クリスマス・イブ~不機嫌な彼女の愛情~
「クリスマスが今年もやってくる〜♪」
テレビからは陽気な声があふれている。季節柄、この手の音楽を耳にしない日は無い。二日前ともなればなおさらだ。
そして、あと一時間もすれば一日前に様変わりする。
「……よし」
街中の浮ついた雰囲気の中でも落ち着いていられる自信があったのに、今年の、今日のわたしはどうかしているのかもしれない。
「う、うん。あー、あー」
鏡の前で発声練習 大きすぎないよう、小さすぎないよう。
少しだけ意識して、声の練習。
『綺麗な声だな』
女性としては少し低いこの声。あまり好きではなかったけど……まああいつが気に入っているなら大事にしよう。
『出来た。今から行く』
用件だけの簡素なメール。それが届いたのが十分前。歩いて五分の距離だけど、コンビニにでも寄っているのだろう。まだ来ない。
今は、それがありがたい。
「大体、女性の部屋に来るのなら、もっと気を効かせろ」
ちょっとした愚痴をこぼしても、罰は当たるまい。
今日はたまたま買い物に行ったから、たまたまお風呂に入るのが遅かったから、たまたまきちんと化粧をしているから良い。
そうじゃなければ、十分で準備なんてとてもできない。
「わたしだって女なんだぞ」
鏡の前でにらめっこ。
整えてから何度目かの確認。ちょいちょいと前髪に手を当てる。嫌味にならない程度に香水もふった。お気に入りの黒いセーターから、心地よい匂いが薄く香る。
鏡面に映るわたしの姿は、いつも通りのはずだ。
なのに、酷く怯えているように見える。
愛想がない、地味だ、怒ってなんかないのに怒っているのかと聞かれる。そんなことないと否定する言葉は、この声のせいで説得力がなかった。高さの足りない響きは、なぜか同姓の反感を買う。
元々の性格も相成ってか、わたしはいつからか『冷たい人』になっていた。
本当は……。
不意に高音が耳に届く。チャイムの音が私を現実へと引き戻し、緊張感を連れてくる。
「こんばんわ」
ビニール袋といつもの鞄。玄関先に待っていたのは、わたしの待ち人その人だった。
レポートを渡されて十分弱。とりあえず目を通して見たが、ひどい。
といっても、全く駄目な訳じゃないから手直しにはそこまで時間はかからないだろう。が、くぎはきっちり刺しておく。
「真面目に書いたのか、これ」
意識して声を出す。練習していたより少し冷たかったかもしれない。
「ふぁあ」
それでも全然気にしたふうもなく、あくび混じりで返された。
……少々、カチンときた。期日から一日遅れて、その謝罪もなくて、やる気のない態度。昨日一日わたしがどれだけ煩悶としたと思っているんだ。せめて連絡くらいくれても良かったじゃないか!
思い付く限りの注意点を出来る限り鋭い言葉で、鋭い声で相手に投げかける。言い過ぎだってことは分かっている。八つ当たりだってことも分かっている。
罵倒が口を衝いて出る度に心の底が冷えて、震えて、竦みそうになるのに、止まらない。止まってくれない。
途中からは、只の我儘の様になっていたかもしれない。
「大体、わたしがどれだけ待ったと……聞いているのか?」
「ああ、相変わらず綺麗な声だと思うぜ」
一瞬言葉に詰まりそうになる。努めて冷静に、眼を細めて声を吐きだす。
「熱に浮かれて歯が軽くなったんじゃないか」
「そこは脳みそ云々じゃないのか?」
「元々空っぽだろうが」
「それもそうか」
別にそんなことが言いたいわけじゃない。
顔が火照っているのが分かる。心の震え方が変わってきている。ごまかすように額に手を当て、深呼吸するように息を吐く。
と、程よい冷たさの物が頬を引っ張った。
「……なんのふもりだ」
顔が近いかおがちかいか、かおがちかい!
「正月前なのにもちとはこはいかに」
ふざけた台詞に羞恥を煽られ、どうにもならないほどに血が昇っていく。
「へごとはへてひえ」
寝言は寝て言え! 上手く発音は出来なかったが、相手には伝わった……のか?
