第95話 「喉元へ」
兵站の入口をくぐったレオが呆れたように肩をすくめる。彼と戦場で別れてからまだ一日しか経っていないというのに、随分久しぶりに会った気さえした。
「レオ、無事だったんだな。良かった……!」
すぐさまヴァルターが駆けつけて、レオの頭をがしがしと撫でる。しかし全身にいくつか包帯を巻いた彼は、その幼い子供に対して取るような態度が気に入らなかったらしい。
「やめろ。当たり前だ」
レオはすぐにヴァルターの手をどけさせて、唇をツンと尖らせてしまう。
だが、ずっと彼の消息を気にかけていたヴァルターにとっては、そのつれない態度こそが最も自分を安心させてくれるものだった。心の蝋燭に火をつけられたみたいに、胸がみるみるうちに暖かくなっていくのがわかる。
「レオ」
と、兵站の中にいた他の面々も、レオの元へ駆け寄った。みなそれぞれ安堵したような面持ちだ。
「いつの間に帰ってたのよ? 私たち何も知らされていなかったんだけど」
セレナが腕を組みながら問いかける。するとその質問に答えたのはレオではなく、未だ兵站の奥にいるスチレットだった。
「レオさんは殿をお務めになられたあと、戦場で倒れているところを発見しました。……周囲には大量のイスニラム兵の死体もあったようですが」
「何人やったのよ……」
アンナが引きつった笑みを浮かべる。
死屍累々の光景というのはあまり想像したくないものではある。そうではあるものの、レオならば普通にそのなかで暴れている様子が想像できてしまうのが皮肉なところだ。
そうして周囲が軽く引いているのも気にせず、レオは自身で語る。
「覚えてない。ただ、処理は大変だったと思う」
「うわあ……」
引き気味でこぼされるため息。
と、空気を引き締めるようにユージン王が咳払いをした。
「……そういうわけで、我々が進攻している最中にレオを発見し、保護して連れ帰ったのだ」
「あのレオさん、怪我は大丈夫なんですか? 包帯もたくさん巻かれていますが」
フィリーネが心配そうな表情で尋ねる。彼女はたった一人で軍の野戦病院並の活躍をしているから、レオの健康状態も気になるのだろう。
と、そこでヴァルターの脳内で何かが引っ掛かる。レオが死体のなかで倒れていたということは、彼もそれなりの負傷をしたはずだ。それならまずフィリーネが治療を担当するはずではないのか。
「……フィリーネもレオのことを知らなかったってことは、まさかお前」
「これは全部かすり傷だ。フィリーネのルガルは特に必要ない」
「倒れていたのはただの疲労だそうですよ」
「この化物め…………」
スチレットの補足にけろりと頷くレオ。
ヴァルターはそんな余裕綽々な彼を複雑な顔で睨みつけた。あれだけ心を摩耗して安否を気にしていたというのに、これでは自分の気苦労が無駄だったみたいではないか。
「チクショウ。俺の心配を溝に捨てやがって」
「……そうでもない」
「?」
レオが目をそらして否定したのを見て、ヴァルターが小首を傾げる。
「帰りを待っている奴がいるのは……悪くなかった」
「レオ……!」
照れたように頬をかくレオ。
彼がそんな素直で粗削りな気持ちを露わにするのが嬉しくて、ヴァルターは思わず両腕を広げて抱きしめようとしてしまった。
「殺すぞ」
「っぶねえな! 至近距離から槍を穿つんじゃねえよ!」
「昔より反射神経が鍛えられたな、ヴァルター」
「イグナーツは冷静に分析すんな!」
「まあまあヴァルター、落ち着いて」
ハアハアと息を乱すヴァルターをヴェリがなだめる。つい数秒前まで眼前へ槍の穂先が迫っていたというのに、落ち着いてなどいられるだろうか。
レオは多少丸くなったものの、仲間であっても容赦なく刺し貫こうとする癖は未だに治っていない。いや仲間というか、彼が槍を向けるのはこの軍でヴァルターだけだが。
「クソ、このレオめ。俺の反射能力がもっと上がったら、いつか槍を躱した瞬間に反撃を打ち込んでやるからな。いいか、俺の反撃は重たいぞ」
「あなたも張り合ってどうするのよ……」
じとりとレオを睨みつけるヴァルター。アンナが呆れたようにため息をつくと、アインハルト軍は柔らかな笑いに包まれた。このつい気が抜ける空気感は久しぶりだ。
と、話の流れが一旦止まったのを確認してユージン王が切り出す。彼が話し始めるだけで、一瞬緩んだはずの雰囲気は再び引き締められた。
