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作者: 野口詠多


おそれおおくも、あらまほしきものなり。




 子供の頃の思い出といえば、いの一番に口の端にあがるのが、母親に手を引かれて買い物へ行った時の道すがらのことだ。当時大好きだった、心の温まる人情のつまった本をせがみにせがんでやっとのことで買ってもらった帰るさだった。



碧空を構成する短い波長は網膜へ迎え入れられるまでに散乱し、逢魔が時にふさわしく、僕の気持ちもまったく同じ色をしていた。



 誰にでもある、ありふれた原風景。しかし僕の場合、風景の中心となっていたのは、弌つの小さな石だった。



 蹴って転がす用にも足らない、どこにでもあるただの石ころ。



 それを母親が蹴り上げたのだった。



目が泳ぐ、そんな僕をぐいっと引っ張り、口は尖らせ母は叱咤する。



「こらっ! よそ見をして歩くのではありません!」



 そうは言うが、ミネルバの飼い鳥のようにまん丸い母の眼は、僕のほうへばかり注がれて、今しがた蹴り跳ばした石のことなぞ既に忘れて眼中にない。



 なんとなく、胸の詰まるような思いがした。



 母はよそ見をするなと叱るけど、そういう母こそ、不注意が過ぎるのではないかと、子供ながらに抗議しようと上を仰ぐと、さながらよくできた石細工のように、母は烈火のごとき般若面を、顔いっぱいに皺をあつめることによって浮き彫りにしていた。



 驚くべきことに、世界はにわかにかたまっていた。



 母だけではない、空を翔く飛行機も、風にさらわれる広告チラシも、談笑にふける雑踏も、みんながみんな、この瞬間には同じ速度でぴたりと不自然な静止運動をしていたものだ。



 僕は石仏のようになって動かなくなってしまった母を見返しながら、なぜ世界が停止してしまったのかを熟考してみたが、小学生にも満たない時分の子供に絶対零度下での分子の揺動やその真相なんてわかるべくもなく、せいぜい、みんな苦い薬と間違えて石でも飲みこんでしまったのではという、およそ荒唐無稽な結論しか見えてこない。



 何もかもが停止した世界にあって、僕だけが思考を許されていた。尤も、硬直した母に手を掴まれた子供だものだから、考えたところで大した行動にも移せないのだが、思案をすること、それ自体は、けだし正しいもののように思われた。



 と、そうして考え込んでいるイノセンスの耳朶へ、音が届いた。それは平素であればまったく気にならない類いの音であり、決して小さくはない振幅でありながら、海馬にはなかなかどうして焼き付けられないジャンルの音だった。



「痛ててて。ったく、痛ってぇなチクショウ。どういう教育を受けてきたんだきょうびの大人はよぉ? 親の顔が見てみたいってもんだぜ」



 固いものと固いものが、打ち合わされた時に、ちょうどそういう音がするだろうかというくらいに、不自然な超常の中で、その音はあまりにも自然に響いた。



 僕は辺りをきょろきょろと見回してみる。周囲に言葉を発しそうな人間は、ただの弌物として見当たらなかった。



 僕は覚えず、首を傾げた。



「お、なんだい坊っちゃん。こんな板みたいに薄っぺらい世界の中では、唯弌動けるクチなのかい? 嬉しいねぇ、こちとらようやっと話し相手ができたってもんよ。そんなところでつくねんと突っ立ってないで、どれ、こっちへ来な。飴玉の一つや二つでも持ってんだろ、子供だもんな、貰えるはずだ。できれぼ俺にも一つ、都合してくんろ?」



 誰かに何かを丐われているような気がするものの、僕はどうすることもできずにいた。



 不思議と恐怖はいっさいなかった。いま思い返してみれば、よく怖がらずにいたものだと、我がことながら感嘆する。だが、なんのことはない、おそらくこの時、幼児の知能が理解へと及ばず、ために話者不在の時に常人が感じる恐怖と紐つけて想像することができていなかっただけなのだろう。僕はそのかみのことを思い出すと、今でもたまに、背筋に怖気か走ることがあるほどだ。



