135話 鎮魂歌+涙の国の君主(3)
光の魔力を受け止めた契約者。それは、可憐のクラスメートであり、光と猛が長年殺意を向けていた者であった。弘孝の隣の瓦礫となった床から闇と毒を混ぜたような色をした穴のようなものが現れており、吹雪の片足がそこに残っていた。
それを見た可憐と光は、吹雪がそこから現れた事を察知し、光は自身の瞳に魔力を集中させ、これ以上悪魔が現れないとこと確認した。幸いにも、吹雪以外の悪魔の気配は感じられなかった。
「思ったよりも早い返事だったなぁ、モロク」
自身の魔力の穴から片足を引き抜き、光を睨みつけながら弘孝に話しかける吹雪。そのまま魔力の穴を閉じ、右手で弘孝の長い髪に触れた。弘孝は、一度バイオリンと弦を魔力に戻し、体内に吸収し、吹雪を見た。
「別に。僕はただ、僕が望んでいないシナリオに進む事に反対しただけだ」
弘孝は視線を吹雪から可憐へ向ける。本来なら、ウリエルとして彼女を守るために、彼女の前に立っていたはずだった。しかし、それ以上の嫉妬心が弘孝の天使として生きる覚悟を奪った。
可憐を想い人として自覚していた時から、自分は彼女と結ばれる事は無いと理解していたが、その相手が、突然現れ、無条件に彼女を愛していることが弘孝は納得出来なかった。
弘孝の紫色の瞳に映るのは、先程から目を見開いたまま動かない可憐の姿。まるで、何かに怯える小動物のように小刻みに震える彼女は、今までのように自信に満ちた表情をしている弘孝ではなく、吹雪と同じ、生気のない絶望と嫉妬が混ざった表情の弘孝を見ていた。
「って事で、モロクを回収したら、オレたちはトンズラさせてもらうぜぇ。約束しただろぅ? 一週間後だって。あと三日はあるからなぁ。裏切りの大天使と言っても、ここはキッチリ守って恐怖した方が、可憐の心情も大きく揺れるって事だぁ」
既にカナリ絶望してるなぁと付け足し、白い歯を見せながら口元だけ笑う吹雪。彼の生気のない瞳は一度も可憐の前では笑ってはいなかった。
そんな吹雪と弘孝を見ていた可憐は、震える四肢を無理やり押さえ込み、両手でスカートの裾を握りしめた。真っ直ぐな瞳で弘孝を見つめる。彼女からエメラルドグリーンの魔力が溢れ出し、光から貰ったオレンジ色の十字架が飾られたネックレスがそれを吸収していた。
「待って! 弘孝! 嘘だと言って! あなたが悪魔……それも第一地獄の地獄長になったなんて、信じられないわ!」
吹雪が現れて初めて口にした言葉。震えそうになる声を無理やり大声に変え、弘孝に向かって叫ぶように言っていたが、弘孝は顔色ひとつ変えずに可憐を見ていた。
「嘘だと言って欲しいのは僕の方だ! 僕は、お前をずっと——」
これ以上は何も言うなと言わんばかりに、弘孝の前に出る吹雪。吹雪の足元には、彼が現れた時と同じように魔力の穴のようなものが現れていた。
弘孝が吹雪の動きを一瞬だけ遮り、可憐に思いを伝えようと口を開いた瞬間、吹雪に向かって殺意の込められたコバルトブルーに近い紫色の魔力を纏った剣が振りかざされた。
「サタン!」
殺意と共に叫ばれた声の持ち主は猛だった。既に格好は、一色猛としてではなく、裁きの大天使ミカエルとなり、六枚の翼を大きく羽ばたかせていた。
「随分遅い登場じゃねぇかぁ、じゃじゃ馬姫よぉ」
吹雪もまた、十二枚の黒い翼を露にした。それと同時に彼から溢れ出る負の魔力。それは、充分な距離をとっているが、契約者では無い可憐には不安や恐怖といった負の感情で包み込んでいた。
「随分早い登場じゃないか、裏切りの大天使」
「早い? 違ぇよオレは期限を守る。ただ、今回は弘孝を迎えに来ただけだぁ」
猛の言葉に間髪入れずに答える吹雪。それを聞いた猛は目を見開いた。猛の表情を見た吹雪が数歩横に移動し、自分の背中に隠れていた華奢な少年を猛の視界に入れる。
「弘孝! お前は……二重契約を?!」
猛の魔力でも見える範囲で見た弘孝からは、ルビーレッドの魔力は一切見えず、代わりにそれ以上の悪魔としての魔力が弘孝を包み込んでいた。
「弘孝の魔力に異常を感知したから、慌てて来てみたら……遅かったか!」
猛が剣に纏っていた魔力の色をゴールドに変える。裁きの魔力へと変えられたその剣を弘孝に向かって振りかざそうとしたが、猛の腹部に鈍い痛みが走った。予期せぬ痛みに猛は振りかざしていた剣をそのまま下ろし、床に突き刺した。
痛みの原因を突き止めるため、猛は一度視線を弘孝から外した。そこには拳に魔力を込めた吹雪の姿。
「そうはさせねぇよぉ。貴重な混血のモロクはオレのだぁ」
嫉妬するなよじゃじゃ馬姫と付け足し、再度猛の腹部に魔力を込めた拳で殴る吹雪。更に痛みが増し、猛は口から床に赤い液体を撒き散らした。呼吸をするのが精一杯の猛を尻目に、吹雪は弘孝の肩を取り、氷結地獄へと繋がる入口の魔力へと身体を向けた。
「弘孝! 弘孝!」
長年慕っていた幼なじみの名を叫ぶ可憐。しかし、弘孝はそれに答えることはなかった。一度だけ視線を可憐に向けたが、そこに愛情は無く、失望と嫉妬の冷たい視線が可憐を捉えていた。
「可憐! もう、弘孝君は、弘孝君じゃないんだよ……」
涙を流しながら弘孝に手を伸ばす可憐を抱きしめるように抑え込む光。可憐は彼の腕の中でも変わらず、幼なじみの名を叫び、涙を流していた。
そんな二人を見ていた弘孝はさらに蔑むような視線を送り、一度だけ睨みつけると、視線を氷結地獄への入口に向けた。
それを見た吹雪は数歩進むと、弘孝と共に魔力の闇へと消えていった。
「弘孝!」
可憐の最後の叫び声は、弘孝の耳には届かなかった。
二人が消えた後には、黒い羽根が一枚落ちていた。