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セレナーデ 第四曲

挿絵(By みてみん)


セレナーデ 第四曲


たった一度、身体を交わしただけなのに…

別にあの人とのセックスが他の人と比べて、格段に良かったとか…そんなんじゃないのに…

二か月間、一度足りとも顔を見せてはくれなかった。

なんて薄情なのだと、こちらの身分も考えず、憎く思ったこともある。

会えなかった時間の分だけ、想いが募るということなのだろうか。

明らかに僕は神森聡良という男を、他の誰よりも「愛しい」と、思うようになっていた。


だから、店で聡良さんの顔を見つけた時、僕は弾いていたピアノを適当に終らせ(ジャズなのでどうにでもなる)一目散に彼の元へ駆け寄ってしまったんだ。

彼の真摯な告白を「本気にならないでくれ」と、無下に断ったのはこちらの方なのに。

真正面から聡良さんに見つめられ、初めて自分の身勝手さを恥じ、俯いてしまった。

それなのに…

聡良さんは僕を抱きしめてくれた。

その力強さに僕は涙が出る程、嬉しくてたまらなかった…



僕はピアニストの父、能見昭雄と声楽家の母、能見麻由美の一人息子として生まれた。

生まれた時から両親の奏でる音楽を聴いて育ち、古典的なクラシックからジャズクラシックまで、それらは自然と僕の身体に染み渡っていった。

父も母も音楽の楽しさと厳しさを僕に与え、音楽の道へ導いてくれようとしていた。

だが、僕が十二歳の時、イタリア人の声楽家と愛し合うようになった母は、父と別れ、僕を父の元に置いて、イタリアへ行ってしまった。

その時の父の衝撃はこちらが気の毒になるほどで、母が去った悲しみよりも、僕がしっかり父を支えなければ、と子供なりに懸命に父を慰める毎日だった。

その甲斐もあってか、なんとか父も立ち直り、一年後には音楽家仲間との演奏旅行まで出来るようになった。

旅行先は主に外国だったから、父のいない間は、僕は父の友人である河原夫妻宅へ預けられた。

河原のおじさんもおばさんも良い人だった。子供のいないふたりは、僕を本当の子供のように可愛がってくれた。

特に美那子おばさんは気短で神経質な母とは違い、病弱ではあったが朗らかで安穏に僕を包み込んでくれ、両親のいざこざで尖ったところがあった僕を癒してくれた。

僕は河原のおじさんと美那子おばさんのおかげで大して反抗期も感じずに、平穏な日々を過ごしていった。


自分が周りの少年たちと違う趣向の持ち主だと知ったのは、高校一年の時だった。

その年の夏休み、父はアメリカでの演奏旅行に僕を誘ってくれた。

僕は有頂天で喜び、父と楽団の仲間と一緒にアメリカ縦断演奏ツアーに、旅行気分で付いて行ったのだ。

楽団は十人ほどの構成で、時折演奏者が変わったりするけれど、みんなプロ意識の高いミュージシャンだった。

国や人種も様々で、おぼつかない英語のやりとりに戸惑った事もあったけれど、何よりも音楽が世界共通であることの素晴らしさを教えてもらった。

教えられたのは音楽だけではなく、彼らとのセックスだった。

当時僕は十六。

薄々自分の趣向に勘づいてはいたが、経験はなかった。

こちらは好奇心は増す一方、彼らは大人でジェントルに僕を扱ってくれる。

誘われついでに、肉体を解放できる快感を味わうことは、音楽に生きると決めた僕にとって、決して悪い経験ではないと思い、彼らの欲しがるままに与え、時には僕も求めた。

だが、まずいことに彼らとの最中に、父に見つかってしまった。

父はそういう人種ではない。

父は僕を強く叱責し、両頬を二度殴り、二度と彼らに近づくなと命じた。

しぶしぶながら、それは守られた。


夏休みが終わり、日本に帰りついた後、しばらくの間、父とふたりの生活が続いた。

父は僕にあらゆる音楽の技術と精神を教えてくれた。

僕は父に応えようと必死で腕を磨いた。

だが、夏に覚えた快感への欲望は増すばかりだった。

僕は父に隠れ、色々な男たちと寝てみた。しかし面白いことにセックスの快感というものは一時的なものであり、音楽を奏で、戯れながらトランス状態になるあの感覚には到底及ばない程のものだと思うようになった。

それは自分自身の技術や音楽に対する理解が深くなるにつれて、鮮明になってくる。


いくつかの国内コンクールで良い成績を残すようになり、国立の音楽大学を目指す頃になると、僕の生活は音楽一辺倒になった。

父もそんな息子を見て、安心したのだろうか。

海外での仕事は止め、河原のおじさんとジャズクラブを経営することになった。

勿論、メインは父の生演奏だ。

決して順風満帆とは言えない経営状態だったけれど、父と河原さんは懸命に頑張り続けていた。


大学三年の秋、父は交通事故であっけなく死んでしまった。

路肩を歩いていた父は、居眠り運転で暴走したトラックに跳ねられたのだ。

その頃、僕は世界的に権威のある国際コンクール出場への選抜に懸命になっていた。

大学の推薦により、出場できるかもしれなかったのだ。

だが、父の突然の死により、動揺してしまった僕は、教授たちの前で良い演奏はできず、コンクールへの出場は叶わなかった。

悪いことは重なる。

その冬には入院生活が続いていた美那子おばさんまでが亡くなってしまい、僕はピアノに没頭することができなくなっていた。


途端に僕の生活は荒れ、酒とセックスに溺れた。

数少ない友人たちの励ましや忠告すら邪険にし、未来など知るものかとただ荒んでいた。

だが、僕は帰ってこなければならなかった。

…帰る場所は決まっていた。

僕には音楽しかなかったのだ。

だから、父と河原のおじさんのジャズクラブ「バイロン」と、父の残したピアノを守る為に生きていくことを決めたんだ。


大学を卒業した僕は懸命に働いた。「バイロン」での演奏は勿論のこと、誘いあれば伴奏の仕事も請け負った。

だが、景気の低迷により、店の売り上げも底を打ち、「バイロン」は売却寸前だった。

僕は店に来たお客の中で、金を持った男好きのパトロンを探した。

それが今のオーナーの芳井さんだ。

僕は「バイロン」の営業を続けさせてもらうことを条件に、彼の愛人になった。



愛人関係に愛などはいらない。

オーナーも僕もお互いにそれを理解しているから、どんなことを要求されても我慢できた。

「愛」なんていらない。

僕には音楽がある。ピアノがある。

ピアノを弾いている時は、僕は誰にも縛られず、自由に舞い上がれる。



聡良さんにシューベルトをリクエストされた時、なんだか嬉しかった。

ジャズクラブだから、音楽に詳しく、何かと煩い客も多い。クラシックを弾くことだってたまにある。

だけど彼は「あなたのシューベルトが聴きたい」と、言ってくれた。

僕は彼のリクエストに応えた。


その晩、桜散る土手に座り、ひとり夜空を見上げている聡良さんを見た。

大人になっても、まだ夢を信じているような…横顔に、僕は惹かれた。

深く考えもせず、彼を部屋へ誘った。



彼に愛して欲しい…



愛することを怖れる僕は、欲しがるだけの我儘な子供のようだ。




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