表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

とある午後の逃走劇

作者: 大野サクラ

 馬車の窓から差し込んだ光に照らされて、カートの長い睫毛がキラキラと輝いた。少しだけ痛んだ赤茶色の髪が、馬車の振動に合わせてかすかに揺れる。先ほどまでとは違い、彼は少し考え込むような表情で、男らしいがっしりとした手元を見つめていた。

 今頃になってやっと、彼の顔をしっかり見た気がする。冷静な頭で見ると、彼はずいぶん綺麗な顔をしていた。シンプルだが品のいいシャツの下に隠れた体も、ずいぶんたくましく見える。

 窓からの風景に緑が多く混じりはじめ、次第に外のざわめきが落ち着いてくる。カートにならって座席に背中を預けると、自然と緩んだ口から言葉がこぼれていた。


「今日は貴方に会えてとてもラッキーだった」





【とある午後の逃走劇】





『ぜっ……たいに、嫌! 嫌だから!』


 その話をお父様が持って来た時から、もう嫌で嫌で仕方がなかった。自分の人生で最も強く、お父様の意見に反対した瞬間だ。『そんなことを、言ったって……僕も強く言えない相手なんだよ~……』と、背中を丸めて申し訳なさそうにされると良心が傷まないこともないが、それでも今回ばかりは嫌なものは嫌なのだ。


『結婚なんてしないからね、私!』


 いや、まだ、結婚とか、そういう話じゃないんだ。ただちょっと会ってくれればいい。会ってお茶でも一杯しばいてこればいいから。それだけ、それだけだから。

 なんて、しどろもどろになりながらお父様は必死に私を説得しようとするが、その必死さが私の拒絶反応を強くする。これはもう会ってしまったら決まりだろう。冷や汗をかきながら、心底申し訳なさそうにするお父様の顔と、話の流れを聞いていればそれくらい分かる。


『どうせまた、“この湖”が欲しいだけのくそったれなんだから、適当にびびらせて、向こうから断らせればいいのに!』


 そう言って、窓の向こうの景色を指差した。


 人里離れた森の中に、静かに美しくそこに存在し続ける湖がある。この国がこの場所にできるずっとずっと前から、この場所に豊かな自然を育んで来た命の湖だ。

 私の家は、代々湖の側に住みひっそりと守り続けて来た“水辺の魔法使い”と呼ばれる、古い魔法使いの家である。

 泉を守る代わりに、私達はほんの少しだけ泉の力を貰うことを許されている。泉の透き通って美しい水は、良質な薬の元となり、沢山の人間達の命を救って来た。

 もちろん、そんな力ある泉とそれを使える私たちを欲しがる人間は多い。

 権力ある人間達が金を積んだり、脅迫まがいのことを言ってこの場所を手に入れようとしてきたのを、私は幼い頃から何度も見て来た。一人娘の私が年頃になってくると、薄っぺらい言葉を連ねて結婚を申し込んでくる人もいた。愛をささやいたその裏で、“魔女と結婚なんて”と薄ら笑いを浮かべているのを知らないとでも思っているのだろうか。

 子供だった私はその言葉の数だけ傷ついた。

 だから、私は、そんな人間と結婚しないって決めている。水辺の魔法使いではなく、ただ一人の女として、私のことを好きになってくれる人と、運命的に恋に落ちて、結婚しようと決めている。

 ……残念ながら、まだ、相手は見つかっていないけれど。


『本当に申し訳ないんだけれど、今回ばかりはそういうのちょっと無理そうなんだよ~』

『……なんで』

『紹介してくれたのが、王立図書館の館長のリブロ様だから』

『うっ……』


 リブロ様の穏やかな表情を思い出すと、私の決心がぐらりと揺れた。

 もう200年だか300年だか生きていると言われているリブロ様もまた、魔法使いの一人だ。もうほとんどのいなくなってしまったこの国の魔法使いの長のような方で、私だけでなく、ジゼットコート家の人間達は代々世話になり続けている。

 彼は私がずっとそうやって嘘つきな愛に傷つけられていることも知っている。そして、そういう人間から距離を置けるようにと、私のために立ち回ってくれたのも知っている。だから、“会うだけでいい”というその言葉を断りにくいのも確かである。


『リブロ様はお母様が死んでから、リリの将来のことをすごく心配してくれているんだよ』

『それは……』

『それにね、リリ、なによりも問題はさ、』

『問題は?』


 お父様が引きつった笑顔でグッと親指を立てた。


『相手があの、第三騎士団の隊長、シュオン様だから!』



「シュオン?」


 と、私の前の席に腰を降ろした男は不思議そうに名前を繰り返した。太陽のようなオレンジがかった金色の目が、どこか楽しげに開かれている。

 先ほど出会ったばかりのこの赤茶色の髪の男は、自分を“隣国のしがない商人の息子”と紹介した。名前はカート。『仕事で久しぶりこの国に来たんだ』と言ってはいたが、本当の所はよく分からない。ただ、豪華な馬車に乗っているし、身なりもしっかりしている。悪い人ではないと信じたい。今、私の逃走劇が成功するかは、この人にかかっているのだから。


「ご存じないですか?」

「敬語は結構。ああ、そうだね。なにせ、あまり街に来たことはないので」

「ああ、そうなの。私も、王都に来たのは初めてだけれど、彼のよくない噂はここからずっと遠い私の街にも流れてくるわ」


 “隣国のしがない商人の息子カート”に、私は懇切丁寧にシュオンの説明をした。

 第三騎士団隊長のシュオン。悪名高きシュオン。女たらしのシュオン。礼儀のない男シュオン。冷酷で乱暴者のシュオン。彼に関する噂は多々あるが、どれもこれもあまりいいものではない。

