フィジシュタット・クーウェン編
【フィズ視点】
帝都ツァイアから流れたどり着いたのは、ノア山の中腹だった。
獣が徘徊する山には、移り住む者などいないのだろう。
人の気配のしない生活は、思っていた以上に心を癒してくれた。
打ち捨てられた小屋に手を入れ、わずかな平地を耕して畑にする。
帝都の昔の仲間たちが見たら、腰を抜かして笑いだすかもしれない。
けれど、今の自分にはこの生活があっている。
このまま一人静かに生きるのも悪くはないと思っていた。
あの子を見つけるまでは。
山に仕掛けた罠を見回りに行く途中で出逢ったのは、小柄な少女だった。
恐らく十四、五の頃合いだろう。
蹲っていた背中がひどく痛々しく映った。
聞けば足に傷を負っていると言う。
こんな山の中で裸足。
それも肌着の様な薄着のまま。
尋常の様子ではない。
抱きかかえて急ぎ家へと戻れば、恐ろしい事でもあったのか顔色が蒼褪めている。
あんな所で何をしていたのか。
一体何があったのか。
聞き出したい所ではあったが、どうにか堪える。
まずは落ち着いてからだろう。
ひどく蒼褪めた顔で、心細そうに部屋を見回す様子に警戒されているのかと思う。
いきなりこんな小屋に連れて来られたのなら、その反応も仕方ないだろう。
まずはこちらに害意がない事を知って貰おう。
山仕事では擦り傷が多い為、取り出しやすい場所に置いてあった手当て道具を一式取り出して少女の元へ戻る。
小さな足を手に取れば、一瞬驚かせたようだが素直に任せてくれた。
白く柔らかな足だ。
ただの村人とは違う綺麗な足をしている。
尚更、出自の気になる所だ。
「っい!」
薬草を張り付けると小さな悲鳴が聞こえた。
押し殺した声に、少しだけ落ち着かない気持ちを味わう。
きっと久しぶりに女性と言う存在と関わりあいになったからだろう。
男とは違う身体の造りを目の当たりにしたせいかもしれない。
足先一つとっても自分とは違う。
動揺が現れる前に立ち上がって離れる。
「当分はあまり足に負担をかけない事だ」
不安そうに自分の足を見下ろしている姿に、気付けば言葉が滑り出ていた。
「嫌でなければ、泊って行くと良い。部屋は余っている」
「え、良いんですか!」
パッと上げられた顔に、一瞬だけ身を引いた。
今まで見下ろすばかりで、きちんと見ていなかったが、まだ幼さの残る可愛らしい顔をしている。
何より、まっすぐに見つめて来る瞳の強さに、驚かされた。
「男の一人暮らしだが、良いのか?」
軽率に言ってしまったが、相手は幼いとは言え女性だ。
警戒させてしまっただろうか。
だが、そんな心配もすぐに浮かんだ笑顔で覆される。
「泊めて貰えるだけでありがたいです」
ニコニコと笑って言う姿に、逆の不安が湧きあがって来る。
この帝国の状況を知っていれば、笑ってなどいられない筈。
だが、何かを企んでいるようにも見えない。
「まぁ、まだ子どもだからな」
年齢は聞いていないが、恐らくまだそう言った機微にも疎い年ごろなのだろう。
久しぶりに見る、無邪気な子どもの笑顔は心を安らげてくれる。
ここに居る間くらいは、何も考えずに休んで貰えれば良い。
先の事は、これから考えれば良いだろう。
ひとまず、着替えを用意しよう。
いくら子どもとは言え、この薄着は身体に悪い。
山の天気は変わりやすく、夜は冷え込む。
箪笥の中から、比較的新しい服を取り出して与える。
女物の衣服などないから、これで我慢してもらうしかないが。
申し訳ないと手渡すと、少しだけ首を傾げてから嬉しそうに少女は笑った。
彼女の笑顔は好感が持てる。
今まで自分が付き合って来た人間たちの取り繕った笑みに比べて、なんて健康的な事だろう。
ふっと過去の残像が脳裏をよぎる。
もう手放した筈の剣を探して手が彷徨う。
未練がましい自分を自嘲って、少女の着替えの為に適当な部屋へと案内する。
さて、どうするか。
とりあえず、夕食の準備をしようか。
きっと彼女も空腹だろう。
あまり大した材料はないが、せめて温かい物を食べさせてやりたい。
並べた食材を手に、久しぶりに誰かの為に料理を作るなと考えていた。
好き嫌いがあるか分からなかったが、タラ芋のスープと黒麦パンで大丈夫だろうか。
