第1話 「俺たちの意志を継ぐ者」
リグ・ウレゴス歴1804年。
大陸の西方に位置する国家、アストリア。その土が白く染まる12月。
黒髪の青年ヴァルター・アインハルトは、そのアストリアの北東にある小さな街ファンティーレに住んでいる。
彼は日課の漁を終えて、一緒に暮らしている幼馴染みのアンナ・ベルネットの家へ帰ろうとしているところだった。
ヴァルター用の小さな船を港につけ、たくさんの魚が入った網を背負って上陸する。
板の軋む音が響き渡り、降り積もる雪によってもたらされた静謐を申し訳なさそうに裂いていく。
「……静かだな」
漁をしに海へ出ていたのは二日間。たったそれだけなのに、この街がどこか別の街に変わってしまったような違和感があった。
それはきっと、まだ変わり果てたファンティーレの現状に追いついていないからだろう、と自分のことを他人事のように分析する。
一年前、理解不能な大事件が起こった。
アストリア王、王妃、王の息子たち、息子たちの妻、王家という王家全員が、ことごとく惨殺されたのである。クーデターか革命か、彼らはみな暗殺されていた。
前代未聞の事態に、国中がまるで白昼夢を見ているような混乱に陥った。
国の警察組織は、この一連の事件を政権の転覆を謀ったある闇組織によるものだとして、組織の人間全員を逮捕、裁判にかける間もなく死刑に処した。
そして、王家の血筋が絶たれてしまったため、致し方なく民衆からリーダーを出すことになる。
そこで警察組織から強く推薦されたのが、現アストリア国王ハザ・エシルガである。
彼は元々ただの自警団の一員であったものの、いち早く闇組織のリーダーの居場所を突き止め、そこへ部下数人を率いて本隊が到着する前に敵全員を縛り上げるという、並々でない活躍をした。
そういったエピソードから彼は英雄と持て囃され、持ち上げられるままに王座につくことになる。
そしてそれから一年――端的に言えば、「最悪」であった。
ハザが政権を握ってから一ヶ月後、隣国イスニラムとの戦争が突然始まった。
特に不和が生じていたわけでもなく、戦う理由は無いはずだった。
イスニラムは開発に力を入れている国で性能の良い武器を多く所持しているため激戦となり、開戦から約一年が過ぎピークが去った今は泥沼化している。大義名分のみられない戦いが一年も続いているのだ。
兵士として男は戦場へ連れて行かれ物資も不足していき、豊かな国だったはずのアストリアは跡形も無くどこかへと消え去ってしまっている。
ファンティーレにもその影響は多大に及んでおり、今年の二月にはイスニラムの一部隊がこの街を急襲、王都の兵士が退けたものの被害は甚大だった。最早港町としてそれなりに栄えていたあの頃の輝きは無い。
まだ一年、国民の脳裏には豊かだった記憶が今もしっかりと残っている。それしか経っていないで、現状に追いつける方がおかしいというものだ。
そして、半年前には大幅な増税が行われ、ハザは更にアストリア国民を苦しめている。
最早いつかの王人気は夢の向こう、ハザ王は忌むべきものというのが民の常識であった。
色々と重たいことを考えたためか自然と顔が下を向いてしまう。この状況は、どうにかならないのか――。
ヴァルターは自身が生まれた国であるアストリアを愛していた。パトリオット。愛国者を意味するその言葉に相応しいくらいには、彼は自国に対して誇りを感じていたのだ。特に明確な根拠や理由があるわけではない。ただ、その国に生まれたから、好きだった。
憂鬱な気分を振り払うようにパッと上を向くと、見慣れた木造の小さい家が目の前に。アンナの住む家である。
扉を開けると、出迎えたのは中の暖かい空気と明るい声だった。
「あっ、ヴァルター。お帰り」
「ただいま、アンナ」
「結構取れたじゃない。良かった」
「ああ。俺にかかればこのくらいは余裕だよ」
「調子乗らないの。きっと魚もあなたに獲られて悔しがってるわよ」
「斬新な視点だな……」
彼女はアンナ・ベルネット。同い年で、落ち着いた赤色の毛の少女だ。非常に端整な目鼻立ちをしていて、自慢の幼馴染みである。