 王城に仕える騎士団はいくつかの隊に別れているが、第三というのはいわゆる士官学校を出た者や、名家の家の子らで作られた部隊ではない。どうしようもない街の荒くれ者達を野放しにしないために先の王の代に作られたものだという。その部隊の隊長を務めているシュオンも、いわゆる貧しい村の出身で、たいそう乱暴者の男だったそうだ。騎士団に入ってからも、気に入らない住民を殴っただの、街娘をたぶらかしただの。私の所にも、シュオンにこっぴどくふられたと言って薬をもらいに来た人がいるほどだ。


「それは、それは、随分な言われようだ」


 カートは可笑しそうに口元を微かに緩めた。笑うと彼は少しだけ幼く見える。


「よっぽどひどい男なんだろうね」

「そうらしいわ」

「それにしても。よく逃げ出せたね。君は見た所、とてもか弱そうな、ただのお嬢さんに見えるのに」


 カートは値踏みするように目を細めた。優雅に長い足を組んだ姿からは、余裕さえ感じる。

 そりゃあ、まあ、こんな豪勢な馬車に乗って、どこの馬の骨とも分からない女を乗せられるくらいなんだから、いろいろと余裕があるんだろうけれど。




 シュオンとの見合いを兼ねた食事会は、彼が持っているという街外れの小さくとも品のよい一軒家で行なわれた。丁寧に手入れがされた庭の真ん中に、緑の木々に囲まれた白い壁の家がひっそりと建っていた。

 なんとなく、噂で聞く彼の姿とその家の立ち姿が重ならなくて、釈然としない気持ちでいると、使用人の一人は言った。「シュオン様は、あまりこちらのお家には帰ってこられませんので……」

 その言葉の先をどう想像していいか分からずいると、細身の男性が石畳の道を歩いて来た。彼は私とお父様の前までやって来ると、うやうやしく頭を下げた。


「あ、えっと、シュ、シュオンと申します」


 私は咄嗟に口を押さえた。それはもちろん、驚きの声を出さないためだ。

 え? 本当に? 本当に? この覇気のない、ひょろっとしたのが、あの噂のシュオン? 握手を求められた手は情けなくぶるぶる震えているし、額にはうっすら汗をかいている。挙げ句、眼鏡の奥の目は泳ぎきっているこの男が?


「え、あ、お、お会いできて光栄です、シュオン様」

「あっ、はい、私もです」


 父との会話もどこかたどたどしい。彼は弱々しい笑みを浮かべて続けた。


「いや、お恥ずかしながら、こういう場は初めてで、どうにも緊張してしまって」


 私は、そんな彼の姿を見ながら心底思った。


 ――しめた。


 ラッキー。本当にラッキー。この男相手なら、出し抜ける。

 口元に浮かんでくる笑みを押し殺しながら、私は内心笑いが止まらなかった。

 いかにも間抜けそうだと思ったことに間違いはなく、食事を適当な所で終わらせて御手洗へと立った私に男は一切の警戒心を見せなかった。立ち上がった瞬間お父様が、「ちゃんと戻って来るんだぞ」と強く目で訴えかけてきたけれど、ごめんなさいお父様。私は逃げます。


 御手洗へ行く途中の廊下に飾ってあった、大きな花瓶。中にはたっぷりと水が入っている。花瓶越しにその水に助けてと話しかければ、色よい返事が返って来た。力を込めれば、花瓶の中から自分と瓜二つの人間が出て来る。うむ、なかなかの出来だ。これならお父様以外は誰も気がつかないだろう。


「上手く王都を抜けるまで……そうね……二、三時間、上手く立ち回ってくれる?」

『マカセ、て!』


 ベースが水なだけあって、しゃべりはたどたどしい。けれどそれこそが重要なのだ。

 私の魔力で形を保っているだけだから、当然臨機応変には話せない。たどたどしくとんちんかんなことを話し続ける小娘と、さすがに結婚したいとは、シュオンも思わないだろう。後始末は上手いことお父様がやってくれるはず。

 完璧な作戦だ。



「ちょっと、待って」


 カートは、目を真ん丸にして話を止めた。


「水を君の形にって言った?」

「ええ」

「そのつまり君は……魔法使いってことかい?」

「ええ」

「……マジ?」

「マジよ」


 答えると、カートは私を、つま先から頭の先まで観察するように見た。その後ゆっくりと背もたれに深く体を沈めると、「信じられないな……」というつぶやきが、口元を覆った手の隙間から漏れ落ちる。


「魔女っていうのは……てっきり、引きこもりの揶揄かと……」

「え?」

「ああ、いや、なんでもない。こっちの話」


 カートは眉間に皺を寄せた。


「まあ、今は、魔法使いはほとんど滅んだ種族だから……驚くのも無理はないと思うわ。この国にも、魔法を信じる人はずいぶん少なくなったし、魔法使いの家もほとんど残っていないもの」


 最近はジゼットコートの家のことを、ただの有能な薬屋だと思っている人たちだってたくさんいる。そうやって忘れられていくことをお父様はとても寂しがっているけれど、私はそれならそれでもいいかと思っている。気味悪がられたり、嘘をつかれるより、よっぽどいい。


