土地者と大陸の間には世紀を越えた因縁があった。
知れば知るほど変なところのおぞましさに、女性ジャーナリストでさえ異世界を感じてしまう。
[電子版] 推理 もう一つの野麦峠 (第三話)
十、キラノイン
頭上は青空なのに、突然路面が塗れている。まるで線を引いたように、土砂降りと晴れ間が隣接していた。馬の背を分けるとはこの事なのか。この向こうは、上がるきる直前の小雨に煙っていた。
踏み入れると、空気まで冷たい。すると、何だろうこれは。不気味さを取り去れば、どこにでもあるような普通の路地風景だが、伝統的な黒い板塀が、武家屋敷風の大きな建物を怪しく囲んでいた。
料亭なのだろうか。板塀の下には、深い側溝が、雨上がりの汚れた水を勢いよく流している。中の建屋の様子は分からないが、屋根の大きさは、その規模を語っていた。
垣間見える白壁を背に、濡れた松の梢に雨粒が輝いている。古い町並みにはこんな屋敷の、一軒ぐらいは残されているものだ。などと思いながら通り過ぎる。
突き当りのT字路に差し掛かると、左向こうに見える空間がだんだんと開けてきた。そこは表通りらしいが、車や歩道の賑やかな往来がまだ遠く小さい。
この時だ、その路地へと入り込んで来る、山高帽にケープなのだろうか、五月にしては不自然だが小粋に羽織った、黒っぽい和服の老紳士の姿が遠くにあった。まさに明治を思わせる。
杖を小脇に挟んで、近頃ではすっかり見かけなくなった高下駄を鳴らしてくる。その屋敷にある裏門なのか、石柱の間を入って行った。
その石柱は黒い板塀に程よく調和して、遠目には二人の門番のような姿にも観えた。また、周囲を威圧するかのようにも観える。老紳士が、石柱の間を潜ると堅牢そうな木戸が見えてきた。その裏門を自ら開けて入ろうとしている。
その老紳士を追い掛けて来たのだろうか、これも和服の、いや、映画などで観るような、大奥の女給を思わせる中年の女が、息を切らせながら「キラノイン様」と路地の端から呼びかけた。
そして、小走りに駆け寄ると、呼吸の乱れを然程も感じさせずに「お忘れです」と言って、如何にも高級そうな輝きを放つ腕時計を、一方の掌に、もう一方の掌を添えて、品のある手つきで差し出された。
老紳士は左手を出しただけで、されるがままなされるがまま、手首にはその腕時計がすでに嵌められていた。まさかの田舎で、この洗練された仕草には、作法を学んだ一流店の者でなければ、あのような振る舞いは出来っこない。と、遠目にも驚いた。
やがて、路地から開けた空間に出ると、正面の通りには見覚えがあった。おそらく湖畔端へ通じているものと思える。ホテルはその通りから見える筈だ。
ホテルに帰るとあの黒い板塀に囲まれた武家屋敷の事を聞いてみた。するとフロントも他の従業員も、困ったような顔をするばかりで、一様に知らないと言う。まるでかん口令でも敷かれているかのように、誰も彼も同じように口を閉ざす。
そのとき老婆が、突然フロントと美智子の間に割り込んで来た。「あんた、そんなこと聞くんじゃないよ。こんど行ったら知らないからね」あの感じの悪い掃除婦だ。それまで静かだったロビーは一変した。
この「知らないからね」は警告なのか。
フロントが申し訳なさそうに「お客さま、お部屋までご案内いたします」と、美智子に合図しているのか、意味ありげに言う。
他の従業員が老婆に歩み寄り、両脇からなだめようとしていた。その二人は若いが、慌てながらもどこか手慣れたものを感じる。
フロントはもう一度丁寧に謝罪すると、そのあとコーヒーとショートケーキが届いた。あの掃除婦の態度から、従業員との間に力関係でも有るのだろうか。そんな事より美智子は、百人力に向かって、これまでの取材を入力し始めた。
すると、酒井史子から報せが届いていた。「明日の夜七時に、自宅へ来て下さい」というメールだ。
その夕方、作業が一区切りした美智子は、フロントからの連絡でロビーへと降りた。母から話は聞いていると言って、昨日の若い運転士が待ち合わせしたかのように待っていた。史子の息子だ。夜の七時にはまだ早いが、言われるままに乗り込んだ。
母親の家が在る棟の角で降りると、途端に賑やかそうな話声と笑い声も入り混じって、楽しそうに聞こえて来る。外間のぶよの角を曲がって、通路の奥へと進む。声がいっそう大きくなった。
宴会があるとは聞いていない。玄関を開けると、狭い所に男物の靴が散乱していて、史子が小さい下駄箱に順序良く並べているところだった。顔を上げると「ああ。こんばんは、お疲れ」と、言うなり紙切れに書いたメモをそっと渡した。
そして美智子を外に押し出して「森本さん、九州へ行っているらしいの。いえ、奥さんは、赴任するご主人に付いて行ったのだけれど、帰ってくるのは一週間後だっていうの」そう説明した。
もしかすると叩きつけたという現場に居合わせた、直接の目撃者かもしれないと想定していた。それだけに期待も大きかったのだが、一週間後を待つまでもなく、真相が判明する。
メモには「あなたは出版社から派遣されて、市場調査をしている記者だと紹介してあるから、調子を合わせるように」と書かれていた。
少し困惑しながら「市場調査などといわれても、色々ある中で何の調査をしているのか」と、耳打ちしたが、素っ気なく「なんだっていいのよ。私が適当に取り繕うから、あなたは合わせるだけ」そう言って美智子を、男たちの居る部屋の襖から紹介した。
すると一斉に歓声が上がり「並べられた数々の料理や酒を前にして、男達から「おお。今晩は」とか「ごっそうさん」などと次々に杯を上げては、招かれたことへの礼を言う。史子が透かさず「いいのよ。みんな会社もちだから」そう言って美智子を指す。
そして「今夜は存分に楽しみましょう」と、酌をして回った。すると一人が「史子さん。あの店はもう再開しないのかい」と聞く「ああ。なんだかんだと、うるさいのが居るからねえ」と、美智子に向かって小さくウインクした。これは、史子が水商売でもしていた。と、いうことなのか。と思った。これまでの史子の振る舞いから観ても、人あしらいの上手さからは、成程と納得できる。
史子は「総勢六人か」と言って「本当は、もう一人来るはずなのね」と一寸残念そうでもあり、安心しているようでもある。「まあ。想定内ってとこかな」そう言うと、美智子を隣の暗い部屋へと連れだした。
史子は「あの連中には、自由に雑談してくれるように言ってあるから、それに合わせて持ち上げるのよ」と、付け加えた。
そのあと、間を持て余していた美智子の眼を覗き込んで「あの男たちを持ち上げるの」と念を押した。更に「出来るわね」の言葉が終わらないうちに男たちの間で「え。三千円だって。俺は五千円取ったぞ」の声があがる。
すると他の男たちはうまいことやったなと、うらやましそうな表情を見せた。美智子はその意味を漠然と想像した。
やがていよいよ宴たけなわなのか。静かな団地の夕暮れに笑い声が高く響いた。
美智子は急いで男たちの居る間へと戻り、酌をした。するともう一人の男が「俺は一万ふんだくってやった」と、尚も自慢している。いったい何の事かと思えば、雪道でスタックした車を押す代償として、小銭をいくらせびったかという自慢話のようだ。つまり、せびった金額の多さを競い合っているのだ。
これは弁慶のメモにもあった。他所の地では立ち往生している車に、一時の暖を提供したり、おにぎりやお菓子などを配ったり、なかには炊き出しやトイレまで世話している。そんな中で、弱みに付け込んでの、たかり合いを自慢するのかと、思った。
美智子は「皆さんは」と言いかけたところで、いつ来たのか史子が次の酒を持って、美智子を見下ろしていた。そして美智子の袖を強引に引っ張って「まあ。皆さん親切なんだから、降りしきる吹雪にも負けないで、よく頑張りましたねえ」と注いで回る。
美智子も取り繕って反対側の席から注いでいたが、その時には、史子が五人目を注ぎ終えようとしているところだった。なんという素早さか、やっぱりプロの技なのかと驚いた。
更に史子は「そんな時こそ、滑り止めの砂を売り歩いたらどうなんです」と、言うなり「おお、そうだ。それだよ、史子さん。いいこと言うわ」などと口々に賞賛する。
美智子はただ頷いては、注いで回るしかない。そして話は、沿道でお茶を始め、ファーストフードなどを売りだしたらどうか。とか、運ちゃんたちの使い走りを請け負って、代金の三割を徴収するとか言っている。まったくこの連中ときたら、やっぱり弱みに付け込むことしか考えないのか、と思った。
暫くすると、話は屋根の雪下ろしに変わっていた。これには「俺たちが五~六人のチームを組んで、年寄りとか一人暮らしの家に出向いて作業する」と言うものだ。
すると、別のもう一人が「そうだ。三人いれば今までの五分の一の時間で、降ろせる知恵を、俺は持っている」と叫ぶ。知恵は良しとしても、この男たちの発想には、どうしても集りしかないのか。そう思っていると、「椎名さん、どうだろうか、このアイディアは、出版と大いに関係有りそうだが」と、一人が聞いてきた。
男は「そうしてもらえたら、すぐにでも俺たちのチームを作るからよぉ。その時は記事にしてくれ」と、約束だと言う。そんなことなど、出来る筈はないと思いながらも、応じると言うしかない。
そのような経緯を速記していると、見ていた男が「へえ」と言って「史子さんから聞いていたが、それが速記てぇやつかい」と感心したように覗き込む。
美智子は「皆さんの話を記録して、この中から、いろんなアイディアが生まれるんです」と、下手な説明にも、男たちは美人に忖度した。
だいぶ慣れてきたのか、落ち着きを取り戻した美智子は、この六人の顔ぶれを改めて観ると、下は二十代から上は五十代に掛けてだろうか、みんながっしりとした体格で、一様に日焼けしている。そういえば日雇い労働者の反応とよく似ていた。
その最年長らしき男が「市役所が来ねぇぞ」と、みんなの会話を止めた。他の一人が「おお。そうだ。沼田だ」と言って、電話を掛けようとする。
もう一人来ると言っていたのは、市役所の職員なのかと思った。史子がその電話を取り上げて「沼田さんは、今日来れないと言っていたのよ」そう言って電話を返す。受け取った男は「それじゃぁ、あいつの悪口でも言うか」とポケットにしまい込んでいる。
最年長が「あの小僧。俺のことを全部バラしゃぁあがった」と言う。何も知らない美智子は思わず「バラした、とは何ですの」と聞く。
史子が何故か美智子を抱き寄せるようにして「みっちゃん、お願い」と言って、外に連れ出そうとする。「お寿司屋さんが来る頃なの。初めて注文したお店だから、みっちゃん、それらしい車が迷っていたら、ここに案内して」と言って通りまで出迎えさせた。
最年長は「俺が北海道に居たこと、今の女記者にバレちまったろうな」と言う。すると、他の五人が一斉にバレてないと手を横に振った。
その一人が「てっさん。史子さんが、うまくやってくれたから、大丈夫だよ」と安心させる。だが、てつと呼ばれた最年長は、その事よりも、市役所の沼田に不満がある様子だ。そこで「あの小僧め。俺の事だけじゃねぇぞ、おめえらの事も全部バラしてんだ。分かってんのか、おい」と五人を端から睨みつけていく。
史子が「まあまあ、てつさん」と言って酌をする。てつは、痛い所を思い出したのか、怒りがますます募っているのか「今度やったら、どうしてやろうか」と、怒鳴る。
てつより少し若いのか、ナンバーツウなのか、その男が「おいおい。あいつは俺たちの守り神なんだか、手荒なことだけはよせ」とたしなめる。すると髭のある男が「沼田は、お前のことも全部バラしてるんだ。なあ、みんな知っているか」と、また怒鳴る。この一声で宴会ムードは変わった。これまでは、てつの発言があっても、全体の空気はそのまま進行していたが、みんなが沈黙した。
その後、誰かが煙草に火を付けると「俺も聞いてるぞ」また別の男が「俺はもっと前からだ」と口々に沼田の話を展開する。
そして、ナンバーツウが「あいつは、やっぱり楽しんでるんだ」と言う。すると一同は「楽しいだと」更にナンバーツウは「そうだよ。楽しいんだよ。沼田は他人が辛い顔をするのが、楽しくて楽しくてしょうがない奴なんだ」それを、今まで一度も発言しなかった男が「いや。俺は知らない。沼田さんはそんな悪い人には見えない」そう弁護すると、ナンバーツウが反論した。「ばか。おめえの方がずっと悪じゃねえか。知ってるぞ」男は沈黙している。
ナンバーツウは一同を見渡して、もう一度「みんな知ってんだ。いや、団地中の誰もが、おめえの事を知っているぞ」と暴露した。
その両脇の二人はナンバーツウを止めようとしているが尚も続ける。「いいか、よく聞け。俺たちが、どうしておめえの事を知っているか、よーく考えてみろ」男は、はっとしたように我に返る。すると「おめえは本当にめでてえな。いいか、おめえの情報を知っていたのは沼田しかいねぇんだ。なのによ、なんでみんな知ってんだ。ばらしたのは沼田しかいねぇはずだ。あいつはそういう奴なんだ」また別の一人が「そうだ。沼田はそういう奴なんだ」この時、文子の眼が美智子に目配せした。男たちの様子を速記する。
髭があとを続けて「沼田は、他人が辛い目に遭う事が、楽しくてしょうがねえんだ」と、大声で繰り返す。「まあ、言ってみりゃ病気よ」するとまたナンバーツウが「ああゆう計算高い奴には、病気持ちが一杯いるんだ。本当はおめえも知っている筈だ」と、沈黙を続ける男に投げつけた。
そして一同を見渡すと「いやおめえらこそ、病気持ちに囲まれて、こんなところまで、やって来たんじゃねえのかい」と、注がれた酒を飲み干す。
そして「警察から裁判。豚箱から役所と、病気持ちは至る所にいたはずだ。どうだ。思い出したか」そう言って高笑いした。
美智子は「病気とは、どのような病気なんですか」と、ナンバーツウに聞く。それを、てつが「へんな奴のことよ」と、吐き捨てた。そして美智子に向かって「ひと頃、マゾとかサドとか流行ったろう。沼田はサドなんだ」と暴露した。
美智子は「市役所職員の沼田には、個人情報をリークする癖があり。また精神的な異常も噂されている」と速記していたが、男たちの言動にも疑問ありと注釈した。
なんとなく、落ち着きを取り戻してくると「じゃあ、外間は、本当に沖縄から来たのか」と、一同。互いに顔を見合わせあって、本当だとか嘘だとか、言い合っている。
やがて「外間伸も女房の、のぶよも見た目どおりの悪人よ。あいつの二代前は沖縄から流れて来た悪党でな、本町の近くに親戚がいてよぉ、そこに間借りしてたんだ」美智子は唐沢の言葉を思い出していた。
噂と、ほぼ一致している。更に「本人はそこが実家だと言っていたが、みんな真っ赤な嘘でよぉ。もっと嘘つきは女房ののぶよさぁ。あの女は、今では保険の勧誘だなんてことをしていやがるが、外間の嫁になる前は、夜な夜な駅裏の駐車場に、真知子巻きで立ってたというぞ」一同が注目した。「真知子巻き」と誰かが聞く。
すると「ほれ。映画で有名になった、頬かむりのことよ」別の男が「ああ。昔の、夜鷹のことか」と合点した。「そうだ。その頃の巷じゃ、それが売春の代名詞になってたぜ」ナンバーツウが「そうか。それで沼田が大騒ぎしとったんだ」それに反応して一同が「おお、保険の枕営業で爺のけつを追っかけとったんだ」と調子を合わせる。
すると髭の男が「それにしても、枕営業だけで何十年も続けてりゃぁ、さぞなんとか兄弟も大勢だろうよ」と続けて、最年少の男が「セリーグ、パリーグが出来たりして」と、茶化す。
別の男は「そんなもんじゃねえだろう。世界中のリーグが出来らぁ」と一同調子を合わせて、大爆笑した。
のぶよには遥か以前から売春の癖があったが、この翌日からは実しやかな裏付けとして、より拍車が掛かることになる。それを想像しているのか、みんなの顔がニヤニヤに変わっていた。
そして互いの目を合わせると「保険屋ののぶよは、爺のけつが好きだぁ」と一斉に声を上げる。この話が本当であれば、みんな見るところは、案外よく見ているものだと思った。これを真実とまでは記録しなかったが、信憑性を感じていた。
その一人が今度は「犬だ。犬野郎だ」と叫ぶ。すると「ああ。あの気持ち悪い奴か」と、みんな思い出しように言う。
するとまた別の男が「そうだ。あいつだぞ、夜になるとあちこち出回って、犬のクソを配って行くんだ」と、隣の男の袖を掴んで「おめえの風呂桶にもクソがあると騒いでいたろう。ありぁ、戸松の仕業だ。
他にもやられたと騒いでいた奴がいたぞ」そう言う。また別の男が「戸松って、あの気持ち悪い奴か」と、ワンテンポ遅れて繰り返す。するとむきになったのか「いいか。思い出してみろ。あそこの犬のクソは蜷局を巻いてるんだ」と、今度は裾を引っ張ると「どうだ」と、同意を求める。
男は頷いて「そうだ。その通りだ」と合わせた。その男に向かって「それ見ろ、だからガラス屋じゃねぇて、言ったんだ」と髭が言う。そのあとガラス屋ことお水と呼ばれていた男が、団地を転出する事になった理由を説明する。
