眠る居場所
流れ込む場所。
確かにそうだったのだろう。
その場所は丁度いい場所だった。
湧き出る水が川となり、やがて海に流れるように。
水は高きところから低きとこらへ流れる。
ならばこの世界に流れる力にも、やがて流れ着く場所があるのだろう。
龍脈、龍穴
生門、鬼門
生命の流れ、星の命脈
気、霊、妖、体という力
この世界を創るもの
巡り、巡り、
やがて何処かへと
そんな場所なのかもしれない
世界に還る前の一時
それが眠る場所
幻想が至る
天然の場
________________________________________
―――また、知らない場所か。
周りの木々を見渡しながら考える。
「何か……おかしいな」
呟いた言葉は鬱蒼とした木々の間へと消えていく。
―――おかしい。
長年の経験が告げている。
確かに、随分旅をしていない分、道や景色・人里の位置などが変わることはあるだろう。けれど、何百年・何千年という時間がかからなければ地形が変わるということは滅多なことではありえない。
天変地異―地割れや噴火・洪水など、しかも余程の大規模のものが起きない限り、だ。
けれど、それほどの規模のものならば自分の村への余震、余波ぐらいは来てもいいはずだ。
自分の知っている限りそんなものを感じたことも聞いたこともなかった。
「なのに」
目の前にあるのは、限りなく続く緑と――勾配高く続く坂道。
「山……か」
何十、何百年前かの記憶ではあるが、ここにここまでの高さの山はなかったはずだ。
先程通り抜けた竹林、それはまだ理解できる。
植物の生態が早期に入れ替わるということは、時には起こることもある。
けれど、平地が山地に変わることなど、長い年月を過ごしてきた中でも――数度あったかどうか。
しかも、余程特別なときのみ。
――天上の奴らが関わっているようにも思えないが。
昔見た光景を想い出す―――滅びた世界の中で新たに創造される世界。
「――まあ、今は関係ない話だろう」
その時に感じた神々しさや力強さは感じない。
どちらかというと、自然現象やそれに近い何かという感覚だ。
意図があってというよりも勝手にそうなったという印象を受ける。
―――それに
濃い
この土地を包む力というものが強い。
龍脈や霊地、力の焦点そんな場所なのかもしれない。
空気中に流れる力、世界を構成している一部とでもいうべきもの、そんな空気と同じように存在するようなもの――それが、濃い。
いつもはただの湯に浸かっているという感じだが、ここでは温泉に使っている感じというか。
俗にいうと――何かが起きやすそうな土地だ。
ここでなら、何かが起こってもおかしくない気がする場所。
―――早く抜けたほうがいいな。
そう思いながら、足を速める。
経験上、こういう場所では
「ケキャケー」
「……こういうのが出るんだよな」
沈んだ声でため息をついた。
奇声と共に現れたのは獣のような姿。
爬虫類のような皮膚と犬のような体を併せ持つ異型の形を持つ異形のもの。
そう
「何のようだい…妖怪さん?」
変化というよりも獣に近い、そんな獣型の妖怪。
林をかきわけて飛び出してきた姿を見据えながら、なるべく刺激しないように言葉を口にする。
なるべく、ここで騒ぎを大きくはしたくない。―――おそらく限りがなくなる。
「……ラヘッタ」
一応、言葉を話す以上の能力を持っているのか、微かな返事が返る。
しかし、微か過ぎてうまくききとれない
―――まあ、予想はできているが
人間の臭いを嗅ぎつけて飛び出してきた。
いかにも食べてませんというような痩せた姿。
「ハラヘッタ……クウ!」
「――まあ、そりゃそうか」
妖怪として、化け物として、襲い掛かってこないほうがおかしい。
特に、獣としての姿を残す小妖。
それは本能に従って生きる獣に近い。
餌を目の前にすれば、喰らいにくるのは当然のこと。
「――っ」
軽く息を吐きながら、襲い掛かってきた爪を後ろに飛びのくことで避ける。
―――見かけ通りになかなか
「っと……とと」
速い
