第92話 「吐露」
閑静な住宅街から少し歩いたところには、小さめの駅がぽつんと佇んでいた。そこからいくつか列車を乗り継いで、そろそろ車窓風景にも飽きてきたという頃に、ようやく首都の大きな駅に到着する。
耳障りな音を立てながら、列車が駅のプラットフォームに沿って停車する。少し前から勢力を拡大し続けている蒸気機関車。初期はたった二つの都市を結ぶだけだった鉄道も、今やこの国の大部分にとって欠かせない交通網になっている。その黎明期から成り行きを見守っていた自分には、あの不便な時代が懐かしくもあった。
「よいしょ。……わあ」
列車から降りたエマが上を仰ぎ見る。天井はドームのように曲線状になっていて、全面ガラス張りになっていた。繊細だが、それでいて洗練されたデザインだ。やはり首都のターミナル駅ともなると、外目にまで最大限の気を配っていることがわかる。
「はぐれるなよ。人が多い」
田舎者をさらけ出しているエマに向かって、オスニエルが顔を寄せて言いつける。わざわざ顔を近づけたのは、そうでもして耳元との距離を詰めないと声が届かないくらいに周囲がうるさいからだ。
「はい。今日は休日ですもんね」
エマが負けじと踵を上げて声を張る。
ふむ、腹から声が出ている。初めて訪れた大都会のはずだが、意外と肝が据わっているらしい。
オスニエルはそう満足したふうに頷くと、体を反転させて向きを変えた。
「行くぞ。ついてこい」
エマの耳へ言葉がきちんと伝わったのを確認して、オスニエルが歩き出す。エマはさっさと進み出した彼を見るなり、駆け足でその隣に並んだ。
「でも、本当に人が多いですね。こんなの初めてです」
エマが呆けたふうに首をくるくると回している。
確かに駅のプラットフォームは、思わず顔をしかめてしまいそうなほどに人で溢れかえっていた。その人混みの凄まじさといえば、この国の全人口が今だけ集結しているのではとまで疑わせるほどだ。
「まったくだ。もう少しダイヤを改正して、混雑を緩和できないものか」
人の多さだけではなく、自然、駅の構内もとても広い。道すがらに点々と設置されている構内図を確認しながらでないと、とてもじゃないが目的地までたどり着けない。
そもそも一つの駅に複数の出口が存在していることがおかしいのだ。下手すれば駅の外にも出られないなど、まるで一度はまれば二度と逃げ出せない食虫植物の罠である。駅がハエトリグサで、我々が蝿。騒がしいところなど蝿にそっくりである。
「オスニエルさん、あれが出口です」
エマが前方を指さす。彼女の動きにつられて前を見やると、確かに数字や文字が一緒に記された出口があった。目指していたところと記述は一致しているし、あまり苦労せずにたどり着けたということでいいのだろう。
「わあ……!」
駅の出口から一歩踏み出すと、たちどころに目の前の景色が広がる。残念ながら大気は都会のほうが汚れているので、差し込む光だとか抜けるような青空だとかは拝めない。
とはいっても、立ち並ぶタウンハウスや威厳ある高層建造物など、大都会の肩書きに恥じぬスケールの大きさは十二分に感じられた。
「これが首都……! すごいです!」
エマがきゃっきゃと興奮している。わかりやすく頬を紅潮させたその姿は、見ているこちらも気持ちが湧き立ってくるような影響力をもったものだった。
オスニエルとエマ、二人を囲う都会の喧騒。今日それを初めて(厳密には記憶を失ってから)体感したエマは、オスニエルよりも冷静さを欠いている。
いやまあ、冷静さという観点で言えば、エマは普段から大抵オスニエルのそれに及ばないものの。
「これが、お前が強く望んでいた都会だ。満足したか?」
「はい、とりあえず第一印象は! でもこれからですよ」
エマがにこにこと笑いながら答える。彼女は数日前まで風邪を引いて寝込んでいたが、そのときのお願い――というよりは弱っているエマをあしらうことが出来ないオスニエルの甘さに付け込んで、「都会に行ってみたい」と口にしたのだった。
無論言うまでもなく、砂糖のように甘くなっていたオスニエルには断る理由がない。そのためエマの体調が万全になった今、こうして何本も列車を乗り換えて遠路はるばるやって来たわけだ。
まったく、どうして自分はこう、彼女の熱意だとか熱望だとかに弱いのだろうか。
そんな他愛もないことを脳内で巡らしていると、エマが不意にオスニエルの手を取った。
「オスニエルさん、早く行きましょう! たっくさん回りたいお店があるんですから」
