第174話 「あなたも、」
ハルルアート率いるクーデター軍は、縛り上げた反乱軍を連れて彼女の屋敷へと戻っていった。急ぎ尋問を行って反乱の主導者が誰であるのかを吐かせるためだ。彼女が言っていたところによる第二段階の特定だろう。
その間、ヴァルターは一人で斜塔へ向かうことにした。そもそも両軍の戦闘が勃発していたのが斜塔のすぐそばだったのだ。もはや案内も何も必要ない。帰るときに乗る予定の馬を地上に設置された柵に留めておき、中へ入ろうとする。
と、その前に、ヴァルターは一度だけ振り返った。
「……」
広大な草原。どこまでも見通せるような美しい緑色が一面に広がっている。風が吹くたびに草たちが同じ方向へ体の向きを変え、ゆらゆらと蠟燭の炎のように揺らめいていた。何か嫌なことがあったときの気分転換には最適な場所だろう。
とはいえ、いつまでも景色に見惚れていても仕方がないので、ヴァルターは頭の位置を元に戻して先へ進むことにした。斜塔を見上げる。真下から見上げると結構な威圧感を放っていた。遠くから見ただけでは実感が湧かなかったが、やっと辿り着いたのだと感傷に浸りたい気分にもなってしまう。
巨大な塔を呆然と見上げたまま思索にふけっていたいのをぐっと我慢して、ヴァルターは目線を外した。斜塔の最下部にある真っ白な長方形型の入口をくぐる。もとは扉でも取り付けられていたのだろうか、ただ穴を開けて作った入口にしては精巧すぎる気がした。
「おお」
内部へ入るやいなや、ヴァルターが思わず感嘆の声を漏らす。中は意外と暗くない。石を削って造ったホールのようになっていて、ガラスのはめ込まれていない窓から光が差し込んでいるのだ。
ヴァルターがまず驚いたのは、床の斜度だった。ここまで傾いている床なんて初めてだ。アストリア西端の砂漠地帯で斜めった地面のうえを歩いた経験はあったものの、あれは下が砂だから特におかしくは感じなかった。だが今のように、しっかりした足裏の感触がありながらも床が斜めっているというのは、得も言われぬ違和感がある。
「何だってこんなに傾いてるんだ……?」
そう問いかけたのはいいが、この斜塔の中にいるのはヴァルターひとりである。観光でもなし、気軽に質問に答えてくれる添乗員などもいるはずがなかった。何故ここまで傾いているのかという疑問も解決されないまま、ヴァルターは単独で内部を探索する。
中は少し埃っぽい。こんなに珍しい体験が出来るのなら有名な観光地になっていそうなものだが、そこまで人気でもないのだろうか。外の草原にも人の気配はしなかったし、掃除もあまり為されていないようだった。ブレストラの首都からはまだ距離があるため、わざわざ人が訪れるには遠すぎるのかもしれない。
「どうやって上へ行くんだ?」
ヴァルターが首を傾けて見上げる。外から見たときとはまた違う威圧感があった。滑らかで殺風景な壁が、ずっと上へ続いているのだ。
まるで吸い込まれてしまいそうな光景だったが、如何せん見上げる角度に厳しいものがある。人間の首には向いていない構造だ。ヴァルターは筋のあたりに軽い痛みを覚えて、見上げることをやめた。
すると、それからほんの少し歩いたあとで、
「階段……か」
上へ登るための階段だろう。どうやって頂上へ行けばいいのかがわからなかったが、あまり時間を要することなく発見できた。
眼前に現れた階段は少し進むと先が見えなくなっている。ぐねぐねと円を描くように曲がっているのだ。これまた石を直接削って造ったような、人工的でありながら自然を感じさせる螺旋階段だった。大理石だろう。古びてはいるものの、その高級感のある外見からはそこはかとない魅力を醸している。
「うわ、滑るな」