第二撃、第三撃が追いかけるように、飛びのいた先へと襲い掛かってくる。
一つ目を上体を逸らすことで、二つ目をそのまま後ろに倒れこむようにして避ける。
飛び掛ってきた相手は目標を見失い、こちらの上方で無防備な腹を晒すことになる。
ちょっと眠ってもらう。
そう心に呟いて、そこへ掌底を叩き込む。
――その一瞬手前
獣の頭部が爆ぜた。
こちらの手の触れる直前、気絶させる程度の力を込めた一撃の、その直前に。
「……!」
力を失い、崩れ落ちるようにこちらにのしかかる妖怪の体。
「いやいや、危なかったね。若い人」
落ち着いた、静かな声がした。
妖怪の血に塗れたこちらの姿を見つめながら、初老の男がゆっくりと姿を表す。
人の良さそうな笑みを浮かべながら、こちらへと近づいて、大丈夫か、と声をかけた。
妖怪の頭が砕ける寸前に感じたのは、僅かな霊力と白い札。
文字に力をこめて放てるということは、この男は法師なのだろうと見当をつけた。
そして、目の前に崩れ落ちた妖怪の成れの果てに、視線を下ろした。
________________________________________
「ほんに危なかったのう若いの」
椀をかっ込みながら話す老人。
食べながら話すので、米粒やらつばやらが周りに飛んで少し汚く感じる。
「まったく、法師様がおらんかったらどうなってたことやら。今にも食われる寸前じゃったんじゃぞ」
こちらに箸を向けて、周りに集まる他の者たちに説明する老人。
どうやらあの時、法師の後ろいたらしい。身振り手振りで大げさに妖怪がやられる様を説明している。
周りのものは驚嘆したり、感心したり、その話に熱心に聞き入っている。
「まったく、あの森に踏み入るなんて自殺行為も甚だしい。法師様にはよう感謝せえよ」
現場にいた他の連中は侮蔑の視線をこちらへと向けて、高圧的な態度をとっていた。
どうやら、村人たちの何かの行事を邪魔することになってしまったらしい。
そのせいで、あまりいい印象がもたれていないようだが―――あの法師様の手をわずらわせてしまったことが、その連中の怒りの原因のような気もする。
「まあまあ、そんなとこにしておいてやんなさい」
奥の畳、一段上の位置から低い、穏やかな声がした。
その声で、ざわざわと騒ぎながら話していた人々がぴたりと黙る。
「何も知らない旅人さんだ。あの森のことも知らなかったのだろう」
それじゃあ仕方ない、穏やかな表情で全員を見渡し、他のものよりも少し良品に見える椀から水をすする。
広間からは「さすが法師様」「お心が広い」などの感嘆の声が上がった。
ここは、村の集会場。
人里の皆が集まり、これからのことや新しいことを相談していく場所。
今回は、行事の進行をとめた、事の原因である自分のことを調べるために使われている。
「法師様の温情に感謝しろよ」
若い男が吐き捨てられるようにそういって、こちらから離れていった。
その後ろ姿を少し眺めてから、上座に座る法師の方へと目を向ける。
どうやら、行事が中止になってしまわないか不安になっている村人たちに、何か話し地得るようだ。
「さてさて、皆の衆。あれは明日行えばいいこと。今回は予行ということでいいじゃないか」
いい練習になった、と法師が笑い、他の村人たちも安心したように笑う。
法師様がいったことであるなら、それでいいのだろう。
そんな安心感に満ちている。
――本当に、慕われている。
あの法師のいうことを、村の人々たちは素直に受け入れ、信じきっている。
確かに、あの妖怪を滅した手並みといい、先程までのふるまいをとっても、十分な力と、その人柄のよさが伺える。
けれど
「なあ、兄さん。あの法師さんは何者なんだい」
近くに座っていた男へと声をかけた。
先程の男と違い、あまり敵意を感じられないのんびりとした様子の男だ。
「ああ、法師さまのことかい」
こちらを振り向いた男は、のんびりとした口調でこちらの質問に答える。
「まあ、元々はあんたと同じ旅人だったんだがねぇ。丁度この村にいるときに、森で女の子が妖怪に襲われたときいたら、ぱっと飛び出してってそれをやっつけてくれたんだ」