見返してみると情けない程備蓄がない。
そろそろ村に買い出しに行かなければいけないだろう。
戸棚から見つけたミルをつけたしておく。
栄養価の高いキカの種を混ぜてある非常食だ。
ないよりもマシだろう。
料理とも言えない質素な料理を並べて、我ながらため息が出る。
客人など呼ぶつもりもなかったが、さすがにもう少し考えておくべきだった。
一通りの準備を終えてから、着替えに行っている部屋の扉を叩く。
最近はまったく使っていない客室だが、思いがけず役に立った。
「食事が出来たから食べに来ると良い」
声をかけると返事と共に、部屋から出て来た。
足を庇っているのか、ぎこちない歩き方だったが問題はなさそうだ。
渡した着替えも、どうにか着られたようだ。
自分の持っている中でも細身の服を渡したが、やはり大きかったらしい。
襟の詰まった服だったが、彼女が着ると鎖骨までが露わになっている。
丈もだいぶ余っている。
念のために、下衣も渡しておいたが不要だったようだ。
僅かにのぞく膝は、目のやり場に困るが。
「そんなに腹が減ったか?」
気付けば腹の辺りを摩っている。
先ほども、同じような事をしていた気がする。
長い間、山で彷徨っていたのだろうか。
もう少し、量を用意してやった方が良かったか。
一抹の不安を抱えながら席に着く。
「大した物はないが」
謙遜でもなく一言添える。
「とんでもない!頂きます」
「あ、あぁ」
意気込んだ言葉に僅かに驚いた。
そうか。
そんなに腹が減っていたのか。
「……美味しい!」
無心に食べる様子に、口元が緩む。
微笑ましい心持にこちらも食事を口に運ぶ。
この辺りに人家はないし、山向こうのジェジ公国側にも村までかなりかかる筈だ。
どちらに向かおうとしていたのかは分からないが、生半な覚悟ではなかっただろう。
パンを頬張る姿は幼く、華奢な身体付きだ。
どう言ったいきさつのある娘なのか。
観察する目になった時だった。
スープを口に含んだ少女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
何の前触れもないその涙に、動揺を隠せなかった。
「ど、どうした!?」
「すみません、ちょっと、ちょっとだけ、ごめんなさい」
口早に言いながら、必死で涙を拭う。
一生懸命、どうにか堪えようとする泣き方は痛ましい。
この年ごろであれば、声を上げて泣いても許されるだろうに。
彼女は、時折しゃくり上げるだけで静かに泣き続けた。
「急にスミマセン」
申し訳なさそうに言う彼女に、手近にあった手巾を渡す。
「いや、色々あったんだろう」
想像しか出来ないが、敢えて問い質そうとは思わなかった。
本当なら聞いておくべきなのだろう。
けれど、今の涙を見てしまうと暴き立てるのは惨く思えたからだ。
下手な相槌しか打てない自分に、少女は淡く笑う。
赤くそまった目元と合わせて、痛々しい。
どれだけの不幸がその身に降りかかったのか。
この世界で、国で、女性と言うだけで理不尽な思いもして来た事だろう。
苦々しい思いを飲み込む。
彼女もまた、この世界の犠牲者なのだろう。
「あ、あの!」
「ん?」
「今さらですが、私はクサノ・カエデと言います」
丁寧な一礼に、まだ名乗っていなかったと己の無礼を思い出す。
ついで、不思議な音の羅列に戸惑った。
「俺は、フィジシュタット・クーウェンだ。クーサ……?不思議な名前だな」
「えと、名前は楓、です。か、え、で」
ゆっくりと区切りながら再度、名乗ってくれる。
しかし、聞き慣れない。
彼女の祖国は、遠い場所なのだろう。
「カ、エーデ?」
何度か挑戦してみたが、どうも微妙に違うらしい。
彼女はこの国の言葉に不自由していないようなのに、良い年をした自分がこの有様では不甲斐ない。
「カエ、でも良いですよ。仲の良い子はそう呼ぶので」
「カエ、カエ……。あぁ、そちらの方が呼びやすいな」
妥協点を示してくれた彼女、カエの申し出ありがたく受け入れた。
そして、今度はこちら側の名前を伝える番だ。
「すみません、もう一度、お願いします」
息も絶え絶えな様子で聞かれたのは何度目だっただろうか。
見るからに苦戦している様子に、何だか申し訳なくなった。