てつが言うには「その一つに、一見仲の良さそうな戸松とお水だが、本当は犬猿の仲だった。互いに舐め合ってないと共存できない傷があったからだ。だからと言って、本気でかばい合いなどするつもりはない。取り敢えず助け合っていることで、団地での地位を確保できるからだ。ところが単独でも、その地位を確保できるようになると、やっぱり互いを疎ましく思うようになった」
「その切っ掛けは戸松の女房と娘が、一人暮らしの老婆を狙って、その庭に犬のクソを置いて帰るまでの一部始終を、誰かに目撃されていたんだ。それが元で、あの二軒は大喧嘩した。だがな、そもそもは犬のクソによる嫌がらせは、戸松とお水の二軒とも家ぐるみで何度もやってきたことだ。ところが今では、罪の擦り合いに変わった。勿論お互いに陰でのことで、表向きではかばいあっているかのように、見せかけているんだ」と不仲を説明した。
更に、てつは「こんなことがいつまでも続くはずがないと、周りの者たちはみていた。そして擦り合いは激化し、負けたお水が転出するはめになった。喧嘩の種をほかの者のせいにしてな」と言う。最年少の男が「他の者とは、誰のことだ」と聞く。髭が「それは、お水の転出を受け付けた、団地担当の役所職員に聞け」と吐いた。
皆の顔色を穿っていた、若い男が「話は違うが、先輩たちはみんな県外に行っていたと聞いたが、それがどうしてここに戻って来たのかを知りたい」と言い出した。
すると「この地全体に言えることだが、みんな他所の世界とは水が合わねぇんだ」と言う。隣の男は「水どころか何もかも合わねぇんだ。先祖代々からな。だからみろ、長野市に行っていたという山下の野郎、結局は泥棒にされて戻って来たじゃねえか」と言う。
美智子は「泥棒にされてとは。どういうこと」と聞くが、また史子が、袖を引っ張って制した。
風呂場まで連れ出すと「ここは変なところなの。変な者がよそで通用するはずないでしょう。きっとここにいる時のような感覚で、他人の物を盗ったのよ」と居間には聞こえないように言った。
正面の男が「それで、よそ者と見ると仕返しをするんだ」と言う。それを若い男が「じゃぁ、古川もいい面の皮だぜ」と笑う。
また別の声が上がる「俺は、戸松もお水も、前から犬と呼んでいた。あの二人の知能は犬並みなんだ」そう言うと「俺もクソにやられた。「いや、家は干してあった布団に小便のあとがあった。「俺は洗濯物と車だ」などとこれも口々に「あの犬野郎」と声を合わせて叫ぶ。
更に「俺ん所の庭には野菜を作ってるんだ。それに除草剤のようなものを掛けられて、全部枯れちまった。それをやったのは、外間のぶよと折山の婆だと睨んでいるが、皆のところはどうだ。被害はねえか」と聞く。
すると、全員が被害を訴えた。ところが、庭には何一つ植えていない筈だが、その男まで「俺んとこは、トマトもきゅうりも茄子も全部やられたぞ。それだけじゃねぇ。花も苗木も入れ替える土まで含めると、二十万の損害だ」この途端、ばか笑いが上がる。
周りの男たちは、彼の嘘を知っているようだ。しかし、その嘘を非難する声は上がらない。皆同時に大損害だと言ってはやし立てる。こうして話題は次々に巡って、本当は古川が外人だという話に辿り着いた。
ここまで来ると、もう理由などは要らない。古川本人と面識さえも無いのに、一斉に外人だと決めつけて調子を合わせる。まるで、そんな口約束でもあるかのように、全員で持ち上げるのだ。美智子は、やっとあの男たちの実態が分かって来たように思えた。
ここの男たちは、どこまでもはやし立てるだけの三味線ひき、こと煽り屋なのだ。まるで塀の中の懲りない面々にも思えた。
史子がそっと言う「どうお。解ったでしょ。あのようにみんなではやし立てることこそが、連中にとっては精一杯の、ステータスみたいなものなの」そう言って薄く笑う。
そして「だからね、噂が真実だろうが嘘だろうが、そんな事はどうでもいいの。自分たちは安全な外野席に居て、泣いたり苦しんだりしている人たちを、笑いながら見物する。あなたも知っての通り、どこにでも居る連中だけど、その密度がこの地では圧倒的に濃いのよ。あの程度のレベルがゴロゴロいるのが、この団地なの。そう、みんなあの程度のレベルよ」と、協調した。すると、唐沢の言っていたEQと重なった。
この時「おう、そうだ。のぶよの婆出て行くぞ」と別の男が叫ぶ。するとみんなが「本当か」そう言って、みんな笑い声に変わった。「なんだ。どいつもこいつも追い出すなんて言っておきながら、自分が出るとは、なんて婆だ」と、若い男が「まったくだ。せっかく手助けしてやろうと思ってたのによぉ」また、別の男が「よせよせ。あんな婆、そんな事してやるようなタマじゃねえ」と言う。
結局この男たちというのは、やっぱり外野席でヤジを飛ばしている無責任な煽り屋なのだ。そう記録すると、史子が「あいつら、自分は安全だと知っているから、なんでも言えるのよ。逆に、何を煽っても自分だけは、絶対に捕まらない、そう思い込んでいるの。だから、何処までも無責任になれるのよ。決して当事者の間に割って入って、泥を被るようなことはしない。自分の手は絶対に汚さない、どこまでも狡い人たちなの。だから、反社会的集団よ」と、最後に小さく言った。
その史子の目に光るものが有った。そして「あんな奴らこそ。最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である」と史子がつぶやく。美智子は「それ、キング牧師の言葉」と質す。史子は「そうよ。流石に記者ね」と微笑した。
史子によると、この団地は異常だという。それは、住人の殆どが煽り屋で、その内に加害者が居たりする。詰まり、いつもは煽り屋のくせに、都合に応じて加害者になるのだという。
そんな場合、危険が迫ると一早く煽り屋に戻って安全圏に隠れる。あるいは加害者になった後、被害者を装ったり、また煽り屋に戻ったりと、常に都合よく姿を変える。しかも煽り屋はここの団地の大勢派であり、少数派を支配している側なの。だからこんな奴らの策略に、対処する術がない。いくら正しいを叫んでも、結局は都合よく追われるしかない」と、古川が置かれていた現状を推測した。
男たちの間に戻ると、話の矛先はまた戸松へと変わっていた。「じゃぁ。あの女房が」と言うと、別の男が「そうだ。俺はそのクソを持って、奴の家の網戸に塗り付けてやった。あんな強姦摩には丁度いいお仕置きよ」と、その仕草を見て、みんなまたばか笑いしている。
美智子は。強姦摩と聞いて「戸松さんが」と聞き返した。髭は「そうなんだ。あいつからは強盗傷害だと聞いていた。が、まあ嘘ではなかった。だが、強盗強姦の常習犯だったと、いう訳だ。あの野郎は、相手が弱いと見ると、狡猾になるんだ。ほれ、世間にはそんな奴がよくいるだろう」そう言うと「おう。特にあの市役所には一杯いるな、病気持ちと合わせて」と爆笑する。
そのあと「だからほれ、沼田のサド野郎よ。戸松の性格とそっくりじゃねえか」と言う。それに応えて一同は、また調子を合わせる様にバカ笑いが続く。
美智子の耳元に「この連中の考え方は、どこまでも恣意的なの。その時の都合次第で、どうにでも姿を変えられるのよ」そして「そこに悪意が加わると、あんなふうになるの」と明かした。
直ぐ隣に座っている男が言う。「戸松は妖気を纏っていそうなぐらい、不気味に見える野郎だが、実は気の小せえ小男よ。だから、古川の車にあれを掛ける時も自分では出来ねえもんだから、娘に遣らせるんだ」と言う。
すると、また髭が「戸松は今度捕まったら、相当きついお仕置きが待っているから、自分では出来ねぇんだ。その代理が娘や女房ってわけよ」とばらした。
次には、正面の男が「女房にクソを巻き散らせて、娘がコップを持って、何かを掛けて来るという訳だ」また、一斉にバカ笑いが始まった。
それも静かになると「それと畑山の爺だ」すると、まだ何も言わないうちに、いっそうのばか笑いが響く。
何も分っていない美智子に、隣の男が「次に捕まったら、もう二度とシャバには出られない奴のことだ」と説明した。
続けて全員に「飯田ではストリッパーの太鼓持ちで、俺は元ボクサーだと嘯いてたのが居る。飯田の奴らから金を巻き上げていたのは、あのじじいのことよ」そう言って、親指で畑山の家の方角を指した。これは唐沢の供述と同じだ。
そして「あいつこそ、孫を悪事の手先として使っているんだ。爺の娘にも、戸松の娘と同じコップに入った物を、古川の車に掛けさせていた。二人の孫には、自転車に括りつけた棒で悪戯させるんだ」と言う。「すると、どうなるんだ」と、一人が返す「車の側面一杯によう、棒の傷が付くんだ。そんな事も知らねえのか」と怒鳴る。
そんな様子から美智子は、どれも話に共通性があり、みんなよく観察していることを実感した。それは「畑山の娘と二人の孫」と追記した。
また一人が言う。「戸松の娘。橋を渡ったスーパーの、レジ係をやっているのを知っているか」と聞く。一同は何事かといった表情で男を見る。すると「平森が、なんでこの団地を追い出されたか。もう、みんなもう知ってる筈だ」一同が口々に同意する。
すると「その平森の女房と戸松の娘がつるんでだなぁ、古川を追い出してやろうと企んでいたんだ」今度は、てつ、が言う。「あの外人に仕立て上げた野郎か」すると一人が「そうだ。本当は日本人だ。沼田と外間が仕組んだことよ。もう一つ古川に嫌がらせをしている黒幕がいるんだ。知ってるか」と聞く。
今度は、てつが「ストリッパーだ。折山のばぱぁのことよ」一同は、ばか笑いしたあと「ほんとか。あのばばぁがストリッパーだってよ」と調子を合わせた。
すると髭が「あの婆、ストリッパーをしていた事を、古川にバラされたと思ってんだ。本当は猪山の婆が漏らしたのを、みんなが聞いていた。それを外間の女房が団地中に言い触らしたってわけよ。それを知らぬはストリッパーばかりなりよ」そして更に「バラされた思っているストリッパーは、古川に腹の虫が収まらねぇ。それで何かにつけ古川に仕返ししてんだ」と、尚も暴露した。途端に、もう笑いが止まらない。
美智子は、やっぱり仕組まれたデマだったと、確信した。それを記録していると、史子が後ろから「そうなの。謎が解けたでしょ」と囁く。
思わず「知っていたの」と返す。文子は「感よ」と笑って「ミチが何を追って来たかぐらい分からないで、どうするのよ」と自分の頭を指した。
美智子は「昨日の様子では、外間のぶよと折山けい子の二人が仕掛けた」と言う。すると、史子は「そのとおり。でも、本当の黒幕は、けい子を利用した外間のぶよだわ。そのけい子を利用するには、のぶよ得意の嘘が必要になる。その嘘を、今度は沼田が逆利用していたかも」と言って腕を組む。そして「という連鎖を仕組んでいたかも」そう言ったあとなぜか首を傾げた。
続けて「ちょっと待って、その逆かも」そう言って、狭い中を行ったり来たりすると「いずれにしても、戸松の娘と女房か、のぶよとけい子か、やっぱり沼田が全てを仕組んでいたように思う」と推測した。
美智子は「でもなぜ、市役所の職員ともあろう者が、嘘を言ってまで、古川さんを追い出そうと企むの」と聞く。
史子は「そこよね。まだまだ推理でしかないけど、ここに居る元暴力団は、飯田出身の古川さんに、やっぱりなにかの秘密を握られていると、思い込んでいるんじゃないかしら」と示唆した。
美智子は「ところが、古川さん自身には、奴らの秘密を握っているという、自覚はない」と、そう推測した。
史子は「たぶんね」と続ける「昨日までは、私も秘密のことをもっと軽く考えていたのよ。でも、よくよく考えてみると、古川さんへの追い出し工作は、元々ここに居る連中とその関係者たちが、組織的に動いているように観えたの。例えばね、沼田は、元暴力団の誰かに頼まれて、古川さんへの嘘やデマの吹聴を行った。役所という信頼の象徴を利用すれば、ここの住人はどんな嘘でも鵜呑みにする。例え警察官でも、疑いを挟む事などはない」美智子は「では、沼田と、頼んだという元暴力団の誰かとの関係は」と少し突っ込んでみた。「そこさえ解ればねぇ。でも仮説なら色々と立てることが出来るわ。例えば、幼馴染とか同級生とか友人知人、或いは同じ地域の出身者とか親戚関係など、上げれば限がないけど」と語る。
史子は「それよりもあの懲りない奴らを観てどうぉ思う」と聞いてくる。美智子は「暴力団という前提が無ければ、どこにでもいる仲間たちに見える」そう答えると、史子は「そうでしょうね。どこにでも居るような、仲の良いお達同士にしか観えないでしょう。そして、大勢として纏まろうとするとき、あの中には、意見とか反論をいう者が一人もいないことよ。あの中に意見する者がいれば、仲間からは異質とみなされる。つまり、つまはじきにされる」と明かした。
続けて「これは民主義に反する考え方とは思わない」そう言って覗き込む。
この突然の質問に美智子は途惑ていった。文子は「それは現在の世の中に、飼い慣らされてきた結果として、違和感を感じなくなってしまったから」と質す。
美智子は「世の中に飼い慣らされたとは」と聞き返す。「現在よ」続けて「現在の世の中に、あなた自身も飼い慣らされたか。と聞いているの」
「あ、解った」
「それは、あの懲りない連中の様子を観ても、現在では違和感を感じなくなった。けど、大昔の私だったら、あんな風に纏まっていくグループが居れば、凄い違和感を感じていたと思うわ」と最後は異口同音していた。
史子は「そうなの。時代の変化とは恐ろしいもので、あなたが小中学生だった頃であれば、違和感どころか嫌悪感さえ感じていたと思う」と言う。
更に「あなたが子供の頃の教室にも、あんなのがグループを作って、真ん中でいつもわいわいがやがや、やってなかった」と更に聞く。
当時を振り返って「やってた。いつも我が物顔で教室を陣取ってた。きっとどこの教室にも、そういう嫌なグループの一つや二つはあったように思う」すると文子は「そうなの。そのまま大人になったグループがあいつらで、この団地の大勢を象徴している」と明かした。
更に、美智子に向き直ると、男たちを指したまま「嫌なグループを、国家レベルにまで発展させた形が、独裁政権なの」まるで、暴露しているように思えた。
更に「現在の若い世代はどうだろうか」と聞く。続けて「あんなふうに、嫌なグループを見分けることさえ出来ない」と、答える。
尚も史子は「私の場合は、あなたより十年以上は古いと思う。その頃は教室を陣取るような行為があれば、生徒全員から嫌われたものよ。そればかりか職員室に呼ばれて、長い長いお説教を聞かされたわ。教室はお前たちの物ではない。色んな考えの生徒が集まって授業を受ける場だ。と、そう厳しく反省させられたもの。もしかすると、戦争へと発展していくメカニズムを体験してきた、先生の叫びだったかも。それが個人を尊重する事。すなわち、色んな考えの場であるとの教えだった」と、少し懐かしむような声で語った。
そして「その教えこそ意外な事に、ルーツは戦国時代にあったと思う。もちろん民主主義など、あったはずが無い。でも、信玄も家康も、意見どころか、反体制派まで集めてみんなで評議することを尊重していた。そこには粛清ではなく、統率することで考えを纏める場があった。その結果家康は戦国の覇者になった。思えば評議の場が、民主主義への何たるやだったように思う」そう言う。
すると顔を上げて「そうよ、私たちが子供だった頃の教室には、民主主義への道が有ったの。戦前教育の軍国主義が確りと残っていたはずなのに、それでも民主的な考え方は存在していた。集会所などでも、寄り合いという評議の場があったように」と、史子は続ける「戦時中は、あれほど一つにしようとする教育が、国中で行われていたにも関わらず、それでも個人を尊重する考え方が、確かに育まれていたわ。信玄や家康がそうしてきたように。だから現在のように、陰湿なものは無かったかも」と振り返る。
そして「ところがあなたたちの時代になると、嫌なグループはせいぜい嫌悪感程度で、職員室に呼ばれるようなことは無くなっていた。やがて現在から二十年以上も前になると、逆に空気読めないなどと言い、嫌なグループの内に取り込もうとする。また十年ほど経って、そのグループが膨らんでくると、今度は忖度などと威圧的に取り込もうとしていた。やがて、大勢派に忖度しない生徒を、弾き出して虐めるようになった。あの暴力団の考え方と、何故か共通しているのよ。個人を尊重する場はどこに行ったの。なにが忖度よ。一つに纏めようとする嫌な連中は、他人に対しておべんちゃらを言えって事じゃない」と不機嫌だ。
そして両手を広げると「これが、飼い慣らされた人たちの世の中よ」と笑った。
美智子に向き直ると「あの連中には、お互いを尊重し合う姿がないの。同じ土地者の外間のぶよも折山けい子も、世の中に存在するのは自分だけと思い込んでいる」と言う。
更に男たちを指して「あいつら全てに言えることは、主体性が無いのよ。自分で考えて、自分で判断して、自分で行動する事が出来ないの。だからその場のその場の都合で、水が低い方へ低い方へと流れるように、恣意的にしか動けない。当然デマも嘘も見抜くなんて能力などある筈が無い。その結果、一見バラバラのように見えるけど、集団としては、みんな同じ方向へと動くことになる」と、纏まりへの仕組みを言った。
