第118話 「Bear-armed」
「――ッ」
前方から圧倒的な速度で向かってくる大木。少しでも気を抜けば、あっという間にヴァルターの柔らかい肌を裂傷まみれにしてしまうだろう。
だが、そんな危機的状況でもヴァルターは【貯蔵】の出力を弱めない。それどころか、苦境に耐えるように歯冠を噛んで、逆に強くしていた。
この距離では、もはや大木すべてを木端微塵にすることは不可能だろう。そうだとしても、一秒だって足掻くことを諦めたくはない。
「こんなところで――死んでたまるか」
大木がどんどんとその身を小さくしていく。しつこく抗う衝撃波に抉られ、見る見るうちにその姿を頼りないものへと変えていく。
しかし、ヴァルターの悪い予想は的中してしまった。こちらへ到達するまでに大木を消滅させるのは、やはり距離的にも時間的にも無理だったのだ。
「――――ッ」
衝撃波により細くなった木屑の先端が、ヴァルターの額に突き刺さる。
纏っていた推進力をもろに受けたせいで、首が自然と後ろへ傾く。さらに、太い針で刺したような痛みに一瞬だけ襲われた。
「――」
額から一筋の血が垂れる。とはいえ、それ以外に主だった負傷はない。見張った目は受けた揺れにより少しだけぼやけたものの、視力はすぐに回復してくれた。
かなりの勢いを保ったまま突き刺さった木片。しかし、さすがに頭蓋を貫くまでは出来ていないようだった。
「チッ。脳までは達していないか」
ヴァルターが瞬きを続けていることを確認したオスニエルが悪態をつく。
諦めの悪い【貯蔵】が功を奏し、木片は元々の威力を大きく失っていたのだ。
「ッ、【幽剣】」
辛うじて窮地は脱したとみて、ヴァルターは急ぎ自身の足元を縛り付けている木々を切断した。そしてふらふらと立ち上がると、オスニエルのほうをちらと見てから――瞬時に方向転換、緑が生い茂る左の森へ逃げていった。
「……」
――森に逃げ込んでしまえば、相手も自由に銃を撃てないと思っていた。
「くっ」
だが、それは甘い考えであり、希望的観測だった。ヴァルターが森林区域に身を隠してからも、オスニエルの銃弾を放つ間隔には差が生じていない。迷わず躊躇いもせず、背中を向けて逃走するヴァルターを追い続けてくる。
「……クソ! 視界の悪い森の中なら、銃も使い物にならないと思ったのに」
そう嘆いているうちに、後方からまた大木が襲いかかってくる。乱立する木々で視界が覆われるため、オスニエルも自在に幹を操作することは出来まいと考えていたのだが、全くもってそんなことはなかった。
地に根を下ろす木々をぐねぐねと切り抜け、目を見張る速さで伸びてくるその様は、まさに如意棒のようだった。
「ふんッ!」
ヴァルターは枝を伝いながら、振り返って【幽剣】を纏った剣で木を断つ。敵の攻撃を凌いだら、また逃げる。すると、オスニエルが的確にルガルの銃弾を撃ちなおす。それをまた切り刻む。
いつまで続くのか、いつ終わるのかはっきりしないまま――どこかで機会がやって来ると信じて、宙を跳び交い続ける。
だがしかし、その逃避行に終わりを告げたのは、皮肉にもヴァルターの致命的なミスだった。
「!」
ヴァルターの視界が急にぶれて体が反転する。
枝から枝へ飛び移ろうとしたところで、足を滑らせたのだ。
「まずい――」
頭を下にした状態で落下していくヴァルター。大きな隙だ。警戒を強めて右を見やる。
その瞬間、ヴァルターの両目は限界までこじ開けられることとなった。
「は?」
視線を移動させたほうでは、オスニエルが自ら射出した幹に乗って走っていた。落下途中のヴァルターとオスニエルがいる地点を結ぶ最短距離――まさに、木に乗って空中を渡っているようなものだ。
しかしヴァルターを驚愕させたうえに唖然とまでさせたのは、そこではない。それ以上にもっと衝撃的な光景が広がっていたのだ。
「何だよ、あの腕」
オスニエルの右腕に、ごつごつとした木の幹が巻き付いていたのである。
おそらく自身の近くに向けて銃弾を撃つことで、腕のそばに木々を出現させたのだろう。そしてそれを操作することで巻き付かせて――右腕の拳に至るまで、固い幹の鎧で「武装」させた。
「俺には銃だけだと思ったか? 残念ながら――」
完全に人の腕の形状を留めていない“木の塊”が、ヴァルターのそばへ到達する。
そしてオスニエルは空中を結ぶ幹の端から飛び上がり、その物騒な右腕でヴァルターを頭上から殴り飛ばした。
