92話 狂想曲+未来
「可憐!」
吹雪の魔力から解放された光が可憐のもとへ駆けつける。弘孝もまた可憐の肩にそっと触れていた。猛が重症の春紀を抱き上げ、光たちのもとへ向かう。
「光」
触れられていた弘孝の手を簡単に払い除け、可憐はゆっくり立ち上がり、光の胸元に顔を埋めた。あまりにも自然な行動に弘孝はただ、二人を見つめるしか出来なかった。光のブレザーと中に着込んでいるカーディガンが可憐の涙で濡れた。返り血と泥で汚れた可憐の頭をそっと撫でる光。
「私……何かやってはいけない事でもしたのかしら。これは、何の罰なの」
可憐の問に答えることが出来る者は一人も居なかった。猛が気休め程度の魔力で春紀をこれ以上苦しまない程度まで回復させると、そっとおろし、光の頭をそっと撫でた。予想外の猛の行動に光は思わず可憐の頭に触れていた手を離した。
「お前たちは神に最も愛された人間だ」
猛はそれだけ言うと、光の頭からそっと手を離した。光と可憐が視線を猛に向ける。
「一色君……。私はどうすればいいのかしら。優美を救う為に、あなた達と時間を共にしていたのに、優美はもういない。でも、私はサタンとラファエル、二つの器になる資格がある。頭では光と今すぐにでも契約してラファエルとなり、南風君や皐月君たちを止めなければならないと分かっているの。じゃあ、私の望みは何? こう考えたら本当に無欲になってしまうわ」
可憐の言葉に猛は今度は可憐の頭を不器用に撫でる事で返した。彼の慈しみの魔力が可憐の体内に流れた。
「お前の親友は、お前が選ぶ道を信じろと言っていた。それが俺たちなのか、ルシフェルたちなのか決めるのは磯崎、お前だ。そして、無欲な契約は二重契約や堕落に直結しやすい。磯崎が本当に叶えたい願いが見つかるまで俺たちはお前を守る。その為の光や弘孝だ。お前の事を愛しているのは沖田だけでは無いことを忘れるな」
それだけ言うと、猛は可憐の頭を撫でていた手をそっと離した。可憐の黒い瞳が猛を映す。
「可憐の事を愛しているのは沖田さんだけじゃない、か。たまにはいい事言うじゃん、猛君」
一番はぼくだけどねと付け足し、可憐を抱きしめる光。しかし、それは弘孝によって数秒の抱擁で強制的に引き離された。
「それとこれは話が違うだろ。可憐、僕もお前が間違った道に進まないように守る事を誓わせてくれ。お前の魂を、もちろん、命も、この戦いの大天使ウリエルとして、椋川弘孝として、可憐を守るために戦う。それに、光がつかないように見張ってなければならないからな」
一度光を睨みつけたあと、可憐に優しい眼差しを送る弘孝。彼の紫色の瞳に映った可憐の目には既に涙は無くなっていた。
「ありがとう、みんな。私はあなたたちの為、そして、優美の為に戦うわ。私から親友を奪った彼を赦さない」
可憐の身体をエメラルドグリーンの魔力が優しく包み込む。それは近くにいた大天使たちと春紀にも届き、全ての傷を癒した。
それと同時にルキフグスと弘孝が作った氷の山が徐々に溶けだし、数十秒後には完全に水となっていた。氷に閉じ込められていた人間だった肉片が露わになり、生きていた肉独特の血なまぐささが可憐たちの鼻腔を刺激した。
「うっ……」
血の臭いに未だに慣れていない可憐が口元を抑える。弘孝が慌てて可憐の背中をさする。既に翼を消した契約者たちは辺りを見渡した。大量の肉片の山は天界やEランクの風景を思い出させる。
「この光景は流石に……。ガブリエル様、私は先にレフミエルと共に可憐さんをサポートする準備をしてまいります」
可憐の魔力により、完全に回復した春紀が立ち上がり、翼を広げた。彼の言葉に光がゆっくりと頷いた。
「レフミエルがもう転生しているなら心強いね。分かった。その件は任せるよ、ヘルエル」
光の言葉を聞くと、春紀は小さく頭を下げ、微笑みながら東の空へ飛んで行った。
弘孝はその間も可憐の背中をさすり続けていた。
「可憐、あまり深く呼吸をするな。お前にこの世界は似合わない」
不快な嘔吐感を覚えながら可憐は弘孝に視線を向けた。彼の長い黒髪が美しくなびいていた。
「あなたは平気なのね、弘孝」
「……。僕はEランクで嫌という程知ったからな。それに、僕の半分の血はこのような事に対して不快感を覚えないようになっている」
苦笑しながら話す弘孝。既に翼は消していたが、無意識に羽ばたかせているような感覚に襲われた。そんな弘孝を見た可憐は弘孝に向かって微笑んだ。
「弘孝、あなた、今までで一番スッキリしたような表情をしているわ」
予想外の言葉に弘孝は目を丸くした。しかし、可憐の言葉の意味を理解した時、弘孝の口角は自然と上がっていた。
「そうだな。僕は今まで可憐にずっと混血だと黙っていた。それがどこか心苦しかった。しかし、お前にはもう、何も隠さないと誓えたあの時から、僕の中にあった枷が外れたような気持ちになった。ありがとう、可憐。こんな僕を赦してくれて」
一度さすっていた手を離し、弘孝は可憐の右手を取り、手の甲にそっと口付けした。あまりにも予想外の行動に可憐の心臓が一度だけ大きな音をたてた。
「ちょっと、弘孝?」
頬が僅かに赤くなる可憐。そんな二人を見ていて痺れを切らした光が無理やり二人を話そうとした時、四人の背後からあまり好ましくない人間の気配がした。
「これは酷い。君たちは唯一の生存者だな」