うそつきの罪状 後編
うそつきの罪状 後編
浅野竜朗に案内された部屋は、シングルでも十分な広さだった。
クィーンサイズのベッドにちらりと目をやり、あわてて窓の外の夜景に目を移した。
見慣れているビルの灯りとスカイツリーの紫の光が、今夜は嫌に目にまぶしく映る。
「なんか飲むか?」と、尋ねられおれは「別にいい」と断る。
そんなことより…
早くおまえと寝たい…なんて言ったら浅野は引くだろうか…
昔は…
恋人だった頃は、自分から浅野を求めるなんて言動は、ほとんどしなかった。どんなに欲しい時だって、浅野が求めてくるまで待っていた。その方が気が楽だったから。
愛することより、愛されることで自分に自信が持てた気がした。
今となっては本当にくだらない自尊心であり、浅野を焦らすことで、求めない自分の立場の方が上だと勘違いしていただけだ。
五年経ったんだから、今更かわい子ぶってもしょうがねえし…
それよりも浅野と夜を過ごせるって思うだけで身体の方が…なんだか…
「おれ、シャワー浴びてくる」
自分のコートとおれの脱ぎ捨てたコートとスーツのジャケットをクローゼットに片づける浅野に言い残して、おれはバスルームへ向かった。
バスルームと洗面所の仕切りは全面のガラス張りになっていて、おれは服を脱ぐとすぐにシャワーを浴びた。
もうすぐ、浅野と抱き合える…そう想像するだけで、おれは興奮した。脈拍も鼓動も耳まで鳴り響いて五月蠅いし、このままじゃ浅野に触れられただけでイッちまいそうだ。
別れて五年も経つのに、こんなにあいつに餓えてるなんて知られたら、恥ずかしくて死にたくなるし…
「もう…バカじゃないのか、落ちつけったら…」
そう思ったらなんだか今度は心配になってきた。
五年ぶりに浅野と抱き合って、おれ大丈夫だろうか…。浅野を満足させられるんだろうか。
もう三十二だし、若さも肌のハリも絶対老化してるし…。なにより…
浅野に付き合っている奴はいないって言ったけど、別れた後だって色々と遊んでいるし…浅野が求めているのが新鮮味のある身体なら…敏感に感じたフリとか…するべきなのか?
それとも三十越えてるのに慣れてないフリも、ウンザリされたり…
…わかんねえよ、今の竜朗の好みってのが…
頭がパニくっている時に、いきなり洗面所のドアが開いて浅野の姿が見えた。
おれの方をチラリと見た浅野は、さっさと服を脱いで裸になると、おれの居るバスルームの扉に手をかけた。
は、入ってくる気なのか?
ちょっと待てっ!
おれはあわてて扉の鍵をかけ、浅野を阻止した。
「…なにしてんだよ、遠流」
「…ちょっと待ってくれ。まだ心の準備ができてないんだ」
「身体の準備は出来てんじゃんよ」
「…言うなっ!」
「いいから、開けろって。俺もシャワー浴びたいんだよ。ついでに、久しぶりに風呂のセックスでも楽しもうぜ。おまえ、好きだったじゃん。風呂でやるの」
「あーあーあー…聞こえない~」
「…何言ってんだよ。ガキか」
「…」
わかってるけど…
ガラス越しに裸同士でドアを押し合って…、バカなことをしていることはわかっているけれど、もし、このままセックスして浅野がおれに失望したらと思うと…怖くて浅野に触れられない。
「ふう…わかったよ…」
溜息を吐いた浅野は呆れたように扉を離し、バスローブを羽織って洗面所を出ていく。
「…」
なに?その不貞腐れて怒った顔…。
え?マジで怒ったのか?
…
まさかこのままおれを置いて出て行ったりしないよな。もう抱く気が失せたなんて言わないよな。
いやだよ、そんなの!
