魔なので、話しかけないでもらえませんか」
傍にいた高根が「おい、兄貴に向かってその口の利き方は…」と鼻白んだが、冬枝は手で制した。
「分かった、そいつは悪かった。代打ちの話、考えておいてくれ」
「……」
冬枝が卓から離れると、高根が眉根を寄せた。
「なんか、コンピューターみたいな子ですね。可愛げがないっていうか」
「いいじゃねえか。媚びないのは強い証拠だ」
実際、東京娘はコンピューターのように正確、かつ強かった。おじさん3人は「このままでは終わらせない」という執念を滲ませていたが、最後まで東京娘の独壇場だった。
「ロン」
東京娘が和了ると、牌をロンされた小太りの男が、腹立ち紛れにサイドテーブルの灰皿を床に叩きつけた。
一瞬、場が静まり返ったが、東京娘はやはり眉一つ動かさなかった。
「じゃあ、僕はこれで」
東京娘は札束を投げやりにボストンバッグにしまうと、すたすたとその場を後にした。
――あのままハイ、サヨーナラ、ってわけにはいかねえだろうな。
冬枝が後を尾けると、案の定、『こまち』の裏手で東京娘が灰皿投げ男に捕まっていた。
「お前、イカサマしただろ。金を返せ」
「僕はイカサマなんかしていません。やったのは貴方たちのほうでしょう」
「何い?」
――ほお、気付いていたか。
冬枝は一人、感心した。
「仲間同士で手牌をすり替えましたね。それに『通し』も。かなり慣れているようですし、普段から3人でグルになって、ターゲットからむしり取っているんでしょう」
なるほど。3人で荒稼ぎしていたから、東京娘との勝負に一人150万も出せたわけだ。
冬枝は、壁越しに納得した。
東京娘は淡々と述べると、溜息を一つ吐いた。
「東京もここも、クズのやることは変わらない」
「クズはてめえだろうが、このアマ!」
灰皿投げ男が声を荒らげたが、東京娘はひるまない。
「そんな弱い者いじめみたいな麻雀打ってて、楽しいですか」
東京娘は少しだけ悲しげな目をして、「僕には分からない」と呟いた。
灰皿投げ男は「ゴチャゴチャうるせえ!」と言って、東京娘の肩を掴んだ。
――はい、俺の出番。
冬枝は壁から躍り出ると、灰皿投げ男の背中を掴んだ。
虚を衝かれた男を、冬枝は勢い良く地面に背負い投げた。
「うわっ!」
ドスン、という衝撃で、アスファルトが弾む。
仰向けに倒れた男の頬スレスレに、冬枝は革靴の爪先を突き刺した。
「俺のシマで打ちたかったら、ちったぁお行儀良くするんだな」
灰皿投げ男の眼いっぱいに、冬枝の冷たい笑みが映った。
間抜け面を浮かべる男の肩を軽く蹴ると、男はハッと我に返り、這う這うの体でその場から逃げ去った。
「いっててて……」
小太り相手に、背負い投げは間違いだった。相手よりもこっちのダメージのほうが深刻なんじゃねえか、と冬枝は43年ものの腰をさすった。
「あの……」
一部始終を呆然と見ていた東京娘が、おずおずと「ありがとうございます」と頭を下げた。
「いや、気にするな。ケガはしてねえか?」
「大丈夫です」
「そうか。なら良かった」
冬枝が微笑みかけると、東京娘の口元が少しだけ緩んだ。
「だが」と冬枝は改めて切り出した。
「見知らぬ土地で自由気ままに打ちたいなら、ボディーガードがいた方がいいんじゃねえか?」
「えっ?」
きょとんとする東京娘に対し、冬枝は自分の胸を拳で叩いた。
「俺がお前の用心棒になってやる。今みたいな余計なことは、全部俺に任せろ。お前は、麻雀のことだけ考えてればいい」
どうだ?と聞くと、東京娘は目を丸くしてから、小さく笑った。
「…悪くないかもしれませんね」
――やった!
