セレナーデ 第一曲
ピアニストとチェリストを諦めたサラリーマンの恋物語です。
セレナーデ 第一曲
セレナーデ…宵闇に、愛する人の枕辺で、切なる恋心、愛の告白を謳う楽曲。
桜散る四月の花冷えの夜だった。
その夜は、親しいお客さんを招いての夜桜見物で、セッティングした二次会の小料理屋での散会を期待していたのに、三次会まで誘われた。
お得意様の命令には逆らえず、市街から離れた街の見知らぬクラブに連れて行かれた。
適当に客と上司に合わせて飲んでいると、店のBGMが消え、隅に置かれたグランドピアノの音が鳴り響いた。
へえ~、この店は生演奏のサービスがあるのか…。
一度はチェリストを目指した俺の耳を満足する演奏を期待したわけでもなかったが、おのずとピアニストの姿が気になった。
肩まで髪を伸ばした若い青年だ。痩せた身体に黒いジャケットが似合っている。顔は…横顔しか見えず、仄暗いライトに照らされた顔色は青白く、いかにもアーチストの様相だ。
だが俺の興味はその男の弾くピアニストとしての技量だった。
…様様なアレンジを奏でるスムーズジャズの音律。優男の姿には似合わない、しっかりとしたアクセントの付け方…そして、ブルージーな余韻を醸し出す音色。
ペダルの音やリズムに少し癖があるのは…本来はクラシック弾きなのかもな…。
今までざわついていた店内のお客が次第に彼の演奏に聞き入っていく様子が手に取るようにわかる。
誰もが僅かな緊張と奏でる旋律の波間に漂う快感に浸っている。
半時間ほどの演奏が終わり、ピアニストも席を立った。
「どうだい?神森くん。良い店だろう?」
「そうですね。生の演奏を楽しめる高級クラブはあまり知らないものですからね。いいお店を紹介いただきありがとうございます」
「神森くんは音楽にうるさいと、社長から聞いたものでね。ヴァイオリンを弾くんだよね?」
「昔…少しばかりやってただけで(ヴァイオリンじゃなくてチェロだけどな)、今は全く手にしていないんです。もう弾くこともないでしょうけど…」
「もったいない気もするけど…まあ、そういうものは趣味程度で楽しむのが一番ですよ」
「そう…ですね」
上司の言う社長とは、俺の親父のことだ。
親父は「嶌谷財閥」の縁者であり、グループの不動産企業の代表取締役に就いている。
その時期の極めて困難な就職活動の末、親父のコネクションでなんとか当企業に職を得た俺は、親父の息がかかっている所為なのか、周りからも気を使われ、こちらも構えて気を遣い、なんとか平穏な社会人生活を営んでいる。
…情操教育の一環として、幼い頃にピアノ教室に通い、中学からはチェロに興味を持ち、レッスンをするようになった。
大学もそれなりの音楽大学に通い、将来はどこかの楽団でプロのチェリストとして、一生音楽に携わっていきたいと、ぼんやりとだが夢見ていた。
だが、現実は甘くなく、どの管弦楽団の試験を受けても合格はできなかった。
それまで俺に対して何一つ口を挿まなかった親父が、初めて俺に音楽の道を諦めるように諭した。親父の言葉は重く、俺の描いた夢がいかに甘かったのか、また自分の技量や天性の貧しさを改めて目の前に叩きつけられた気がした。
俺は音楽家としての道を歩くことを諦め、親父に土下座をし、就職させてくれるように頼み込んだ。
親父は甘くない人だった。
最初は息子だと見くびられないように、故意に厳しい部署へ送り込まれた。
負けず嫌いの俺は、とにかく懸命に働き、そして周りを認めさせることに成功した。
二十七歳で営業促進部長という職責は昇進の早い方だろう。
今の生活に不満はない。
だけど、時々…こんな夜は餓えてしまうのだ。
音楽に…メロディに…音色に…響きに…
店の便所は、狭くもなく、ピカピカに磨き上げられた大理石で囲まれていた。
俺は何気に手を洗っている先客を見た。
あ…あのピアノを弾いていた男だ。
こちらも見ずに石鹸で懸命に洗っている仕草を見ると、相当に神経質な気がする。
…確かに、最後の方は気が焦ったのか、少し繊細すぎる音だった。
「君…先程のピアノを弾いていた方ですよね」
俺はその男が手を洗い終え、乾かすのを待って話しかけてみた。
男は黙って俺の方を向き、関心の無い笑みをうっすら浮かべ会釈した。
「クラシックを演ってたの?とても音楽的だった」
「バイエルを演らないピアニストは少ないと思います」
優しげな顔に似合わない少し低く抑揚のない声だ。人付き合いは良い方ではないらしい。まあ、芸術家っていうのは大方高慢でナルシストだ。
男は俗世間とは関わりたくないと言った風な雰囲気で目を合わせる事もなく俺の傍を通り抜けた。
ドアを開けて出て行こうとする男の背中に、俺はもう一度話しかけた。