あれはすごかったねえ、と思い出すように目を細める男。
「ええとねえ、あとは……」
「なんだ、法師様の話か。なら、俺にもさせろ!」
話を聞いていたのか、隣に座っていた男が割り込んでくる。
「法師様はすごいんだ。村のすぐ近くに縄張りをつくってた妖怪たちを追い払ってくれたし、森で妖怪に出会わない呪いも教えてくれた」
「おかげで美味しい山菜も採りにいけるようになったねえ」
「毒虫の退治方法も教えてくれたし、病よけのお祓いもやってくれるんだ」
「おかげでぐっすり眠れるよ」
強く法師を讃える男とのんびりと褒める男。
なんだか妙な感じの二人に話を振ってしまったようだが、一応、法師がなかなかの腕だということは伝わってくる。
呪いにお祓い、効き目は人によってまちまちなものだが、結構な効果を発揮しているらしい。
札にして飛ばした霊力といい、力だけでなく、なかなかの技術も持っているようだ。
男二人は他にも様々に法師様の逸話を述べ、勝手に盛り上がり続けている。
にしても
――妖怪を追い払った、か。
それを話半分に聞きながら、一箇所引っかかった部分について頭を巡らした。
縄張りにしていた妖怪。
感じからして、一種で群れをつくって暮らす獣型の妖怪だろう。
人型の妖怪ならば、余程の力を持たない限り、村の近くへと縄張りなどつくらないだろうし、そういう妖怪は、人のように自らの家――住居といった感じのものを持つことが多い。
多分、この村に脅威を感じなかった森の妖怪が徐々に行動範囲を広げていた、そんなところだろう。
一度痛い目を見れば、そういう妖怪は森へと戻る――獣と同じだ。
「それで、今日の行列は一体なんだったんだ?」
話を続けていた二人を止めて、違う質問をした。
「ああ、追い払った妖怪がまだ森にいるようだからねえ」
「また村にやってこないように……」
「旅人さん、さっきはすまなかったね」
その言葉を遮って、柔らかな声が間に差し込まれた。
見ると、先程まで村人たちと談笑していたはずの法師が目の前でやってきていた。
おや、話の邪魔をしてしまったかな、と告げられた言葉に慌てて否定する村人二人。
「すまないが、旅人さんに話をしたいんだが」
________________________________________
―――ン。
獣の鳴き声のような微かな音が響いた。
なぜだか妙な顔をして、男の顔が歪む。
「すまんね。こんなところまで来てもらって」
気を悪くしたのだろうかと思ってそういうと、なんでもないと否定された。
「で、なんです。話ってのは……法師さん」
「いや、ただ元旅人として話を聞いてみたくてね」
自分も旅をしていた身だ。
同じように旅をしている者の話をきいてみたかった。
「あそこではあまり自由に話せないだろう」
慕ってくれるのはわかるが、村人たちは少し自分を持ち上げすぎる。
男もあそこで話すのは、居心地が悪いだろう。
そのために集会所の外、村の入り口辺りまで移動してもらった。
ここなら、あまり人は来ないし、村の見張りにもなる。
なるほど、男は納得したように呟いた。
そういってから、旅人が通ってきた森の方を眺める。
――なんだか、不思議な男だ。
夜の森を眺める男の表情を見ながら、そう思った。
自分よりずっと若く見えるのに、その表情は妙に達観しているような趣きがある。
枯れてしまっているというほどではない。けれど、何かを超越しているような、そんな人間らしくない雰囲気。
ずっと長い時を過ごしてきた老人に似た表情、そういってはいい過ぎな気もするが、それが一番近いように思える。
助けたときは気づかなかった気配。
妙に――胸がざわついた。
「といってもこっちも最近村から出たばかりでね。できる話なんてしれてるよ」
「あ、ああ――そうだったのかい。旅慣れているようだからてっきり随分旅してきたのかと思ったが」
少々思考に浸りすぎていたようで、男の言葉に一瞬驚いた。
なんだか、妙な雰囲気に呑まれていた。
