76話 狂想曲+月下美人
十年ほど前の出来事を思い出した弘孝。あの日から現在進行形で可憐の事を想い続けているが、二人の関係は進展することは無かった。しかし、二人の関係が壊れることも無かった。そう前向きに解釈すると、弘孝は剣を強く握りしめた。可憐から魔力をもらって回復していたが、全身の倦怠感は拭えなかった。
「お前の為に僕は悪魔の道を選ばずに済んだ。これからも、僕の天使でいてくれ。可憐」
椋川弘孝として出来る最大限の告白を済ませると、弘孝はそのまま四枚の翼を羽ばたかせて皐月のもとへ飛んだ。
その数秒後、遠くから可憐の名を呼ぶ声が聞こえた。
「可憐!」
聞き慣れた声。ややくせ毛の茶髪。美しい六枚の翼。そして、朱色に染まった瞳。自分を守ると約束してくれたその天使の姿を見た途端、可憐は今までの緊張が一気に無くなったような安堵の息を吐いた。
「光……!」
六枚の翼が大きく音を立てながら光は可憐を抱きしめるように着地した。瞳は既に儚い黒い瞳に戻っていた。光の両腕が可憐を包み込んだのと同時に六枚の翼は光りとなって消えた。
「よかった。無事で」
光の靴と凍った地面が擦れて音を立てる。数秒の抱擁を済ませると、光はゆっくりと両手を広げ、可憐を解放した。辺りを見渡す光。
「この氷は、弘孝君が?」
光の言葉に可憐はゆっくり頷き、今までの出来事を簡単に説明した。
「やっぱり、混血の彼は魔力が桁違いだね」
氷柱に軽く触れる光。死体である彼でさえ冷たく感じるその氷は、微かにウリエルの魔力と悪魔の魔力が入り交じっていた。
「弘孝が混血だという事をいつから知っていたの?」
可憐の言葉に光は数秒の沈黙で返した。一度彼女から、視線を逸らし、再度氷柱に触れた。
「Eランクでぼくが弘孝君を斬ろうとした時だよ。ふと、ガブリエルの魔力で彼を見た時、二種類の魔力が見えたんだ」
光の言葉に可憐は、そう、と短く返事した。弘孝が混血だという事を知らなかったのは自分だけだった事実に可憐はスカートの裾をキツく握り締めた。既にシワだらけのスカートは握られていない部分が微かに風で揺れていた。
「ぼくがもし、弘孝君だったら多分同じことをすると思うよ。君の不安要素を増やしたくないからね。可憐」
シワだらけのスカートに気付いた光は可憐の右手をそっと自分の左手で包み込んだ。何度も行われ、何度も拒否していたその行動に可憐は初めて安心感を抱いた。
「分かっているわ。それくらい。それに、弘孝は約束したのよ。もう、私には嘘をつかないって」
握られていた手を軽く握り返す可憐。彼女の魔力が光に流れ込んだ。
「そこまで仲良くなったなんて、少し妬けちゃうな」
冗談交じりの微笑をし、光は可憐から手を離した。両手に魔力を込め、剣を生み出す。
「さぁ、ぼくたちも悪魔を倒しに行こう」
剣を構え、ゆっくりと足を進める光。その時だった。二人の周りの氷柱が一気に崩れ始めたのだ。氷が砕ける派手な音が二人の耳を支配する。反射的に事を理解した光が慌てて魔力で壁を作り、自分と可憐を守った。
「すごーい。これが混血の魔力なんだ」
聞き慣れない声。やや幼いその声の持ち主は、氷柱が完全に崩れてから初めて可憐の目の前に現れた。闇と毒に近い色をした和服。肩につかないくらいの長さの銀髪と悪魔の色をした月下美人の髪飾り。その髪に近い色をした瞳。見た目の齢は可憐よりも歳下でアイと変わらないくらいであろうその少女は可憐を見ると笑った。
「初めまして癒しの大天使。ボクはルキフグス。十地獄第一地獄“いと高きものどもの地獄”第三下層地獄長ルキフグスだよ」
今すぐにでも吐き出したいくらいの負の魔力。口調とは裏腹に冷たいその視線は彼女が上から四番目の悪魔であるという事を証明するには充分すぎるものだった。先程まで口にしていた紅茶とクッキーを嘔吐しそうになる気持ちをぐっと堪えるように可憐は右手で自分の口元を押さえた。
「ヘルエルはどうした!」
嘔吐く可憐の背中を軽く擦りながら叫ぶ光。瞳は赤く染っていた。
「花がほとんど絶滅したこの世界であの人の魔力がボクにこんな長く通用すると思う?」
ルキフグスが右手の中指と親指を重ねてパチンと音を鳴らした。すると、彼女の隣に氷柱が現れた。氷柱の中には傷だらけの春紀が閉じ込められていた。
「ヘルエル!」
光の叫び声に微かに反応する春紀。まだ生きていると確認した光はルキフグスを睨みつけた。
「ボクは君たちと殺し合いをしに来たんじゃない。いい加減、転生しては殺しあってって繰り返すのは馬鹿馬鹿しくないか? そこで提案があるんだ。ウリエルとラファエルの器をボクたちに譲ってくれよ」
可憐を指さすルキフグス。自分の魔力を使い嘔吐感を相殺した可憐はゆっくりと視線をルキフグスに移した。
「大天使の魔力が二対二でお互いにいたら戦っても無意味。お互い無干渉で共存することが平和的な解決策じゃないかな」