「さて、これで今回の作戦に参加する戦力は揃った。最後に一通り確認する。スチレット」
「はい。まず、アインハルト軍についてです。神聖隊や分遣隊と同じく、少数精鋭でイスニラム国内に潜入、大陸軍の指揮権を有している第一師団を直接叩きます。イスニラムへの潜入は、私のルガルを使用して遂行します」
スチレットの説明に全員が頷く。次に、ユージン王が代わって続ける。
「我々アントゥーク軍は、残存するアストリア軍と協力して戦線を維持する。君たちが第一師団を潰すことがこの作戦における肝だが、その間にアストリアへ攻め込まれてしまっては元も子もないからな。そして、戦線維持において最も障害となるであろう存在が神聖隊だが、彼らの相手は――」
「――俺にやらせてください」
「!」
兵站のなかに飛び込んできた声。その声音は宙を闊歩する矢のように鋭くて、内に秘められた決意の固さを感じさせた。
「――ハーデストッ!」
姿を目視する前から声で判断してしまったらしい。その声を聞くやいなやアリシアが飛び出して、一目散に入口へと駆け抜けていく。
「俺が――」
「ハーデストッ!」
「ぐおえッ!?」
入口の幕をくぐって中に入ろうとしたハーデストだったが――ピッタリのタイミングで飛び込んできたアリシアとぶつかって、彼の体が遠ざかっていく。
「ああ……」
「せっかくカッコいいこと言おうとしてたのに……」
「ヴァルターさん、セレナさん! 俺を憐みのこもった目で見ないでもらえますかッ!」
地に倒れて尻餅をついたハーデストが叫ぶ。あまりにも不憫だ。
と、彼の上に乗りかかっていたアリシアが上体をかがめる。そのすらりと伸びた両腕は、ハーデストの胸部に柔らかく触れていた。
「ホント心配したんだから……! 私、あんたがいないとやっぱり駄目だったよ…………!」
今にも泣き出しそうな声でアリシアが言う。言うというよりもそれは、もはや無理やりに絞り出している感じだった。
ハーデストは神聖隊隊長のエンガスから攻撃を受け落馬した。彼はそのときの衝撃で意識を失っていたのだが、それはアリシアにとって自身の精神を脆弱にさせる不安材料だったのだろう。外見だけは繕っていたようだが、確かに今日の彼女は口数が少なかった。
「……心配かけてごめんな、アリシア。お前を最後まで守ってやれなかった」
「ううん、私も……!」
アリシアが懸命に首を振る。
ヴァルターからは彼女の表情はうかがえない。でも、涙ぐんだ声のアリシアが、今日一番彼女らしい顔をしていることだけはわかる。
「ハーデスト」
ユージン王が名を呼んで、ハーデストの元へ歩み寄る。その威厳ある表情に変化はない。しかし、口元がかすかに緩められていたのをヴァルターは見逃さなかった。
「ユージン王。申し訳ありません、お手間を」
ハーデストが上体を起こそうとするのに合わせて、アリシアが体をどける。
「構わん。それでお前は、先ほど何と?」
にやり、とユージン王が不敵な笑みを見せる。
立ち上がったハーデストは少し意外そうに眉を上げたが、すぐに生真面目さを思わせる表情に戻して、もう一度その固められた決意を述べた。
「奴らは、神聖隊の隊長と副隊長は――――俺がやります」
今度こそはっきりと、腹から出たブレのない声で、断言された覚悟。
彼の強い意志が込められた瞳は、ヴァルターに懐かしい男を思い出させるもので。
「でもハーデスト、怪我は大丈夫なの?」
ヴェリが歩み出る。彼の気遣いに、ハーデストは目じりを下げて頷いた。
「ああ。でもこの通り、散々に痛めつけられたからな。けじめをつけたいんだ」
同い年のヴェリに、彼は特有の敬語を使わずに接する。彼なりの信条のようなものだ。
「で、でもハーデスト。それじゃあんたが危ない――」
「ああ、そうだアリシア。俺一人じゃ奴らに太刀打ちできない。だから力を貸してくれ」
「ひゃうっ!?」
ハーデストが強引に両肩を掴むと、アリシアはびくっと体を跳ねさせた。それと一緒に、喉の底から変な声を漏らしている。ハーデストが荒っぽい、雑な言動をするのは珍しいので慣れていなかったのだろう。
いやまあ、アリシア的に言えば「耐性がなかった」のほうが的確なのかもしれないが。
「…………ま、まあいい、けど」
