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底雪丸の過去  作者: ニビ
3/10

第三話

「そう、ここだ。ここに刺せばいいんだよ」

 いつもの優しい声で、彼が言う。声と同じくらい優しく、短いナイフを持たせた俺の手を取り、もの言わぬ冷たい肉となった体にずぶりと刃を埋めさせる。そのおぞましい触感に束の間怯えたが、彼の大きな手は俺の手を包んだまま離しはしなかった。

「そう、そうだよ。すごいね底雪丸」

 彼のいう通りにしさえすれば、彼はとろけそうに甘い声で褒めてくれる。焦点のあわない目を細めて、ひどく嬉しそうに。その声で俺は、ほっとして体の力を抜く。


 彼のいう、『教育』が始まったのは出会ってひと月ごろだっただろうか。それまで彼はときおり自分の仕事について喋るものの、俺にやらせようとはしなかった。だが日ごとに彼の仕事へ興味を持つ俺を見て、彼は『教育』を決意したらしかった。そこに彼のかみさまの意思が介在したのかは俺はわからない。


「底雪丸、明日から私の仕事を少しずつやってみようか。最初は死体で練習ね」

 その言葉すら優しく、彼は言った。この一カ月、彼が少しずつ教えてくれたおかげで常識と学を身につけ始めていた俺はその言葉の異常性は分かっていた。それでも、優しい彼の言葉に逆らうことなど考えもしなかった。

 幼い子どもに自分の後ろ暗い仕事をやらせる異常さと、知らないことを段階を踏んで教えるという正常さのちぐはぐが彼らしいといえば彼らしい、そういう思い出として残っている。


「ほら、君の手に合うナイフだよ。私のものだと大きすぎるからね」

 そう言って、俺のためにナイフを買ってきた日があった。

「最初は肉を刺す感覚に慣れるところからだね。私たちは肉食獣だけれど、この社会で、自分の手で仕留めた獲物を食べているわけじゃない。そういう、いわゆる非日常の感覚を忌避するのは生き物として当然だからね。そこを取っ払わないと」

 彼なりに理路整然と説いて、俺の緊張をほぐしてくれようとした日があった。

 どこをとっても子どもを育てる大人として正しいとは言えないが、それでも俺はあの日々が好きだった。


 かと思えば、ふっと遠くを見るような目をして(彼の焦点の合わない目はいつも遠くを見ているようではあったが)、ふらりとどこかへ行ったり、さっきまでと全然違うことを言ったりすることもあった。「かみさまがそう仰った」と必ずその言葉を冠して。

 しばらく練習の日々が続いて、彼が初めて仕事の場面へ連れてってくれたのも、その言葉を言ってからだった。

「かみさまが仰ったから、そろそろ君を連れていくよ。最初は見ていてね」

 そう言って彼は、俺を仕事の現場へ連れて行ってくれた。

 なんの変哲もない夜の路地裏。それこそ彼に拾われる前の俺がいたような、いろんなものがごみごみと足元に散らばり、世の中の色々な場所からあぶれた連中が息を潜めるようにして生活している場所だった。

 そういう物の陰に俺を隠れさせて、彼は再度見ているようにと言った。

 さほど待たないうちに、ひとりの虎獣人が通りかかった。ひどく痩せており、フラフラとおぼつかない足取りで散らかる芥に何度も足を取られながら進んでいく。『クスリ』をやっているのだと一目見てわかった。詳しくは聞いていなかったが、そういう薬物が裏で出回っていることは彼から聞いて知っていた。

 虎獣人が現れると、ここに住む連中はあっという間に姿を消した。面倒ごとはごめんだと言わんばかりの速さだった。

 周囲の動きを気にせずふらふらと歩き続ける男に、彼はなんということもない歩調で後ろから近寄っていく。ごく普通に歩いていたら追いついてしまいました、という調子で。

 そして追い抜くその一瞬に、目にも止まらぬ速さで後ろから虎獣人の首の血管を切り裂いた。

「!」

 俺は息を呑んだ。神業というのかこういうものか、と思った。自分が今までに学んでいた彼の技術は彼が持つもののほんの一端でしかない。それを見せつけられた。

 切り裂かれた首から、噴水のように血が噴き上がる。虎獣人はしばらくわめいていたが、やがて息絶えた。その一部始終を、彼は黙って見つめていた。

「ああ、終わった」

 のんびりとした調子で彼がそう言って、俺に手招きをした。言われた通りに近寄ると、彼は薄く微笑んで、自分の手のひらを刃物で切りつけた。

「ちょっ、何をっ!」

「ここからは儀式だ。彼と私の血で陣を描いてかみさまにお供えするんだよ」

 ごく幼い子に説明するように、彼は優しく言いながら自らの血を地面の血溜まりに混ぜていく。濃さの違う血が、とろとろと粘度をもって混ざり合うのを俺は見ていた。


「こんなものかな」

 陣を描き終えた彼が満足そうにそう言った。冷たい屍となった虎獣人の遺体を中心にして、円形と多角形が複雑に織りなす図形が描かれている。俺には見本を見ながらでも描けそうになかったが、彼は器用に、図形を歪めることもなく描ききっていた。

 そうして、彼はおもむろにいつも着ているローブを脱いだ。その布を無造作に丸めて地面に放る。

「始めようか」

 シンプルな細身のズボン一枚になった彼が、のんびりと言う。初めて見る彼の上半身は引き締まっていて、もちろんジャガー族の斑点に覆われていた。だが、それだけではなかった。

「…宝石?」

 俺のつぶやくような声が聞こえたらしく、彼は俺の方を見て微笑んだ。

「そうだよ。体に埋め込んでいるんだ。この方が綺麗で、きっとかみさまが喜んでくれるから」

 そう答えるや否や、彼は舞い始めた。それは、確かに舞いだった。体全部を使い、ネコ科のしなやかさを充分に表して、長い尾はその舞いのアクセントになる。体に埋め込まれた宝石はときおり差し込む月光を浴びて色とりどりの光を放った。


 綺麗だと、素直にそう思った。


 光を浴びる宝石が、彼の種族を表す毛皮が、なにより彼の体の動きそのものが。俺にはなにひとつないものだったからだろうか。現実とは思えないほど神秘的なその景色を、彼が舞いを終えるまで俺は飽きずに眺めていた。




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