「それより、法師さんの話を聞かせてくれませんか。結構なお力をお持ちなのに、なんでこんなところにいるのか―――なんで旅人をやっていたのか、なんてのをね」
男は、にこりと人当たりが良さそうに笑う。
「私の話しなんぞ、つまらないものだよ」
「いえいえ、こちらの旅の参考にもね。見聞を広げる旅なんぞと洒落込んでいるもので」
慈善に向かう法師様の話を、とニコニコと笑う男。
その表情に後ろ暗いところは見当たらないが、少しだけ、なぜか薄ら寒いものを感じた。
多分、気のせいだろう。
「―――村の人たちに話せないことも、通り過ぎる旅人になら話せるかもしれませんよ」
付け加えられた言葉。
――なぜだか、少しだけ心が揺れる。
「そんな良い話ではないよ」
そう一言断って、始める話。
もしかしたら
――自分は、誰かに話してみたかったのかもしれない。
自らの話を
________________________________________
誰かを見捨てたくなくて
誰かを守りたくて
誰かを喜ばせたくて
誰かを悲しませたくなくて
それが嬉しくて
そんな単純な話。
人間が守りたくて、妖怪が敵だった。
それだけの話。
「ただ、嫌だったから、守りたかった、か」
「つまらない話だろう」
そういって笑う法師。
「私は、自分の好きなようにしていただけだ」
その姿に、村人たちの前で見せていたような強さは感じられない。
ただ、自分勝手に生きてきた姿、我を通してきた姿がある。
「なるほど、ね」
納得するように呟く。
人として、悩む者を眺めながら
「村人たちは、こんな自分勝手な者に騙されておるのさ」
自嘲するようにいった言葉は、すこし寂しげでもあった。
慕われ、崇められるからこそ、感じる歪み。
自分が思う自分と、他人が考える自分とのずれ。
それは、重くなる。
自分が背負える以上に、重くなる。
それでも
「後悔はしてないんだろう」
その言葉に、法師は微笑む。
「ああ、私は後悔しとらんな――重くとも、辛くとも、自分のやりたいことをしていることにはかわりない」
どこまでも自分勝手で仕方ないな、そう呟く法師。
けれど、そんな自嘲を含みながらも、その表情は穏やかだった。
それで納得している、それを背負う覚悟はできている。
たとえ、それに潰されることになろうとも、覚悟はできている。
なら―――それでいいのだろう。
自分勝手に人を救う、村を守る。
高尚な理想を持たずとも、崇高な目的を持たずとも、それで救われている者たちがいることは確かなこと。
騙しているのかもしれない、勘違いされているのかもしれない。
それでも、そうしたい。
そんな勝手さ。
――懐かしい。
少しだけ、そう思った。
――ン
先程よりも近くなった声に、意識を切り換える。
「―――きたか」
低く呟いて、村の入り口の正面、鬱蒼と茂る森の方へと向き直る。
「なんだ?」
法師がこちらの様子が変わったことに気づき、疑問の声を上げた。
しかし、すぐにそれの様子に気づいて、視線を森へと向ける。
静かな夜。
村の入り口に掲げられた松明と月明かり一つの明るさの中。
その見渡せぬ森が――ざわめいている。
何かが近づいてくるような気配。
たくさんのものが蠢く感覚。
草むらが揺れ、一つの影が躍り出る。
一つ、一つ、また一つ。
まるで森全体が動いているかのように、
草が揺れ、木々が揺れ、葉が揺れて
獣の影が躍り出る。
「な……こ、これは…」
うめき声を上げるように、声を上げる法師。
「なるほど、思った以上に多いな――」
周りを取り囲むのは、獣の群れ。
爬虫類のような皮膚と犬のような体を持つ妖怪。
森で出会った妖怪と同種のもの。
「こ、これは一体……」
「縄張り争い」
疑問の声を上げる法師に、低い声で答えた。
「な、縄張り?」
「ああ」
相手はこちらの様子を伺い、まだ襲ってくる様子は見せない。
その様子をじっくり観察しながら、法師に説明する。
「あんたらが、あいつらの縄張りを侵したからだろう」
村人の二人の話を思い出す。