「その言葉が聞きたかった」
つままれていた頬が解放され、軽く撫でられる。
ぞくりと背筋に何かが走り、一瞬体が硬直する。
その一瞬の間で、あいつは視界から消えていた。
「おやすみ」
そう一言だけ残して。
呆けていたのは、そんなに長い時間じゃないはずだ。
無言のまま立ちあがり、台所で一口だけお茶を飲む。仰向けで眠るあいつの顔は、思いのほか幸せそうだった。
自然と緩む自分の頬が恨めしい。
緩みを止めようと手を当てて、鼓動が速くなる心臓が煩わしい。
触れられたと、改めて意識してしまう心が、ちょっとだけ誇らしい。
けど、それとこれとは別問題だ。
スカートのすそがめくれない様に、慎重に押さえながら、あいつの横に立つ。一度、深呼吸。
覚悟を決め、ゆっくりと右足を上げて、僅かに横へ移動させる。狙うは顔面。
一気に―――振り下ろす!
寸前。間の抜けた音が響く。
日付も変わろうかという時間に、来客を示すインターフォン。
心臓が跳ね上がるかと思った。崩れ落ちそうになる身体をなんとか支えて、一度息を吐く。
視線が自然と下に落ちる。
すると、とっさに足をずらしたせいか、ちょうどあいつの顔を跨いでいるような形になっていて……。
今度こそ本当に跳びあがった。
眠りに落ちているあいつの目は開いていない。それは分かっている。分かっているけど、顔が火照るのはどうにもならない。わたわたと後退り、ぺたりと尻もちをつく。心臓がどくどくと煩い。これじゃすぐには動けそうにない。ないのに、急かすようにインターフォンが叩かれる。
どうにか立ち上がり俯きがちにドアを開けると、ジャージ姿の隣人が憮然とした表情で立っていた。なぜ?
「夫婦喧嘩は犬も食わない。当然俺も食わない。当てつけるならキャッキャうふふにしてくれ!」
無表情に早口で、一気に捲し立ててくる隣人。その内容が頭に入るより早く一つの単語が頭の中を支配する。
『夫婦』
…夫婦?
夫婦!?
否定の言葉も出ないくらいに頭が回らない。喋り続ける隣人の話が全く理解できない。
「……と云う訳できっかけをプレゼント。 これで誘惑でもしとけ」
何かを手渡されて、ボーとしたまま受け取ってしまう。隣人の表情が悪戯をしている子供の様に見えたのは、きっと錯覚でも何でもないのだろう。ドアを閉めて、手に持たされた物を見て確信した。
サンタ服。
赤と白で彩られた、フワフワとした可愛い服。
わたしにはきっと似合わないだろう服が、上だけ。
「……はぁ」
色々な感情も、限界を超えると冷静になる。突然の訪問で毒気を抜かれた気分だ。ちらりと炬燵で眠るあいつを見てから、着替えを取りだし化粧を落とす。熟睡しているみたいなので、シャワーを浴びても問題ないだろう。
お湯が出るまでの冷水で少しだけ頭を冷やして、温かいお湯で蟠りを洗い流す。
洗髪洗顔。一通り身体を洗ったら湯冷めしない様にしっかりと体を拭いて服を着る。髪も乾かす。
着替えはもちろんサンタ服などではなく、普通のぱじゃまだ。だいたいあんな恥ずかしい服着られるか。
「幸せそうな寝顔して……」
日付が変わったところでアラームが鳴る訳じゃない。当然だけど起きる様子はない。
起きたらたっぷり文句を言おう。
それからきっちり説教してやる。
軋むベッドに潜り込み、ふと思い付き毛布を掴んで立ち上がる。
炬燵を切って、毛布を持って。
今だって、クリスマスイブの夜なんだ。これぐらい、フライングみたいなものだと言い聞かせて。
「起きたらきっと、告白……」
もにょもにょと言葉を飲み込む。気恥ずかしさが限界を超えて、やっぱりやめようかと心が竦む。
それでもあいつの隣にもぐりこむ。背中に伝わってくる体温。きゅっと熱が全体に広がる。聞こえてないのは分かっているけど、今日一番良い声が出せたと思う
「……おやすみ」