境界に触れる
「八重の雲に紫、か」
「字は解るのね」
「長年生きていますから」
定型のように使い慣れた言葉。
確かに字を読み書きできる者は少ない。
自分もこれだけ長く生きていなければ、日々の生活に関わりのないそんなものを覚えようともしなかっただろう。
「本当、信じられないわね」
そういいながら、少女は丸い小さな陶磁に入れ物を傾け、その中身を口にする。
その中身、半透明の少し濁りのあるその液体は、あまり良くない見た目に比べ、味は透き通るようにすっきりとしている。湯気の出るうちならば、それに使用した野草の香りが漂い、いい具合の落ち着きをもたらす。
―――さて、もうすぐだな。
予定の時間を考えながら、自分の分の器を傾け、同じ液体を口にする。
「うむ、上手くできたもんだ……この器もなかなかいい」
「大陸の方から流れてきたものよ」
借りた椀の持ち主は、そう答えた。
なるほど、確かに見ない造りだ。
粘土――固まる前に型を造り、それに高温で焼きを入れるという感じか。色づけなどはどうしているのだろう。
その器の材質を考えながら、その製造工程を想像する…が、火の中で薪が音を立て、会話相手がいるという状況を思い出す。
―――こういうのは後で考えればいいな。
黙り込んで考え込むのも失礼だ、そう思って気を取り直す。
火の世話もしなければならない。
「少し大きめだから、飲料用とすればもうちょっと小さなのがあればいいのにな」
誤魔化すようにそう呟きながら、集めておいた木の枝を焚き火にくべる。
「確かに少し持ちづらいかしらね」
黙り込んでいたこちらを見つめていた少女は、ふっと一息は吐いて、呟きながら、こちらもまた一口と湯をすすった。
「……本当に美味しいわね」
「滋養もあるんだ。これも長年の成果だね」
少し自慢げに鼻を鳴らす。
この野草の煎じ汁は自信作だ。
長年の間、食料用の草の組み合わせを試行錯誤し、やっと美味くて健康にもいいというものが出来上がった――その分少し手に入りづらくなったが。
この森に材料があって良かった、と先程盗賊に教えた薬草を思い出す。
「…と、そろそろか」
パチパチと燃え盛る焚き火の音を聞き、前に突き立てた木の棒に手を伸ばした。
そこには先ほど採った魚が中心を貫くようにして枝に差し込んであり、いい具合に火が通って食欲を誘う香りを放っている。
少し齧り、うん、と頷いた。
「いい具合だ」
他に焼いていた分を焚き火から少し離して、焦げてしまわないようにしてから、そのうち一本を少女に手渡した。
「あら、ありがとう」
そういって少女がそれを受け取り、こちらと同じように少し齧る。
すぐに、美味しいと呟いて目を輝かせた。
「そいつは重畳」
相槌を打ちながら、丸底の小さな土器から湯気を出す液体を掬う。
息を吹きかけて少し冷ましてから、喉に通した。
――うん、やっぱり魚とはこの組み合わせだな。
魚の微かな生臭さを香草が美味く消して、食が進む。
「もう一匹もらっていいかしら」
「いいよ。ニ匹ほどは保存食にするからおいといて」
焚き火に枝を追加しながら答えた。
気に入ってもらえて何よりだ、少し微笑みながらいうと
くくく、となぜか笑い声を上げられる。
怪訝に思ってそちらを見たが、相手そのまま魚を齧っている。
――まあいいか
枝に刺した魚を煙に翳して、燻しあげていった。
このある意味ほのぼのとした食事風景は、先ほどまで盗賊と戦闘していた場所のすぐ近く。
流れていた小さな川の傍で行われている。
さっき魚を捕まえて、焚き木と野草を集め、持ち合わせていた土器に川の水を掬って薬草汁をつくったのはほとんどが自分。
横でそれをすする少女は何処からか、この陶磁の器を取り出しただけだ。
自分の分も差し出されたのでありがたくそれを借りている。
―――大陸製か、一つ欲しいもんだな。
器を眺めながらそんなことを考えた。
「慣れているのね」
不意に声をかけられて、そちらを振り向いた。
目線で燻して燻製にした魚を指される。
丁度、大き目の葉っぱに香草と纏めるようにして包んだところだった。
「ああ、村じゃあよく弁当にしてたからな」
畑仕事の後に食うのがまた美味いんだ、とちょっと前のことを懐かしく思い出した。
ああでも、やっぱり野菜と米がないのは残念だな。
村での食卓を思い出し、その残念さを噛み締めていると、不思議そうな表情で呟かれた。
「村---あなたは人間の共同体にいたのね」
その声音に少し疑問を感じたが、一瞬後に、ああなるほど、とその理由に行き当たった。
――不老の者が共同体の中に生きていた。
これはおかしなことだ。
特に村なんて閉鎖的な場所に。
変化のしない不自然なものがいる。
それは受け入れられるはずのないこと。
在るはずのないもの。
それが発覚すれば
それだけで異端は迫害の対象となる。
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「爺さんとかが喜んでたなあ。弁当が美味いと力が出るって」
燻製にした魚を葉で包み込みながら話す。
彼の表情は懐かしそうで。
それが本当に楽しかったという表情で
「村―――あなたは人間の共同体にいたのね」
思わず声に出してしまった。
彼は私の方を振り向いて、しばらくきょとんとした表情をしていたが、得心したような表情を浮かべ、魚を包む作業に戻った。
焚き火の前に座っている彼の姿は、こちらからは後姿しか見えない。
「ああ、ちょっと前まで近くの村にいたよ」
畑仕事やら薬師やらいろんなことをしていた、と静かに語る。
彼の表情は見えないが、その声には少しの憂いを含まれているように思えた。
「あなたのような存在にとって――それは無駄なことではないの」
その様子を感じながら、さらに問いを重ねる。