裏賭場をいくつか回れば、今夜までに100万円を何とか調達できるだろう。東京娘の腕をもってすれば、ここらの雀荘に敵はいないはずだ。
冬枝はさっそく算段を立て始めたが、東京娘からは「でも」という控えめな声が返って来た。
「僕は、僕の意志で麻雀を打ちたいんです。誰かの指図で打つ代打ちは、できません」
「えっ…」
「助けてくれて、ありがとうございました。それじゃ、失礼します」
東京娘は折り目正しくお辞儀をすると、振り返ることなく冬枝の前を去って行った。
冬枝の枯れ葉色のスーツの裾を、4月とは思えないほど冷たい風が揺らした。
結局、冬枝が夕方までに工面できた金は、50万少々だった。
みかじめ料の前払いや借金の取り立てなど、街じゅう駆けずり回って金を巻き上げたが、それでも朽木の求める100万には遠く届かない。
――こうなったら、『こまち』の売り上げ金に手をつけるしかない。
これまで、裏麻雀を除く純粋な売り上げ金は、店の管理や従業員への給与など、真っ当なことにしか使ってこなかった。そのほうが、帳簿を誤魔化す必要がないため、警察の目を気にしなくていいからだ。
だが、金を用意しなければ、『こまち』自体を朽木に奪われてしまう。冬枝は、暗い気分で雀荘『こまち』に向かった。
すると、そこに当の朽木が踏ん反り返っているではないか。
冬枝は呆然としてしまった。
「朽木。ここで何してやがる」
「よう、兄弟。初めて来たが、けっこーいい店だな、ここ」
立地もいいし、客層も悪くない…と言って、朽木は値踏みするように店内を見回した。
朽木の脚が雀卓の上に乗っかっているのを見て、冬枝は顔をしかめた。
「何の用だ。金なら、まだ用意できてねえぞ」
「だと思って、優しい俺様が、お情けをかけてやることにしたのさ」
「お情け?」
朽木は雀卓をバンと叩くと、「これだ」と言った。
「俺と勝負しな、冬枝。俺に勝てたら、今夜の100万ってのは帳消しにしてやる」
「本当か」
まさに、渡りに船だ。冬枝は、麻雀なら腕に覚えがある。少なくとも、朽木ごときに後れを取ることはない。
――助かった。
と冬枝が安堵しかけたのも束の間、トイレから一人の老人が出てきた。
「綺麗に掃除してあったな。感心、感心」
「…溝口さん!」
その老人――溝口は、数年前まで白虎組一の代打ちだった男だった。
「どうして、引退した溝口さんがここに……」
溝口の姿を見た瞬間、冬枝は朽木の狙いを悟った。
蒼白になる冬枝の顔を愉快げに見ながら、朽木が手を広げて溝口を紹介した。
「俺の代打ちは、溝口さんだ。霜田さんちのパーティーに出席するっていうんで、隠居先からわざわざ出張ってくださったんだぜ」
溝口は、わざとらしく冬枝に会釈をした。
市井の打ち手に過ぎなかった溝口を裏社会に引き込んだのは、白虎組若頭補佐・霜田であり、朽木はその弟分である。溝口は、朽木側の人間だ。
「どうだ?冬枝。白虎組で敵なしだった伝説の男と麻雀が打てるなんて、嬉しくって涙が出そうだろ?」
「…………」
確かに、冬枝は泣きたい気分だった。歴戦の強者相手では、冬枝に勝ち目はない。
「溝口さんが勝ったら、この店は俺のもんだ。それでいいな、冬枝」
いい訳がない。かといって、100万を用意できない以上、勝負を受けるしかない。
――畜生。この店を失くしたら、俺は……。
冬枝の脳裏に一瞬、東京娘の涼しげな顔が浮かんだ。男3人を相手に、一歩も退かずに完璧な勝利をもぎ取った女。
