うそつきの罪状 前編
「傷心」の続編です。
満員電車に揉まれ、家と職場を行き来する変わらない毎日。繰り返すことに息苦しさを感じても、やめようとはまだ思わない自分を褒めたいぐらいだ。
明日はバレンタインデー。女性が男性に想いを告白する日だが、今は自分へのご褒美とか、義理チョコを渡すのが主流らしい。
一応おれも職場の女性社員からいくつかの義理チョコは貰った。今は義理って言っても高そうなブランドチョコをくれるものなんだな…。来月返すのが大変そうだ。
ひとり、本命チョコと本気の告白をくれた総務の若い女の子がいたけれど、謝って勘弁してもらった。
さすがに正面切って「おれはゲイだから女は無理なんだ」とも言えないし…。
金曜日の夜、帰りの電車を待つ構内でいきなり後ろから肩を叩かれ「よお、久しぶり」と、呼ばれた。
振り返ってみると、キャメルのモッズコートにサングラス、背の高いぼさぼさ頭の男が居た。
見覚えがあるはずもなく「人違いじゃないですか?」と、答えたら、男は苦笑してサングラスを外した。
「俺の顔、忘れてしまった?吉良」
「え?……た、竜朗?」
「元気そうだな、遠流」
「…」
五年前、思いを残したまま別れた元恋人、浅野竜朗が目の前に立っていた。
うそつきの罪状 前編
会社の同僚だった浅野と付き合っていた三年間は、今でもおれにとって一番大切な思い出だ。いや、正直に言えば、まだ完全に思い出にはなっていない。
五年前、浅野が札幌に転勤が決まり、おれ達は別れた。
別段嫌いになったわけでもなく、ただ遠距離恋愛が面倒だからという理由だった。
別れてしまった後、おれは後悔した。
浅野への想いは自分でも驚くほどに深く、募る恋しさの辛さと言ったら…。
どうにもならずに会社を辞めようとした頃、浅野が退職したと聞いた。
おれだけが辛かったんじゃないのか、と、感じたおれは、もう一度仕事に打ち込むことにしたのだった。
それから五年間、おれは浅野がどこでどうやって生きているのか、全く知らなかった。
「なんだよ、鳩が豆鉄砲食ったみたいな顔してよ。そんなに驚くか?…つうか。俺そんなに変わったか?五年ぶりだから見間違うか。まあ、いいけどさ。なあ、遠流、飯まだだろ?なんか食わねえ?」
目の前の一見浮浪者か、芸術家…的な浅野の恰好に呆れてしばらくは声が出なかった。
「え?…ええ?」
「だから晩飯食わねえかって。ふたりで…さ」
「…」
声は出さずに少しだけ頷く素振りを見せると、浅野は俺の腕を掴んで迷わずに駅の改札口へと向かった。
その腕の力強さに、おれを「遠流」と呼んだ声の響きに…おれの胸は馬鹿みたいにときめき始めている。
…こいつへの想いは…まだ少しも醒めてはいなかった。
行先は浅野の宿泊しているホテルの最上階のイタリアレストランだった。
この後の成り行きが見えなくはないけれど、おれもそれは充分に承知の上だった。って言うか…食べてる最中だって、身体が疼いて仕方がないぐらいだ。
仕事を辞めてから今までのいきさつを、浅野はさほど大したこともない笑い話のように話す。勿論おれも聞きたいことだったけれど、それよりもこの思いもよらない慶事に目の前の料理の味もよくわからないまま、昔よりも日に焼けて健康そうな浅野の顔をずっと眺めていた。
そんなおれの眼差しに浅野は苦笑して「そんなに俺変わったか?まあ、お互い三十路超えたしなあ」と言う。
「うん…。なんか…色々変わりすぎて…」
でも、強さや包み込むようなあったかさとか…おれを見つめる目とか…変わらないから、嬉しいんだよ。
浅野は五年前、会社を退職した後、故郷の長野へ帰った。
母方の祖母は広大なリンゴ園を経営していたが、その後を継ぐべき息子、つまり母の弟が事故で亡くなり、祖母はリンゴ園を孫の浅野に託したいと頼んできた。浅野は祖母の養子となり、リンゴ園の経営を続けている…と、言う。
「今はインターネットでも地元の新鮮な産地物って売れるし、あちこちのデパートやらにマネージメントしたりさ。元々営業職だったからノウハウとか、色んな伝手もあるし…。そんなこんなでちょいちょい東京にも、仕事で足を伸ばしてるんだ」
「そう…だったんだ」
「連絡しなくて、悪かったな」
「いや、いいんだ。おれとおまえの関係はあの時に終わったんだから、気にする必要もないだろう」
おれの言葉に浅野はしばらく黙り込んで、残ったワインを飲み干した。
「…おまえと別れた事…後悔したよ」
浅野の告白に、おれはぎくりとなる。
「お…おれも…同じだ…」
「大事なものって失って初めてわかるっていうけれど…本当にあの時は参った…」
「…うん」
「もう元には戻らねえけどな」
「…」
「デザートはいかがいたしましょうか?」
レストランの給仕が皿を片づけながら、尋ねる。
浅野は「コーヒーをふたつ」と、迷いなく答える。そういうとこ、変わっていないんだな。
