肆 SEVEN WONDERS OF 神奈備高校(3)
美術部の部室のおとなりに、非常にまぎらわしい“別モノ”がありました……。
「――ついに七不思議の六つ目……誰も知らない七つ目を除けば最後となる、理科室の〝歩く人体模型〟だ!」
七不思議巡りで三人が最後に訪れたのは、南校舎二階に位置する理科室である。
「ちょいと失礼するよ~」
先程の音楽室と違い、その時間、中では化学部が部活動をしている真っ最中であったが、梨莉花はそんなことお構いなく、無遠慮に扉を開けて中へとずけずけ入って行く。
「な、なんだおまえ達⁉」
当然のことながら、その突然の闖入者に化学部員達は警戒の眼差しを一斉に向けてくる。
「失礼します」
「ど、どうも……」
そんな熱い視線の注がれる中、梨莉花に続き清彦と真奈も理科室内へと入って行く。清彦の挨拶は丁寧であるが、やはり化学部のことはお構いなしといった感じである。他方、真奈も仕方なくそれに続いたが、唯一人彼女だけはとても申し訳なさそうな顔をしている。
「な、何しに来た!? 神崎梨莉花っ!」
白衣を着た化学部員の一人が、不遜な梨莉花に向って大声を張り上げた。
どうやら彼は梨莉花のことをよく知っているらしい……そのちょっぴり痩せ型のメガネをかけた者以外にも、五名ほどの白衣を着た男子生徒がいる。彼らが囲んでいる机の上には何やら液体の入った試験官やらビーカーやらが雑多に並べられ、ちょうど何かの実験を行っているところだったようだ。
「ま、まさか、またうちの部を錬金術部に変えようと…」
白衣にメガネな、おそらく小さい頃のあだ名は「博士」であったであろうその人物が、血の気の引いた真っ青い顔をして梨莉花に慄いた。と同時に、他の部員達の間にも恐慌とどよめきが巻き起こる。
「安心しろ。今回はその件ではない」
…っていうか、やっぱり、あの噂も本当だったんだあ……。
もうだいぶ慣れてはきたが、また一つ明らかとなる呪術部の黒い過去に真奈は苦笑した。
「おまえ達に興味はない。それより人体模型はどこだ?」
だが、突然の呪術部襲来を受け、額に冷や汗を浮かべてうろたえる化学部員達には目もくれず、梨莉花は 理科室内を見渡し、早々、お目当ての物の在処を探し始める。
「おかしいな。ここじゃなかったかな?」
「理科準備室の方じゃないですか?」
澄ました顔で答える清彦も、化学部のことなどまったく眼中にない。
「ああ、そうか。そっちか」
二人はずかずかと理科室内を横切ると、となりの理科準備室へと通じるドアへ向った。
「ど、どうも……」
真奈もやむを得ず、頭を下げながら小走りで二人の後に続く。
「さてと。人体模型はどこだ?」
理科準備室の中には、所狭しと様々な科学の教材が置かれていた。
間隔を空けて三つ並んだ木製の棚の中には、ホルマリン浸けにされたカエルやら魚やらの標本がぎっしりと詰まっている。また、鍵のかかるようになったガラス戸の中には、取り扱い注意の危険な薬品の入った茶色いビンがいくつも整然と並べられている。
ちょうど日も沈みかけた夕暮れ刻のことでもあり、薄暗い中で見るその光景は、まさに何か出てきてもおかしくないような不気味な雰囲気を醸し出している。
「おっ、こんなところにあったか」
そんなある意味絶好のシチュエーションの中、標本棚の間を進んで行った梨莉花が、その不気味な谷底の奥でついに探し物を発見した。
「どうです? どこかに梵字ありました?」
件の〝歩く人体模型〟は、ひっそりと部屋の隅にさり気なく佇んでいた。
縦にスッパリ半分に仕切られたその身体は横向きに置かれ、肌色の皮膚が残る方をこちらに覗かせている。もう片方の内臓を露にした姿はすっかり隠れているので、一見、単なる素っ裸のヤンチャな男の子のようにも見える。
「いや、今のところは何も見当たらんな……」
真奈達がそちらに赴くと、梨莉花は熱心にその人形をあちこち撫で回していた。
梨莉花の背後に移動したため、清彦と真奈の目にも人体模型の赤い筋肉の筋やカラフルな内臓のパーツが見えるようになる。鼻をつく薬品の臭いや薄暗い部屋の明るさとも相まって、やはり、これはかなり恐ろしげな感じである。
「……ゴクン」
真奈は、この人体模型が夜な夜な学校内を彷徨い歩く姿を思わず妄想した。