犬か。その言葉が口から飛び出そうになったところを何とか抑えて、オスニエルはわんわんと尻尾を振るエマに向けて呆れ顔を作った。
「……わかった。だがもう少し落ち着け。見ているこちらが疲れる」
目じりを下げた柔らかな笑みで言う。
と、それを聞いたエマは大人しく言われたことを守るつもりらしい。すぐに最高潮まで引き上げられていたテンションを常時のものに下げて、
「わかりました。ちょっとはしゃぎすぎちゃいました、ごめんなさい。えっと、まずはお洋服を見たいです。有名なお店がいくつもあるんですよ。それで次に、スイーツ屋さんを見て回ります。これもたくさん美味しいところがあるそうです。それでそれで――」
またすぐに下がったはずのテンションを持ち直して、何やら色んな文章の羅列をべらべらと喋り続けた。
ちなみに肝心のオスニエルはというと、途中から聞き取ることがすっかり億劫になって、彼女が「それで」を五回言ったあたりから昨日の夕食のことを考えていた。あのコンフィ、これまで作ったなかで最高傑作だった。エンフィールド家直伝の丸秘レシピに加えてもいいかもしれない。
「ちょっとオスニエルさん、聞いてるんですか?」
「ん? ああ、聞いている。俺の料理の腕は天才的だ」
「……? じゃあ、調理器具も見に行きましょう! さあ!」
「おい、引っ張るな。服が傷むだろう。おい、聞いているのか」
エマがオスニエルを半ば引きずるようにして連れていく。二人の姿は間もなく、群衆のなかに解けて見えなくなった。
「とーっても楽しかったですね!」
「そうだな」
それから数刻が経って、オスニエルとエマは再び首都のターミナル駅へと戻ってきていた。天井を覆うガラスの向こうの空はすでに薄暗く、結構な時間、街の中をぶらついていたことが見て取れる。
しかし花が咲いたように笑っているエマとは対照的に、その隣を歩くオスニエルの表情は重い。なぜここまで二人の顔色に差があるかというと、このエマとかいう女の異様な行動力と活力のせいである。
まさか彼女が言っていた有名なお店とやらにすべて連れていかれるはめになるとは、さすがのオスニエルも思っていなかったのだ。その結果スケジュールは凄まじいまでの過密なものとなり、オスニエルを疲れ果てさせてしまった。
しかしそんな状況でも、エマは今も爛々と目を輝かせている。底抜けの体力と引くほどのバイタリティ、恐ろしい女だ。
「私用の服もたくさん買ってもらえて、すごく嬉しいです」
エマが自身のスカートをつまむ。いくら男装の麗人として街を出歩いていてもおかしくないとはいえ、いつまでもオスニエル用の服を着ているわけにもいかない。そのため彼女専用の服を何着か購入したのだ。エマも気に入ってくれたようで、さっそく試着室で着替えた状態のまま新しい自分を楽しんでいる。
「お前は元が良いからな。何を着ても似合うものだから、正直俺としてはどれがいいのかわからなかった」
青と白を基調とした自然派のドレス。男装も似合っていたが、きちんとドレスを着こむと一気に女性的な魅力があふれ出す。
と、エマは一瞬言葉を詰まらせて、ロングスカートをぎゅっと握りしめた。
「え、っと。それは褒めてくれているんですよね?」
「褒めている。他に何が?」
「い、いえ! 嬉しいです。オスニエルさんに褒めてもらえるのは、何だか嬉しいです」
奇妙な間を開けて、エマがうつむく。彼女の耳は薄い桃色に染まっていた。
「……おかしなやつだな。人間誰だって褒められれば嬉しいものだろう」
「そっ、そうじゃなくて! オスニエルさんだから、いいんです」
エマががばりとこちらを向く。潤んだ瞳に透き通った肌、恐ろしく美しい鼻筋に、淡い色の口紅が塗られた唇。相変わらず天性の美貌をほしいままにしているなと、オスニエルは他人事のように思う。
「はあ、そうか。変わっているな」
「むう……この、オスニエルさん!」
「は? お前、今俺の名前を罵倒の代名詞みたいに使わなかったか」
オスニエルの動きが固まる。今の不自然な用法は絶対にそうだった。
しかしエマはぷいとそっぽを向き、断固として認めない。ご丁寧にも唇まできっちり尖らせている。
「使ってません」
「使ったろう」
「使ってません」
「使ったろう」
「……」
「……」
「オスニエルさん、今日いただいたランチで使われていたソース、真似してみたいです」
エマが何事もなかったかのようにニコリと笑う。だが、残念ながらわかりやすすぎる。彼女は作り笑いが下手だった。本心からの笑顔は世界一尊いものだと言っても過言ではないが、その取ってつけたような偽物の笑顔は粗悪品である。
