2.
舐めてた。
自然の手ごわさも。
己の体力のなさも。
ヤバい。
歩いても、歩いても、先が見えない。
段々と辺りは暗くなるし。
焦りだけが募って行く。
どうしよう、と考えてももう進むしかない。
今から戻っても意味があるとは思えないし。
あぁ、でも無理は出来ない。
こちとら妊婦だ。
しかも、妊婦初心者なのだ。
いや、誰に威張ってるのか分かんないけど。
どこまでが無理なのかが分からないのが怖い。
山登りなんて、しようとも思わなかったから、そんな事調べてもない。
「のど、かわいた……」
何時間も歩きっぱなし、登りっぱなし。
運動なんてここ何年もやっていないのに、この強行軍は辛い。
何度も言うけど、私は妊婦。
一休み、と手ごろな木に寄りかかって座り込む。
一度座ってしまうと、立ち上がるのも辛いけど。
しょうがない。
本当は、もう立ちたくないんだし。
ずっと握り締めていたカップを見下ろして大きく息を吐いた。
もう温もりは消え去って、鼻を突っ込めばレモネードの残り香が拾えるくらいだ。
冷たいウーロン茶が飲みたい。
こう絵本のように、カップから水が湧いたりすれば良いのに。
「……なーんて、ね」
くだらない妄想を自嘲して、カップを膝元に置いた。
先に言っておきます。
本当に、冗談のつもりだった。
ちょっと疲労がたまった挙句の空しい冗談でした。
まさか、本当に湧くとは思わないよ。
「うえっぇ!」
驚きすぎて変な声が出た。
確かに空っぽだった筈のカップは、気付けばたっぷりとしたお茶で満たされていた。
しかも、匂い的にこれは先ほど飲みたいなと思ったウーロン茶。
まさか旦那さん、どこぞの魔法学校からこのカップを直輸入?
頭の中が疑問符と感嘆符で満たされた。
ごくり、と喉が鳴る。
私は、今、とっても、喉が、渇いて、います!
普通なら、飲まないよ。
こんな得体の知れない状況で出て来た飲み物なんて。
でも、今の私は、きっと、言いたくないけど、もう認めざる得ないけど。
遭難者。
生き延びる為なら、お腹の子を守る為ならば。
何でもしましょうとも。
恐る恐るカップに口を付ける。
一口、口に含めば覚えのあるお茶の香り。
特に酸っぱくもないし、舌先に変な痺れもない。
そこまで確認して、一気に呷った。
えぇ、喉が渇いているんです。
「ぅぷはー!生き返った!」
美味しかった。
冷たいけれど、冷たすぎない程度の完璧な温度のウーロン茶は、体中に染みまわたりました。
まさに砂漠の中のオアシス。
気のせいだろうけれど、身体も心なしか軽くなった気がする。
しかし、ここからまた山登りだと思うと立ち上がるのも億劫だ。
行かなくちゃ。
夜の山なんて考えるだけで恐ろしい。
よっこいしょ、と掛け声とともに立ち上がった時。
がさり、と音が聞こえた。
いや、気のせいだ。
疲れ過ぎているのだ、嫌だわ。
早く行かないと。
慌てて足を踏み出したせいで、寄りにもよって尖った小石を踏みつけた。
「……っい!」
あんまり痛すぎて声も出ない。
蹲って足を押さえた。
見るのが怖い。
血が苦手とか可愛いオプションなんて持っていない。
いないが、別に得意でもない。
特に生々しい傷とか、見たい人いないでしょ。
涙目になっていると、背後で繁みをかき分けるような音がハッキリと聞こえた。
うそ、止めてよ。
ココに来て野生生物とか無理。
だいたい、犬だって中型犬以上は怖いのに。
何か追い払えそうな物。
咄嗟に、足元にあった石を掴んで振りかぶる。
「あっち行け!」
良く見もせずに背後に投げつけた。
後で思いました。
ちゃんと見て投げないと、当たる物も当たらないよね。
そして。
ちゃんと意志の疎通が図れるかどうかの確認がまず最初だったよね。
「っ!驚いた」
「へ?」
やけに良い声が聞こえて、涙目のまま振り返った。
なんか今、人の言葉が聞こえたような。
「女?どうして、こんな所に?」
「へ、あ、もう、ひとだ~」
あーもう、驚かせないでよ。
本気で、野犬とかかと思ったじゃない。
繁みをかき分けてやって来たのは、背の高い、がっしりした体格のお兄さんでした。
そうお兄さん。
……人間じゃん!