一方、そんなことお構いなく、先程から人体模型を捏ねくり回している梨莉花ではあったが、その努力も虚しく、なかなか梵字を見つけられずにいた。
「身体の外側には見当たらないな……中か?」
そう独り言を呟くと、梨莉花は人体模型を床に倒し、今度は腹の中にある内臓をおもむろに取り出し始める。
「肺には……ないな。心臓に……もないか。膵臓は…」
彼女は人体模型から内臓を一つ一つ取り出しては、そこに梵字が書かれていないかどうかを丹念に調べてゆく。そして、調べ終わった内臓はもとに戻されることなく、そのまま冷たい床の上へと無神経に転がされる。
「胃も……違うな。では、肝臓なら……これも違うか。えーと次は…」
梨莉花の手によって、次から次へと人体模型の内臓が辺り一面に散らかされてゆく……その動きは、墓から掘り出した遺体を貪るヴァンパイアか何かのように見えなくもない。
「梨莉花さん、な、なんかサイコですよ……」
いつになくちょっと怯えながら、清彦がそうツッコミを入れた。
制服を着た美少女高校生が一心不乱に内臓を捥ぎ取っている……もしこれが人形でなく本物の人間だったならば、確実にR18指定の付く、かなり凄惨な映像である。
「ひ、ひえぇぇぇ~…」
そんな梨莉花主演のB級ホラー映画を脳内妄想劇場で上映しつつ、真奈もガクガクブルブルと震え上がる。
「………………」
二人が固唾を飲んで見守る猟奇事件の中心で、無言のまま、サイコ少女に思うようにされる人体模型の顔が、どこかちょっぴり悲しそうに見えた。
「おまえ達、いったい何を…ああっ! うちの人体模型になんてことすんだ!?」
と、ちょうどそこへ、梨莉花達の後を追っておそるおそる様子を見に来た先程の白衣にメガネの化学部員が、人体模型の悲惨な有様を目にして大声を上げる。
「うーむ…どこにもないな……」
だが、梨莉花はその声に見向きもしようとしない。それどころか、内蔵をすべて取り終わると人体模型を頭上に掲げ、空になった腹の中を下から覗いてみたりなんかする。
「だから梨莉花さん、とってもサイコですって……」
「おかしいな。やはりどこにも梵字はない……この人体模型じゃないのか?」
「おい! おまえら、ほんと何しに来たんだ!?」
白衣にメガネの化学部員が声を荒げ、もう一度、三人の顔を見回しながら尋ねる。
「北里、ここにある人体模型はこれだけか?」
それでも梨莉花は彼の話を聞いちゃあいない。逆に彼女はその北里と呼んだ化学部員にまったく違うことを訊き返す。
「んあ? 人体模型? いや、人体模型はそれ一体だが……って、そんなことよりなあ…」
「そうか……では、梵字があるのはどこか他のところか」
「ああ、もしかして人体模型じゃなくて、人体骨格の方なんじゃないですか?」
話が梵字のことに及ぶと、ようやく清彦も気を取り直し、辺りをきょろきょろと見回しながらそんな意見を述べる。
「その可能性もあるか……よし。清彦、おまえは人体骨格を調べてくれ。真奈、我々は理科準備室のどこかに梵字が隠されてないか探すぞ」
「あ、あ、はい!」
そして、同じくホラーな妄想から帰って来た真奈も加え、三人はそれぞれに分かれて、理科準備室の中をがさごぞと物色し始めた。
「あ、こら! 今度は何を始める気だ⁉」
当然、北里が見咎めるが、今さらそんなものを彼女達が聞くはずもない。三人は北里を完璧に無視して、勝手気侭に理科準備室内を荒らしに荒らし続けた。
「うーん……ぼんじ、ぼんじ……」
初めは遠慮がちだった唯一常識人の真奈も、いつの間にやら梨莉花達のペースに飲み込まれてしまっている。
「おーい、そっちにあったか?」
「いや、ないですね。まーなさんは?」
「いえ、ないですう!」
しかし、室内を隅から隅まで探してはみたものの、やはり梵字が書かれていたり、または書いた紙が貼られていたと思われるような跡はどこにも見当たらない。
「うーむ……変だな。おい、北里。おまえこんな字の書かれた物をこの部屋の中で見たことはないか? 清彦、あの紙を出してくれ」
梨莉花は体育倉庫で発見した紙を清彦に取り出させると、それを北里に見せる。
「なんだ? アラブかどっかの文字か? こんなもん見たことないが……これがどうかしたか?」