段へ足をつけて登ろうとした瞬間、ヴァルターは焦ったように声を出した。大理石の階段が物凄く滑るのだ。片足を上げて下を確認する。よく見ると、階段の石はひどく削られているようだった。おそらく昔は多くの者たちが登っていたのだろう。何度も何度も踏まれたせいで石が削れて、なかば磨かれたようになっているのだ。
「の、登りづらい……」
それに加えて塔自体が傾いているため、階段にも結構な傾斜がある。一人でよかった、とヴァルターは心の中で安堵の息を吐き出した。もっと大人数で来ていたら、危うく足を滑らせて転落することになりかねなかっただろう。
転ばないように留意しながら、壁に手をつけて登っていく。段と段の間にそこまで幅があるわけでもないのに登るペースは遅い。早く宝玉を見つけなければならないという、もどかしい気持ちと戦いながら先へ進んでいく。
「――」
一定の間隔で、壁を粗削りにくりぬいたような窓が現れる。一段、また一段と登っていくたびにヴァルターの体は上昇していることになるので、自然と目に入る外の景色は少しずつ高度を伴ったものになっていった。何か未開の地を探検しているような気分になる。上階へ登っていくたびに見える景色の位置が上がるというのは、何にも代えがたい達成感があった。
「!」
しばらく足を上げ続けていると、やがて頂上と思われる場所へ出た。相変わらず傾いてはいるが、どこを見てもこれより上へ行けそうにはない。ここがゴールだろう。
「やっと着いた――」
登ってきた階段のあたりから移動して、ヴァルターは外の景色が見渡せる通路へ出た。展望台といったところか。まるで塔の先端にでもなったような気分だ。
すると、その瞬間。
「……!」
風だ。ヴァルターの頬へ強烈な風が吹き付けたので、彼は思わず目を閉じた。今までは壁で仕切られたなかにいたから、高所でも強風を感じなかったのだろう。
そしてヴァルターは近くの柱を掴みながら、顔を上げて目を開いた。瞬間、塔の頂上から見渡す景色がどれほど美しいものであったのかを、知る。
「……すげえ」
彼が呟こうと意識することなく口から漏れ出ていた言葉は、再び吹き付けた風に乗って流されていく。どこか遠い空へ。空。突き抜けるような快晴だった。昼下がりの時間帯。太陽が最も美しく咲き誇り、空が生き生きと輝くころだ。
その圧巻の天空の下に、この世界のものとは思えないほどに美しい光景が広がっている。地上にいたときとは比べ物にならないくらいに広い草原。本当に、どこまでも続いているのではないかと錯覚してしまうほどに広い。
「こんな――」
続くはずだったヴァルターの言葉は、どこかへ引っ込んで出てこない。目も言葉も奪われて、ただ圧倒的な景勝の地を堪能することしか出来なかった。
空気が綺麗だった。季節は春から夏に移ろい始めているのだが、ここだけは真冬の透き通った空気が残っている気がする。冷たく、食べてしまえるのではないかと思うくらいに、鼻腔の奥までするりと入っていく。ここまで苦労して登ってきたことも相まって、彼の全身は爽快感に包まれた。
斜めった床から景色を見るというのも非現実的で、どこか別世界に迷い込んでしまったかのような感覚がある。とはいえ転落の危険性は依然として残されていたため、そばにあった柱を掴みなおした。するとそのとき、ヴァルターの視界の端に何かが映り込む。
「……?」
左側の端っこに、見たことのない物体が映っていた。今ヴァルターが眺めている草原の裏側だろう。つまり塔の反対側の地上にあるものだ。何があるのかが気になって、彼はゆっくりと移動した。もとは柵で出来たフェンスなどがあったのかもしれないが、今となってはそれもないのだ。言葉通り一歩間違えれば塔の頂上から滑落する可能性だってあった。
「なんだ、あれ……?」
裏側へ回ったヴァルターの目に映ったのは、変わった形状の建物だった。縦に長く、中心あたりにドームのような物体が乗っている。その厳かな雰囲気からして、聖堂か何かだろうか。