「国によっては、まだ沢山の魔法使いが残っている所もあるって聞いたけれど、カートの国にも、魔法使いはあまりいないの?」

「えっ……あ、ああ。初めて見たよ。申し訳ない、驚いてしまって……」

「気にしないで。この話に私が魔法使いなのは、さして重要ではないから」


 窓の外に視線を投げた。いつの間にか風景は王都の中心街へと変わっていた。


「それで、シュオンの家から逃げ出した時に、たまたま貴方の馬車と会って、それで拾って貰ったってわけ」

「そりゃあ、あんな必死の形相をしてたら、何事かと思うよ」


 カートは思い出して可笑しくなったのか、くつくつと口元を押さえながら笑った。

 なんとなく恥ずかしくて、頬に熱が集まっていく。


「……あんまり笑わないでもらえます?」

「くくっ、いや、失礼」

「だって、本当に必死だったの」

「分かるよ、そんなひどい男とは結婚したくないだろう」

「そういうことじゃないのよ」

「え?」


 正直な所シュオンが乱暴者だとか、女たらしだとか、わりとそんなことはどうだってよかったりする。顔も知らない相手だ。どんな性格かだって、本当のところは知らないわけだし。

 私が気に入らないのはそこではない。


「私は自分で、運命の人と出会いたいの。私のことを、魔法使いとか、誰かからの紹介だとか、そんなこと関係なく好きになってくれる人と」


 運命的に恋に落ちて、私自身を好きだって言ってくれる人と。ちゃんと、私を好きになってくれる人と。


「だって、結婚は好きな人とするものでしょう。恋は運命的なものだから」

「……そ、れは」


 カートの震えた声がして、視線を向けた。

 口元を押さえ、何かをこらえて震えるカートの顔は真っ赤だった。


「……ちょっと」


 じっとりとした視線で睨むと、堤防が決壊したかのように「ブフッ」とカートの口から空気が漏れた。すぐに盛大な笑い声が続く。


「あっはははは」

「あのねぇ、私、結構真剣に言ってるんだけど!」

「はははは、いや、ブフフッ、悪い」

「悪いって思ってないでしょ!」

「思ってる、思ってる、はは」


 言ったことを後悔した。恥ずかしさとほんの少しの腹立たしさで視線を下に落とした。なによ、そんな風に笑わなくたっていいじゃない。着慣れない繊細なレースのスカートのすそを、強く掴んだ。

 気が付くと、父に用意された慣れないヒールのつま先が、泥で汚れているのに気が付いた。さっき全力でシュオンの屋敷から逃げ出した時についた汚れだろう。慣れない靴なんて履くんじゃなかった。


「すまなかった。拗ねないでくれないか?」

「……拗ねてるわけじゃないわ」

「あんまりにも可愛らしいことを言うから、少し驚いただけさ」

「へえ、可愛いと思うと貴方は爆笑しちゃうんですね。そんな人初めて見ました」


 精一杯の嫌みを込めて言ったのに、カートはもう一度笑った。

 私は頬からの熱がなかなか引かず顔をあげられない。なのに、彼がまだニヤニヤしているのが気配で分かる。


「……分かった、悪かったよ」


 しばらくの沈黙の後、カートは両手をひらりと上げて言った。これ以上は言わないよ、と小さな子供をなぐさめるように言われて、前髪の隙間から彼を窺う。


「可愛らしい発言を笑ってしまったお詫びじゃないけれど、軽い食事でもいかがかな、リリお嬢さん?」


 カートは口の端に紳士的な笑みを浮かべて言った。


「……残念、お腹は空いてない」

「この近くに、おいしいケーキ屋さんがあるんだけど」


 浅はかな男め。そんなもので釣られると思わないで欲しい。私は乙女の尊厳を傷つけられて怒っているというのに。


「王城であった品評会で金賞を取った店らしい」


 そんなもので釣られるとは……


「甘くてふわふわのクリームに、新鮮な果物がたっぷり」 


 そんな、もので、


「一緒に出てくる紅茶も絶品」

「……行くわ」


 顔を上げると、カートがニッと歯を見せた。


「決まりだ」


 なんとなく、腑に落ちないけれど仕方ない。だって、王都なんてめったに来ないんだもの!

 カートが運転手に行き先を伝え、馬車は行き先を変える。楽しそうに窓の外を見る彼の横顔を眺めながら、ふと気がついた。


「ねえ」

「どうした?」

「私、貴方に名前を伝えたかしら?」


 カートは一瞬目を丸くした後、ゆっくりとその目を細めた。


「……最初に、教えてもらったよ」

「そう?」

「君の名前はリリ・ジゼットコート。合っているでしょ?」

「……ええ、そうよ」


 カートは、よりいっそう笑みを深めた。


「ほら。ね?」



 カートに案内されて着いたのは、大通りから一本裏の道に入った所にある小さな店だった。けれど店内は広々としていて、店の奥には花の絨毯の中庭が見える。人気の少ない落ち着いた雰囲気の店内を通り抜け、庭に面したテラス席に腰を降ろすと、甘い花の香りが鼻孔をくすぐった。


「……座ってから言うのも変だけれど、いいのかしら」

「なにが?」


 正面の席に座ったカートは、ウエイターに注文を告げると小首をかしげた。


「なんだかすっかりリラックスしちゃったけど、私逃げてる最中なのよ」

「そうだね」

「王都から素早く逃げ出せるようにって貴方に拾ってもらったのに、その王都でゆっくりケーキを食べてる場合じゃない気が……」


 そう、今私は逃げている最中だ。忘れかけてたけど。


「大丈夫だよ」


 カートは何でもないように言った。


「灯台下暗し、さ。もし僕なら君が逃げ出したのを連れ戻そうとするなら、やっぱり大きな通りや、隠れる場所の多そうな裏道を探すさ。まさか、こんな所でゆっくりケーキを食べてるなんて想像もしないだろう」