北里は神経質そうにメガネのフレームを片手で摘んで直しながら、その紙をまじまじと見つめた。しかし、その態度からして、どうやらまったく知らない様子だ。
「本当だろうな? 隠すとためにならんぞ?」
「誰が隠すかっ! …ってか、だからなんなんだ? この字は? …いや、それ以前に、本当におまえら何しに来たんだよ⁉」
「これはアラビア文字ではない。梵字、あるいはサンスクリットという古いインドの文字だ。なぜかこの文字が七不思議が起きるとされている場所には必ずある」
北里がしつこく訊くので、梨莉花は仕方なく、ひどく面倒臭そうにそう答えた。
「七不思議? ……ああ、そういうことか。おまえ達、あの三人の噂について調べてるんだな? 七不思議の七つ目を解明するとかなんとか言って入院したっていう……そうか。それで七不思議に数えられている人体模型を見に……」
「そういうことだ。だから協力しろ」
「フン。くだらん。あんな噂を信じているのか? どうせただの体調不良かなんかだろう」
「所詮、おまえのその無知蒙昧なオツムでは我らの崇高な思考を理解することはできん。それより、本当に見なかったんだろうな?」
「なっ! ……ま、まあいいだろう。せっかくの機会だ。非科学的な君達が科学的に物事を考えられるよう、この化学部部長である北里富三郎が懇切丁寧に教えてやろう」
小バカにされた怒りをなんとか堪え、またも神経質にメガネのフレームを弄くりながら北里は語る。
「いいか? 俺は三年間、ここに毎日というほど出入りしているがな、人体模型が独りでに動いたなんてことは一度としてない。それにこの科学の殿堂たる理科準備室において、なんだか知らんがそんな怪しげな紙切を見るわけがない。つまり、七不思議など、ただの作り話。おまえらがやっていることはまったくの無駄なのだ! ハーハハハハハっ!」
演説を終え、北里は自信ありげに胸を張ると、高らかにバカ笑って梨莉花を見下した。
「何か紙を貼ってあったような形跡もか? 理科室の方という可能性もある」
「紙を貼った跡? ……ああ、その紙をってことか。フン、そんな跡があればなんだというのか理解に苦しむ が、ここは理科準備室――いわば科学教材の倉庫のようなもんだ。そんな科学と無縁なものはおろか掲示物自体まったくない。前にこの部屋を大々的に掃除したことがあったが、壁も棚も綺麗なもんさ。理科室の方も同じだ。ここに最も馴染みある化学部部長のこの俺が言うんだから間違いない! どうだ? これで己の愚かしさが…」
「そうか……妙だな」
しかし、そんな北里の態度に梨莉花はまるで動じていない。というか、北里の方を見てすらもいない。彼女は黙って腕を組むと、考えることに没頭している。
「うっ…」
梨莉花に精神的ダメージを与えようとした北里であるが、逆に自分の方がその何倍ものダメージを食らってしまった。しかも、相手は見下すどころか自分を眼中にも入れていないのだ。無視される方が遥かにその心理的損傷は大きい。
「ここで考えていても仕方ないか……よし、用は済んだ。清彦、まーな、帰るぞ!」
しばらくすると、梨莉花は組んでいた腕を解き、あっさりと、もと来たドアの方へ二人を促して向う。
「……ん? あ、こら! おまえ達、人体模型をちゃんと片付けていけっ!」
大質量の精神破壊爆弾を食らったショックからようやく立ち直り、顔を真っ赤にした北里が背後で何かを叫んでいる……床を見れば、そっくり内蔵を抉り抜かれた人体模型とその内臓物が、見るも無惨に転がっている……やっぱり、横たわる人体模型の左右半々に彩られた横顔は、無表情に前を見つめながらもちょっぴり悲しそうだ。
「ひぃっ…!」
そんな人間一人と人形一体を置き去りにして、先程、理科準備室に入ったドアから再び理科室の側へ戻ると、待機して様子を窺っていた化学部員達が、梨莉花の姿を見て短い悲鳴を上げる。
この人達、よっぽどひどい目に遭わされてるんだなぁ……。
その戦々恐々する化学部員達の震える瞳が見守る中、悠然と廊下の方へ向かう梨莉花、そして清彦の後に続く真奈は、決まり悪そうな苦笑いをその顔に浮かべつつ、彼らへの同情の念に堪えなかった。
「あ、そうだ」
ところが、そのまま立ち去るかに思われた梨莉花であるが、ふと何かを思い出したらしく、不意にドアの前でぴたりとその足を止める。
ビクっ!