「次の演奏は?」
「三十分後です」
「リクエストしてもいい?」
乗り気もなく彼は「なんでしょう」と、言った。
「あなたのシューベルトを聞きたいんだ」
俺の言葉に彼は少し驚いたような顔をこちらに向けた。
そして「わかりました」と、顔色も変えずに答えた。
彼の演奏が始まった。
耳触りの良いジャズが続いた後、最後に俺のリクエストに彼は応えてくれた。
シューベルトの即興曲三番をジャズ風に、そして歌曲「白鳥の歌」のセレナーデを正当なクラシックモードで弾き終えたのだった。
多くのシューベルト作品の中で、彼の選ぶ曲目を、期待と期待外れの怖れの緊張感を持って、俺は彼の演奏を見守った。
そして…
俺の魂は彼に奪われてしまったのだ。
彼の選んだ曲は俺を喜ばせ、彼の指から奏でられる一音一音に圧倒された。
特に「セレナーデ」の表現には、…息を呑んだまま、聞き入った。呼吸さえすることさえもどかしいほどだった…
そして、認めざるを得なかった。
こんな地方のナイトクラブで、ピアニストとしての資質と力量を兼ね備えている人に出会う残酷な時。音楽家を夢見ていた者にとって、もう歩くことさえできない…絶対的な敗北をこんな場所で再び味わうことになろうとは…。
それでも…俺は彼の奏でる音色に酔い、それを味わうことができたこの夜に高揚していた。
だから店を出た後、上司が帰りのタクシーの同席を薦めたのに、俺はそれを断った。
このまま帰るなんて…孤独なマンションに…あの侘しい部屋のベッドで疲れた身体を横たえるなんて…なあ、これ以上惨めな生身ではいたくない。
そぞろ歩く川沿いの土手。
桜並木が続く両側には、深夜になっても花見見物で酔いつぶれた連中がヘタクソな歌を歌っている。
ああ、謳えや踊れ。
音楽はすばらしい。
ただひたすらに楽しめばいい。
だが音楽家を目指すなよ。
地獄を見る羽目になる。
偉大な音律の系譜は、天国へのラビリンスだが、音を踏み外せば地獄が待ち受けている。
俺は…それを味わった。
メロディの美しさを知っても、それを奏でる者にはなれぬ。
ああ、桜の花びらが風にあおられ夜風に舞うさまは、あの五線譜の音符のようだ。
花弁は知っている。
自らが一片の散っていく淡く儚いものであっても、絶対的な美しき表現者であるということを…
「すみませんが…」
「え?」
土手の道端に座り込み空を見上げていた俺に、正面に立ち止まった男がいた。
さっきのピアニストの男だ。
今はニットキャップとジーンズ。カーディガンを羽織ったどこにでもいる青年にしかみえない。
「あなた…さっきの『バイロン』に居た方でしょう?僕にリクエストした…」
さっきの店、そんな店名だったのか…
道理で詩人面してしまいたくなるはずだ。
しかし、こんな場所であのピアニストに出会うとは…
「…ひとりで花見ですか?」
先程の芸術家気取りの雰囲気とは違い、親しげに話しかけてくる様子がなぜか俺を不審がらせた。こいつ本当にあのピアニストか?
「そうです。せっかくの花見日和ですしね」
「…もう夜中ですよ。それとも…酔っぱらっていらしゃるのかなあ~。そんな風には見えないけれど…」
「あなたの演奏に酔ってしまい、ここで余韻を楽しんでいるのです」
「…」
「しかし…このまま浮かれていても現実は浮世の荒波。明日も残酷な仕事が僕を待ち構えている」
大げさな俺の身振りに、彼はふふと、笑った。
「あなたの言うとおりです。このままここに居たら風邪をひきそうだ。すみませんが近所にビジネスホテルかネットカフェはありませんか?」
「…この土手を二十分ほど歩けば、ありますけど…」
「そうですか。じゃあ、急いで見つけますよ」
「あの…」
「はい?」
「うちで良かったら…来ませんか。ここから歩いて五分かかりませんし…」
「ええっ?いいの?」
思わずタメ口になってしまった。
まさか誘われるなんて思いもよらなかったから…
微笑みながら軽く頷く彼を、俺は訝しく見つめた。
本当にあの愛想のないピアニストと同じ男なのか?
「ホントに伺ってもいいの?俺、本気ですよ?」
「ええ、どうぞ。もちろん何もサービスはしませんけれど…」と、彼は座り込んでいる俺に手を差し出した。
「ではお言葉に甘えて…」
彼の細く長く節の膨らんだ指…ピアニストの指先を俺は見つめた。
そして、その手を傷つかないようにと、そっと掴んだ。
しかし彼は、こちらが驚くほどの力強さで引き上げ、俺の腰を立ち上がらせたのだ。
そうだった。
芸術家って奴は、自分自身には、いちいち気を使わないものだ。
その夜、俺の手を取った男は、能見 響と、名乗った。
なるほど、芸術的な名前だと、俺は心の底から彼に嫉妬したのだった。