188話 鎮魂歌+四重奏(2)
三人の視線が声の方へ向けられる。そこには、光に抱きしめられながら、三人を見ている可憐の姿があった。
「あ、可憐ねぇじゃーん。サタン様と契約する気になったー?」
皐月が可憐に向かって血塗られた手を差し出す。最低限の回復しか出来ない皐月は、完全に止血することが出来ずにいた。血が滴り、氷の世界へと落ちていく。
「皐月君……その手は……」
差し出された手に、可憐の目は見開いていた。しかし、皐月はそんな可憐に対し、六枚の虫の羽を羽ばたかせながら、挑戦的な笑みを浮かべていた。
「これー? ウリエルにやられたんだけどさー、別に痛くもなんともねぇよー? オレは攻撃の魔力に全振りしてる感じだから、こんな感じの怪我は治せないんだよなー。でもさー、この手の痛みなんて、混血だった時の苦しさに比べたら全然平気ー」
血が流れていない方の手に魔力を炎のように灯し、傷口を焼き付ける、焼灼止血をした。僅かに表情を歪めたが、完全に止血した頃にはその表情も消えていた。
「混血だった時の苦しさ……。私が見ていたあなたの苦しみは、病気じゃなくて、契約者としての苦しみだったのね……」
自身の手を火で炙る事が、どれだけ勇気が必要な行動であり、どれだけ苦しい事か、可憐には容易に想像できた。それをいとも簡単に成し遂げる、目の前の歳下であった少年を見ると、可憐の胸が締め付けられた。
無意識に触れていた光のシャツを握りしめる。それを見た光は、可憐を強く抱きしめた。光の冷たい身体が可憐の人間らしい体温を持つ身体と密着した。
「そーそー。一応、可憐ねぇは契約者の器って知っていたけど、当時の可憐ねぇは神話とか非科学的の話は嫌いだったからねー。兄貴だって一切触れなかっただろー?」
「ベルゼブブ! 今はその話は関係ないだろ!」
光が皐月の言葉を遮るように叫ぶ。光の瞳は朱色に染まり、目にはオレンジ色の魔力が灯されていた。その魔力を通して見る皐月は、幼い頃から両親から距離を置かれているような関係で、兄である弘孝は優遇されていた。そんな人生と、中途半端な混血故の息苦しさが、皐月を苦しめていた。それを見た光は、皐月に小さくため息をついた。
「サタンはこんな子さえも、自分の手足のように使うのか……」
そう呟いたが、それを聞き取れたのは、彼に密着している可憐だけだった。皐月を睨みつける光と、皐月を交互に見る。既に止血した傷口だったが、可憐と皐月の距離でも分かるほどの死臭が漂っていた。
「まぁ、オレの話は今は関係ないかー。んで、可憐ねぇ、そんな出会って間もないヤツと一緒にいるよりから、サタン様と契約してオレたちの仲間になんないー? 兄貴もこっちにいるんだしさー」
死臭が漂う方の手を差し出し、笑う皐月。それを見た可憐は首を激しく横に振った。
「私は、悪魔と契約なんかしないわ!」
エメラルドグリーンの魔力が光りとなり、可憐から放たれる。それは、天使たちの傷を癒し、皐月の悪魔の魔力で出来たドクターコートの裾を火で炙ったように焦がしていた。それを見た皐月は、一度可憐から距離を取り、消していた剣を再度具現化させた。
「えー、振られたかー。じゃあ、イエスと言うまで肉体的にも精神的にも追い詰めるしかないなー」
皐月のその言葉を合図に、再度剣の戦いが始まった。ジンが剣を横に斬るように大きく振りかぶる。しかし、即座に察知し、皐月が距離を取ったので、空を斬るだけで、皐月には当たらなかった。
猛とジンが可憐たちを守るように二人の前に立ち、剣を構える。ゴールドの魔力を一度灯した猛の息は荒くなっていた。
「磯崎、蝿の王の言葉に耳を傾けるな。弘孝の弟と言っても、奴は既に死人だ。奴の言葉に責任を感じるな」