すっかり本調子でなくなったアリシアが頬を染めてうつむく。
ハーデストは目をそらし続けている彼女を見て、あくまでも真面目な表情のまま頷いた。そしてユージン王へと視線を移し、
「ユージン王。神聖隊の相手は俺とアリシアの率いる部隊が務めます。宜しいですか」
「私は一向に構わん。それがアントゥークの未来に繋がるのであれば、何だって良い」
誇張も遠慮もなしに告げられた、ユージン王の内心。
それを聞いたハーデストは、満足したように大きく頷いた。
「改めて説明しよう。私たちアントゥーク軍と君たちを除くアストリア軍は、こちらに残って戦線を維持する。そしてその過程で最も強大な障害となる神聖隊は――君たちも聞いていた通り、ハーデストとアリシアが抑え込む」
「はっ」
「はい」
ハーデストとアリシアが声を揃えて答える。
「よし。これで全容は伝えた。……スチレット、頼むぞ」
「はい」
ユージン王が促すと、スチレットは前へ歩み出た。するとそれと同時に、兵站のなかに新たな顔ぶれが入ってくる。アストリアの兵士だ。
「……これは?」
兵士が持ってきていたものをスチレットに手渡し、さらにスチレットがそれをヴァルターへ渡す。麻で作られた簡素な袋だ。結構な重量がある。
「イスニラムの硬貨や紙幣が入っています。あなたたちがイスニラムでの日々を過ごすことになる宿屋には、事前に忍び込んでいたアストリアの斥候がすでに代金を支払っていますが……そこに行くまでの行程で必要でしょうから」
「なるほど……?」
こんなに必要なのかは怪しいが、まあ多すぎて困ることはないだろう。
「物資も宿屋に運ばせています。それでは、始めましょう。私のルガルは一人ずつでないと皆さんを送ることが出来ません。ですので順番に送らせていただくことになりますが、どなたが最初に――イスニラムへ行きますか?」
早速、スチレットが右手を上げて問いかける。が、アインハルト軍の面々はすっかり黙り込んでいた。仕方ないというか、ここで我先にと挙手できる人間はまずいないだろう。
なぜなら、今から自分たちが向かう場所は敵地のど真ん中だからである。しかも一人ずつということは、最初に送られた者は少しの間、敵国で独りになる可能性があるということだ。
それはあまりにリスクが大きいと見て、誰も「自分が行く」と言い出せなかったのだろう。すると、しんとした空間のなかでイグナーツがゆっくりと立ち上がる。
「私が行く。一応、この作戦の立案者でもあるからな」
「承知しました。……では」
スチレットが跪いて、自身の右手を床につける。そして空いた左手を、前に立っていたイグナーツの足元に触れさせ――。
「【収斂】」
「……!」
その瞬間、イグナーツの姿が跡形もなく消えた。イグナーツとイスニラムの間にある距離。それがイグナーツの持つ概念の範疇で「縮んだ」のだ。今頃彼はもう、敵国のなかにいるのだろう。
「さあ、次です」
スチレットは立ち上がると、同じようにして他の者たちも消し飛ばしていく。セレナ、フィリーネ、ヴェリ、レオ、アンナ――彼に近いところにいる者たちから、見る見るうちにその姿が消えてなくなっていく。まるで異次元に迷い込んだかのような、異様でいて見ごたえのある壮観が、目の前に広がっていた。
「ヴァルターさん」
そしてついに最後、ヴァルターの順番がやって来る。スチレットが眼前で膝をつき、地面とヴァルターの足に手で触れる。
その瞬間、彼はヴァルターに向けて、かすかに一言を残した。スチレットの確かな希望が、ヴァルターへと託される。
「――アストリアを、頼みます」
*
一つ、瞬きをした。瞼を閉じて開ける。一瞬ぼやけた視界が秩序を取り戻して、周囲の景色がはっきりと見て取れるようになる。
「……」
まずヴァルターが感じたのは、音だった。あまり聞き慣れない、鼓膜をじわじわと震わせる、唸るような低い音がしつこく鳴っている。この音は何だろう――ヴァルターはにわかにそう気になって、焦点が合うようになった視界を振り回した。
「……は?」
瞬間、ヴァルターは自分が違う世界に入り込んでしまったのかと勘違いをした。スチレットのルガル操作が誤って、どこかはるか遠くの文明に足を踏み入れてしまったものだと思った。
だが、それは違った。ヴァルターの周りには、先に到着していたイグナーツたちがいる。決してスチレットが失敗したわけではない。