「俺は、殴り合いも得意だ」
「がは――ッ」
腹に重い一撃が入る。木の装甲を纏った、あまりに堅い殴打。今までに一度として経験したことのない不自然な痛みが、ヴァルターのうめき声を詰まらせる。
凄まじい勢いに体が弾き飛ばされ、ヴァルターは地上へ叩きつけられることになった。響く衝突音に、舞い上がる土埃。背中が、痛い。
「く……げほ、げほ」
胃の底の底から体液を吐き出しながら、ヴァルターは何とか立ち上がる。
上空から降り立ったオスニエルは、すでに眼前まで距離を詰めてきていた。
「効くだろう」
彼はそう呟くと、幹を巻きつけさせた右腕を掲げて見せる。
「【芽月】を纏わせた腕だ。単純だが、自然というのは単純だからこそ恐ろしい」
ヴァルターが目線を落として自身の腹部を見やる。服が破れて白い肌が覗いていた。さらに思い切り殴られたあとで赤くなっているだけではなく、幹の粗削りな表面のせいで皮膚が抉られたのだろう、少量ではあるものの血が垂れている。
その驚くべき力と堅さといったら――単純だからこそ、恐ろしい。
「身をもって知りましたよ、今」
「ああ――それに、今からも知ることになるさ」
瞬間、オスニエルが地を踏み抜く。土埃を後ろに置いて、その肢体が飛び出した。
「!」
肉弾戦を続ける気らしい。
オスニエルが間合いを詰めたのと同時に、その右腕から木の拳が放たれる。
しかしヴァルターも反応している。腹の痛みなど意識外へと追いやって、細身の剣で彼の腕を払う――。
だが。
「な!?」
ヴァルターが防御のために薙ぎ払った剣は、呆気なくオスニエルの腕に弾かれた。暴力的な自然の強さに押し負けたのだ。
「緩い」
がら空きになったヴァルターの前方。
オスニエルはその隙を見逃してはくれない。木が巻き付いた腕で胸倉を掴むと、ヴァルターの体を容易に持ち上げて投げ飛ばした。
「あがッ」
生えていた木で背中を打つ。じんわりと嫌な痛みが広がっていくのに、歯冠を噛んで耐える。
しかし、そこへ追い打ちをかけるようにオスニエルがやって来る。
「ふッ!」
「うぐぅッ」
幹へ寄りかかったヴァルター。彼の腹へ、再びオスニエルが一撃を打ち込んだ。
凄まじく痛い。凄まじく痛いというのに、不思議と悲鳴をあげることが出来ない。呼吸の仕方を忘れたかのように、酸素がうまく吸えないのだ。
すると、身動きできないヴァルターの剣をオスニエルが握る。そしてそのまま木を巻きつけた腕による握力で――剣身を折ってしまった。
「――」
唯一の得物を折られた。その事実はヴァルターの背中に重くのしかかって、決して小さくない絶望が広がっていく。
「……スペアはあるか?」
オスニエルが問う。その言葉には、皮肉が込められていた。
だが彼の問いかけは、逆にヴァルターの闘争本能を刺激することになる。
この劣勢の状況を、まるで馬鹿みたいに享受していていいはずがない、と。
「……無理すれば」
刹那、横に半分に折られた剣身から、影のような新しい剣先が生じる。【幽剣】で剣身を補ったのだ。
「ほう」
オスニエルは感心したふうに声を漏らすと、咄嗟に地面を蹴って後退した。ヴァルターの目の色が変わったことを察知したのだろう。
背中の木々に手をつきながら立ち上がる。そしてヴァルターはもう一度ルガルをかけ直し――、
「【神速】」
二人の打ち合いが再開された。右腕に木を巻きつけ、さらに左手に銃を持ったオスニエル。そして、剣身を直接【幽剣】で補わせたヴァルター。
偶然にも、お互いが自身のルガルを自身の武器となるものに纏わせながら、激突していく。
「らァッ!」
ヴァルターが斬りかかる。それは腕の幹に直撃したものの、切断することはかなわなかった。おそらく、先ほどからヴァルターが切ってきたものより強度が高いのだろう。
「ふんッ」
オスニエルが殴りかかる。風を切る、暴虐の右腕。
が、軌道は見切れていた。落ち着いてそれを躱す。
続く、拳と剣の異なる武器による打ち合い。数回ごとに左手の銃から銃弾が放たれ、その度にヴァルターが神がかり的な緊急回避で凌ぐ。
オスニエルは【芽月】、ヴァルターは【幽剣】と【神速】を常時使用している。そのためお互いにキルコーズの消費量が異常に多かった。自然、普段よりも疲れが生じてくるのは早く、動きが鈍る瞬間もすぐにやって来る。
だが、そんな限界の状態でも両者は戦うことを止めない。理由は単純だった。相手がまだ、戦っているから。