それを見て、またも化学部員達は恐れ慄く。
「北里……」
梨莉花は顔だけを後ろに向けると、追って理科室に戻って来た彼の名を呼んだ。
「……ゴクン。な、なんだ?」
急に自分の名を呼ばれ、北里の青白い顔にも緊張が走る。
「また、改めて化学部を錬金術部にする話はしに来るからよろしく頼む」
それだけ言い残すと、梨莉花は何事もなかったかのように入口の引き戸を開け、すたすたと外の廊下へ歩み出て行く。
「それじゃ、失礼します」
「お、お邪魔しましたぁ……」
清彦と真奈も、一応、礼儀正しく挨拶をしてから理科室を退き、後には怯える化学部員と、呆然と立ち尽くす部長の北里だけが残された。
「……や、やっぱりまだ狙ってるんじゃねえかっ! ――」
「――え~…今日は皆、ご苦労だった。本日行った実際に現地へ赴いての調査ではかなりの成果を上げることができた。それについては明日、別行動を取っている飯綱、相浄、梅香の三人を加えて、改めてまとめの会を行いたいと思う。ということで、今日はこれにて解散!」
神奈備高校七不思議巡りツアーを終えた三人は、梨莉花部長のありがたい閉めの言葉を頂いて、無事、お開きとなった。
「おつかれさまでしたあ! それじゃ、あたしはちょっと用があるんでこれで……」
……さっ、部活も終って、あたしの待ちに待った時間がついにやってきたあっ!
真奈は部室の前で二人に別れを告げると、一転、テンションMAXでその顔をニヤニヤとニヤけさせ、昨日と同じあの場所へと急いで向う……そう、美術室である。
少々スキップの入った早足で中央校舎一階の廊下まで来ると、昨日同様、美術室の窓からは蛍光灯の明かりが漏れている。
「よかった~。狩野先輩、今日もいるみたいだ……」
そこで、真奈は美術室の前まで進み、やはり昨日みたいにドアの覗き窓から中の様子を覗ってみた。案の定、期待していた人物のキャンバスに向う後姿がそこには見える。
「お疲れさまでーす!」
真奈はドアを開けると同時に、明るく元気な声で挨拶をした。
ビクっ…!
狩野はその声に少々びっくりしたように筆を止め、両手を筆とパレットに塞がれたままの状態で後を振り返る。
「ああ、なんだあ。えーと……宮本さんだったね。描くことに集中してたんで、ちょっとびっくりしちゃったよ」
「あっ、す、すみません! お邪魔しちゃいました!」
真奈はバツの悪そうな顔で慌てて狩野に頭を下げる。
あ~あ……待ちに待った、せっかくの〝狩野先輩と夜の学校でムフフな二人っきりタイム〟だってのに、初っ端から思いっきり失敗しちゃったよぉ……先輩、気分悪くしたかなあ……あ、でも、狩野先輩、あたしの名前ちゃんと憶えててくれたんだあ。なんか、すっごくうれしいなあ……。
「いや、そんな頭を下げなくたって、ぜんぜん邪魔になんてなってないから大丈夫だよ。むしろ今日も遊びに来てくれてうれしいよ」
だが、ひどく落ち込み、なのに直後、突然ニヤけたりと忙しなく表情を変える見ていて飽きない真奈の姿に、狩野は昨日と変わりなく、優しげな言葉をかけてくれる。
よかったあ~先輩怒ってなくて。やっぱりとってもイイ人だ。それに、また遊びに来てくれてうれしいだなんて……あたしの方こそますますうれしいなあ~……え? あたしが来てうれしいってことは、もしかして、ひょっとすると……先輩もあたしのこと、ちょっぴり気になってたり……とか?