「お前は作り笑いの仕方をもう少し学んだほうがいいぞ。それと、話の変え方も」
「う、うう。……あ、オスニエルさん」
「なんだ」
再び動き出していたオスニエルの足が止まる。
「その、私も荷物持ちます。重いでしょうから」
オスニエルの右手には大きな紙袋が握られている。エマの服が大量に収められているので、それなりに重量はあった。とはいえ二人がかりでなければ持てない、というほどの重さでもない。
それに女に荷物を持たせるのは気が引ける、とオスニエルは彼女の提案を断った。
「構わん」
「持たせてください。不公平です」
「必要ない」
む、と不満そうな表情をするエマ。
彼女と接していると、どこまで逃げてもその愛らしい顔が付いて回るので困る。結局はオスニエルが折れて、エマの望み通りの結果にさせられてしまうのだ。
「じ、じゃあ二人で持ちましょう。これならいいでしょう?」
「……ああ」
というわけで今回も例に漏れず、エマがふふふと嬉しそうに笑うこととなった。まったく不愉快である。
エマが左手を伸ばして紙袋の取っ手を持つ。ただ、アーチ状になっているそれを掴もうとしたとき、二人の手が触れてしまった。エマの体がびくんと跳ねる。
しかしオスニエルは特に反応しない。それをおずおずと見上げたエマは、彼の右手に自身の左手を絡めた。
「……あの、オスニエルさん。いいんですか?」
「なにがだ」
「その、手が」
「俺は荷物を持っているだけだが」
「……ふふ。そうですね」
エマが微笑む。その頬はまた赤くなっていて、よく赤面する女だとオスニエルは思った。
「もう戻ってこーない。あの人に向けて何度もお祈りをしたー」
「……なんだ、もう覚えたのか」
「はい! 私すごく好きです、この歌」
「そうか」
オスニエルがエマの看病をしている間に披露した、やさしくてかなしい歌。母から教わった曲だった。それを他人であるはずのエマが嬉しそうに歌っているというのはどこか変だが、オスニエルの気分は決して悪いものではなかった。
「夢の中で口づけをして」
「! ……まだ私は会えない」
オスニエルが続いて、エマもそれに続く。二人の歌声が次第に合わさっていく。二人は列車を降りてからも、その歌を口ずさみながら帰った。
*
それからまた数日が経過して、エマのドレス姿にも見慣れてきたころだった。
「あの、オスニエルさんはどうしてここまで優しくしてくれるんですか?」
ある日、何の脈絡もなく、エマはオスニエルにそんなことを尋ねた。
その唐突さといったら、オスニエルが夕食後の紅茶を噴き出しそうになったくらいだ。
「……何だ急に」
「あ、ごめんなさい。特に深い意味があるとかではなくて。……ただ、私ってなにもしていないじゃないですか。えっと、家事などのお手伝いはしていますけど、でも居候としてお金を支払っているわけでもないですし」
えと、その、とエマがあたふたし始める。彼女の慌てようは置いておくとして、言わんとしていることは理解できた。
つまりは、家族や親戚といった血の繋がりがあるわけでもなし、まして特に有益なことを為せるわけでもなし、それなのに何故オスニエルはエマをこの家に住まわせ続けているのか――彼女が聞きたいのはそんなところだろう。
「ふむ」
オスニエルは紅茶を一口含んで、少し考える。
最初は他人の目を気にした結果の行動だった気もするが、それなら風呂を貸して飯を食わせた時点で追いだせばいい。放浪者に手を差し伸べる慈善者としての行動ならば、それで十分だ。
では、自分は何ゆえに、今の今までエマを保護し続けているのか。
「どうして、か。なんとなく同じものを感じたから、というのはある」
「同じもの?」
オスニエルが発した答えに、エマは小首を傾げた。
「ああ。どうにもならない、人生の四方が塞がれたような感じを受けた」
「オスニエルさんもそうなんですか?」
エマの問い。純粋な気持ちから発せられたそれに、オスニエルは少し口をつぐんだ。
しかし、言うべきか言わざるべきか散々迷ったあげく、やがて紅茶の入ったカップをテーブルに置く。
「……そうだ」
「――――」
「今まで楽しいことも嬉しいことも、多くはなくともあるにはあった。でも、結局俺は望んだ結末を得られなかった。殺したくない人を殺したよ。心も殺した。だから未だに俺は、“この世に生まれることが生まれないことより幸せだ”と、自信をもって言うことができない」
「――――」
オスニエルの返答に、エマは黙り込んだ。軽く目を見開いて、驚いたような、悲しんでいるような顔をしている。それがどんな心情を現出したものなのか、オスニエルにはてんでわからない。