こんな時、あの女がいれば――と考えかけて、冬枝は首を横に振った。
――ダメだダメだ!なに、未練がましいこと考えてやがる。
東京娘の残像を、冬枝は追い払った。今は、冬枝自身の手で勝たなければならない。
こうして、雀荘『こまち』を賭けた、絶望的な勝負が幕を開けた。
冬枝のマンションでは、弟分2人が冬枝の帰りを待っていた。
「兄貴、遅いなあ。今日は、いつもの時間に夕飯食うって言ってたのに」
弟分の1人、高根が、夕飯の支度をしながら心配そうに壁時計を見上げた。時刻は既に、21時を回っている。
「まさか、ケンカでも売られて、今頃、取っ組み合いになってるとか…」
すると、もう1人の弟分・土井が、のっそりとソファから振り返った。
「そりゃないっしょ。うちの兄貴は強いから、どんな奴だって即KOだって」
土井はシュッシュッとジャブをする振りをした。
「でも兄貴、最近、腰が痛いって言ってたんだよな。あと、肩も」
「我らが兄貴も、寄る年波には勝てないかあ。顔は、まだまだ現役なんだけどなあ」
土井はかけているサングラスをカチャッと上げると「オレも負けてないけどね」とうそぶいた。
高根の脳裏に、昼間の雀荘『こまち』での出来事がよぎった。
「もしかして、『こまち』で何かあったのかもしれない」
「ん?トラブルでもあったの?」
「それがさ、東京から来た女の子が…」
事情を話そうとした高根の手から、つるりとグラスが落ちて割れた。
「あ~っ!!兄貴のお気に入りのグラスが~っ!」
「隠せ!似たようなグラスいっぱいあるから、誤魔化しゃバレないって!」
「そういう問題じゃないだろ、土井っ!」
割れたグラスを片付ける高根を尻目に、土井は「腹減ったなあ。兄貴、早く帰って来ねえかな」と伸びをした。
弟分たちの祈りも虚しく、冬枝はまだ帰れそうになかった。
サイドテーブルに置かれた点数表を見て、冬枝は溜息を吐いた。
――5万点差か……。
ここまで差がつくと、もう笑いたくなってくる。冬枝は、虚しく天を仰いだ。
熟練の代打ちだけあって、溝口は付け入る隙もなかった。もはや、手牌も場の流れも、すべて溝口に操られているかのようだ。
――こりゃダメだ。
冬枝はもう、半ば諦めていた。海千山千の麻雀巧者に勝つよりも、恐喝や銀行強盗のほうがよっぽど簡単だった、と今になって悔やむ。
「………」
コーヒーを淹れたりタバコの火をつけたり、冬枝のそばで勝負を見守っていた『こまち』のマスターの中尾も、悄然として卓を離れていった。
冬枝が投げやりに牌を混ぜていると、朽木がニヤニヤとこちらを見つめてきた。
「なんだよ」
「いやぁ、兄弟があまりにも気の毒だと思ってな。流石に溝口先生相手じゃ、冬枝なんか赤ん坊同然だもんなあ。今にも、ママに泣き付きそうな面してるぜ」
「うるせえ。生まれた時からこういう顔だ」
ママー、ママー、と朽木はふざけて泣き真似をした。殴りたくなるが、冬枝はぐっと堪えた。
そこで溝口が「ちょっと、いいか」と片手を上げた。
長年、裏社会で打ってきたベテランとして、組員同士の意地の張り合いを見かねたのだろう。或いは、冬枝が嬲りものにされているのが、哀れになったのかもしれない。
「朽木さん。兄弟同士で金を取り合ったって、つまらんでしょう。ここは一つ、冬枝さんに頭を下げさせて、それで手打ちにしたらどうですか」
――朽木に頭を下げる?!