そして「特に悪い事に関する命令があれば、軍隊のように統率が取れるの。奴らがどこか他所へ行って、暴力団として動くときは、自然と一つに纏まる。この私が指揮官になって、銀行をお添えと命令しても、奴らは強盗になる事に何一つ躊躇わない。あんな風にね」と、指さす。
美智子は、文子の違った一面に触れた気がした。
そして、あの時と同じ様に、三味線ひきを煽り屋に置き換えることは出来ないかと聞いてみた。
すると「煽り屋」そう言って返したあと「いいわねぇ。煽り屋のほうがピンとくるわ」と、次の言葉を止めて、男たちを窺い観る。そして美智子に目を合わせると、口を押えて笑い合った。
男たちは、これから繁華街に在る、顔馴染みの店へと繰り出すそうだ。
去ったあと、史子は改まったように正座して「今日どうしても見せたかった事がもう一つあったの。あの中にてつと呼ばれていた男と、その隣にいた髭の言葉をよく覚えておいて」そう言うとメモ用紙を取り出して「それは、被害者を孤立させるには、外人に仕立てる事が最も確かな方法だからよ。古川さんの場合は、仕立てる為の全てが揃っていた。だからまずはつんぼ桟敷にされた。そのうえで、人格的に貶めるようなデマが、独り歩きを始めた。その煽りを、沼田が扇動した。そのあとを見計らうように(古川は何一つ反論しない)だから古川は、本当に外人なんだ。と更に煽った者がいた。それが外間のぶよとだとみているの」
「その後も、土地者全員を扇動したのは、折山けい子だというのがこのデマの真実よ。今夜は、誰がデマを流したのか、大元となる黒幕を知りたくて宴会にしたけれど、明確には、デマの元を誰も話さなかった」と残念そうに言う。そして以上のメモを手渡した。そこには、可能性として沼田洋二と記されていた。
翌日の朝、昨日のデータをまだ入力中だったが、中断して山田のアパートに向かうことにした。昨日言っていた内容が気になって仕方がない。
美智子はPCをフロントに預けると、急いで通りに飛び出した。時間が早いのか、タクシーの待機場に車はまだ無い。ならばと、歩くことに決めてあの路地へと向かった。怖いもの見たさも手伝って、黒い板塀の武家風の屋敷をもう一度は見てみたいと思っていたところだ。
あの得体の知れない路地に通じる裏通りは、依然ひっそりとしていた。ここからでは屋敷中の様子など分かりはしないが、不気味さだけは確かに漂って来る。
あのケープを羽織った和服の老人は、この路地に面した裏口の木戸を入って行った。と、いう事は、正門は反対側に在るということなのか。帰りにはこの路地の反対側から屋敷を眺めてみようと、周辺の様子を頭に入れながら、取り敢えず通過した。
そこからは回り道をしないで、山田のアパート目指して真直ぐに進む。いや、そのつもりだったが、これほど入り組んだ街並みも珍しく、また角ごとに信号が変わり、歩きに慣れている美智子が、山田の二〇五号室に到着するのに、三十分も費やした。
山田正司は昨日と同じ姿で、美智子を向かえた。臭いもそのままだ。だが、山田の話には知らず引き込まれた。
「そうなんだ。椎名さんは、ここに来て間もないから分からないだろうが、よそ者がこの街で怒鳴られるぐらいは当たり前だ」と、という話をする。
それは、アパートの駐車料金を、不動産屋の自宅に届けさせるというものだった。もちろん、契約時には無かった話だ。それを持っていかなかった為に、客が怒鳴られたという。それがきっかけで、客は大家に確認した。すると、駐車料金など取っていないという。このアパートは新築したときから、駐車代は無料だったと主張した。不動産屋は横領を企んでいたのだ。駐車料金を持って来させたのは、勝手に置いていったという、バレた時の警察対策だった。
尚も、これに類似した詐欺まがいの話は至るところにある。狙われるのは、決まっていつもよそ者だと強調した。
ここでの物取りは常識なんだ。また、全国を股にかけて歩いたという建設業の社長が「これ程人情の無い、腹黒い土地柄は初めてだ」と嘆いていたという。
山田は「こんなのは、たいして珍しいことではない。よそ者に対しては日常的に起こり得る事なんだと説明した。
そして、怒鳴りつけるというのは、よそ者を従わせるという社会的序列を確立するのが目的だ。土地者は常にそのような事を意識している」と明かした。
つい美智子は「そんなことまで意識していたら、おかしくならないのかしら」と言ってしまった。すると「それが日常なんだ。だから変なところという汚名が付いたんだ」と返ってきた。
そして「逆に、他所に行った土地者が、よその地で馴染めないまま恨みを持って帰って来る。そこによそ者が居るとここぞとばかり仕返しするんだ」そう声を潜めて言った。美智子は「他所で受けた事への仕返しですか」と、あの男たちの言葉を思い出した。
山田は「そうだ。これこそがこの地の風土なんだ」と、仕返しを更に強調した。そのあと「ここを通過する観光客や、仕事などで一時的に滞在するサラリーマンなどには、この地の人間が如何に排他的で封建的な社会を構成しているかを、見抜くことなど絶対に出来ない」と言い切る。
これは唐沢も強調していた。そして「今の駐車料金の話のように、一定期間以上の滞在が無ければ、土地者の本性などは絶対に見抜けない。それは、土地者同士の連携で、暗黙のうちに決められている秘密だからだ」そう語った。秘密と聞けば、団地にあるという秘密と重なる。
美智子は、そんな口ぶりから「山田さんも何処か他所から来られた方なんですか」と聞く。
すると「とんでもない。俺は根っからの土地っ子だ」と言う。そのあと「そういう事になっている」と、微妙な言い方に変えた。
美智子は口の中で「根っからの土地っ子」と、復唱する。だが「ただ、俺は卒業と同時に、東京に出て料理の修行を行った」という。
古川の釣り仲間だというヒントから「和食なんですか」と聞く。
それには答えず「フルさんにも言ってきた事だが、この地の人間は、よそ者を従わせる事が、支配力の象徴としているんだ。それはこの地にやって来るよそ者だけではない。俺が東京に出た頃は、親方は別格だが周りの兄弟子でさえも、店の者を従わせようとしていた。そんな先輩たちが当たり前にいたんだ。そしてある日のこと、先輩は突然姿を消した。いったい何があったんだろうと思っているうちに気が付いた。俺も、この地の常識通り育てられたから、無意識のうちに俺の態度のどこかに、他人を従わせようという、意識が観えていたんだろう。だから、あの厳しい調理場で上手くやっていける筈がない。それでもあの頃の俺は、上手くいかない事を兄弟子たちのせいにして、職場を変えたね。事あるごとに何度も何度も変えることで、問題を乗り越えてきた。と、妙な錯覚を抱くようになっていた。俺は本当に甘かったよ。解っていたつもりの厳しさがどれほどのものかだったのか、これでもかこれでもかと思い知らされたね」そう言うと、美智子に座布団を差し出した。
美智子は、唐沢の供述にあった守谷の態度と、よそ者を従わせるが一致していた。
昨日と同じ上がり端だが、今日は座布団に腰かけた。そして用意していたのか缶コーヒーを出して「俺はとうとう嫌気がさして、帰って来るしかなかった。それから地元企業に就職して、それも随分と経ってから気が付いた。この俺が如何に間違っていたかを」そう言ってコーヒーをすすって飲む。
「けい子が団地に入居して、十年ほど経った頃だろうか、久しぶりにフルさんの家を訪ねた。そこで思わぬ話を聞いた。それはフルさんと同じ組合に居住していると思われる、二人の老婆の話だ。この二人は、俺が乗って来た車にまだ居るとも知らないで、世間話に夢中だった。話とは、組合の当番が知らないうちに変わっていたというのだ。それは国政調査のあった年で、その前の年に外間のぶよが役員をしていた。廻り番だから次は、二人の老婆のうち一人に役員が廻って来るはずだったと言う。ところが今年も、外間のぶよが役員を引き受ける」という話だ。
老婆のもう一人は「声を大きくして(そうなの。今年も引き続き私がやるから)と、ぶよが言い張るのよ。だから、その年は外間が二年連続で役員を引き継ぐことになった、と言う。するともう一人の老婆が(のぶよのような奴が、一銭にもならない役員を続けて引き受けるわけがない。きっと何か魂胆あるんだ)とそう言っている。俺も外間のことは聞いていたから、なるほどと思っていた。すると案の定、もう一人の老婆が、そうだ。国政調査と関係があるんだ。と、言う。役員になる筈だった老婆が、相槌を打って(きっと、そうよ。外間は調査内容を他人に知られたくないから、自分でやると言い出したんだ)と尚も声を上げた」と明かす。
「その頃の国勢調査は、各組合の役員が調査用紙を回収していた。内容を見ようと思えば、役員であれば誰でも見ることが出来る。外間はそれを恐れたんだ。俺は、この程度の低いやり取りだが、内容によってはフルさんへの名誉に関わってくる。また、団地の実態を知ってもらうには、丁度いい教材のようなもんだ」と言う。
山田は「そこで馴染みに聞いてみた。その話を切っ掛けに、のぶよが少女少年院に居たという噂を報った。だが、のぶよのような性格であれば、その場しのぎの嘘を、調査用紙に書き込めばいいだけの事だ。なぜだろう」と言って腕組みする。
次に「あの団地での役員が、どれほど大変なことか俺には想像がつく。あののぶよが、大変な役員をわざわざ買って出るだろうか。どうしてそこまでするのかと思った。その時、俺はなんなくだが、他にもっと重大な隠し事があるんだと想定してみた。その答えが出たのは実に簡単だった。のぶよの夫である喧嘩自慢の大男には、前科があるんだと分かった。その理由は、他の前科者がそうであるように、警察を極端に嫌っていた事だ」美智子は「ちょっと待って下さい。のぶよは、警察官の大林と関係があるのでは」と質す。
山田は「そうだよ。具体的な関係は知らないが、この二人は以前からの知り合いだったはずだ。だから、夫の罪歴を隠す為にも、関係を密にしておく必要があった」そう推定した。
交通課の大林は、外間一家の違法駐車を黙認している。のぶよにしてみれば、警察官を味方につけたようなもんだ。だからサイコ持ちののぶよが、夫の伸を嗾けてフルさんを殴りつけようとさせた。ところが返り討ちにされた。そこに逆恨みしたのが、同じサイコを持った二人の子供だ。のぶよと一緒になって、一方的な吹聴を始めた。のぶよは生保の客先を中心に、子供はフルさんの職場に言い触らしている」と言う。
そして「もうひとつは、喧嘩自慢の伸が警備会社を突然首になった事だ。明確な理由なくして、警備会社を突然解雇されるのは前科者しかいない筈だ。それは法律が、そう定めているからだ。俺はこれを真実として確信している」と断言した。
更に「その前科者の伸が、同じ前科のあるのぶよを嫁にして、あの団地に住み着いていたんだ。だから過去を知られない為に、その年の役員を歴任した。そして、戸松や水野も前科者同士と言われている。そんな前科持ちの夫婦が他にもまだまだいるのがあの団地だ。転入して来る前科者は、よそ者であろうとなかろうと、とかく受け入れられやすい状況がある。ところが同じ前科者同士でありながら、外間に対しては何故か不仲だった。それは岡松とは、しがらみも組織も全く別のルートから転入したからだ」と明かした。
そのあと、自らの修業時代を語る。「人間とは何故か渦中に居ると、自分が置かれている状況には気が付かない。一旦外に出て、外から渦を眺めてこそ、自分が置かれている有り様に気が付く。如何に自分が愚かだったかと。他の者たちは修行に入ると同時に、持って来た自分の間違いに気が付いていたようだが、俺の場合には遅すぎた。俺も他の者たちと同じように、問題に直面する前に気が付いていれば、今頃は自分の店ぐらい構えていたと思う。この地の土地者が余所の土地で成功しないのは、俺と同じ理由を抱えているからだ。そうして地元である、この地にみんな帰って来る。それもこれも、すべてを他所のせいにしてな」と言う。美智子はあの男たちのグループが叫んでいた言葉を思い出して合点した。
土地者が余所で嫌われる理由について「みんな多かれ少なかれ気が付いている筈だ。だからよそから来た者に、変な所と指摘をされると反論出来ないんだ。逆に、この地を離れたことのない土地者は、嫌われる原因に何ひとつ気が付かない。いや、嫌われている事さえ知らないでいる。だから他所を知らない土地者は、受け継いできた教え通りよそ者への差別を続ける。Uターンしてきた土地者は、江戸の仇は長崎とばかり仕返しをする。これがよそ者への、仕返しと差別へのメカニズムだ。これは同時に支配欲でもある」と、説明した。
そして「だからよく分かるんだ。フルさんがこの異郷の地で、変な奴らと闘っている事が」美智子は「ちょっと待って下さい。闘うとはどういうことですか」と話を止めた。「闘っているんだ。フルさんは闘っているんだよ」と語気を強め、美智子を見つめる。
そして「外人だなどと吹聴されれば、その結果どのような事態になるか、想像できるはずだ。分からないのか」そう言いうと、何かを躊躇っているかのように沈黙した。
そのあと話題を変えて「フルさんの団地には、飯田市でストリッパーをしていた女が居て、そいつが中心となって、フルさん一家を追い出そうとしていた」そう訴える。
唐沢らの話と繋がる事に「何故なんでしょう」と先を急ぐ。「邪魔なんだよ。ストリッパーは、飯田で相当悪いことをしてきた。それがバレると、麻薬が手に入らなくなる。これが一番の理由だと思う。ほかにも困る奴が居るはずだ」と明かした。
それは暴力団がストリッパーを支配するために、麻薬を使うは常套手段だと知っていた。尚も「このストリッパーは飯田で、やくざが引き連れていた女だから、薬物支配を受けていた筈だ。そして、こいつの悪事とは恥ずかしいことだけじゃない。その一つに放火も疑われている。警察の動きに敏感な売人は、ストリッパーには絶対に近寄らなくなる」と言う。これは、唐沢の供述と一致する。
美智子は「それは、警察の動きで警戒する」山田は「そうだよ。当然だが、そうした情報は、ストリッパーには尚のこと敏感なはずだ」と明かした。
尚も「という事は、警察内部からの情報漏洩があると、証明しているようなもんだ」美智子は「あの団地では随分前から異臭が有ったと聞いています。しかも警察の特別パトロール地域とかで、注目されている筈なのに、それでもストリッパーは捕まらない」と質した。
すると、山田は「当然さ。情報の漏洩がある以上、両者は通じているんだ」と、これもストレートに帰って来た。
速記したページに戻して「警察とは、大林のことでしょうか」と訊く。これは唐沢や史子からの情報と一致しているからだ。山田は「特定の警察官が、ストッパーと直接連絡を取り合うとは考えられない。その間には追跡されない為の、仕組みがあって然るべきだ」と明かした。
更に「フルさんは、そんな奴らとも闘わなければならない」と言う。
美智子もまた、一人初めての都会で、理不尽に囲まれてきたことを思い出して「古川さんにとっては、アウェイですものね」そう言うと山田は「アウェイだと、これはスポーツではない」と、鼻で笑う。
そして「敵地だ。フルさんは敵の真っ只中にいるんだ」と、今度は声を荒げた。そして劇薬の件を繰り返す。「劇薬を掛けられた、フルさんの車を詳しく説明する。それは窓ガラスと鉄板の間をつなぐ、ゴムシールの下がプックリと盛り上がってた。これは塗装面の下にある鉄板が、腐食の為に膨らんで持ち上げているんだ。腐食した鉄筋がコンクリートを持ち上げて、幾筋もの亀裂を作り、やがて崩れていくように。あれは腐りだ。鉄の腐りなんだ。どんなに錆びても、鉄板は鉄板だ。たった一月の間に、防錆鉄板がぼろぼろと崩れていく様な腐食なんて、俺は観たことがない。そんな状態を奥さんが知れば、これはもう恐怖だろう」
「もう一度強調する。そんな劇薬を突然、顔にでも掛けられようなものなら、殺人と同じだ。正に脅迫以外の何ものでもないのに、被害を訴えたところ、対応した警察官のササキは、何ひとつ対処しなかった。そればかりか、被害者である筈のフルさんに対して揶揄をしたあげく、もう来るなという態度を示したそうだ。俺が書いた手紙にはそのときの内容を網羅しているので、しっかりと報道してくれ」と訴えた。美智子は唐沢に対応したフジモリとササキには、古川への対応と共通性がある事に驚いた。
そのあと、気になっていた古川の家族について「奥さんはどうしているのですか」と聞いてみた。山田は「それだよ。俺も聞きたかったが、事が事だけに簡単には聞けない。おそらく奥さんはどこかに避難したのだろう」と明かす。
美智子は「それはいつ頃のことですか」と聞く。山田は「間もなくだ。掛けられた劇薬を観たあと、間もなく奥さんの姿が見えないと、俺の馴染みから報らされた」そう言いかけて、合点したように「そうか、引き付けるためだ。フルさんは家族を安全に避難させたるために、犯人を自分に引き付けておく必要があった。そして家族が追跡されない為に、あの団地に自らを囮として居続けたんだ。そうか、そうと分っていれば、いや言えない。こればかりは言えないだろう。例え犯人が特定されていたとしても、やっぱり家族の所在などは、いくら親友にでも言えないだろう」と言う。