「……まあ、それは、そうだけど……」

「じゃあ、大丈夫さ。ほら、ケーキだよ」


 運ばれて来たケーキを見て、思わずごくりと喉が鳴った。

 宝石のように艶やかに輝く色とりどりの果物が、柔らかなクリームにそっと身を寄せている。その横に並べられたカップの中の紅茶には、淡いピンク色の花弁がたゆたっていた。

 これはもう芸術品だ。机の上が、まるで天国のよう。今まで考えていた不安や心配は、一瞬でどこかへ吹き飛んで行ってしまった。


「さあ、どうぞ」


 カートに促されるまま、しっとりとしたスポンジにフォークを通す。どこから見ても完璧に美しいそれをしばらく目で楽しんでから、私はそっと口に運んだ。

 瞬間、上品な甘さが口に広がる。


「~っ!!」


 あまりの感動に声も出ない。カートを見ると、したり顔で頷いた。


「でしょ? 沢山食べて。これは僕からのお詫びだから」


 手が止まらなくなってしまった。沢山のフルーツのおかげで、一口一口絶妙に味が違うので、飽きることもない。口休めに紅茶に口をつければ、茶葉の香りの奥に、ほんのりと花の香りが残る。

 王城の品評会で金賞というのも、頷ける。いいなあ、王都の人達はいつでもこんなに美味しいお菓子を食べられるんだ。


「……君はとても美味しそうに食べるね」


 どこか感心したように、カートはほおづえをつきながら私を見ていた。


「……なぜ?」

「“こんなものなんでもないのよ、私ほどの女になればこんなものいつだって食べられるのよ”みたいな顔で、上品そうに微笑んだりしないのかと思って」


 やけに具体的な例えをしたカートは、思い出すように瞼を伏せた。彼の前には見るからに苦そうな、黒いコーヒーが一杯だけ。


「なあに、まさか恋の相談?」

「はは、そう思う?」


 カートはカップの取っ手を節くれだった指でなぞりながら笑った。彼の指は存外、男らしい。


「恋に関しては残念ながら私は初心者よ。貴方の助けになるような答えは出せないと思うけれど」

「君が恋愛のプロだとは思わないよ」


 そう言って、カートはコーヒーを一口飲んだ。その発言はその発言で失礼ではないだろうか。


「ただ、なんとなくだよ。君と僕は今さっき会ったばかりの他人だから、知らない男の独り言だと思って笑っててよ」

「うん、いいけど」

「僕さ、最近なかなか仕事が順調でね」

「え? 急に自慢?」


 止めていた手を動かして、残り少しになったケーキを一口食べた。カートは「そう」と悪戯な笑みを浮かべた。


「いろんないい所の見目麗しい女性達がさ、僕とどうにかなりたいみたいなんだけど」

「へー」

「僕もそろそろそういう歳だし、それはいいんだけど、なんかさ、疲れちゃうんだよね。そういう人とは合わないのかなぁ。女性はとても、好きなんだけどさ」


 カートに向けられた視線が「ねぇ、君はどう思う?」と私の答えを待っている。

 ……分からん。

 口元でフォークを持ったままの手が固まる。なぜ、私にそんなことを聞くのだろう。さっき初めて会ったような小娘の私に。挙げ句、お見合いを逃げ出した私に、恋愛相談。普通はそんなことしないだろう。普通は……普通……ははーん、なるほど。 


「はい!」


 残り少しになったケーキに勢いよくフォークを刺して、カートの口元にそれを差し出した。ちょっと一口には大きいけれど、まあ、男の彼ならいけるだろう。

 カートはその意味がよく分かっていないようで、困惑した視線がケーキの上に乗った、つややかにコーティングされたオレンジに注がれている。


「食べて」

「え?」

「疲れた時は、甘いものがいいのよ。全然知らない人に相談したくなっちゃうくらいあなたは疲れてるの!」


 カートはしばらくそれを見つめたまま固まって、それからぽつりと言った。


「実は」

「うん」

「甘いもの苦手なんだ、僕……」


 むう、めんどくさい男である。


「じゃあ、上に乗った果物だけでも。新鮮でおいしいから! ほら、甘酸っぱーいオレンジ!」

「……ははっ、じゃあ、遠慮なく」


 観念したように言って、器用にケーキの上に乗ったオレンジを食べると、カートはゆっくりとその表情を綻ばせた。


「おいしい」

「でしょ?」


 私といえば、まるで大きな任務をひとつ終えたような気分で満足だ。残ったケーキ部分をありがたくいただくと、果物のない分少しだけ強い甘みが口に残る。


「私はお金持ちの人達のことってあんまり分からないんだけれど、美味しいものは素直に美味しいって言える人のほうが、カートには合ってると思うわ」

「……そう?」

「そうよ。ていうか、美味しいものを美味しいって素直に言えない人は、そもそも人としてあんまり付き合わないほうがいいんじゃない?」

「厳しいね」

「厳しいわよ。食べ物は大地からの恵みだもの。ちゃんと感謝して味わわないと」


 私達はみんな大地の子供だと、お母様はよく言った。私達はみんな、大地の恵みで生かされているのだと。『今はそういうことを思う人達は減ってしまったけれど、私達魔法使いは、いつだってそれを感じられてラッキーね』

 だから私は、美味しいものを食べたら美味しいと言いたいし、おいしいものには感謝したい。


「……いい子だね」


 とカートはまるで小さな子供を褒めるように言った。


「子供扱いしないで」

「そんなつもりはないよ。リリお嬢さん」

「あなた見た所私とそんなに歳は変わらないでしょう?」

「そうだね。二つしか違わない」

「ほら、じゃあ、そんな年上ぶらないでよ」


 私が残っていた一口には少しばかり大きなケーキを口に放り込んだのと、カートがコーヒーを飲み終わったのはほとんど一緒だった。「満足した?」と尋ねられ「大満足よ」と頷くと、彼は「よかった」と満足そうな表情で席を立った。そのまま呼びつけたウエイターに親しげに二言三言話すと、彼はお金を払わないまま店を出た。

 店を出る間際、店の奥から初老のパティシエが出て来た。彼は私とカートを交互に見ると、妙にひっかかる一言を残して扉を閉めた。


「お嬢さんも、大変だねぇ」


 これは……もしかしてもしかすると……見合いを逃げ出して来たのがバレてる?

