不思議の国のアタシ
兎が首から下げた、金時計を揺らしてアタシの前を走っている。
ほんの一瞬、兎はアタシの目の前を横切った。待って、と手を伸ばすと兎が振り返る。アタシを見つめる、斜眼の赤い目は、子供の様に純粋そうに綺麗な色をしたけれど、瞳孔が開きっぱなしで酷く怖い。「どこにいくの?」アタシが問う。「さぁ、ね」兎は何か深い意味を含んだような口元で、目で。笑った。その口元は、目は。私の背中にひんやり、とした感覚を覚えさせるほど冷酷で、酷く気持ちの悪いものだった。「ついてきたかったら、ついてきたら?案外、楽しいかもしれないよ」斜眼の醜い兎が笑う。
兎は、金時計を揺らして、また走り始める。私もその後を、追った。この世界の空気は、酷く甘い味がする。
疑問符のパズルが道端に散らかっている。どうして?と聞かれると、だって、ここは不思議の国だから。不思議な事が、当たり前の世界。私はそのパズルを蹴りながら、兎を追った。段々と距離が縮んで、もう少しで兎に追いついて隣に並べる。「わん!」唐突な叫び声。わん、と鳴いた生き物は、頭に三角のふわふわでピンク色の耳をつけていて、身体は派手なピンク色と紫の縞々、それに鋭い三日月形の黄色い目を持っていた。一般的に猫、といわれる生き物。その猫、はゆらりとアタシの靴跡のついた尻尾を揺らした。どうやら、踏んでしまったらしい。「ごめんなさい」駆け足しながら、アタシは軽く頭を下げる。猫の手には、何かおかしい、赤い出来物があった。アタシはそれに見覚えがある。過食症の人が、口に指を突っ込む時に出来る出来物だった。厄介な相手に、出会ったかもしれない。私はもう一度、「ごめんなさい」と言って過食症の猫から前から早々と立ち去った。空気が、酷く甘い。アタシの肺が、甘ったるい空気を拒絶する。
兎の足が、心なしか速くなる。けれど、アタシの足はこれ以上少しも速くならなく、寧ろ遅くなっていっているような気がした。七色の空にから、眩しいオレンヂ色のお日様がアタシと兎をせせら笑う様な表情を浮かべ、見ている。気温は、焼け死にそうなまでに暑かった。
雪が振った。甘い、甘い、ホワイトチョコの雪。アタシは走りながら、口から舌を出した。舌に積もった、ホワイトチョコが甘い。まさに女の子特有の至福。けれど、頭上から降ってきた林檎飴がアタシの頭に直撃して「ひやん」という変な効果音をたてた。舌を出しっぱなしにしたけれど林檎飴の衝撃で口を其の侭閉じて、アタシは舌を噛み切った。噛み切った舌の残骸が無様に雪の上に落ちる。吹き出す鮮血が、雪を紅く染めて、グラデーションに広がっていく。それは、痛みを忘れる程の狂気的な美しさだった。そして、アタシは舌切り娘。アタシの頭に落下して、衝突した雪の上の林檎飴をアタシは腰を曲げて拾った。四cmくらい、切断された舌で林檎飴を舐める。辛かった。(から…い?)アタシは林檎の表面を見た。そうしたら、緑色の歯磨き粉がたっぷりとついている。(何だ、山葵か)アタシは何で山葵なんだろうと、考えながら遠くに林檎飴を投げた。兎の足元に、林檎飴が落下して。林檎飴を踏んだ兎がすっ転ぶ。アタシは可笑しくて、可笑しくて心の底から笑った。
兎とアタシの距離が縮まった所為か。兎の姿が段々と大きくなった。それどころか、周りの風景までもが大きくなった。それは不気味なまでに、世界が大きくて。(あぁ、そうか)アタシが縮んだんだ。アタシは、大きい大きい世界を見渡した。そして、また小さい歩幅だけれど走り出す。そして段々と、兎と。景色が、小さくなっていく。アタシはほっと胸を撫で下ろした。けれど、ほんの少し世界がつまらなく見えた。(でも、そんな事を思うなんて。やっぱり、)アタシには普通の世界より、変わった世界の方がお似合いなのかもしれない。
向かい側から歩いてくる、大きな帽子を被った、あの男の子はこの町唯一の帽子屋の店長だった。手首の赤いラインと端麗な容姿が、相変わらず綺麗。けれど、この世界で一番美しい、男の子は。この世界で一番、孤独だということを私は知っている。いくら、あんなに中性的で綺麗な容姿を持っていても、あんなに孤独だったら。アタシは嫌だと思う。アタシにとって、孤独は何よりも怖いから。