とはいえそれは、建物と呼べるのかどうかさえ怪しかった。何故なら、それらはすべて崩れ落ちたように半壊していて、とても人が入れるような場所とは思えなかったからだ。第三者が故意に壊したふうには見えない。となると、経年劣化だろうか。
用途不明の半壊した建造物。そんなものを発見してしまうと、ヴァルターのなかに生き残っていた少年の心が湧き立ってしまう。過去の人々は何故あれを造ったのか。そして、その隣に並ぶように立つこの斜塔は何なのか。
「一体、何のために……」
きっと、この斜塔が建てられたのは遥か昔なのだろう。ヴァルターたちの時代に建築されたのなら、目的も用途も忘れ去られていることに説明が付かないからだ。だからこれは、太古といってもいいくらいの過去に完成された。そもそもオイゲンが記した『パクス=グレイツの宝玉』に登場しているのだから、きっと世界の正史で見た時代から、この斜塔はここに立っていたのだ。
「俺たちは……忘れているんだな。お前たちのことを」
ヴァルターはそう言って、斜塔の白い柱を撫でた。正史の伝播は、アレンやハザの時代にあったすべての情報を伝えられるわけではない。伝えるのは基本的にあの二人に関連することだけだった。それ以外は――人類が築き上げてきた文化や、人類が編み出してきた叡智は、その一切を闇に葬られたまま、忘れ去られた。
「……ッ」
刹那、ヴァルターは言葉に形容しがたい何かを覚えた。苦い。苦い感情だ。だがそれは、どこか暖かいように、切ない。この目的も分からない斜塔にいるときだけ、この建築様式も分からない柱に触れている瞬間だけ、その忘れ去られた時代の人々と繋がっている気がしたからだった。
全て、繋がっている。歴史は脈々と綴られていき、人類史は永遠に続いていく。苦難を乗り越え、不可能を可能にし、滅亡の危機から何度も立ち上がった。英雄がいたはずだ。天才がいたはずだ。名も知らぬ、人々がいたはずだ。ヴァルターの知らない、人類の歴史や記憶から消えた、人類がいたはずだ。
「くっ……」
歯冠を噛んだ。口の端から血が垂れそうになるほど、強く。ヴァルターの視界がぼやけた。自分が涙を目に浮かべていることは、すぐに感じ取れた。
何故泣いているのか、よくわからない。だがヴァルターは、この涙こそが自身をまた強くしてくれると、自身の正義をさらに強固なものに仕立て上げてくれると、どこかで確信していた。
「わかってる。わかってるよ」
ヴァルターの瞳から涙が零れる。それは頬を伝って彼の体を離れたあと、斜塔の傾いた床へ落ちた。白い大理石が、涙で濡れて灰色に染まる。
遥か昔の人類と繋がれた気がした。それはロマンだった。人が人たる、すべての源。好奇心だ。他の動物とは大きく違う、知らないものへの好奇心。未知数な何かに人は惹かれる。アレンの伝説。宝玉の伝説。ハザの伝説。すべて知った。だが、まだ知らないことは多くあった。しかし、ヴァルターがそれを知ることは出来ないのだろう。ハザがすべて消し飛ばしてしまったのだから。
人類が繋いできたものを、あの男はすべて無に帰したのだ。
「ああ、ちくしょう……ちくしょう。何で、何でだ、ハザ。あの人たちの遺したものは、今もここにあるのに。記憶だけが……歴史だけが、ここにない」
ヴァルターはそう言うと、泣きながら崩れ落ちた。彼の手は、まだ柱を掴んでいた。
悔しかった。切なかった。そしてそれを感じるたび、人類は素晴らしかったのだと肌で理解してしまうことが、悲しかった。
「クソ……クソ」
自分がこの斜塔を建てることは出来ない。地上にある聖堂らしき建造物を建てることだって出来ない。これらに意義を見い出してやることも出来ない。過去の人類はそれが出来た。彼らに意味を与えてやることが出来たのだ。だが、今の自分たちにはそれがない。彼らをただの壊れかけた物体だと認識してやることしか、出来なかった。
