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6.

洗濯を終えてしまうと一旦、やる事はなくなってしまう。

テーブルについて、木製のカップを両手で包んで持つ。

今日は何にしようかな。

結局、このカップが何なのか今に至ってもまったく分かっていない。

ただ、身体には害は出ていないし、便利なので毎日数回利用している。

だいたい、昼と夜の二回。

フィズさんにもまだ話してはいないので、彼が居ない時に利用している。

足の怪我も、頃合いを見てそっと治った事を示したらあっさりと納得してくれた。

葉っぱの威力がスゴイのか、これが普通なのかは結局聞きそびれたままだ。

聞いてみれば良かったかな。

とは言え、さすがにあれから時間が空いてしまって今更聞けないけど。

「良し、オレンジジュース出て来い」

さっぱり気分を味わいたい。

こちらでは、なかなか飲めない物でもあるし、何となくビタミン不足な気もする。

栄養学などさっぱりなので、ただの勘です。

カップはすぐさまオレンジの果汁で満たされた。

うん、甘くて美味しい。

ゆっくりジュースを味わいながら、テーブルに置いたノートを広げる。

これは、フィズさんから貰ったノートだ。

私の持ち物と言えば、洋服以外にはこのカップだけ。

せめて、母子手帳でもあればと何度も思ったがないものはない。

意外と無いと困るものと言うのはなかったのだが、母子手帳だけは心底欲しいと願った。

面白半分に、目を通したりはしたけれど、細かい出産の手順や妊婦期間の注意などは覚えていない。

せめてもと考えて、フィズさんから貰ったノートをお手製の母子手帳として使っている。

お手製とは言っても、手帳のように左端に日付を書いて数行、物が書けるように線を引いただけだけのお手軽設計だ。

毎日これを日記代わりに書いている。

ちなみに予定日には、大きく花丸を付けて見た。

初産は早くなるとか聞いた事があるけど、目安って言うのは大事だ。

ちょっとした体調の変化とか、ちょっとアレだけど便通を丸、三角、バツで記録していたりもする。

結構、大事だと思うのよ。

毎日に取り紛れて忘れてる事も多いしね。

気付いたら便秘だったとか割とあった。

下の話つながりだけど、妊娠していて良かったと思う数少ない事は、生理が来ない事だ。

他に女性が居れば気安く聞けただろうけど、フィズさんには聞けない、聞けない。

その分、妊婦としてあられもない姿をさらす可能性もあるけど、母は強しだ。

気にしない、気にしない。

我が子の誕生が何より大事です。

「ねぇ、今日は元気かな」

もう五カ月になる。

そろそろ動き出す頃の筈。

見た目に分かる程ふっくらとしたお腹を撫でると、何となく安心する。

窓の外は、良い天気で窓から日差しが惜しみなく降り注いでいる。

外に出ると風が冷たいが、室内に居ると温かい。

窓、拭こうかな。

何となく眺めている窓の汚れが気になって来た。

よっこらしょ、と立ち上がってノートを閉じる。

底の方に残っていたジュースは、腰に手を当てて一気に飲みきった。

「ぷっはぁー」

最高だね!

飲みきった解放感と共に笑顔で顔を上げるのと、扉が叩かれるのは同時だった。

今まで、この扉が叩かれた事はない。

何しろ、私は家に籠りっきりだし、フィズさんは鍵を持っている。

カップを掲げた体勢で固まって、扉を凝視する。

今のは勘違いで、風が何かの音を聞き間違えた説を私は推します。

そうそう、聞き間違い。聞き間違い。

安易に自分を納得させている私を裏切って、無情にも扉は再度音を立てた。

明らかに、自然の産物ではない意図的なリズムだ。

どうしよう。

私がここに居る事を知っている人はフィズさんしか居ない筈だ。

その彼が居ない時に、のこのこ扉を開ける訳にはいかない。

って言うか、怖いので無理です。

強盗とかだったら、太刀打ち出来ないし!