「というか、二日ぶりに帰ってきていきなり魚のことって、なんか俺不遇じゃないか?」
「そんなことないわよ。無事に帰ってきてくれてすごく嬉しい」
「いや、改まって言われると普通に恥ずかしいな」
「でしょ? 私だって恥ずかしいの」
アンナが楽しそうにはにかむ。
お互いの両親がこの街で共に育った友人だったため、ヴァルターとアンナは幼い頃から一緒に過ごしていた。
いつも二人で遊んで二人で喧嘩していたものだから、周りの子供らによく冷やかされていたのが懐かしい。
とはいえ、ここまで思い出すといつも、それを真に受けた自分が彼女へプロポーズをするという凄まじい記憶も自然と出てくるのだが。
彼女はよくわかっていなかったようだったし、きっと忘れているだろう。いや、忘れていてもらわないと困る。
「ああ、ヴァルター、お帰り」
居間の奥から聞こえてくる弱々しい声は、アンナの母親のアリア・ベルネットだ。
彼女は重い病を患っており、寝たきりの生活を送っている。それでアリアが動けなくなってしまったことが、自分がアンナらと同じ家で暮らしている二つの理由のうちの一つ。
あともう一つは……あまり考えたいものではない。
今この家では、自分が漁や買い出しで食料調達、アンナが家事を担当して生計を立てている。
また、アンナの父親はというと、彼はアンナが小さい頃に亡くなってしまった。
「ただいま、おばさん」
「寒かったでしょう。暖炉でゆっくりしなさいな」
「ありがとう。でも近所の人に魚を配ってこないと」
言って、再び家を出る。暖かな空気から一転、何か恨みがあるのかというぐらいの冷気が体を襲ってきた。
暗い気分はこの寒さによるものもあるのかもしれない、と息を吐いて手に当てても良くなる気配は一向になく、諦めてさっさと雪を踏み締める。
近所の人に魚を配る、というのはそれだけ協力しないと生活が厳しいということだ。
今や食料はたまに街へ来る商人から仕入れる以外はすべて自給自足になっている。コミュニティで支え合わなければやっていけない。
――そこまで必死に生きて、一体何がしたいのかとつくづく思うが。
「それでも惰性で生きようとしちまうんだよな……」
ハァ、と今度は深いため息。しかし食べ物が出てくるわけでもなく、ただ手が暖かいだけである。
*
「さ、これで終わりだな。早く家に帰ろう」
魚と愛想のいい笑顔を配り終わり、踵を返して家へ戻ろうとする。
――と。
「やめてください! 持って行かないで!」
甲高い女の声が、少し遠くで突然響いた。必死で今にも泣きそうな声音である。
近くまで行って声の元を見れば、そこにはまだ若い女性と彼女を囲んで下卑た笑みを浮かべている男ら三人。
イスニラムから流れてきた賊だろう。泥沼化した戦争により現在アストリアの国境警備兵らの取り締まりは甘くなっている。以前もこの街はイスニラムのならず者に被害を受けたことがあった。
賊の手には、干し肉などの食料だろうか。それと、銀貨が少し。状況から察するに彼女から奪ったのだろう。悪者はいつも弱者を付け狙う。
「あーうるせェな! オレらがどうするかなんて勝手だろうが!」
「それを持って行かれたら私たちは暮らしていけません……お願いします……」
私たち? 疑問に思って彼女のそばを見てみれば、納得。
彼女の家と思われるその入口に、怯えた表情で様子を見つめる五歳くらいの子供がいた。
つまり彼女はあの男の子の母親で、食料や金を持って行かれたら暮らしていけない、と。
「お前らが暮らしていけないとか興味ねェよ! 見たところこの家、父親もいないみたいだけどな、アハハ。何だ、戦争で死んだのか? おい、死んだのか?」
「お願いします……お願いします……」
若い母親はすすり泣きながら、三人の中でもリーダー格に見える小柄な山賊の足にすがりついている。状況は最悪だった。
何とかしてやりたい。心からそう思っていた。しかし、体は動かない。
「お願いしますばっかでうっぜぇな、じゃあオレらと遊んでくれるんですか、おねー、さんッ!」
すがりつかれていた男が蹴りとばす。母親は抵抗することなく横に倒れた。
「ハッ、くだらねぇ。オイ帰ろうぜ、つまらん」