別に私は山頂を目指していた訳ではなく、最大の目的は人に会う事。
つまりは、ココに来て私はひとつの目的を果たした訳です。
「どうやってこんな山奥に?怪我をしているのか?」
蹲ったままの私の所まで来て、お兄さんは驚いた様子ながらも心配そうに声をかけてくれます。
「ちょっと石で切ってしまって」
「裸足で、この山を?」
なんて無謀な、と言う心の声が聞こえました。
会って数秒で無言の言葉が読みとれるなんて、きっとコレが運命でしょう。
お願い助けて。
言葉にするとあんまり情けないので、こちらも無言で訴えて見ました。
お兄さん、意外と硬派なお顔立ちのイケメンですね。
ガン見する所を間違えて余計な事を考えてしまった。
まさか、無言のよいしょを聞いた訳じゃないでしょうが。
「近くに俺の家がある。そこで手当てをしよう」
「あ、ありがとうございます!」
神様、仏様、お兄様!
きっとその時の私は、ここ最近では一番の笑顔だったでしょう。
立ち上がったお兄さんを追い駆けるようにして、身体を起こす。
しかし、足が痛いのと身重の身体のせいでちょっともたついてしまった。
そんな時に差し出された大きな手。
一瞬、何を促されているのか分からずに、きょとんと見返してしまった。
「掴まれ」
「あぁ、そう言う、アレですね。すみません」
何て言うか、そう言うアレは縁がなくてですね。
結婚前も結婚後も、転んだら自分で起き上がれ精神でやって来た物で。
可愛げのない女です。
いざとなると救護的な意味と分かっていても気恥かしいものが。
手をお借りすると、ぐいっと持ち上げてくれました。
お兄さん、力持ち。
「あ」
ありがとう、と言って自分で歩くつもりでした。
しっかり、きっぱりそのつもりでした。
なのに、お兄さんってば。
ああ、恥ずかしい。
これは、アレですね。
乙女の夢の一つ。
お姫様だっこと言うヤツですね。
でも、残念ながら私の夢ではないのですよ、お兄さん。
「じっとしていろ。裸足で歩くのは無謀だ」
いえ、ここまでどうにか歩いて来た訳で。
だからと言って、今歩けるかと言うと答えられませんが。
ぐるぐると考え続けて、ぽかっと身体から力を抜きました。
所詮、救助されている身。
ここはスペシャリストにお任せした方が良いのでしょう。
「それでは、ありがたく」
「あぁ、もし不安定なら何処か握っていてくれ」
ガシガシと進んでいくお兄さんは、強面ですが優しい人です。
えぇ、遠慮なく掴ませていただきました。
お兄さん、その速さは歩くと言うより走る、です!
まさかの人酔いを経験しそうになりました。
乗ってる的な意味では、もしかして私が初めてでは。
ザカザカ進んで言ってたどり着いた小屋は、何とも可愛らしいウッドハウスでした。
玄関先にはカンテラが飾ってあって、何とも風情があります。
「すまないが、ここで少し待っていてくれ」
物珍しげにキョロキョロしていたら、お兄さんは玄関脇のベンチに私を下ろすとどこかに行ってしまいました。
それにしても、立派な、立派な柵です。
こんな立派な物って必要なの?
必要だから、こんなに立派なの?
