78話 狂想曲+鈴の音(2)
簡単に手を振り、弘孝の方へ飛び立つ皐月。氷で出来た牢屋に人間と悪魔だけが取り残された。長い沈黙が二人を支配する。
「……。一つ、質問いいですか?」
先に口を開いたのはベルフェゴールだった。魔力で出来たワンピースが微かに揺れた。
「どうしたのよ。そんな改まって」
可憐がベルフェゴールの近くに座る。しかし、ベルフェゴールは足枷の許す限り彼女から腕の力だけを使い遠のいた。
「……。あなたがリーダーを慕う理由を教えてください」
軽い沈黙の後、ゆっくりと言葉を選ぶように話すベルフェゴール。彼女のオッドアイの瞳が儚く揺れる。
「私が弘孝を慕う理由? そうね」
一度口を閉じ、ベルフェゴールの瞳を見つめる可憐。赤と青の瞳はどちらも異なる美しさを持っていた。
「そうね……。弘孝はみんなに平等に接しているわ。天使だから、悪魔だから、人間だからという理由で特別な差別はしない。ただ、仲間だからという理由であなたを皐月君……ベルゼブブから守ろうとした。立場ではなく、自分自身が大切かどうかで判断している所は普通の人なら出来ないわよ」
可憐の言葉にベルフェゴールは右手で拳を作り、氷の床を思いっきり殴った。華奢な指から氷の破片のせいで傷つき、血が流れていた。
「平等……?! 本気でそう思っていますか?! あなたは自分以外の女性にリーダーが抱擁しているのを見たことがありますか?! 優しい眼差しで見ているのを見たことはありますか?!」
今までにない声量で叫ぶベルフェゴール。彼女の右手は自身の血で真っ赤に染まっていた。それでも痛み以上の怒りが彼女に何度も床を殴る行動を取らせていた。
「ちょっと……スズ?!」
突然のベルフェゴールの行動に動揺し目を見開く可憐。彼女の右手の止血や、落ち着かれるようにするなど、やらなければならないことは、沢山あったが、ベルフェゴールの残り少ない魔力がそれを全て拒んだ。
「その名でわたしを呼ばないでください!」
可憐にこれ以上近付くなと伝えるために魔力を彼女に放つ。殺傷能力が無い魔力だったが、可憐を遠ざけるには充分だった。
「わたしはベルフェゴール。十地獄第六地獄"破壊された墓穴"地獄長ベルフェゴール。スズという名でラファエルに呼ばれる義理はありません」
先程と比べたら落ち着いた声量と声色。しかし、ベルフェゴールの瞳にはうっすらと涙があった。
ベルフェゴールの転生前の記憶はほとんど無かった。ただ、生前はオッドアイが忌み子とされ差別され、更に両親には二束三文の金銭と引き換えに娼婦として売られた事しか覚えていない。毎日眼帯で片目を隠しながら初対面の男に抱かれる日々。時々眼帯を取れと言われ命令に従うと現れる左右非対称の瞳に罵声を浴び、殴られ続けた。
そんなある日に突然現れたのが六枚の虫の羽を持った少年だった。
丈の長い毒と闇に近い色をしたドクターコートを羽織り自分に取引を持ちかけた。彼女が願ったのはただ一人でいいから自分を大切にし、自分もまた大切にしたいと思えるような人に会いたい。
虫の羽を持つ少年はそれを契約内容として自分と誓いの口付けをした。何回目か数えるのも馬鹿らしくなった異性との接吻。しかし、彼との接吻は今までで一番不快だった。全ての負の感情が自分の体内を巡る感覚。
死に一番近いであろうその感覚は少年の舌が自分の舌と絡み合う頃には既に魔力となり彼女の身なりを闇と毒に近いワンピースへと変えていた。
「契約完了ー。今日からお前は十地獄第六地獄"破壊された墓穴"地獄長ベルフェゴールだよー。んで早速だけど、オレの兄貴をオレたち側に引っ張ってきて欲しいなー」
「御意」
契約と同時に脳内を支配したベルフェゴールとしての記憶。そして少年は魔力を使い、彼の兄の容姿をベルフェゴールの脳に直接伝える。ハエの少年とは真逆の長い髪。そっくりな瞳。
この少年を誘惑し、自分たちの仲間にすればいい。簡単な事だった。自分のこの容姿ならばまず、男に嫌われない。そこから偽りの好意を伝え、向こうを自分の虜にする。契約前に何度も行っていたこの行為を頭の中でシミュレーションした。ベルフェゴールはそのまま魔力で出来た黒い翼で自身を包み込み、蝿の少年の兄の元へ向かった。
長髪の彼と同じ世界に降り立ったベルフェゴールはまずは近くにいた奴隷を買い漁っている男を虜にした。その後、魔力を使い男を凶暴化させ、自分もその被害者であるかのように体に傷をつけた。
そして、偶然を装い、長髪の少年の前に逃げるように現れ、助けてくれと懇願した。か弱い声と両腕を長髪の少年に向ける。隣に、顔に傷跡がある青年も居たが、ベルフェゴールにとって、小説の名もない人物と同じ価値だった。長髪の少年は何も疑いもせずに男を殺し、ベルフェゴールに慈悲の手を差し出した。
作戦通り。ここまで来たら偽りの好意を伝え、少年が自分の虜になるのを待つだけだった。
「辛かっただろ。名前は?」
少年の質問にベルフェゴールは答えられなかった。そう言えば生前も名など持っていなかった。ベルフェゴールと名乗れば作戦は失敗するであろう。ベルフェゴールは少年の質問に沈黙と俯きで返した。すると、少年はベルフェゴールの顔を覗き込んだ。少年の美しい呪われた長髪がサラリと彼の肩を伝った。
「無いのか。それじゃあ、僕が付けても構わないか? さすがに名のない仲間は呼びにくい」
少年の口から出た仲間という言葉。それはベルフェゴールが今までで一番欲しかったものだった。ベルフェゴールの白黒だった世界が微かに色を取り戻す。
少年の言葉にベルフェゴールはゆっくりと頷いた。
「お願いします」
ベルフェゴールの言葉に少年は満足気に微笑んだ。その笑みはベルフェゴールの既に止まっている心臓を僅かに苦しめた。
「ありがとう。そうだな。その綺麗な瞳から名を取っても良さそうだが、在り来りすぎるか」
忌み子と罵られていた原因であるこのオッドアイを綺麗と言われた。初めてだった。ベルフェゴールの胸の苦しさが増した。しかし、不快ではなかった。この苦しさの原因が分かった時、ベルフェゴールは別の胸痛に襲われた。
「そうだ! 声。声だ。さっき聞いたお前の声。とても綺麗だなと思ったんだ。まるで鈴の音のような……スズ。スズはどうか? 安直だと思うか?」
少年は再度ベルフェゴールの瞳を覗く。胸痛が限界に達していたベルフェゴールだが、それ以上に幸福感に浸っていた。ゆっくり頷き、微笑む。
「ありがとうございます。わたしは……スズ」
自分の名を口にし、自分のものにするベルフェゴール。それは幼い子が宝物のおもちゃを大事に抱えるような表情だった。
「今日からお前の名はスズだ。よろしくな。スズ」
この時点でベルフェゴールは偽りの好意を少年にぶつけることが出来なくなっていた。世界が完全に色付き、鮮やかになる。ベルフェゴールの心臓は今までに無いくらい激しい音を立てながら動いていた。心音が少年に伝わらないようにするのが精一杯だった。