美智子は、山田が言うように家族を守るための囮なら、失踪先である自らの居場所を、いずれ公表する必要があると思った。
そして、山田は「この地の警察官と麻薬は、どうしても関係があると思う。理由の一つに、フルさんが麻薬の件で、脂粉のような臭いがすると通報している。そのとき、あっちこっちへ行って、麻薬のことをべらべらとしゃべるなと、口止めされたそうだ。その時の模様を、俺に相談して来た。
尚も「通報を受けた男はフジモリと名乗った。麻薬の事だから、言いふらすなということは分かる。だが、国民として、勇気をもって通報しているのに、あっちこっちで喋るな、などという言葉を警察官ともあろう者が言うだろうか。そもそも、恐ろしいシンジケートに狙われかねないのに、身を以って通報しているんだ。フルさんに限らず、通報者があっちこっちでべらべら喋るわけがない。この警官の知能と思考回路にこそ問題があるんだ。もう一つは、この通報を機に、フルさんに対する対応が一変したと聞いている。それから暫くたったある日のこと、見知らぬ車の車内から、カメラを向けている二人組が居たり、深夜にパトカーが家の近くにまで巡回して来たりする。またある日、二人の部下を連れた三人組が、フルさん家の周りを嗅ぎまわっていた。その素振りは、以前に現れた麻薬捜査官の仕草に似ていた。そんなことがなぜ起こる。勿論、辺りを視察するだけで、それ以上の事は何もない。が、一般人からすれば、警察からの嫌がらせ以外にしか観えない。それもこれも、麻薬の件で通報したことが、切っ掛けだと想像する以外の答えが無い」そう明かした。
美智子は「警察のこのような不可解さが、不信を招く」と記録した。
山田は「フルさんに身を隠す様に勧めたのはこの俺なんだ」と、更に明かす。美智子は「え。山田さんが」と聞き返した。すると「あの時の状況を鑑みると、フルさんは冤罪をでっち上げられて、今頃はどうなっていたことか、恐らく悲惨な事になっていたのではと思うよ」古川への心配を語るその目が、また赤く充血していた。
山田は「市役所職員の中には、暴力団や元やくざの構成員と親しくしている者が少なくない。この地と言ってる地域は、例えるなら沖に浮かぶ孤島なんだ。その限られた地域に親戚、同級生から友人知人、幼馴染も居れば恩師やその家族までも居る。そう、同じ島のファミリーだ。この地という地域も同じファミリーなんだよ。その中に市役所の職員がいて、やくざも同居している。当然、教師などの聖職者も居れば議員も居る。そこに警察官が居ても、ちっとも不思議じゃない。どころか、国会議員や官僚に至るまで、有りとあらゆる人物たちの集団なんだ。小さく見えるが、あれで一つの国家だ」そう語る山田の趣旨は、藤村の言葉とよく似ていた。
尚も「孤島の中で家族のように育てられた仲間に、犯罪者がいたと仮定して、そいつを仲間外れに出来るか、幼馴染や恩師の家族を仲間外れに出来るだろうか」と、問う。
更に「例え公務員といっても警官と言っても、それは定年までの事だ。そこを過ぎればただの人でしかない。そうなれば、戻ってくる場所はこの地しかないんだ。やっぱり最終的には、この地を選択するのが仲間同士というもんだ。つまり仲間の為には出来るかぎりの支援をする」そう明言した。
そして「これが市役所職員と犯罪者の関係だ。同時に警察官と犯罪者の関係でもある」と、山田はそう説いた。
美智子は、藤村の言っていた言葉と重なることから、沼田や一部の警官との癒着するメカニズムは既に観えていた。これで謎の一つは解けたような気がするが、それでもまだ釈然としたわけではなかった。
速記帳を捲りながら「変わりますが、古川さんは失踪してまで、また冤罪のリスクを背負ってまでして、なぜ闘うわなければならなかったのでしょうか」と、さっき沈黙した後の続きを聞きたかった。
すると山田は、意外なものを浮かべて「じゃあ、本当に知らないのか。俺はそのための取材だと思っていた」という。美智子はまさかと思った。
「俺がフルさんの立場だったら、相手は仇だ。息子の仇なんだ。このまま黙って済ませられる訳がない」そう言って、掌の中のコーヒーの缶を握りつぶした。外人だなどというデマを飛ばせば、その結果は誰にでも想像できる。一番弱い者が狙われるのがこの社会だ」
まさかと思っていた心配が当たっていた。置かれた空き缶は、いくらアルミとはいえ、人の力でこれ程ペッタンコになった物は初めて見る。
美智子は、仇というこの言葉に、全てを理解した。「そうだったのですね。ふと、心配した事が現実だったなんて。それで息子さんは」と言いかけたところで、山田から「土地者とよそから来た他人の違いを知る簡単な方法がある。それは、土地者は会話の中で、相手に対する感謝や気遣いの言葉は無い。だがよそ者は、見ず知らずの他人にも、挨拶から気遣いに至る感謝の言葉を相手に伝える。これが、土地者とよそ者のちがいだ」と語った。
尚も「そんな殺伐としたこの地の、短絡的で煽り屋だらけの土地者に、外人だなんてデマを吹き込めば、凶器を持たせたも同じなんだ」と訴える。そしてぽつんと「息子さんの事はまだ分かっていない」と答えた。
美智子は不気味さを感じたあの路地の、キラノインの事を聞いてみた。すると山田は驚いた様子で「それだけは関わらん方がいいぞ」と言う。
そして少し考え込むような様子で、そっと話はじめた。「キラノインにはいろんな噂があってな、俺の知る限りだが、明治の初め頃は、口利き屋をやって財を成したと聞いている。今で言う人材派遣業のようなことだ。この辺りは勿論、遠くは関東から関西に至るまで、土木関係を初め、果ては海運業にまで手掛けたと聞いた。噂でしかないが、人身売買もあったとかいう。知ってのとおり人足集めは、元々やくざの生業だ」美智子は「やくざなのですか」と反射的に聞き返していた。
山田は「大昔の事で、詳しい事までは知らないが、現在も何かをやっているようだ。それも昔以上に強大な力を持っているらしい」と言う。
山田は「とにかくあいつに逆らえる者は、一人も居ないってことだ。ここの市長は勿論、若しかすると国会議員まで、首をすげ替えるぐらいは簡単だという噂がある」そして小さく「戦前までは女も扱っていた」と呟いた。
この異次元からの言葉に、冷たいものを背中に感じた。そして、成程。誰に聞いても一様に口を閉ざす、その原因がよく分かった。そして、まだ数えるほどだが取材を重ねたことで、何となく全体の輪郭だけは見えてきそうだと思った。
そして「団地にある秘密と山田が言う秘密には共通性があるとした。更に劇薬の件では、通報を受け付けたササキは、土地者及び信州岡松一家との関わりがある事を示唆される」とした。尚も「疾走した古川は、いずれ自らの居場所を公表する可能性がある」と、速記した。
十一、土地者
これまでの取材では、よそ者を敵対視する側の証言がない。そこで山田には、敵対側の取材先として相応しい人物の紹介を依頼した。
すると「俺がフルさんの息子の仇討ちをしたいと、言っているのに、どうして仇敵側の人物を紹介しなければならない」と冷静そうな細い眼に返された。
美智子は「昔から喧嘩両成敗、言い分は双方から聞く。取材も双方からです」そう説明した。すると「この俺にフルさんの敵になれと」細い眼が丸く見開いた。
美智子は山田の手を取って「双方から取材するのが、正しい報道の在り方なのです。報道とはそういうものなのです」と繰り返す。
その言葉に頷く。美智子はここで出会った、人物たちの反応を観ていると、理論よりも感情で判断しているのだろうか、そんな印象を受けた。
敵対視しているという、保守的な三人の住所と連絡先を持って、タクシーに乗り込んだ。
取り敢えずは郊外にあるスーパーだ。目指す人物はここでレジ係をやっている初老の女だという。山田が休み時間であれば、インタビューに応じると連絡をとってくれた。その時間は午前十一時から十五分間だ。取材料として法外な金額を要求されているが、承諾するしかない。また、その老婆の亭主こそ暴力団の構成員だという。ところがその息子は、今や市会議員なのだと明かした。
スーパーの出入り口から観ると、どこにでもあるようなレジが一列に並んでいる。近づくにつれ、それぞれにレジ係の姿が観えてくる。その中の一人がそわそわと、何やら落ち着かない様子で、こっちを気にしていた。
ガラス扉が開くと、その女の姿がはっきりと観えてきた。既に七十を超えているのだろうか。教えられたとおりの特徴があった。女はでっかい顔いっぱいに笑いを作って、美智子を導いている。
そこに交代のレジ係がやって来て、老婆はいそいそと美智子に近付いて来た。ぶくぶくと太った身体を揺らしながら、なにを気取っているのか一応は丁寧だ。そして「ここでは話し辛い」そう言って、店の奥に在る倉庫のような所へと案内された。
湿っぽいコンクリートの壁と、打ちっぱなしの床には段ボールの箱が山になっている。「ここなら誰も来ないから」と、その胸には、薄暗いなかにも猪山の名札が掛かっていた。同僚たちはこっそりと、ブタ山と呼んでいるそうだ。
扉を閉じて、辺りに人の姿が無いことを確認すると、老婆の態度が豹変した。無愛想な顔を美智子の眼に近づける。
すると、いきなり掌を出して取材料を要求した。こんな場合は金を渡した途端、ロクな話も聞かせてもらえず、そのままバイバイなんて事になり兼ねない。
美智子はここでも当社規定を説明して、今回は個人的に支払うことを約束させられた。目の座った凄みのある老婆だ。成程、イメージ的にはやっぱり猪なのか。
その猪山が「あんな奴ら」と、語気を強める。これは余所の土地での、経験談に及んだ時だ。
この老婆は自分のことを「オレ」と言う癖があるらしい。「あいつら、オレたちを売ったんだ」という。「え。どうして売ったんです」と聞く。
すると「俺たちの店が繁盛してるのを妬んで、なにかにつけ嫌がらせをして来る」という。美智子は「あいつらとは、誰のことなのですか」と、改めて聞く。
そこで「町内会の奴らだ」そう言う老婆の目が、鋭く光った。外の光を反射しているのだろうか。だが、この光は照度量によるものではなく、サイコパスの症状だと観察した。
美智子は向き直ると「どこの町内会なんですか」と、続きを質す。「どこだっていいじゃないか。そんな事より、あいつらは、オレたちが火を付けたと言って、逆恨みしてるんだ」と、今にも拳を振り上げそうな勢いだ。
美智子は「火を付けるとは穏やかじゃありませんね」と言いつつ、唐沢の妹が言っていたという、放火の件だと直感した。
猪山は飯田市街に出店したキャバレー地下鉄という固有名詞を明かさない。この疑問はそのままに、いまは口述の記録を続けた。
そのキャバレー地下鉄が出店したと思われる、60年代後半の田舎町である信州飯田は、ストリップなどの風俗に対して絶対反対だった。尚もキャバレー地下鉄は飯田の風紀を乱すとして、当時の町内会が反対運動を起こそうとしていた時だ。その矢先、同じ町内の料亭が全焼したと言うのだ。
唐沢の話では、猪山の口述と「明らかに似ている」それを、どう確かめようかと迷ったが「それ、若しかして伊那での話じゃありませんか」と、少しだけ変えて、突っ込んだ。
すると老婆は目を見張って「なんで知ってっんの」と声を上げる。美智子は内心ドキドキしていることを覚られまいと、老婆の眼から視線を外さなかった。そして静かに「山田さんから」と囁くように言ってみた。
老婆の顔から不安と、狼狽が消えていく。「なんだ、そう言えばいいのに。山田なんだ。でもな、あんた。言うんじゃないよ」と釘を刺してきた。
さらに、美智子を睨みつけて「言ったりしたら、怪我するよ」と、脅す。この老婆も単純かつ短絡的なのか、脅しが常態化しているのか、それとも暴力的な発想しか無いのか、背景からはそのまま暴力団の臭いがした。
山田の紹介であることを認識したことで安心したのか、よそから来た美智子に対して一方的に語りだした。「え。唐沢だって。あいつは伊那だか、どっかその辺からやって来た、とんでもねえ野郎だ。まだ団地に居た頃、伊那から来た奴だと言うんで、大騒ぎになったことがある」とも言う。
美智子からは何も聞いていないのに、何故とんでもないのかと尋ねてみた。すると「伊那から来る奴に、ろくなのがいない」と言うのだ。
美智子は「何か悪いことでもするのでしょうか」と聞くと「何言ってんだ。ろくなのが居ないから、そう言ってんのに、とにかく嫌な奴なんだよ」そう言って具体的なことを明かさない。
美智子は「そんな嫌な奴なのに、なぜ伊那から来たと分かるのですか」と聞く。すると「そんな顔してんだ」と言う。美智子は、速記帳を捲りながら「猪山さんとは、面識が無いと聞いていましたが」と質す。
すると、狼狽したように目を逸らして「そんなこと知るか」と居直った。あとを透かさず、話を戻す。「伊那も、塩尻や松本、佐久や上田も甲府も、他の地域から来たものは、みんな嫌な奴なんだ」と言う。
そして、同じように具体例を明かさない。この様な場合、殆どは明確な理由など存在しない。最終的には気に食わないを理由にするのだ。
尚も、気に食わないだけでは理屈が通らない。そこで先ずはイヤな奴にでっち上げるのが、虐めのセオリーである。そこで美智子は「唐沢さんが伊那市の出身であることをどこで知ったのですか」と、突っ込んでみた。
猪山は「そんなの決まってんじゃない」と、怒りだす。「いえ。私には分かりません」と即答した。
猪山は「沼田よ」と言いかけて、口を噤んだ。直ぐに美智子は「市役所職員の沼田さんですか」と、畳み込む。
すると猪山は美智子を、尚も睨みつけて「いいえ」となぜか驚く。これは、美智子が沼田の立場を知っていると判断したことから、警戒したときの驚きだと直感した。
この瞬間、猪山は少しの狼狽を見せたが、その眼は相変わらず座ったままだ。続けざまに「唐沢さんの情報を知ったのは、猪山さん、あなたが入居した直後と聞きましたが、間違いありませんか」と更に畳みかけた。
だが猪山は「なによ。あんた、それも山田から聞いたなんて言うのかぃ」と迫って来る。この動じない老婆に、美智子は「いえ、ただの噂として聞いていたものですから」と、取り繕った。
だが、これまでの様子から猪山は、団地に一次隊として入居してきた岡松一家の、関係者であると推定した。
猪山は、伊那方面に出店した時の苦労話へと進む「とにかくあそこは、皆で寄って集って、店を出せないように妨害するのよ。そこで、地主を買収したり、アパートの所有権を」と、そこまで言いかけて突然話を飛ばした。「そりゃあもう大変なもんさ。なんとか創業まで漕ぎつけたと思ったら、今度も風紀が乱れるとかなんとか、また言い出して因縁をつけてきたのさ」と言う。
美智子は「まさか町内会が因縁を」と質す。猪山はそのでっかい顔を近づけて「そうよ。町内会が因縁をつけるのよ」と尚も声を上げた。
美智子は唐沢から聞いている話とよく似ている事から、やっぱり飯田市街で起こった事に間違いないと確信した。
猪山は「ちょっとあんた。聞いてる」と、声を荒げる。「出店妨害を知って、うちの若い衆が町内会長に挨拶に行ったのさ」と続ける。「そしたらあんた。どうぞご自由に開業して下さい。だとさ」そう言うと猪山は美智子の眼を覗いて、ここぞとばかりけたたましく笑った。なるほど極道の妻だ。
美智子は「飯田へはいつ行ったのですか」と、突然切り返してみた。すると、嘘慣れしているのか平然と「行ったことなどありません」と返ってきた。
だが、いままで男のように、べらんめえ調で喋っていたのが、普通の言葉に変化した。何かの動揺を表しているのか、表面的には何ひとつ臆することなく続ける。「飯田に行ったなんて、一言も言ってないのに、なんで、いつ行ったなんて聞くのよ」と逆に返して来た。
胡麻化したが、猪山は「あんた、生まれは何処」と突然訊いてくる。山田との打ち合わせ通り「根っからの東京生まれ東京育ち」で通したが、猪山は「ふうん。嘘ではなさそうだが」と、美智子の目を覗き込んだまま、逸らそうとしない。
そのあと「何かがしっくり来ない」と、言う。美智子は「それなら、山田さんに聞いてみて下さい」と、開き直った。
すると意外な方向にいく「いえ。あんたじゃないの」と、わざとらしく言う。美智子は「では、誰なんです」ときく。「いとこよ。ホステスをやってた」と言う。
美智子は「そう言われても、私には誰のことなのか」と返す。猪山は、ばか笑いすると「そういうがいたのよ」と言う。美智子は思い切って、折山けい子の名を出してみた。途端に猪山のでっかい顔が、また一瞬の狼狽を示した。
口では否定するが、一旦、口から出た言葉は取り消せない。美智子は「いとこ同士だったのですね」とさらに踏み込んでみた。
ところが猪山は「そうだ」と、あっさり了解する。これには、美智子自身が驚いた。なんと、この猪山と折山けい子は本当にいとこ同士だったのだ。これで話が繋がった。
予定を変更して、その脚で山田のアパートへと戻った。さっそく山田に聞く。「ホステスだって。いや、俺は知らない」と言う。これはどういう事なのか。しかし、折山けい子の名を出すと「けい子だって。それ、もしかすると、藤原けい子のことじゃないのか」と聞き返す。