帝国共通語に不自由はしていないようだが、何故か名前の聞き取りは苦手なようだ。
少し複雑な発音は挟んでいるが、さほど奇矯な名前ではない筈だが。
これ以上、落ち込ませるのも忍びない。
「フィズ、と呼んでくれ」
「フィズさん、ですね」
「あぁ、よろしく。カエ」
ホッとしたような微笑みに、つられてこちらも笑顔になる。
見ているだけで、心和む子どもだ。
帝国では、年々子どもの数が減って行っていた。
数年前にようやく原因が付きとめられ、今後は徐々に回復していくだろうが、まだまだ時間がかかる事だけは確かだ。
子どもと言うのが、こんなにも可愛らしい存在だとは知りもしなかった。
食事を続けながら取りとめもなく話して行く。
カエの質問は、子どもであっても帝国の人間なら知っていて当たり前の事ばかりだった。
やはり、遠い国から来たのだろう。
ここは少し踏み込んで聞いておくべきだろう。
躊躇いながら切り出してみる。
「カエは、商隊とはぐれでもしたのか?」
家族で国を巡って旅をする者たちもいる。
そんな旅の途中ではぐれたのであれば、まだ対処のしようもある。
「いえ、そう言う訳では。あの、気付いたら山に倒れていたと言いますか」
「家族は?この帝国の人間か?」
「いやー、多分、違うかなぁ」
「どこの国の人間かは、分かるか?」
「ちょっとそれは、分かんないと思います」
重ねるように問いかければ、どんどんとカエの顔色が悪くなる。
曖昧な笑顔に、完全に沈黙する。
帝国の人間でもなく、気付いたら山に倒れていた。
明らかに不穏な事態に巻き込まれていたのだろう。
最近の帝国では、他国からの不法な奴隷売買が、特に女性奴隷の取引が問題視されている。
カエも、またそんな輩に攫われたのだろう。
酷な質問だとは思ったが、確認しなければならない。
「どこか、頼る宛てはあるのか?」
問いかけた質問の答えは、項垂れた小さな頭だった。
それが何よりの答えだった。
可哀想に。
こんなに可愛らしく、素直な子どもが大人の欲望に寄って人生を狂わされる。
しかし、まだカエは幸運だったのかもしれない。
このまま何処とも知れない貴族などに売り払われるよりは。
途中で何があったのかは分からないが、地獄の様な場所からは逃げられたのだから。
「ここは、険しい山奥だ。自活するのも俺ですら辛いと思う事がある。女の身で、しかも子どもであれば、尚更辛い事が多いだろう。それでも良ければ、ここに暮らすか?」
こうして自分がカエを拾ったのも、縁あっての事だろう。
女性と子どもは無条件に保護対象だった昔の名残もあったかもしれない。
「フィズさん!わた、私、何でもします!掃除も洗濯も、料理、はどうだか微妙ですけど!頑張って、覚えます!」
いきなり立ち上がったカエに驚く。
掴まれた両手に、しっかりと力が込められてカエの興奮ぶりが伝わってくる。
何度も礼を言われて、その様子に少しだけ切なさを味わう。
救われたと喜ぶ彼女の笑顔を守ってやらなければ。
興奮状態のカエを宥めていると、小さな声を上げてカエが神妙な顔になる。
「あの、私、妊婦なんです」
「は?」
今、信じられない言葉を聞いた。
「子どもがいて、あ、まだ四カ月ちょっとなんですけど。ご迷惑はおかけしないので、どうかお願いします!」
深く、深く頭を下げる姿。
まだ十代半ば程度の幼い子ども。
女性として成熟しているようには見えない。
それなのに、子どもがいるのか。
思わず、膨らんでいるようには見えない腹部を見つめた。
まさかとは思うが。
それが原因で山に放置されたのか。
「何と言う……」
奥歯が軋むのを押さえられなかった。
幼い子どもを攫うだけでなく、孕ませた挙句に険しい山に捨てたのか。
非道にも程がある行いだ。
それなのに、カエは屈託なく感謝をしている。
素直で優しい子なのだろう。
腹の子どもの事も大事そうに話している。
「分かった。それなら、尚更ここで暮らすと良い。大事な身体だ、今日はもう休んだ方が良い」
「フィズさん!」
身体を大事にして休むように言うと、また嬉しそうに笑う。
あぁ、この笑顔は守らなければ。
本来なら、こんな事を思える立場ではない。
けれど、心から守ってやりたいと思ったのだ。
それは久しぶりに感じる、熱を孕んだ欲求だった。