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セレナーデ アンコール 1

挿絵(By みてみん)




セレナーデ アンコール 1


能見響のうみなるの父親が残したジャズクラブ「バイロン」での、神森聡良かみもりあきらとのピアノとチェロの演奏は、マスターである河原修一ひとりに見守られ、零れるほどの幸福な花々の音符を撒き散らせながら終わりを告げた。


河原は「響をよろしく頼みます」と、恐縮する聡良に何度も頭を下げた。

さりながら本当の父親のようだと、聡良は感動し、同時に響が育った環境は、十分幸福ではなかったのか、と、安堵した気持ちになった。

聡良は今もって響自身から、己の過去の詳しい話などは聞き及んではいなかったのだから。

どちらにせよ、これから共に歩く長い人生の道すがらに語る機会は十分すぎるほどあろう。


お互いの想いが叶ったその日から、聡良は自分のマンションへ響を招いた。

新橋の高層マンションの28階の2LDKの聡良のマンションからの夜景をふたりで眺めながら、聡良は「ここで一緒に暮らさないか」と、響に申し出、響は嬉し涙を溢れさせながら、何度も頷くのだった。

一週間後、響のアパートから必要な荷物をマンションへと運び、ふたりの新生活が始まった。


「個室はふたつしかないんだ。ひとつは防音仕様の練習室だよ。ピアノはグランドは無理だったからアップライトで辛抱してくれるとありがたい。こちらは寝室だけど…部屋が狭いからベッドはひとつしか置けないんだ。ダブルだから一緒に寝るしかないけれど…いいかな?」

「勿論です。聡良さんと一緒なら床で寝ても大丈夫ですよ。僕、そういうのは平気ですからね」

「響さん。俺たち恋人同士になったのだから、敬語は止めないか?」

「あ、そうですね。じゃあ、聡良さんも響さんじゃなく、呼び捨てでお願いします」

「君は『聡良さん』って呼ぶクセに」

「聡良さんって呼ぶのが、なんだか…とても嬉しくて。それに安心するんです」

「…」


一時期、響は聡良に対して心を閉ざしているように見えたが、一度扉を開いた後は、無邪気に惚気を連発してくる。そのどれもが天然過ぎて、聡良も面食らってしまう。

年甲斐もなく初めて恋するかのようなときめきの連発だ。

それに響が以外にも家庭的であったことにも聡良は感心した。


それまでの響自身の生活は芸術家にはそぐわないほど質素で堅実なものであり、聡良のマンションでの家事も難なくやりこなしてしまう。食事などは、それまでの適当な聡良の食生活が改善され、食費を押さえた健康志向の献立がテーブルに並べられる。

ふたりで向い合いながらの穏やかな食事など、聡良も今までに夢を見ないわけではなかったが、こうも幸せな気分になれるのかと、舞い降りてきた幸福がにわかに信じられない気持ちになる瞬間さえある。

朝、家を出る時など、「行ってらっしゃい」の笑顔とキスをくれる響をずっと見ていたくて、なかなか玄関のドアを開けれないほどだ。

「待って、聡良さん。ネクタイ曲がってるよ」などと、真剣にネクタイを治す響を目の前にして、仕事が遅れても構わないから、響をこのまま玄関で抱いてしまおうかとバカのように興奮する始末だ。


「俺は良いお嫁さんも貰って幸せ者だ」と、何気なく言った言葉を聞き、響は一瞬硬直する。

「お嫁さん」と称したことが気に障ったのかと思い「ごめん。響は男なのに…お嫁さんはおかしいよな」と、訂正すると、響は頭を横に振り「違うよ。聡良さんにそう言われることが、嬉しくて…嬉しすぎて夢みたいなんだ…」