“この世に生まれることが生まれないことより幸せだ”――そう確信して言い切れないことへのもどかしさ。せっかく生まれ落ちたのなら、誰だってそれぞれの人生を楽しみたいに決まっている。でも、そう上手いこと、この世界は甘く出来ていない。
赤ん坊を抱いた助産師は、新たにこの世界に加わったその子に「ようこそ」と言う。よくやって来てくれた、おめでとうと、生まれたことを祝福する。その子の訪れた世界が、たとえ地獄のような世界だったとしても。
楽しい記憶よりも苦しい記憶のほうが残りやすいこの世界では、必然と人は苦しむことのほうが多くなる。それは喉に刺さった魚の骨のように、ちくちくと柔らかな細胞膜をいつまでも傷つける。
きっと自分は生まれないほうが幸せであったろう――そう思う人間が、この世界にはどれほどいるのだろうか。
「……すまない。変な話をした」
ふと思考の泥沼から抜け出して、ひゅうと息を吸う。不足していた酸素が脳を循環して、ぐちゃぐちゃになっていた思考回路がクリアになっていく。
「オスニエルさん」
エマが呼びかける。それに応じて顔を上げると、テーブルを挟んで向かい側に座っていた彼女と目が合った。無表情――とまではいかないが、彼女にしては限りなく感情の薄い面立ち。
まあ、こんな話を突然されては困り果ててその顔にもなるだろうと、オスニエルは人知れず自省した。
「……なんだ?」
「オスニエルさん。私はあなたを愛しています」
「ああ……は? なんだ、急に? どうした」
思わずといった様子でオスニエルが立ち上がる。あまりに勢いよく腰を上げたので椅子が倒れてしまった。冷静沈着を一貫しているオスニエルでも、今の言葉は許容範囲外だ。
しかし、表情を驚愕に染めたオスニエルとは対照的に、椅子に腰掛けたままのエマはあくまでも落ち着いていた。
「まだ記憶は戻らないけど、私もあなたと同じことを考えていたのであろうことは何となくわかります。“この世に生まれることが生まれないことより幸せだ”――そう言い切れないあなたのもどかしい気持ちに、どこか既視感があるんです。たぶん私も、あなたと同じことを考えていた」
よどみなく述べられていく言葉たち。しかし、オスニエルの動揺が収まってくれる気配はない。
「い、いや、だからといって何故あの言葉に繋がる」
「どうしてでしょう。なんだか無性に言いたくなりました」
「意味が分からん……」
にこりと笑うエマに、オスニエルは戦々恐々とせざるを得ない。
いや確かに、今までの自分たちは――特にここ最近の自分たちは、何も知らない他人が見れば恋人や夫婦のように受け取られてもおかしくはない言動を繰り返していた。
だが、それでも、わざわざこんなタイミングで。カミングアウトの瞬間くらい、もう少し吟味しても良かったのではないか。
と、オスニエルがそれ以上言葉を発せないでいると、エマはじっと下から彼を見上げた。
「……なんだその目は」
「お返事を待っている目です」
エマが可愛らしく微笑む。この女、もはやわざとやっているだろう。自身の魅力を理解し始めているのではないのか。
だが、オスニエルはあくまでいつも通りのオスニエルを演じる。ごほんと咳払いをして、ゆっくりと座り直した。……椅子が倒れていたのを失念していたがさりげなく直したので、空中に座ろうとしたのはバレていないはずだ。
「返事はしない。というか俺はお前のことを何とも思っていない」
「そんなっ!?」
エマが、がばりと身を乗り出す。先ほどまでの余裕はどこかへと消え去っていた。
長い黒髪を乱しながら頬まで染めているのがおかしくて、オスニエルは思わず吹き出してしまう。
「ふん。……ふっ」
「オスニエルさんが笑った!?」
「うるさい。笑っていない」
「笑いました! 下卑た笑みを口元に浮かべました」
「言い方を考えろ。撃つぞ」
下卑た笑みとはなんだ。失礼にも程があるだろう。
オスニエルがにらみを利かしてエマを見返すが、当の本人は楽しげに笑い続けていた。
「ふふふ、初めて見ました。うれしいな…………あれ」
その瞬間だ。
「――エマ?」
オスニエルが名前を呼ぶ。しかしそれは親愛の証ではなくて、目の前の彼女が予想外の行動を起こしたからだった。
「おい、どうした。エマ――――――エマ!」
オスニエルが再び立ち上がって彼女の元まで駆け寄る。しかし求めた答えは返ってこない。
エマは不意に意識を失って――――床に倒れ込んでいた。