男どもが母親から離れて場を立ち去ると、周りで見ていた人たちが彼女の元へ駆け寄った。みな心配して寄り添い、息子も涙ぐんだ目で声をかけている。
こんなことが起きるのはあの男らのせいであり、そしてアストリア王ハザ・エシルガのせいでもある。
それがよくわかっていても、何も出来ない、力も勇気もない自分が嫌だった。
そんな風に嫌気が差して早く家に戻ろう、と振り返った時。
――ぐいっ、と後ろから肩を引っ張られた。
急な事態に体が対処できず、滑稽なことに後ろへ倒れて尻餅をついてしまう。
それと同時に、先程まで聞いていた「ギャハハハハ」という下品な笑い声が起きた。
嫌な予感がしながら顔を上げれば、満面の笑みの汚い賊の顔、顔、顔。
予想通り、最悪である。
「アッハハッ、こいつ尻餅つきやがった! 引っ張っただけなのに! やっぱ正解だったぜ、なぁ?」
「ああ、お前とは楽しめそうじゃねェか、オイ」
立ち上がって、臀部を払う。こういう時は落ち着いて、冷静に対処するのだ。咳払いをして、深呼吸、そして、
「な、何ですか。俺は帰らなきゃならないんで、じゃあ」
「――ウワッハハハハハ! 震えてる! 声めっちゃ震えてんぞお前!」
「ほら〜ママのとこ帰る前に、オレらと遊、ぼう、ぜ!」
ゆっくり振りかぶって、痛烈な一発。体が固まって、かわすことも出来ずに頭に入った。
痛い。クラクラする。視界が点滅して、気を抜けばすぐに倒れそうだった。
「おら!」
他の二人も一緒になって殴りかかってくる。猛攻に反撃すらままならず、段々意識が朦朧としてきた。
――悔しい。
心の奥底で自分が声を張り上げる。
王の圧政に従って、何をしたいわけでもなく惰性で生き続けて、今こうして理不尽な暴力を受けても抵抗できない自分が、悔しくて仕方ない。
「何だこいつまるでサンドバッグだなァ! 弱っちいボクちゃん!?」
――ああそうだ、俺は弱い。
生まれつき貧相なせいで、漁をしていても屈強な体格になれない。
力がないんだからこいつらにも勝てるわけがなくて、だから抵抗なんてもってのほかで――。
――反射的に、両の手のひらが悪意に満ちた拳を受け止めた。
「あん?」
それはヴァルターにとって微かに残っていた、言わばプライドのようなものである。
力がないことを理由にして、逃げることを正当化させたくなかった。
ぼこぼこに腫れている真っ赤な顔を上げ、目の前の小柄な男をキッと睨みつける。
「ふ……ざげんな」
「何言ってんのかわかんねーよ、カス!」
その瞬間。
前から再び殴りかかろうとしてきた小柄な山賊。
ヴァルターはそれを爪先を弾いて避けるのと同時に、彼に向かって漁網を投げる。
先ほどまで近所に魚を配るために使っていた、漁で用いる網だ。
「は!?」
完璧な狙いで投擲された漁網は山賊の頭と胴体を捕え、相手が動揺した隙にヴァルターはその山賊の脇へ。
「――ッ!?」
痛みに顔を歪める山賊。ヴァルターが彼の右足を踏みつけたのだ。
そして山賊の頭から垂れる漁網の両端を掴んで――重心を前に集中させ、力に任せて思い切り引っ張った。
もちろん、体の向いているほうとは逆方向へ。
「あがががが!?」
小柄な山賊の体はきめの細かい網でがっちりと締め付けられ、ヴァルターの漁師らしい引っ張りで首と胴体があらぬ方向へ向こうとしている。
加えて、足をしっかりと踏みつけられているため身動きがうまく取れない。
「うおおおおお――!」
「痛い痛い痛いもげるもげるもげる――――!」
山賊の悲鳴が耳元で鳴っても、ヴァルターは網を引くことをやめない。
振り絞れるだけの力を出しても、漁業用に作られた頑丈な網が引きちぎれることはなかった。
「――この、屑どもがッ!!」
ヴァルターの叫びに応じて、網を引く力がさらに強まる。
山賊の全身からは、ボキボキと関節の鳴る音が聞こえてきていた。
「お、おいてめえら何ぼさっとしてんだ、早く助け……し、死ぬ!」
必死の呼びかけに、周囲の山賊たちがはっと我に帰る。突然のヴァルターの抵抗に驚いて唖然としていたらしい。
「こ、こんっの!」
「がっ!」