何のために造られた。何のためにそこにいる。何のために生まれた。そう問いかけて返事をしてくれたのなら、どれだけ有難かっただろうか。しかし、彼らは返事をしない。黙ったまま、自分たちが滅びていくのをじっと待っている。新たな世界を、人類を観測しながら、ただそこに在る。
「……絶対に、守るんだ」
ヴァルターの柱を握る力が強まる。再び、強く決意した。あの時代に失われたものは戻ってこない。記憶も、知識も、生命も。そして、歴史も。
だから、せめて今の時代にあるものだけは、何が何でも守り通す。ハザ・エシルガなどという悪魔に奪わせたりはしない。
「……ああ、わかってる」
ヴァルターは一人、塔の頂上で呟いた。
それはまるで、遠い過去の誰かの言葉に、今さら返答を送っているかのようだった。
「俺だって、歴史だ」
それからヴァルターは立ち上がって、もう一度外の景色を見つめた。古びた建造物。そこから名残惜しい気持ちを断つように目線を外して、彼は展望台の屋根がある部分へ戻った。
ヴァルターがここへ来たのは、最後の宝玉を回収するためだ。ひとつは、斜塔の鐘の中に。オイゲンの記述を信じて、ついにここまで辿り着いた。どれだけ後ろ髪を引かれようとも、もうしばらく過去の人類と繋がっていたいと思っても、ヴァルターは先へ進まなければならないのだ。
「鐘の、中……」
展望台の中心へ戻って、ヴァルターは振り返る。円を描きながら等間隔で並ぶように、塔の頂上には大きな鐘が取り付けられていた。確かにオイゲンの記述と一致している。
鐘はただでさえ人の背丈とそう変わらない大きさだというのに、それが地面から離れた位置に設置されているせいで、さらに巨大なものに見えていた。これだけ立派で荘厳な鐘が多くあるのだ、この斜塔は鐘楼としての役割も果たしていたのかもしれない。
「これのどれか一つの中に、宝玉が隠されているってことか」
そう判断して、ヴァルターは鐘ひとつひとつを下から覗き込んでいった。地道な作業だ。ひとつ確かめてそれらしきものが見つからなければ、次へ。すると、
「――!」
鐘の中を探索し始めてから数個目、ヴァルターが確実にこれまでとは異なる表情をした。当たりを引いたのだ。オイゲンの統治圏でクーデターが起きていたころ、彼が自宅に置いておくより余程安全だと考えて隠したらしい、最後の宝玉。そして、三つの抑制剤という面から見ても最後のものとなるパクス=グレイツの宝玉だ。
「やっと、見つけた」
ヴァルターは迷うことなく鐘の内部へ手を突っ込むと、中の振り子に隠れるようにその身を潜ませていた丸い宝石を取り外した。青色に輝く宝石。間違いない、パクス=グレイツの宝玉そのものである。世界の正史においてアレンが使用していたものや、ジナリオルの体内に埋め込まれていたものと同じ形、同じ色をしていた。
「やっと――」
ヴァルターはそれを握り締めると、立ち上がって再び外の景色を見やる。聖堂のような建造物。その周りには美しい草原が広がっている。
彼の手の中には、強い青の輝きを放つ宝玉が収められていた。この中にはハザの不死性を打ち消すことが出来る力である【偉大なる秩序】が込められている。ルガル研究所の支部長であったマサヨシが、炎に身を焼かれながらも守り抜いた抑制剤を基にして作られたのだ。
つまりこれが――ハザを殺すことが出来る最後の手段。紛れもなく人類最後の希望というわけだ。
「……」
ヴァルターは、その宝玉を指でつまんだ。そして自身の口元に手を運ぶと――これまでのものと同じように飲み込もうとして、直前で動きを止めた。何かを考えるように、その手を止めたのだ。
ヴァルターは腕を降ろすと、もう一度だけ周囲の景色を見渡した。自分は歴史だ。そう肌で感じ取るたび、ヴァルターのなかの「ハザを倒したい」という思いが強くなっていくようだった。
彼の右手の指先では、依然として青色の輝きが煌々と放たれていた。