猪山から、聞いたままを伝えると「そうか。飯田に行った女とは、藤原けい子のことだ。間違いない。その女は、随分と長いこと刑務所に入っていたはずだ。それで出るときに、改名したという噂を聞いている。そうだったか、だがホステスじゃない。ストリッパーをしていたはずだ」と、断言した。
そして、鼻で笑うと「如何にもけい子らしいや」そう続けて「ところで、猪山が飯田に行ったことがない。と言うのは嘘だぞ」と明かす。「では、何故嘘を」と聞く。すると「それは分からんが、けい子と同じように、飯田で何かとんでもないことをしでかしたんだ。だから飯田に居たことがバレると、きっと何かを追求されるんだよ。例えば警察とかに」そう言って、強面の口元がまた少し緩んだ。
唐沢から聞いた、岡松一家の一次隊として団地に入居してきた元暴力団だと速記する。
ここからは百人力の答えに期待することにして、次の訪問先へと急いだ。そこはあの団地の近くに在るという、小さな下請け工場だった。
ちょうど昼休みで、四十歳位だろうか約束どおり男は工場の門で待っていた。美智子のタクシーが近づくと、男は駆け寄って挨拶をする。
差し出した名刺には課長の肩書があった。「宮下智行」と名乗って、早速山田さんの様子はと聞いてきた。
山田は宮下の釣りの師匠だという。美智子は、元気そうにしている事や、次に行きたいと言っていた釣り場の事などを伝えた。
宮下は、山田が再就職のくちを探していなかったかと聞く。美智子は、いい機会だから暫くはのんびりしたいと言っていたことを話した。
すると少し残念そうな表情を見せて、大きく開いた工場のシャッターの奥を指さす。そこには美智子の知らない大型の機械が狭しとばかり居座っていた。そのオペレーターとして、山田に来てほしいのだと言う。
その宮下が言うには、前任者にちょっとだけ仕事上の無理をお願いしたところ、翌月から来なくなってしまった。と、怒り混じりに話す。
現場事務所にある、応接に通された美智子は「ちょっとだけの無理とは」と聞くが「大した事じゃない。残業時間がもう少し増えるだけのことだ。うちの工場ではみんなやっていることだ。この俺だって、昨日も帰ったのは十一時過ぎだった」と言う。
美智子は「他の従業員の方は」と聞き返す。「課長の俺が十一時なんだから、平社員は十二時過ぎまで居なければ示しがつかない。そんな事は当たりめぇだろう」と、突然言い方が変わる。
美智子は「前任者の方も十二時過ぎまで残業をしていたのですか」と聞く。宮下は、さっき見せた大型の機械を設置してある方向を指して「あいつはよそ者なんだ。よそ者なんだよぉ。だから辞めるなんて言いやがるんだ」機械の騒音の中で、そう吐いた。
尚も「地元の方ではどうなのでしょうか」と聞く。宮下は即座に「地元は手が遅いんだ。要領ばかり良くて、ちぃっとも働かん。残業代ばっかり、かさんでよぉ」と、言ったところで、自分が言っている意味を覚ったようだ。「いや、それでもよそ者を使う気はない」と言う。
「これまでのお話の限りですが、手の早いよそ者のほうが会社にとっては利益なのではないでしょうか」と、言ってみた。
宮下は「バカなこと言うな。俺はただ真面目に働いて、文句を言わない奴が欲しいんだ」と訴えた。
美智子は「それは、前任者であるよそ者は、文句を言うと、そういう事でしょうか」それに対して、尚も「いや、特にそういう事はなかったし、時間外労働もきちんと勤務していたようだ。だが、俺がもう少し協力してくれとお願いした結果が、社を辞めると言い出した。お陰であの大型機は、もう一月も止まったまんまなんだ。この損害をどうしてくれる」やっと本音を言った。
そして「だから、よそ者は嫌いなんだ」そう吐き捨てた。美智子は「では、古川さんは」と、聞くと「師匠の友人だから知ってはいるが、プライベートでの付き合いはない」という。更に「僕は外人なんか大嫌いだ」と、声を荒げる。
宮下は、しかめっ面をもろに向けて「あんな奴もう二度と返ってくるな」と続けた。と、言うことは、山田が知らなかった、古川の失踪を知っていた事になる。そこで「居ないんですか」と質す。
宮下は「居ないようだ」と答えた。美智子は「なぜ居ないと分かるのですか」と返す。宮下は「あいつの車が無くなっているんだ」と言う。
そうだった、ここから古川の家までは近い。同じ生活圏の範囲だ。宮下は尚も「だから居ないと思った」そう、明言する。
尚も「帰ってくるなとは、何故ですか」と聞いてみた。宮下は「だから外人なんて大嫌いだと言った筈だ」と強調する。そして「だから日本には来るなと言ってるんだ」と声を上げた。
美智子は、古川が「居ないことをいつ知ったのか」と質す。宮下は「この職場には、団地から来る社員が居る。団地で起こった昨日の噂は、今日聞くことになる」と明かした。
美智子は「昨日の噂だったのですか」と確認した。すると「そう思う」と、なぜかはっきりしない。続けて「なぜ嫌いなんですか」と聞くが、やっぱり具体的な理由が言えない。
すると「山さんが、どうしてあんな奴と友達なのか、僕にはさっぱり分からない」と言う。美智子は「古川さんは外人ではありません。彼こそ生粋の日本人なのです。それは私が保証します」すると、宮下はむきになったのか、一瞬顔色が変わった。「僕が外人と言っているのは、嘘か真実かを言っているんじゃぁなくて、市役所の職員がそう言っているんだ」と、語気を強めた。
美智子は「だったら、その職員の姓名を言ってください」と強く返した。宮下は次いで「みんながそう言うから」と言ったあとも、言葉が続かない。
やつぱり思ったとおりだ。土地者の言う事だからと、全面的に鵜呑みにしているのだ。そのまま別の他人にまた吹聴する。こうして、吹聴の連鎖が鼠算式に始まるのを想像した。この地ではそんな奴らが最も多いと唐沢の言葉が蘇ってくる。
宮下は美智子の名刺を見ながら「椎名さんは古川の何を調査しているんですか」と聞く。それは事前に山田から伝えられている筈だ。
美智子は「古川さんへの虚偽が独り歩きしています。正しく話を進めないと、調査にならないばかりか、誌上が嘘の情報になり兼ねないのです。これでは雑誌としても、記事にはできません。ですから先ずは状況を知るための、正確な情報が欲しいのです」と、経緯を説明した。
そのあと「古川さんが本当に男を路上に叩き付けたのか、それはいつ頃のことで何が原因だったのか。次に古川さんが、外人と呼ばれるようになったのはいつ頃のことなのか、その元は市役所の職員だとも聞きましたが、その人物の姓名を知りたいのです。そしてもう一つは、古川さんが鎌を振り上げて人を追い掛けたと言うのはいつ頃のことなのか、その原因は何なのか、その様に具体的な事も知りたいのです」と、矢継ぎ早に質問してみた。
宮下は「古川が誰かを路上に叩き付けたとか、鎌で人を追い掛けたとかの話は、確かに聞いていますが、具体的なことは何一つ知りません。本当に外人かどうかも、僕は知りませんが、今更日本人だなんて言われても困る。これまで外人だと言われてきた奴だ。突然やって来て今更日本人だなんて言わないでくれ」と眼を覗き込んだ。
美智子も宮下の眼を観て「あなた方に、間違いを正すという、基本的な良識はおありなのですか」と少し高言した。
宮下は結局、仲間のみんなが外人だと言っているのに、俺だけが覆すわけにはいかない。だから、外人のままでいいじゃないかと、これも譲らなかった。
のぶよが言う「いいじゃないの外人で」を思い出しながら、速記帳には「宮下に限らず、ここでは、強い連帯意識が作用しているようだ。そして、土地者と言われる者たちに共通する、支配力をかいま観た」と記録した。
美智子は、もう一度市役所の職員の誰なのかを質問してみた。宮下は、暫く考え込んでいたが「確かじゃないんだ」と、前置きした。
そのあと「他人から又聞きした話で、僕がこの耳で聞いたことじゃないが、それでもいいですか」と念を押す。
すると団地の方向を指して「元々そこの団地に、居住していた市役所の職員なんだが、下の名前は分からないと断って「沼田だと覚えている」と、やっと証言した。
美智子は「同じ土地者の言う事なら全面的に鵜呑みにして、何の吟味もないまま一斉に吹聴の連鎖をする」この言葉に、憤りを覚えていた。本当に無責任なことではあるが、こればかりは何処の社会でも、何処の世界でもあり得る。だからというわけではないないが、やっぱり止めようがないのだろうかと思った。
そこで美智子は「古川さんのことを、一様に外人だと決めつけているようですが、いったい何処の国の何人なんですか」と、もう一歩踏み込んでみた。
宮下は「分からない」と、ここでも判を押したように反応した。これこそ可笑しな話だ。何処の国の者とも分からない。何人なのかも分からない。なのに、なぜ外人と決めつけられるのだろうか。これでは製造国が分からないから、外国製だと言っているようなものだ。
すると宮下は「何人なのかは、大した問題じゃない」と、声を上げる。そして、再び開き直って「問題なのは、この僕にとって必要かどうかだ」と、平然と答えた。
そして、ついさっきまでのやくざ言葉は、平常言葉に戻っていた。感情が高ぶると言葉も荒っぽくなるのは理解できるが、弁慶のメモには、生活用語としてやくざ言葉を使うとあった。
続けて「では、あなたは古川さんに対して、あんな奴二度と返って来るなと仰いましたが、あなたはそれを強制できる立場なのですか」と尋ねてみた。
宮下は「古川を知っている奴は、みんな僕と同じ考えでいる」と言う。そして「強制できるかどうかは自分でも分からないが、よそ者を見たら良からぬ奴と思え。そんな中で育てられているから、理屈じゃないんだ。どっちにしても、あいつはよそ者であることには違いないから、泥棒にどうぞ居て下さいなどと言うわけがない。あなた方よそ者は、ここを変なところと言っているが、それがこの地での常識であり、また全国的な常識でもある」と胸を張る。
そして「古川をここに置いてやるのも、追い出すのも俺たち土地っ子が決める事だ。よそ者にとやかく言われる筋合いではない」と更なる主張をした。
そのあと宮下は「どっちにしても、外人などと噂されるような奴だ。きっとろくな奴じゃない。それだけは確かだ。そんな奴をなぜ置いてやらなければならない。そんな理由なんて、俺にはないね」と、これも言い切った。
それを聞いて美智子は、問題の本質に、やっと辿り着いたと思った。そこで「強烈な排他主義を感じる」と速記した。
続けて「土地っ子は、よそ者に対して排他的だと聞いていますが、その理由を聞かせて下さい」と直球をなげた。
宮下は躊躇いの表情を浮かべたが「ここは僕らの土地だ。先祖から受け継いできた大切な土地に、よそ者の汚い足を踏せるわけにはいかない」と声を上げる。
美智子は「そこが理解できないのです。よそ者の足はなぜ汚いのでしょうか」と更に訊く。
すると宮下は、むっとしたように「土地っ子とよそ者を一緒にしないでくれ。僕ら土地っ子が人間で、よそ者は犬畜生なんだ」と言い放った。
敵国側を指して、鬼畜とか犬畜生と言っていた時代は確かにあった。だがここは同じ国の同じ民族同士であり、戦時中と言っていた時代からは既に久しいのだ。
美智子は「なぜ犬畜生なのでしょうか」と、更に突っ込んでみる。宮下の表情には怒りが過った。そして、自らを落ち着かせようとしているのか、突然静かな口調に戻って「僕の母がいつもそう言っていた。その母もまたその母も、先祖代々よそ者は犬畜生だと語り継がれてきたんだ。その言い伝えどおり、よそ者には聖なる心が無い。心が無いのは犬畜生だ」どうだと言わんばかりに、仁王立ちのまま深く呼吸をする。
その様子を、冷めた眼で観ていた。一見、真面目そうであり、また堅物にも見えるこの宮下の眼には、猪山のような攻撃的な光は無い。今は感情的な高ぶりこそあるが、それ以外は何処にでもいるようなごく普通の、真面目な人間にしか見えない。しかし山田が言うには、突然豹変するのだという。そんな時の宮下は、まるで煽り運転の男の様に、狂暴化するときがあるという。普段から部下にはもちろん、地域からも信頼されているこの宮下が、よそ者に対しては犬畜生だと叫ぶ。だから周辺に居る者も、当然のように影響を受ける。特に土地者の若い衆には、人生観が変わるほどの変化をもたらすそうだ。
美智子が観る限り、宮下は少なくとも正直に答えている。問題に対して、はぐらかす事なく思いの丈を語ったものと思われた。印象から受けた通り、純粋なのだろう。
それだけに一度思い込むと、リセットは難しいタイプだ。融通も利かず思考的な改めも出来ない。世間にはありふれた良識ある人物であり、だからこそ厄介な人物でもある。
何かを切っ掛けに狂暴化するという宮下智行には、やはり煽り屋の可能性ありと記録した。たまたま土地者の本音を聞けたことは、一つの収穫だったと理解した。
次の目的地はここから歩いて十分ほどの所にあるという。美智子はその家へと向かった。瀟洒な造りと白い壁の真新しい家は、田んぼの中で一際映えている。日当たりのいい庭の生垣に立った。
ちょうど玄関先で、自家用車の掃除をしている若い妻らしい女性が「椎名さんですか」と声を掛けてきた。
そこへ、ここの主人だという若い男が出てきた。見るからに二十代前半の若者で初々しさが残っている。美智子を玄関から居間へと案内した。
若い男は美智子の差し出した名刺を台の手前に置くと「宮森です」と改めて挨拶した。「僕は会社を首になったばかりです。今は無職ですので名刺は有りません」と説明する。そこへ若妻がお茶を運んできた。どこか不機嫌そうだ。
美智子は「余りにもお若い方なので驚きました」と感想を言うと、二人ともまだ二十三だと言う。妻が言うには、結婚してこの家を新築した。その半年後、途端に失業したと言う。
それもこれも、みんなよそ者たちのせいだと声を上げた。細面の神経質そうな妻の顔が「会社によそ者が押しかけて来るのよ。次から次へと入り込んで来て、私たちの仕事を奪っていくの」と言う。
美智子は「大変ですね。ところでそれは会社側が正式に採用した人たちなのですか」と聞く。若妻は「それが問題なのよ。採用する人事部の部長の女房がよそ者なの」これも言い掛かりのように聞こえた。
美智子はこれまでのインタビュー結果から、この地の労働者が、よそ者に仕事や地域を奪われていく実態を、感じ取ってはいた。
社会に出て間もない夫婦には、自分たちの生活が脅かされ、生まれ育った地域が奪われていくことを、肌で感じ取っているのだろうか。そんなふうに観える。
結局、若い夫婦にはそれが自然の肌感覚なのだろう。
美智子は「ところでお二人と山田さんとはどういう関係なのですか」と話題を変えた。
宮森は「それは父親と山田さんが友達同士で、僕は二人に連れられて子供の頃から釣りに行っていました。家内も一緒に」と言う。美智子は「ああ。では、もしかして幼馴染ですか」と聞く。二人は顔を見合わせて「まあ、そんなところです」と頷いた。
そして、妻が「よそ者がなんでわざわざ、この地に来るのよ」と、尚も声高だ。宮森は「あれは仕方ないよ」と言いつつも、最後は「あの会社の奥さんは「俺たち、地元の者を嫌っている」と漏らす。
美智子は、そんなことで一流といわれた会社が、人事を決定するのだろうかと思った。その後も、妻のこと細かい説明は続くが、やっぱり言い掛にしか聞こえない。
宮下のように、親から排他的な教育を受けつつ、成人するとよそ者に敵対しなければならない現実が、この若い夫婦にも待っているとでもいうのか。
よそ者への不満は、こうして助長され排他への源となるのか。美智子はその連鎖を、いま目の当たりにしているようだ。
それが鼠算式に排他へと拡散していく。やがて地域全体の排他主義へと発展するのだろうかと思ったが、そんな単純なものではないとは解っていた。そして唐沢も古川も、その仕組みに翻弄されてきたのか。
若い妻は「ここのローンは始まったばかりで」と途方に暮れる。美智子は宮森夫妻のように、よそ者の被害にあった人は多いのかと聞いてみた。
すると宮森は「そんなもんじゃない。土地っ子のみんなが被害を受けているんだ。僕は大学を卒業と同時に入社したが、同期で残っているのは二十名中、たったの三人だという。僕も入れて十七名は全部よそ者に入れ替わった。それも来年度からは、地元採用を見合わせるそうだ。また組み立て工場を余所の地に増築する予定で、採用もその地元から人選する」と言う。
宮森らの訴えはよく分かるが、よそ者に敵意を向けるより、企業の人事部に交渉するのが効果的ではないだろうかと思う。若い妻が突然「それもこれも、みんなよそ者のせいよ」と再び叫ぶ。
そこへご近所さんなのだろうか、表で年配の女性の声が呼ぶ。妻が急いで玄関に出る。
美智子は宮森との話より、玄関にいる若妻とご近所さんの会話が、いやでも耳に入って来た。顔は宮森に向けているが、速記するペンは玄関からの声に走った。
宮森はその様子をを見て「これが国会などで記録している、速記というものですか。それじゃぁ、椎名さんも国会にいたんですか」と聞かれた。
「いいえ。私は趣味のつもりで覚えたので、国会には一度も行っておりません」
