第5話 「戸惑面喰」
震えている自分の膝を鞭で打つように叩き、無理矢理脳内で逃げ道を展開させる。
潜入して書庫を探す際、兵たちの一番手の届かないところを頭に入れておこうと城内の部屋の配置などを覚えた――のはいいものの、パニックでそんなものは全く機能しない。ただ兵のいない方へ逃げるのみである。
後ろから軍服姿の大量の兵士がこちらを追ってくる様は、まるで黄土色の波。
前からも横からも後ろからも、更に階下からも現れる、まるで無限のような兵の群れから逃れようとだだっ広い廊下を駆け抜ける。
現在ヴァルターはアンナを背負った状態で走っており、彼女が華奢で軽いとは言えまず常人よりも速度は遅くなってしまうはずなのだが、兵士らは軍服を纏っているのに加えてヴァルターの火事場の馬鹿力とでも言えるスピードがそのハンデをゼロにしていた。
耳を劈くような兵たちの叫び声の中、ヴァルターが向かうのは上。
というより上しか助かる道が残っていない。足腰が悲鳴を上げるのを無視し、必死で階段を登り続ける。
無事屋上へ上がれたとしてもそこからどうするのか、という思いが脳裏をよぎるも今はそれすら気にかける暇がない。
後で悩めばいいと、ヴァルターらしくない楽観主義的な考え方であった。
無駄に長い螺旋階段を何段も登っていると、やがてその終わりが見えてくる。
「ラス、トぉっ……!」
最後の一段に足をかけ全てを登りきる――ところで、途端下半身の感覚が消え去った。疲れだろう、自分が今階段につけていたはずの足がまるで宙に浮いたように感じる。
今どこを踏んでいるのか全くわからない恐怖がヴァルターを襲うが、それはバランスを崩して床へ前のめりに倒れ込んだことで、やっと自分が屋上にいることを理解する。
最後の一段を踏み外し、滑稽なことにそのまま前へ転んだらしい。
「だっ……アンナ、おいアンナ大丈夫か」
ヴァルターが前へ転んだことで、後ろに乗っていたアンナは勢いに乗って投げ飛ばされていた。
頭をぶつけたようで痛がっていたが、呼びかけると弱々しくではあるもののちゃんと返事はある。
アンナに肩を貸して立つのをゆっくり手伝っていると、階下からぞろぞろと追いついてきた数多の兵士が上がってきた。
「これで観念しろ。もう逃げられまい」
さすがは厳しい訓練を積んだアストリア兵である。ヴァルターと違って少しも息が乱れていない。
兵士たちはヴァルターとアンナの前に階段を塞ぐように横一列に並ぶ。
これで二人の前方には兵士の壁、横と後方は弓兵や銃兵などが下の敵を撃つための石壁に。
石壁の間にある穴からはアストリアの全貌を望むことができ、それだけ今立っているこの場所が物凄く高いことが見て取れると同時に、飛び降りて無事でいられるような高さではないこともよくわかる。
まさに絶体絶命であった。
「くそ。どうすりゃいい」
「ヴァルター」
最悪の状況に悪態をつくヴァルター。その彼の隣に立っていたアンナは何かを思いついたように彼の名を呼ぶと、ヴァルターの肩の介助から外れて一歩前へ出る。
ヴァルターは突然のアンナの行動に困惑した顔をするが、それを気にする素振りも見せずに彼女は更に前へ進んでいくと、やがて兵士たちとヴァルターの中間あたりでその歩みを止めた。
「私とあなた、二人で逃げ切る。いいわね」
「アンナ!」
ヴァルターの呼びかけには答えずに、アンナがルガルを発動する。
イスニラムの賊たちに放った火球が兵士の壁に激突。
が、やはり訓練された兵士である。
アンナがルガルを使用したことを確認するやいなや、彼らは二つのグループに分かれ両翼に散らばって火球を手際よく躱すと、隙が生まれたアンナへ槍を構えて一気に突撃。
怒声とともに大量の槍がアンナを襲う。
「――【火天】」
しかしアンナも負けず、さらにルガルを展開する。今度は先までの球の形ではなく二つの鞭のような形である。
まるで楽団の指揮者のようなアンナの腕の動きに合わせて、二本の火柱は踊るようにそれぞれの集団へ向かっていき、兵たちを撹乱。
彼らもこれには動揺を余儀なくされたようで、ざわめきが広がり、一部の兵士は逃げ惑っている。
自身のルガルを自在に操ることが出来る者はそこまで多くない。剣の扱いには剣技の修練が欠かせないように、ルガルを究めるにはそれ相応の努力が必要なのだ。
