セレナーデ 第五曲
セレナーデ 第五曲
酔った神森聡良を、僕の部屋へと連れ込み、そのままベッドに寝かしつけた後、僕は彼の仕立ての良い背広から名刺入れを探し当てた。
彼の名前と彼の勤める会社を知り、パソコンのネットワークで調べ、勤め先の「嶌谷不動産」が大富豪である嶌谷財閥グループだと知った。
「嶌谷不動産」の社長は聡良さんの父親であり、母親は嶌谷財閥のトップである嶌谷宗二朗氏とは従姉弟同士らしい。
言うなれば…彼はブルジョアジー側の人間なのだ。
確かに、彼の生きる世界は僕とは遥かに違う。
素直で灰汁の無い親しみやすさや、洗練された身のこなし。嫌みのない上品さは陰のない日の当たる道を歩んできた証拠だろう。
また彼の家族も豊かだ。
彼のお母さんが作ったというフルーツケーキは、食べたこともない程高級な材料を仕込んであるのがわかるけれど、とても優しい味がしたし、父親が社長であっても、聡良さん自身の仕事の才覚は十分備わっているようだ。
それに、聡良さんは長年チェロを趣味にしていたと言う。
資産家のたしなみ程度に思っているのだろうか。
僕は生きていくためにピアノを弾き続け、これしか術がないからこそ逃げ場さえ見つからないというのに…
彼の意を汲んで、合奏しようとは言ってみたものの、僕は聡良さんのチェロの腕前には興味がない。
ただ、彼の財力はこのままあっさりとは諦めきれない。
…彼の財力が僕を救ってくれるかもしれない。
父の残した店の借金を払い、僕を愛人という汚い身分から救いだしてくれるかもしれない。もし神森聡良の愛人になることになっても、今よりは随分マシではないだろうか。
…お金目当てに寝たのだと言ったら、聡良さんは僕を軽蔑するだろうか。
それとも…
彼のような気高い人と恋仲気取りなど、釣り合わぬ妄想は捨て、お金の為に身を売り続ける、賤しいピアニストとして生きていくしかないのだろうか…
二か月ぶりに会えた嬉しさに、汚い計算が上乗せされ、僕はその夜、聡良さんを再び僕の部屋へ招き入れた。
彼は素直に僕に従い、僕を愛してくれた。
優しく傷つかぬように、淑女を扱うように僕を抱く聡良さんがたまらない。
その純真さに、泣きそうになる。
僕はこんなに汚いのに…
嗚咽する僕に「ごめん。どこか無理させた?」と、すまなそうに気を使う聡良さんに、僕はしがみつく。
…ごめんなさい、僕はあなたを騙そうとしている悪い男だ。僕はあなたに愛される資格などないんだ…
「ね、俺と合奏してもいいって言ってくれたでしょ?」
「うん」
翌朝、聡良さんと朝食を取った後、彼はバックからおずおずと一冊の楽譜を僕の前に置いた。
「これを響さんと一緒に弾きたいんだけど…」
「…アルペジョーネ・ソナタ」
「そう」
シューベルト作曲のアルペジョーネ・ソナタイ短調は、当時チェロを小ぶりにした六弦の弦楽器、「アルペジョーネ」の為に書かれたものだ。
アルペジョーネ自体は現代では使われることもなく、時代と共に消えていった楽器だが、シューベルトの残したソナタは、ヴィオラやチェロで代用され、今も世界中で演奏されている名曲だ。
「俺は一応暗譜したから、あとは君の都合に合わせるよ」
「へえ、ソルフェージュもアナリーゼもパーフェクトってわけだね」
「皮肉かい?俺はね、プロになり損ねたただのアマチュアだよ。すべてを生まれ持った君の才能が羨ましくたまらないよ。本当は憎々しくさえある。でもね、それを超えて、君の演奏に陶酔してしまう。だから俺との合奏を願うのは、恐れ多い気がするよ」
「…そんなこと、ないですよ。…聡良さんのお役に立てるなら…これくらいなんでもないです」
僕は受け取った楽譜を握りしめた。
嘘を吐くのには慣れているはずなのに…後ろめたさに聡良さんの顔をまともに見れずにいる。