彼のその不可思議な存在を知るには、そこに鍵があるかもしれない。
――そんな建前
それが建前だとすぐに理解できた。
本当は、純粋に、この男に興味があるのだ。
死なない、妖怪のような人間が、死んでいく人間の社会の中にいる理由。
孤高の道を歩まない理由。
力があるもの、能力があるもの、特別であることが迫害の理由になる共同体の中において、彼のような存在が生活することは苦痛以外のなんでもない―――最初は良くても、いずれはそうなっていく。
なぜ、彼はそうしたのか、それに強い興味を持っている。
無駄ね、と彼は小さく呟いた。
葉に包んだ燻製を荷物の中にまとめると、焚き火に翳していた土器から薬草汁を掬った。
そして、私の方に片手を向けて「入れ物」と低くいう。
空になっていた自分の器を渡すと、同じようにそれに液体をそそいだ。
「楽しかったからな、無駄じゃないよ」
器をこちらに渡しながら、彼はそういった。
その表情は
寂しそうで、悲しそうで、
儚さが覗き見えた。
けれど
それと同時に
懐かしそうで、楽しそうで
とても満足しているようだった
何かを悟っているようで
何かを引きずったままの表情。
考え付かないほどの時間と別れの数
その重さ
そんなものを背負ったままで
『なぜ笑えるのだろう』
私はそう思った。
ひどく苦しい生き方だと
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通り過ぎた風景を思う。
過ぎ去った時間を想う。
失い、崩れ、滅び、
造り、直し、願い、
誰かに殺されそうになったこともあった。
誰かに恨まれたこともあった。
苦しんで、悲しんで、
表情を忘れた百年もあった。
絶望に浸った百年もあった。
狂い、壊れ、
傷つき、泣き叫び、
それでも
捨てられなかったもの。
自分の芯として残るもの。
「楽しかったから、無駄じゃない」
それは本心。
どれだけ絶望しようとも、その楽しさは消えない。
どれだけ過去のことでも、それはなかったことにはならない。
器から温かい液体を啜る。
「確かに、いつか化け物扱いされるかもしてない。いつか憎まれ、蔑まれるかもしれない。けど、最初に会った笑顔や楽しさ、仲間としてそこいたことは嘘じゃないんだ。――どれだけ変わっても、友達だった。家族だった。仲間だったことに変わりない――俺がそれを知っているなら、それで十分」
割り切れているわけじゃない。
悟りきっているわけじゃない。
けれど、そこにいたい。
そう思う自分がいるから、そうしてきた。
理由ともいえない程度の、そんな『なんとなく』の感覚。
ほんの一時でも、共に歩むこと。
思った以上に落ち着いた声が出て、自分でも少し驚いた。
こんな話をしたのはいつ以来だろう。
覚えていないほど昔かもしれない。
けれど、ずっと自分は変わっていないのだとも思う。
遠い昔から、誰かを好きになってしまうことはやめられない。
温かい食事を一緒に囲む楽しさが忘れられない。
「ただ、一緒に温かい薬草汁を囲む相手が欲しかっただけ。ほんの一時、ほんの一瞬だけでも、それが楽しかったんだ」
なら、それで十分。
そこまでいったところで、はっとした。
「美味いって褒めてくれたら、もっと最高だがね」
浸りすぎている自分に気づき、茶化すようにそう加えた。
「だからまあ、食事は楽しく、ね」
―――あんまりしんみりするのは、柄じゃない。
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手から伝わる温かみを感じながら、また一口それを啜った。
「なら、私は最高の客なのかしら。光栄な話ね」
茶化す言葉にこちらも乗ることにする。
「楽しんでくれてるなら、重畳だね」
子どものように、大人のように笑いながら彼は言う。
こちらにもいつの間にか笑みが浮かんでいた。
こんな自己満足の塊に。
こんな馬鹿な人間に。
なぜだか
妙に心が安らいだ。
喉を潤す温かさが心地いい。
「ええ、本当に興味深い人間だわ。貴方は」
本音を、今度は正直に語る。
そんなに面白いやつかねえ俺は、そういいながら彼は空になった器を持ち上げた。
「さて、そろそろ俺は行きますよ」
日が暮れる前に森を抜けたいんでね、と彼は立ち上がる。
移動するのは小川の前、その水で使った器をきれいに濯いでいる。
いつの間にか自分の持っていた器も一緒に持っていっていて、そんなところにも笑いがこみ上げた。
「まめなものね」
そういって笑うと、彼は恥ずかしがるように頭を掻いて、性分なんだよ、とぶっきらぼうな声でいった。
「はい、ありがとさん」
きれいに洗われた器が差し出される。
少し考えて、片一方だけを受け取った。
手に残された一方の茶碗を見て、彼は怪訝そうな顔をする。
「それはあげるわ」
言いながら、隣の空間にスキマを開いた。
「また一緒にお話するときにでも使いましょう」
一方的な契約を押し付けながら
スキマに体を滑り込ませた。
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音もなく開かれた何かに身を躍らせ、優雅に微笑みながら消えた少女。
そして、その何かもすっと閉じて消える。
手にはなぜか残された、陶磁の入れ物。
「また、ね」
ポリポリと頭を掻きながら、少し逡巡した後、荷物から布を取り出して、丁寧に器を包んだ。
「さてさて、どうしますか」
それが割れないように荷物を調整して片付けて、そう呟いた。
まあ、いいか。
「知り合いが出来たんだ」
重畳重畳、そんなふうに楽観しながら、荒れた獣道の先へと足を踏み出す。
飄々と、揚々と、
森の奥へと姿が消える。
それは
境界へ触れた一幕。