ご近所さんの話は、隣に中年のよそ者夫婦が引っ越して来たところから始まっていた。その夫婦が嫌がらせをして困っているというのだ。そこで仕返しとして、干してある布団と洗濯物を持って来たという。
若妻は「それじゃ泥棒じゃない」と返す。ご近所さんは「何を言ってんの。私こそ泥棒されてるのよ」と張り上げた。
若妻は「嫌がらせじゃなかったの」と聞き返す。「とんでもない。これは嫌がらせされる前での話よ。家にあった筈の扇風機と車載用のテレビを盗まれたのよ」すると若妻は「テレビっていつも自慢していたあのテレビのこと」と確認する。「そうなの。通販で買って、まだ二か月も経っていない、あのテレビのことよ」と、訴えた。
若妻は「ええ。私もご主人から見せてもらったから、よく覚えているわ。でもあれは月曜日だったから、まだ三日前のことでしょ。おっかしいわね」と、考え込む。
するとご近所さんは「何でよ」と返した。若妻はご近所さんに向かって「お宅のご主人から、車載用のテレビを見せてもらったその日に、よそ者夫婦は、これから親戚のある上田に泊りがけで出かけるところだと言っていた。よそ者なんて、私も大嫌いだから肩を持つつもりなんてないけど、上田からよそ者夫婦が帰って来たのは、昨日の夕方だった。あなたがいう車載テレビは、いったい何時盗まれたの」と、訊いている。
するとご近所さんは、明らかに狼狽している様子で、声の震えが伝わってきた。計算が合わないことに、今にして気が付いたのだ。
そして開き直るのに時間は要さなかった。「いいじゃない。よそ者なんだから」そう言って、何かを差し出しているのだろうか。若妻は「ありがとうございます。これ欲しかったの」と何かを受け取ったようだ。
途端に若妻が反応する。「実は私、同じ月曜日の朝、お宅の前を歩いているよそ者の奥さんを見たわ」とご近所さんに忖度したのか、調子を合わせている。
するとご近所さんは「ありがとう」と返す、声色は別人のように明るくなった。こんなやり取りが、この地では日常的なのだろうか。土地者と言われる住人が、排他へのメカニズムが観えた。
そこで美智子に、一方的に捲くし立てていた宮森が気が付いた。「あれは、この辺りでは当たり前のやり取りなんです。嫁とは、孫ほども年の違いはありますが、あれで良いお友達同士なんです。と、無理な説明に聞こえた。
更に、コミュニケーションを深める為に、ああして贈り物のやり取りをしていますが」と補足する。
そこで美智子が「いま、よそ者の奥さんを見たと、聞こえました」と忖度の理由を聞こうとした。
するとすかさず宮森が「ああ。何かの打ち合わせでしょう」と言う。「打ち合わせとは」と返す。宮森は「近所によそ者が居るんですが、なんだかんだと騒ぎ立てる事が多くて、困っているんです。打ち合わせとは、騒がれたときの予防線のようなものものなんです」そう説明する。
また宮森の態度にはなんら臆するものが観られない。尚も平然としているその姿に、美智子は「打ち合わせとは、口裏合わせの事ではないのですか」と、返してみた。
若い宮森はむきになって「相手はよそ者なんです」と強調したあと「奴らに対抗するには正攻法では通用しないんです。法を越えてとまでは言いませんが、許される範囲内で敵を欺くは、当たり前じゃないですか。誰でもやってることですよ、そんな事。椎名さんだって知っているんじゃないですか。こんな田舎よりも、都会の方がずっと激しいと思います」と示唆した。
美智子は軽く頷いたあと「確かに、そういう人間は居ます。でも、宮森さんはたった今、よそ者の代名詞として敵と仰いました。これは言葉として、戦争状態にある相手を指して使う言葉です」そこまで言うと、宮森は「僕は国語学者じゃないから、そんな言われ方されても答えようがない。ただ、僕のお爺さんお婆さんも、そのお爺さんお婆さんもそのまたお爺さんお婆さんも、ずっと昔からよそ者を、敵と言っていたんだ。それに倣ってどこが悪い」と、宮下智之の論法そのままに反論した。
美智子は「いいえ。少しも悪くありません」と肯定したあと、話題を変えて玄関の方向を向いたまま「先ほどの話に関連して、例えば、言い掛かりは、許される範囲内なのでしょうか」と質問してみた。
宮森は「言い掛かりとか難癖をつけるとかではなく、よそ者に対する防衛線なんだ。よそ者がこの地で、我が物顔で振る舞う事がないようにするためだ。これが防衛線なんです。だから、言い掛かりは防衛するためのツールだと思ってほしい。そもそもよそ者なんて侵略者じゃないか」と主張した。だから許される範囲内である。と、正当化する。
そこで「ではツールとしては、言い掛かりも難癖も意識的に使っている。という事でしょうか」と更に確認した。
宮森はしぶしぶ頷くが、声に出しての返事をしない。短い沈黙のあと、改めて美智子は「よそ者に対しての敵対心のようなものまで感じられましたが、どうしてでしょう」と、突っ込んでみた。
宮森は「自分を含めて土地っ子のすべては、端からよそ者を敵対視などしていない。先に敵対視してくるのはよそ者からなんだ」と声を上げる。
美智子は「でも、たった今よそ者を侵略者と仰いました」沈黙を続ける宮森の顔色が変わっていた。
そこで話題を変える意味で軽く「この地で言っている、飛騨の女とは何の事でしょうか」と、聞く。
すると「売春婦だ」と宮森は怒鳴った。これは、かつてあった物語に登場した製糸業の女工を、売春婦に変化させた表現だと記録した。
そして、また山田のアパートへと向かった。その途中速記を読み返しながら、宮森の言葉を思い出すと、近所に居るというよそ者夫婦の夫は、宮森の若妻に、自ら車載テレビを見せている。
これは好として受け取るのが一般的だ。対して若妻は、贈り物を受け取ったあと、よそ者への態度を一変させた。これが土地者の、排他的な考え方へと通じるのか、やはり理論や正しいではなく感情で判断しているようだ。
再び弁慶の書き込みを見る。そこには「見知らぬ天体」の文字があった。わずか三人だけにインタビューした印象だが、土地者の考え方には、感情を重視している。すぐお隣の国ではそれが常識だと聞いていた。すると、お隣の国とこの地とは、我々の知らない共通性でもあるのか。そんな違和感が纏わりついて離れない。
などと思いながら、アパートの鉄階段を登った。山田は、美智子が帰ったことを知って「鍵は掛かってないから、そのまま入ってくれ」と奥から声がする。
山田は「そこの鉄階段は、想像以上に響くんだ。女物の靴音で、椎名さんだと分かった」そう言いながら、奥にある狭い部屋に通された。
掃除をしたばかりなのか、独身臭がしない。窓からは新鮮な風と午後の陽光が入り込んで来る。
山田は「どうでした。実態が掴めたと思いますが」と切り出した。その前に、宮下智之から預かった伝言を伝えると「断っているのに、これで三度目だ」と不機嫌に答えた。「後でもう一度、電話しておく。ありがとう」と伝言への例を言った。
美智子は「この地の人の考え方や、鼠算式に排他主義へと進んで行くメカニズムが、解明出来そうです」と報告した。すると山田は、進むのではなく、元々あった考え方だと指摘した。
そのあと、ストリッパーについて「あのけい子という女曰く、私には大勢の親戚と十人以上の従妹が居るなどと、よく自慢していた」それは、十人のいとこではなく、俺は十軒の親戚がいることを言っているのだろうと、推測していた。その当時の俺には、親戚が多いと自慢する奴の、理由が分かってなかった」と言う。
続けて「この地では、大勢の親類縁者に囲まれていた方が、何かと優位なんだ」と明かす。
美智子は「優位とは」と、聞き返した。「他所の人に突然こんなことを言っても理解できるか分からないが、この地ではまだ戦国時代なんだ。一つのファミリーは一つの部隊だから、より大人数の方が戦やすい。また取り巻きや構成員も集めやすいし、やがては一家を構えることが出来る。こんな単純な仕組みだが、大人になってやっと理解できるようになった。俺なんか親戚はほんの少数だから、それまで考えた事も無かったが、あの奴らを観ているとシチリアの血族集団そのもので、今更ながら成程と思う。けい子はそんな環境のなかで生まれたんだ。中学生ぐらいまでは、ごく普通の娘だったが、卒業が近づくと突然変わり始めた。級友たちが進学する中で、姿を消すように何処かへ行ったようだ。その後のことは知らないが、風の便りで結婚したとも聞いた。また、何処かの劇場でショーダンサーをしているとか、風俗だとかも噂があった。あいつはとにかく軽薄というか単純というか、余りにも物事を簡単に捉えてしまう。だから仮の話として、離婚後ストリッパーに転身したとしても、想定内だと思った。恐らくどこぞの誰かに上手いこと言い包められて、風俗とかストリッパーとかになったんだろうよ。バカと言ってしまえばそれまでだが、短絡的なあいつには、そういう生き方しか出来ないんだ」
美智子は「そのけい子が麻薬に手を出すということは、考えられますか」と、確認のつもりで聞いた。
山田は「勿論」と即答する。続けて「あいつなら前後の事など考えずに、札束に引っ叩かれれば何でもやると思うよ。さっきも言った通り、ストリッパーを繋ぎとめるための麻薬は常套手段だ。元々そうした環境があった」と言う。
そして「言ってみれば、可哀そうな女なんだ。親戚や兄弟衆にやくざ関係がいっぱい居て、いいように使われていた。その代償として麻薬があったんだと思う」そう言うと、古川の話題に変えた。
その話は、山田の職場へとやって来たところから始まった。「フルさんは何でもよく出来た。あの若さで工作機械の全てを扱える者などそうはいない。いきなりジグボーラーという、難しい機械を任された。俺はどうなることかと心配していたが、それを難なく使いこなした。俺の仕事はフルさんの前の工程で、荒仕上という加工を担当していた。だから綿密な打ち合わせの上で、作業に入らなければならない。ところが打ち合わせしたことが無い。詰まり、どんな風に荒仕上しても、フルさんは全てを読み取って、仕上げていく。そんなことは二十年三十年と経験を積んできた、ベテランでなければ出来っこない技だ。フルさんはそれを二十代でやっていた。噂では外人のフルさんが、突然何処からともなくやって来て、あの団地に住み着いた。と、市役所の職員が言っているそうだが、フルさんの仕事ぶりを観れば誰でも嘘だと分かる」と訴えた。
そこで、市役所職委員が言っているという具体性を確かめる事にした。「それは誰です」と、名前を訊く。
山田は「いや、役所から直接聞いたわけではない。だが、言ってきた奴の口から、沼田と言う奴だとは知っている。この名前だけは、今もはっきりと覚えている」そう強調する。ここでも目指す名前を確認できた。
続けて「昨日や今日やって来た外人が、あんな難しい機械をいきなり使いこなせる筈がない」と語気を強める。
更に「それも技能オリンピックなどを目指して、厳しい修行を重ねなければ、簡単に扱えるような代物じゃないんだ。だから役所の者が何を言おうが、俺は直感的に嘘だと思った。だがな、椎名さん」と、言って間を取った。美智子は「はい」と次を促す。
「俺は本当にがっかりさせられた。今の話はフルさんがまだ二十代の頃の話だ。あれからすでに十数年は経っている筈なんだ。その間に、嘘はすっかり終息したとばかりに思っていた。ところが、二~三年前ぐらいだろうか、いや、他人によってはずっと続いていたという話もある。これは間違いなんかじゃなく、誰かが意図的に流しているデマだと確信するようになった。いろんな状況から考えると嘘の出どこは、やっぱり市役所職員以外には考えられない。住民たちが余りにも簡単に、デマを信用し過ぎる。そのためには、役所という信頼の象徴がなければ、説明出来ないからだ」
そして「嘘の終息か否かに関わらず、フルさんは日本人だと、この俺が事細かに説明してきたつもりだ。もう一度言う。デマの発信元は職員の沼田に間違いない」そう強調した。
続けて「市役所が嘘を言うということは、警察はその嘘を元に捜査する。椎名さんは記者だから知っていると思うが、冤罪は役所の嘘から始まる」美智子は驚いていた。
確かにその通りだ。だが、もっと驚いたのは、定年を迎えた初老の一般人である山田が、この様な重要な問題を何故知っているのか。と、この疑問だった。
美智子は「役所職員には、守秘義務があるのをご存知でしょうか」と、確かめてみた。「当然だよ」と山田は言う。「俺が言いたいのは、守秘義務が法律として機能しているのか。という事だ」この時、山田の目が少し充血していのか、赤く観えた。すると目の下を一瞬の痙攣が走る。これは寝不足などで起こる様なものとは違う。と思った。
山田は感情の高ぶりを抑えようとしているのか、大きく深呼吸すると「例えば、公務員が何かの秘密をリークしたとする。被害者はこれを法廷に持ち込んだ。ところが、誰が、何時、何処で、何を、どのようにリークしたのか、これを被害者である個人が証明しなければならないんだ」そう言って、美智子を見詰める。
「記者だったら、それ位は知っているのが常識じゃないのか。一個人が証明するなんて、どれほど大変な事か、事実上は出来っこないんだ。従って守秘義務なんてものは、公務員は秘密を守っています。と、いう言葉を使いたがための、パフォーマンスなんだ。それを一番わかっているのが、公務員自身のはずだ。奴らの言い分とは(相手側は、どうせ証明出来ないんだから)と、口癖のように叫ぶ。だから奴ら、嘘だろうがリークだろうが何でもやるんだ。勿論、この地にいる一部の不良公務員のことだ」そう言うと次のコーヒーを乱暴に開けてすすった。
更に「そんな奴が、あいつは外人だと嘘を言う。途端に狭い団地は嘘の渦で大騒ぎとなる。不良公務員にとってはこれ以上ない結果だ。奴らは物陰から、燃え盛る炎を観て、ほくそ笑んでは、自分は公務員という高い壁に守られているのだと、そしてここに居る限り危険に晒されることなど絶対にないと笑う」その顔は怒りに変わっていた。
山田が落ち着くのを待って「古川さんへの嘘には、沼田が言ったという明らかな証拠があるのでしょうか」と聞く。
「そんなもん、あるわけがない。俺も何とか尻尾を掴みたいと頑張ったが、いまのところ、どうしても掴めていない。だが、沼田と、ストリッパーの周りにいる郎党たちは、月に複数回のペースで飲み会などを繰り返している。勿論いまも続いているそうだ」
よっぽど好きなのか山田は、次のコーヒーを開けると「フルさんへの誹謗中傷のほか、外人だという発信元は、この郎党たちから始まっているんだ」そう言って、啜った。
美智子は「では状況証拠はあると」山田は「真っ黒だ。他の状況証拠でも真っ黒だよ。郎党たちは間違いなく、沼田がフルさんを外人だと言い触らしたと、断言までしているんだ。しかも、ストリッパーが団地に入居するずっと前からだ。恐らくは、フルさんが団地にやって来た直後だろうか、そんな気がしてならない」と推測した。
「直後ですか」
「多分な」と山田。これは唐沢の供述と一致していた。
続けて「ということは、転入するための書類を見た沼田が、フルさんの出身地が飯田であることを知って、外人だと言い触らした。いや、そのように仕組んだ。その手先となったのが、岡松一家の郎党たちだ。転入してきた元暴力団の一次隊だよ。奴らはフルさんがやって来る前から、あの団地に居住していたんだ」美智子は、これも唐沢の供述にあった事と一致すると記録した。
そして「古川さんの出身地が飯田であることが、なぜ外人だというデマに繋がるのでしょうか」と質す。
「岡松の郎党たちと藤原けい子は、飯田で良からぬことをしてきているはずだ。だから飯田と関係ある者は、追い出す必要があるんだ。嘘の吹聴も嫌がらせも、全ては追い出しへの裏工作だ」
美智子は「それで、市役所職員の沼田が裏工作を企んだ」山田は「そうだ」と答える。
「では、沼田とけい子の関係は分かりますか」
「直接的な関係は分からない。だが、飲み会の会場となっている、団地内の家には、同じ元暴力団の男たちが集まってくる。この男たちが即ち岡松の一次隊だ。そのメンバーとけい子との間には密接な関係が、いまもある筈だ」
続けて「そもそもけい子は、岡松が引き連れてきた女だ。構成員としてのカウントは無いが、事実上は構成員も同じなんだ。だから、岡松の一次隊が沼田と結託して、裏工作を始めた。その一次隊の中に、レジ係の猪山も居た。そう、推測している」
「あの団地では、飯田に関係する人を追い出すのが沼田の役割だと思う。市役所職員という立場を利用した、言わば用心棒なんだ」
美智子は「という事は、折山けい子の罪歴を沼田が知っていた可能性がある」と確認する。
「勿論だ。知っているからこそ、フルさんを外人だと嘯いて孤立させ、追い出しを企てた。もっと言えば、岡松一家と郎党たちの悪行も、入居してきた理由までも知っていたはずだ」
美智子は「この地の人達の風土風習までもよくご存知のようですが、どうしてそこまで詳しいのですか」と、改めて聞いてみた。「あそこは、俺の故郷なんだ」と山田。
そして「俺は幼かった頃、この地の親戚で育てられた。だからこの地にいる人たちは、俺の幼馴染でもあるんだ」なんと、藤村利夫と同じような経緯があった。
「それで、何でもよくご存知なのですね」