多分、最初はあいつらの方が人間の縄張りに入ってきていた。
そこを追い出され、住処である森の方へと戻っていった―――それはまだいい。
妖怪も、新しい狩場を失っただけですむ話だ。
元の居場所さえあれば、今まで通りに生きていける。
けれど
「なあ、法師さん。あの行列は―――妖怪退治のためのものだな?」
自分がであった行列の様子を考えながら問う。
あの村人達が持っていたのは、札や竹やりなど、あきらかに戦うための武器を持っていた。
なら――意味することは、妖怪退治。そのための行列。
「あいつらの生活圏に攻撃を仕掛けたなら――当然、戦争しにきたんだろう」
うなり声を上げる獣たち。
その目は、獣の目ではない。
ただ、生きようとする目をしている。
――生きる場所を守るため、か。
もし、自分たちの居場所が失おうというとき、それが獣なら、さらなる場所に逃げるだろう。彼らは、死に挑むような真似はしない、自分達が生き残ることを優先する。
けれど、いくら獣に近くとも、妖怪は違う。
恐れられなければ、ただ狩られる立場になってしまっては、生きてはいけない――存在していられない。
なら、挑むしかないのだ。
自らたちが滅ぶかどうかの賭けでも、戦うしかない。
居場所を失えば、自らたちは消えるのだから
「――――!」
言葉にならぬ声でほえる獣たち。
それは存在をかけた叫び。
________________________________________
「なあ、法師さん―――あの行列は、妖怪退治のためのものだな」
そんな絶望的な状況の中、問われた声は落ち着いていた。
まるで、この獣の群れを気にしていないような―――妖怪を恐れていないような。
「あいつらの生活圏に攻撃を仕掛けたなら――当然、戦争しにきたんだろう」
続いて呟かれた声も、落ち着いたものだった。
けれど、その言葉端には、なぜだか少し棘があるように感じられた。
まるで、私達が悪いといっているような、微かな棘。
「――――!」
獣が発した声に身が竦む。
余計なことを考えている暇はない。
懐からあるだけの札を取り出し、指に構えた。
「――村の皆に逃げろと伝えてくれ」
ここは私が抑える。命に代えても、守り通す。
そんな死を覚悟した想い
「――逃げてもいいんじゃないのか」
その決意に罅を入れるように、男が呟いた。
「な、なにを…」
こんなときに、と続けようとした言葉は、男の言葉によって遮られる。
「どうせ勝手にやってきたのなら、別に逃げてもいいんじゃないか」
そんな誘い。
どうせ、自分勝手にやってきたことなら、自分勝手にやめてしまえばいい。
微かな誘惑。
自分一人ならば、逃げられるかもしれない―――村人たちさえ見捨ててしまえば。その間に逃げることができる。生き残ることができる。
――自分勝手に、逃げてしまえば
「逃げられるかも――生き残れるかもしれない」
こちらに背中を向けたまま、ささやかれる言葉。
生存本能への――自我への直接的誘い。
――心が揺れる。
生きたいという気持ちが覗いてしまう。
――内に押し込めたものが
勝手に祀り上げられ、勝手に慕われて、
勝手な自分を創り上げた村人たち。
背負わされた重荷を捨てたとしても、それは自業自得
――なら、逃げてしまっても
________________________________________
「それはできん」
しばらくの沈黙の後、絞りだすように口にされた言葉。
「逃げたくないのかい?――多分、生き残れないが」
「―逃げたいよ、逃げて生き延びたい」
声には力がなく。
指先は、僅かに震えている。
村人に頼られた――慕われる法師の姿、そんなものは微塵も残っていない。
そこにあるのは、怯える人間の姿
妖怪に怯える、ただの人間の姿
「それでも、逃げたくない」
矛盾する言葉。
「逃げたいけれど、逃げてしまっても構わないと思うのだけれど――逃げたくない」
理屈の通らない考え。
「生きたい―――でも、死なせたくない」
それは叶うはずのない、都合のいい答え。