ただ、ヴァルターの訪れたイスニラムという国家が、予想以上に独自の発展を遂げていただけのことだ。
「なんだ、これ」
背の高い建造物に、あたり一面を覆う粘りつくような空気感。おそらく大気が汚れているのだろう。夜になれば視界が効かなくなりそうなほどだ。
ヴァルターらが立っていたのは歩道の端だった。周囲には多くの人通りがあり、皆かっちりした衣装を着用している。加えて女性たちは総じて洒落たドレスを身にまとい、濃い化粧を施していた。道行く人がこれだけ身だしなみに気を遣っているとなると、そこまででないヴァルターたちは浮いてしまうのではないか。
「ヴァルター、来たわね」
「これで全員無事に到着できたな」
アンナとイグナーツが声をかけてくる。ただ彼女らも、ヴァルターと同様に落ち着きがなかった。この焦燥が自分のものだけではないと知って、心なしか気が楽になる。
「ここは本当にイスニラムなのか? あまりにアストリアやアントゥークの街と違いすぎて」
「スチレットはイスニラムの首都に送ったはずだ。つまりこれが、私たちが戦っている国の心臓部だろう」
イグナーツが目線を移動させるのに合わせて、ヴァルターももう一度周囲を見渡した。
アストリアとは全く異なる様相を呈している街並み。整備された車道の両脇には、各々の家の境界線が曖昧になりそうなくらい、がっしりと壁がくっつけられた連続住宅が並んでいる。もう少し遠くのほうには――工場地帯だろうか、大量に取り付けられた煙突から黒色の煙が立ち上っている。
「何だかすごいね。都市としての完成度が桁違いというか」
ヴェリが感嘆した様子で言う。
と、その隣では顎に手を当てて、イグナーツが考え込むようにしていた。
「イスニラムは都市計画も推進していると聞くからな。……しかし、技術の発展に環境の汚染は付き物とは言え、本当に空気が悪いな」
そう吐き捨てるみたいに言って、顔をしかめる。
ただまあ、その感想に関してはヴァルターも同意見だ。まるで湿気のある夏の夜みたいな、まとわりつくような気持ち悪さがこの街には漂っていた。
「あ、あれは何ですか!?」
と、フィリーネが突然びっくりしたような大きい声を上げる。
ヴァルターは彼女の急な大声に驚いて振り向いたのだが、その直後には、彼もフィリーネと同じ驚愕の渦に叩き落とされることになった。
「何だ、あれ……機械?」
「機械が人を乗せて走ってるっての!?」
セレナが身を乗り出す。彼女が目をこじ開けて凝視している方向――歩道と歩道に挟まれた広い車道には、馬車ではない、動く何かがそこを闊歩していた。
と、イグナーツがそれを指さして、
「あれは蒸気自動車だ」
「自動車?」
「ああ。馬ではなく、蒸気で動く車だ。ああやって自らハンドルを握って運転するらしい」
「すっげえな、イスニラムの技術力……」
よく目を凝らして見てみれば、車道には蒸気自動車のほかにもう少し規模の大きいものも走っていた。今さっきヴァルターたちの前を横切っていったものより多くの人間を乗せている。
まじまじと見つめていたヴァルターに気が付いたのか、またもやイグナーツが補足を挟む。
「バス、というそうだ。都市部を走っていて、大量の人間を一度に運ぶらしい。おそらくイスニラムの技術は――少なめに見積もっても、他国に比べて50年は進んでいるだろう」
「ごじゅっ……俺たちはそんな未来に生きてるようなやつらと戦争してるってのか」
「残念ながらな」
そう呆れたように呟いて肩をすくめるイグナーツ。そんなお気楽でいられる話ではない気もするが、こんなところで悲観していても進まないという意志表示でもあるのだろう。
ヴァルターは冷静になろうとして、もう一度周りを見回す。車道では変わらず蒸気自動車やバスが走っていた。勿論、それでも荷台のある馬車のほうが絶対数は多い。だがしかし、馬車だけの光景にすっかり慣れ切ったヴァルターにとっては、それ以外の黒くて無機質な物体が点々と存在しているだけで、目の前の景色が別物に感じられた。
と、首をぐるりと回していたところ、その途中でひときわ大きな建造物を発見する。
「イグナーツ。あれは何だ?」
男らしい肩をつつくと、イグナーツがこちらへ振り返る。彼はヴァルターの指し示した物体を見上げて、
