第177話 「招かれざる客」
ブレストラ港。国内でもっとも規模が大きい海港だ。停泊する船の数も他の場所と比べて段違いらしい。他国からの船がブレストラを訪れる場合、特別な目的がない限り、大抵はこの港を利用する。何を隠そう、ヴァルターがアントゥークからの貿易船に忍び込んで入国したのも、この港だった。
クーデター軍内部で反乱が起き鎮圧が成功してから、数日が経過した。ハルルアートは依然として捕えた反乱兵たちに拷問を続けているが、彼らはなかなか口を割らないらしい。日に日に顔から生気を失っていく彼女の様子が、ヴァルターは心配でならなかった。
とはいえ、他人のことを心配していられる立場でもないのが辛いところである。ヴァルターは彼女の屋敷に滞在するようになってから、ほぼ毎日この港へやって来ていた。それは何故かといえば、あとから合流する予定の仲間たちを待っているからだ。
アインハルト軍を半分に分け、片方はアントゥークの王城でユージン王を軟禁する。そして彼を無力化させられている間に、ヴァルターともう片方はブレストラで宝玉を回収、即刻帰還する。そういう作戦だった。
すでにヴァルターは斜塔へ行って宝玉を発見できていたため、本来であれば、これ以上ブレストラに居続ける必要はなかった。ただ、仲間たちがこちらへ来る予定があったから、それを待ってともに帰ろうと思っていたのだ。
もう為すべきことは為した。あとはアントゥークへ戻るだけだ。ハルルアートからも自分たちの革命を優先するように言われている。だからヴァルターは、こうして毎日のように港を訪れては、仲間たちが到着していないかを確認していた。如何せんブレストラとアントゥークの間には船で数日の距離があるので、綿密な情報交換というのは難しい。だから変にすれ違ってしまうことを避けたいという気持ちもあった。
「今日も来ていないか……」
だが、今日も収穫はゼロらしい。港に停泊している船を見ても、それらしき者たちは現れていない。そもそも初めから単独でブレストラへ乗り込んでしまったヴァルターは、アントゥークでの作戦が上手くいっているのかもわからなかった。イグナーツがいれば大丈夫だとは思うものの、無事にユージン王を出し抜けているといいのだが。
「仕方ない。今日は戻って、クーデター軍の手伝いでもするか」
ヴァルターは残念そうに肩を落とすと、踵を返して自身が乗ってきた馬のもとまで歩いた。アストリアの革命を優先してくれて構わないとハルルアートは言ったものの、彼女たちのクーデターを援助するという名目で同盟を組んでしまったことは事実だ。それもあって、することがない時間は積極的にクーデター軍の作業を手伝っていた。とはいえ王宮を攻め入るわけにもいかないので、雑務だったり、軍の鍛錬の手伝いだったり、あえて羅列する必要性を感じないような細かいことをしている。
「作戦通りなら、もうそろそろ到着するはずなんだが……」
ヴァルターは馬の手綱を握りながら、後ろ髪を引かれるように海港のほうを見直す。彼が足をつけている場所は高い丘のうえにあったので、一段下にある港を見渡すことが出来た。
だが、やはり来ていない。港に停泊している船はいつもと変わらず、他国からの商船や貿易船がほとんどを占めていた。
気長に待つしかない――ヴァルターはそう思って、馬に跨ろうとする。と、そのときだった。
「……?」
鐙に足裏をつけて乗ろうとした瞬間、ヴァルターの視界の端に見慣れないものが映った。船だ。それも、他のものと比べて一回り大きな。
「あれは――」
ヴァルターは乗馬を中断して、その見知らぬ船が泊まっているほうへ近づく。近づくといっても丘の上からなので、つぶさに観察できるわけではない。
その船は開港の一番はしに位置していた。先ほどまで気が付かなかったのはそのせいだろう。ヴァルターがいた場所から最も遠い位置にあったせいで、馬のもとまで戻らなければ見えなかったのだ。
「まさか」
ヴァルターのなかに淡い期待が生まれる。あれが仲間たちなのではないかという期待だ。彼らがどのような船に乗ってくるのかは聞かされていない。最も可能性が高いのは、アストリアからアントゥークへ向かったときに乗っていた船だろう。自分たちの船を使えば余計な手間がかからない。
だが、それとは少し異なっているようだった。ヴァルターは詳細不明の船にもっと近づいて、中に誰が乗っているのかを見ようと考えた。
そして、そこへさらに近づいた瞬間、
「――」