網を携えていたせいで、外部からの攻撃は躱すことが出来ない。
がたいのいい山賊の殴打をもろに食らって、ヴァルターは硬い地面に転がった。
「この、クソ!」
しつこい漁網から乱暴に抜け出て、こちらへ歩いてくる山賊。
「……おい、謝れよガキ!」
止めを刺すかのごとく、その小柄な体に似つかない強烈な蹴りがヴァルターの腹部を襲う。
山賊は抵抗されたのが気に食わなかったようで、その表情は先までの愉悦から怒りへと変貌していた。全く身勝手な賊である。
しかし、それでもヴァルターは立ち上がり、山賊を睨みつける。
こんな人間相手に、頭を下げてやる道理はない。
「この野郎……! ぶち殺す!」
その様子を見てさらに激昂したらしく、小柄な山賊は懐からナイフを取り出して、切っ先をヴァルターへと向けた。
その双眸は揺れていて、完全に理性を失っている。
いよいよ命までも危うい、と感じたところで、
「――そこまでよ!」
聞き慣れた、可憐で明るい声が強い意志を持って鳴り響いた。
男どもが一斉にそちらを振り返ると、赤毛の美しい少女が鋭い眼光を向けている。
「アン、ナ」
「あなたたち、すぐにここから立ち去りなさい。彼から離れて」
「ハッ、何お嬢ちゃん。コイツの彼氏? 嫌だよ、まだまだこれからなんだぜ?」
「警告はしたわよ」
その一言で察知し、ヴァルターは慌てて山賊たちの近くから離れる。彼らの手にぶら下がった干し肉や銀貨の袋をしっかり奪い取って。
その賊らは一つのことにしか気が向かないのか、アンナに夢中で全く気が付かない。
「おっかないなぁ。ああそうだ、お嬢ちゃんがオレらと遊んでくれない? 見た感じいい体してるしさぁ、可愛いじゃん。どうよ?」
「――【火天】」
アンナが呟いた瞬間、彼女の前方に直径1メートルほどの大きな火球がどこからともなく現れた。
火球は瞬きする暇も与えず、ポカンとしている男らの元へ射出される。
「……え?」
火球はかなりのスピードで宙を走り、無慈悲にも彼らに激突、そして爆発。
申し訳なさげなどころか、思い切り自己主張しながら雪の静けさと賊の悲鳴を裂いていった。
黒煙が立ち上がりやがて消えゆくと、その中で影になっていた三人が顕になる。
みな体は真っ黒で、大柄な一人を除いて全員が白目を剥き、口を開けて倒れていた。
アンナの攻撃を受けてなお立っていた残り一人は、どうやら一番後ろにいたためダメージが少なかったらしい。
同じく真っ黒にした体をブルブルと震わせてアンナを凝視している。
それに気づいた彼女が、
「ああ、まだ残ってたのね。いいわ、もう一発」
「びゃあああスンマセン帰ります! 帰りますから!」
「ちょっと。そこで寝てるのも持っていきなさいよ」
「はあああい! スイマセン!」
男は二人を抱えこんで、よたよたと逃げていった。きっとあの真っ黒な顔の中は真っ青なのだろう。
危険が過ぎ去ったのを見て、アンナがヴァルターの所へ駆け寄る。
「バカ! なかなか帰ってこないから心配したのよ!? そんなに顔腫れて、どれだけ殴られたの! 早く治療しないと、ほら!」
「お、おう。ああでもこれ、あの人に渡さないと」
若い母親からお礼と言われ受け取った干し肉の袋を手にした、ヴァルターの腕を引っ張りながら家へと大股で向かうアンナ。
その後ろ姿を見ながら、ヴァルターは後悔の念に苛まれざるを得なかった。
――アンナに助けられた。
この柔らかい手の、人を傷つけることなど絶対にしなさそうな少女の力を利用した上に、結局自分はひとりとして敵を倒すことが出来なかった。
それが恥ずかしく、彼に多大な自責の念をもたらしていたのは言うまでもない。
本来ならば自分が彼女を守ってやらなければならないのに、と。
「――誰かがこの国を変えてくれないかしら」
道端で事の始終を見ていた、やせ細った女性がそう言った。
そんなもんは理想論だ、ヴァルターはそれが耳に入った瞬間即座に思った。
でも、本当に、誰かがこの国を変えてくれるのなら――?
一年前の平和で豊かなアストリアに戻すことが可能ならば――?
それはきっと中身のない妄想だ、そうヴァルターは思った。
そのときは、思っていた。