 閉まった扉を見ながら、冷や汗が頬を伝った。

 ありえない話ではない。例えばこの店のケーキをシュオンの家の使用人とかが注文していて、届けに行ったら私の残して来た人形の魔力が切れて豪華な食事の乗ったテーブルがびしゃびしゃ。シュオンずぶ濡れ。激怒。お父様がブチ切れながら私を捜索……

 あまりよくない状況を想像して、冬でもないのに体がぶるりと震えた。


「あ、カートさん、私……」

「ん? 何? どうして急に敬語?」


 早く先を急ぎましょう、と言おうとした所で、「うわあああああん!」という子供の大きな泣き声が言葉を止めた。吸い寄せられるようにそちらに視線を向けると、少し離れた場所の植木の前で白いワンピースを着た小さな子供が泣いていた。横では困ったように天を仰ぐ老人。子供のおばあちゃんだろうか。

 「リリ?」とカートに呼び止められるのが聞こえたけれど、足は真っすぐ二人の方向へ。


「どうしましたか?」


 と聞くと、おばあちゃんがほっとしたような表情で振り返った。子供はまだぐずぐずと泣いている。


「実は猫が……」

「猫?」


 おばあちゃんが指差した方向を見上げると、ぶるぶると震える黒い子猫が枝の先端の方で動けなくなっていた。


「あなたの猫ですか?」

「あ、いえ……猫はあそこのパン屋の猫です。実はこの子があの猫を触ろうと近づいたんですが、触り方が良くなかったのか驚いて木の上に逃げてしまって。そのまま降りれなく……」

「なるほど」

「その時首輪に、この子の鞄につけていた小さな石のお守りが引っかかって、一緒にくっついて行ってしまって。驚いて泣いてしまったんです……」

「ふーむ……」

「僕が登ろうか?」


 遅れて来たカートが子供の頭を撫でながら木を見上げたが、枝は大人の体重を支えられるほどの太さはない。カートもすぐにそれに気がついたようで、困ったように首をすくめてしまった。

 少しして、子猫の飼い主である大柄なパン屋の店主が柄の長い箒を持って駆けて来た。なんとかつついて降ろそうとしたが、子猫は驚いてよりにもよって枝の先端の方向へと逃げていく。

 これですっかり、打つ手はなくなってしまった。


「……仕方ない。木を揺らして子猫を落とそう」


 カートが申し訳なさそうに言った。周りにはいつの間にか野次馬が集まって来ている。


「下で網を広げて待っていれば、落ちても怪我はそれほど」

「大丈夫よ」


 言葉を遮ってしまい申し訳ないが、私は多分、この状況を上手く解決できそうだ。


「え?」

「私に任せて」


 まっすぐに子猫を見つめたまま、一歩前に歩み出た。


「任せてって?」

「大丈夫だから」


 心配そうなカートにグッと親指を立ててから、木の幹に手を伸ばす。少しだけひんやりする幹の中から、しっかりと力を感じ取れる。

 大丈夫、できそうだ。


「ただ、少し、難しいことをするから、もしかしたら迷惑をかけることになるかもしれない」

「難しいことって……」

「その時はカート、助けてね」


 まだカートが何かを言っていたけれど、もう何も聞こえない。猫に視線を合わせたまま、力は指先に集中させていく。

 いきなり力を貸してなんて、都合がいいかもしれないけれど、少しだけ、少しだけ力を貸してね。


 深い呼吸の後、力を込める。指先から力が流れて行っているのがよく分かる。「すごい」とどこか遠くで声が聞こえた。ゆっくりと木の幹に階段状に細い枝が生える。ここまでは上出来だ。

 今だ細い枝の上で震える猫に話しかけた。“もう大丈夫だよ。降りておいで。何も怖くないよ。”

 何度か呼びかけると、子猫の目から恐怖の色が消えて、静かに体を起こす。そのまま静かに枝の階段を伝って、子猫は無事に地面に戻って来た。パン屋の店主に拾い上げられた子猫は、にゃあ、と高い声で鳴いた。首輪に引っかかっていた小さな石のついたお守りは、無事に子供のもとに戻される。周囲から沸き起こった歓声はまだどこか遠くで聞こえていた。

 ふう、と小さく息を吐いて木の幹から手を離すと、階段状に生えた枝は音もなく枯れ落ちた。


「……驚いた」


 すぐ側で聞こえたカートの声でようやく現実世界に引き戻された。いつの間にかとなりに立っていた彼を見上げる。彼は好奇心で輝く瞳で私を見下ろしていた。


「本当に魔法使いだったんだな」

「そう最初に説明したわ」

「まだ実際、半信半疑だった」

「じゃあ今は?」

「信じたさ」


 カートの大きな手が前髪辺りを少し乱暴に撫でていった。


「綺麗だった。瞳の奥が、まるで夜空みたいに輝いていた」

「……そんな風に言われると恥ずかしい」

「猫とも話せるの?」

「集中すればね。猫とは相性がいいから」

「へえ、君はすごいな」

「ありがとう」


 そう返せば、カートは一瞬面食らった顔をした。一体何に驚いたのかは知らないが、それから彼は嬉しさと恥ずかしさが混じったような表情で、「それはこっちのセリフだよ」と頬を掻いた。