ヴァルターは気が付いた。思い当たる節があったのだ。これまでに船をじっと観察する機会はあまりなかったので、思い出すまでに時間がかかった。
ヴァルターはあの船を知っている。見たことがある。そして確実なのは、あの船は彼が求めていたものではない、ということだった。
「……まさか」
先ほどと同じ言葉。だが、そこに込められた思いの質が違う。それは期待ではなかった。いわば、嫌な予感――額から冷や汗が出て、心臓から遠い手足の指先が急激に冷たくなっていく感覚だった。
あれは、あの船は、ヴァルターが知っているものだ。それも、あまり停泊していてほしくない類の。
「!」
瞬間、ヴァルターの目が見開かれる。船の中から誰かが出てきたのだ。知らない男である。だが、その知らない男は、よく知っている服を身に纏っていた。それは、軍服だった。
船内から現れたのは兵士だった。槍を片手に持った兵士。つまり、あれは軍船だ。アインハルト軍の仲間たちが乗っている船などではない。
そして、兵士の軍服に付けられた紋章を目にしたことで、ヴァルターの悪い予想は的中していたと思い知った。体が悪寒に包まれる気がする。ヴァルターはあの紋章を知っている。見たことがある。あれは――、
「アントゥーク――」
今や自分が敵対することになった国。現在の世界の覇権国家。ユージン王の率いるアントゥークが、ついにブレストラへ到着したのだ。
ハルルアートは言っていた。ブレストラは他国軍にあまり寛容でないところがある。だから上陸許可の関係でまだ時間はかかるはずだ、と。しかし彼らは今にも上陸しようとしていた。きっと国王から許可が下りたのだろう。タイムリミットは、ヴァルターの知らない間にすぐそこまで迫っていたということだ。
そして、アントゥークが来たということは、もう一つ彼にとって嫌な存在がブレストラの土を踏んでいることを指す。いや、厳密に言えばそれは二つだろう。
彼らが、もうそこまで来ている――。
「ッ!」
刹那、ヴァルターの右側から、空気を切るような音が聞こえた。彼は瞬時に判断して左へ飛び退く。受け身を取った緊急回避だ。
何度も戦いを経験してきたヴァルターにはすぐわかる。今の音は、剣で虚空を切った音だった。つまりすぐ横に敵が来ている。咄嗟に立ち上がったヴァルターは慣れた手つきで腰から剣を引き抜いた。
それが誰によるものかわかっていたように、顔を歪めて。
「ハーデスト……!」
ヴァルターが距離を取った向こう側には、ハーデストが立っていた。細身の長身にベージュ色の短髪。両手には剣が握られている。気性の穏やかな大型犬のようだった雰囲気は、きっと固く結ばれた口元のせいで霧散していた。
アントゥーク軍が到着した。それはつまり、アントゥーク近衛師団の団長である彼も来ているということを意味していた。ブレストラでの滞在中にヴァルターがアントゥークと争うことになった場合、おそらく最大の障壁となるであろう、ハーデストも。
「あなたはアントゥークで車椅子に乗っていたはずですが。……ヴァルターさん」
ハーデストが名を呼ぶ。今や敵となった男でも、真面目な彼は敬称を付けるらしい。とはいっても、彼の声音は敵に向けられるべき類のものとはとても思えなかったが。表情こそ厳しいものを作ってはいるが、その優しげな声から察するに、まだヴァルターと剣を交える覚悟が決まっていないのだろう。
ハーデスト・レッドフィールド――つくづく甘い男である。ヴァルターはそう、彼らしくもなく僅かな苛立ちを覚えた。
「本当の、あなたにお会いするのは久しぶりですね」
「そうだな。俺も本当に、お前と会うのは久しぶりだ」
重苦しい雰囲気のまま、皮肉を含んだ応酬が交わされる。どんな方法でアントゥークを抜け出したのかは知る由もないだろうが、何らかの秘策じみた手段に打って出たことは察しが付くらしい。
ヴァルターが単身でブレストラへ乗り込んでからは、三つ目の宝玉のルガルである【虚像】で作り出した彼の分身をアントゥークに置かせていた。だから、ハーデストと実際に会うのは本当に久しぶりだった。意志を失って廃人と化していたころを真のヴァルターと言えるのかどうかは怪しい。あのときを除けば、ハーデストと直接会うのは正史の伝播が完了したとき以来だろう。
「ヴァルターさん――あなたはもう、本気で手を引くつもりはないんですか」
「――」
ハーデストの厳しげな表情が崩れている。どうやら彼はヴァルターと戦いたくないらしかった。いまさら何を馬鹿なことを言っているのかと、ヴァルターは鼻で笑い飛ばしたくなったものの、それを押し隠して冷静に返答してみせる。