「そうだ。団地やこの地の事ならよく知っているつもりだ。古くからの仕来りから若い人たちの考え方まで、何でも聞いてくれ」
藤村とは違って山田は協力的だ。だが美智子は「そんな故郷を、暴くような結果になってもいいのでしょうか」と、質した。
すると山田は「以前なら、やっぱり抵抗は有ったと思う。でもな」そう言って、見上げるような素振りをしたあと「この地やその周りの人達も現在は変わってしまった。もう俺が知っている人たちではないんだ。幼馴染もあの頃の人たちじゃない。昔はあんなふうじゃなかった」そう言って、天井を見詰めた。
「それは、この地の人々である土地っ子が変わっていったという事でしょうか」
「子供が成長と共に、大人へと変わっていくのは当たり前だが、何故か土地者へと変わってしまったんだ。成長過程で、親や環境が変えた。と、までは想定内だが、それ以上の理由がある筈だ」
美智子は「それ以上の理由とは」と質問したが、明確な答えは得られなかった。だが頭にはサイコパスの文字が走っていた。
そして「奴らは事あるごとに、よそ者よそ者と言うがよそ者がいったい何をした。よそ者は知らぬ土地に来て一生懸命馴染もうと、頑張っているだけだ。だいたい考えてもみろ、知らない土地に迷い込んだ人たちのことを。土地者が言うように、よそ者に悪い事が出来るだろうか。俺は何度でも繰り返してやる。知らない土地で、よそ者に悪事など出来る訳がないんだ。そんな事をしたら、結果は明白だからだ」と主張した。
美智子は「なのによそ者は悪事をするという」そう言うと、尚も「そう。これも口がすっぱくなるほど言ってやった。ところが、そんなの聞くわけがない」美智子は「聞くわけがない」と繰り返す。
山田は「よそ者を悪者にしておくことで、何かと都合がいいんだ。だから大昔から、よそ者は悪事をする。これが土地者の考え方なんだ。そうだよ、遺伝子レベルでの考え方だ」と続ける。
「そこでフルさんへの理由は二つある。一つはいま言ったよそ者だという事。そして最大の理由は、フルさんが麻薬の件で警察に通報した、飯田出身者だということだ」そう言って、拳を震わせた。
山田のその目は、また充血していた。「市役所に沼田のような奴が居るように、警察にもそんな奴が居るんだ。しかも単独ではない。必ず補佐役が二人や三人はいて、チームを組みながら嘘で署内を洗脳して行く」
これは美智子のデータにもあった事だ。尚も「俺は、ずっと前から想定してきた。恐らくフルさんを取巻く環境は、通報と同時に大きく変化したと思われる」そう示唆する。
美智子は「変化と言いますと」山田は「例えばフルさんは、自家用車に劇薬を掛けられたことも通報している。対応したササキという警官は、フルさんの訴えに対し具体的な事情を聞こうともしなかった。これは相当強力な劇薬だと、判断できた筈なのに、何故だ。この答えは、ササキにとって捜査するつもりはなかった。いや、捜査へと進まないように、妨害する事が目的だったとも言える。だから、他の警察官に直接連絡されない為に、わざわざ(団地専用)という隠語を使ったんだ」と暴露した。
山田は、掛けられた劇薬に話を戻す。「その状況から言って、顔などに掛けられようものなら、只の障害では済まされない。のどが爛れ鼻が塞がれ、失明の危機に晒される。これは殺人と言っていいのではないのか。詰まりササキは、人殺しに追われながらも、助けを求めて署に逃げ込んで来た被害者を、門前払いにしたんだ。そして、警察署の内側から高みの見物としゃれ込んだ」
尚も「何かの映画を観るように、ササキは、猛獣に追われる被害者をニタニタと笑いながら見物していた。これは、ササキも殺人犯と同じではないのか」怒りは収まらない。
一息つくと、麻薬の件に関して「フルさんが言うには、脂粉のような臭いは、以前にもどこかで嗅いでいた記憶があると、言っていた。やがて折山と田原の家が、フルさんの近くに移転してきた。するとこの臭いは、継続的に漂ってくることに気が付いたんだ。以前にも嗅いでいた臭いとは、まさにこの臭いだ。それは、けい子だと断定した。だが、この時点では、まだ誰にも言わなかった」
「それでも、折山の悪戯は犯罪へとエスカレートしてきた。そこで何も知らないフルさんは、さりげなく問題に近付こうと努めた。近所のよしみとして、車のバッテリーを充電してやったり、庭先の蜂の巣を取ってやったり、またある時はテレビアンテナの向きやセンサーライトの修正までしてやった。他にも好意的な姿勢をいくつも示してきたんだ」
「とにかく折山には敵意の無い事を見せることで、問題を解決しようとした。ところが、その好意は逆効果となった。フルさんは気が付いていないようだが、折山の嫌がらせに拍車を掛けた。理由は、フルさんが折山の配下に下ろうとしている。と、短絡的なストリッパーは、そう思い込んだと思われる」
「そんなバカな事はあろう筈もないのに、もっと虐めてやろうと、思うようになった。他人の好意を逆手に取る。これが折山けい子の正体だ。こんなバカだから、のぶよのように悪用しようとする者が現れるんだ」
尚も「そしてフルさんはある日、気が付いた。それは折山が化粧する姿を、偶然にも窓越から観てしまったときだ。その化粧というのが、夜の商売女がするような、厚化粧のどぎついものだったからだ。目が合ったこの瞬間、前にも会っているような気がすると、フルさんは直感した。それは、飯田の繁華街に在った、キャバレー地下鉄でのことだ。だが、フルさんの記憶には既に久しい。そんな遠い記憶の人物と、果たして同一人物なのかと迷ったという。振り返ると、キャバレー地下鉄は、当時から怪しい店という悪評だった。思えば暴力団がらみの噂が、街じゅうに蔓延していた。まさか折山は、あのステージで踊っていたストリッパーではないだろうかと、あの厚化粧を観ると嫌でも一致する」
「すると、それに関連してキャバレー地下鉄は、信州岡松一家の飯田方面への拠点であり、解散理由の一つとして、麻薬の噂があった事を思い出したんだ。この記憶が正しければ、折山けい子の周辺から漂う脂粉のような臭いは、やっぱり麻薬ではないのかと、確信へと変わっていった。同時に、ストリッパーがいちいち干渉して来るという追い出し理由にも納得した」
そこで麻薬についての詳細へと及んだ。「フルさんが言うように、脂粉の様な臭いは、ずっと以前からしていたそうだ。その臭いについてネットを検索したが明確な答えは出なかったと聞いた。そして、飯田でのキャバレー地下鉄で起きた、警察の手入れだ」
「噂と言われているが、その理由の一つに麻薬が挙げられていた。それと団地にあるストリッパーの家に、高級外車がやって来た。田舎の団地などで見かけるような車ではない。それを迎えるかのように、ストリッパーは、男から何かを小さく包んだお捻りのような物を受け取った」
以上は、唐沢の供述そのままではないか。即ち、唐沢の麻薬取引の目撃は、同時に古川の目撃だった。
山田は続ける。「それらを考え合わせると、ストリッパーは未だに麻薬を使っている可能性がある。そこで、フルさんが警察署に通報した。ところが、疑われたのはフルさんだという。何と愚かなことかと笑ったが、もう少し考えを膨らませることにした。それは通報を処理した警察官が、麻薬に関わる情報の隠蔽を謀ったためだという結論に至った。一旦受けた麻薬の情報を、後で取り消すことなど出来ない。そこで、通報者に罪を着せようとした。つまり、フルさんを犯人に仕立てようとしたんだ。そのため麻薬捜査官には、嘘を伝えたのではなかろうか」と示唆する。
美智子は「つまり、冤罪にでっち上げようとした」そう確認する。
「その通りだ」
「だから、捜査官は、ストリッパーではなく、麻薬とは全く縁のない通報者の、フルさんを嗅ぎまわっていた」
「麻薬ではなかったという可能性は無いのでしょうか」
すると山田は「あると思うよ。だがな、俺の言いたいのは、犯罪に関わってきたストリッパーよりも、社会的義務で通報した過去の無いフルさんが、何故犯人扱いされなければならない。通報を受けた警察官が、職務に正しい対応をしていれば、麻薬と関係があった者の身辺から捜査していた筈なんだ」そう主張した。
「これは誤認とか誤捜査とか言うレベルの問題ではない。冤罪に通じる擦り付けは、明らかに警察官犯罪だ。また、ストリッパーを庇うことで、ササキには何らかの利益が有った筈だ」
「それをどうして知っているのですか」
山田は、一寸だけ困ったような眼をしたが「俺は、団地やあの周辺の事なら何でも知っていると言ったはずだ。この地は俺の第二の古郷だ。その俺が、そんな事ぐらい知らないでどうする。もっと言えばこの俺もついこの間まで、あの連中と同類の人間だったんだ。だから何時、何処で、誰が、何を、どう言ったかまで正確に解るんだ」開き直ったかのように説明した。
尚も山田は「岡松一家は解散に追い込まれ、この地の団地に転入してきた。いや、逃げ帰ってきたんだ。そうとは知らずフルさんも、あの団地へと転入して来る。当時の団地内は、やって来た元信州岡松一家とその関係者で一杯だった。そして自ら確認するように「フルさんは、ストリッパーと世間話しまでしている。この時フルさんの出身地が、飯田市であることを明確に認識したストリッパーは、取り巻きたちを利用して、団地から追い出そうとした。詰まり、この地ぐるみでの陰謀だ。沼田の裏工作など無くても、フルさんはその陰謀にハメられてしまった。気が付いた時には、既に何十年も過ぎた後で、すべてが手遅れだった。駆け込めるはずの警察からも、陰謀を仕掛けられていると、今更ながらに思い知らされたのだろう。これでは家族さえも危険に晒される。そこで、避難させるための時間稼ぎとして、団地に居続けた。結果から言って、避難は成功したと思われる。それを見届けあと、囮となって失踪したんだ」と、推定した。
美智子は「麻薬取引の現場を、川沢と古川の二人が同時に目撃していた」と速記した。
十二、序列
続けて「椎名さんは、この地をまだまだ分かっていないと思う。そこで聞くが、この国の人々はこの社会は皆平等と思っている。だがこの地の土地者は違うんだ。人は生まれた家で、序列が決定されている。例え警察署長に出世しようとも、序列として上位の家からの意向があれば、聞かざるを得ない」と言う。
これは、藤村からも聞いていた、序列や人質の話と似ているが、聞くことにした。「それは、どういう事なのでしょうか」山田は「例えば、あくまでも例えばの話だ」と前置きする。「例え警察署長でも、その身内がこの地に居住していれば、序列上位の意向には、従わざるを得ないのだ」と言う。
美智子は「つまり、圧力に屈する」そう確認した。
山田は「そうだ。警察署長だろうが何だろうが、結局は序列に従わなければ、その身内は村八分なんだ。この地という所には、江戸時代の村八分の制度が現代も生きているんだ」と言う。
この言葉は、唐沢や藤村からも聞いていた事だが「まさか、そんな」と思わず発していた。山田は「だから序列上位の家には、絶対服従しかない」と、藤村と同じように説明した。
美智子は「その序列とは、そんなにも厳格なものなのですか」と改めて聞いてみた。すると「厳格と言っても、傍から観れば仲の良いご近所どうしだ。それに物理的な序列系図などは存在しない。ただ、ひとつ事が起これば、一つに向かって動きだす。つまり一丸となって事に当たるんだ。そうなったら誰にも止められない。最後は身を隠すしかないんだ」美智子は「では、古川さんは最悪の状況に追い込まれたという事ですか」山田は「まあ、そうだがフルさんは、ストリッパーとその関係者たちが、仕組んだ罠に嵌められたんだ」と藤村のように強調した。
美智子は「沼田もササキも、序列に関係しているのでしょうか」と話をつづける。山田は「分からないが、その可能性は否定できない」と、言う。
「それは、山田さんが知らないところで」
そこまで言うと、山田から「直接この地の土地者でなくても、序列には間接的に関わっている人間の方がはるかに多い。それはこの地の人口の何倍にも及ぶと考えられる。沼田もササキも、その中にカウント出来る可能性があると思う」と、尚も強調した。
その帰り道、あのキラノインの在る路地へと入り込んでみた。そこの角を曲がると、この路地の反対側である正面に出るはずだ。いぜん黒い板塀は 侵入者を阻んでいるかのようだ。あの時には気が付かなかったが、この角を曲がった途端に西日の直射を受けた。まだ五月だというのに、突き刺さるような陽光を手で遮る。なるほど山田が西日を気にしていた訳が分かった。ここは標高七百メートルを優に超えているはず。その分紫外線も強烈だった。
振り返れば、この通路はまだ街外れではないことが分かった。隣の路地は、まだ繁華街のつづきだ。その先の両側には、古い木質住宅がぎっしりと並ぶ。美智子は、黒い板塀に沿って進んだ。暫くの間は同じような風景が続く。
そこをやっと通り抜けると、大通りへと向かうようだ。「おや」と思った。やっぱりあの時の湖畔端への通りだった。この続いている黒い板塀の何処かに、正門がある筈だと思って探す。それが見当たらない。
頭の中に地図を描きながら、取り敢えずあの裏門である通用門までは行ってみようと、もう一つの角を曲がった。老人が現れたのは確かこの辺りである。それを追って品の良い女給姿の女も、この辺りから現れた。もう間違いない。そう思って目をやると路地の向こう側に、これこそ古い造りの、如何にも料亭のような、古風を思わせる建物が家並みから垣間見えた。そこに通じるのか、もう一つ別の路地が交差していた。路地と言うより、ひと一人分の狭い通路だ。だがよく観ると、空間だけはもう一人分ありそうだ。その空間の下には側溝が通って、塞がれていない間からは、硫黄の匂いが鼻を衝く。汚れた水が流れ、側壁には古くなった湯の花なのか湯垢なのか、所々崩れかかった壁面にびっしりと付いている。
通路の両側にはキラノインと同じような黒い板塀が張り巡らされ、侵入者を高く阻んでいた。その為なのかこんなところからも、同じ不気味さが伝わってくる。ケープを羽織った老人も女給も、この路地から現れたと想定してみた。
昨日の裏門の在る角を曲がると、長い路地へと繋がっているようだ。ところが進むにつれ、正門らしきものがやっぱり見当たらない。とうとう裏門の見える角まで、一周して来たことになる。
そこも、キラノインの一角なのか、最初に入り込んだ路地に、まだ見ていない所があったと、今更ながらに振り返ってみる。が、少し躊躇ったあと、急いで引き返すことにした。
たったいま通過したばかりの、料亭に続く通路を過ぎ、次の角を曲がってみる。すると、遠くには侵入した時の路地が在ると分かった。そこまで行けば完全に一周した事になる。
それにしても何と広い敷地だろうか。こんな狭い町並みなのに、ここの広さときたら、いえ広大さと言ったほうが正解かもしれない。
その一辺をまた板塀に沿って、やっとの思いで侵入時の入口に再び辿り着いてしまった。
そこで振り返ると、板塀に沿うようにしてまた目を走らせる。確かに不自然な個所があることを発見した。通過した際にはただの袋小路かと思っていたが、周囲の建物や民家の配置から、クランク状になった路地ではないだろうかと推測してみた。普通車であれば何とか通過出来そうと思えるだけの道路幅はあるようだ。ただ、そのクランクに侵入するには、いま美智子が引き返して来た路地側からでないと、入り込めそうにない。
思い切ってそのクランクへと進む。板塀は尚も続いていた。やがて対面側も、ブロック塀やコンクリートの堅牢そうな壁に変わってきた。そこからは、街並みを縫うように入り組んでいる。不気味さは、やはりこの辺りの区画全体からのものだと再認識した。
ここはクランクの一つ目の角にあたる。そこを曲がると更に狭くなり、まるで城壁を思わせるような石垣へと変わっていた。
その上には鉄柵のようなものが高く連なっているのだ。見上げれば、石垣とコンクリートの壁が両側から、狭いクランクを挟んで見下ろしていた。この、青い空のなんと狭いことか。まさに乗用車一台分の幅しかなく、開き戸式の車では、人が降りられそうにもない。例えスライド式でも、人が降り立つだけの空間が確保できるのだろうかと思った。
更に、二つ目の角を曲がる。そこに在ったのは、裏門にあった石柱の何倍もあるような、立派な石柱が左右に聳えていた。これぞまさに正門だ。クランクはそこで終わる。
これ以上は、行く手を阻むように石壁がまた一段と高く聳えていた。車はここで一旦方向転換し、バックで門を潜らなければならない。尚も、侵入してくる車は三台まで、最初の一台が門を潜らない限りは、後続車からは人さえ降りられない。
しかもクランク内でのバックは利かず、前進するしかない。車がクランク内に居る限り、外部からは進入もできない造りなのだ。
ペーパードライバーの美智子にでさえ、以上の事が判別できた。それにしても、人っ子一人いる筈が無いのに、何故か視線を感じる。これはいったい、何者から屋敷を守っているのか。木質密集のなかに突然現れた出城なのか要塞なのか。美智子は急に怖くなって、元来た路地へと引き返すことにした。