こんな些細な言葉に瞳を潤ます響を、愛おしく思わないはずもない。


響もまた、聡良によって初めて本当に愛される喜びを知り、自分の過去や両親への複雑な想いを許していこうと、日々を大切に過ごした。



だが、聡良には気がかりがあった。

河原と響の意志により「バイロン」の売却は決まったが、本当にそれでいいものか…と、聡良は響の気持ちを慮るのだった。何よりも響の拠り所であった「バイロン」である。

響は本当に後悔していないのだろうか。

聡良は響の真意を問いただした。


「響が本当に望むなら…店を買い戻すよう、本社に頼んでみてもいいんだが…」

聡良の勤める「嶌谷不動産」は聡良の父が社長だ。しかも「嶌谷不動産」の親元の「嶌谷財閥」のCEO(最高経営責任者)は大叔父の嶌谷宗二朗である。

宗次朗とは普段から親密に関わる仕事も機会も少ないが、従兄妹である聡良の母、三千代とは、馬が合うらしくたまに食事や連絡などをしているらしい。

個人的依頼の為、父には言いだしにくいが、母になら頼めないことはない、と、聡良は考えていた。


繊細な響にできるだけ負担をかけまいと、聡良は自然に響の意志を伺った。だが、響の返事は意外にもきっぱりとしたものだった。


「聡良さん、僕の為に本当にありがとう。だけどそれは僕の望みじゃないんだ。そりゃ、最初は聡良さんに頼ってみようって企んだ頃もあったけれど…今は、親元から飛び立つ好機だって思っているんです。父にも母にも良い思い出ばかりじゃないけれど、それに甘えて今まで引きこもっていただけなんだ。河原のおじさんにも言われたよ。いつまでも立ち止まっていても、良いピアニストになれないって」

「じゃあ、お父さんのピアノだけでも…」

「気を使ってもらってうれしいよ。そうだね…今までは父のピアノだけが僕の思い通りの音を奏でてくれるものだと思い込んでいた。でもね、たくさんの色んなピアノと触れあい、それぞれの音を楽しんで、味わいながら奏でていきたい…今はそんな風に考えられるようになったんだ。…すごい進歩でしょ?全部聡良さんのおかげだよ」

まっさらな笑顔を見せる響とその言葉が、聡良にはいちいち心臓にハートの矢が突き刺さって、どうしようもない。有無も言わさず響の手を繋ぎ、ベッドへ直行するか、その場で押し倒すことも多い日々だ。



響が聡良のマンションへ移り住んでひと月後に「バイロン」は閉店した。

河原の自宅をも売却することで、すべての借金は完済した。

長野の実家へ帰る河原を、聡良と響は新幹線の駅まで見送った。

別れの手向けとして、河原は今まで大事に保管しておいた響の父親である能見昭雄の作曲した楽譜を手渡した。

「この楽譜はおじさんの…父との大事な思い出なんでしょう?僕よりもおじさんが持ち続けてくれる方が、父も嬉しいと思うよ」

「これは昭雄が私の為に書いてくれた曲だ。だから他の者には聞かせたくない想いがあった。だけど私も年を取ったんだね。昭雄の曲を皆に聞いて欲しいと思うようになったんだよ。…これは昭雄から私、私から響へ受け継ぐものだと思うんだ。貰ってはくれないかい?」

「おじさん。…ありがとう。僕はまだまだピアニストとしては未熟だけど、この道以外を歩こうと思わない。だから聡良さんの薦めで、もう一度音大で勉強しようと思うんだ」

「そうか。…ああ、良かったなあ、響。きっと昭雄も天国で喜んでいるだろう」

「大学時代にお世話になった教授にも相談したんだ。九月の大学院の試験を受けて、合格したら教授の弟子になれるかもしれない。だから今はそれを目指して特訓中だよ」

キラキラと弾んだ声で話す響を、河原は目を細めて見つめた。

こんなにあけっぴろげに感情を表す響は何時以来だったろうか。そして、響に今まで辛い日々を強いらせてしまった自身を責めるのだった。それでも、きっとこれからの響は、今までの辛さの分を取り返すことが出来るだろう。