猛が一瞬だけ視線を可憐に移す。そして、一方的に呟くと、魔力を纏った剣を脇下の高さまで持ち上げ、大きく横に薙ぎ払った。可憐の身長よりも長い猛の剣は、多少離れていても間合いに入り、皐月を襲う。
「ふーん。じゃあさー、オレはひたすら独り言を言っとくからさー、それを聞くか聞かないかは可憐ねぇに任せるよー」
皐月が怪我をしていない方の手のみで、無造作に剣を掴み、振り回す。それにより、先程の猛の攻撃は、剣が僅かにぶつかり合い、金属音を生み出すのみだった。剣術に沿った動きではない、皐月の力任せの動きは、猛とジンに先が読めなかった。
「まずさー、可憐ねぇが一番初めに親友の優美って女と一緒に悪魔になっちまえばさー、失わなくてすんだよなー」
視線は可憐に向けたまま、皐月はジンに向かって剣を振る。反射的にジンは六枚の白い翼を羽ばたかせ、皐月から距離を取った。しかし、剣先が僅かに翼に触れ、白い翼が赤く染った。
ジンはそれを、皐月と同様、自身の魔力を炎のように灯し、焼灼止血をする。肉が焼ける痛みに耐えるように、舌打ちをしながら、皐月の容赦ない攻撃を剣で受け止める。
そんなジンの姿を見ていた可憐は、先程の皐月の言葉のジンを重ねて見た。自分が契約者としての道を早く選ばなかった為に、親友を失い、自分の判断が遅かった為に、目の前でジンが回復を求めずに翼を焼いた。そう考えると、可憐の心臓は誰かに握り潰されているような感覚に襲われた。
「やめて……」
そう力無い声で呟くしか出来なかった。それを聞いていた光は、抱きしめながら、可憐の手にそっと自身の手を重ねた。死体独特の冷たさを持った光の手が乗せられていたが、可憐はそれに気付くことは無かった。
「んで、次にー、さっさと自分が器だって自覚してれば、可憐ねぇの新しい友達も、巻き込まれなかったよなー」
次の皐月の言葉から連想したのは、Eランクで知り合ったハルやアイの姿。もしも、自分が弘孝のように迷い無く光と契約を交わしていたら、弘孝は悪魔になることは無く、ジンも命を落とす必要も無かったのかもしれない。そうすれば、ハルたちが必要以上に仲間を失うことも無かった。
今までの出来事全てが自分の行動のせいだと可憐は悟り、皐月の言葉から耳を逸らすように俯いた。
「ラファエル! あんなヤツの言葉をマトモに聞くんじゃねぇ!」
ジンが可憐に向かって叫ぶ。その隙に皐月が容赦なく剣を振るう。Eランクで磨き上げた、反射神経を無意識に駆使し、ルビーレッドの魔力を纏わせた剣を使い、皐月の攻撃を受け止めていた。
「そしたら、兄貴もあんなに絶望しなくてさー、オレも悪魔だったしー、みんなで悪魔になって、Cランクで楽しく暮らしていた頃と、何も変わらない生活おくれたのになー」
ジンに攻撃を受け止められているのを気にせず、皐月は変わらず可憐に話しかけるような独り言をこぼす。それを聞いた可憐の目は潤んでいた。
「違う……私は……」
彼の言葉に、可憐の脳裏には自分が悪魔の道を選んだ場合の映像が浮かんだ。自分の傍に皐月がいて、弘孝がいて、親友の優美も消えることなく生きていた。Cランクで過ごしていた日々に、Aランクで出会った親友が混ざり合う。それは、可憐にとって理想の世界だった。
しかし、それは、可憐の手を強く握りしめた光によってこれ以上の想像を阻止された。長い間可憐の手を触れていたが、初めて可憐は光に手を握られている事に気付いた。
ふと、我に返り顔を上げ、光の顔を覗き込む。そこには、見慣れた黒い瞳ではなく、夢で見た大天使と同じ朱色の瞳の光が皐月を睨みつけていた。
「可憐にこれ以上執着するな!」