166話 鎮魂歌+君主の想い(4)
突然告げられた弘孝の想い。それを聞いた可憐は思考が停止した。今まで弘孝が自分にしてくれていた事は、全て恋愛感情からきていたものと初めて自覚する。やや八方美人な性格の弘孝は、可憐に向かってやっていた抱擁や触れ合いは、他の誰とも同じ感情だと可憐は考えていた。
弘孝の言葉を理解した可憐の思考回路は、再度動き出す。ふと、彼女の脳内に弘孝と過ごした日々が蘇る。どんな時も弘孝は可憐を優先していた。髪を切ったら、いの一番に気付き褒めてくれた。新しい服も直ぐに気付き、似合うと言ってくれた。Aランクへの昇格も、可憐にだけ密告し、共に昇格しようと言ってくれた。
これは全て、弘孝の性格と、自分が彼の幼なじみであるというだけで無条件に与えられた優しさだと可憐は考えていた。しかし、今、弘孝からぶつけられたこの想いを聞いた可憐は、それを全て否定し、自分への好意を表す結果であると完全に理解した。心臓が押し潰されるような感覚に襲われ、呼吸が浅くなる。
自分が特別に恋愛感情に疎い訳では無いと思っていた可憐だったが、弘孝の行動を振り返り、先程の言葉と比較すると、誰だって好意がある事は分かるような行動だった。しかし、可憐はそれを幼なじみという、弘孝の肩書きだけを見ていて彼の気持ちに気付く努力を怠っていた。可憐が最も嫌う、人を肩書きで見て接する事を自分の大切な幼なじみに無意識にしていた。そう気付くと、さらに可憐の心臓は強く押し潰されるような苦しさを味わっていた。
唯一動く口をゆっくりと開いて、可憐は自分を抱きしめている冷たい身体となった幼なじみに聞こえるくらいの小さな声量で呟いた。
「……ごめんなさい……」
今、可憐の中の語彙力で伝えられる精一杯の感情。目尻からは涙が溢れ、頬を伝い、抱きしめている弘孝の冷たい身体を濡らした。
自分がなぜこの言葉を選んだのか、可憐自身も分からなかった。弘孝を拒絶するための言葉なのか、今まで弘孝の気持ちに気付けなかった謝罪の言葉なのか、また別の意味なのか——。
首から下は完全に自分の意思で動かなくなった可憐の身体。仮に動かせる状況であっても、可憐は弘孝の冷たい抱擁を返す事が出来たのか分からなかった。
Eランクで初めて弘孝と再会した時の抱擁を思い出す。大切な幼なじみとの再会に感極まって、無意識にした行動。幼い頃とは違う男らしい筋肉質な身体。自分よりも高い身長。五年間で変わったところは沢山あったはずだったが、可憐はそれに気付く事は出来なかった。ただ、自分を想い人として抱きしめている弘孝の冷たい身体を止め処なく流れる涙で濡らす事しか出来なかった。
可憐の返事を聞いた弘孝は、ゆっくりと目を閉じて再度強く可憐を抱きしめる。自分で魔力を使い、彼女の動きを封じていたのは理解していたが、一方的な抱擁は、弘孝を拒絶しているような錯覚を覚えさせた。
「そうか……。それが僕に対するお前の答えか……」
一度可憐を抱擁から解放する弘孝。しかし、その直後に彼女の腰に手を回し、片手で抱きとめるような姿勢をとる。動けない可憐は、弘孝にされるがままの状態だった。
「弘孝……何をするつもりなの……?」
可憐の恐怖する言葉を弘孝は無視をして可憐を抱きとめている手の反対の手で持っていたバイオリンを一度床に置いた。
弘孝の空いている右手で可憐の頬や髪、太ももに触れる。彼の細い指が可憐の身体を撫でるように触れるその仕草は、これから接吻をする恋人同士のような風景だった。
「可憐……逃げて……」