「じゃあ、合格したらお祝いを送るよ。精魂込めて育てた花束をね」

「…おじさん、ありがとう。いつまでも元気でね」

「ああ、響も元気で幸せに暮らせよ。君はいつでも私の大事なひとり息子なのだからね。絶対に聡良さんと幸せになるんだよ」

「安心してください。響さんは僕が必ず、幸せにしますから」

別れを惜しみ抱きあうふたりを、聡良は少々感傷的になりながら見守った。


それから響は、精力的にピアノの練習を続けていた。

アップライトのピアノを聡良の実家から運んだ成り行きを、響は知らないが、夏には聡良の母が進めていた「演奏会」に参加する。


「演奏会」新宿の嶌谷ビルのシンフォニーホールで行うことが決まっていた。

ビルの地下にある音響設備の整った大ホールではなく、40階にある小ホールを借りきって行うという。

アマチュアの演奏会だと聞いていた聡良は、それを聞いて思わずのけぞった。

「どうしてそんなに大げさになるわけ?母さん」

「だって、宗ちゃんに話したら、面白いからうちでやれって聞かないんだもん。それにタダで貸してくれるんだって~。知り合いも沢山案内するつもりだから、がんばってねえ~」

「…」

聡良の母、八千代が言う、宗ちゃんとは嶌谷宗二朗のことだ。

それは良いとして、響になんと言って承諾してもらえばいいのか…それにこの母にも響の事をなんと言ってよいものだろうか。


試行錯誤の聡良をしり目に、八千代はニヤリと笑った。

「ねえ、聡良さん。あなた、いいひとができたみたいね」

「ええ?…な、なんで?」

「なんでって…チェロを始めたり、ピアノをマンションへ運んだり…。それにあなた自分で気がついてないの?今のあなたの顔、恋をする男の顔だわよ」

「…」

「昔よりずっと顔色も良いし、何より生き生きしてるもの。で、その相手の方も音楽をされるのでしょ?もちろん演奏会にも協力して頂けるわよね」

「それ、強制?」

「当たり前だわよ。あなたの恋人は私の息子になるわけでしょ?」

「はあ?」

さすがに聡良は驚いた。驚きすぎて二歩後ろに退いたほどだ。

「ちょっと待ってよ。なんで俺の相手は男だって…知ってるの?俺、母さんに話した?」

「…聞いてないけど」

「じゃあ、なんで?」

「何年あなたの親をやっていると思っているの?あのね、ずっと昔、聡良さんがチェリストになりたいって言った時から、音楽家ってあちら系が多いって知っていたし、その時からある程度は、覚悟していたのよ」

「…」

絶句である。降参するしかない。と、同時に何故だか後ろめたい気持ちが生まれ、聡良は思わず「ごめんなさい」と、頭を下げた。

その聡良に八千代は言う。

「…聡良さんは謝らなければならないことをしたの?確かに私はあなたの母親だけど、あなたを産んだ時から、あなたをひとりの人間として尊重して育てようと思ったのよ。そして私はずっとあなたを息子として誇りに思ってきたのよ。あなたが選んだ恋人なら、お母さんはきっと素晴らしい人だと、信じてるわ」

「はい、能見響という25歳のとても素敵な青年で、素晴らしいピアニストです。俺はこれからの人生を、彼と共に築いていこうと思っています」

「…そうですか。よかったわね、聡良さん。じゃあ、是非一度お会いする機会を作って頂戴ね。そうだわ、今度うちへ連れていらっしゃい。その方のピアノも聴きたいし、ゆっくりお話ししてみたいわ」

「うん、俺もそうできたらと思っていたんだ。…ありがとう、母さん」

「こちらも老後の楽しみが増えて、嬉しいわ」

陽気に手を叩きながら喜んでいる八千代に、聡良は改めて感謝した。

きっと父への説明もうまく取り成してくれるだろう。


それにしても…

恐るべきは母親の洞察力である。

聡良でさえ、気づかなかったゲイの資質を、ずっと前から予感していたとは…


「当分は母親に頭が上がんないなぁ~」

響の好きなものをあれこれと聡良に聞きだす八千代に、これまで以上に逆らえない気がして、聡良は苦笑いを浮かべるのだった。





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