身勝手な、どうしようもなくわがままな
とても人間らしい想い
「――くくっ」
思わず笑いがこみ上げる。
ただ、揺らすだけのつもりだった。
どちらにしても、することは同じだったが、なんとなく試してみたかった。
その重さを
自分勝手な考えによって成り立った勝手な関係。
それだけなら
いつか、間違いとなってしまうかもしれない。
けれど
「―――迷わなくても、悩まなくても、それはそれで心配だったんだが」
背中を向けたまま、獣の群れを見せたままに呟いた。
自分を犠牲にする尊さ
生きようとする貪欲さ
過ぎても、足りずとも、どこかで歪みができる。
「――いい答えだ」
間違っていても
理屈は通っていなくても
だからこそ
「面白い」
錆びついていた歯車が回りだすように、久しい気分が満ちる。
永い時を生きる中で、少しずつ擦れて、見えづらくなるものが
共振するように
――これだから、人との会話は面白い
忘れてしまいそうな
薄れて消えてしまいそうな
そんな火に油が注がれて
また、“人間”を思い出す
「――さて」
久々に味わった気分に、笑みを浮かべながら正面を見る。
「妖怪さん方、悪いが一宿一飯を受けていてね」
こちらを睨みつけ、周りを取り囲むように広がる獣に告げる。
「法師さんの答え――実現させてみようか」
________________________________________
――圧巻、だった。
妖怪たちが牙をむき、男に飛び掛った獣たち。
数十にもなるその数が今、全て地面に臥せられ、そこら中に転がっている。
「な、こんな……こと…」
ありえるのだろうか。
あれだけいた獣たちのほとんどが壊滅し、まだ動けるものも怯えて動かない。
それほど-圧倒されてしまうほどの強さ
「なあ、法師さん」
そんな円の中心で、男が口を開いた。
「あんたが妖怪を退治しにいこうっていったのか?」
倒れた妖怪を見下ろしながら話す男。
「あぁー疲れた」と呟きながら肩を回しているその姿は、本当にただの人間といったもの。
妖怪すら恐れさせている者の姿とは思えない。
「い、いや、違う」
そんな違和感を感じながら答えた。
「村人たちからの提案だ。この森から妖怪たちを一掃すれば、この前のようなことは起こらない。この辺りは安全になると」
そういう計算だった。
この辺りの森に巣くう妖怪の群れ、それさえ退治すれば、この辺りずっと住みやすくなる。
そんな単純な考え。
「多分、こいつらを全滅させても意味がない」
けれど、男は言った。
「この辺りは霊穴――龍脈とか呼ばれるような力の集まりやすい場所だ」
地面を指すように、軽く片足を上下させる。
「そんな場所には妖怪――怪異めいたものが集まりやすい。この妖怪を全滅させても、また違う妖怪が現れるだけで、結局のところ終わりがない」
言いながら、しゃがみこんで妖怪の体に手を触れる。
何かを確認するように
「確かにこいつらは人間の縄張りに踏み入った。けれど、妖怪の縄張りに人間が踏み込めば、また今日のようなことが起きる」
静かに呟かれた言葉。
「なら――どうすればいい!このまま妖怪に怯えて暮らせと?」
理不尽な話に、思わず声が大きくなった。
それは村人たちの願いだ。
そんな簡単に諦めきれることではない。
「ああ、その通りだ」
「な…」
それに対して、男が淡々と言い放った言葉に、呆然とした。
「ただ」
絶望するこちらに対して、男が表情を崩す。
「近づかなければ害はない」
微笑みながら告げられた言葉に、また違う意味で呆然とする。
「お互いの縄張りに入り込むから襲われ、殺しあう羽目になる。なら、お互いの縄張りに入らなければいい」
両手を広げて、男は獣たちを示す。
「し、しかし、森に入れなければ村の生活が……」
「今まではどうしてた?」
反論しようとした言葉が遮られる。
確かに、妖怪が森から出てくるようになるずっと前から、村の人々はここで生活をしてきたと聞いている。その頃も、妖怪によって多少の被害は出ていたが、森の奥の方まで近づかなければ襲われることもごく稀なことだった。