つまりアンナは、それだけの努力をしていた。
彼女はもう覚悟を決めている。書庫で話したときから、逃げるのなら絶対に二人で、と。
それなのに、自分は未だ動かず立ち尽くしているというのはあまりにも情けなさすぎるだろう。
「男だろ、ヴァルター!」
自分自身に発破をかけて、走り出す。
逃げ惑う兵士の群れの中心から、軍服など不要なのではないかというほど筋骨隆々な体格をした中年の男がこちらに向かってくる。
おそらくその風格からしてこの部隊を率いている隊長かなにかだろう。
「オオオオオッ!」
ヴァルターたちを怒りのこもった強い目で睨みつけ、叫びながら突進。
リーダーである彼からしてみれば、どこの馬の骨とも知れない若造二人に侵入を許した上、自分の隊を掻き回されたのだ。怒るのも当然といえばそうである。
「アンナ! 炎であいつの視界を塞いでくれ!」
ヴァルターも、前方へ走りながらアンナへ叫ぶ。
何か考えがあることを察知したアンナは、指示に従って素早くヴァルターと向かってくる隊長の間に【火天】で炎の壁を作った。
これでヴァルターからも隊長からもお互いの姿は見えない。だが、それでいい。
「こっちから仕掛けてんだ。どこにいるかはちゃんと確認してる」
そう言ってコートの中、腰に提げた袋に手を突っ込む。もう隊長は炎の障壁を挟んですぐそばまで来ているはずだ。
「――ふんッ!」
ヴァルターが袋の中から取り出したものを投げつける。
それは炎の中を通り抜け――奥にいる隊長の眼球に直撃。アンナが炎を消す。
「な――っ!?」
隊長からしてみれば、炎の壁から突然硬いなにかが飛び出してきて、目に当たったようなものだ。
「なんだ、これは」
首を右に傾かせ、無事の左目で投げつけられたものを視認――昇り始めた朝日に照らされるそれは、金に輝く硬貨。
「――金貨!?」
動揺している間にヴァルターは隊長から見て左側――金貨がはねていない、つまり隊長の視界にない方へ躍り出る。
「うおおおおっ!」
能力も経験も数段上である敵から逃げるにはどうしたらいいのか。
答えは単純、不意打ちしかない。
アンナが作った炎の壁で相手の視界を妨げ、そこに人がひるむには十分な硬度である金貨を投げてぶつける。
一瞬で構わない。その一瞬で敵の急所を斬るなどして致命傷を与える。
部隊の指揮官を討てば、あとはアンナのルガルで逃げられる。
ヴァルターにしてはかなり現実味のある算段。そしてそれも上手くいき、喉から手が出るほど欲しかった一瞬を獲得した。
……獲得したはずだった。
「――舐めるなガキが!」
「な」
隊長はすぐに体勢を立て直し、左から斬りかかったヴァルターの剣をあっけなく槍で吹き飛ばした。宙を舞い、軽やかな音を立てて地面に落下する安価の剣。
「うそ、だろ」
掴み取ったその一瞬でさえ、隊長は対応したのだ。
直後、剣を失ったヴァルターを襲うのは、無慈悲な槍の打撃。
「あ、がぁ……!」
隊長の鍛え抜かれた腕から放たれた攻撃がヴァルターの腹へ叩きつけられる。骨でも折れたのではないかと疑うほどの痛み。たった一発で意識が飛びそうになる。
「ヴァルター!」
アンナの悲鳴もむなしく、なされるままにヴァルターは石壁まで吹っ飛ぶ。賊に殴られたときでさえここまでの苦痛は感じなかった。これが、アンナと同じように正しい努力をし、正しい行動を取る者の力。
だが、正しい行動を取っているかどうかについてはこちらも食い下がらねばならない。
「ハザは……」
上手く呼吸が出来ない。おそらく腹だけでなく肺にも損傷が入っている。
「ハザは、敵だ……」
戦うと決めたばかりだ。奴を倒して、国を救うと、目の前で宣言したばかりだ。こんなところで苦しんでこの先何を成し遂げられる。
――言え。息を吸え。息を吸ったら言え。
自らが今、奴らに抗う意義を、その声で示せ。
「ハザは、敵だ! この世界を滅ぼそうとしている、アストリアの敵だッ!」
――と。
叫んだ瞬間、ヴァルターの視界が白く染まった。
その後すぐに視覚が正常に戻って、ふと気づく。
「なんだ、これ」
ヴァルターが寄り掛かって座り込んでいるところから、一直線に黒い焦げ目がついていた。その先、焦げ目の終着点である石壁の周辺は煙で覆われていてよく見えない。