バスルームの鍵を開け、おれは急いで浅野を追いかけた。
「待ってくれ、竜朗っ!」
「なんだよ、今度は…。…たく、もう…濡れたまま裸で出てくるなよ」
「だって…ゴメン…おれ…おれさ…」
浅野は黙って自分のバスローブを両手で広げ、おれを包み込み抱きしめてくれた。
「震えてるじゃん。…怖かったんだろ?俺に嫌われたりしないかって、色々と考えるんだよな。遠流のそういうところ、少しも変わってないんだな」
「…ゴメン」
「謝る必要はない。俺はそういう遠流が好きだったんだから」
「…」
そこ、過去形になるのが嫌なんだけど…。
「今の遠流も相当好きだよ」
「…」
おれの欲しいもの、ちゃんとくれる竜朗が…おれも好きだ。
「それに、怖いのは遠流だけじゃねえよ。俺だって、おまえを満足させられるか…自信ねえんだから、さ」
「…竜朗」
「馬鹿…これ以上焦らせるな。お互いこんなになってんのにさ。早くおまえの中に入れさせろよ」
すでに互いの肌の熱さはひとつになっていた。
俺達は五年ぶりのキスをした。
ふたりの夜は明るかった。
お互いを見ていたかったから、灯りは消さなかった。
他の男とは暗闇の中でしか寝ないのに、おれを抱く浅野の顔を、身体の隅々までを…すべてをずっと見ていたかった。
それに、最初は浅野から見られるのが恥ずかしかったけれど、俺を求める浅野の眼差しは、昔よりもずっと優しく、おれを愛おしそうに見るから、おれも、おれで気持ち良くなるあいつの表情が見たかったんだ。
おれ達は我を忘れるほどに、互いを貪りあった。
昔も今も浅野は臆病に震えているおれを引きずり出し、何が欲しいのかを自覚させてくれる。
「竜朗」と、何度震えた声で呼んだだろう。そして何度「遠流」と応えてくれただろう。
あれほど欲しがっていた腕が、肉体が、浅野が、おれとひとつになっている感覚に陶酔した。
すすり泣くおれに「泣くほど良かったか?満足しただろ?」と、浅野が茶化すから、おれは胸に凭れながら「全然足りない」と、欲張った。
もう誰にも気兼ねせずに竜朗の名を呼ぶことが出来る。
暗闇に竜朗を想像することもない。
神様がくれたこの夜の奇跡に感謝せずにはいられなかった。
「…これ以上無理だわ」と、浅野はおれを胸に抱いて笑った。
「おれも…」と、答えた。
身体中が痛かったけれど、心は幸福で舞い上がっていた。乙女のように、朝が来なければいい…などと口走ってしまいそうに酔い痴れていた。
「疲れただろ?少し寝ろよ」
おれの瞼にキスを落とす浅野におれは頭を振った。
眠るのが惜しいんだよ。おまえの体温を感じている意識を離してしまうのが…
不思議なことに、この部屋に来てから、おれも浅野もお互いの過去の話や、未来の夢なんてひとつも語らなかった。
だから、折角出会ったおれ達がこれから先どうなるのかしら、全く探れないままだった。
おれが「また会いたい」と、言えば、その望みは叶えられるのだろうか。それとも浅野はただの偶然の再会を楽しんだだけで、この先、おれと付き合っていこうなどは思っていないのだろうか…
そもそも、浅野には奥さんも子供もいて…常識で考えれば、この状態は浮気なわけで、向こうにしてみれば、非常識…なんだよなあ~。おれが男でも…ますます非常識か…
ああ…おれから「また会いたい」なんて…とても言えない。
いつもの臆病な迷路に嵌っていく…
堂々巡りをしているうちに、いつのまにかおれは浅野の腕の中で眠ってしまっていた。
目が覚めた時、隣りで寝ているはずの浅野の姿はない。
あわてて起き上がったら、身体が悲鳴を上げた。
確かに昨日はちょっとやりすぎた。でも、幸せな痛みだからずっと残っていればいいと思う。
「竜朗…」と、少し擦れた声で呼んだ。
折よく浅野は洗面所から出てきた。
すでにシャツもズボンも身に着けていた。
「おはよう」と、言いながらクローゼットから自分のコートを取り出す。
「も、もう出るの?」
