セレナーデ 第三曲
セレナーデ 第三曲
俺の胸に寄り添う「能見響」の寝顔を眺めたまま、俺はなかなか寝付けないでいた。
そもそも男とやるのは初体験だったし、興奮冷めやらぬ状態なのだ。
甘い言葉に誘われ、彼とベッドインした後も一方的にリードされ、いかんせん気持ちよくいってしまい、恥ずかしい思いをした。
「初めは誰だってそうですよ。気にしないで」と、言われたけれど、高校生でもない、いい歳した社会人なんだから慰めにはならない。
終わった後の「初めてにしては聡良さん、上手いよ」と、要らぬお世辞を言われたのにも腹が立つ。
それにしても…彼のあまりの手際の良さと巧さに「能見響」という奴が単なるピアニストではないというのは理解できた。
男と寝ることも彼には当たり前な日常であり、セックスで相手をもてなすことなど慣れたものなのだろう。
それが現実だと無理矢理自分に納得させようとしても、相当のショックは隠しきれない…
なんつうか、俺もガキだなあ~。
音楽家だからって、美しい音を奏でるピアニストだからって、品行を求めても仕方のない話なのにさ…
大体、歴史の名だたる音楽家どもを眺めてみろ。
肖像画では偉人らしい顔をしてはいるが、清廉潔白な奴は稀で、大方が節操なしの好色で、色恋沙汰のオンパレードの人生だ。
あいつらを見習えとは言わないけれど、モラルに縛り付けられた音楽家なんて、センスのない詩人と同じで、パッションなどを与えられるものか。
なんにしろ…
こうやって俺の腕の中に存在する「能見響」は、俺にとって確かに愛おしい存在ではないか。
彼が何者であっても…
俺は「能見響」の美しい額に口唇を押し付けた。
翌朝、「能見響」の声で目が覚めた。
朝飯はあのフルーツケーキとコーヒーだ。
会話のネタにと音楽のことを話題にした。俺と彼を繋ぐものはそれしかないからかもしれないが…
「そう、聡良さんも音大を卒業しているんですか。道理でシューベルトをリクエストしたわけだ。専攻は?」
「チェロです。これでもプロを目指してて、一度はコンクールでセミファイナルまで行ったこともあるんですよ、国内の、だけど。あはは」
「…すごいじゃないですか」
「でも、プロにはなれませんでした。アマチュアとプロの差がどこなのか…その頃の俺にはわからなかった。なぜ俺のチェロでは駄目なのか。こんなに努力を積み重ね、ミスもなく、作曲家の意図も理解し、弾きこなしているのに…でも、本当はわかっていた。俺には天からの恵みは無かったんだ。…響さん、あなたは俺に言いましたね。感動は人それぞれだって。それはそうかもしれない。だけどあなたの奏でる音楽は普遍的なんです。それはあなたの努力や感性だけではない天性ですよ」
「聡良さんは雄弁な評論家なんですね。でも評論家って偏執狂が多いそうですよ」
「じゃあ、響さんの偏執狂になりますよ。俺はあなたの奏でる音楽にも…あなた自身にも惹かれている」
俺の告白に、「能見響」は困った顔を見せ、それからそっぽを向いた。
だから俺は追撃した。
少し子供じみてはいたけれど、言わずにはいられなかったからだ。
「響さん、あなたを本気で好きになってもいいですか?」
彼は困り顔をしかめ面に変え、俺の方を向いた。
「一度寝たぐらいで、そんなことを真顔で言われても困ります」
「あなたを好きになったら、困るんですか?」
「…時に愛は必要ですが、永遠の愛は望みません。…本気の愛も恋も僕には重荷でしかありませんよ。感情は穏やかに流れる方が心地いい。留まらず、目の前を流れる方が楽ですから。だから…どうか本気にはならないで下さい。その方があなたも僕も傷つかなくて済むじゃないですか。」
「じゃあ、どうして俺を誘ったんだ」と、胸倉を掴んで響を責めたかったが、それを言ったら終わりのような気がした。
しばらくの沈黙を破ったのは響の方だった。
「つまらない話はもういいじゃないですか。それよりも機会があったら聡良さんのチェロを聴かせてください。良かったら一緒に合奏しましょう」
懸命な告白を「つまらない」と片づける響は気に入らないけれど、合奏したいのは山々である。
俺は二つ返事で頭を下げた。
その日の午後、響のピアノの練習にも利用しているという『バイロン』へ行く。もちろんまだ閉店したままであり、裏口から鍵を開けて誰もいない店内へ入るのだ。
「いいんですか?勝手に使っても」