ホテルに帰るとフロントが待っていた。美智子はそれを観て驚く。それとは数枚の写真だ。明らかに美智子と思われる人物がはっきりと映っていて、道に迷っているような仕種や、あっちこっちと物色しているような仕種が鮮明に読み取れる。
感じていた視線の謎はこの写真だった。あのクランクを離れてほんの十分後の事だ。そこへあの失礼な老婆がやって来た。「ちょっとあんた、また行ったんだって」と、美智子を、獲物を狙う爬虫類のような眼で睨みつけた。穴が開くとはこの迫力だろうか。
そして、写真を引っ手繰ると「関わるなと言ったはずだよ。知らないからね」そう言って一枚一枚めくりながら、見終えると「ふん」と吐き出して去った。
フロントが申し訳なさそうに一礼する。美智子が部屋に入ると、追いかけて来たかのように、閉め終わる後ろ手にノックがあった。「お客様」の声と同時にフロントが、美智子のパソコンを脇に抱え、コーヒーを二つ、そしてショートケーキの皿を乗せた盆を持って立っていた。
フロントは丁寧な謝罪をしたあと、キラノインについてもう少し説明させてほしいと申し出た。
フロントは部屋にある小さなテーブルを、中央に引き出して盆を乗せる。美智子は恐縮しているフロントに一つしかない椅子を勧めて、自分はベッドに腰かけた。フロントの胸に掛かっている名札には、塩沢孝之の文字が書かれていた。
こうして向き合って観ると、如何にもホテルマンを思わせる、誠実そうな人物だ。美智子よりもいくつか若いのだろうか。塩沢は「どうしても、他人には聞かれたくありませんので、この様な形になってしまいました」と断りつつ「その前に、椎名さんは若しかして、伊那方面の方でしょうか」と聞いてきた。
受付時には、職場である東京の住所を書いていた。美智子は塩沢の質問に、その通りだが今ではすっかり東京人になってしまったと、唐沢の時と同じ説明をした。
塩沢はちょっと安心したような表情を見せたあと「キラノイン様は、当ホテルの大株主様なんです」と語り始めた。そして、この辺り一帯の土地もほとんどは、キラノインの所有で、そこに在る企業や個人も全て借地料として年貢を納めている、と言うのだ。
あの嫌な老婆はキラノインの親戚で、このホテルの管理人を兼ねていると言う。管理人と言うより監督と言った方が正解だとも説明した。
美智子は「それで威張っているんですね」塩沢は「申し訳ありません」とまたも恐縮する。
美智子は緊張をほぐす意味で「私は飯田の生まれです」と答えると、塩沢は「どおりで、嫁と同じ訛りがある訳だ」とほほ笑んだ。
そして「実は僕も同じ方面の出身です」と、手短に自己紹介した。いくら東京に馴染んでも、生まれた土地の訛りはなかなか変えられないものだ。
美智子は山田から聞いた、キラノインに纏わる噂が頭にいた。それに対して塩沢は、やっぱり答えることは出来ないと言う。ただし一つだけ、キラノインのご先祖様は、元々地元の者ではなく、僕らと同じよそ者だったと聞いた。その子供が神社の宮司に育てられて蓄財し、家を継だ。と、言うものだった。
塩沢は「これが僕の知っているキラノイン様のルーツです」と説明したが、なにかまだ割り切れていない様子が気になった。
美智子は話題を変えて「お子さんは幾つになりました」と聞く。すると「長女が九で二女が七」だと言う。
美智子は「まあ、これからの成長が楽しみですね」だが、何故か塩沢は「うちの場合は」と、次の言葉を切った。それに反応した美智子の表情を観て「長女に何事も無ければ、きっと養育費やら何やらと大変でもあり、楽しみでもあったと思います」と言う。驚いた美智子は「何かあったのですか」とつい聞いてしまった。
すると塩沢は堰を切ったように語り始める。「飯田にあるタウンホテルがここの本社なんです。そこで僕はアルバイトとして働いていました。ある日のことキラノイン様が長期滞在されることになって、その係を任じられたのです。そこで気に入られ、正社員としてフロントを受け持ってほしいと誘われて、ここのホテルに来たのです。僕も妻も飯田から出た事ことがありません。ですから物珍しさもあり、それ以上に正社員という肩書は、何よりも魅力でした。ですから二つ返事で承知しました。実際ここに来てからはフロントとして、充実した日々を送ることができました。そして、なりよりもキラノイン様が、とても良くして下さいました」
「そんなある日の事、突然学校からの電話です。妻が取りました。その時の僕はちょうど非番でまだ寝ていたところです。でも、妻の様子と何時もと違う声に驚いて、飛び起きました」
そして「話とはこうです。去年の今頃のことです。その年九歳になった長女はいつもと同じように登校していました。その二時間目のあとの休み時間に、屋上から飛び降りたというのです。気が動転して、動けないでいる妻を抱きかかえるようにして、校長が案内する担任の車で、僕と妻は急ぎました。病院では強打した部分の髪の毛を剃り上げられ、娘の変わり果てた姿がありました。その頭には手術痕の生々しい傷が、これでもかというほど大きく、ぱっくりと見せ付けていました。そして脇腹には切除したあとの傷口から、肋骨が飛び出して白く浮き出て、こんなにも小さな身体なのに、何故、ここまでも切り捌くのかと、何故こんなにも大胆に捌くのかと、気が付くと僕は若い執刀医の胸倉を掴んでいました。校長と担任が両脇から僕を押さえつけ、静かにしなさいと言うその言葉に、怒りのあまり震えていました」そう言うと、もう涙が止まらない。
尚も塩沢は「虐めです。何もかも虐めが原因で娘は飛び降りたのです。娘が転校した初めての時、校舎の屋上に上がった事がありました。その屋上に立ってみると足が竦むような高さに、あの怖さを実感したものです。屋上から飛び降りるなんてことは、僕も妻も想像さえ出来ませんでした。その時ふと思いました。そこから下を覗き込むことさえ出来ないのに、僕ら一家は同じ遺伝子を持っている限り、決して早まった事など出来っこないと、あの時は笑っていました。それが、まさかこんな日が本当にやって来るとは、夢にも思わないで」そう言って、あの方向を指した。
その方向こそ、塩沢の自宅が在ったのだと言う。そして「父兄や関係者たちも、その時は本当に娘を思っていてくれたようです。ところが三日もすると、何んとなく白い眼を向けて来るようになりました。やがては迷惑だとか、なにも学校の屋上から飛び降りなくても、とそんな声まで聞こえて来るようになったのです。あとで分かった事ですが、虐めを後押ししていた子供たちの父兄であることが分かりました。その父兄たちは、私たち一家がよそ者と知って、あることないことを言い触らしては、印象操作をしていたと聞きました。その父兄たちは、近所の子供たちに虐めの扇動をしていたそうです。それを知って怒りを抑えることが出来ませんでした。それに追い打ちを掛けるかのように、父兄たちが伊那の何とかなどと、また悪口を言いながらあざ笑っては、家の前を通り過ぎて行くのです。僕はこの地を恨みました。ここはいったい何処なのかと。それから四十九日も過ぎた頃、教育委員会から一通の手紙が届きました。虐めは確認されなかったという内容です。それを見た妻はもう狂乱状態で、このまま二人して湖に飛び込もうかとも思いました。そこへキラノイン様が駆け付けてくれて、朝まで三人で静かに語り合いました。何も知らない二女は、早く姉を迎えに行こうよと、この言葉が耳について離れません」塩沢はここの人達に対して、僕が何をしたのか、妻が何をしたのか、うちの子がいったい何をしたのか訊きたいと訴えた。そこには唐沢の女房が言っていた、お父さん引っ越そうよ、という言葉が重なった。
やがて話が、キラノインの屋敷に変わったとき、塩沢は身をのり出して否定した。「キラノイン様は、決して裏のある方などではありません。世間では色々と言う人がいますし、敵の多い方でもあります。ですが人として誰よりも信頼できる方なんです。この地に来て地獄で仏に会ったような気がしています」そう訴えた。
更に「あの屋敷が不気味に観えるのは四方が塀に囲まれている事と、あの木質密集の中で一際大きく堅牢な建物であるのに加えて、門を隠していることが最大の要因ではないでしょうか」と訴えた。
更には表札などのように個人を特定できるものは一切表示していない。そして乗用車などであの門に到達するには、複数の車では通過出来ない構造になっている。また、そのための工事は、近隣の住民たちが進んで協力してきた結果で、決してキラノイン様が強要したものではないと強調した。
翌日の夕方、美智子は山田のアパートに居た。昨日と同じように西日の差す部屋で、山田は今日も充血した眼のまま、分厚い封筒を手渡す。前回の続きだという。
その厚みが掌に伝わると、昨日から充血していた眼と、がぶ飲みしていたコーヒーの理由が分かった。弁慶が時々こんな眼をしていたものだ。この地にあると言っていた序列のことを、もう少し詳しく知りたかったが赤い眼にはもう言い出せなかった。
今日のところは帰ることに決めて、外に出ると繁華街に通じる通りへと進んだ。昨日とは別の通りで、山田から教わっていたホテルへの最短距離になる。
確かに、繁華街を直線的に突っ切っているように思えた。両側には昭和レトロを感じさせる、これまた狭い木質の商店が、ぎっしりと並んでいた。
その一つである書店の前を過ぎようとした時、店の奥から「椎名さん」と呼び止められた。聞き覚えのある声に振り向くと、そこには、さわやかな笑顔を向ける若者の姿があった。酒井文子の息子だ。
今日は非番だという。二人はすぐ隣にある喫茶店に入ることにした。美智子は若者を取り敢えず「酒井君」と呼んだ。
酒井君は買った本を開きながら「本当は椎名さんのように、都会に在る有名大学に進学したかった」と話す。
そして「椎名さんのような、ジャーナリストになりたい」と、希望を明かした。
美智子は「もともと私は芸能記者です。酒井君が目指すような者ではありません」と、否定した。
そこで酒井君は、この地の如何わしい仕来りや、よそ者に対する差別を、日本中の人たちに報せたいと語る。
美智子は「それは、あなたの故郷を暴露することになりませんか」と、山田の時と同じように聞く。
酒井君は「故郷だからこそ、恥部を暴露するんです。僕はこんなに恥ずかしいところを、故郷だなんて思いたくない。あの変なところは、日本でありながら日本じゃないんだ」ここでも唐沢や藤村、そして山田と同じ事を言う。
続けて「恥部の全てを暴露することで、きっと何かが変わると思う。そうなったあかつきには日本中に向かって、胸を張って叫ぶんだ。現在は変な処と言われているけど、この地こそ日本であり僕のふるさとだ」と、さわやかな目に熱がこもる。
美智子は、大切そうにしている酒井君の本を指して「いま縄文文化という文字が見えたのですが、考古学に興味でも」それは、美智子自身も気になっていた。
すると酒井君は目を輝かせて「今、世界が注目している日本の縄文時代を、この本が解説しているんだ。これによると当時の日本列島には、大陸からの際立った影響はまだ無かった。縄文人はこの日本で、一万年以上にも及ぶ平和な文化を育んできたんだ。ところが、世界に類をみないこの長期文化も突然終息する。何故だか分かりますか」と聞く。
美智子は「大陸からの影響を受けるようになったから」と、返事した。「そうです。それが弥生人といわれている渡来系の人たちで、彼らが大挙して、この平和な日本列島に逃れて来たからです」
美智子は「逃れて来たとは」酒井君は「難民です。総勢600万人もの渡来人が、20万人しかいない縄文文化の国に逃げ込んできた。その難民が大陸の文化と共に、残酷な風習を持ち込んだのです。それまで争い事の無かった縄文文化が、渡来人によって争い合う風習に変化した。この渡来人と変なところと言われているこの地とは、密接な関係にあると思います」これには山田や藤村が言った、外国と重なった。
美智子は「それが、その本の内容ですか」と聞く。「いいえ、紹介文を読んだだけです。ついさっき買ったばかりですから、まだ内容までは読んでいません。この本は隣の本屋さんに注文していたものが今日届いたので、受け取りに来たところでした。まだ同じ関連のものが、もう二冊届くことになっています」と説明した。
そして「もともと身内以外の他人に対する冷酷な思想は、大陸から世界に向かって、伝播し拡散して来たと考えられています。嘘や屁理屈を言う、言い掛かりをつけるは、残酷思想へのツールと思っていいでしょう。虐めや、他人の物を盗る、他人を支配するなどは次のステップで、支配出来ない状況があると、無理やり従わせようとする。それが戦争です。冷酷思想が現れるのは、その戦争からとだと思います。この地ではその一歩手前までの人たちが大勢を占めていて、残りの少数派を従えています。それを一括りにして、反社会勢力だと思います」と、何かを想定しているようだ。
更に「この地という狭い地域に限っては、反社密度が特に濃厚なのです。それは何故なのでしょう。また、高密度であるが為に、全国の社会常識は通用しません。この地では嘘や屁理屈、言い掛かりをつけることが、常識としてまかり通る。これも何故なのでしょうか」と聞く。
酒井君は「その当時は大陸からやって来た渡来人たちが、この地のような限られた地域で、小さな渡来社会をそれぞれに構成していた。そんな地域が本州の各地に点在していたと考えられます。大陸からの文化と共に、悪しき風習を頑なまでに守っていた。その風習の一つに近親婚と、もう一つが序列による階級制度だった。階級制度はいじめを誘発させます。やがて時代の変化と共に、縄文人の平和社会と渡来社会は、混血しやがて同化する。それにつれ悪しき風習も衰退し、社会の裏側へと埋没していった。同時に冷酷思想も薄められ埋没するんですが、完全消滅したわけではありません。それも、同化した人の中にDNAという形で、生き続けていると考えられます」と言う。
美智子は「同化人の中にDNAが」と質す。
酒井君は「冷酷思想は、同化人の子孫である我々現代人の中にも、DNAの形で現在も生き続けているんです。椎名さんの中にも」そう言って、美智子の眼を見つめた。
「この私のなかにも」
美智子は胸に手を当てる。そして「階級制度がいじめをもたらすと記録した。
酒井君は、美智子のまさかそんなことが、という表情を見て少し笑いながら「そうです。多かれ少なかれ椎名さんにも、冷酷思想が眠っていると思います。とても深い眠りなので、よっぽどの事が起こらない限り、目を覚ますことはないでしょう。ほとんどの人は椎名さんのように、眠ったまま一生涯を終了します。ところが眠るどころか、冷酷思想に目覚めたままの人が居るんです。それが変なところと称される、この地の土地者の事です。この地では冷酷思想を持った人が高密度に、男女を問わず老人から子供に至るまで存在しています。何故でしょうか」とまた聞いてくる。
思いがけない問いかけに、言葉が詰まった。すると酒井君は「大陸からの悪しき風習とは、近親婚主義と序列による階級制度を根幹としていました。近親婚主義は混血を阻み、階級制度は鉄の掟と血の結束で同化を拒絶した。このような小集団の隔離された社会は、戦国の世が終わるまで各地で続いていたと思います」と語る。
ここで酒井君は、美智子に名刺を渡した。そこには酒井公男の名が記されていた。「僕は読んで字のごとく公の男です。これはこの地だけの狭い視野ではなく、広い視野で社会を見ることが出来る男になれとの願いから付けられたと聞いています」酒井史子の面影が、公男の顔に重なった。
「僕はこの地が、変なところと言われないように、公に普通の地になるようにしたいと考えています」と抱負を語る。
そして「他所の小集団では、縄文の地域とすっかりと同化し、冷酷主義も深い眠りについていた。それにも関わらず、この地だけは同化することなく、悪しき風習をそのまま残した。二十一世紀の現在も奇妙な近親婚主義を守り、奇妙な階級制度に縛られて、狭い世界のなかでしか生きられない。大陸から逃れて来た千七百年以上も昔の姿で、現在に至っているんです。だからよそ者などと称して、他人を動物のように蔑視している。そんな姿を他所から観れば、そうでなくても、変なところに映るんでしょう」と言う。
そして最後に一つだけと言って「実はこの地にある序列とは、イヌザルの序列にそっくりなんです」と言う。
更に「一見すると他所に比べて、どこよりも男社会を象徴しているように観えると思いますが、実態は逆です。実はイヌザルにある序列の特徴が至るとこにあります。とくに、この地の女性たちを観察すると、その証がよく分かるかと思います。例えば普段から、こんなふうに顎を突き上げている女は、序列的に言えば上位の女です。下位の女でも相手がよそ者のように立場の弱い人物と見做せば、上位以上に顎を高く突き上げます。つまり、雌がこの地の社会を構成している。ですから、生まれた時点でその子供は、母親の序列に組み込まれ、社会的地位が決定されているんです」と説明した。
美智子は「土地者の輪郭だけは、何となく観えてきた。その一つに、酒井君の言う母系社会を思わせる」と速記した。
(第四話に続く)
その社会の子供は、誕生と同時に母親の序列に組み込まれ社会的地位まで決定されている犬猿の世界だった。