春の暖かさが心地良い。桜の花弁が舞う。けれど、桜の木には首吊りの死体がぶら下がっていた。桜の花の匂いと、死体の腐敗臭と糞尿の臭いがアタシの脳を刺激する。桜の木の根元には、心臓を抉り取られた死体がごろごろと転がっていた。左胸の穴以外に外傷はなく、眠っているかの様な穏やかな表情。首吊りの死体とはえらい違いだった。兎が芝生の上の死体に躓く(あ、)意外と兎はドジなのかもしれない。
兎が立ち止まる。立ち止まった場所は、大きなお城の門の前だった。兎がアタシの方を振り向く。兎がアタシを見つめた。けれど、兎は斜眼だったから両目は違う方向を向いていて、それが酷く醜い。アタシは兎と、2メートルくらいの距離の場所で立ち止まった。足元の黄色い栗の花から、ザーメンのにおいがして吐き気がする。「ここ、どこ?」アタシが聞く。「ハートの女王のお城」にっこり、醜い顔が笑う。「嫌だ。アタシ、ハートの女王のお城なんて行きたくない」「何で?案外楽しいよ」兎の白い、ふわふわの手がアタシの水色のワンピースを掴む。兎の手についていた土で、アタシのワンピースは汚れた。「大丈夫、今日は拷問パーティーじゃなくて、お茶会だから」赤目を眇めて、笑った。
お茶会は、酷く居心地が悪かった。冷たい、冷ややかな目線は卑しい笑みを帯びている。けれど、冷ややかな視線の中、何もない薄ぼんやりとしたビー玉の様な瞳が二つ混じっているのに気がついた。それは、帽子屋の瞳だった。まるで、醜いアヒルの子の様に紛れているものだから、その瞳に気がつくのは容易い。「助けて」アタシが助けを求める。帽子屋は薄ぼんやりと、アタシを見た。「可哀想に。騙されたんだね、お姉さん」「アタシが、誰に騙されたって言うの?」「兎に」帽子屋が飴色の髪を、細長い指に絡ませながら言った言葉は酷く残酷なものだった。「お姉さん、可哀想にね」帽子屋が赤と青のオッド・アイを眇めて、クスクスと卑屈そうに笑った。その笑いは目を見張るほど美しかった。まるで、私の死への餞の様に。
お茶会の場の、おしゃべりが一気に消えた。目線が一点に集中する。ステンドグラスの光を浴びて、ステージに上がったのはハートの女王だった。優美で、華麗な衣装にだぶついた贅肉は、可笑しくて堪らない。死を目前としたアタシだけれど、それにはクスリと思わず笑ってしまう。ハートの女王の後ろには、小さな斜眼の兎がてこてこと連いて歩いていた。アタシは本当に裏切られたという事実を目の前にされ、もう一度死が恐ろしくなった。「あら、」ハートの女王の皺まみれの目がアタシを一瞥する。背筋が凍りつきそうだった。「小汚い小娘がいるわ」ねぇ?と兎に言う。兎は、卑屈げに笑った。「追い出して頂戴」兎が忠実そうに頷いた。アタシは薄っぺらいトランプの兵に、手錠をかけてつれてかれた。「さようなら、お姉さん」帽子屋が手を振る。手錠の重い金属音を鳴らせて、アタシも手を振り返した。
拷問室。そう書かれた扉が開かれる。拷問室の中は、酷く気持ちの悪い悪趣味なものでいっぱいだった。床は赤黒い臓器と、血で溢れていた。「ギロチン?首吊り?それとも、心臓を抉り出されたいかい?」ハートの5のトランプ兵は楽しそうな顔で、笑った。「心臓を抉り出されるのが、良いわ」アタシの声は酷く細い、震えた情けの無いものだった。頭の片隅には、桜の下の、あの死体がある。アタシも、あんなに綺麗に死ねるんだね。
ドリルが、アタシの左胸を抉る。骨が砕け、桃色の筋肉と白い脂肪が覗く。痛くは、ない。トローチのような甘い麻酔を舐めたから。拷問室、と書かれたドアの影に大きなシルクハットの男の子が立っている。男の子の赤い傷だらけの腕には、斜眼の醜い兎。アタシは、スペードの2のトランプ兵に、心臓をもぎ取られた。痛くは、ない。
部屋は、カーテンで光を一切断ち切ってほの暗かった。オレンジ色蛍光灯の下で、少女がひたすら、キーボードを打っている。顔には、汚い薄笑いが浮かべられている。酷く肥えた身体は、彼女の浮世離れを証明して酷く醜い。液晶画面の青い光で、少女の白い肌は青白く見えた。窓際には、動物の死体が飾られている。外傷は、左胸の心臓だけで、死体は酷く綺麗なものでまるで眠っているかのようだ。そして、左隅には「不思議の国のアリス」の主人公・アリスの人形がある。勿論、左胸には穴が開いていた。