「じゃあ、君が言った、花瓶の水に力を込めて人形にしてきた、っていうのも本当なんだ」

「だからそう言ったわ」

「それってずっと動いているの?」

「まさか。私が込めた魔力が無くなったら水に戻っちゃうわ」

「どれくらいで?」

「うーん……三時間もてばいい方だと思うけど……」

「それじゃあもうすぐ部屋が水浸しだな」

「そうなるかもね」

「それは大変だ」


 カートはそう言ったけれど、ちっとも大変だなんて思っていない表情をしていた。どこか清々しく、楽しそうだった。人の家がびちゃびちゃになって楽しそうだなんて、性格が悪い。

 そんなカートの顔を眺めていると、スカートの裾が引っ張られた。見下ろした先には、先ほどの子供。


「お姉さん、ありがとう」


 しゃがみこんで「どういたしまして」と言えば、彼女は少し緊張気味に口を開いた。


「えっと、お姉さんは魔法使いなの?」

「ええ、そうよ」

「すごい!」


 そんな純粋な顔で褒められれば悪い気はしない。柔らかな彼女の頬を撫でると、彼女はくすぐったそうに笑った。「魔法を見たのは初めてなの」


「本当? じゃあ、もし何か困ったことがあれば、いつでも湖の側のジゼットコートの家を訪ねて。ここからは少し遠いけれど、力になるわ」

「うん」


 歯を見せて笑った彼女につられて私も歯を見せて笑った。


「あっ! いた!」


 穏やかな空気の中、突然怒りを含んだ大声が響いた。弾かれたように立ち上がると、そこにはなぜか王城の兵士達の姿が。一体何事かと周囲を見渡したが、変わったことはない。

 食い逃げ犯でも出たのかな、と彼らの姿を見ていると、その内の一人と目が合ったような気が。なぜだろう、嫌な予感が。


「お見合いすっぽかして何してるんですか?!」


 怒りを強く含んだその声と共に、向けられた指。

 ま、間違いない! 私を探しているんだ!


「まずい!」


 隣にいたカートも気がついたようで、すぐに手を掴まれる。足下できょとんとする子供に「またね」と慌てて手を振って、その場から全力で駆け出した。


「早く馬車に!」

「う、うん、でも多分私、っうわあ!」


 足がもつれ盛大に転んだ。手が間に合わなくて、おでこが地面と擦れる。じくじくと痛い。

 ああ、大人になってから転ぶのって、どうしてこんなに恥ずかしいんだろう。


「だ、大丈夫!?」

「う、うん」


 すぐにカートが体を起こしてくれる。

 が、やっぱり足に力が入らない。力を使いすぎてしまっている。


「ごめん、立てない」

「なんで?!」

「今日は少し魔力を使いすぎてて……ちょっと休憩すれば大丈夫なんだけど」

「えぇ!?」

「いいよ、カート。先に行って。私を拾ったのがばれると、カートまで怒られちゃう」


 追っ手がどんどん迫って来ているのが分かる。

 こうなってしまえば仕方ない。観念するしかないだろう。お父様にとんでもない雷を落とされるのも覚悟の内だ。シュオンは怒っているだろうか。怒ってるよね。だって目の前の娘が急に水になるんだから。部屋の中を水浸しにされて、怒らない訳がない。謝ったら許してくれるだろうか。噂だとそんな人ではなさそうだったけれど、実際の彼は謝り倒せば押し切れそうな気もする。

 カートのことは、正直何を知っているわけではない。けれどケーキを食べさせてくれたし、多分悪い人ではない。だから、私のせいで怒られたりして欲しくない。


「……ばか、置いていけるわけないだろ!」


 カートが怒鳴った瞬間、体が重力に逆らって中に浮いた。体が暖かいものに触れる。いつの間にか目の前には彼の顔。これが所謂お姫様だっこだと気がついたら、一気に熱が顔に集まった。


「な! な!」

「ばたばたうごかないでね。落としちゃうから」

「いいいいいいいよ! 重たいでしょ!? 置いて行きなよ!」

「まあ、軽くはないけど」

「ちょっと! そこは嘘でも軽いって言うべきじゃないの!?」

「あはは」

「ねえ、本当に置いて行ってくれていいの。カートまで怒られちゃうわ!」

「へーきへーき」

「何を根拠に……」

「平気だから」


 妙に確信めいた言い方をされて、言葉に詰まった。カートは、まるでなにもかも分かっているかのような表情で、その横顔からは余裕さえ感じる。


 な、なんで? 


