傷心
傷心
背中を丸めた浅野が、こたつのテーブルに飲み干したコーヒーカップを置いた。
「じゃあ、別れようか」と、言うので、
「そうだね。仕方ないよね」と、おれが答えた。
玄関で靴を履く浅野を見送る。
「明後日、引っ越しで五月蠅いかもしれないけど、業者に全部やってもらうから、別に手伝いもいらないし、見送りもいいよ」
「…わかった」
「じゃあ、元気でな、遠流」
「竜朗も…」
玄関を出てしばらくして、隣りの玄関のドアが聞こえた。
社宅に隣同士に住むおれと浅野は、同じ会社の同僚だ。
先週、辞令があり、浅野はこの街から遠い…遠い街の支店に転勤が決まった。
付き合って三年、別段どうという不満があるわけじゃない。
性格の違いも認め合える、良い関係だと思っていた。
このまま一緒に楽しい時間を共有しあえれば、おれの人生は十分に幸せだと信じていた。
お互いに遠距離恋愛なんて自信はない、と言いあった。
つまり、このままずるずると引きずる気は両方ともないって結論に至る。
いつかは来るだろうと思っていた別れは、こんな風にやってくるものなのだな…。
浅野が言うとおり、見送ることもなく、引っ越しトラックの音だけであいつがここから出ていったことを思い知らされた。
そして、
浅野が去っても、おれの仕事も周りも変わる事もなく、今までと同じように平穏に過ぎていった。
…四年前、大手の建設会社の就活の最終試験で浅野と出会い、幸運にも望み通り就くことができ、偶然にも同じ支店へ配属になった。
営業課とデザイン課で、仕事場は違ったけれど、百人ほどの一都市の支店では、顔を合わす機会も多かった。
おれが吉良であいつは浅野で、よく周りのみんなからは、「お、敵同士じゃないか。刃傷沙汰にはならんでくれよ」と、揶揄われたりしたものだ。
浅野は愛想も頭の回転も良かった。
「じゃあ、俺は吉良くんに喧嘩売らなきゃならんですね。でも吉良くんは優しいから意地悪はしてくれないんですよね」と、笑っていつもその場を和ませていた。
優しいのはおまえの方だ…と、おれは思う。
おれは…おとなしいだけで、本当は…なにひとつ信じていなかった。
だから…おまえが告白してくれた時、本心では信用なんかしていなかったんだ。
だけど、おまえは優しかったから…不安定なおれを包み込んでくれたから…
好きだった。
初めて愛した人だった。
ずっと一緒に居たかった…
「遠流…」と、おれを呼んでくれるあいつの擦れた声が、おれの髪を優しく撫でてくれる手の平が…本当に…好きで、好きで…
…いつのまにか、信じてしまっていた。
浅野が転勤してしまった仕事場に、おれは生き甲斐を感じられなくなった。
あれほど天職だと息巻き、全力を傾けたインテリアのデザインも、何も思い浮かばなくなってしまった。
「近頃、元気ないな。相棒がいなくなったからか?」と、面倒見の良い上司がおれを心配する。
「いえ、別に…」
「そうか。ところで浅野は向こうの支店で元気にやってるのか?おまえ、何か聞いてるだろう」
「…いいえ、連絡はとっていませんから」
「なんだ?あれだけ仲良さそうだったのに」
「社会人ですから…。離れれば他人ですよ」
「そうかなあ~。気の合う奴とは一生ものだとも言うぞ。友人は大事にしろよ」
「…」
友人なら良かった…
友情に切ない別れなど無い。一生続けることもできる。
近頃、夢を見る。
悪夢だ。
いつまでも忘れられないおれを、浅野が笑っている夢だ。
夢を見た朝は気分が悪い。
出勤もしたくない程だ。
あいつの居た場所、あいつの働いている会社、あいつの匂いが残っている場所…
居たくない。
このままではおれは駄目になる。
おれは会社を辞めようと思った。
辞表を書き、上司に渡そうと思ったその日、上司から呼び出された。
「なんですか?」
「良かったなあ~。吉良。例のあのでかいプロジェクトの件だが、おまえのデザインに決まったぞ。事業主もおまえのデザインをすごく気に入って、すぐにでも詳しい話を聞きたいとのことだ」
「…はあ」
「もっと、喜べよ。これでインテリアデザイナーとしてのキャリアをひとつ登ったってことだぞ、吉良」
「…はい、ありがとうございます」
自分の事のように喜ぶ上司を見て、辞表など出せる雰囲気ではないことを知った。
それに、確かにおれはデザインの仕事をしたくて今まで勉強してきたんだ。誰もが認める一流のインテリアデザイナーになることがおれの夢だったはずだ。
…そうだ。
おれのやりたい仕事と、浅野は関係ないじゃないか。
確かに、浅野との恋愛は情熱的で、一生忘れられないかもしれないが、それが終わったからとおれの夢を諦める必然なんてない。
それから、おれは気を取り直し、辞表を破り、もう一度この会社で頑張ってみることにした。
浅野と別れて、三か月後、おれは浅野が会社を辞めたことを知った。
理由はわからなかったが、転勤した支店では、営業成績も揮わず、元気もなかったと聞く。
不思議な気がした。
営業が上手く、どんな偏屈な相手とも、知識と愛嬌と話術で成功に導く、わが社のポープと謳われていたのが浅野竜朗だった。
あいつに何があったのだろう。
おれはその晩、そんなことを考えながら、夜道を歩いていた。
春も近く、おぼろ月夜が天上に浮かんでいた。
いつか浅野とふたりで見上げたあの夜のようだと、思った。
ポケットに入れたおれの手を取りだして、握りしめてくれたのはあいつだった。
不安そうなおれを、「大丈夫だ、俺がそばにいるから」と、言ってくれた。
足を止め、じっと月を見つめた。
あいつがなぜ会社を辞めたのか…
今、気持ちが理解できそうな気がした。
あいつは…おれと同じだったんだ。
涙が溢れた。
なぜ、別れてしまったのだろう。
なにひとつ続ける努力もしないで、どうして簡単に諦めたのだろう。
「バカだな、おれたち…」
涙が止まらなかった。
会社を辞めた後の浅野の行方もわからず、二年経った今でも、なにも連絡はない。
そして、おれの心の痛みは、あの日から少しも癒えることはなかった。