「――」
疲労が溜まろうが乳酸が溜まろうが、視界と思考だけはクリアに保つ。俊敏な敵の動きを読み取り、研ぎ澄まされた判断力で次の手を繰り出す。
「――!」
オスニエルが左から幹の拳で殴りかかってくる。が、おそらくリーチが足りない。つまり、こちらはフェイクだろう。右でひっそりと準備を完了させていた銃が本命。読めている。剣を構える。
オスニエルが銃を撃つ。弾丸の軌跡を目で捉えて――ヴァルターは戦慄した。
「な」
撃つ寸前、オスニエルは一瞬で銃口の向きを変えたのだ。銃弾はヴァルターではなく、今にも殴打を打ち込まんとしているオスニエルの右腕に向かっていき――、
「う――ッ」
元から巻き付いていた木の先端辺りでルガルが発動、さらにそこから木が現れた結果、オスニエルの右腕のリーチが伸びる。
直後、ヴァルターは硬い木材でそのまま殴られたような感覚を味わった。球が跳ねるように、ヴァルターの体が吹き飛んでいく。
「ぐ……っ」
頭を小刻みに振りながらヴァルターが立ち上がる。完全に裏の裏を突かれた。頬がじりじりと熱を帯びたように痛む。
と、そこへオスニエルが止めの一発として銃弾を撃ち込んだ。
「あっぶねえ……!」
容赦ない畳み掛けに辛酸をなめさせられながらも、【神速】で強化した動体視力で何とか躱しきる。
ところが。
「甘い」
「!?」
「それは――」
刹那、目論見を察知したヴァルターが振り返って手のひらを差し出す。
止めとして放った銃弾、それすらフェイントだったのだ。今躱した弾丸は後方の地面に埋まったあとに大木へと変化し、ヴァルターがまんまと逆向きであるオスニエルのほうを見た瞬間に、後ろから貫く作戦だったのだろう。
しかし、すでにその企みは感づけている。ヴァルターは自身の手のひらにキルコーズを集中させ、
「【貯蔵】!」
衝撃波を放つ。だがその瞬間、ヴァルターは眉をひそめた。
「――木に変化してない……?」
後方へ大木を阻む【貯蔵】を放つまでは良かったものの、肝心の大木が向かってきていなかったのだ。それどころか、地面に埋まった銃弾は木へと変化することさえしていない。
するとそのとき、やっとのことで幹が生まれ始めたのが見えた。しかし遅れて出現したことで、すでに銃弾のあたりを衝撃波が通過している。そのため、せっかく幹が生じてもすぐに削り取られ、やがて消えていった。
「……何だったんだ、今の」
これも何か考えがあってのことだろうかと、振り返ってオスニエルを見やる。
が、彼自身、今のおかしな現象は望んでいないものだったらしく、不機嫌そうに眉を寄せていた。しかしすぐにその不満げな表情は失せ、再びこちらへと向かってくる。「木に変化しない銃弾」の謎を気にかけている暇は与えてくれないらしい。
「――ッ」
オスニエルが再三の突撃、二人が打ち合う。ヴァルターと違いキルコーズを溜め込むルガルを有しているわけでもないのに、未だに彼は全力で拳を打ち出していた。やはりイスニラム大陸軍第一師団、師団長オスニエル・エンフィールドの名は伊達ではないということだろう。
「!」
数回剣と拳がぶつかり合ったあとで、ヴァルターの剣が弾かれる。
生まれた間隙。生じた機会。それらをオスニエルは逃さず掴み取る。
「――」
左手に握った銃を構え、空虚と化したヴァルターの腹部を撃ち抜こうとする。
しかしその様子を見て、ヴァルターは心の中でほくそ笑んだ。
「なに」
咄嗟に体勢を整え、重心を前へ傾ける。
ヴァルターはわざと打ち負けることで、オスニエルに隙を作らせようとしていたのだ。
「【神速】」
まんまと銃を構えたことで一瞬の隙を作ったオスニエル。
そこへルガルで速度を増したヴァルターが間合いを詰める。左手で彼の顔を掴んで覆い、衝撃波で顔面もろとも破壊せんとして――、
「チッ」
「!?」
が、オスニエルは舌打ちをするのと同時に、突きつけていた銃を自身に向けて撃った。
ヴァルターが彼の顔面を覆っているせいで、視界だってかなり悪いはずだ。少しでも軌道が逸れれば自分に被弾する可能性があるというのに、彼は撃ってみせた――それだけ自らの腕に自信があるということだろう。
「ぐ……ッ!」
その自信を誇示するかのように、放たれた銃弾がヴァルターの左手の甲に直撃。
神経をズタズタに引き裂かれたような痛みに、思わず手を離してしまう。
「――ふん!」
と、そこから華麗に体重移動したオスニエルがヴァルターを投げ飛ばした。