村人たちも、群れに対してならともかく、妖怪一匹一匹に対しての対策は心得ている。
「けれど、また妖怪たちが村を襲ってきたらどうする」
こちらが人間の縄張りを守っても、相手がそれを守るとは限らない。
攻め込まれれば、負けるのはこちらだ。
「だ、そうだが、妖怪さん」
そういって男は倒れ臥す妖怪の一匹に視線を向ける。
すると、その体が動き
「キズイテイタカ」
声を上げた。
「な!?」
「見たところ、あんたが群れの頭か」
動揺した様子も見せずに、正面に立つ獣を見つめる男。
よく見ると、その妖怪は傷一つ負わず、他の個体よりも多少大きな体躯をしている。
「油断シタトコロヲ噛ミ殺シテクレヨウト思ッテイタノダガナ」
「そりゃ怖い」
犬歯をむき出しにして睨みつける妖怪に対して、男が飄々と返す。
妙な光景。
死んだ振りをしていたらしい妖怪とそれを見抜いた男が互いに正面に立って話をしている。
「で、もし人間側があんたらの縄張りを荒らさないとするならどうする?」
「――ワレラノ居場所ガ失ワレナイナラバ、コノ村ヲ襲ウ理由ハナイ」
妖怪の頭が静かに返答する。
「――タダ、人間ヲ襲ワナイ訳デハナイ、森デ人間ヲ見ツケレバ狩ルノハ当然ノコトダ」
付け加えられた言葉に、思わず札を構えたが、男が手を上げてそれを制した。
「その時は、返り討ちにあっても文句はないな」
「アア、我ラハ獣。弱肉強食ノ掟ニ従オウ」
威厳を持って放たれた言に嘘はないと感じる。
――し、しかし
頭が混乱する。
「だ、そうだが法師さん。妖怪一匹程度なら、素人でもあんたの札があれば遠ざけられる。もし、運悪く命を落とすことになっても、それは森の獣に襲われる可能性と大差ない」
語られる言葉、それに嘘はない。
魔よけの札や呪いさえしていれば、村人たちが襲われることはほとんどないだろう。
むしろ、熊や狼に襲われる可能性の方が高いかもしれない。
けれど、けれど
相手は――
「妖怪」
人を襲い、人を食らい、人に害をもたらすもの。
そんなものを――信用できるのだろうか。
正面には、獰猛な牙を持つ姿。
恐ろしい力と歪んだ姿をもつ獣。
混乱が巡り
逡巡が襲い掛かる頭の中に
「――なら、全て殺し尽くすまで戦うのか」
冷たい言葉が囁かれた。
________________________________________
光りを通さない暗く閉じた森を抜け、やっとのことで先の見渡せる高原へと出た。
薄い月の明かりの道は、森の闇に慣れた目にとっては十分な光源となる。
が、
―――やはり夜の出立は無茶だったかもしれないな
一刻ほど前の自分を思い浮かべて、少しの後悔がこみ上げた。
――でもまあ、あそこで村に泊めてもらうのも……な
獣の頭が吼え声を上げ、それに反応するようにして倒れていた妖怪たちが次々と立ち上がった。動けないものも、他のものが二匹がかりで抱えるようにして移動していく。
そして、全員が森の中へと消えていくのを確認すると、その一際大きい獣はこちらを一睨みするようにしてから、自分も闇の中へ消えていった。
暗に――違えぬように、という念を込めて
それを見送る法師は、複雑な顔をしていた。
間違っているのか、正しかったのか、わからずに選ばなければならなかった選択。
「これでよかったのだろうか」と法師はこぼし
「さてね。――あとは、自分たち次第だろうよ」と自分は告げた。
そんなやり取りの後、すぐに村を出た。
これ以上は村の中での話しになるだろうし、あれだけのことをやってしまったあとに、自分はただの旅人ですとは通せないだろう。
この先旅を続ける以上、あまり目立ちたくはない。
それに――
「あら、奇遇ですわね」
そんな夜道を歩く道に、不意に声がかけられた。
同じ高さの地面ではなく、星の浮かぶ中空の中から
「ああ、奇遇だな。八雲紫、さん」
互いに、まったくそう感じていない口調で告げた言葉に、どちらともなく微笑んだ。
―――相も変わらず、互いに性格が悪い。
「今日は、お茶は用意してないが」と軽口を叩くと