それでいて、僕は彼を繋ぎとめようと必死になっている。
「聡良さんと一緒に演奏できるのが楽しみです。一週間ほど時間を下さい。僕も暗譜しますから。手始めに『バイロン』の店でお手並み拝見、ということにしませんか?」
「ちょっと怖いな…お手柔らかにたのむよ。では、一週間後」
こうして、僕は聡良さんの為に、「アルペジョーネ・ソナタ」を弾くことにした。
練習の所為であやうくオーナーの芳井さんとの約束に遅れ、僕は急いで彼とのあいびきのホテルへ向かった。
すでに部屋には芳井さんがソファにくつろぎ、ブランデーを飲んでいた。
僕は遅刻したことを謝った。
「響が時間に遅れるなんて珍しいね」
「ついピアノの練習に夢中に…」
アルペジョーネ・ソナタの暗譜に没頭していた…とは、言えない。
「そうかい。実はね、君の店のマスターから相談を受けたんだが、君は聞いていないのかい?」
「え?河原さんが?…何の話でしょうか?」
「そろそろ店をたたみたいそうだ」
「…『バイロン』を?」
「…要するに店を売るから、響を自由にさせてやってくれと、頼みにきたんだよ」
「…」
「河原くんは私が無理矢理、君をあの店の抵当にしていると思っているらしいね。だが、私は一度だって君を束縛した覚えはない。君が私に頭を下げて頼んできたのだからね」
「…すみません。オーナーのおっしゃる通りです」
「どうするかね?」
「マスターには僕が話して、店を続けるように頼んでみます」
「響の父親の大切な形見だもんなあ」
「…はい」
「私はどちらでも構わないさ。あの店を売って金にするも、響とこうやって楽しむのも…決めるのは響だからね」
「わかってます」
「では、さっさと服を脱いでこちらへ来なさい、響」
「…はい」
芳井さんの玩具になるのは構わない。
だが芳井さんが僕に飽きたら、捨てるのも躊躇わないだろう。その時、僕はどうやって「バイロン」を守ることができるのだろう。
翌日、僕は河原のおじさんの自宅へ行き、オーナーとの話の真相を尋ねることにした。
おじさんの自宅は、街の外れの都市化されていない地域で、家の真向かいには田んぼが広がっている。
中学一年の夏に父に連れられた時は、こんな田舎臭いところなんて…と、思ったものだが、今はこの鄙びた景色が懐かしい。
昔のように南の縁側に案内された僕は、おじさんと肩を並べ、お茶を啜った。
「…響がここに来た時も、ちょうどこんな夏の始まりの頃だったねえ~。田んぼの蛙の声が五月蠅くて寝れないって、毎晩母さんに文句を言ってた」
「そうだったね。美那子おばさんには我儘ばっかり言って、困らせたもんだなあ。ホントに捻くれたガキだったもの。反省してるよ」
「母さんはよく私に言っていた。響が思い通りにならないのは当たり前だ。でも、自分が産んだ愛しい我が子だと思って、響と仲よく暮らしていきたい、って。私も響を息子のように思っていたよ」
「…僕だって…おじさんとおばさんに甘えてばかりで…なにも返してやれなくて…ごめんなさい」
「響が謝る理由なんかひとつもないさ」
「…」
庭先に植えられた小さな野の花たちが夕暮れの風にそよいでいる。
美那子おばさんは手に取って「これがヨメナでこっちがヒメジオン。同じキク科だけどそれぞれに美しさは違うのよ。響さんの音楽と同じね」
「そうかな?」
「そうよ。響さんが奏でる一曲一曲も、色もリズムも美しさもそれぞれに違うでしょ?私は響さんの奏でる色とりどりの繊細で爽やかな音色がとっても好きよ」
そう言って、笑ってくれる穏やかな笑顔に、僕はなんども救われた。
「響、今日は店のことで来たんだろ?」
「…うん。オーナーからおじさんが店をたたみたいって聞いたんだけど…本気なの?」
「ああ、そうしようと思う。…いや、もう決めているよ」