コーヒーが来た時も、バレンタインのサービスとかで、コーヒーとは別の皿にトリュフチョコレートが添えられていたのだけれど…。
男同士でチョコ食べるって…変に卑猥で、手が付けにくい気がしたんだが、浅野はすぐに口に入れ「う~ん、さすが生チョコって感じ?わかんねえけど、ビター味で美味いぞ。ここのシェフの手作りだって。遠流も食べてみろよ」
「うん」
こういう浅野に引きずられる感覚が、おれは好きだったんだろうなあ。
一緒にいるだけで楽しくてたまらない。
なんだか可笑しくて笑いが込み上げた。
「なんだよ」
「いや、なんか竜朗、見かけは変わっても、中身は変わんないなあって…」
「おまえはどうなんだ?変わったか?」
「え?」
「好きな奴とか、付き合っている奴とか…居るのか?」
「…別に…いないよ」
「ふ~ん、そうなんだ…」
意味深な顔つきが気になる。
嘘だと気がつかれただろうか…
付き合っている男は…居る。セフレだけど…
三つ下の職場の後輩だ。
半年前から付き合い始めた。
竜朗と別れた後、色んな男と付き合っては見たけれど、長続きはしなかった。原因はおれにある。ゲイの付き合い方っていうのは、大方身体の関係から始まるものだけれど、おれはその最中に極まると、どうも竜朗の名前を呼ぶらしいのだ。無意識のうちに…
最初は笑ってすましていても、それが続くと無神経にも程がある…と、大抵の男たちは言う。
全くもってその通りなので、謝って別れる事となる…。
浅野の事があったから、会社関係の男とは付き合うつもりはなかったのだが、飲み会でたまたま酔っぱらった時に、介抱してくれた後輩の上杉に求められて、その夜、寝た。
案の定、浅野の名前を呼んだらしく、朝、素面になったおれに上杉は思いがけないことを話したのだった。
「竜朗…ってもしかしたら浅野竜朗さんのことじゃないんですか?」
「…浅野の事知ってるのか?」
「ええ、札幌でお世話になりました。少しの間でしたけど、慣れない営業の仕事も丁寧に教えてくれて、浅野さんが会社辞めた後も、俺が落ち込んだ時とか色々と相談にも乗ってもらっていたんですよ」
「そ、そうなのか?」
「浅野さん、酒飲んで酔っ払った時、東京に大切な人を置いてきたって言ってたんですよ。後悔してるって何度も…。俺、浅野さんがお仲間だってわかって…こういうのってなんかわかるんですよね…で、抱いてもらおうとお願いしたんですけど、その人に悪いからって、断られたんです。…そうか、吉良さんが浅野さんの恋人だったんですか。なんか名前だけでも縁が切れなさそうですもんね」
「…縁は切れてるよ。もう五年も音沙汰無しだもの…」
「そうですか…。俺もここ何年かは連絡ないですね。携帯の番号も変わっているみたいですし…。力になれなくてすみません」
「上杉君が謝る事じゃないよ。こっちこそ、気分悪かっただろ?やってる最中に違う男の名前を呼んだりして…」
「いえ、別に。吉良さんと恋愛する気はないですから。ちょっと寝てみたかっただけですから。俺、別に本命の彼氏いますもん」
「あ、そうなの」
「でも、それでも良かったらこれからも相手になりますよ。たまにタチになるのも新鮮だし、割り切った付き合いってお互い楽でしょ?」
「はは…よろしくお願いします」
実際、恋愛の面倒臭さの無い性欲だけの関係は楽だった。
上杉は下手ではなかったし、身体の相性も悪くなかったから。
おれが浅野の名前を呼ぶことにも気にしなかった。その代りにとばかりにおれは上杉の彼氏の愚痴話を聞かされた。
上杉の彼氏は妻帯者で、彼なりに忍ぶ恋を続けているのだ。
「そうか、遠流はフリーなのか…。俺は三年前に結婚したんだ」
おれの顔をじっと見た後、浅野は目を逸らしてそう言った。
「…え?」
「見合い結婚だよ。ばあさんがどうしてもっていうから…。幼馴染みの近所の娘とさ…一歳半になる息子がいる。写真見るか?」
「いや、いい…」
「まあ、見ろよ」と、スマホの画像をおれの目の前に差し出した。
浅野に抱っこされた可愛い子供の笑顔があった。どことなく浅野に似ている。親子なら当然の話だ。
……
別段驚くことじゃない。
そりゃ、浅野が結婚しているなんて…かなりショックだけど、ゲイ同士が付き合う場合に限っては、あまり関係ない、はずだ…たぶん。
別におれと浅野は元恋人同士で、現在付き合っているわけでもないから、浅野が結婚してても問題はない。問題…ない。けど…
やばい…おれ、なんかすげえ…
…なんか奈落に突き落とされてる気分だ…。
「おい、遠流…聞いてる?」
「え?…なに?」
「これから俺の部屋に来ないか?」
「は?」
「つまり…おまえを誘っているわけ」
「…いいよ」
既婚者のゲイは多いし、セックスだけの関係なら、別段問題じゃない…と、思う。
なによりも、おれの身体は竜朗を欲しがっていたのだ。