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セレナーデ 第二曲

挿絵(By みてみん)



翌日、見知らぬベッドで目が覚めた。

目の前の見かけない部屋とジャージ姿の自分に、しばらく理解不能だった。

炊事場の彼の姿を見るまでは…


「おはようございます」

「…おはよ…ございます…あの…俺…」

「…覚えてないの?」

「…なんとなくですが…一緒にあなたのアパートに行ったところまではなんとなく記憶にあるんですが…すいません、覚えてないです」

身に覚えのないTシャツとジャージのパンツは、きっとこの男からの借りものだろう。

「その服もあなたが自分で着替えたんだよ。僕も少しは手伝ったんだけど…ホントに覚えがないの?」

「…ごめんなさい」

さすがに変なことはしなかったかとは、聞けない。…してないだろうけれど…


「まあ、コーヒーでもいかがですか?神森聡良かみもりあきらさん」

「?」

「名刺を下さったんですよ。…『嶌谷不動産』って、あの嶌谷財閥の会社ですよね。そこの営業部長さんなんて…超エリートなんですねえ、神森さん」

「…聡良でいいですよ。能見響のうみなるさん」

「名前、憶えてくれていたんですか?」

「ええ、素敵な名前だったから。響くと書いてなるって読む。ピアニストになるべくして名づけられた名前ですよ」

「…完全な名前負けです」

「そうかな?あなたの演奏、素晴らしかったけれど…」

「…」

能見響は俺の言葉に、しばらく沈黙した。


「感動って人それぞれ違いますからね、その時の場所、その人の感情、聞く姿勢。曲目に対する思い入れ…あなたの言葉を素直に受け取ったとしても、たまたま昨日の僕の演奏がその時のあなたの感性に嵌っただけで、僕の演奏が素晴らしいわけじゃない…」

「…」

彼の音楽へのこだわりが、俺が予想するより遥かに重く、それが変に嬉しかった。

「それより…大丈夫ですか?会社は品川っておっしゃっていましたよ。電車とバスを乗り継いだら、ここから二時間はかかります。早く用意しないと仕事に遅れますよ」

「はっ!…マジで?…超やばい。今日は大事な会議が朝からあるんだっ!」

「シャツと下着は、洗って乾かしておきましたよ」

「わわ…あ、ありがとうございます!」


気の利いた奥さんのような完璧な支度に俺は何度も頭を下げ、用意されたコーヒーを取り敢えず飲み、あわてて能見響のアパートを出た。

「またお店に来てくださいね、神森さん」

「あ、はい」

振り返ると、愛想の良い顔で俺に手を振る能見響がいる。

妙な違和感を味わいながらも、反射的に俺も手を振った。



その週末の夕方、久しぶりに実家へ帰った。

俺のマンションから車で一時間程しかかからないが、滅多に帰ることはない


「お帰りなさい、聡良さん」

エプロン姿の母がほがらかに俺を迎えてくれる。

家中に広がる甘い匂いは、母が焼くケーキの所為だ。

「聡良さんが帰るって聞いたから、久しぶりにチーズケーキを焼いたのよ。沢山食べていってね」

「ありがたいけれどね、母さん。そんなに食べれないから沢山作らなくていいよ」

「そうなの?」

やんわりと断ったつもりだが、能天気の母には効かないだろう。ウキウキと台所へ戻っていく。

あまりに居心地が良いと、却って帰り辛くなるものだ。

父はともかく、母親にはつい愚痴や我儘を言ってしまうからなあ。


俺は未だに変わりのない自分の部屋へ行き、クローゼットの奥にしまい込んだチェロケースを取り出した。

俺のガリアーノ…五年前までは、一日だって触れなかった日は無かった。

飴色の胴体を撫で、ゆっくりとケースから出してやる。

買ってきたばかりの四本の弦を、一本一本丁寧に整え、弓を置く。

解放弦を鳴らし、音を合わせ、そして指板を抑え、音を奏でる。

バッハの第一番ト長調。

…懐かしい。

何度も何度も指がすりむけるまで繰り返し弾いた日々。どうしても納得がいかず、弓を投げ捨てた日。それでもこの道しかないと信じ、己を奮い立たせ、誰の為でもなく、自分自身の音楽性を信じて、弾き続けた…。