「おじさん」
「母さんは、響は言葉にしないけれど、心の優しい子だから、私たちが気を配ってあげなきゃね…って。そういつも言っていたのに。…もっと早く決断するべきだったよ。能見と母さんが死んだ後、響を守れるのは私だけだったのにね。響の苦労を見て見ぬふりをしていた。私は…父親役失格だよ」
「おじさんっ!」
「いつまでも『バイロン』を隠れ蓑にしちゃいけないよ、響。あの店は君の父親と私が建てたものだが、君が背負うものではないんだ。響は自由にならなくちゃならない」
「僕は…別に…。『バイロン』を守りたいって決めたのは僕だし、おじさんが責任を感じることなんか何もないんだ」
「息子を見売りさせてまで店を続ける親はいないよ、響。君が続けたいと思っても、今のままじゃだめだ。それに君も父親と母親のくびきから放たれてもいい年だ。これからは多少苦労はしても、自分の道を切り開いて歩いていくべきだと思う」
「…あの店を捨てて、どこでピアノを弾けばいいの?」
「能見の残したピアノだけが、君の弾くピアノじゃない。それに…響には心に決めた人がいるのだろう?」
「え?」
「神森聡良…さん。あの人が店に来るようになって、私には響の弾くピアノの音が明るく透んだ音色に聴こえるんだよ」
「そんなこと…ない」
「自覚のない恋も、芸術家には似合いだね、響」
「…」
「もっと自信を持ちなさい。努力するのは当然だが、君のピアニストとしての才能は私が保証するよ」
「…おじさん」
「君の父親にプロの道を薦めたのは、私だってことは…あいつは言わなかったのかい?」
「…ありがとう、おじさん。…ありがとうございます」
震える僕の肩を、河原のおじさんはしっかり抱きしめてくれた。
父よりも母よりも暖かい腕で…
聡良さんとの約束の日、「バイロン」の裏口から足を踏み入れた途端、ピアノの音が聞こえた。
急いで店内へ回ると、聡良さんが父のピアノを弾いていた。
揺るぎない旋律、甘く切ない…シューベルトの「セレナーデ」だ。
父の奏でるピアノに合わせ、アリアを歌う母の美しい声…
遠い昔…
うっとりと母を見つめる父の眼差し。
満ち足りたようにその視線に応える母の姿。
…幼い僕が見た光景。
Leise flehen meine Lieder
Durch Nacht zu dir;
In die stillen Hain hernieder,
Liebchen, komm zu mir!
(僕の歌は夜の中を抜け
あなたへひっそりとこう訴えかける。
静かな森の中へと降りておいで、
恋人よ、僕のもとへ!)
ピアノを弾く聡良さんの姿が、あの光景と重なり、そして、涙で滲んでいく。
(おとうさん、おかあさん、僕はいつまでも寄り添うふたりを眺めていたかったんだ…)
聡良さんが立ち上がり、僕に駆け寄り、そして優しく僕の髪を撫でた。
僕は涙でぼやけてよく見えないままに、正面の彼の顔を見つめた。
「どうしたの?響さん。どこか具合悪い?」
「…」
「そんなに泣いて…ねえ、大丈夫かい?」
「…聡良さんが好きだ」
「え?」
「あなたが好きなんだ」
「…ありがとう、響さん」
「僕は…本当はあなたに好かれる資格のない人間なんだ。だからあなたは本気にならなくてもいい。いつだって僕を捨ててくれてもいいんだ」
「そんなことは絶対にしない。俺は響さんを泣かせたりしたくない」
「…信じてもいいの?」
「俺は…能見響を一生守ると誓うよ」
「…ありがとう」
聡良さんの言葉が嘘でも本当でも、そんなことはどうでもいいんだ。
聡良さんは僕の欲しかったものをくれた。
それだけで僕は…
「…響は、思ったよりもずっと泣き虫なんだなあ~」
困ったように聡良さんが言う。
僕を泣かすのは、いつだってあなただよ。