冗談じゃない、と冬枝は溝口の助け舟にかえって泡を食った。
朽木は手を叩いて喜んだ。
「そりゃいい。溝口さんがそこまで言うんだったら、この場はそれで収めてやろうじゃねえか」
朽木から「土下座しろ。それで許してやるよ」と言われ、冬枝は抵抗した。
「バカ言え。てめえなんかに土下座するぐらいなら、腹切った方がマシだ」
朽木は、憎たらしいほど余裕たっぷりの笑みで冬枝に迫った。
「じゃあ、こっから逆転するってのか?溝口さん相手に、5万取り返せんのか?ん?」
「それは…分からねえだろ、麻雀は。俺にだって、まだ勝つ可能性はある」
我ながら苦しい言い分だったが、実際、朽木に鼻で笑い飛ばされた。
「ねえよ、そんなもん。赤ちゃんみたいな麻雀しといて、かっこつけんなよ、冬枝」
それとも、ママが助けに来てくれんのか?だったらママーって泣いて呼んでみろよ、とまで言われ、冬枝は我慢の限界になった。
――こいつをぶん殴って、何もかも終いにしてやる。
冬枝が拳を握り締めた時、ふわり、と背後に爽やかな風が吹いた。
「ふーん。リャンメン待ちですか」
「あ?」
そこだけ、タバコの煙が届かないかのような――澄んだ空気をまとった東京娘が、しげしげと冬枝の牌を眺めていた。
呆気に取られる冬枝に、東京娘は軽やかに微笑んだ。
「いい線いってますよ。おじさん」
「おじさ……」
冬枝は絶句した。
――こいつ、いつの間にここに?
東京娘は点数表を眺めると、「苦戦していますね」と言った。
「苦戦どころか、ほとんど負けてるところだ。見りゃ分かるだろ」
「代わりましょうか?」
「は?」
「おじさんの代わりに、僕が打ちます」
「はぁ?」
いきなり現れて、とんでもないことを言い出した。事務員みたいな地味な格好のくせに、東京娘はこの場の誰よりも大胆不敵だった。
というか、店は冬枝と朽木の勝負のために、貸し切りの札を出していたはずだ。どうして、部外者が入って来られたのか。
すると、店の奥から中尾がうやうやしくコーヒーを持ってきた。表情には出さないが、どうやら中尾が東京娘を店に入れたらしい。
「お前、何しに来たんだ」
「この辺の雀荘、みんな19時で閉まっちゃうんですよ。このお店は明かりがついてたから、やってるのかなーと思って」
昼間、麻雀で勝った相手から絡まれたというのに、東京娘は懲りずに雀荘を巡っていたらしい。呆れるほどの麻雀バカ、というか麻雀狂いだ。
「おい。誰だ、その女」
お前の愛人か?と朽木にからかわれ、冬枝は慌てて否定した。
「違う!」
「違います!」
東京娘と声が重なって、思わず顔を見合わせる。
冬枝は、東京娘に向かって声を潜めた。
「お前、この状況を引っ繰り返せるのか。5万点差で、もう南2局なんだぞ」
「可能です。解はもう出ています」
東京娘の表情には、微塵も迷いがない。冬枝は覚悟を決めた。
――こうなったら、この女に賭けるしかない。
冬枝は東京娘の肩を掴むと、自分の椅子に座らせた。
「今から、こいつが俺の代わりに打つ。いいな」
朽木は一瞬、驚いて目を見開いた。やがて、肩をゆすって笑いだした。
「ハッハッハ、こりゃ傑作だ。そんな若い娘に打たせるなんて、ヤケになったか、冬枝」
「ヤケじゃねえ。俺は本気だ」
冬枝は、こいつは俺の代打ちだ、と東京娘を紹介した。
「代打ちねえ。その女、名前はなんていうんだ」
「名前は…えーっと…」
そういえば、東京娘の名前を聞いていなかった。雀荘『こまち』を賭けた大勝負を任せる代打ちの名前を知らないというのでは、格好がつかない。