 幼い僕は、見えない音の正体を探るように、輝かしい闇の奥へと声を致した。



「ねぇ、あたはいったいどこにいるの?」



「ここだ、ここ。坊やの大好きなママの足許……そこに、何の役にも立ちそうもねぇ、つまらねぇ石っコロが転がってんだろ? それが俺だよ」



「石?」



 えもいわれぬ音の正体が石の声だったと気付いた時、遅まきながら僕は全身が総毛立つのを隠せなかった。何が怖いといって、石が話しかけてきたという驚目すべき事実もさることながら、それに応えてしまったことの方がよっぽど怖く感じてしまった。



 こんなところが千変万化の感情に富む母に見られたらと、びくびくしながら再び仰ぐと、そこには運慶快慶の一連の遒勁な仕事とおぼしき如夜叉然とした立像があるばかり。ああそうか、時間が停滞しているのだ。



 であれば僕に、怖いものなぞ弌つもない。墓穴に飛び込む猫もかくや、僕は生命を賭して眼下の石に問いを投げた。



「どうして石が、お喋りするの?」



「……つまり、なんだな。俺にはその権利がねぇと、そういうことが言いてぇんだな、坊主はよぉ?」



皮と肉とを共にもたない石が、藍色に富んだ質問で返した。作法もわからず、僕は質問に質問で返された質問に更なる質問で返したのだった。



「権利って、なんのこと?」



一拍の間をおいて、石は噛んで含めるように訊いてきた。



「おめぇさんが生きてられんのは、ぜんたい誰のおかげだい」



「ママのおかげだよ」



僕は弌欠片ほどの迷いもなく、屈託なく答えた。



そんな僕に、石はきっぱりと言い放つ。



「違げぇな。当たらずといえど遠からず、だ。お前さんが生きていられるのは、権利があって、誰も手出しができないからだ。とって食うのが世の恒だ。おチビちゃんが誰にも食われずにいるのは、その権利があればこそ、なんだぜ。俺みてぇな石がみだりに喋っちゃなんねぇ法はねぇが、その点、ボクと比べりゃ権利は薄弱だわな。いずれ遠からず喰われちまう」 



「あなたは食べられちゃうの? いったい誰が、石なんかを食べるの?」



 戛戛戛っと、馬の蹴たてる脚のような音をうち鳴らして、石はスレート色の笑みを浮かべた。



「いやいや、ちょいとばかし違ったな。なぜなら俺は、もうとっくに喰われちまっているんだよ」


 

当時の僕にはさっぱり呑み込めない理屈だった。



「喰われたら、石になるのはなんでなの?」



「喰われると、人は必ず石になる。そうなると、時間の流れが、余人とは異なる速度で流動する」



ホワットがいっこうに要領を得ないので、僕は矢継ぎ早の質問をホワイダニットに切り替えた。



「権利がないから、喰われたの?」



「権利なんてもんは、いつの間にか落としちまうもんだ。おチビのように、母親に手を牽かれているうちは落とし損なうこたぁまずないが、ひとたび失くせばたちまち石の仲間入りさ。誰も交番に届けてはくれないんだ。そんな石は子孫を育めないが、どういうわけだか俺たち石はマスプロダクトされていやがるから、お前さんも気をつけるこった」



「子孫が、つくれない? じゃあ、子供の石はいないんだ」



そう思うと、安堵したような、あるいは、一抹の淋しさのようなものが胸に去来した。



石は応える、坦々と。



「少なくとも、権利のやつが黙っちゃいない。子供は石になる前に、多くは丐命の声が聞き届けられる」



「……じゃあ、もしも僕が石になっちゃったら、きっと一人ぼっちになるんだね。だってお友達がつくれないんだもの」



「だはは。坊やは時間の速度を石の尺度に合わせられるから、悲しいことに、石に近いといえるかもな。だが大丈夫、坊やはまだまだ先が長い、大人になって会社に入って結婚して子供を扶養すれば、まず間違いなく石にはならないよ……たぶんな」



