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子供といっても、初等部にもなれば、その知能は大人とそう変わらない。ならば何が違うのかと言えば、知識や経験、視野の広さと…、結局は明確に差がある事になる。けれども確かに、既に大人と変わらない自我がある。それは真新しく、まだ我慢を知らない。同時に…傷つきやすく、変質しやすい無垢さがある。
だからこの年頃になると、明確な意思を持った衝突が増え始める。それは時に、おもちゃを取った取らないのような、その場のちょっとした喧嘩では済まない事も…。
「花子? なんだそれだっせー名前!」
「え…」
それは、クラスの自己紹介でのちょっとした出来事だった。クラスの子が、思った事をそのまま口に出しただけ。それだけなら、これも経験で済んだかもしれなかった。
「花子ってあれじゃん。便所の花子さんじゃん!」
「くっせー!」
「え…や…」
「机離さなきゃなー!」
「見た目もそっくりだし、古くせえんだよ」
それはあんまりな悪口の数々だったが、ここまではほんの一瞬の事で、花子はそれを唐突に投げつけられた。しかしこの場には、当時仲の良かった子も教師も居る。次の瞬間には、その子達を止めてくれるはずだった。
「…っ!」
「ちょっとひどっ…あっ、待って!」
「野村さん!」
しかし花子は、それを聞く前に逃げ出してしまった。
よってたかって、ひどい事を言われる。物静かで、気弱な女の子にとって、それは本当にショックな出来事だった。とある出来事との重なりで…、タイミングが悪かったのも大きかった。
結局、その日花子は教室に戻らなかった。
次の日、勇気を振り絞る為に、ほんの一日学校を休む事にした。
…それが良くなかった。
自分が怖い思いをした場所。そこから一時的に逃げたところで…。そんな事で勝手に立ち直れる性格なら、あの場で言い返す事だって出来た。“嫌な思いをした教室”と言う印象を、花子はそのまま抱いて一日過ごしてしまった。それが、かえって傷を大きくした。
結果…二日、三日……。花子は学校に行けないままだった。
そんな時だった。
「いつまで引きこもってやがる」
「っ!」
「ビクついてんじゃねえ」
「………」
口調こそ荒かったが、その声音には優しさが混じっていた。花子もそれを感じ取り、最初の一言以降、身を竦める事は無くなっている。
「何があったか、先生に聞いてきたよ」
「…おねえちゃん……ごめん…なさい」
慰めて貰えるかも。優しい言葉をかけて貰えるかも…。そんな淡い期待は、しかしその姉には届かなかった。
「よわっちいなあお前…。そんな事でどうすんだ。アタシ達は、もう自分でやってくしかないんだぞ」
「う…う…」
「いいか? 明日は登校しろ。そんで言い返して来い。今から考えとけ」
「……め」
「あん?」
「それは…だめ」
「お前なあ…」
「人からされて…嫌だった事はしちゃだめだよって…。おかあ…さんが…っ」
「あーはいはい泣くんじゃねえよ。ならー…あれだ。明日そいつらぶん殴って来い。な?」
「だ、だめ…だよ」
「いいか花子。また悪口言われるのが嫌なんだろ。ならそいつらより強くなれ。上から見下ろせ。そうすりゃ突っかかってこなくなる」
「人に…ぼうりょくを振るったら」
「ああーわかったわかった。なら物だ」
「も、もの…」
「窓の一枚二枚ぶち破って来い」
「だめだよぉ…」
「あーもうならお前の出来る範囲でいい。あとはそうだな…。髪染めよう。アタシと同じ金髪とかどうよ。少なくとも、もうお化けには見えねえさ」
「わ、わたし…」
「あーもうそれも直せ! 弱々しいんだよなー言い方も含めて。言ってみ、ア・タ・シ!」
「あ…あたし…?」
「…ふんわりしてるなあお前」
「う…」
「とにかく、クソみてえな奴らはビビらせておけばいいんだよ。気合だ」
「うん」
「オ゛ラ゛ア゛アアアアア死ね糞カスボケあああん!?」
「ひ…ん…」
「お前が怖がってんじゃねえ!」
「……わ、わるぐちは」
「なら最初だけでいい。それなら悪口じゃねえ。セーフだ」
「………」
「いいから真似してみろ」
「…おらあー」
「なんだそりゃあ!? もっとドス効かせろよなあ!」
「なにそれえ…」
「オ゛ラ゛ア゛アアア!!」
「…おっ…らああー…!」
「もっとだよ! せーのっ――」
変わらなきゃと思っていた。
そんな時につまずいてしまって、どうすればいいかわからなかった。
まだ小さな花子にとって、それは唯一の道標だったのだ。