冬枝は、とっさに頭に浮かんだ名前を口にした。
「………麻雀小町」
「ブッ」
「………」
朽木が噴き出し、東京娘が恨みがましそうに冬枝を見上げた。
この店の名前『こまち』から連想しただけのネーミングだ。湧き上がる羞恥心に、冬枝は耐えた。
「そうかい、そうかい、麻雀小町ねえ。きっと、さぞかし強いんだろうなあ」
「ええ。強いですよ」
バカにするような笑みを浮かべる朽木に対し、東京娘はさらりと言い切った。
「いいのか?麻雀小町。溝口さんとお前とじゃ、5万点の差がついてるんだぞ?負けたら、そこの冬枝が、腹いせにお前をボコボコにしちまうかもしれねえぜ?」
「んなことするか!」
「構いませんよ。負けませんから」
東京娘は、真っ直ぐに朽木を見返した。
「5万点差で威張れるなんて、おめでたい人ですね」
地味でおとなしそうな娘から放たれた強烈な一言に、朽木の顔が真っ赤になった。
――なんつー度胸だ、この女。
相手がヤクザだと、分かっていないのだろうか。東京娘の気の強さに、冬枝は内心で舌を巻いた。
そんなことはお構いなしに、東京娘は溝口に向かって頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「お手並み拝見といこうか。お嬢ちゃん」
朽木が「お願いしますよ、溝口さん」と檄を飛ばした。冬枝も、東京娘を拝むように両手を合わせた。
「頼んだぞ。俺はお前と心中する」
「僕は心中したくないです」
真顔で言い、それっきり東京娘は麻雀に没頭した。
そこからの流れは、あまりにも鮮やかだった。
「ロン!」
15巡目で、東京娘は溝口の出した牌で和了った。
「小四喜、字一色、四暗刻単騎。トリプル役満、逆転です」
トリプル役満なんて、冬枝はこれまでに見たことがない。溝口も、信じられないといった顔で場を見つめていた。
東京娘がくるり、と冬枝を振り返った。
「ほら。簡単でしょう?」
二十歳そこそこの小娘の笑みが、冬枝には何よりも心強く見えた。
――こいつ、本物だ。
凄業を軽々とやってのけながら、東京娘にはまったく気負いがない。東京娘にとっては、溝口こそが赤子同然なのだ。
これで、5万点負けていた冬枝側が一気にトップに浮上した。朽木側も点差を取り戻そうと躍起になったが、結局、オーラスも東京娘が制した。
「僕の勝ちです」
「………」
朽木は愕然としている。女のことが金づるにしか見えていない朽木にとって、東京娘に負けたことは現実とは思えないのだろう。
しかも、朽木の代打ちだった溝口は、かつて白虎組でトップクラスの腕前を誇っていたのだ。冬枝だって、勝ったという実感が湧かないくらいだ。
「いい腕してるね、お嬢ちゃん」
老練の打ち手だけあって、溝口本人は負けたというのに落ち着いていた。
「ありがとうございます。この街に来てから、一番楽しい対局でした」
本心なのだろう、そう言う東京娘の笑みは晴れやかだった。
冬枝は、卓を見つめたまま硬直している朽木に迫った。
「朽木。これで100万は帳消しだ。この店もやらねえ。いいな」
「………」
朽木は不服そうだったが、古参の代打ちである溝口の手前、口をつぐんだ。
「朽木さん、そろそろ霜田さんのところに行きましょうや」
溝口に促され、朽木は渋々といった表情で席を立った。
「麻雀小町。次やる時は、手加減しねえからな」
「勝手にどうぞ」
朽木の負け惜しみに、東京娘は目も合わせなかった。
朽木たちが店を去ると、冬枝の肩から一気に力が抜けた。
「はぁ~~~~。どうなることかと思った」
「言ったでしょう。負けないって」