「ああ、名古屋で商談の仕事。十時の新幹線に乗らなきゃ間に合わねえし…。おまえはまだゆっくりしてろ。部屋、延長にしとくから」
「お、おれも一緒に出るよ」
「大丈夫か?身体痛いだろ?」
「大丈夫だ」
強がりを言ってもベッドから降りた足はガタガタで、思わずその場にしゃがみ込む。
浅野は豪快に笑って、おれを引き起こしてくれた。
「だから、言ったろ。…まあ、こんなにしたのは俺の所為だろうけど、半分は遠流の責任だから、謝んねえぞ」
「当然だ」
そうは言っても、おれの着替えを浅野は手伝い、十分後に整えたふたりは部屋を後にした。
エレベーターに向かう浅野の背中を見つめながら、おれはこのまま別れた後、一体どうするのか…そればかりを考えていた。
もう一度やり直したい。でも、浅野の負担にはなりたくない。それの繰り返しだ。
浅野がエレベーターのボタンを押す。
これに乗って、ホテルから出てしまえば、おれ達はもう二度と…
「あのさ」と、徐に口を開き、浅野が俺を見た。
「…なに?」
「結婚したって話、あれ、嘘だから」
「………?…はあ?」
「ちょっと嘘ついてみた」
「つ、ついてみたって…嘘って何?…嘘。嘘だろ?」
「嘘じゃなくて、嘘だって…あれ?嘘じゃねえ嘘って…あはは、笑える…」
「わ、笑っている場合かっ!だ、だって、こ、子供の写真だって…」
「あ、あれ。姉ちゃんの末っ子の四男。俺に似てかわいかっただろう?」
「…嘘って…」
力が抜けてしまって、マジで頭がまっしろになる。
「嘘つきは俺だけじゃねえだろ?遠流だって、俺に嘘を吐いているだろう」
「え?」
「付き合っている奴はいないとか、嘘を吐いたじゃねえか」
「…」
「そんなの抱きあえばわかる話だろ?」
「…」
「抱かなくてもわかってたよ。隠してるおまえが気に入らなくて、俺も嘘を吐いてみたんだよ」
「…ごめん」
「二度と後悔はしたくなかった。けど…おまえの気持ちを知りたかった。俺が妻子持ちってわかっても、遠流が俺を欲しがるのかを、試してみたんだ。…悪かった。それから…嬉しかった。忘れられない夜になった。ありがとう、遠流」
「竜朗…あの…」
エレベーターが到着しドアが開いた。
先客が居た所為で、おれは口を噤んだ。
そして、何も会話がないまま、おれと浅野はホテルのロビーから玄関の外へ揃って出ていく。
「じゃあな、遠流。元気で」
「…竜朗…」
本当に…もう会えないのか?おれはまだおまえに…
「神様がくれた偶然の再会に感謝してるよ。またいつか…会えるといいな」
「…」
「天に祈るしかねえかな」
「…」
「じゃあな」
おれに背を向けて二、三歩離れた浅野は「あ、そうだった」と言いながら自分のコートから長方形の箱を取り出し、おれの傍に近寄った。
「今日はバレンタインだったよな。昨日、仕事でデパート行っててさ。すげえチョコが一杯でさあ。そんで…おまえの為に買っておいたんだ。なんかすげえパティシエの高級チョコだってさ。これやるから泣くなよな、遠流」
「…」
俯いたまま答えられなかった。本当に泣きそうだったから…。
…
…
え?
ちょっと待て。
今、おまえ変なこと言わなかったか?
おれの為に買った…おれの為に?
…それって…
それって…
おれと会うってわかってた…ってことじゃないのか?
え?
偶然じゃないってこと…なのか?
…
「竜朗!」
顔を上げて前を見る。浅野の姿はもはやどこにもない。
歩道の向こうにキャメル色のコートをはためかせながら走る浅野の姿が、人ごみに紛れて行った。
「…なんだよ。おまえの方が何倍もタチの悪い嘘つきじゃないか…」
チョコの箱をじっと見つめ、そして裏に返してみると、包み紙にボールペンで文字が書いてあった。
携帯電話の番号と「いつでもご注文に伺います(ハートマーク)」の一言。
呆れて言葉もない。そして…安堵感と嬉しさに胸が詰まる。
きっとおれ達はまた恋をするのだろう。
大人になった分、一度目よりは巧く、そしてたまにずるい嘘を吐きながら…
ふたりで生きていけたら…いいな。