「石は、結婚できないの?」



「誰とだって結婚できる。『君だけ』なんてクソ喰らえ、カミュの『異邦人』にあるように、木石漢なんてみんな同じさ。本当の意味の愛なんざどうでもいい。純愛をうたった言葉にはヘドが出る」



 だから俺は、石なんだと、自嘲ぎみに石は言った。



「……どうしたら、石を救えるの?」



「答えは簡単だ。時間だ、意識の流れだ。政治家になったって革命をしたって、根本のパラダイムは急激には変わらない。お前さんが石を救いたいのなら、まず諦めろ。未来ある若人にできることは、石が救われる時代の到来を待つしかねぇんだ。奴隷や差別を撤廃した真の功労者が、弌人の偉人ではなく、解決の天才であるところの時間ってやつであったように」



 時間……僕の膝に鈍い成長痛を感じさせもするそれ自体は、この時この瞬間においてはすっかり停滞していたのだ。であればこそ、僕は石の声をくみとることができるのだし、だからこそ、僕には石を救えない。



救うには、あまりに時間が足りていない。



「……飴をあげるよ。僕の飴」



「お、サンキュ」



琥珀色の飴玉は、誰の心を溶かしたものだろう。僕はこの時、そんなことを考えていた。



だってそうでないと、飴が甘いことの説明がちっともつかないからだ。



「苦いな、この飴は。実に苦い……ところでボウズ、お前さんはそろそろ帰った方がいい。ここは裏路地、生命の掃きだめ。石のたむろする時間帯……未来ある幼子が、ひょっこり訪れていい場所じゃない」



「……それが、わからないんだ。お母さんが石を蹴った瞬間に、急に時間が停まっちゃって……」



「手に持つ本を、手放してみろ。そうすりゃ時は動き出す。それができなかった大ばか者がダルタニアンのマブダチのボルトスって大兵だったし、門に腰掛けて塗炭に苦しむ蟻んこを瞰めやるダンテって野郎もそのクチだ。身動きしたきゃ、断捨離が大事ってもんだ」



僕は石の言葉か、あるいは他の何かを後生大事に胸に抱いた。



「いやだよ、ずっとねだって、やっと買ってもらえたものなのに……簡単には捨てられないよ」



「幼いながらに努力の結晶か、なるほど。だがどうする、それでは決して戻れない」



時間は動き出す気配を見せない。僕はたまらず不安になって、道行きを里程標に恃む仔羊のように、石をつくづく眺めやった。



石は言う。しんねりむっつり、無表情に。しかして握りこぶしのようにしっかりと詰まった声だった。



「いいか、マセガキ。このさきお前が『正しい』と思うような何かがあったとして、絶対にそれを心に抱くな。『正しい』ことは実行するな、むしろその反対をやれ」



「……そうすると、石になれるの?」



「その逆だ。石にはならず、人間のままでいられる。『正しい』ことをしないだけで、お前さんの時間は再び流れる」



「僕の、時間」



サトゥルヌスの臓腑を破りユピテルが暴れ出てくるようなおぞましい感覚が身を襲った。




次の瞬間には、僕は手を引かれたガイアたる母の腰元へと抱き着き、すすり泣いていたのであった。



「――よそ見をするから、そういう目に遭うのよ。これをしおに憶えなさい、いけないことは、してはいけません」



動き出した時の中で、人は街は鳥は大気は母は、丐は芥は鴉は心は世界は、そぞろに活動を取り戻し、とりわけ母の叱咤はさっそく僕の耳に胼胝をつくった。




――この時の僕は、路傍に転がる石をまたぐように歩いていたが……。



いま僕は、あの時の母の声を思い出しながら、僕のミームを引き継いだ我が子の手を引きつつ、スレート色の舗装された道を踏みしめている。



しっかりとした足取りで、迷いなく……二一グラムほどの小石のような澱の重さを、胸にずっしり感じながら。



Fin



はじめちょろちょろ、中ぱっぱ。



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