少しすると煙は空に消え去り、しばらくの間、場を支配した静寂は一人の兵士の驚きの声によって終わりが告げられる。
その壁は何かがかなりの勢いでぶつかってきたように粉々に砕けており、その下には軍服に身を包んだ体格のいい男が倒れていた。
――隊長だ。
ぐったりと倒れた隊長の姿がはっきり見えてくるにつれて、兵士らのざわめきが大きくなる。
何故ヴァルターの奇襲を切り抜け反撃を見舞った隊長が、正反対の離れた壁の下で倒れているのか。それこそ今のヴァルターと同じように。
兵士たちは揃いも揃って顎が外れたように口をあんぐりと開けて、その視線を未だ動かない隊長からヴァルターへと移した。
何故彼らは自分を見るのか。いや、脳内では何が起こったのか理解はしていた。ただ納得が出来ないだけだ。
「ヴァルター」
アンナが駆けよって来る。
「これ――俺がやったのか」
恐る恐る尋ねると、アンナもこわごわといった感じで頷く。
どうやら自分が叫んだ瞬間、エネルギー波のようなものが放出して、真正面にいた隊長を急襲したらしい。……意味がわからないが。
「何なのかはわからないけど、チャンスよ。あいつが気絶してるうちに逃げましょう」
アンナの言う通りそれが得策だろう。神様が奇跡でも授けてくれたのだろうか。特定の宗教を信仰しているわけでもないが、感謝しなければ。
――と、兵士たちが呆然としているうちに立ち上がろうとしたとき。
「あれ」
足がよろめいた。うまく立てない。
「ヴァルター?」
眩暈がする。壁に手をつけて体を支えようとするが、それでも立っていられないほど両足に力が入らない。まるで足が足であることを忘れてしまったみたいに。
「ヴァルター、ちょっとどうしたの」
「わから、ない。立てな――か」
喉の奥からおかしな音が鳴った。どうして音が鳴ったのか、それだけはすぐに理解した。
――呼吸が出来ない。
「あ、が……あ」
苦しい。苦しい苦しい。
まるで何かに取り憑かれたかのように体が重く、傍の小石を転がすほどの力も入らない。
急激に体が冷えていき、首をもたげなくとも自分の肌が青白くなっているのがわかる。
酸素を求めて鼻から空気を吸い上げる――そのいつもと変わらないことが出来ない。
理屈はわかっているのに、実際にやろうとしても上手く吸うことが出来ない。普段意識していないからだろうか。
いいや違う。これはそんなレベルの話では到底ないのである。
まるで、文字だとはわかるが、羅列されたそれらが何を表しているのかまでは脳が受け取れない――先ほどあの謎の言語で記された書を見たときと同じ感覚であって、これは吸っているのか吐いているのか、どこか彼方へと飛んでいったようにその答えが生まれてこない。
これはまずい。このままでは窒息する。それどころかもう息が止まっていてもおかしくはないのに、なぜ自分はまだ呼吸をして――その呼吸の定義すら曖昧になっている自分を再認識して、つい可笑しくなった。
わからない――寒い。苦しい。それを紛らわそうと体を動かすことすら出来ない。この辛苦はなんなのか。
「――――がああああッ!?」
唐突だった。ただしそれは救いでも何でもなく、更なる受難。更なる艱苦。疲労感に脱力感に寒さに苦しさに、その上に加わった、心臓の痛みである。
「いでェ、いでぇいだい」
心臓の内側から、何か魑魅魍魎が飛び出そうと宴を開いているような、騒がしく持ち主の迷惑を顧みない痛み。
心の奥底からその場に転げ回って暴れたいと思った。この痛みの中動けないなど、生き地獄なんてものではない。
――だがその心臓も、今や水火の苦しみの支配下に落ちぶれていたことをまたもや再確認し、今度ばかりは笑っていられないヴァルターを絶望が襲う。
「ヴァルター! ねえ、ちょっと! ヴァルター!」
「――二人を捕らえろ」
低い男の声がした。隊長だ。目を覚ましたのか。
「ヴァルター!」
アンナの悲鳴が聞こえる。申し訳ないことをした。二人で逃げるなんて約束をしなければ、今頃アンナは兵士の包囲網を掻い潜れていただろう。
腕を掴まれるのがわかった。不快だ。でも動けない。意識が遠のいていく。
「離しなさい! この――」
その瞬間、プツリと、声が聞こえなくなった。