「この店はマスターの河原さんと死んだ僕の父が建てた店なんですよ。今は…オーナーのものになっているんですけど…」
「…」
なんとなくだが、気がついてしまった。
「響さんはそのオーナーと…付き合っているわけですね。この店の為に」
「…さすがですね。そうですよ。僕はオーナーの愛人です。だから…あなたの告白を受けるわけにはいきません」
「響さん…」
「変な同情はしないでください。経営が成り立たなくなったこの店を引き受けてくれるというオーナーに、愛人を申し出たのは僕の方だし、それでこの店が続けられるのなら…身体をどう使われようが大したことではない」
「大したことではない」と、呟く「能見響」の顔が一瞬強張った。
この人は嘘つきなのだ、と、俺は悟った。
「聡良さん、ピアニストにとって一番大切なものは何だと思いますか?」
「…感性…としか言えません」
「人それぞれに違いはあるでしょうが、僕にとって渇望する精神ですよ。あなたから頂いたフルーツケーキは美味しかった。恵まれた家族や資産、眩しいぐらい聡良さんは正しい人だ。僕はあなたに嫉妬した。だから…あなたと寝たいと思った。僕の音楽の為に」
「そう…ですか。響さんの役に立ったのなら…それでいいと俺も割り切れますよ。これでも大人ですからね」
「理解が早い人は好きですよ。じゃあ、僕の渇望を満たしてくれたお礼に…」
響はスタインウェイ製のグランドピアノを開け、その前に優雅に座り、指を鍵盤に置いた。
そして、美しい音律を奏で始めた。
シューベルトの歌曲からソナタまで、こちらが驚くほどの完成度で、弾きこなしていく。
シューベルト独特の孤独さと計算され尽くした精密な和音の展開…しめやかなノスタルジーと崇高なロマンチズム。
彼の渇望の魂はこんなにも繊細で透明な景色を見せるのに…
「能見響」の優しさと冷酷さは、俺を本気にさせた。
その日から俺は一層チェロの練習を励んだ。
音楽を奏でることが、「能見響」の本心に近づく術であること。そして、俺の心を理解してもらうための唯一の道である気がしたからだ。
『聡良さん、いつ来るの?チェロを聴かせるって約束したでしょ?』と、あれから何度も母から強請られる。
仕方がないので休日、実家へ帰った。
休暇でロスから帰省していた妹夫婦の歓迎と赤ちゃんの誕生祝の為でもある。
祖父母や義弟の家族も集まり、にぎやかな懇談の中、俺はチェロを演奏した。
練習した甲斐もあり、思ったより恥ずかしくない出来で満足していた俺に、母は無茶なことを言いだした。
「やっぱり生の演奏はいいわね~。あれから二か月しか経っていないのに、聡良さん、すごく上手くなってるわ。これからこういう場を作って聡良さんに演奏してもらおうかしら」
「ええっ!何言ってんの!俺は素人。アマチュアだよ」
「それ、いい考えだわ、お母さん。聡良兄さんだけじゃなく、楽器を弾ける方を招いてサロン形式にするの。色んな場が広がるし、素敵じゃない」
「宮子まで適当なことを言うなよ。やるんならちゃんとしたプロに頼めよ~」
「あら、アマチュアだからいいのよ。聡良さんみたいに音大に行ってもプロじゃない音楽家の方も沢山いらっしゃるでしょ?趣味で続けてる方たちに演奏してもらう場を提供させて頂くの。もちろん演奏する側も聴く側もお金はいただかないわ。音楽好きの方が集まって楽しむのよ」
「…あのねえ、母さん」
「そういう場がある方が聡良さんも練習のやりがいがあっていいでしょ?あなたも大学時代のお友だちを誘ってみてね」
「…」
なんだろ、この一方的な威圧感。
普段優しくて、父には従順で古式ゆかしい奥様顔なのに…なぜ今ここでこんな展開に…しかもかわいい初孫に目じりを下げっぱなしの親父も孫を抱いてニコニコ顔で「聡良、笑われないように練習を積んでおけよ。何事にも精魂込めてもてなしの心を忘れずに、だ!」などと言う。
あんた、会社では絶対に笑わない鬼社長って言われてるんだぞ。
しかし…
思いがけない状況だが、これは「能見響」を誘い出すチャンスかもしれない。
翌日、俺は二か月ぶりに「バイロン」へ足を運んだ。
ピアノを弾いていた「能見響」は俺をすぐに見つけ、そして走り寄ってきた。
「もう…来てくれないかと思っていました…」
暗闇で響の表情はよくわからなかったが、僅かに震えていたその声に、俺は他の客の目も気にせずに、その場で響の身体を抱きしめていた。