良し、居留守だ。

私はいない、私は留守。

外に気配が行かないように、そっと息を殺す。

そこまで神経質にならないでも良いのかもしれないが、身動き一つ取れないで居た。

扉は、諦めずに何度も音を立てている。

居ませんよー、留守ですよー。

言いたくても言えないので、心でそっと教えてあげる。

だから、早く居なくなってくれないかな。

心臓に悪い。

怖い。

やがて、小さく何かの声らしき音がして扉が叩かれる事はなくなった。

ホッと息を吐いて、そろそろと椅子に戻った。

あー、何だったんだろう。

通りすがりの旅人さん?

それとも、フィズさんのお知り合い?

もしも、後者だったら悪い事をしたかもしれない。

でも、フィズさんはお留守なので、必然的に誰もいないのが正しいと思うので対応は間違ってなかったと自分を慰めて見る。

まだドキドキしている胸を押さえて、ふうっと息を吐く。

何だか落ち着いたら喉が渇いて来た。

特別にもう一杯、お茶にしようかしら。

握り締めたままのカップを見下ろして、何か甘い物でも、と思った所でふと視線を感じた。

ここは、山の奥深く。

私以外に誰もいない、一軒家。

視線なんて、感じる筈がない。

恐る恐る振り返って、たまらず悲鳴を上げた。

「っひ!」

訂正、驚きすぎて悲鳴を上げる事も出来ませんでした。

だって、窓の外に人が!

見た事のない人が!

怖っ!

ど、ど、どうしよう。

どうしたら。

慌てて当たりを見回して、立ち上がる。

大きな音を立てて椅子が転がったが、気にしていられない。

窓にカギはかけたっけ。

ちょっと前の自分の行動が思い出せずに、パニックになる。

とりあえず、ここに居てはいけない。

転びそうになりながら、リビングから飛び出すと自分の部屋に籠った。

部屋の鍵をかけて、窓にはカーテンを引く。

こちらにも窓はあるが、リビングの物よりは小さい。

それでも、落ち着かなくてベッドの敷き布団を引っぺがして包まった。

何の意味があるのか、聞かないで欲しい。

ただ、安心したかった。

それだけの行動だ。

何やらリビングの方から、ガラスを叩く音がしたが、しばらくすると静かになった。

諦めたのかな。

見に行こうか、いや、まだ怖い。

だって、安心した所を襲われるのがホラーの定番。

って、何を嫌な事を思い出してしまうのか。

心臓は落ち着く気配を見せずに、高鳴りっぱなしだ。

ここでフィズさんが颯爽と現れたら、私は恋に落ちるかもしれない。

馬鹿な事を考えながら、無意識にお腹を庇うように手を当てていた。

余り興奮したら、お腹の子にも影響があるかもしれない。

落ち着こう。

深呼吸を繰り返して、どうにか冷静さを装う。

うん、大丈夫、大丈夫。

私ならやれるよ、大丈夫。

そんな時に、とんっと身体の奥から弾む感覚が伝わった。

「へ?」

まさか、と思いながら手を当ててお腹に集中する。

気のせいかと思ったが、今度はとんとんっと二回ハッキリと伝わって来た。

胎動だ!

動いてる!

私の赤ちゃんが、今、動いたよ!