そんな二人を見ていた光が弱々しい声をあげながら、魔力を使い、最低限の回復を試みる。しかし、第一地獄の地獄長である弘孝の魔力を打ち消す事は出来なかった。
僅かに動く身体でゆっくりと可憐に向かって手を伸ばす。それに気付いた可憐は光の手を取ろうと、手を伸ばす。しかし、それに気付いた弘孝が魔力の塊を可憐を撫でていた手で放ち、光に再度ダメージを与える。腹部に当たった弘孝の魔力は、光の嗚咽と共に、吐瀉物と血が混ざった液体を口から吐き出させた。
「光……!」
唯一動くことの出来る口で光の名を呼ぶ可憐。再度手を伸ばそうと試みたが、今度は弘孝の両腕が可憐の動きを封じ込み、指先しか動かすことは出来なかった。それを見た弘孝が光に向かってゴミを見るような目で笑った。
「やはり、僕はお前の運命の相手ではないらしい。ならば、その運命、僕がねじ曲げよう。ガブリエルとラファエルという運命ではなく、サタンとモロク。共に地獄を統べ、神を引きずり下ろし、全てを僕たちの物にする。神に操られた馬鹿らしい寸劇はもう終わりにしよう」
光に見えるように、わざと可憐の顔を光の方へ向ける弘孝。その後、可憐の顎に触れ、強制的に自分と視線を合わせる。弘孝の口元からは、悪魔の魔力がヨダレのようにこぼれていた。
その魔力を可憐に口移しで飲ませるように弘孝は可憐の口元に、自分の口を重ねようとした瞬間、エメラルドグリーンの魔力が可憐から大きく放たれた。予想外の出来事と、天使の魔力を近距離で浴びた弘孝は、内臓が抉れるような痛みに襲われ、思わず可憐を離す。
自身の魔力で弘孝から解放された可憐は、そのまま、体内を侵食していた弘孝の魔力を癒しの大天使ラファエルの魔力を使い相殺した。身体の自由を取り戻し、可憐はゆっくりと立ち上がり、黒い瞳で弘孝を睨みつけた。
「もう、あなたは私の知る弘孝ではないわ」
真っ直ぐな瞳で弘孝を見る可憐。目の前で口元を押さえながら苦しむ幼なじみから漏れる魔力は、可憐と対極的だった。
弘孝がこれ以上動けないのを確認すると、可憐は光の元へ駆け寄り、彼の腹部にそっと触れた。先程よりも優しいエメラルドグリーンの魔力が光の体内を巡り、弘孝の魔力を全て相殺し、痛みつけられた肉体を回復させた。
「光! 大丈夫?!」
「ありがとう可憐。やっぱり君が居ないと、ぼくはダメみたいだね」
完全に回復した光が立ち上がり、儚い笑みを浮かべたまま、可憐の頭を撫でた。死体独特の冷たさを持った光の手に触れられた時、弘孝との抱擁を一瞬だけ可憐は思い出した。しかし、その時感じた不快感のようなものは無く、母親に撫でられたような安心感と、どこか胸が苦しいような感覚に同時に襲われた。
「私って……私じゃなくて、ラファエルの魔力の事を言っているのでしょ。そもそも光は——」
可憐が彼女の中で完結している結論を口にしようとした、その時だった。弘孝と皐月以外の悪魔の魔力を光は感じ取った。二人よりも更に禍々しい、その魔力の持ち主は誰なのか考えなくとも簡単に分かった。
「可憐!」
光は可憐を抱きしめ、誰の血か分からない赤で染まった白い翼を羽ばたかせた。すると、その直後、辛うじて建物だと分かっていた、広間の壁が全て崩れ落ち、瓦礫となっていた。砂埃が舞い、視界が遮られる。
熾天使二人に守られていたハルとアイも例外無く、契約者たちの姿を目撃していた。砂埃で全てが見てていなかったが、本能的に危険だと察知し、アリエルとレフミエルの背後に隠れるように身を置く。
瓦礫が巻き上げた砂埃が落ち着に、視界が晴れると、そこには十二枚の黒い翼を羽ばたかせている吹雪の姿が目の前にあった。
「随分サタンを置いて派手にやってくれたなぁ」