「ぐあっ」
投げ飛ばされたヴァルターは、再び球のように地面を跳ねて森林地帯を抜けていく。
「く……っそ」
手の甲の激痛に耐えながら立つ。
すでに乱立していた木々は少なくなっており、ヴァルターが今立っている傾斜のある地面の下には川が流れていた。おそらく、それなりに深い。
川岸へ投げ出されたというところだろうと現状を把握していると、その間にオスニエルも追いかけてきた。
「やっとまともに一発撃ち込めたわけだが、戦意は尽きていないようだな」
「……当然です」
土手に立ってヴァルターを見下ろしながら、銃弾を装填するオスニエル。
彼の言葉に対して睨みを利かせながら答えたのはいいが、如何せんオスニエルを倒すビジョンが見えてこない。決断力や判断力、ここぞというときの大胆さ――身体能力だけでなく内面的な強さまで劣っている自分が、どうやって彼の攻撃を切り抜けるのか。
そうしてヴァルターが短い思考を重ねていると、オスニエルがゆっくりと口を開く。
「ヴァルター。お前の速度を上げるルガルは非常に厄介だ。あれさえなければ、俺はすでに数回お前を殺せていた」
「……」
ヴァルターは答えない。頭上の彼が何か嫌なことを企んでいる予感がして、それを探るので精一杯だった。
しかしオスニエルは無視されたことを気にする素振りも見せず、ひとりでに続ける。
「だからそろそろ、その性質を利用させてもらうぞ」
「……?」
ヴァルターが眉をひそめる。一体彼は何をする気なのか――。
「【芽月】」
オスニエルはそう呟いた直後、銃を発砲した。
しかし銃口はヴァルターを捉えておらず、それよりもう少し下、言うなれば地中だ。
彼は傾斜のある地面のなかに弾丸を埋め込んだ。
そして、次の瞬間。
「ッ!」
地中へ放たれた弾丸が木へと変化し――それが大木へと成長していくにつれて、地下から地盤が崩れていく。
「足元を――!」
地中に埋まった木を成長させることで、擬似的な土砂崩れを引き起こさせたのだ。
ヴァルターはバランスを崩して落下していく。そしてそのまま、下を流れる川へと転がり込んでいった。
「うわっ、――!?」
「これでお前は川へ落ち、新たな酸素を得ることは出来なくなる」
周囲が水に包まれる。その瞬間、ヴァルターはオスニエルが狙っていた企みにようやく気が付いた。
そしてその答え合わせをするかのように、地上にいるオスニエルの声がかすかに聞こえてくる。
「ヴァルターに関するすべての『速さ』が増大するのならば――体内に残った酸素を失う速さも、例外ではないだろう?」
彼の言う通りだった。血液の循環速度が速くなっているということは、それだけ心臓の脈拍も速くなっているということ。つまり、酸素の消費も激しくなる。
それこそ今のような水中へ閉じ込められてしまえば――ヴァルターは常人よりも、「速く」溺れるのだ。
「――――」
体が沈んでいく。声を発することは出来ない。一瞬のことで深呼吸など出来たはずもなく、尽く酸素が奪われていく。急いで【神速】を解除しても、もう遅い。
それだけに留まらず、更なる艱難辛苦がヴァルターを襲う。
「……!」
水面に波紋が生じたかと思えば、上から三発の銃弾が降り注いできたのだ。オスニエルが念には念を入れて放ったのだろう、それらは水中でルガルを発動し――ヴァルターの逃げ道を塞ぐかのように、大木へ変化していく。
――死ぬ。
絶望の二文字が脳内に浮かぶ。このまま急ぎながら泳いで浮上してもいい。だがそうすると、水中から頭を出したところをまんまとオスニエルに撃ち抜かれるだろう。
つまり、残る選択肢は最大出力の【神速】を発動し、オスニエルから離れた位置まで泳いでから浮上すること。しかしそれは、窒息死のリスクを伴うことになる。これ以上、酸素消費の速度を速めるわけにはいかなかった。
「――――」
どうすれば。そうこうしているうちに大木がヴァルターを囲んで、今にも体を貫かんとしている。
どこへ行っても逃げ場はなく、どう足掻いても斜め上の妙案は浮かばない――迷っているうちに、きっとヴァルターの体のほうが浮き上がることになるだろう。
つまり、行く先は死。どの方向を選択してもそれしか用意されていない現状に、さすがのヴァルターも終わりか、と心の片隅で思った。
そして半ば諦めながらも、何とはなしに横を向いたそのとき――――水中のなかで、まだ終わらないことを証明する確かな光明を発見した。