一瞬、テンションが上がってそれどころじゃないと我に返る。

元気なのは良い事だし、初めての胎動は嬉しすぎて泣きそうだ。

でも、どうせならもっと落ち着いた時に、心から感動に浸りたかった。

今は状況が悪過ぎて、素直に喜べない。

くそう、良く分かんない人め。

どこの誰かは知らないけど、折角の感動を返せ。

怖さに少しだけ怒りが混じる。

フィズさんが返って来るまで、後どれぐらいだろう。

遅くても日暮れ前には帰って来るだろうけど、後何時間かかるか。

こう言う時に、警察とか呼べないのは痛い。

あの男は、諦めて帰っただろうか。

帰って居て欲しい。

まさか、窓を割って侵入とか止めて欲しい。

ここには、何もありませんよ。

いや、本当にお金とかないと思いますよ。

貴重品の管理はフィズさんなので、実際にお金とか見た事無いし。

息詰まる時間がどれだけ過ぎただろう。

耳を澄ませてみても、特に変な音は聞こえない。

そう言えば、カップをリビングに置いて来てしまった気がする。

今、手元にないので、たぶんリビングにあるのだろう。

お守り代わりのカップがないと不安も倍増する。

「フィズさん、早く帰って来てぇ」

小さく祈りながら、それでも人とは状況に慣れるらしい。

布団に包まってぬくぬくしていた弊害か、いつの間にか意識は飛んでいた。



えぇ、寝てました。

起きて、部屋が真っ暗だった時の衝撃たるや。

これが筆舌に尽くし難いと言う事かと、自分に突っ込みを入れたかった。

人間、図太い生き物ですね。

って言うか、無事で良かった。

本当に、無事で良かった。

平和ボケにも程があるよ、自分!

一通り、己を叱咤していると重いノックが部屋に響いた。

思わずびくっとして布団に包まる。

「カエ?具合が悪いのか?開けても良いだろうか?」

この声は!

「フィズさん、お帰りなさい!」

思い切り扉を開け放って、飛び出した。

わぁ、フィズさんだ。

フィズさんだ。

本物だーい!

安心感と嬉しさで今までになくテンションが跳ねあがっていた。

「カエ、落ち着け!身体に悪い!」

考えなしに飛び付いた私をフィズさんは、難なく受け止めてくれる。

男前ですね。

にくいね、この。

やっぱり頼りになるわぁ。

うふふっとじゃれていた私は、この時本当に脳内がお花畑だった。

反省しています。

ごめんなさい。

「カエ!」

「はい!」

痺れを切らして大きな声で名前を呼ばれてようやくはしゃぐのを止めた。

子どもを通り越して、犬か、私は。

あぁ、反省。

「具合が悪いんじゃないのか?大丈夫か?」

「え、はい。全然、何ともないです」

げんき、げんきーとガッツポーズを取ってみる。

ポーズに特に意味はないが、フィズさんは安心してくれたらしい。

「そうか。良かった。あぁ、これが床に落ちていたんだ。何があったのかと驚いた」

「あ、カップ!ありがとうございます」

やっぱり床に落としていたらしい。

ありがたく受け取って、変に割れている所がないか確認する。

傷一つない、良かった。

「そうだ、そうだ、フィズさん!何だか、知らない人がやって来たんですよ!窓から覗いてて、びっくりして!」

報告しなきゃと勢い込んで喋る私に、くつくつと低い笑い声が重なった。

ん?この声はどこから?

目の前のフィズさんは、苦り切った顔をしていて笑いの気配は微塵もない。

ひょいっとフィズさんの背後を覗いてみると、見知らぬ人がそこに居た。

背はそこそこ高い。

フィズさんと同じか少し低い程度。

でも、身体付きはフィズさんに比べて細くて何だか軽そうな人だと言うのが第一印象。

じーっと見知らぬ人を見つめて、ハッと気付く。

「この人!この人です、窓にいたの!変な人!」

力いっぱい指差して訴えると押し殺していた笑い声が、爆笑になった。

え、何、この人。

「シュッツガルド……」

「ひー、はらいてー。悪い、悪かったって。だから、そんなに睨むなよ、フィジー」

引き笑いしていた人は、目の縁にたまった涙を払ってようやくまともな顔でこっちを見てくれた。

そ、そんなに笑うような楽しい事がいつあったのか聞きたいが、空気を読んで黙っておく。

「えーと、フィズさんのお友だちですか?」

恐る恐る聞いた質問の答えは、深い深いため息でした。

え、何その意味深な回答!

気になるんですけど!


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