「まあ、残念。それじゃあ、お話のお相手でもしてくれないかしら」と返された。
そうして、適当な岩の上へと腰を下ろすこととなる。
向こうは何やら空間の裂け目のようなものから上半身だけを出した状態で、こちらの少し前辺りに浮かんで、こちらを見下ろす。
「で、何の話だい?」
「あらあら、せっかちね」
急かすようにいった言葉に、少女は笑って返す。
「まあ、こっちも寝床を見つけないといけないんでね」
夜行性の妖怪と違って、こっちは夜眠る方だ、と告げると、少女も「じゃあ単刀直入にきくわ」と切り出した。
「人妖の共生関係、あなたは本当に成り立つと思うの?」
興味深げに告げられたのはそんな質問。
多分、というよりもやはり、先程のやりとりを聞いていたのだろう。
先程のやり取りに対する疑問。
それに対して
さあね、と欠伸をしながら答えた。
――保障なんてできるはずがない。
その様子に「あらあら」と微笑む少女。
それを眺めながら、目じりにこみ上げた涙を指で拭う。
「少なくとも、お互いの邪魔をしなければ、お互いの場所に踏み込まなければ――それなりにやっていけるんじゃないか」
あとはそれを守れるかどうか、それだけ
やる気なさ気にいった言葉に対して、少女が笑う。
「無責任なのね」
「一つ提案をしただけ――それを選ぶのはあいつら自身」
偶然、居合わせただけ
そんな小石が当たった程度で崩れてしまうなら、どのみちあの村はもっていなかっただろう。
――集まりやすい場所、溜まりやすい場所であるからこそ
「あんな場所にあるんだ。なら、工夫して生きるしかない」
そう思う。
あの場所に居続けるなら、隣人はずっといることになるだから
「厳しいわね」
「生きるってのは厳しいものだろう」
どうにかして間に合わせながら、ぎりぎりやっていくしかない。
それがある意味、一番楽な生き方だ。
「時代に、状況に、気分に合わせながら―――なんとか自分なりにやっていく」
そういうものだ。
「それは貴方の人生観?」
「いいや、ただの経験譚―――ただ、今の気分でしゃべってるだけのね」
そんな適当な答えに、眉を顰める少女。
けれど、そんなものだと思う。
記憶の中にあるのは
「経験やしきたりに縛られないなら、新しいものをつくっていくしかない」
それに囚われて抜け出せなくなった人々
「新しいものをつくるなら、それに対する覚悟を持たないといけない」
前へと進み、失敗に絶望してしまった人々
「そうやって、手探りで作り上げていくものだろう」
それでも、生きる人々。
「生きる方法なんて、そんなもんだ」
空を眺めながら、一人ごとのように呟いた。
「それも、今の気まぐれも言葉なのかしら」
少女は微笑みながら問う。
「ああ、その場限りの生き方論」
保障はしません、とこちらも笑って返す。
通り過ぎるのは、夜の風とどこか遠くで聞こえる獣の声。
月の位置は西へと沈み、後数時間ほどで夜が明けることがわかる。
「むう……もう寝ぐらを探す時間もなさそうだな」
それを見ながらため息をついた。
やはり村に泊めてもらえばよかった。
「どうするの?」
「ま、仕方ない」
言いながら、適当な草むらに寝転がった。
季節柄、風はそこまで冷たいというほどでもない。
数時間だけなら大丈夫だろう。
「そんなところでぐっすり眠れるのかしら」
「それなりには眠れるだろう」
くすくす笑っている少女に対して、空を見上げながら話す。
「―――居場所がないなら、自分で作ればいい」
風の音も
草の感触も
「そうしようと思えば、そういう場所になる」
目を瞑る。
感じるのは草の香りと薄い月明かり
「眠ろうとすれば、眠る場所に?」
「そうしようと、工夫していけば――多分ね」
そういって荷物を枕にしているところを見せた。
少女は何かを考えているようにも見えたが、そろそろ、本当に瞼が重い。
微かな虫の声と草花のざわめき。
そんな自然の音を聞きながら、意識を閉じていく。
浮かぶのは、今日出会った人と獣
薄れてはまた取り戻す人の面白さ
まだまだ、生きていようと思う世界の面白さ