 そのまま、カートは商人の息子だとは思えない圧倒的な脚力で馬車まで走ると、まるで物でも投げ込むように私を馬車の中へ投げ入れた。カエルのようなグエ、という色気のない声が漏れる。そのまますぐに走り出した馬車の後ろからは、先ほどの兵士達の怒りに満ちた声が聞こえてくる。


『逃げちゃダメですよー!』

『帰ったら怒られますからねー!』

『いいかげん身を固めてくださいよー!』


 馬車が進むにつれて、彼らの声は次第に聞こえなくなっていった。



 車内には二人の上がった息の音だけが聞こえている。

 その息は次第に笑い声へと変わる。だってこんなの可笑しい。バカみたい。笑っちゃう。


「あははは、なんだか笑っちゃうね」

「くくくっ、なんだか変な一日だな」

「ね! 私も今、丁度同じこと考えてた」


 ひとしきり笑って、ようやく中途半端に倒れたままだった姿勢を直す。すっかり皺になったスカートの裾を伸ばしていると、少し遅れて笑いの収まったカートが座席に背中を預けた。

 心地よい沈黙が、そこには満ちていた。

 馬車の窓から差し込んだ光に照らされて、カートの長い睫毛がキラキラと輝いた。少しだけ痛んだ赤茶色の髪が、馬車の振動に合わせてかすかに揺れる。先ほどまでとは違い、彼は少し考え込むような表情で、男らしいがっしりとした手元を見つめていた。

 今頃になってやっと、彼の顔をしっかり見た気がする。冷静な頭で見ると、彼はずいぶん綺麗な顔をしていた。シンプルだが品のいいシャツの下に隠れた体も、ずいぶんたくましく見える。

 窓からの風景に緑が多く混じりはじめ、次第に外のざわめきが落ち着いてくる。カートにならって座席に背中を預けると、自然と緩んだ口から言葉がこぼれていた。


「今日は貴方に会えてとてもラッキーだった」


 言って、気恥ずかしくなった。慌てて口元を押さえる。誰かを口説く時のようなキザなセリフみたいだ。変に思われていないだろうかと彼を見上げると、彼は笑っていた。

 口の端をつり上げて、優しげだった目元を細めて。

 微かな違和感が、心臓の辺りをくすぐった。


「……そう言ってもらえて、とても嬉しいよ、リリ」


 そう言ったカートの声は、さっきまでより、低い。


「ああ、うん。そ、そう?」

「そう。とても嬉しい。だって俺も、丁度そう思っていた所だったから」

「そ、そっか、」


 それなら私も嬉しい、と続けようとした時、彼がぐっと体をこちらに近づけた。

 ……ん? “俺?”


「最悪だと思ってたんだよ。いくら敬愛するリブロ様からの紹介とはいえ、見たこともない、どっかの田舎の湖の側に引きこもってる、時代遅れの魔女との結婚なんて」

「……へ?」


 耳からしっかり言葉は入って来たのに、なぜか脳でそれを上手く処理できない。口から出た情けない声を聞くと、彼はその悪戯な笑みをよりいっそう深めた。


「この俺が、さ」


 伸ばされた片手に、反射的に逃げ出そうとした両手をしっかり握られた。まるで、掴まってしまったみたいだ。


「改めて、お会いできて光栄だよ、水辺の魔女、リリ・ジゼットコート」

「……え、ちょ、ま、」

「俺の名前はシュオン・ラスフラート。この国の第三騎士団隊長だ」


 ヒィ! と色気のない悲鳴をあげてしまったのをどうか許してお母様。

 半ば反射的に仰け反って、距離を取ろうとしてみるも、背中は柔らかい背もたれに埋まるだけ。相変わらず握られたままの手は、より強い力で拘束された。

 目の前の男は、それを心底可笑しそうに、そしてどこかバカにしたように見ている。 


「おい、そんな嫌うなよ。あんなに今日は仲良しだっただろ?」

「だだだだ、ダマしたの!? だってあなた、自分は“しがない商人の息子”のカートだって!」

「あー、残念。もうそんなことは覚えてねぇ。それに別にダマしてなんかねぇだろ。俺が一言でも、“俺はシュオン”じゃないって言ったか?」

「そんな子供のいい訳みたいな……え? でも待って。私はちゃんと食事の場で、シュオン・ラスフラートに会ったわ。細身で、眼鏡をかけた……」

「ああ、それ?」


 カートもとい、シュオンは何でもないような顔で言った。


「それ俺の部下」

「ぶ、か……?」


 そう、とシュオンは手を握ったまま、満面の笑みを浮かべた。


「カートはそいつの名前だよ。どうしても気分がのらなくてな、部下に押し付けた。見たこともない田舎の小娘と結婚なんて最悪だろ? だから非番の部下に俺の身代わりになってもらった。適当に話合わせて、時間つぶしてろ、ってな。」


 まるで名案だろ? とでも言わんばかりの言い方だ。


「なにそれっ……」

「あいつはあんまり口がうまい奴じゃないから、さすがにあんたの方から断ってくれると思ってな」

「あんた最低……え?! じゃ……じゃあ、もしかして、さっき追いかけて来たのって……!」

「おお、察しがいいな。そう、あれは俺を追って来てたんだよ。いやあ、あんたの慌てた顔を見るのは、なかなか面白かったけど」

「この人でなし!」

「おいおい、お前がそれを言うのかよ。お前だって魔法で逃げ出してここにいるんだろ?」

「ウッ……」


 そう言われてしまえばもうそれ以上何も言い返せない。不満に頬を膨らませると、シュオンは小さく吹き出した。


「ぶっさいく」

「失礼な男ね! どんな二面性なのそれ。劇団員にでもなった方がいいんじゃない?」

「それはドーモ。あんたはバカだな。どこの馬の骨とも知らない男にぺらぺらぺらぺら自分の素性を話しちゃってさ。もう途中から笑いを堪えるのに必死だったよ」

「あんた最低! 性格悪い! いつまで手握ってるのよ! 離して!」


 手を上下に振ってみるも、シュオンはちっとも手を離す気配はない。それどころか、より力を込めて自分の方へと引き寄せる。握力ではさすがにこの男にはかなわない。もう少し魔力が回復していたら、こんな男から逃げ出すなんてなんてことないのに。