いつのまにか、母が部屋の隅で椅子に座って俺の弾くチェロの音色に聞き入っている。

「母さん、いたの?」

「ええ、お茶を用意して運んだら…あなたの部屋からチェロが聴こえたでしょ?うっとりしちゃって、聞き入ってしまったの。おかげですっかり紅茶が冷めちゃったわねえ。入れ替えてくるわ」

「そのままでいいよ。ついでにケーキもいただきます」

「はい」

ご機嫌な様子で母は、紅茶と切り分けたケーキを差し出した。


「母さん、また腕上げたね。このチーズケーキ、ラム酒に付け込んだブルーベリーがマッチして美味しいよ」

「まあ、聡良さんも口が上手くなったわねえ~。さすがに営業部長さんだけあるわね」

「母さん相手にお世辞を言っても一円の特にもなりませんよ。ホントに美味しいって褒めてるの」

「ありがと、うれしいわ。お父さんは全然褒めてくれないもの。それより、聡良さんのチェロを久しぶりに聴いたけれど、なんだかほっとするわね」

「人に聴かせる音じゃなくなったけどね…」

「そんなことないわよ。それに、楽器って人に聴かせる為に弾くものじゃなくて、まずは自分の為に奏でるものでしょ?…聡良さんがチェロを弾く気になってくれて、お母さんも嬉しいわ」

「…」

母の翳りのない微笑に俺は少しだけ後ろめたい気がした。

チェリストになる夢を追いかけていた頃、一番応援をしてくれたのは、母だった。

そして俺がその夢を捨てた時も、一言も責めもせず、「今までよく頑張ったわね」と、震える声で俺を許してくれたのも母だった。

就職をきっかけに独立して家を出たけれど、その理由のひとつは、母にこれ以上心配をかけたくなかったからだ。


「母さん、今まで言わなかったけれど…チェリストになれなくて、母さんの期待に応えられなくて…ごめん」

「…聡良さんが苦しんで選択したことだから、謝ることないわよ。お母さんはね、楽しいそうにチェロを弾いてるあなたの姿を知っているから…いつかまた笑って弾けるようになればいいなって、願っていただけよ。良かったわ…今のあなたの奏でる音、昔よりずっと優しいもの。もう大丈夫ね、聡良」