高さとか私の身長をゆうに越してますが。
何だか檻の中に入った動物気分。
しかもお兄さんが締めた門部分には、大きな閂が。
きっとアレ、私じゃ持ち上げるのも無理だわ。
まぁ、でも、何はともあれ。
「落ち着けそうで良かったね」
お腹をさすって呟く。
痛みもないし、体調にも不自然な感じはない。
まだ安心は出来ないけど、一息つけただけでもありがたい。
「腹でも空いたか?」
「いえ、そう言う訳では」
やって来たお兄さん、開口一番にその台詞はいかがなものですか。
確かにちょっとお腹もすいて来る頃合いですが。
「水を汲んで来た。まずは足を洗おう」
「あぁ、ありがとうございます」
そうだ。
さすがに泥まみれの足で、お宅訪問は失礼過ぎる。
タライに入れられた水を有難く頂戴して、足を洗う。
ちなみに切った方の足を洗った時の痛みは、言わなくても良いと思う。
涙目です。
きれいさっぱりした所で、遂にお宅拝見だ。
またしてもお兄さんは、軽々と持ち上げてくれた。
これでも1.25人分程度の体重があるんですが。
いや、せっかく綺麗にした足をまた汚してもしょうがないからね。
ありがたく甘えさせて頂きました。
後ほど、このご恩はお返し致しますので。
ウッドハウスの中は、見た目だけでなく立派な造りだった。
最近は、見た目だけ木造とかもあるけど、ここのお宅はちゃんと全て木造だ。
窓の部分も桟から枠まで全部、木製。
職人の心意気を見た気がする。
まるで白雪姫に出て来るような丸い木のテーブルと手作りっぽい椅子。
何だか私の心をときめかせるアイテムがいっぱいだ。
「薬を取って来るから、少し待っていてくれ」
「あ、お手数おかけします」
ボーっと部屋を見回していた所で、慌てて頭を下げる。
いや、本当にお世話になりっぱなしで申し訳ない。
お兄さんは、気にするなと首を振ってからさほど待たずに戻ってきました。
結構、使用頻度が高いのかもしれない。
取り出しやすい所にしまってあるのかな。
ざっくりした籠のような物には、包帯やら葉っぱやらが詰め込まれている。
うん、ちょっと待って。
葉っぱって何?
山奥のおばあちゃんの知恵的な?
怪我をしたらヨモギを噛みつぶして塗り付ける的なアレですか?
迷うことなく葉っぱを手に取ったお兄さんに、思わずぎょっとすると宥めるように足に触れられた。
「杜黄の葉だ。切り傷に良く効く」
「はぁ」
すみません、聞いた事もありません。
でも、現地の人の言う事だから間違いはないのだろう。
乾燥している葉を水に浸して柔らかくして軽く揉む。
それをまた伸ばしてから傷口に貼り付けた。
「っい!」
やっぱり染みる。
何とか声は堪えたつもりだけど。
椅子を掴んだ手には力がこもってしまった。
その間にもお兄さんは、テキパキと包帯を巻いてくれる。
「当分はあまり足に負担をかけない事だ」
「はい、ありがとうございます」
暗に立ったり歩いたりを否定されましたが。
その場合、私は本日どうすれば?
「嫌でなければ、泊って行くと良い。部屋は余っている」
「え、良いんですか!」
嫌だなんて滅相もない。
「男の一人暮らしだが」
泊めて貰う身で贅沢は言わない。
何やら歯切れの悪いお兄さんの言葉もまったく気にならなかった。
「良いのか?」
「泊めて貰えるだけでありがたいです」
いえ、本当に。
まさかの野宿をも考えていた身としては、本当にありがたい申し出だった。
完全に自分が女であるが故の危険性とか考えていなかった訳ですが。
「まぁ、まだ子どもだからな」
幸運に舞い上がっていた私は、お兄さんのそんな失礼な誤解に気付かなかった。
以心伝心って、やっぱり長く付き合わないとハードルは高いようです。