「もう、やめてってば!」

「はは。情けない顔。おもしろいな」

「バカにしないでよ! はーなーしーてー!」

「なんで?」

「なんで……って、」

「未来の夫なのに?」


 力任せに振り回していた腕から力が抜ける。人生で初めて聞く言語を聞いた時のように、私はシュオンの言葉を理解できなかった。シュオンの瞳に映った私は、バカみたいにぽかんと口を開けている。


「なあ、リリ?」


 何か言わなければ、と思っている間に馬車が止まった。扉が開くと、そこには見覚えのある屋敷が。丁寧に手入れされた庭。その真ん中に建つ、白い壁の家。「な……なんで」と呆然としていると、屋敷の方から顔を青くしたお父様が全力で駆け寄って来た。乱暴に馬車から降ろされると、耳を引っ張られ馬車の裏に引きずり込まれる。


「この、バカ娘が! 魔法を使って逃げるなってあれほど言っておいたのに! お前の置いていったできの悪い人形が魔法だとバレないように父さんがどれだけ気を使ったと思ってる!」


 小声だが、怒りは充分に伝わってくる。


「いたたた、ごめんなさいお父様、でも」

「でももへったくれもない!」

「お初にお目にかかります、ジゼットコートさん」


 割って入って来た穏やかな声で、お父様がハッとしたように手を離し姿勢を正した。人の良さそうな笑顔を浮かべたシュオンが、お父様に手を差し出す。


「本日は遅れて申し訳ありません。第三騎士団隊長の、シュオン・ラスフラートと申します」

「えっ?! シュ、シュオン様!? ……で、ですが、」


 お父様が一瞬、屋敷の方を振り返った。それはそうだ。まだ屋敷の中には、私の残した出来の悪い人形と、あの眼鏡の男性が楽しくテーブルを囲んでいるはずだから。自分がやったことなので申し訳ないが、なんともシュールな絵だ。該当する人物は誰もその空間に存在していないのだから。


「ああ、彼は私の部下です。緊急の仕事が入ってしまいましたので、約束の時間に遅れると伝えるようにと彼に言ったのですが、伝わっていませんでしたか?」

「あっ、い、いや、も、もちろん伝わっていました」


 嘘付け。お父様の顔は、焦りのあまりに吹き出た汗でテカテカになっている。


「ああ、それはよかった。失礼があっては申し訳ありませんから」


 それに対してこっちの嘘つきは、汗どころか眉ひとつ動かさない。本当に、劇団に入った方がいいのでは?

 私がじっとりと咎めるような視線を向けていることに気がついたのか、シュオンは小さく口の端に勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。


「ところで」


 シュオンが私の方向へと向き直った。


「こちらに向かう途中でお嬢さんと会いました。道に迷っておられたので、一緒にこちらまで向かわせていただいたのですが、いやあ、素晴らしい方ですね」

「「え?」」


 お父様と声が重なる。


「まだ馬車の中でお話しただけですが、彼女の人間性の素晴らしさは充分伝わってきました。ぜひ、今回のお話、進めさせていただきたいと思います」

「「えっ!?」」


 また、お父様と声が重なる。けれど今度はさっきとは違う。ひとつは歓喜の混じった驚き、もうひとつは絶望混じりの驚き。

 もちろん、私は後者である。


「ああああんた何言ってんのよ!」


 とっさに腕に飛びついた私を押し退けて、お父様がシュオンに縋り付くようにその手を取った。


「ほっ、本当ですか?」

「ええ」


 シュオンの色よい返事を聞いて、お父様はまるで神様を見るような目で彼を見上げた。

 だけど私には分かる、分かるぞ。その分厚い面の皮の下で、ほくそ笑むこの男の本性が。


「よかった! よかった、なあ、リリ!」

「よくない!」


 鼻息粗く、シュオンを睨みつけると、彼は世界中のどんな女性だってとりこにしてしまいそうな、極上の笑みを浮かべて私との距離を一歩近づけた。


「わ、私はそんな笑顔にはダマされないから!」

「ああ、リリ、そんな風に僕を嫌わないでおくれ」

「あんた……! よくそんな白々しいセリフが吐けるわね!」

「はは、元気のいい所も可愛らしい」


 指先から鳥肌が立っていくのがよく分かった。やばい。なんて恐ろしい男なんだ。


「お父様こいつとんでもない男よ!」

「お前何を言うんだ!」


 喜びと焦りの汗でもうよく分からなくなっているお父様はもう一度私の耳を強く引っ張った。痛いよ!

 娘の言うことに耳を貸さないお父様は、深々と、心底申し訳なさそうに頭を下げた。


「申し訳ありません。娘は大変緊張していまして」

「かまいませんよ。初々しくて大変可愛らしい」

「ヒィ!」


 仰け反った私の腰をしっかり掴んで、シュオンは耳元に顔を近づけた。とろけるような甘い声で、彼は言う。


「俺はあんたが気に入ったよ、リリ」

「わた、」


 わたしは気に入っていない。という反論を言う前に、シュオンは続けた。


「こんな出会いもなかなか運命的だと思わないか?」


 その言葉には反論できない。

 だって私も、少しだけ、ほんの少しだけ思ってしまったんだもの。

 見合いに行ったはずの二人が同じように身代わりを立て逃げ出したのに結局出合ってしまうなんて。


 少しだけ、運命的だなあ、なんて。


「よかったな、リリ。君の望み通り、運命的な恋の始まりだ」


 そうだけど、そうじゃない。私が思い描いていたのはこういうのではない。

 けれど、残念なことにどんな言葉も私の口からは出てこない。


 苦し紛れにお見舞いしたパンチを余裕綽々で受け止めて、シュオンは子供のような笑顔をつくってみせた。



END





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