狩野の何気ないその言葉に、真奈はまたまた顔を蕩けさせ、加えて自意識過剰にも薄気味悪い笑みまでをもその蕩けきった顔に浮べた。
「あとちょっとでこの絵も完成なんだ。今日明日描けば終りってところかな」
妄想から現実世界に戻って真奈がキャンバスを覗うと、昨日見た時よりもさらに綺麗に色が塗り重ねられ、もうすでに完成しているようにも見える。それでもまだ今日、明日描かなければならないといっているのは、本人しかわからない、どこか納得のいかないところがあるからなのだろう。
そんな絵に対する情熱がまたステキだ……狩野先輩、絵の完成の暁にはそのお祝いとして、あたしをあなたの好きにしちゃってくださぁぁ~い!
「わあ、昨日よりもますますよくなりましたねえ! 完成、楽しみにしてます! そして、その後に待ち受けているであろう展開についても!」
真奈は内なる淫らな感情をなんとか覆い隠し(…切れていないが)、冷静さを装いながら賛辞を贈る。
「ハハ、ありがとう。そんなこと言ってくれるのは宮本さんだけだよ」
対する狩野は真奈と話しつつも、顔は絵の方に向けたままずっと筆を動かし続けている。
狩野先輩、一生懸命描いてるな……もっとお話ししてたいけど……そして、あわよくば、流れと勢いで過ちを犯しちゃったりなんかするパターンを望むとこだけど、もう、これ以上邪魔しちゃいけないな。ここはぐっと淋しさを堪えて、今日はあんまし長居せずに帰るとしよう……そう。あたしは惚れた男の幸せのために、そっと身を引く健気な女なの……。
「先輩、それじゃ、お邪魔しちゃ悪いんで今日はこれで失礼します」
真奈は名残惜しくも悲恋のヒロインを演じる自分自身に陶酔しつつ、狩野に別れの挨拶を告げて帰ることにした。
「え? もう帰っちゃうの? ……あっ、ごめんね。せっかく来てくれたのにあんまりお相手できなくって……」
狩野はそう言うと、ようやくキャンバスから顔を上げて真奈の方を振り返る。
「い、いえ、あたしの方こそ、お邪魔しちゃってすいませんでした。じゃ、絵の方、がんばってください」
「ありがとう。たぶん明日には完成できると思うよ」
「……あ、あの…明日も、絵を見せていただきに来ていい……ですか?」
真奈はきょろきょろと落ち着きのない視線を床に落し、頬を赤らめながらおそるおそる狩野に尋ねてみる。
「もちろんだよ。じゃあ、宮本さんのためにも、がんばって早く完成させなくっちゃね」
その言葉を聞いた瞬間、不安そうだった真奈の顔がパアっと明るくなる。
「は、はい! 楽しみにしてます! もう待ち遠しくって、きっと今夜は眠れません!」
「ハハ、そこは眠ってもらわないとプレッシャー感じるな……それじゃあ、帰り道気お付きけてね」
狩野は真奈の本気の言葉を冗談ととると、とても優しげな微笑を彼女に投げかけた。
「はい! 先輩もあまりご無理なさらないでくださいね」
微笑の貴公子――狩野の爽やかスマイルに目をトロトロにとろんとさせながら、真奈はもう一度会釈をしてその場を立ち去ろうとする……と、その時。
「ハッ…!?」
昨日と同じく、真奈はまたしても背中に誰かの視線を感じたのである。
突き刺さるような鋭い視線……真奈は慌てて背後を振り返ると周囲を見回す。
「………………」
しかし、やはり美術室の中には狩野と真奈の二人以外、他に誰の姿も見付けることはできない。
誰? 誰かいるの……?
真奈は狩野の方も見てみる。が、狩野はすでにキャンバスへ向き直っており、今の視線にはまるで気付いていない様子だ。
おっかしいなぁ……やっぱり、ただの気のせいなのかなぁ……。
「じゃ、お先に失礼します……」
「あ、お疲れさま」
真奈はどうにも腑に落ちない様子ながらも、小首を傾げつつ美術室を後にした。
七不思議の秘密、お知りになりたくないですか? でしたら、最後まで僕らにお付きあいください。 by 三善清彦