「うん。これからはチェロと仲よく暮らすつもりだよ。これ、俺のマンションに持っていくから」

「それはいいけど…暮らす相手がチェロじゃ、ちょっと寂しくない?誰かいいひといないの?」

「今のところはね」

「あのね、言わずにおこうかと思ったけれど、あなたのお見合い話は結構あるのよ。お父さんの取引関係が多いけれど…」

「俺、まだ27だよ。それに見合いって…」

「今時流行らないわよね~。だから片っ端から私が断っているの。運命の相手ぐらい自分で選んで欲しいもの」

思いもよらない結婚という言葉に面食らったが、一瞬だけ「能見響」の姿が浮かんでしまい、苦笑した。

俺の結婚と彼が繋がる意味が、わからない。

音楽家にゲイは珍しくないけれど、彼がそうだとは限らないだろう。俺だって決まった彼女はいないが、別に男が好きなわけではない。


「結婚は一生しないかもしれないって言ったら…母さん、がっかりする?」

「…」

俺の言葉に母は驚いたように何度か瞬き、そして笑った。

「子供に過度な期待をする年じゃなくなったわね。私は私の老後を楽しむから、あなたは跡継ぎなんて心配しなくていいわよ。かわいい孫もいるしね」

「そうか、宮子、無事に子供が生まれたんだね」

「ええ、女の子よ。写真見る?綾って言うの」

宮子は俺のふたつ下の妹で、二年前に結婚、夫の転勤で一年前からロサンジェルスで暮らしている。

母から受け取った写真には、妹夫婦と生まれたばかりの赤ん坊が写っている。

幸せそうな妹の様子に、俺もなんだか感慨深く、目頭が熱くなってしまう。


「宮子も和樹さんも幸せそうだね」

「これが普通でしょ?」

「そうだね」

「でも、聡良さんが普通でなくても、私は別に落胆しないから」

「え?」

「まあね、子供の何よりの親孝行は親より長く生きる事。それだけで十分だと思うことにしてるわ」

「…それって悟りを開いたってこと?それともハズレくじを引いたってこと?」

「…どっちもだわね」

弾けるように笑う母につられて、俺も声を出して笑った。



夜、帰宅した父と久しぶりに一家で夕食を楽しみ、その後、マンションへ帰ることにした。

「母さん、晩飯ごちそうさまでした。美味しかったよ、お世辞じゃなくね」

「近いんだから、いつでも食べにきなさい。それと…二週間は持つから、ゆっくり食べてね」と、母は無理やりフルーツケーキの入った箱を俺に押し付け、「また気が向いたら、あなたのチェロを聴かせてね」と、言う。

「ああ、しばらく気を入れて練習してみるよ。弾きたい曲があるから」

「楽しみにしているわ」

「じゃあ、父さんにも宜しくって伝えといて。まあ、親父とはたまに会社で会うからいいんだけど…」

「お父さんは何も言わないけど、あなたの仕事ぶりには感心しているのよ。うちにいらっしゃるお客様に自慢しているもの」

「あはは、親ばかの典型」

「親ばかの特権よ。じゃあ、元気でね。いいひとを射止めたら、お母さんに一番に会わせてね」

「…了解」


何気に言われた「いいひと」の言葉にまた「能見響」の顔が浮かんだ俺は…どっかおかしいんじゃないのか。

別に彼の部屋に泊まっただけだ。何も…ないだろ?


ハンドルを握り、アクセルを踏みながら、あの「能見響」を思い浮かべた。

彼の整った横顔や、穏やかに笑う表情、ふと見せる影や作りめいた愛想笑い。なによりも彼の奏でる澄み切った音色の調べ…

あの音と重なり合いたい。


はは、まさかね…

重なり合いたいのは、俺の弾くチェロの音であって…お、俺はゲイじゃないぞ!


でも、あの人がもしゲイで、俺のことを少しでも好きでいてくれるなら…


重なり合ってもいい…かな…

なんてね。



三日後、俺は「バイロン」で「能見響」のピアノを聴いていた。

彼のピアノを充分に堪能し、閉店まで粘り、その後、裏の出入り口で彼を待った。

スターを追っかけるファンとはこういう気分なのだろうか。緊張感に変な汗が出る。

従業員専用の出入り口が開き、「能見響」の姿が見えた。

俺の姿に気づいた彼は、ぺこりとお辞儀をする。


「この間はお世話になりました。今日はお礼伺いにきました」

「わざわざすみません。神森さん」

聡良あきらって呼んでください」

「…聡良さん」

「これ、フルーツケーキです」

差し出した紙袋を「能見響」はじっと見つめた。

「…フルーツケーキ…僕の大好物って…知っていたの?」

「え?そうなの?…いや、あ、これ、有名店のじゃなくて…母の手作りなのでお口に合うかどうか…」

洒落のつもりで持ってきたのに、好きとか言われるとさすがに怖気づく。それなのに彼は嬉しそうな顔で俺から紙袋を受け取った。

「ええ?聡良さんのお母さんの手作りなの?すごいじゃないですか!」

「あ…味は保証しませんよ。いや多分大丈夫だと…思いますけど…」

「では今から一緒に食べましょう。勿論僕のうちで」

「は?」

「構いませんか?」

「も、ちろんですよ、響さん」



その夜、俺は「能見響」と寝た。

つまり「重なり合った」わけだ。


「奏でる」とまではいかず、一方的な指南役は、彼の方だったのだが…




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