「あれは駅だろう。つまり――鉄道だ」
*
「……酔った。もう吐きそう。吐く」
「ヴァルターさん、大丈夫ですか?」
列車から降りたヴァルターの第一声が思い出したくない類のものになったところで、アインハルト軍一行はイスニラムの郊外へとたどり着いた。
「列車ってのはすげえな……うんすげえ。ああ吐きそう」
「あなたって案外、馬車も苦手よね。船に乗ってるときは少しも酔わないくせに、何が違うわけ?」
「波に乗るか乗せられるかの違い」
「確かに、ある意味で乗せられてたわね」
アンナがやれやれといった様子で苦笑する。
仕方がないだろう。列車なんて凄まじい発明品を目にするのは初めてだったし、ましてそれに乗車するなんて、逆に乗せられてワクワクしてしまうに決まっている。
と、今にも朝に食べたものをぶちまけそうなヴァルターを置いて、セレナが顎に人差し指を当てながら言った。
「でもまあ、スチレットさんが行程で金が必要になるって言ってたのも納得ね。ここまで列車を乗り継がないと来れないような郊外に――」
「……イスニラム第一師団の本陣があるなんてね」
ヴェリが低い声で引き継ぐ。
すでに、スチレットの力で先に紛れ込んでいたアストリアの斥候により、標的である第一師団の居場所は突き止めていた。それがこの郊外の街だったのだ。
また、現在一行が目指している宿舎には、スチレットが根回しして先にその斥候たちを潜入させている。多額の金で宿屋の主人を買収し、アストリア軍の根城にさせたのだ。無論、主人は彼らがアストリア軍関係者とは知らない。羽振りの良い客程度にしか思っていないだろう。
するとアンナも丁度同じことを考えていたらしく、
「宿屋を占拠しちゃうなんて、よくお金で丸め込めたわよね、本当」
そう意外そうに呟いた。と、後ろを歩いていたヴェリがそれに反応する。
「スチレットさんが言っていたのは、僕たち全員が一年間宿泊できるくらいの額だって」
「一年分もですか!?」
フィリーネが目を丸くして驚く。
すると一緒になって話を聞いていたセレナが眼光を鋭くする。どこぞの探偵のような仕草だ。
「でも私、疑問なのよね。スチレットさんって、どこかの地主の息子とかってわけでもないんでしょ。それなのに、何で宿屋の主人を買収できるほどの金を持ってるわけ?」
確かに妥当な意見だ。彼は育ちが良さそうではあるものの、特別金銭的に余裕があるふうに見えるわけでもない。
すると、推理に行き詰った面々のなかで、まだ言葉を続けたのはイグナーツだった。
「国庫の金を使えばそれも可能だろうが……ハザは戦時中であっても陸軍を動かさないほど、アストリアのために行動するという考えからかけ離れた男だ。まして国の金など出してやるわけがない。となると、スチレットは国の助けなしに、一体どうやってそれだけの大金をかき集めた……?」
聡明なイグナーツでさえも苦しめる謎であるらしい。スチレットの財布事情――確かに気になるところではあるが、ヴァルターは意識的にその堂々巡りの思考回路を断ち切らんとした。
「ま、今はいいだろ。全部事が済んだあと、覚えていたら聞けばいい」
「珍しくヴァルターの言う通りだ。今は潜入任務に集中しろ」
「おいレオ、そう言っておいてお前は駅構内にあったスイーツ屋のパフェを頼もうとしてたよな。無断で。発車直前なのに」
「……ご当地パフェなるものが」
「ねえよ!」
怒号が閑静な住宅街に轟く。思ったよりも響いてしまったので、ヴァルターは内心恥ずかしいと思いながらさっさと歩を進めた。
……進めようとしたところで、前方にいた女性と目が合ってしまった。
「あ……」
恥ずかしい。これは恥ずかしい。これは確実に、自分が叫んでいたところを目撃されている。
その女はしゃがみ込んだ姿勢のままこちらをじっと見ていた。美しい女性だ。濡れ羽色の髪は透き通るように黒く、くりくりした両の瞳が愛らしい。男女問わずすれ違えば振り返るような、人形みたいに完成されていて、されどあどけなさの残る美しさを持っていた。
「えーっと……」
知らない人のはずだ。初めて見た女性であるはずだった。
それなのに、ヴァルターはどこか奇妙な縁のようなものを、そのたった一瞬で感じ取っていた。
自分はおそらく、この先彼女と関わることになる――そんな、直感じみた何かを。