「ああ、そんなつもりは毛頭ない。ハザを倒すのは俺だ」
「……ッ。ですが――」
「お前も心の奥底ではわかってるんだろ、ハーデスト。じゃなきゃ、俺に不意打ちで攻撃したりなんてことはしないはずだ」
「くっ……!」
ハーデストの顔が苦痛を感じたように歪められる。だが彼は両手に持った剣を握る力を強めると、しっかりとヴァルターの目を捉えて言った。
「……ユージン王は確かに極端かもしれません。ですが、ユージン王に任せていさえすれば、きっとハザを倒すことが出来ます。あなたは、どうして――どうして、そこまでするんです」
ハーデストの苦悩に満ちた問いかけ。
それを聞いて、ヴァルターは少し前のことを思い出していた。
「それは、俺が――」
*
ヴァルター・アインハルト。
正史の伝播が完了したあと、自身がオイゲンの末裔であったことを知り、ともに死線をくぐり抜けてきたはずの仲間たちに見捨てられた、哀れな男の名である。
彼は同じくアレンの三つ子の一人だったエウゲーニーの血を引くエウロに負けたことで、たとえ独りでも戦い続ける彼の輝きに圧倒され、まるですべて吸い取られてしまったかのように意志を失った。
何故あの瞬間に意志をなくしたのかは、自分でも確かな理由が見つけられていなかった。ただ一つ確実なのは、ヴァルターにとって多くの悪い出来事が重ねて起こったことで、彼の精神が再起不能となるまで叩きのめされたから、ということだろう。
自分はオイゲンの子孫で、ハザを倒すうえでの足かせとなると告げられた。そこでヴァルターのプライドが折れた。パクス=グレイツの宝玉は誰にでも使える一度きりのもので、君は必要ないと言われた。そこでヴァルターの自尊心が失われた。
手を差し伸べてくれるはずだと思ったアインハルト軍の仲間たちから、見捨てられた。ただ、それは仕方なかったといえる。あの場でユージン王に抵抗すれば、瞬きのあとに殺されていてもおかしくはなかった。だが、あの状況では、すでにヴァルターは冷静な判断力を失っていた。仲間に裏切られたのだと本気で思った。
そしてエウロに負けた。ハザを倒そうと奔走していたエウゲーニー家に生まれたのに、ハザを守る騎士を何が何でも通そうとする彼に。やろうとしていることはヴァルターと同じだった。人類を敗北に導いたオイゲン家に生まれたのに、率先してハザを倒そうとした彼と。
だが、同じ言葉、同じ主張だというのに、エウロの放つ輝きは段違いだった。正義を守り、意志を貫く人間は、こんなにも美しく見えるのか。自分はこれまで、ただこの手を汚してきただけだというのに。
――何が、正義だ。
ヴァルターは思った。自分がこれまでにやってきたことが、くだらないとさえ感じた。
そうして彼は堕ちていった。心を病み、意志を破壊され、人間性を失った。
正義を完遂することが、嫌になった。
「ヴァルター。……ヴァルター」
目を覚ますと、そこはベッドの上だった。木造の天井。だが、ヴァルターは動かなかった。
視界の左端には赤い髪をした美しい女性がいた。アンナだろう。だが、ヴァルターはほとんど目線を動かすこともしなかったから、彼女がアンナであるという確証はなかった。
「ほら、起きて。朝よ」
アンナはヴァルターを起こすと、彼の後頭部と背中に手を当てた。そして「よいしょ」という掛け声とともに、ヴァルターの上体を起こさせる。
「ちゃんと眠れた? 体は大丈夫? どこかおかしなところはない?」
質問攻めにしてくるアンナ。彼女の表情は優しげで、ヴァルターのことを本気で心配してくれていることが伝わってきた。だが、ヴァルターは答えない。答えようとする意志がなかったから。
返事がないことにアンナは寂しそうな顔をしたが、それも一瞬のことだった。彼女はすぐに気を取り直すと、ベッドの上で上体を起こしたまま項垂れているヴァルターへ、さらに声を掛けた。
「ヴァルター、朝ご飯を食べましょう。今日も、たくさん作ったから」
アンナが介助しながら、ヴァルターの体をベッドから降ろす。近くに持ってきていた車椅子のうえに彼を座らせると、アンナはそのままグリップを握って、中くらいの大きさのテーブルへと近づけた。
「ジナリオルの家って、結構設備が整っていたのね。調理器具なんかも、私たちが住んでいたファンティーレの家よりずっと揃ってるのよ」
「……」
アンナの言葉に、ヴァルターは答えない。彼女の声は虚空に飲み込まれて、どこかへと消えていく。
アンナは、また少し寂しそうな顔をして笑った。車椅子に座ったヴァルターの向かい側に移動して、席につく。