「そうだな。強いな、お前」
冬枝は、素直に認めた。東京娘の勝利は、運やまぐれなどではない。
「お前、どうして俺に力を貸してくれたんだ?」
「昼間、助けてもらったお礼です。それに、麻雀が打ちたかったので」
華麗な勝利を収めた割に、東京娘の返事には飾り気がない。
――いい博徒だな。
改めて、東京娘を代打ちにしたい、という気持ちが冬枝の中に湧いてきた。この娘に麻雀賭博で稼がせれば、さぞ高額を稼げることだろう。
何より、心根が真っ直ぐな娘だ。この娘といれば、面白いものが見られそうな気がする、という予感がした。
だが、一度断られたものを、しつこく誘うのは見苦しい。冬枝は自制した。
「こっちこそ、礼をしないといけねえな。いくら欲しい」
「お金なんて、結構ですよ。このお店では、もう十分稼がせてもらったので」
確かに、そうだった。東京娘が常連客3人から450万巻き上げたことを思い出し、冬枝は苦笑した。
「じゃ、何か頼みごとはねえか。住む場所ぐらいなら、面倒見てやれるぞ」
「頼みごと…」
東京娘は少し考えると、「じゃあ」と言った。
「僕を、おじさんの代打ちにしてください」
「えっ?」
冬枝は、耳を疑った。
――俺の代打ちになりたい、って言ったのか、今。
「昼間は断ったじゃねえか」
「だって、この街の雀荘がこんなに閉まるのが早いなんて、知らなかったんです。東京だったら、もっと遅い時間まで開いてるのに」
「悪かったな、田舎で」
雀荘に限らず、彩北市のデパートや飲食店のほとんどは、遅くても20時には閉店する。東京から来た女子には、さぞかし退屈だろう。
「おじさんの代打ちになれば、夜でも打てるんでしょう?」
「まあ、賭け麻雀の大半は深夜だな」
「やった」
東京娘は麻雀打ちたさに、冬枝の代打ちになりたいと言うのだ。ここまで一貫した麻雀バカだと、いっそ清々しい。
何はともあれ、強力な雀士本人から代打ちになりたいと言われたのだ。この幸運を逃す手はない。
冬枝は、東京娘に頷いてやった。
「分かった。ぜひ、俺の代打ちになってくれ」
「ありがとうございます」
東京娘が、心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。
これまで賢しげな女だと思っていた東京娘が、その時だけ、年相応に可愛らしく見えた。
――俺に100万恵んでくれた女神様、もとい麻雀小町か。
そういえば、その麻雀小町の名前をまだ知らない、と冬枝は気がついた。
「俺は冬枝。お前、名前は?」
「夏目さやかです」
東京娘――夏目さやかに向かって、冬枝は手を差し伸べた。
「さやか。俺が、お前を最強の代打ちにしてやる」
さやかは差し伸べられた冬枝の手を眺めたまま、きょとんとしている。
その手を、冬枝は半ば強引に握った。
「よろしく頼むぞ」
「…はい。よろしくお願いします」
さやかの小さな手が、冬枝の手を遠慮がちに握り返し――2人の手と手が重なった。
と同時に、冬枝とさやか、双方の腹が鳴った。
「…!」
「ハハハ、夕飯がまだだったな。ちょうどいいから、メシ食ってかねえか。俺の弟分が、うまいメシ作って待ってるんだ」
赤面して腹を押さえていたさやかが、「…いただきます」と照れ臭そうにつぶやいた。
時は昭和の末。
極道が最後の栄華を味わっていた頃、雀士もまた、雀荘における賭博の最盛期を迎えていた。
飛び交うあぶく銭に、極道も雀士も血を凍らせ、金の亡者と成り果てた時代――。
とある北の街角での出会いが、貧乏極道と麻雀小町の血を燃やす。