「さ、食べましょ。いただきます」
アンナが言うと、ヴァルターはおもむろにフォークを取って、ゆっくりと食べ始めた。
食事は自分一人で出来た。他に、排泄や就寝、日々の入浴なども出来た。だがそれは、まるで生物が生きていくうえで必要不可欠なことしかやろうとしないかのようで、人間の生活からはかけ離れたものだった。
つまり彼のなかに残っていたのは、動物としての本能だけだった。人間としての意志はすべて失われていたのだ。
一人で食べるヴァルターは、ものを口に運ぶペースが異様に遅かった。だから大抵アンナが先に食べ終わって、無言で彼が食べ続けるのを見つめていた。その慈愛に満ちた目は、まるで愛する子を見守る母親のようだった。
しばらくしてヴァルターも食べ終わると、アンナは彼の分の皿も取って、言った。
「ごちそうさま。美味しかった?」
「……」
「文句がないなら、美味しかったってことよね」
アンナはまた寂しそうに笑って、台所の流しへ移動した。彼女が皿洗いをする後ろ姿を、ヴァルターは車椅子に乗ったまま、じっと焦点の定まらない目で見つめていた。
ヴァルターがジナリオルの家に住むようになってから数日が経過しても、彼は良くならなかった。だが、アンナはいつか良くなると思っていたようだった。いつか、元の彼に戻ってくれると信じて、ただ懸命に介抱し続けた。
「ほら、見て。空が綺麗」
アンナはそう言って、度々ヴァルターを外へ連れ出した。車椅子を押しては彼に景色を見せるのだ。青空や夕焼け、無限に広がるような草原を。ただ、どんな危険があるかもわからなかったから、街中へ出ることは出来ないようだった。
少しでも、彼の心を落ち着かせたい。そう思ったのだろう。アンナは何度も、彼に美しい世界を見せた。だがヴァルターは、いくら彼女が外へ連れ出しても、車椅子のうえで項垂れたままだった。
「上を見て、ヴァルター。すごく綺麗。あなたのいる世界は、こんなにも美しいの」
アンナは言った。干した洗濯物が、吹き付けるうららかな風に揺れている。
よく晴れた空を見上げているのは、彼女だけだった。
「……ヴァルター」
アンナの両手は、車椅子のグリップに添えられていた。その前ではヴァルターが、じっと地平線を見つめていた。
「駄目、よね。こんな、ありきたりな言葉じゃ」
アンナはそう言った。意志を失ったヴァルターを何日も介抱し続けて、彼女が背負うものも日に日に大きくなってきていた。
だからアンナは、あまりにも自然に、まるでそうであることが当たり前だったかのように、恥ずかしがることもなく告げた。
「私、あなたのことが好きなのよ。きっと」
「……」
「恋とか、愛とか、そういうの、よくわからないけど。でも多分これは、あなたが好きなんだと思う。そうじゃなきゃ、こんなこと、できないもの」
アンナはずっと空を見上げていた。だから、前にいるヴァルターの姿は、視界に映らなかった。
「ねえ……ヴァルター」
ぽろりと、口にする。限界まで煮詰めた想いのうえに浮かんだ上澄みを抽出するように、まるで流れに従う草舟のように。複雑に絡み合う長々とした思考が生んだ無思考が、純粋な想いを吐露させる。
「私、ずっと待ってるのよ。あなたが戻ってくるのを、待ってるの」
「……」
「でも、たまに思うの。もしかしたら、あなたはずっとこのままなんじゃないかって」
「……」
「そう思うと、いてもたってもいられないくらい不安になる。私が好きだったあなたは、もう一生帰ってこないんじゃないかって」
その瞬間、アンナは太陽を直視した。目を焼くような痛みが走った。それを皮切りに、アンナの朱色の瞳から、恐ろしいほどに透き通った涙がこぼれた。純粋な想いの結晶だった。
「ねえ、ヴァルター。あなたはどこに行っちゃったの。正義はどうしたの。意志は。ハザを倒して、アストリアを守るんじゃなかったの。大切な人の仇を討つんじゃなかったの」
「……」
「お願い……ヴァルター。目を覚ましてよ」
「……」
「私を、安心させて」
アンナは上を向き続けた。青空と、太陽を見続けた。留まるところを知らない涙は、ヴァルターの頭の上に落ちていった。
伝わらない。届かない。響かない。感情の欠落した機械のようなヴァルターの前では、感情に支配された人間の言葉は何の役にも立たなかった。
だが、その瞬間だけ、何かが違った。
ヴァルターが――車椅子に座って遠くを見つめていたヴァルターが、か細い声で、言葉を返したのだ。
「アンナ――」
「……!」
「俺は――もう、戦うことをやめたんだ」




